日本の歴史、特に戦国時代から江戸時代初期にかけての記録を紐解く際、同名の人物が複数存在し、その功績や生涯が混同されることは少なくない。「相馬義胤」という名もその典型例であり、本報告書は、まずその人物特定から始める。
調査によれば、歴史上、主要な「相馬義胤」として少なくとも三名が確認される。第一に、鎌倉時代に活躍した相馬氏第2代当主の義胤である。彼は相馬氏の祖・師常の子であり、鎌倉幕府の御家人としてその名を馳せた 1 。その名にある「義」の字は、当時の執権・北条義時からの一字拝領(偏諱)と推測されており、幕府との強い結びつきを物語っている 1 。
第二に、江戸時代前期の相馬中村藩第2代藩主、すなわち相馬家第18代当主の義胤(幼名:虎之助)である 2 。彼は、本報告書の主題である16代義胤の孫にあたり、父・利胤の早世によってわずか6歳で家督を継いだ。その治世の初期は、祖父である16代義胤が後見役として支えた 2 。
そして第三の人物こそ、本報告書が主題とする、相馬家第16代当主・相馬義胤(天文17年(1548年)生~寛永12年(1635年)没)である 3 。彼は相馬盛胤の嫡男として生まれ、その生涯のほとんどを、奥州の覇権を目指す伊達氏、特に伊達政宗との熾烈な抗争に捧げた武将として知られる。利用者様が提示された「伊達家と各地で抗争を展開」「関ヶ原合戦で西軍に属していったん改易されるが、伊達政宗の取りなしで本領を安堵された」という概要は、この16代当主の生涯と完全に一致する。
特筆すべきは、この「義胤」という名前の継承に込められた政治的・歴史的意味である。16代義胤の「義」の字は、伊達氏に対抗するための重要な同盟相手であった常陸の雄、佐竹義重から与えられたものであった 6 。そして、その偉大な祖父の名を継いだのが、孫である18代義胤なのである 2 。このように、相馬家における「義胤」の名は、単なる識別子を超え、家の外交戦略や誇り、そして歴史そのものを象徴する記号として機能していた。本報告書は、この戦国乱世を不屈の精神で生き抜き、相馬家の存続を成し遂げた16代当主・相馬義胤の生涯を、あらゆる角度から徹底的に詳述するものである。
相馬義胤の生涯を理解する上で、その出自、とりわけ宿敵となる伊達氏との複雑かつ濃密な血縁関係を避けて通ることはできない。この血の宿縁こそが、彼の人生を決定づける抗争の根源にあった。
義胤は天文17年(1548年)、陸奥国行方郡の小高城において、相馬家第15代当主・相馬盛胤の嫡男として生を受けた 5 。通称は孫次郎と称した 6 。彼の血筋には、驚くほど色濃く伊達氏の血が流れていた。まず、義胤の祖母(父・盛胤の母)は、伊達氏の勢力を飛躍的に拡大させたことで知られる伊達稙宗の娘・屋形御前である 6 。さらに、義胤自身の母親も、伊達一族である懸田(掛田)義宗の娘であった 5 。この二重の血縁により、義胤は伊達稙宗の曾孫にあたる。
この複雑な関係は、義胤の婚姻によってさらに深まる。永禄3年(1560年)、義胤は伊達稙宗の末娘である越河御前を正室に迎えた 5 。彼女は義胤にとって祖母の妹、すなわち大叔母にあたる人物であり、相馬・伊達両家の結びつきは、常識的な姻戚関係を超えた、極めて濃密なものであったことがわかる 6 。
しかし、この深すぎる血縁は、必ずしも平和を保障するものではなかった。むしろ、その関係性のねじれが、後の深刻な対立を生む土壌となった。その発端は、伊達家を二分した内乱「天文の乱」である。この乱において、相馬氏は伊達稙宗方に与したため、乱の終結後、家督を継いだ晴宗派の伊達氏とは根深い確執を抱えることになった 5 。血は近くとも、政治的には敵対するという矛盾。義胤の生涯を貫く伊達氏との戦いは、単なる領土紛争ではなく、自らの血族と覇権を争うという、皮肉に満ちた「一族の内乱」の延長線上にあったのである。
このような状況下で、相馬家が生き残るための外交戦略が早くも動き出す。義胤は元服に際し、常陸の有力大名・佐竹義重から「義」の一字を拝領し、「義胤」と名乗った 6 。これは、強大な伊達氏に対抗するため、佐竹氏との連携を外交の基軸とするという、相馬家の基本戦略を明確に象徴する出来事であった。
武将としての第一歩は、永禄6年(1563年)、16歳の時に領内で発生した青田顕治・草野直清らの反乱を鎮圧した戦いであった 5 。この初陣を皮切りに、義胤は伊達氏との宿命的な対決の渦中へと本格的に身を投じていくことになる。
相馬義胤が相馬家の当主となった時期とその統治形態は、戦国大名の権力移譲を考える上で非常に興味深い事例である。それは、ある日を境にした完全な代替わりではなく、父子による長期的な共同統治、いわゆる「二頭政治」とも呼べる特徴を持っていた。
江戸時代の編纂史料によれば、義胤が父・盛胤の隠居に伴い家督を継承したのは天正6年(1578年)頃、31歳の時とされている 10 。しかし、史料を詳細に分析すると、それ以前から義胤が相馬家の政治・軍事の中枢で重要な役割を担っていたことが明らかになる。例えば、家督相続以前の天正4年(1576年)には、父・盛胤との連署(連名での署名)による書状が発給されており、義胤が単なる嫡男という立場を超え、実質的な統治者の一人として機能していたことを示している 10 。
この特異な統治体制を裏付けるのが、「相馬西殿」という呼称の存在である 10 。家督相続前の義胤は、他大名から送られた書状の中でこのように呼ばれていた。これは次期家督予定者に対する敬称であり、当時の相馬家が、公式な当主である盛胤と、その後継者である義胤が、それぞれ異なる拠点(屋形)を構えながら共同で統治を行う「二屋形」制とでも言うべき体制を敷いていた可能性を示唆している 10 。
この二頭政治は、常に伊達氏という強大な隣国からの圧力に晒されていた相馬家にとって、極めて合理的かつ効果的な統治形態であったと考えられる。経験豊富で老練な父・盛胤が後見役として大局的な戦略を維持し、一方で若く血気盛んな義胤が軍事の最前線で機動的な指揮を執る。この役割分担によって、戦略の継続性と戦術の柔軟性を両立させることができた。実際、盛胤は隠居後も子の郷胤や隆胤を補佐するなど、隠然たる影響力を保持し続けた 11 。この父子の巧みな連携こそが、国力で劣る相馬家が、伊達氏との半世紀にわたる抗争を戦い抜くことを可能にした原動力の一つであったと言えるだろう。
相馬義胤の武将としての生涯は、伊達輝宗・政宗親子との絶え間ない抗争に集約される。それは南奥州の覇権を巡る、数十年にわたる死闘であった。義胤は小勢力ながら、巧みな外交と不屈の闘志で、奥州の巨龍に立ち向かい続けた。
天正13年(1585年)、伊達輝宗が二本松城主・畠山義継に拉致され横死するという衝撃的な事件が発生した 13 。父の弔い合戦として伊達政宗が二本松城を攻撃すると、これを好機と捉えた常陸の佐竹義重は、蘆名氏、岩城氏ら南奥州の諸大名を糾合し、一大反伊達連合軍を結成した 5 。
義胤は、かねてより同盟関係にあった佐竹氏の呼びかけに応じ、この連合軍に主力として参加した 5 。約3万の連合軍に対し、伊達軍はわずか7千。義胤は佐竹勢と二階堂勢の間に本陣を構え、政宗の本陣に肉薄するなど勇戦した 5 。戦いは伊達家臣・鬼庭左月斎らの奮戦により辛うじて政宗の壊滅は免れたものの、連合軍優勢のまま日没を迎えた。
この戦いの後、伊達方は二本松城を攻めあぐねていた。そこで白羽の矢が立ったのが義胤であった。彼は、政宗の大叔父でありながら義胤の義理の叔父でもある伊達実元との縁故を活かし、両者の和議を斡旋。これにより二本松城は開城し、戦国大名としての畠山氏は事実上滅亡した 5 。この一連の動きは、義胤が単なる武将としてだけでなく、南奥州の複雑な人間関係の中で重要な役割を果たす外交家でもあったことを示している。
人取橋の戦いで危機を脱した政宗は、次なる標的を会津の蘆名氏に定めた。蘆名氏の後継者問題に介入し、佐竹義重の子・義広が当主となっていたことで、伊達包囲網はむしろ強化されていた 17 。天正17年(1589年)、政宗は蘆名氏攻略という一世一代の大勝負に打って出る。
この時、相馬義胤は同盟者である岩城常隆と共に、蘆名氏を支援すべく田村郡方面へ軍を進めていた 18 。政宗にとって、背後から相馬・岩城連合軍に突かれることは、自軍の壊滅を意味する最大の脅威であった。
ここに、政宗の策略家としての一面が発揮される。彼は主力を会津に向けると思わせておきながら、突如として軍を北に転じ、手薄になっていた相馬領へ電撃的に侵攻。駒ヶ嶺城や蓑首城といった重要拠点を瞬く間に攻略したのである 19 。自領が危機に陥ったとの報を受けた義胤は、蘆名氏への援軍を断念し、急ぎ引き返す以外に選択肢はなかった 19 。
政宗のこの陽動作戦は完璧に成功した。後顧の憂いを断った政宗は、摺上原で蘆名軍を撃破し、会津を平定。これにより、相馬氏は最大の同盟者を失い、南奥州で完全に孤立し、滅亡の危機に瀕することとなった 5 。政宗が会津攻略という大事業の前に、わざわざ相馬軍の無力化を最優先課題としたことは、彼が義胤の軍事力を「蘆名軍と合流すれば、自軍の勝敗を左右しかねない重大な脅威」と認識していた何よりの証左である。この事実は、義胤が政宗にとって決して侮れない好敵手であったことを逆説的に証明している。
これら二大決戦以外にも、義胤と伊達氏の戦いは熾烈を極めた。天正4年(1576年)の矢野目・冥加山の戦いでは、伊達輝宗率いる軍勢に大勝を収めるなど、一進一退の攻防を繰り広げた 5 。その外交は、常に伊達氏への対抗を基軸とし、佐竹・蘆名・岩城との連携を生命線としていた 5 。時には田村氏を介した和睦も模索されたが、その関係は常に不安定で、奥州の情勢に応じて合従連衡を繰り返す、まさに戦国乱世の縮図であった 5 。
伊達政宗との死闘が繰り広げられる中、日本の中心では織田信長が倒れ、豊臣秀吉が天下統一事業を急速に進めていた。この中央政権の奔流は、遠く奥州の地にも及び、相馬義胤もその渦中へと飲み込まれていく。この時期に築かれた石田三成との関係は、後に相馬家の運命を劇的に左右する重要な伏線となった。
天正18年(1590年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を攻める「小田原征伐」を発令し、全国の大名に参陣を命じた。当時、伊達政宗との対立が最終局面にあった義胤は、その動向を慎重に見極めていたためか、小田原への到着が遅れた(遅参) 5 。実際に参陣しなかった葛西晴信・大崎義隆といった大名が容赦なく改易される中、相馬氏もまた領地没収という絶体絶命の危機に立たされた 5 。
この窮地を救ったのが、豊臣政権の中枢で奉行として辣腕を振るっていた石田三成であった。三成の執り成しにより、義胤は秀吉への謁見を許され、罪を問われることなく、宇多・行方・標葉の三郡にわたる旧領4万8千7百石を安堵されたのである 5 。
この一件は、義胤にとって大きな転機となった。中央政権に強力な取次役を持つことの重要性を痛感した義胤は、以後、石田三成と極めて親密な関係を築いていく 6 。その関係の深さは、慶長元年(1596年)に嫡男・虎王が元服した際の行動に象徴される。義胤は三成に烏帽子親を依頼し、その名から「三」の一字をもらい受けて、嫡男を「三胤(みつたね)」と名乗らせた 2 。これは、単なる外交儀礼を超えた、両者の固い信頼関係を示すものであった。
この時点において、三成との関係構築は、強大な伊達氏の圧力を牽制し、中央集権化を進める豊臣政権下で家を存続させるための、最も合理的で優れた生存戦略であった。しかし、歴史の歯車は無情である。秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康へと傾く中で、この相馬家の「命綱」は、皮肉にも自らの首を絞める「命取りの綱」へと変貌していくことになる。時代の転換期に下した最善の判断が、次代には最悪の結果を招く。義胤と三成の関係は、戦国武将が直面した運命の皮肉を如実に物語っている。
豊臣秀吉の死後、天下の覇権は徳川家康へと急速に傾斜していく。慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の火蓋が切られた。この歴史的な大転換期において、相馬義胤が下した決断は、彼の武士としての義理と、政治的な現実との狭間で揺れ動く苦悩に満ちたものであり、結果として相馬家を史上最大の危機へと導いた。
家康からの会津征伐への出兵要請に対し、義胤は明確な態度を示さず、中立を維持した 5 。この行動の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。第一に、年来の恩義がある石田三成との関係である。嫡男・三胤を大坂に残していたこともあり、三成方に与する心情があったことは想像に難くない 6 。第二に、豊臣政権下で与力関係にあった佐竹義宣との協調である。三成と親しい義宣が東軍への積極的な加担をためらったため、それに歩調を合わせたのである 9 。そして第三に、地理的な状況である。隣接する上杉領へ家臣の進言により小規模な攻撃(月夜畑の戦い)は仕掛けたものの、これは家康への明確な忠誠を示す軍功とは見なされなかった 5 。
義胤の武士としての矜持を最も象徴するのが、伊達政宗の領内通過を許可した逸話である。会津征伐のため大坂から急ぎ帰国途中の政宗は、上杉領に阻まれ、やむなく相馬領の通過を願い出た。家臣の中には、長年の宿敵を討ち取る絶好の機会だと進言する者もいた。しかし、義胤は「助けを求めている者を討つは武門の誉れにあらず」と一蹴し、政宗一行の安全な通過を許したのである 2 。この決断は、損得勘定を超えた、義胤の義を重んじる武士道精神の現れであった。
しかし、この「義理」に根差した行動は、関ヶ原で勝利した家康が構築する新たな政治的「現実」の前では通用しなかった。関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的勝利に終わると、義胤の態度は西軍への加担と見なされた。慶長7年(1602年)、佐竹氏が出羽秋田へ減転封されると、それに連座する形で、相馬氏はついに所領没収、すなわち改易という最も厳しい処分を言い渡された 3 。豊臣政権下で生き残るために築いた人間関係と、武士としての美学が、徳川の世では仇となった。相馬家は、ここに断絶の淵に立たされたのである。
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いにおける中立的態度を咎められ、相馬家は改易という絶望的な宣告を受けた。鎌倉時代以来、数百年にわたり守り抜いてきた所領を失い、家門断絶の危機に瀕した。しかし、ここから相馬家は奇跡的な復活劇を演じる。それは、嫡男・利胤の不屈の交渉、徳川家重臣の理解、そして宿敵・伊達政宗の意外な助力が複雑に絡み合った結果であった。
改易の報に、父・義胤は失意のうちに、秋田へ転封される佐竹義宣から提示された一万石の分領を受け入れようとした。だが、これに猛然と反対したのが嫡男の三胤であった。「今、飢寒を凌ぐために佐竹の旗下となるは、末代までの恥辱である」と父を説得し、自ら江戸へ赴き、徳川将軍家に直接嘆願する道を選んだ 24 。彼はまず、恭順の意を明確に示すため、石田三成から拝領した「三胤」の名を「蜜胤」と改めた(後に幕閣の重鎮・土井利勝から一字を賜り「利胤」となる)。
江戸に着いた蜜胤は、家康の側近中の側近である本多正信に接触を図った。彼は訴状の中で、石田三成との関係はあくまで豊臣政権への取次を頼むためのものであり、決して三成に与したわけではないこと、そして今後は徳川家譜代の家臣同様に忠誠を尽くすことを、神文(誓約書)を添えて誓った 2 。この蜜胤の理路整然とした訴えと覚悟に、本多正信は心を動かされた。「相馬父子は勇猛で、その言葉に偽りはない。これを許せば、必ずや忠義の臣となるであろう」と、家康・秀忠親子に強く執り成したのである 30 。
そして、この復活劇に決定的な役割を果たしたのが、生涯の宿敵であったはずの伊達政宗であった。政宗は徳川家に対し、「相馬氏は長年の敵であったが、私が急ぎ帰国する際には、旧怨を忘れて領内の通過を許してくれた。累代の弓矢の家を断絶させるのは惜しい」と述べ、相馬家の助命を嘆願した 2 。この行動は、単に領内通過の恩義に報いるという「武士の情け」だけでなく、高度な政治的計算も含まれていたと考えられる。強大な仙台藩の南に、恩を売った相馬家を緩衝地帯として存続させることは、幕府の直接的な介入を避け、対外的な度量の大きさを示す上でも、政宗にとって戦略的な意味を持っていた。
これらの多角的な働きかけが功を奏し、慶長7年(1602年)10月、改易は撤回され、利胤を新当主とすることで、相馬家は奇跡的に旧領を安堵された 2 。この一連の出来事は、後に本多忠勝の機転で利胤が江戸城での競馬に勝利し、その恩賞として所領安堵を勝ち取ったという逸話を生み、これが競馬用語「大穴」の語源になったとも伝えられている 5 。
以下の表は、この奇跡的な本領安堵が、複数の要因の複合的な作用によって成し遂げられたことを示している。
表1:相馬家本領安堵の要因分析
| 要因 | 具体的内容 | 影響度評価 | 関連史料・逸話 |
| :--- | :--- | :--- | :--- |
| 嫡男・利胤の活動 | 江戸での直接交渉、改名による恭順の意の表明、訴状の提出。 | 高 | 『藩翰譜』、訴状の内容 25 |
| 本多正信の執り成し | 家康・秀忠への強力な説得、利胤の訴えの正当性を保証。 | 高 | 『相馬藩世紀』2 |
| 伊達政宗の助命嘆願 | 領内通過の恩義を理由とした嘆願。武門の名家存続を訴える。 | 中〜高 | 『藩翰譜』、口伝 28 |
| 徳川幕府の対奥州政策 | 強大な伊達藩への牽制として、相馬家を存続させる戦略的価値。 | 中 | 状況からの推察 31 |
| 本多忠勝の機転(逸話) | 競馬での勝利を恩賞に結びつける。奇跡的な回復劇を象徴する物語。 | 低(逸話として) | 『中泉記』、「大穴」の語源 5 |
改易の危機を乗り越え、相馬家は近世大名として新たな一歩を踏み出した。その礎を築いたのは、奔走した嫡男・利胤であったが、その背後には、戦国の世を生き抜いた老将・相馬義胤の静かな、しかし確固たる存在があった。彼の晩年は、一族の安泰を見届ける最後の務めに捧げられた。
慶長17年(1612年)、義胤は正式に家督を利胤に譲り、泉田(現在の浪江町)に隠居した 5 。しかし、彼の武人としての魂が衰えることはなかった。慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」では、出陣途中に病に倒れた利胤に代わり、68歳という高齢にもかかわらず急遽戦陣に駆けつけている 5 。
平穏な隠居生活は長くは続かなかった。寛永2年(1625年)、藩政の基礎を固めつつあった利胤が、父に先立って45歳の若さでこの世を去る 2 。家督を継いだのは、わずか6歳の孫・虎之助(後の18代当主・相馬義胤)であった。義胤は再び歴史の表舞台に呼び戻され、幼い当主の後見役として、隠居の身ながら藩政に深く関与し、相馬家の屋台骨を支え続けた 2 。
一方、当主となった利胤は、改易のきっかけとなった牛越城を「不吉な城」として廃し、居城を一旦小高城へ戻した 2 。そして慶長16年(1611年)、新たに中村城を築城し、藩庁を移転。ここに相馬中村藩が名実ともに成立した 24 。利胤は、京の都を模した碁盤目状の城下町を整備し、現在まで続く伝統工芸「相馬駒焼」を奨励するなど、優れた藩政手腕を発揮し、名君として評価されている 24 。
孫の成長を見届け、藩の行く末が定まったことを見届けたかのように、寛永12年(1635年)11月16日、義胤は中村城で静かに息を引き取った。享年88、戦国乱世を駆け抜け、時代の激動を見届けた、大往生であった 3 。
その最期は、彼の生涯を象徴する逸話として語り継がれている。遺言により、義胤の亡骸は甲冑をまとわされ、その顔は生涯の宿敵・伊達氏が治める仙台の方角、すなわち北を向いて埋葬されたという 2 。それは単なる怨念や憎しみではない。生涯をかけて渡り合った好敵手への敬意の念と、死してなお相馬家を北の脅威から守り続けんとする、一人の武将としての最後の執念の現れであったと言えよう。
相馬義胤の生涯を総括する時、その評価は多岐にわたる。奥州の覇権争いという観点から見れば、彼は伊達政宗という時代の寵児の前に、最終的にその野望を阻まれた「敗者」であったかもしれない。しかし、歴史の評価軸を「領土拡大」から「家名存続」へと転換する時、彼の姿は全く異なって見えてくる。
武将として、義胤は間違いなく一流であった。国力で数倍する伊達氏を相手に、半世紀近くにわたって一歩も引かず、時には大勝を収めるほどの武勇と不屈の精神を誇った 31 。また、伊達包囲網を形成するために佐竹氏や蘆名氏と巧みに連携するなど、外交的手腕にも長けていた 5 。彼の存在そのものが、政宗の南奥州統一を遅らせ、その戦略に多大な影響を与え続けたのである。
一方で、彼の最大の美点であった武士としての義理や誇りを重んじる姿勢は、時代の転換期において、家を危機に陥れる要因ともなった。関ヶ原での中立は、石田三成への恩義や佐竹氏との同盟を優先した結果であり、武士道精神に則った行動であったが、徳川の世という新たな政治的現実の前では通用しなかった。
しかし、義胤の真の歴史的価値は、この最大の危機を乗り越え、一族を近世大名として後世に残した点にある。これは嫡男・利胤の獅子奮迅の働きによるところが大きいが、その根底には、義胤が生涯をかけて築き上げた人間関係と、敵である政宗にさえ「武門の誉れ」として認めさせた不屈の姿勢があった。戦国乱世から江戸時代への大転換期を生き延び、大名家として家名を存続させることは、多くの大大名でさえ成し遂げられなかった偉業である。この意味において、義胤は「敗者」ではなく、類稀なる「生存者(サバイバー)」として高く評価されるべきである。
地元では「外天公(がいてんこう)」として親しまれ、「女子供を人質には取れぬ」と語った武士道精神 5 や、伊達氏との数々の戦いの物語は、今なお語り継がれている 2 。相馬家の象徴である神事「相馬野馬追」は、義胤の時代も当然行われており、慶長7年(1602年)の野馬追の祝宴の最中に改易の報が届いたという逸話は、彼の波乱に満ちた生涯を劇的に物語っている 34 。
相馬義胤は、奥州の片隅で、時代の巨大な奔流に抗い、屈することなく戦い続けた武将であった。その生涯は、家の存続という一点に全ての情熱を注ぎ込んだ、一人の男の執念の記録であり、後世に生きる我々に、困難に立ち向かうことの尊さを静かに、しかし力強く語りかけている。