戦国時代の陸奥国南部、いわゆる南奥州の歴史において、白河結城氏は特異な位置を占める。その祖は鎌倉幕府の有力御家人・小山朝光に遡り、その孫・祐広が白河の地に根を下ろして以来、この地を支配してきた名門である 1 。特に南北朝時代には、当主・結城宗広が南朝方の中心として活躍し、一時は奥州の覇者であった伊達氏をも凌ぐほどの勢力を誇った 3 。この輝かしい歴史は、戦国時代に至るまで白河結城氏の権威の源泉であり続けた。
しかし、戦国時代に入ると、白河結城氏を取り巻く環境は激変する。北の伊達氏、南の佐竹氏、西の蘆名氏といった周辺勢力が急速に台頭し、その狭間で白河結城氏は次第に衰退の一途をたどることになる。この激動の時代の渦中にあって、一族の舵取りを担ったとされるのが、白河結城氏第8代当主・白河顕頼(結城顕頼)である。彼の名は、一族の衰亡期を象徴する存在として歴史に刻まれているが、その生涯は多くの謎に包まれ、人物像は歴史学の研究の進展と共に大きく揺れ動いてきた。彼は、内紛の末に実力で家督を奪い、結果として一族を衰退に導いた野心的な暗君であったのか。それとも、激化する権力闘争の渦に翻弄され、故郷を追われた悲劇の将であったのか。本報告書は、この白河顕頼という人物の実像に迫ることを目的とする。
白河顕頼の生涯をめぐっては、大きく分けて二つの対立する物語が存在する。一つは、長らく定説とされてきた「通説」である。これによれば、顕頼は老齢の父・政朝が家督を譲らないことに不満を抱き、クーデターによって父と異母弟を追放し、実力で当主の座を掴んだ人物として描かれる 6 。
しかし近年、この通説に根本的な疑問を投げかける「新説」が登場した。歴史学者・垣内和孝氏による一連の研究は、従来の史料解釈を批判的に再検討し、全く異なる顕頼像を提示したのである 8 。この新説において、顕頼は永正7年(1510年)に発生した一族の内紛「永正の変」の勝者ではなく、むしろ敗者であったとされる。すなわち、惣領家を凌ぐ勢力となった庶流の小峰氏によって父・政朝と共に白河から追放され、会津蘆名氏のもとで25年にも及ぶ長い亡命生活を強いられた悲運の人物として再定義されたのである 6 。
顕頼の生涯をめぐる二つの対立する説の存在は、単なる一武将の経歴に関する学術的論争にとどまらない。それは、この時代の南奥州における地方権力に関する史料が極めて乏しく、断片的であることを物語っている。中央の著名な大名とは異なり、白河氏のような地域領主の動向は、しばしば矛盾をはらんだ記録の中にしかその姿を留めていない。垣内氏の研究に代表される近年の歴史学の進展は、こうした限られた史料を丹念に読み解くことで、いかにして従来の歴史像が覆されうるかを示す好例と言える。顕頼をめぐる議論は、歴史学そのものの進歩と深化を映し出す鏡なのである。
本報告書は、この謎多き人物・白河顕頼の実像を多角的に解明するため、以下の構成をとる。
まず第一部では、顕頼が生きた時代の背景を理解するため、白河結城氏の歴史的展開と、伊達氏・佐竹氏・蘆名氏らが角逐した16世紀の南奥州の政治情勢を概観する。
続く第二部では、本報告書の中核として、顕頼の生涯に関する「通説」と「新説」を、関連する史料に基づいて徹底的に比較・検討する。両説の根拠や矛盾点を明らかにし、どちらの説がより説得力を持つのかを考察する。
最後に第三部では、顕頼以降の白河結城氏がたどった運命を追い、戦国大名としての終焉までを描写する。そして、これまでの分析を踏まえ、白河顕頼という人物の歴史的評価を再構築し、その生涯が戦国期南奥州史において持つ意味を結論づける。
白河結城氏の源流は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した下野国の豪族・小山氏に遡る。小山政光の子・朝光は、源頼朝の挙兵に従って功を挙げ、その功績により下総国結城郡(現在の茨城県結城市周辺)を与えられ、地名にちなんで結城氏を称した 2 。これが結城氏の始まりである。
その結城朝光の孫にあたる祐広が、正応2年(1289年)頃、祖父が源頼朝から与えられた所領の一つである陸奥国白河庄へ移住した。これが白河結城氏の初代であり、以後約400年にわたり、一族は白河の地を拠点として南奥州に勢力を築いていくことになる 1 。当初、本拠地は搦目城(白川城)に置かれた 5 。
白河結城氏がその名を歴史に大きく刻んだのは、2代当主・結城宗広の時代であった。鎌倉幕府の忠実な御家人であった宗広は、後醍醐天皇による倒幕運動が始まると、いち早く天皇方に馳せ参じ、新田義貞と共に鎌倉幕府を滅亡させる上で大きな功績を挙げた 3 。その功により、後醍醐天皇の建武の新政においては、奥州の統治を任されるなど厚い信任を受け、一族は「三木一草」と称される有力武士の一角を占めるに至った 3 。
やがて足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、南北朝の動乱が始まると、宗広は一貫して南朝方として戦い続けた。その子・親朝もまた、父と共に南朝勢力の中核として活動し、北畠親房が常陸国で南朝勢力の再興を図った際には、その重要な支援者となった。この時期、白河結城氏は伊達氏をも凌ぐ南奥州随一の勢力にまで成長し、この南北朝時代の栄光が、後世における白河結城氏の権威と誇りの源泉となったのである 3 。
南北朝の動乱期、結城親朝は本拠地の経営と勢力拡大にも注力した。彼は長男の顕朝に惣領家を継がせ、本城である白川城を与えた一方、次男の朝常には新たに小峰城を築かせて分家させ、小峰氏を名乗らせた 5 。これが白河結城氏の惣領家と、その最も有力な庶流である小峰氏の始まりである。
当初、両家の関係は協調的であり、惣領家に後継者がいない場合には小峰氏から養子を迎えるなど、一族としての結束を保っていた 5 。しかし、時代が下り戦国時代に突入すると、この力関係に変化が生じる。小峰氏は次第に力をつけ、時には惣領家を凌ぐほどの勢力を持つようになった 14 。惣領家と庶流の勢力バランスの逆転は、一族内に潜在的な対立の火種を抱え込ませることになり、これが後に白河顕頼の時代に「永正の変」として噴出する内紛の根本的な原因となったのである。
白河顕頼が生きた16世紀前半から中頃にかけての南奥州は、かつてない地殻変動の時代であった。複数の勢力が覇を競い、合従連衡が繰り返される中で、白河結城氏は存亡をかけた厳しい選択を迫られることになる。
北方に位置する伊達氏では、14代当主・稙宗が家督を継ぐと、驚異的な勢力拡大を開始した 16 。稙宗は14男7女という多くの子女に恵まれたことを最大限に活用し、彼らを周辺の有力大名家へ次々と婚姻させ、あるいは養子として送り込むことで、伊達氏を中心とした巨大な姻戚関係のネットワークを構築した。この政策は「洞(うつろ)」政策と呼ばれ、血縁を軸とした主従関係によって南奥州を実質的に支配しようとするものであった 16 。
稙宗の娘たちは相馬氏、蘆名氏、二階堂氏、田村氏などに嫁ぎ、息子たちは大崎氏、葛西氏、亘理氏などに養子として入った 17 。この巨大な政治的ネットワークは、白河結城氏にとっても無視できないものであり、伊達氏との関係をどのように築くかが、一族の命運を左右する重要な課題となった。伊達氏に従属するのか、あるいは対抗するのか、その選択は一族内に新たな対立軸を生み出す要因ともなった。
しかし、稙宗の急進的かつ強引な勢力拡大策は、やがて内部からの強烈な反発を招く。特に、三男・時宗丸を越後守護・上杉定実の養子にしようとした計画が、嫡男・晴宗との決定的な対立を引き起こした 19 。晴宗は、この養子縁組によって伊達氏の精鋭家臣団が越後へ引き抜かれ、自家の勢力が弱体化することを恐れたのである。
天文11年(1542年)、晴宗は父・稙宗を捕らえて幽閉し、ここに伊達家を二分し、南奥州のほぼ全ての大名を巻き込む大内乱「天文の乱」が勃発した 19 。稙宗方には蘆名氏、相馬氏、田村氏などが付き、晴宗方には大崎氏、葛西氏などが付くという、まさに南奥州を揺るがす大乱となった。この乱は6年にもわたって続き、最終的には晴宗方の勝利に終わるが、伊達氏の勢力は一時的に大きく減退した 20 。それ以上に深刻だったのは、地域の政治秩序が著しく不安定化したことである。白河結城氏のような中小勢力は、この大国の内乱の余波を直接的に受け、自立性を保つことが一層困難な状況に追い込まれていった。
南からの脅威もまた、深刻化していた。常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏は、長年の一族内紛(山入一揆)を収束させると、その矛先を北方に向け、白河結城氏の領土への侵攻を開始した 22 。白河結城氏はかつて佐竹氏の内紛に乗じてその領土を侵食した経緯があり、その反攻に晒される形となったのである 9 。佐竹氏の侵攻は執拗であり、白河結城氏は国境地帯の城を次々と奪われ、領土を南から蚕食されていった 9 。
白河結城氏は、これら伊達・佐竹という二大勢力に加え、西の会津蘆名氏、東の岩城氏、南の下野那須氏といった隣接勢力との複雑な関係性の中に置かれていた 23 。特に会津の蘆名氏は、婚姻関係を通じて白河結城氏の内政に深く関与するようになる 26 。通説において顕頼が父・政朝を追放する際に後妻として迎えられたのが蘆名氏の女性であったことや 6 、新説において追放された顕頼が25年間も庇護を求めた先が蘆名氏であったこと 6 は、両家の密接な関係を物語っている。
このように、白河顕頼の時代は、北の伊達、南の佐竹、西の蘆名という三つの強大な勢力が、白河結城領をめぐって圧力を強める、まさに地政学的な危機の中にあった。一族の衰退は、単なる内部の弱体化だけでなく、これら外部からの圧力が複合的に作用した結果であった。顕頼の物語は、本質的に、より強大で活動的な国家の狭間で押し潰されていく中間勢力の悲劇なのである。
白河顕頼の生涯については、前述の通り、伝統的な通説と、垣内和孝氏が提唱した新説とが鋭く対立している。ここではまず、両説の主張を年表形式で比較し、その相違点を明確にする。
年代 |
通説における出来事 |
新説における出来事 |
典拠(主なもの) |
文明2年(1470年)頃 |
白河結城氏7代当主・政朝の子として誕生。 |
同左。 |
6 |
明応4年(1495年) |
左兵衛佐に任官。 |
同左。 |
6 |
永正7年(1510年) |
【永正の変】 父・政朝と弟・五郎を追放し、家督を掌握。白河結城氏8代当主となる。 |
【永正の変】 庶流・小峰朝脩のクーデターにより、父・政朝と共に白河から追放される。 |
6 |
1510年~1535年 |
白河結城氏当主として領国を統治。 |
会津へ逃れ、蘆名氏の庇護下で25年間の浪人生活を送る。 |
6 |
永正17年(1520年) |
弟・那須資永の報復のため、岩城氏と連合し那須氏と戦う(縄釣原の合戦)が敗北。 |
この戦いは、当時白河を支配していた小峰氏系の当主・ 結城義綱 の事績であり、顕頼は関与していない。 |
6 |
享禄4年(1531年) |
祖・結城宗広が開基した長雲山智徳院を再興する。 |
会津に亡命中のため、この再興は不可能。当主・ 結城義綱 が自らの権威付けのために行ったものと考えられる。 |
6 |
天文4年(1535年) |
(特記事項なし) |
蘆名氏と白河結城氏(義綱)の計らいにより、白河へ帰還する。 |
6 |
天文12年(1543年)頃 |
死去。 |
同左(帰国後の動向は不明な点が多い)。 |
6 |
長らく受け入れられてきた通説における白河顕頼は、野心と行動力を兼ね備えた、典型的な戦国武将の一人として描かれる。
通説によれば、顕頼は白河結城氏の第7代当主・結城政朝の嫡男として、文明2年(1470年)頃に生まれたとされる 6 。母は、有力な一族である小峰氏の当主・小峰直親の娘であった 6 。嫡男としての地位を確立していた彼は、明応4年(1495年)には左兵衛佐に任官されるなど、順調に後継者としての道を歩んでいた 6 。
しかし、父・政朝が老齢に達すると、家督相続をめぐる暗雲が立ち込める。政朝は会津の蘆名氏から後室を迎え、その間に生まれた子(五郎)を溺愛するようになった。そして、既に40歳に達していた嫡男・顕頼に家督を譲ろうとせず、五郎を後継に据えようとする動きを見せ始めた 6 。
自らの地位、ひいては生命に危険を感じた顕頼は、先手を打って行動を起こす。永正7年(1510年)、母方の一族である小峰直常や、隣国の岩城氏の軍事的な援助を得てクーデターを決行。父・政朝と異母弟・五郎を白河から追放し、力ずくで家督を掌握した。これが通説における「永正の変」の経緯である。しかし、この親子の骨肉の争いは一族の結束を著しく損ない、白河結城氏の国力は大きく衰退し、多くの所領を失う結果を招いたとされている 6 。
顕頼の弟の一人は、下野国の名門・那須氏の養子となり、那須資永と名乗っていた。しかし、この資永が那須氏の内部抗争の末に自刃に追い込まれるという事件が発生する。兄である顕頼は、この報復を期して軍事行動を起こした。
永正17年(1520年)、顕頼は岩城氏を誘い、連合軍を率いて那須領へと侵攻した 6 。那須氏では、資永を追い込んだ那須資房・政資父子がこれを迎え撃った。両軍は縄釣原(現在の栃木県大田原市付近)で激突したが、白河・岩城連合軍は敗北を喫し、顕頼は撤退を余儀なくされた 7 。この一連の動きは、顕頼が当主として対外的な軍事行動を主導していたことを示すものと解釈されてきた。
通説における顕頼は、武力一辺倒の人物としてだけではなく、文化的な側面も持ち合わせていたとされる。享禄4年(1531年)、彼は白河結城氏の祖であり、南北朝時代の英雄である結城宗広がかつて開基した長雲山智徳院を再興した 6 。この行為は、祖先の威光を借りて自らの当主としての権威を高めると共に、一族の結束と領国の安寧を願う敬虔な信仰心を示すものとして評価されてきた。
垣内和孝氏の研究によって提示された新説は、これまでの顕頼像を180度転換させるものであった。新説における顕頼は、権力闘争の勝者ではなく、その渦中で全てを失った敗者として描かれる。
新説の核心は、「永正の変」の解釈にある。垣内氏によれば、この事件は顕頼による父の追放劇ではなく、惣領家を凌ぐ実力を蓄えていた庶流の小峰氏当主・小峰朝脩が、惣領家に対して起こした下剋上であった 5 。
このクーデターの結果、当時の当主であった結城政朝と、その嫡男であった顕頼の父子は、共に白河の地を追われることになったのである 6 。つまり、通説でクーデターの首謀者とされた顕頼は、実際にはその犠牲者であった、というのが新説の骨子である。この事件以降、白河結城氏の家督は小峰氏の血を引く人物(結城義綱)によって継承され、本拠地も従来の白川城から小峰氏の居城であった小峰城へと移ったと推定されている 28 。
故郷を追われた顕頼父子が向かった先は、西隣の会津であった。彼らは会津の戦国大名・蘆名氏を頼り、その庇護の下で実に25年間もの長きにわたる亡命生活、すなわち浪人としての雌伏の時を過ごした 6 。この長い雌伏の期間は、顕頼が白河の政治の表舞台から完全に姿を消していたことを意味する。
25年の歳月が流れた天文4年(1535年)、顕頼に転機が訪れる。彼を庇護していた蘆名氏と、その間に白河を支配していた白河結城氏(小峰氏系の当主・結城義綱)との双方の政治的な計らいによって、顕頼の白河への帰国が実現したのである 6 。
この帰還は、単なる個人的な赦免や温情によるものではなかった可能性が高い。当時、南奥州で勢力拡大を図っていた会津の蘆名氏にとって、白河結城氏をその影響下に置くことは重要な戦略であった。正統な血筋を持つ(しかし実権を持たない)旧嫡子・顕頼を白河に帰還させ、その存在を保証することは、小峰氏系の現指導部に対する強力な牽制となり、白河結城氏全体への発言力を確保する有効な手段となったと考えられる。顕頼の帰還は、彼の個人的な意思を超えた、蘆名氏と白河新指導部との間の力関係を反映した、高度な政治的妥協の産物であったと解釈できる。彼は、大国の思惑に翻弄される一個の駒として、故郷の土を再び踏むことになったのである。
通説と新説、二つの顕頼像はなぜここまで異なるのか。その最大の要因は、限られた史料の解釈の違いにある。ここでは、両説の決定的な論点を整理し、その妥当性を考察する。
最大の争点は、永正の変(1510年)以降、白河結城氏の当主は誰だったのか、という問題に集約される。通説では顕頼が当主であったとされるが、新説では小峰朝脩の子である「七郎」、すなわち後の結城義綱が家督を継いだと主張する 5 。
通説において顕頼の子とされる結城義綱 6 の出自そのものが、両説を分かつ分水嶺となっている。史料上、義綱の名が確認できるのは永正15年(1518年)からであり 9 、彼がこの時期に当主として活動していたとすれば、顕頼が当主であったとする通説は根底から覆る。
この当主問題は、具体的な歴史的事件の主体の特定に直結する。新説の立場に立てば、1510年から1535年までの25年間、白河結城氏の当主は義綱であったことになる。したがって、この期間に行われた軍事行動、例えば永正17年(1520年)の那須氏との「縄釣原の合戦」などは、亡命中の顕頼ではなく、当主・義綱が主導した事績ということになる 6 。これは、白河結城氏の戦国期の歴史を根本から書き換える、きわめて重要な帰結である。
両説の妥当性を測る上で、試金石となるのが享禄4年(1531年)の智徳院再興である。通説では、これを顕頼の功績としている 6 。しかし、新説の通りこの時期に顕頼が敵対関係にある会津に亡命していたとすれば、彼が敵地である白河に赴き、一族の菩提寺を再興するなどということは、物理的にも政治的にもほぼ不可能である。
この矛盾をどう解釈すべきか。新説の枠組みで考えた場合、この智徳院再興は、クーデターによって家督を奪った結城義綱による、極めて政治的な色彩の濃い行為であったと解釈するのが最も合理的である。すなわち、簒奪者である義綱は、一族の祖であり英雄である宗広を顕彰するという敬虔な行為を通じて、自らの支配の正当性を演出し、暴力的な家督継承という出自の弱点を糊塗しようと試みたのではないか。そして後の時代、顕頼の血筋を正統と見なす立場から編纂された系図などが、この功績を本来の嫡流である顕頼のものとして「修正」して記録し、それが通説として定着した可能性が考えられる。このように、智徳院再興の事実は、新説を否定するどころか、むしろその妥当性を補強する間接的な証拠とさえなりうるのである。
結局のところ、顕頼の実像は、『白河結城家文書』 1 に代表される一次史料や、後世に編纂された各種系図、軍記物といった史料群を、いかに批判的に読み解くかにかかっている。垣内氏の研究は、これらの史料が成立した背景や編纂者の意図を深く洞察し、行間に隠された歴史の真実を読み取ろうとする作業の中から生まれたものであり、その説得力は極めて高いと言わざるを得ない。
白河顕頼の帰国後、あるいは彼の死後、白河結城氏の歴史はさらなる混迷の度を深めていく。一族の衰退はもはや誰にも止められない潮流となっていた。
顕頼の時代の後、白河結城氏の家督は義綱からその子・晴綱へと継承された 3 。しかし、この時期の白河結城氏は、南からの佐竹氏の圧迫と、北の伊達氏との対立の中で、次第に領土を失い、国力を消耗させていった 9 。天文3年(1534年)には、晴綱と岩城氏との婚姻をめぐって伊達氏と争い敗北するなど、外交的にも苦境に立たされていた 9 。
晴綱の代になると、彼が病弱であったためか、当主としての統治が困難な状況に陥る。この権力の空白を突く形で、再び庶流の小峰氏が台頭する。小峰氏出身の結城義親が家中の実権を掌握し、当主同様の地位に就いたのである 26 。
そして天正3年(1575年)、再び一族を揺るがす内紛が勃発する。実力者となっていた小峰義親が、当主であった晴綱の子・義顕を追放し、自らが白河結城氏の当主の座に就いたのである 14 。この事件は、永正の変に対して「天正の変」と呼ばれる。
この一連の内紛は、白河結城氏の弱体化を決定的にした。この好機を逃さず、常陸の佐竹義重が大規模な軍事侵攻を開始する。白河結城氏はこれに抗しきれず、講和の条件として義重の次男・義広を養子に迎えることを余儀なくされ、事実上、佐竹氏の勢力下に組み込まれていった 14 。
この構造は、永正の変(新説)が示した構図の再現に他ならない。小峰氏による惣領家の簒奪というパターンは、天正の変で繰り返された。これは単なる偶然ではなく、一族が惣領家と小峰氏という二つの権力軸に根本的に分裂していたという構造的弱点に起因する。1510年のクーデターは、当主の座の正統性を恒久的に揺るがす「原罪」となり、その後の野心的な一族や周辺大国に、介入の口実を与え続けた。白河結城氏の滅亡は、永正の変に端を発する80年がかりの過程であったと言える。
最終的な結末は、天下統一を進める豊臣秀吉によってもたらされた。天正18年(1590年)、秀吉が小田原北条氏を攻めた際、白河結城氏は小田原へ参陣しなかった。これを理由として、戦後の奥州仕置において所領を全て没収され、改易処分となった 3 。ここに、鎌倉時代から約400年続いた名門・白河結城氏は、戦国大名としての歴史に幕を閉じたのである。
これまでの分析を踏まえ、白河顕頼という人物をどのように評価すべきか。彼の歴史像は、通説と新説のどちらを採用するかによって劇的に変化する。
通説が描く顕頼像は、家督への野心から父を追放する非情さを持ちながら、対外的には那須氏に敗北し、結果として一族を衰退の道へと導いた、評価の低い当主像である。
一方で、新説が描く顕頼像は、全く異なる。彼は、時代の大きな奔流の中で、より強大な庶流の力によって権力を奪われ、大国の思惑に翻弄されながらも、一族の血脈を繋ごうとした悲劇の人物として浮かび上がる。彼が経験した25年間の長い亡命生活は、白河結城氏が自立した戦国大名としての地位を失い、周辺大国の従属的な勢力へと転落していく、まさにその過程を象徴する出来事であった。彼は、一族の衰退の原因ではなく、その最初の犠牲者だったのである。
白河顕頼をめぐる研究史は、文献史学がいかにして一つの「通説」を構築し、そして新たな史料解釈や考古学的知見(城館跡の研究など 28 )によって、いかにしてそれを乗り越えていくかを示す、学問的営為の好例である。彼の物語は、固定された過去の事実としてではなく、常に新たな光を当てられることで再構築されていく、生きた歴史の姿を我々に示してくれる。
白河顕頼の実像をさらに明らかにするためには、今後の研究の進展が待たれる。特に、垣内氏が提唱した新説を決定的に裏付ける、あるいは反証するような新たな史料の発見が不可欠である。具体的には、顕頼が亡命していたとされる会津蘆名氏側の史料の中に、彼の具体的な動向を示す記録が見出されるかどうかが一つの焦点となる 6 。また、通説の根拠の一つである智徳院再興について、その主体や年代を特定できる一次史料の再検証も、極めて重要な研究課題と言えるだろう。
白河顕頼の生涯を追うことは、戦国時代の南奥州という、特定の地域における権力の動態を理解する上で、多くの示唆を与えてくれる。彼の人生は、北の伊達、南の佐竹、西の蘆名という三大勢力の狭間で、白河結城氏のような中小規模の国人領主が、いかにして生き残りを図ったか、そしてその多くがいかにしてそれに失敗したかを示す、一つの典型例である。
特に、永正の変に象徴される内部対立は、外部からの圧力が強まる中で、一族の結束を欠いた勢力から淘汰されていくという、戦国時代の冷徹な現実を浮き彫りにしている。白河結城氏の滅亡は、顕頼個人の資質の問題というよりは、内外の構造的な要因によって引き起こされた、避けがたい歴史の帰結であった可能性が高い。
最終的に、白河顕頼は、単一の確定したイメージを持つ歴史上の人物ではない。彼は、父を追放した野心家という「通説」の物語と、権力闘争に敗れ故郷を追われた悲運の将という「新説」の物語、その二つの異なる歴史像の中に存在する。
この事実は、我々が歴史に対峙する上で、極めて重要な教訓を含んでいる。それは、歴史像というものが、絶対不動のものではなく、史料の発見や解釈の深化によって、絶えず更新され、多層的なものになりうるということである。白河顕頼の物語は、歴史上の「事実」そのものだけでなく、その事実が後世の我々によっていかに「語られる」かという、歴史叙述の過程そのものへの深い洞察を与えてくれる。彼の揺れ動く人物像は、歴史研究のダイナミズムと、その奥深さを象徴していると言えよう。