戦国時代、日本の東北地方南部、すなわち南奥州は、絶え間ない権力闘争の舞台であった。北からは奥州探題の権威を背景に勢力を拡大する伊達氏、会津を本拠に中通り(仙道)への進出を窺う蘆名氏、そして南からは常陸国を統一し、北進の機会を狙う佐竹氏。これら三大勢力が複雑に合従連衡を繰り返しながら、互いに覇を競っていた 1 。
この激動の時代の渦中に、白河結城氏は存在した。彼らの本拠地である白河は、関東と奥州を結ぶ交通の要衝であり、地政学的に極めて重要な位置を占めていた 4 。それは、三大勢力の力がぶつかり合う最前線であり、常に外部からの圧力に晒される緩衝地帯としての宿命を背負うことを意味した。本報告書で詳述する白河結城氏第10代当主、白河晴綱(結城晴綱)の生涯は、まさにこの地政学的宿命の中で、一族の存亡をかけて必死に抗い続けた軌跡そのものであった。
一般的に晴綱は、佐竹氏の侵攻を止められず領土を失い、最後は家中の権力者に実権を奪われ、一族衰亡の道を開いた「敗将」として語られることが多い。利用者様が事前に有していた「内乱を鎮定して北上を続ける佐竹家と抗争し、次第に所領を奪われる。蘆名家と結んで対抗したが、間もなく失明、病死した」という概要は、その生涯の結末を的確に捉えている。
しかし、本報告書は、その一面的な評価に留まらない。晴綱の出自、彼が家督を継いだ時代の政治状況、周辺大名との間で繰り広げられた外交戦略、そして度重なる軍事行動とその挫折の背景を丹念に追うことで、時代の奔流に翻弄されながらも、最後まで独立を維持しようと奮闘した一人の国人領主の実像を多角的に描き出すことを目的とする。彼の選択と行動は、個人の資質以上に、この「場所」の論理、すなわち緩衝地帯の領主としての構造的な必然性に強く規定されていた。晴綱の物語は、一個人の悲劇に留まらず、戦国という時代の非情な現実の中で、数多の国人領主が辿った盛衰の典型例として、我々に多くの示唆を与えてくれるであろう。
西暦(和暦) |
白河結城氏(晴綱)の動向 |
佐竹氏の動向 |
蘆名氏の動向 |
その他周辺勢力の動向 |
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1520年頃(永正17年頃) |
結城晴綱、誕生 5 。 |
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1534年(天文3年) |
父・義綱、伊達氏らと争い敗北(滑井合戦) 6 。 |
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伊達氏、蘆名氏、石川氏らが連合し白河氏を攻撃 6 。 |
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1541年(天文10年) |
父・義綱、南郷の東館城を佐竹義篤に攻め落とされる 6 。 |
佐竹義篤、東館城を攻略 6 。 |
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1542年(天文11年) |
直広 より 晴広 へ改名。古河公方・足利晴氏より偏諱を受ける 5 。この頃、家督を相続か。 |
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伊達氏、天文の乱が勃発(~1548年) 7 。 |
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1543年(天文12年) |
晴綱 へ改名 5 。 |
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1545年(天文14年) |
伊達晴宗より友好を求められる 5 。 |
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1551年(天文20年) |
二本松義国と共に、蘆名・田村間の講和を仲介 5 。 |
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蘆名盛氏、田村氏と対立していたが講和 5 。 |
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1555年(弘治元年) |
佐竹氏に対抗するため、小峰義親の室に蘆名盛氏の娘を迎え 蘆名氏と同盟 5 。 |
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蘆名盛氏、娘を小峰義親に嫁がせ白河氏と同盟 8 。 |
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1560年(永禄3年) |
蘆名氏と共に那須氏へ侵攻するも敗北( 小田倉の戦い ) 5 。寺山城を佐竹義昭に制圧される 5 。 |
佐竹義昭、寺山城を攻略 5 。 |
蘆名盛氏、白河氏と共に那須氏を攻める 9 。 |
北条氏康と書状を交わし連携を模索 5 。 |
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1564年(永禄7年) |
羽黒山城を佐竹義昭に制圧される 5 。 |
佐竹義昭、羽黒山城を攻略 5 。 |
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1567年(永禄10年) |
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佐竹義重、白河義親を攻め勝利 11 。 |
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1572年(元亀3年) |
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佐竹義重、白河結城氏を配下に置く 11 。 |
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1573年(天正元年) |
晴綱、病没 5 。嫡男・ |
義顕 が家督相続。小峰義親が後見人となる 13 。 |
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1574年(天正2年) |
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佐竹義重、赤館城を攻略。南郷一帯を支配下に置く 5 。 |
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1575年(天正3年) |
義顕、 小峰義親 に追放される。義親が白河結城氏の家督を簒奪 13 。 |
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蘆名盛氏、女婿・結城義親を支援し家督問題に介入 8 。 |
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白河晴綱が背負った宿命を理解するためには、まず彼が率いた白河結城氏という一族の成り立ちと、その内部に抱える構造的な問題を深く掘り下げる必要がある。
白河結城氏は、その源流を下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部)の結城氏に持つ 14 。結城氏の祖は、平安時代に平将門の乱を鎮圧したことで知られる藤原秀郷であり、その子孫である小山朝光が源頼朝による奥州合戦の功績により、下野国結城郡と陸奥国白河庄などを得たことに始まる 15 。
白河結城氏の直接の祖となるのは、朝光の孫にあたる結城祐広である。彼は鎌倉時代後期の正応2年(1289年)頃、一族が領有していた白河庄に下向し、この地に根を下ろした 13 。これにより、下総の宗家とは別に、陸奥国における結城氏の分家、すなわち白河結城氏の歴史が始まった。
この藤原秀郷流という名門の出自は、単なる家系の誇り以上の意味を持っていた。鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、白河結城氏2代当主の結城宗広は、新田義貞の鎌倉攻めに参加し、幕府滅亡に貢献した 15 。その功績により、宗広は後醍醐天皇から結城一族の惣領と認められ、子の親光は楠木正成らと並び「三木一草」と称される有力武士の一人に数えられるなど、南朝方の中核として重用された 14 。この南北朝時代の活躍は、白河結城氏の家格を飛躍的に高め、一時は伊達氏をも凌ぐほどの勢力を奥州に築くに至った 14 。
しかし、白河結城氏の栄光には、常に内部分裂の影がつきまとっていた。その最大の要因となったのが、庶流である小峰氏の存在である。
南朝方として活躍した結城宗広の嫡男・親朝は、父とは別に独自の勢力基盤を築き、白河結城氏の本拠である搦目城(からめじょう、白川城)とは別に、小峰ヶ岡に新たに城を築いた 13 。これが後の小峰城である。親朝は、この小峰城を自らの次男・朝常に与え、小峰氏を創設させた 14 。惣領家の家督は長男の顕朝が継承したが、この所領分割は、単なる分家の創設に留まらなかった。両家の所領は互いの領地に混在する形で分割され、白河結城氏の内部に、惣領家と庶流筆頭の小峰氏という二つの権力核を生み出す結果となった 14 。
当初は協調関係にあった両家だが、時代が下るにつれて小峰氏の力は増大し、惣領家を脅かす存在となっていく 19 。惣領家に後継者がいない場合には小峰氏から養子を迎えるという慣例も、小峰氏の政治的影響力を強める一因となった 14 。そして永正7年(1510年)、惣領家の結城政朝と小峰氏の間で大規模な内紛が勃発する 13 。この内紛の詳細は諸説あるが、結果として小峰氏の流れを汲む結城義綱(晴綱の父)が惣領家の家督を継承したとする説が有力である 6 。この出来事は、白河結城氏の権力構造が、もはや惣領家当主の絶対的な権威によってではなく、小峰氏との力関係によって左右される、不安定なものへと変質したことを示している。
この宗家と小峰氏という「二重権力構造」は、平時においては一族の勢力範囲を広げる機能も持ち得たかもしれない。しかし、外部からの圧力が強まる緊張下においては、家中の意思統一を困難にし、一貫した対外政策の遂行を阻害する致命的な欠陥となった。白河結城氏の衰退は、佐竹氏の侵攻という外的要因のみならず、この構造的な脆弱性という内的要因に深く根差していたのである。晴綱の時代の苦境は、この構造的欠陥が、戦国という時代の厳しい現実の中で、ついに露呈した結果であったと言える。
権力構造の変化を象徴するのが、一族の本拠地の変遷である。白河結城氏初代・祐広以来の居城は、白河市藤沢山に位置する山城、搦目城(白川城)であった 13 。この城は、阿武隈川流域を見下ろす要害であり、南北朝時代を通じて一族の拠点として機能した 16 。
しかし、前述の永正年間の内紛を経て、小峰氏が惣領家の実権を掌握する過程で、本拠地は小峰氏の居城であった小峰城へと事実上移転したと推定されている 14 。小峰城は、親朝によって築かれた後、白河結城氏の歴史において重要な役割を果たし続けた城である 18 。この本拠地の移動は、単なる地理的な中心の変更ではなく、白河結城氏内部における権力の重心が、伝統的な惣領家から、実力を持つ庶流・小峰氏へと完全に移行したことを物語る、決定的な出来事であった。晴綱が家督を継いだ時点で、彼が座る当主の座は、既に小峰城にあり、その権力基盤は常に小峰氏の動向に左右されるという、極めて不安定なものであったのである。
白河結城氏が内部に構造的な脆弱性を抱え、外部からは佐竹氏の圧力が強まるという困難な状況下で、歴史の表舞台に登場したのが白河晴綱である。
白河晴綱は、永正17年(1520年)頃、白河結城氏第9代当主・結城義綱の嫡男として誕生したと推定されている 5 。彼の父・義綱の治世は、既に白河結城氏の衰退が顕著になり始めた時代であった。
義綱の代、南からは佐竹氏が内紛を収束させて勢力を回復し、かつて白河結城氏が拡大した領土への反攻を開始していた 6 。永正18年(1521年)には常陸国依上保の獅子城が、天文10年(1541年)には陸奥国南端の要衝である東館城が、佐竹義篤によって攻め落とされている 6 。さらに、天文3年(1534年)には、岩城重隆の娘と嫡男・晴綱との婚姻を巡って伊達氏と対立。伊達氏と、それに与した蘆名氏・石川氏・二階堂氏らの連合軍に敗北し(滑井合戦)、所領の一部を失うという屈辱を味わった 6 。
加えて、天文元年(1532年)には二階堂氏との合戦で、長男とされる「刀之助」が討ち死にするという悲劇にも見舞われている 6 。この刀之助が義綱の長男であったとすれば、晴綱は次男でありながら、兄の死によって嫡男としての地位を得て、苦境にある一族の未来を託されることになったのである。彼が物心ついた頃には、既に一族は内外に多くの問題を抱え、その存続自体が危ぶまれる状況にあった。
晴綱の元服とそれに伴う改名は、彼の置かれた政治的状況と、それに対する必死の生存戦略を雄弁に物語っている。彼の初名は 直広 (なおひろ)であったが、天文11年(1542年)、左京大夫に任官されると同時に、当時の関東・南奥州における伝統的権威であった古河公方・足利晴氏から「晴」の一字(偏諱)を賜り、 晴広 (はるひろ)と改名した 5 。さらにその翌年、名を
晴綱 (はるつな)へと変えている 5 。
この一連の改名は、単なる個人的な改名に留まるものではない。戦国時代の武将にとって、主君や上位者から偏諱を授かることは、その権威に服属し、庇護下にあることを内外に示す極めて重要な政治的行為であった。当時、伊達氏や佐竹氏といった新興勢力が台頭し、古河公方の権威は既に形骸化しつつあった。しかし、白河結城氏のような中小規模の国人領主にとって、軍事力や経済力で大国に対抗できない以上、「正統性」や「家格」といった無形の権威は、自らの独立性を保つための最後の拠り所とも言える外交カードであった。
晴綱が足利晴氏から「晴」の字を拝領したことは、「我々は単なる一地方勢力ではなく、関東公方に公認された由緒ある大名である」という対外的な宣言に他ならなかった。それは、強大化する周辺勢力からの過度な干渉を牽制し、自らの存在を正当化しようとする、弱者の知恵であり、存亡をかけた必死の願いが込められた戦略的行為だったのである。
晴綱が父・義綱から家督を譲り受けたのは、この晴広、そして晴綱へと改名した天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけての時期と見られている 5 。この時期の南奥州は、まさに激動の最中にあった。
北の伊達氏では、当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗の間で深刻な対立が生じ、南奥州の諸大名を巻き込む大規模な内乱「天文の乱」(1542年~1548年)が勃発していた 5 。この内乱は、従来の勢力図を根底から揺るがし、全ての国人領主に対応を迫るものであった。一方、南からは佐竹氏が着実に北への圧力を強めており、白河結城氏はその最前線に立たされていた。
このような内外ともに極めて不安定な情勢の中で、晴綱は白河結城氏という、沈みゆく船の舵取りを任されたのである。彼の前途には、いばらの道が待ち受けていた。
強大な勢力に囲まれた晴綱にとって、外交は一族の存亡を左右する最も重要な生命線であった。彼は、南奥州から関東に至る広範な政治情勢を視野に入れ、巧みかつ必死の外交努力を展開した。
晴綱が家督を継いだ時期と重なる伊達氏の内乱「天文の乱」は、彼にとって最初の大きな外交的試練であった。この内乱において、晴綱は明確にどちらか一方の陣営に与するという危険な賭けを避け、絶妙な均衡外交を展開した形跡が見られる。
天文14年(1545年)、伊達晴宗(稙宗の子)から友好を求める書状を受け取り、翌年には晴宗から、彼と対立する田村氏を背後から牽制するよう要請されている 5 。これらの事実から、晴綱が基本的には晴宗派に近かったことが窺える。しかしその一方で、父である稙宗とも友好関係を維持していたとされ、内乱への積極的な軍事介入は避けていたようである 5 。
これは、弱小勢力ならではの巧みな生存戦略であった。大国の内乱に深入りすれば、勝敗によっては自らの存亡に関わる。晴綱は、どちらが勝利しても致命的な打撃を受けないよう、両者との関係を維持しつつ、内乱の推移を慎重に見極めていたのである。この対応は、彼の冷静な情勢分析能力を示している。
会津の蘆名氏との関係は、晴綱の外交戦略の中核をなすものであった。当初、天文20年(1551年)には、対立していた蘆名氏と田村氏の間に立って講和を仲介するなど、晴綱は南奥州において一定の外交的地位を保っていた 5 。
しかし、佐竹氏による北進の脅威が日増しに深刻化すると、晴綱はより強力な後ろ盾を求める必要に迫られた。そして天文24年(弘治元年、1555年)、彼は蘆名氏との間に明確な軍事同盟を締結するという大きな決断を下す 5 。その証として、一門の筆頭であり、家中の最大の実力者であった小峰義親の室に、時の蘆名氏当主・蘆名盛氏の娘を迎えたのである 5 。
この婚姻同盟は、晴綱の対佐竹戦略の根幹を形成した。しかし、この同盟は必ずしも対等なものではなかった。同盟の証である婚姻が、当主である晴綱の嫡男ではなく、家臣筋である小峰義親との間で行われたという事実は、この同盟の非対称性を象徴している。これは、蘆名氏が白河結城氏を、当主同士が直接姻戚関係を結ぶに値する相手とは見なしていなかった可能性、あるいは家中の実力者である小峰氏を直接掌握することで、白河結城氏への影響力をより確実なものにしようとした意図を示唆する。結果として、この同盟は佐竹氏に対抗するための軍事力を確保する一方で、晴綱自身の家中の統制力を弱め、小峰氏の立場を相対的に強化するという、皮肉な結果をもたらすことになった。白河結城氏は、蘆名氏にとって対佐竹戦線を構成する重要な「駒」の一つとなり、その主体性は大きく制限されていったのである。
常陸の佐竹氏との関係は、晴綱の治世を通じて、常に敵対と抗争に終始した。佐竹義昭、そしてその子「鬼義重」こと佐竹義重の父子二代にわたる執拗な北進政策は、白河結城氏にとって最大の脅威であった 5 。
両者の間には、隣接する岩城氏の仲介による一時的な和睦が成立することもあったが 5 、それはあくまで束の間の小康状態に過ぎなかった。佐竹氏は、白河領の南方を着実に侵食し、晴綱は防戦一方の苦しい戦いを強いられた。この絶え間ない軍事的圧力は、白河結城氏の国力を著しく消耗させ、衰退を決定的なものにした 25 。
晴綱の外交は、南奥州の枠内に留まらなかった。彼は、佐竹氏と関東の覇権を争う相模の雄・北条氏康との連携を模索している 5 。現存する古文書からは、晴綱が北条氏康に誓詞(神仏に誓う形式の文書)を送り、氏康もそれに応える形で誓詞を返していることが確認できる 10 。
これは、敵の敵は味方とする「遠交近攻」の定石に則った、高度な外交戦略であった。佐竹氏の背後を脅かす存在である北条氏と結ぶことで、佐竹氏の圧力を少しでも和らげようとしたのである。この試みは、晴綱が関東全体の政治・軍事バランスを冷静に分析し、多角的な外交によって活路を見出そうとしていたことを示している。しかし、白河と小田原の地理的な隔たりは大きく、この遠距離の同盟が、目前の佐竹氏の脅威に対して決定的な効果を発揮することは困難であった。
外交努力によって一族の延命を図る一方、晴綱は自ら軍を率いて幾度も戦場に赴いた。しかし、その軍事行動は、彼の奮闘もむなしく、厳しい現実の前に多くの挫折を経験することとなる。
永禄3年(1560年)、晴綱は同盟者である蘆名盛氏と共に、下野国(現在の栃木県)の那須領へと侵攻した 5 。これは、蘆名・白河連合にとって、南への勢力拡大を狙った積極的な攻勢であった。しかし、那須資胤率いる那須軍は、家臣の大関高増らの奮戦もあって、数で劣りながらも連合軍を撃退した 9 。
この「小田倉の戦い」における敗北は、晴綱にとって大きな痛手となった。それは、蘆名氏との連合軍をもってしても、下野の在地領主を屈服させることができなかったという軍事的能力の限界を露呈させただけでなく、この敗戦が、宿敵・佐竹氏にさらなる侵攻の口実と機会を与える結果となったからである。
小田倉での敗戦と同じ永禄3年(1560年)、佐竹義昭は機を逃さず白河領の南方へ侵攻し、重要拠点の一つであった寺山城を制圧した 5 。これにより、白河結城氏の防衛線に最初の大きな亀裂が入る。
さらに永禄7年(1564年)には、同じく南方の要衝である羽黒山城も佐竹義昭によって攻め落とされた 5 。これらの城は、白河結城氏が佐竹氏の北進を食い止めるために築いた支城網の中核をなすものであった 29 。その相次ぐ陥落は、白河結城氏の防衛体制が事実上崩壊したことを意味した。領国は本拠地である小峰城周辺にまで狭められ、佐竹氏の脅威は喉元にまで迫ることとなったのである。
晴綱の死後、天正2年(1574年)には、佐竹義重が赤館城を攻略し、南郷一帯はことごとく佐竹氏の支配下に置かれるに至った 5 。
晴綱が度重なる軍事的敗北を喫し、領土を失い続けた要因は、単に個々の戦いにおける戦術の優劣に帰するものではない。その背景には、両勢力が持つ「総合国力」の圧倒的な差という、構造的な問題が存在した。
第一に、経済基盤の差である。宿敵・佐竹氏は、領内にあった金山の開発に成功し、そこから得られる豊富な資金力を背景に軍事力を増強していた 11 。これにより、多数の兵を動員し、鉄砲などの最新兵器を揃え、長期にわたる軍事作戦を継続的に遂行することが可能であった 11 。対する白河結城氏には、そのような強力な経済基盤は存在しなかった。
第二に、組織の統一性の差である。佐竹氏は義昭・義重父子のもとで強力な中央集権体制を築き上げ、一族・家臣団を統率して領国経営にあたっていた。一方で白河結城氏は、前章で述べたように、惣領家と小峰氏という二重権力構造を内包しており、家中の意思統一は常に困難であった。外部からの脅威に対して、迅速かつ統一された対応を取ることが難しいという、致命的な弱点を抱えていたのである。
これらの要因が複合的に作用した結果、両者の戦いは、国力の乏しい白河結城氏が一方的に消耗していく持久戦の様相を呈した。晴綱の軍事的苦境は、戦場で兵を交える以前に、その経済的・政治的基盤の段階で、既にその帰趨がある程度決まっていたと言っても過言ではない。彼の奮闘は、この構造的な劣勢を覆すには至らなかったのである。
度重なる敗戦と領土の喪失は、晴綱の心身を蝕んでいった。彼の晩年は、個人的な悲劇と一族の組織的崩壊が連鎖する、まさに斜陽の時代であった。
史料によれば、晩年の晴綱は失明し、重い病の床に伏していたと伝えられている 5 。これにより、当主として政治の采配を振るい、軍を率いて指揮を執ることは事実上不可能となった。この当主の機能不全は、既に弱体化していた白河結城氏の家中に、深刻な権力の空白を生み出した。
強力なリーダーシップが失われた組織は、内部の遠心力によって崩壊へと向かう。白河結城氏もその例外ではなかった。晴綱の病という個人的な悲劇は、一族が長年抱えてきた構造的欠陥の蓋をこじ開け、崩壊のプロセスを一気に加速させる引き金となったのである。
この権力の空白に乗じて、家中の実権を掌握したのが、一門筆頭の小峰義親であった 5 。彼の出自については、晴綱の子であるとする説、弟であるとする説、あるいは晴綱の父・義綱の子や、さらに遡って結城顕頼の子とする説など諸説あり、未だ確定していない 5 。しかし、いずれにせよ彼が小峰氏の当主であり、家中で惣領家に次ぐ、あるいはそれを凌ぐ力を持っていたことは確かである。
Mermaidによる関係図
注:小峰義親の出自については、結城顕頼の子、結城義綱の子、あるいは白河晴綱の子(または弟)など複数の説が存在する 5 。また、蘆名盛氏の娘は義親の室となった 8 。
義親は、単なる個人的な野心だけで行動したわけではない。彼は、蘆名盛氏の娘を妻としており、その背後には蘆名氏の強力な後ろ盾があった 8 。蘆名氏にとって、当主が機能不全に陥った白河結城氏を、自らの影響下にある義親を通じて完全に掌握することは、対佐竹戦略上、極めて好都合であった。晴綱の病という「個人的要因」が、小峰義親の権力志向という「内部要因」と、蘆名氏の南奥州への影響力拡大という「外部要因」とを結びつける触媒として機能したのである。
天正元年(1573年)、晴綱は失意のうちに病没した 5 。家督は幼い嫡男・義顕が継承し、小峰義親がその後見人として家政を執り行うこととなった 5 。しかし、これは名目上のものであった。
そのわずか2年後の天正3年(1575年)、義親はついに本性を現す。彼は幼い当主・義顕を追放し、自らが白河結城氏の当主の座に就いたのである 13 。この家督簒奪は、蘆名盛氏も支援して介入した結果であった 8 。これにより、鎌倉時代から続いた名門・白河結城氏の正統な血筋による支配は事実上終焉を迎え、一族は滅亡への道を突き進むことになった。
近年の研究、特に『白河市史』の編纂過程で、この時期の白河結城氏の歴史に、もう一人の謎の人物が存在した可能性が指摘されている。その名は「結城隆綱」である 34 。
一部の古文書にその名が見えるこの「隆綱」という人物が、一体誰なのかについては、研究者の間でも意見が分かれている。一つは、彼が小峰義親の初名、あるいは別名であったとする説である 33 。もう一つは、晴綱が没し、義顕が継いだ後、義親が簒奪するまでのごく短い期間に当主であった、系図から抹消された人物ではないかという説である 34 。この謎は未だ解明されておらず、白河結城氏末期の混乱した状況を象徴する、興味深い論点として残されている。
白河晴綱の生涯を振り返るとき、我々は彼を単に領土を失い、一族を衰亡させた無能な敗将として断じるべきではない。彼の人生は、戦国時代中期における中小国人領主が直面した、あまりにも過酷な現実を映し出す鏡である。
晴綱は、北の伊達・蘆名、南の佐竹という、当時飛躍的に勢力を伸ばしていた強国に挟まれた地政学的宿命を背負っていた。その中で彼は、古河公方の権威に頼り、蘆名氏や北条氏との同盟を模索し、そして自ら戦場に立つなど、考えうる限りの外交・軍事の手段を尽くして一族の存続を図った。彼の行動の一つ一つは、時代の奔流に抗うための必死の選択であった。その奮闘は、同時代に生きた多くの国人領主たちの姿と重なる。
しかし、彼の必死の努力は、最終的に実を結ばなかった。その挫折は、戦国という時代が、もはや家格や伝統だけでは生き残れない、非情な実力主義の社会であったことを我々に突きつける。佐竹氏が金山経営によって築いた経済力と、それに基づく強大な軍事力の前には、白河結城氏が持つ伝統的権威も、晴綱個人の外交手腕も、あまりに無力であった。彼の敗北は、兵力や戦術といった次元を超えた、経済力、組織の統一性、そして地政学的な位置といった「総合国力」が全てを決定づける時代の到来を象徴する出来事であったと言える。
晴綱の死と、それに続く小峰義親による家督簒奪によって、独立した大名としての白河結城氏は事実上滅んだ。その後、白河の地は佐竹氏、伊達氏の草刈り場となり、やがて豊臣秀吉による奥州仕置によって中央政権の支配下に組み込まれていく 13 。晴綱の奮闘と挫折は、南奥州という地域世界が、中央の統一権力へと飲み込まれていく大きな歴史の転換点における、一つの画期であったと位置づけることができる。
彼の築いた小峰城は、後に江戸時代の白河藩の藩庁となり、丹羽長重による大改修を経て、幕末の戊辰戦争の舞台となった 4 。そして、彼の子孫たちは、嫡流が秋田藩佐竹氏に、小峰氏の系統は仙台藩伊達氏に仕えるなどして、その血脈を後世に伝えた 14 。その中には、現代に名を残す人物もいるという 14 。
白河晴綱の生涯は、華々しい成功物語ではない。しかし、その苦闘の軌跡は、戦国という時代の本質と、その中で生き抜こうとした人々の姿を、我々に深く教えてくれるのである。