甘粕景継(あまかす かげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、上杉謙信・景勝の二代に仕えた武将である。その生涯は、越後国人としての出自から、上杉家中の枢要な地位を占めるに至るまでの栄達、そして会津移封後の白石城主としての重責、さらには関ヶ原の戦いに関連する白石城失陥という悲運、謎に包まれた最期と、波乱に満ちている。
本報告書は、現存する諸史料に基づき、甘粕景継の出自、上杉家における活躍、特に白石城主としての役割と城の失陥に至る経緯、その後の処遇と晩年、そして子孫に至るまでを詳細に明らかにすることを目的とする。また、しばしば混同される同姓の武将、甘粕景持との差異についても明確化を図る。
甘粕景継に関する情報は、残念ながら断片的であり、特に白石城失陥後の処遇や最期については、後世に成立した軍記物と、比較的信頼性の高い一次史料との間に記述の齟齬が見受けられる。これは、景継に対する評価が一様でなかった可能性、あるいは後世の創作が彼の人物像に影響を与えている可能性を示唆している。それゆえ、本報告書では、単に情報を羅列するのではなく、史料批判の視座を保ちつつ、これらの相違点を丹念に比較検討し、甘粕景継の実像に可能な限り迫ることを試みるものである。
甘粕景継は、天文19年(1550年)、上田長尾氏の譜代家臣である登坂加賀守清高(とさかかがのかみきよたか)の子として誕生したとされる 1 。幼名、あるいは初名は藤右衛門清長(とうえもんきよなが)と伝えられている 1 。
景継の人生における最初の転機は、天正5年(1577年)に訪れる。この年、上杉謙信の命により、戦死した甘粕(甘糟)備後守継義(つぐよし、資料によっては孫右衛門継義とも 4 )の名跡を継承することとなった 1 。当時、清長と名乗っていた景継が、血縁関係のない甘粕家の家督を継いだ背景には、謙信による抜擢があったと考えられる。戦国時代において、主君が家臣の家督相続に介入し、特に血縁のない有能な者を後継に据えることは、家の存続と軍事力の維持・強化を目的とした戦略的な人事であった。景継の器量を見込んだ謙信が、甘粕家の将来を託したと推察される。
この謙信による他家への養子縁組の指示は、景継個人への期待の高さを示すと同時に、上杉家中の人材登用や家臣団統制の一環であったと解釈できる。継義の戦死という緊急事態において、有能な武将を確保し、同時に甘粕家という家臣団の一翼を担う家を存続させるという、謙信の戦略的判断が働いた結果であろう。
甘粕家を相続した後、景継は謙信に仕えた。しかし、謙信存命中の景継の具体的な戦功や役職に関する詳細な記録は、現存する資料からは限定的である。謙信の晩年に家督を継いだことから、謙信の下での活躍期間は比較的短かった可能性がある。
天正6年(1578年)に謙信が急逝すると、上杉家は後継者を巡って御館の乱という内乱に突入する。この混乱を経て上杉景勝が家督を継承すると、景継は景勝に仕えることとなる。そして天正11年(1583年)頃、景勝より偏諱(へんき:名前の一字を与えること)を受け、名を「景継」と改めた 1 。主君の一字を拝領することは、戦国武将にとって非常に名誉なことであり、主君からの深い信頼と期待の証左である。御館の乱を経て景勝政権が安定していく過程で、景継が新体制の中核を担う人材として認められたことを示している。
興味深いことに、景継の出身地は、後に景勝政権下で絶大な権勢を振るう直江兼続と同じ越後国上田庄(現在の新潟県南魚沼市一帯)であった 9 。この同郷という繋がりが、後の両者の関係に何らかの影響を与えた可能性も否定できない。
以下に、甘粕景継の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。
表1:甘粕景継 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠例 |
天文19年(1550年) |
登坂加賀守清高の子として誕生 |
1 |
天正5年(1577年) |
上杉謙信の命により甘粕継義の名跡を継承、藤右衛門清長と名乗る |
3 |
天正5年(1577年)頃 |
護摩堂城主となる(異説あり、天正9年(1581年)説も 3 ) |
1 |
天正6年~8年(1578~80年) |
御館の乱。上杉景勝方として活躍 |
3 |
天正11年(1583年) |
五泉城主となる。上杉景勝より「景」の字を拝領し、景継と改名 |
3 |
文禄2年(1593年) |
庄内酒田(東禅寺)城代となる |
4 |
慶長3年(1598年) |
上杉家の会津移封に従い、白石城主となる(2万石) |
4 |
慶長5年(1600年) |
直江兼続の下で小奉行を務め、神指城普請に関与。同年7月、伊達政宗により白石城落城(景継は不在) |
4 |
慶長6年(1601年) |
上杉家の米沢移封に従う(6600石) |
1 |
慶長11年(1606年) |
江戸城桜田御門普請の頭取を務め、将軍家より時服・銀子を賜る |
1 |
慶長16年(1611年)5月12日 |
死去。『甘粕家先祖書』に「故あって自害」とあり |
1 |
寛永元年(1624年) |
子らが上杉定勝により家名再興を許される(200石) |
1 |
上杉謙信の死後、その養子である上杉景勝と上杉景虎との間で勃発した家督相続争い、いわゆる御館の乱において、甘粕景継は景勝方に与し、その勝利に大きく貢献したとされている 3 。 具体的な戦闘行動や戦功に関する詳細な記録は、提供された資料の中では乏しいものの、直江兼続らと共に景勝を支え、困難な状況を打開するために尽力したことは複数の資料で示唆されている。
この内乱は上杉家の屋台骨を揺るがすほどの激しいものであり、どちらの陣営に与し、どれほどの功績を上げるかは、その後の家臣としての運命を大きく左右するものであった。景継がこの重要な局面で景勝方として「大きな活躍をした」 3 という評価は、彼が単に戦列に加わっただけでなく、戦局に影響を与えるほどの働きを見せたことを物語っている。御館の乱での功績が、その後の景勝政権下における景継の地位を確固たるものにした重要な要因の一つであることは疑いなく、この内乱を景勝と共に乗り越えた経験が、景継と景勝、そして同じく景勝を支えた兼続との間の信頼関係を醸成する上で大きな意味を持ったと考えられる。
甘粕景継の武勇を語る上で、しばしば第四次川中島の戦いにおける活躍が言及されることがある。例えば、ある資料 6 には、景継がこの戦いで退却時の殿軍(しんがり)を務め、武田軍の追撃を巧みに抑えて味方の越後への撤退を支援したと記され、その武勇全般に優れた武将として「上杉二十五将」の一人に数えられているとある。また、別の資料 4 も景継を武勇に優れた上杉二十五将の一人としている。
しかしながら、景継の生年が天文19年(1550年)であることを考慮すると、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い当時、景継はまだ11歳の少年であり、殿軍という極めて重要な任務を単独で、あるいは主体的に遂行したとは考え難い。この戦いで「甘粕」姓の武将として名を馳せ、武田信玄の別働隊(いわゆる啄木鳥戦法隊)の妻女山攻撃後の渡河を阻止するなどの目覚ましい活躍を見せたのは、謙信秘蔵の侍大将筆頭とも称された甘粕近江守景持(あまかすおうみのかみかげもち)であるとするのが通説である 13 。
したがって、 6 に見られる景継の川中島での活躍に関する記述は、甘粕景持の著名な逸話と混同されたか、あるいは後世の軍記物などが景継の武勇を強調するために景持の功績を景継に帰した可能性が高いと考えられる。景継が「上杉二十五将」に数えられるほどの武将であったことは他の資料からも窺えるが 2 、それは川中島の戦いにおける11歳での活躍によるものではなく、御館の乱での功績や、その後の各地の城代としての働きなど、生涯を通じた総合的な評価によるものと解釈するのが妥当であろう。彼の軍事的才能が非常に早期から認められていた可能性は否定できないものの、具体的な史料による裏付けがない限り、川中島での殿軍の功は景持のものと区別して考える必要がある。
甘粕景継は、その武勇だけでなく、統治能力も高く評価され、上杉領内の複数の重要拠点の城主・城代を歴任している。
まず、天正5年(1575年)頃、あるいは天正9年(1581年)11月に、上杉景勝の命により護摩堂城(現在の新潟県田上町)の城主となった 1 。天正9年説によれば、これは当時上杉家に反旗を翻していた新発田重家(しばたしげいえ)の討伐に備えるための戦略的配置であったとされ 3 、景継が対敵防衛の最前線を任されるほどの信頼を得ていたことを示している。
次いで、天正11年(1583年)には五泉城(現在の新潟県五泉市)の城主となり、この時に主君景勝から「景」の一字を拝領し、名を景継と改めたことは既に述べた通りである 1 。
さらに、文禄2年(1593年)には、庄内地方(現在の山形県庄内地方)の酒田城(東禅寺城とも)の城代を務めている 1 。庄内地方は上杉家にとって重要な穀倉地帯であり、また最上氏など隣接勢力との緊張関係も存在したため、その統治と防衛は極めて重要な任務であった。
これらの城主・城代歴は、景継が単なる戦闘指揮官としてだけでなく、領域支配、城下町の統治、物資の管理、そして対外的な防衛責任者としての多岐にわたる能力を高く評価されていたことを明確に示している。特に新発田重家の乱における戦略拠点であった護摩堂城や、最前線の一つであった庄内酒田城を任されたことは、景継の戦略的価値と上杉指導部からの厚い信頼を物語っている。
豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)に際して、上杉家も兵を派遣した。一部の資料 2 によれば、甘粕景継もこの戦役に従軍し、功績を上げたと記述されている。これらの資料は景継の生没年を1550年から1611年としており、年齢的には従軍が可能である。
しかしながら、景継の朝鮮出兵に関する具体的な活動内容や、他の主要な史料(例えば『上杉家御年譜』など)における裏付けは、提供された資料群からは確認することができない。もし景継が実際に朝鮮半島へ渡海し戦闘に参加していたとすれば、彼の軍歴に新たな一面が加わることになる。上杉軍全体の編成や朝鮮における具体的な活動内容を他の史料と照合し、景継の役割や経験をより詳細に検証する必要があるだろう。現時点では、従軍の可能性を示唆する記述がある、という段階に留めておくのが適切である。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は長年本拠地としてきた越後から、陸奥国会津120万石へと移封された。これは、豊臣政権による全国的な大名配置転換の一環であり、上杉家にとっては大きな転換期であった。甘粕景継も主君景勝に従い、会津へ移った 1 。
会津への移封に伴い、甘粕景継は陸奥国刈田郡(現在の宮城県南部)の白石城(宮城県白石市)の城主に任じられ、2万石の知行を与えられた 1 。当時の上杉家の家臣団の知行高を記録した『上杉家会津御在城分限帳』によれば、「奥州白石城主 甘粕備後守 弐万石」と明確に記載されており 10 、これは筆頭家老である直江兼続の3万石(米沢城主としての知行とは別に与えられたもの)、兼続の実弟である大国実頼の2万1千石に次ぐ、上杉家中でも屈指の高禄であった 10 。
白石城は、伊達政宗の領地と境を接する極めて重要な戦略拠点であった。かつて伊達領であったこの地を、会津という新たな領国において最前線の守りとして任されたことは、景継の武勇はもとより、外交や情報収集能力、そして何よりも主君景勝からの絶大な忠誠心が高く評価されていたことを示唆している。2万石という破格の知行高は、彼が上杉家中において重臣中の重臣であったことを明確に物語っている。
さらに、慶長5年(1600年)には、直江兼続の指揮のもとで小奉行の一人として、会津に新たに築城が計画された神指城(こうざしじょう)の普請にも関与した記録がある 4 。これは、景継が単に一城の主であるだけでなく、上杉家全体の重要プロジェクトにも参画する立場にあったことを示している。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、関ヶ原の戦いへと繋がる緊張が高まる中、家康は上杉景勝の謀反の疑いを理由に会津征伐(上杉討伐)の軍を起こした。これに対し、奥羽の諸大名も東西両軍に分かれて行動を開始する。伊達政宗は徳川方に与し、上杉領の南の玄関口とも言える白石城に狙いを定めた 1 。
同年7月、伊達軍による白石城攻撃が開始された際、城主である甘粕景継は城を不在にしていた。その不在理由については諸説ある。
一つは、主君景勝の命により会津若松城に参府していたという説である。これは軍議のため、あるいは家康軍本隊を白河口で迎え撃つための作戦協議のためであったとされる 1。
もう一つは、軍記物などに見られる説で、景継の妻が急死したため、密かに会津に戻っていたというものである 1。この説に関連して、『高野山清浄心院蔵「越後国供養帳」』(『上越市史研究』第9号所収)には、景継が慶長5年7月21日(あるいは27日)に死去した「明室秋光大姉」という女性の供養を高野山に依頼した記録があり、この女性が景継の妻であれば、白石城攻撃の前後に妻が死去したのは事実である可能性が高いと指摘されている 1。ただし、同資料は、同年7月18日付の直江兼続の書状から、この時点で既に景継が白石城を留守にしていたことが分かるとも付言しており、妻の死が直接の不在理由であったかについては慎重な判断が求められる。
景継不在の白石城を守っていたのは、景継の弟、あるいは甥とされる登坂式部少輔勝乃(とさかしきぶのしょうかつない、または単に登坂式部とも)であった 5 。伊達軍は、屋代勘解由景頼が城下町や外郭、三の丸に火を放つなど猛攻を加え 11 、城兵は奮戦したものの支えきれず、登坂勝乃は降伏。慶長5年7月24日、白石城は伊達政宗の手に落ちた 1 。
白石城の失陥は、上杉家にとって大きな痛手であり、城主であった甘粕景継の責任が問われるのは当然の成り行きであった。後世の軍記物によれば、主君上杉景勝はこの報に激怒し、景継を死罪に処そうとしたが、周囲の取りなしで助命されたものの、以後は冷遇され、直江兼続の一配下に左遷されたなどとドラマチックに記述されることが多い 1 。
しかしながら、これらの軍記物の記述と、比較的信頼性の高い一次史料との間には、景継の処遇について大きな隔たりが見られる。米沢藩の公式記録とも言える『侍組禄席掌故』(『上杉文書』所収)の慶長12年(1607年)2月の侍衆知行付によれば、関ヶ原の戦いを経て上杉家が米沢30万石に減移封された後も、景継は以前と同様の6600石の知行高を維持し、かつ同心与力を統括する藩の最上位身分である侍組の一員として記録されている 1 。これは、軍記物が伝えるような「冷遇」や「左遷」とは明らかに矛盾する内容である。
この矛盾点をどう解釈すべきか。白石城失陥という事態は、景継にとって痛恨事であり、景勝の初期の怒りも相当なものであったと想像される。しかし、景継がそれまで上杉家に尽くしてきた功績や、その武将としての能力を考慮し、最終的には侍組としての地位と一定の知行は保障されたのではないだろうか。あるいは、軍記物の記述は、落城の責任を特定の個人に帰し、物語としての劇的効果を高めるための創作的要素が多分に含まれている可能性も考慮しなければならない。いずれにせよ、一次史料の記録は、景継が完全に失脚したわけではなかったことを強く示唆している。もし、景継の妻の死が白石城攻撃と同時期であったとすれば、それは景継にとって公私にわたる大きな悲運の時期であったと言えよう。
なお、白石城は元々伊達氏の譜代家臣である白石氏が鎌倉時代から居城としていた土地であり、豊臣秀吉による奥州仕置によって伊達領から没収されるまでは、長らく伊達氏の勢力圏にあった。その後、蒲生氏郷を経て上杉領となっていたという経緯がある 11 。この歴史的背景が、関ヶ原の戦いに際して伊達政宗が真っ先に白石城の奪還を狙った理由の一つと考えられる。
関ヶ原の戦いの結果、西軍に与した上杉景勝は、徳川家康によって会津120万石から出羽米沢30万石へと大幅に減移封された。甘粕景継もこれに従い、米沢藩士として新たなスタートを切ることになる。米沢移封後の景継の知行は6600石であったと記録されている 1 。これは会津時代の2万石からは大幅な減少であるが、藩全体の石高が4分の1になったことを考慮すれば、依然として上杉家中で高い地位を保持していたと見ることができる。
その証左の一つとして、慶長11年(1606年)の出来事が挙げられる。この年、景継は江戸城桜田御門の普請(修築工事)における頭取(現場責任者の一人)を務め、その功績により徳川将軍家(当時は二代将軍秀忠)より時服(衣服)と銀子を賜っている 1 。これは、上杉家が徳川幕府の公儀の役に服していることを示すと同時に、景継が藩内において依然として重要な役割を担い、対外的にも藩を代表して大役を果たせる人物として認められていたことを示している。白石城失陥という過去があったにも関わらず、このような幕府関連の重要な役務を任されたことは、景継が上杉家中および(間接的にではあるが)幕府からも一定の評価と信頼を得ていた可能性を示唆する。もし彼が完全に冷遇されていたならば、このような名誉ある役職に就くことは考えにくい。
順調に米沢藩士としての務めを果たしているかに見えた景継であったが、その最期は穏やかなものではなかった。慶長16年(1611年)5月12日、甘粕景継は死去した 1 。
その死因について、景継の子孫によって寛永10年(1633年)に編纂された『甘粕家先祖書』には、「故あって自害」と簡潔に記され、その結果として景継の知行6600石は取り潰された(没収された)とある 1 。しかし、その「故」が具体的に何であったのか、理由は明らかにされていない。
この「故あって自害」という記述は非常に曖昧であり、様々な憶測を呼んでいる。白石城失陥の責任を長く負い続けたことによる心労、あるいは何らかの藩内における政争や対立、個人的な問題などが推測されるが、いずれも確たる証拠はない。知行が取り潰されたという事実は、その「故」が単なる病死や名誉ある殉死とは異なり、藩にとって看過できない性質のものであった可能性を示唆している。
白石城失陥(慶長5年、1600年)から自害(慶長16年、1611年)までは10年以上の歳月が流れており、失陥が直接的な原因とは考えにくいかもしれない。しかし、武士としての名誉を重んじる人物であれば、その記憶が心の奥底に重く残り続け、何かのきっかけで表面化した可能性は否定できない。あるいは、史料には残らないような、全く別の複雑な事情が存在したのかもしれない。景継の自害は、主君景勝の存命中の出来事であり(景勝の死去は元和9年(1623年))、景勝との関係が最終的に何らかの形で破綻した結果とも考えられるが、これもまた推測の域を出ない。
甘粕景継の墓は、山形県米沢市の林泉寺にあると伝えられている 2 。この寺は上杉謙信や直江兼続など、上杉家ゆかりの多くの人物が眠る場所である。
甘粕景継の「故あって自害」とそれに伴う知行取り潰しにより、甘粕家は一時断絶の危機に瀕した。しかし、景継の死から13年後、そして主君上杉景勝の死の翌年である寛永元年(1624年)、次代の米沢藩主となった上杉定勝によって、景継の子らは200石で上杉家に再び仕えることを許され、家名が再興された 1 。
『侍組禄席掌故』(『上杉文書』所収)の寛永3年(1626年)11月の記録には、景継の子として久五郎吉継(200石)と彦七郎(帯刀)長継(300石)の名が確認できる 1 。資料 12 によれば、景継には2人の子がおり、彼らが甘粕家を相続し、その家系は二つに分かれたものの、いずれも米沢藩の最上級家臣団である侍組に属し、幕末まで続いたとされている。
一度取り潰された家が再興されるのは、それなりの理由があったと考えられる。景継自身への評価とは別に、甘粕家が上杉家にとって必要な家臣筋であったこと、あるいは景継の先代までの功績が考慮された結果かもしれない。また、藩主が定勝に代替わりしたことで、景勝の存命中は難しかった何らかの事情が変化した可能性も示唆される。
甘粕景継の子孫を語る上で、避けて通れないのがキリシタン殉教者・甘粕右衛門信綱(あまかすうえもんのぶつな、洗礼名ルイス)の存在である。信綱は、寛永5年12月18日(西暦1629年1月12日)、米沢城下の北山原において、家族や使用人と共に斬首された。その殉教は高く評価され、平成19年(2007年)には「ペトロ岐部と187殉教者」の一人としてカトリック教会から列福されている。この甘粕右衛門信綱は、甘粕景継の次男であると一般に伝えられている 1 。
信綱がキリスト教に入信した動機については、父である景継の悲劇的な死が影響しているのではないか、という説も存在する 5 。父の非業の死を目の当たりにし、現世の無常を感じた結果、来世の救済を説くキリスト教に惹かれたという解釈である。
しかしながら、この甘粕右衛門信綱と景継との親子関係については、近年、史料的な観点から疑問も提示されている。平成16年(2004年)に甘粕景継の子孫から米沢市立図書館に寄贈された約1400点に及ぶ膨大な古文書群、いわゆる『甘粕家文書』の中には、この右衛門信綱の名は一切見出せないというのである 12 。
この事実は、いくつかの可能性を示唆する。一つは、キリシタン禁教令下で処刑された人物であるため、公式な家系記録から意図的に抹消された可能性である。もう一つは、そもそも景継の直接の子ではなく、別の甘粕氏の系統の人物であった可能性である。資料 12 は、右衛門信綱の子が黒金家に養子に入っていることから、黒金家と縁戚関係が深かったとされる甘粕近江守景持(景継とは遠縁の同姓武将)の家系との関連も推測され、その正確な出自は謎に包まれていると指摘している。
甘粕右衛門信綱の出自に関するこの謎は、史料間の矛盾と伝承のあり方を示す興味深い事例と言える。キリシタン禁教という当時の厳しい社会状況が、公式記録からの抹消や情報の錯綜を生んだ可能性は十分に考えられる。『甘粕家文書』にその名がないという事実は、景継の次男説に対して強い疑義を投げかけるものであり、今後のさらなる研究が待たれるところである。父の悲劇的な死がキリスト教入信の動機になったという説も、景継との親子関係が前提となるため、その前提自体が揺らぐとなれば、解釈も大きく変わってくる可能性がある。
なお、昭和初期に満州国で憲兵隊司令官などを務め、甘粕事件でその名を知られる甘粕正彦は、甘粕景継の直接の子孫ではなく、前述の川中島の戦いで活躍した甘粕近江守景持の子孫であるとされている 5 。両者は同じ「甘粕」姓で上杉家(あるいはその旧臣の家系)に連なるが、系統は異なるため、混同しないよう注意が必要である。
甘粕景継は、実戦における武勇だけでなく、戦略眼や戦術構築といった知略にも長けた武将であったと評価され、後世、「上杉二十五将」の一人に数えられている 1 。この「上杉二十五将」という呼称は、必ずしも同時代的なものではなく、後世に上杉家の功臣を顕彰する意味合いで用いられた可能性が高いものの、景継がその一人として挙げられることは、彼の上杉家への貢献と武将としての能力が一定の評価を得ていたことを示している。
具体的には、御館の乱における景勝方としての活躍、そして護摩堂城主、五泉城主、酒田城代、白石城主と、上杉領内の複数の重要拠点の城督を歴任した事実は、彼が単なる一戦闘指揮官に留まらず、領域統治や対敵防衛の責任者としての高い能力を備えていたことを物語っている。特に会津移封後、伊達領と接する最前線の白石城を2万石という高禄で任されたことは、その武勇と統治能力、そして何よりも主君からの信頼の厚さを如実に示している。方面軍司令官に近い役割も担える器量があったと推測される。
軍記物などには、甘粕景継の人となりを示す逸話がいくつか伝えられている。その中でも特に有名なのが、徳川家康による招聘の話である。それによれば、関ヶ原の戦いの後、景勝から白石城失陥の責を問われ冷遇されていると聞いた家康が、景継の武勇を惜しみ、2万石の厚遇をもって自らの家臣に迎えようとした。しかし、景継は「景勝殿の御怒りは私の不徳の致すところであり、いかなる罰をもお受けするのが当然です。それに長年上杉家にお仕えした身が、今さら二君にまみえることはできません」と固辞したという。これを聞いた家康は、「そのような忠義の士であるからこそ配下に欲しかった」と、かえって景継の器量に感嘆し、その忠誠心を惜しんだと伝えられている 1 。
この逸話は、景継の主君への忠誠心の篤さを示すものとしてしばしば語られるが、残念ながら一次史料による裏付けはなく、後世の創作である可能性も否定できない。しかし、たとえ創作であったとしても、景継が「忠臣」としてのイメージで語り継がれる素地があったことを示していると言えるだろう。白石城失陥という大きな失敗がありながらも、その忠誠心が疑われなかった、あるいはそうあってほしいという後世の人々の願望が反映された結果かもしれない。
甘粕景継と、上杉景勝政権下で筆頭家老として絶大な影響力を持った直江兼続との関係性も興味深い点である。両者は共に越後国上田庄の出身であり 9 、地理的な繋がりがあった。また、御館の乱においては、共に景勝を支持し、その勝利に貢献した戦友でもある 3 。
軍記物においては、白石城失陥後、景継が兼続の一配下に左遷されたかのような記述が見られるが、前述の通り、一次史料である『侍組禄席掌故』の記録はこれを否定している 1 。慶長5年(1600年)の神指城普請の際には、景継が兼続の下で小奉行を務めたと記録されているが 4 、これは大規模な築城プロジェクトにおける指揮系統上の役割分担であり、必ずしも身分的な格下げや左遷を意味するものではない。
資料 18 は、白石城の戦いの際に景継が若松城に詰めていたため、兼続への連絡が途絶したのではないか、という推測に言及しているが、これはあくまで状況からの推測である。
総じて、景継と兼続は、同郷出身の同僚として、あるいは景勝政権を支える車の両輪のような存在として、互いに協力し、時にはそれぞれの役割を分担しながら、上杉家のために尽力したと考えられる。単純な上下関係というよりは、それぞれの専門性や立場を生かした、より複雑な協力・補完関係にあったと見るべきであろう。
甘粕景継について調査する際、しばしば同姓の武将である甘粕景持(あまかす かげもち)と混同されることがあるため、両者の違いを明確にしておく必要がある。
甘粕近江守景持(あまかす おうみのかみ かげもち)
諱は長重(ながしげ)とも。生年は不詳であるが、没年は慶長9年(1604年)頃とされる 13。上杉謙信秘蔵の侍大将の筆頭と称され 13、特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおいて、武田信玄の別働隊(啄木鳥隊)が妻女山を攻撃した後、千曲川を渡河しようとしたのを寡兵で阻止し、謙信本隊の危機を救ったという武功で名高い 13。その勇猛ぶりは、「謙信公と間違われるほどであった」という逸話も残るほどである 15。上杉謙信・景勝の二代に仕え、その子孫は米沢藩士として続いた 13。越後国の枡形城主であったとも伝えられるが、これについては確証が低い 20。上杉四天王の一人に数えられることもある 14。
甘粕備後守景継(あまかす びんごのかみ かげつぐ)
諱は清長(きよなが)とも。天文19年(1550年)生まれ、慶長16年(1611年)没。本章で詳述してきた通り、登坂氏の出身で、謙信の命により甘粕家の名跡を継いだ。御館の乱では上杉景勝方として活躍し、その後、護摩堂城主、五泉城主、庄内酒田城代、そして会津移封後は白石城主(2万石)を歴任した。
両者は遠縁にあたる血縁関係にあったとされているが 21 、その活躍した時期や主な功績、役職には明確な違いがある。資料 20 は、両者が別人であることを明確に指摘している。
景持は主に謙信の時代に、川中島のような大規模合戦における華々しい武勇伝で知られる一方、景継は謙信没後の景勝の時代に、城代として領国統治や防衛の重責を担い、内政面でも手腕を発揮したというキャリアの違いが見られる。景持のイメージが「武勇」に集約されるのに対し、景継は「統治」や「責任者」としての側面も強く窺える。
以下に、両者の主な違いを比較表として示す。
表2:甘粕景継と甘粕景持の比較
項目 |
甘粕景継 (備後守) |
甘粕景持 (近江守) |
諱 |
清長 |
長重 |
生没年 |
天文19年(1550年)~慶長16年(1611年) |
生年不詳~慶長9年(1604年)? |
出自 |
登坂氏(上田長尾氏家臣) |
甘粕氏(越後新田一族とも 23 ) |
主な主君 |
上杉謙信、上杉景勝 |
上杉謙信、上杉景勝 |
主要な戦功・事績 |
御館の乱で景勝方として活躍。護摩堂城主、五泉城主、酒田城代、白石城主(2万石)を歴任。桜田御門普請頭取。 |
第四次川中島の戦いで武田別働隊の渡河を阻止。謙信秘蔵の侍大将筆頭。上杉四天王の一人(異説あり)。三条城主 19 。 |
最高石高(判明分) |
会津白石城主 2万石 10 |
越後三条城 19 、米沢移封後 3300石 10 (景持は1100石との記録もあり 22 ) |
逸話・評価 |
上杉二十五将の一人。武勇・統治能力に優れる。徳川家康からの招聘を断った忠臣伝説(軍記物)。 |
川中島の戦いでの勇猛ぶりは謙信と間違われるほど。謙信秘蔵の侍大将筆頭。 |
関係性 |
景持とは遠縁にあたる 21 |
景継とは遠縁にあたる |
この表からも明らかなように、両者は同時代に上杉家に仕えた同姓の武将ではあるが、その生涯と功績には明確な違いが存在する。特に川中島の戦いにおける活躍は景持のものであり、景継の功績と混同しないよう注意が必要である。
甘粕景継の実像に迫るためには、彼に関する記述が残る主要な史料の性質を理解し、それぞれの内容を吟味する必要がある。以下に、本報告書で参照した主な史料と、そこに見られる景継に関する記述の概要をまとめる。
これらの史料は、それぞれ成立の経緯や性質が異なる。家伝である『甘粕家先祖書』は子孫の視点から、藩の公式記録である『上杉家御年譜』や『侍組禄席掌故』は藩政運営の観点から記述されており、寺社の記録は信仰や供養といった側面からの情報を提供する。景継の実像を多角的に理解するためには、これらの史料の特性を十分に理解し、それぞれの記述の信頼性や限界を考慮しながら、相互に比較検討し、総合的に判断していく必要がある。特に、物語性を重視する傾向のある軍記物の記述については、一次史料との照合による慎重な史料批判が不可欠である。
甘粕景継は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史における大きな転換期を、上杉謙信・景勝という二人の主君に仕え、武将として生き抜いた人物である。その生涯は、登坂氏からの出自、甘粕家相続による立身、御館の乱における主君景勝への忠誠と貢献、越後・庄内・会津における各地の城代としての統治能力の発揮、そして会津においては2万石を領する重臣としての地位確立と、輝かしい側面を持つ一方で、関ヶ原の戦いに連動した白石城の失陥という悲運、そしてその後の謎に包まれた「故あって自害」という最期によって、複雑な影を落としている。
景継は、武勇に優れ、「上杉二十五将」の一人に数えられるほどの戦働きを見せると同時に、複数の城代を歴任したことからも明らかなように、統治能力や管理能力にも長けていたと推測される。主君への忠誠心も篤く、特に徳川家康からの招聘を断ったとされる逸話(真偽は不明ながら)は、彼の人物像を象徴するものとして語り継がれている。
しかしながら、その生涯の後半、特に白石城失陥後の処遇や自害の真相については、史料によって記述に差異が見られ、未だ多くの謎が残されている。軍記物が伝えるドラマチックな失脚と冷遇の物語と、一次史料が示す侍組としての地位維持という間には、大きな隔たりが存在する。また、キリシタン殉教者・甘粕右衛門信綱との親子関係についても、近年の史料研究によって新たな疑問が提示されており、今後の研究の進展が待たれるところである。
甘粕景継の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての武士の生き様、特に主家の浮沈と共にその運命を左右される家臣の姿を象徴していると言えるかもしれない。彼の物語は、単なる武勇伝としてではなく、戦国という時代に翻弄されながらも、自らの責任と名誉を胸に生きようとした一人の人間のドラマとして捉えることができる。断片的な史料をつなぎ合わせ、その実像に迫ろうとする試みは、歴史研究の醍醐味の一つであり、甘粕景継という武将は、我々に多くの考察の余地を残してくれている。