石川忠総(いしかわ ただふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、譜代大名である。徳川家康の重臣大久保忠隣の次男として天正10年(1582年)に生まれ、後に家康の命により外祖父にあたる石川家成の家を継いだ 1 。その生涯において、美濃大垣藩、豊後日田藩、下総佐倉藩、そして近江膳所藩と、複数の藩の藩主を歴任し、それぞれの地で治績を残した。また、大坂の陣での武功や、加藤忠広改易に伴う熊本城接収といった幕府の重要任務にも携わり、武将としての側面も顕著である。さらに、『石川忠総留書』という貴重な史料を後世に遺し、茶の湯や和歌にも通じた文化人としての一面も持ち合わせていた 2 。
本報告書は、石川忠総の生涯を、その出自と家系、藩主としての経歴、関わった歴史的事件、徳川将軍家との関係、文化活動、そして子孫に至るまで、現存する史料に基づいて多角的に詳述し、その歴史的意義を考察することを目的とする。
石川忠総は、天正10年(1582年)に誕生した 1 。実父は徳川家康の宿老として幕政の中枢を担った大久保忠隣である 1 。忠隣は、徳川政権初期において大きな権勢を誇ったが、後に失脚することになる。この父の栄枯盛衰は、忠総の人生にも少なからぬ影響を与えることとなった。
忠総は、徳川家康の命により、母方の祖父である石川家成の養子となった 1 。これは、家成の嫡子であった石川康通が戦死したため、あるいは康通に嗣子がいなかったため、家成流石川家を継承させる目的であったとされる 5 。養子入りの時期については、慶長5年(1600年)との記録がある 7 。
この養子入りは、単なる家督相続の問題に留まらず、より広範な政治的背景があったと考えられる。徳川家康の「命」によるという点は、これが個人の意思を超えた、幕府の戦略的判断であったことを示唆している 1 。大久保家も石川家も、徳川家にとっては重要な譜代大名の家系であり、両家の結びつきを強固にし、勢力バランスを調整する意図があった可能性が考えられる。さらに、実父である忠隣が後に本多正信らとの政争の末に失脚することを鑑みれば 1 、もし忠総が大久保家の籍のままであったならば、連座の危険性は非常に高かったであろう。家康が忠隣の将来的な危うさを予見し、有能な忠総を石川家に入れることでその才能を保全し、かつ石川家の血脈を確実に存続させようとした深謀遠慮があったのかもしれない。これは、家康の人物眼と長期的な家臣団統制戦略の一端と見ることができる。
石川氏の出自は清和源氏義時流とされ、古くから松平氏(後の徳川氏)に仕えた名門であった 9 。養祖父の石川家成は、徳川家康の主要な合戦に従軍し、特に関ヶ原の戦いでは東軍として戦功を挙げ、美濃大垣において3万石(資料によっては5万石ともされる 10 )を与えられた人物である 5 。忠総は、この家成流石川家の家督を継ぎ、3代目の当主となった 1 。
忠総の正室は、出雲松江藩の藩祖であり、有力な外様大名であった堀尾吉晴の娘・古屋姫である 9 。この婚姻により、石川家は堀尾家という有力な外様大名家と姻戚関係を結ぶことになった。
子には、嫡男の石川廉勝(かどかつ)、次男の石川総長(ふさなが)、七男の石川総氏(ふさうじ)など、複数の男子と女子がいたことが確認されている 12 。
特筆すべきは、堀尾家との二重の姻戚関係である。忠総自身が堀尾吉晴の娘を娶っただけでなく、その嫡男である廉勝が堀尾忠晴(吉晴の子)の娘を妻に迎えている 14 。これは意図的な二世代にわたる縁組であり、譜代大名である石川家が有力外様大名である堀尾家と結んだ戦略的な同盟関係と見ることができる。このような関係は、幕府内における石川家の立場強化や情報網の拡大に寄与した可能性がある。また、外様大名の動向が注視される中で、情報収集や万一の際の緩衝材としての役割も期待されたかもしれない。さらに、茶の湯などの文化的な交流も促進されたであろう。
しかし、嫡男の廉勝は家督を継ぐことなく慶安3年(1650年)に47歳で早世した 15 。そのため、石川家の家督は廉勝の子、すなわち忠総の孫にあたる石川憲之によって継承されることとなる 7 。
表1 石川忠総 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠 |
天正10年(1582年) |
大久保忠隣の次男として誕生 |
1 |
慶長5年(1600年)頃 |
石川家成の養子となる |
7 |
慶長14年(1609年) |
美濃大垣藩主となる |
1 |
慶長18年(1613年) |
大垣城の総堀を普請 |
16 |
慶長19年(1614年) |
実父・大久保忠隣改易。一時駿府に幽閉されるも許され、大坂冬の陣に従軍し戦功を挙げる |
1 |
慶長20年(元和元年、1615年) |
大坂夏の陣に従軍し戦功を挙げる |
1 |
元和2年(1616年) |
豊後日田藩へ6万石で移封(九州初の譜代大名) |
2 |
寛永9年(1632年) |
加藤忠広改易に伴い、熊本城接収の上使を務める |
2 |
寛永10年(1633年) |
下総佐倉藩へ7万石で移封 |
17 |
寛永11年(1634年) |
近江膳所藩へ7万石で移封 |
1 |
慶安3年(1650年)12月24日 |
近江膳所にて死去(享年69) |
1 |
石川忠総は、その生涯において複数の藩の藩主を務め、各地で治績を残した。彼の藩主としての経歴は、江戸幕府初期における譜代大名の役割と配置戦略を反映している。
表2 石川忠総 藩主歴一覧
藩名 |
国 |
石高 |
在任期間 |
典拠 |
美濃大垣藩 |
美濃国 |
5万石 |
慶長14年(1609年)~元和2年(1616年) |
1 |
豊後日田藩 |
豊後国 |
6万石 |
元和2年(1616年)~寛永9年(1632年) |
2 |
下総佐倉藩 |
下総国 |
7万石 |
寛永10年(1633年)~寛永11年(1634年) |
17 |
近江膳所藩 |
近江国 |
7万石 |
寛永11年(1634年)~慶安3年(1650年) |
1 |
注:大垣藩の石高については3万石説もある 5 。日田藩は当初5万石で、後に1万石加増された 2 。
慶長14年(1609年)、石川忠総は家督を相続し、美濃大垣藩5万石(あるいは3万石)の藩主となった 1 。大垣は中山道の要衝であり、軍事的に重要な拠点であった。
特筆すべき治績の一つに、慶長18年(1613年)に行った大垣城の総堀普請がある 16 。関ヶ原の戦いにおいて西軍の主要拠点の一つであった大垣城は 16 、この普請によって城郭全体が堀で囲まれ、防御機能が格段に向上し、要害堅固な城郭へと変貌を遂げた 16 。この時期は豊臣家との最終決戦である大坂の陣(慶長19年~20年)を目前に控えており、依然として天下の情勢が不安定な時期であった。大垣城の戦略的重要性を深く認識していた忠総の判断と、来るべき戦いに備えて重要拠点の守りを固めようとする幕府の意向が合致した結果と考えられる。この総堀普請は、単なる城の改修に留まらず、地域の軍事バランスにも影響を与えるものであり、忠総が幕府の戦略の一翼を担う実行者として信頼されていたことを示している。
また、忠総は藩士の武芸向上にも意を用い、稲富流砲術の達人であった名川直俊(後に忠総の許可を得て稲富直家を名乗る)を召し抱え、砲術の指南役とした記録が残っている 20 。
大坂の陣での戦功が認められ、元和2年(1616年)には豊後日田へと転封されることとなった 2 。
元和2年(1616年)、石川忠総は1万石を加増され、豊後日田6万石の藩主として入封した 2 。これは、外様大名が多く配置されていた九州において、初めての譜代大名の配置であり、その歴史的意義は大きい 2 。当時の九州には島津氏、鍋島氏、細川氏(加藤氏改易後)といった有力な外様大名が割拠しており、幕府はこれらの大名を監視し、統制下に置く必要があった 21 。譜代大名である忠総の日田への配置は、九州における幕府権力の浸透と中央集権化を推進するための重要な布石であった。日田が九州のほぼ中央に位置し、交通の要衝であったことも、この配置の戦略性を物語っている。忠総がこの重要な役割の初代藩主として選ばれたことは、彼に対する幕府の信頼の厚さを示すものであった。
日田においては、小川光氏が月隈山に築いた丸山城を「永山城」と改称し、その城下町であった丸山町も「永山町」と改めて整備を行った 22 。この永山町が、後の天領日田の中心地である豆田町の基礎となった。また、永山町の西には、石川家の菩提寺として大超寺を創建している 22 。
この豊後日田藩主時代には、豊後への往来を記した紀行文『忠総院豊後往来紀行』を著したとされ、彼の文化人としての一面を伝えている 23 。
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩52万石の大大名であった加藤忠広が改易されるという大事件が発生すると、忠総は水野勝成らと共に熊本城の受け取り上使という重任を務めた 2 。これは幕府からの絶大な信頼の証左であった。
寛永10年(1633年)、石川忠総は豊後日田より7万石をもって下総佐倉藩へ移封された 2 。佐倉は江戸に近く、利根川水系を抑える戦略的要地であった。
しかし、佐倉藩主としての在任期間はわずか1年であり、翌寛永11年(1634年)には近江膳所藩へと再び転封された 2 。このような短期間での転封は、江戸時代初期の譜代大名にはしばしば見られる事例であり、幕府が全国支配体制を固める過程で、適材適所の人事配置や、特定の大名が一箇所に土着して強大な勢力を持つことを防ぐ意図があったと考えられる。佐倉から膳所への転封は、石高こそ同じ7万石であったが、膳所は京に近く、琵琶湖水運と西国街道の結節点に位置する、より一層軍事的・交通的に重要な拠点であった 25 。忠総の能力が、この更に重要な膳所の統治に求められたと解釈することができよう。具体的な転封理由は史料からは明確に読み取れないものの、将軍徳川家光の政権運営における人事戦略の一環であった可能性が高い。
寛永11年(1634年)、石川忠総は7万石をもって近江膳所藩の初代藩主として入部した 1 。これが忠総にとって最後の任地となる。
膳所藩の領地は、近江国の栗太郡、滋賀郡、高島郡、甲賀郡、浅井郡、伊香郡と、遠く離れた河内国の錦部郡、石川郡、丹南郡にまたがる分散したものであった 19 。このような「飛び地」を持つ領有形態は、幕府が大名領を一円的に集中させず、その支配力を相対化しようとした政策の現れとも考えられる。これにより、藩の財政運営や家臣団の配置は複雑化するものの、一方で特定地域における大名の権力基盤の強化を抑制する効果があった。
藩政に関する具体的な検地や年貢政策についての詳細な史料は乏しいものの 26 、藩主として安定した統治を行ったと推測される。
文化面では、茶陶として名高い「膳所焼」の隆盛に大きく貢献したことが特筆される 2 。実父・大久保忠隣が古田織部門下の大名茶人であったことや、忠総自身も当代一流の文化人であった小堀遠州と親交が深かったことが、その背景にあると考えられる 3 。忠総の指導と庇護のもと、膳所焼は「遠州七窯」の一つに数えられるまでに発展し、その名は全国に知られるようになった。しかし、忠総が慶安3年(1650年)に死去し、後継の石川憲之が伊勢亀山藩に移封されると、膳所焼は急速に衰退したと伝えられており 3 、このことは膳所焼の発展における忠総個人の影響力の大きさを物語っている。
慶安3年(1650年)12月24日、石川忠総は近江膳所において、69年の生涯を閉じた 1 。
石川忠総は、藩主としての行政手腕のみならず、武将としてもその能力を発揮し、江戸幕府初期の重要な歴史的事件に関与している。
慶長19年(1614年)、忠総の実父である大久保忠隣が改易されるという事件が起こった。忠隣の増長、幕府の許可を得ない縁組、側近であった大久保長安の不正事件への連座疑惑、そして本多正信・正純親子ら政敵との対立などが複雑に絡み合った結果とされる 8 。
この事件は忠総にも影響を及ぼし、一時は駿府に幽閉される身となった。しかし、最終的には「石川の家督相続人であり忠隣の縁座に掛からない」として許された 1 。これは、徳川家康の命による石川家への養子入りが、結果的に忠総を危機から救ったことを示唆している。大久保忠隣の改易は、徳川幕府初期における譜代大名間の権力闘争と、将軍権力の確立過程を象徴する出来事であった。忠総がこの危機を乗り越えられたのは、単に「石川姓」であったという理由だけでなく、養子縁組を命じた家康自身の意向、忠総個人の資質、あるいは石川家そのものの幕府内での立場などが総合的に作用した結果であろう。この経験は、忠総のその後の慎重かつ忠実な行動規範に影響を与えた可能性も否定できない。
実父・忠隣の改易という困難な状況にあったにもかかわらず、石川忠総は許されて大坂の陣に従軍し、武功を挙げている 1 。
大坂冬の陣においては、徳川方として参戦し、慶長19年(1614年)11月29日には蜂須賀至鎮らと共に大坂城南方の阿波座・土佐座を攻略するという戦功を立てた 1 。翌年の大坂夏の陣においても同様に戦功を挙げたと記録されている 1 。
これらの戦功は幕府に高く評価され、その後の加増や、豊後日田という戦略的要地への転封に繋がったと考えられる 1 。
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩52万石の大大名であった加藤忠広(加藤清正の子)が改易されるという、江戸幕府初期における重大事件が発生した。この際、石川忠総は幕府の上使の一人として、水野勝成らと共に熊本城の接収およびその後の処理という極めて重要な任務を命じられた 2 。
大大名の改易と城地の接収は、一歩間違えれば大規模な混乱を引き起こしかねない繊細かつ困難な任務であり、これを遂行するには軍事的な能力と行政手腕、そして何よりも幕府からの絶対的な信頼が不可欠であった。忠総がこの大役を任されたことは、彼が幕閣から高く評価されていたことを示している。
石川忠総の生涯は、徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍と深く関わっていた。譜代大名としての彼の立場は、将軍家との個人的な繋がりによっても支えられていた。
石川忠総の石川家への養子入りは、徳川家康自身の命によるものであった 1 。この事実は、忠総が幼少の頃から家康にその存在を認識されていた可能性を示唆する。また、実父の大久保忠隣や養祖父の石川家成は、いずれも家康の側近として重用された人物であり、その縁からも家康との繋がりは深かったと考えられる。
忠総が後世に遺した最も重要な業績の一つである『石川忠総留書』には、本能寺の変後における徳川家康最大の危機の一つ、「神君伊賀越え」に関する詳細な記述が含まれている。忠総自身はこの伊賀越えには参加していないが、父・大久保忠隣が家康に同行しており、その見聞に基づいて記されたとされるこの記録は、一次史料に乏しい伊賀越えの実態を伝える貴重な史料として高く評価されている 4 。
二代将軍徳川秀忠からも、石川忠総は信任を得ていた。その証左として、秀忠から偏諱(「忠」の字)を授けられていることが挙げられる 34 。偏諱の授与は、主君と家臣の間に特別な主従関係、一種の擬制的親子関係にも似た強固な絆を形成する意味合いがあり、将軍からの特別な信頼と寵愛の証であった。これは、忠総が秀忠政権下においても重要な位置を占めていたことを示している。実父・大久保忠隣の失脚という危機があったにもかかわらず、秀忠が忠総に偏諱を与えていることは、忠総個人の能力や忠誠心、あるいは石川家としての価値が将軍に認められていたことを強く示唆しており、忠総が幕閣で活躍を続けることができた背景の一つと考えられる。
三代将軍徳川家光の治世下においても、石川忠総は引き続き重用された。豊後日田から下総佐倉へ、さらに近江膳所へと、石高を伴う転封を重ねているのは、家光政権下でのことであった 2 。また、前述の加藤忠広改易に伴う熊本城接収の上使に任じられたのも、家光の治世における出来事である 2 。
さらに、忠総の子たちも将軍家に近侍しており、例えば七男の石川総氏は徳川家光に拝謁し、家光の嫡男である家綱(後の四代将軍)に仕えている 12 。これらの事実は、石川家が代々将軍家から信頼を得ていたことを示している。
石川忠総は、武将や藩主としての実務能力に長けていただけではなく、茶の湯、和歌、書画といった多岐にわたる分野で高度な文化的素養を身につけた「文武両道」の人物であった。
石川忠総の名を後世に最も知らしめているものの一つが、彼が著したとされる『石川忠総留書』(いしかわただふさ とめがき)である。この留書には、徳川家康の「神君伊賀越え」に関する詳細な記述が含まれており、一次史料が少ないこの事件を研究する上で不可欠な史料となっている 4 。忠総自身は伊賀越えに直接参加していないものの、父の大久保忠隣をはじめとする伊賀越えに深く関与した近親者からの情報に基づいて記述されたと考えられており、その信憑性は高いと評価されている 4 。この貴重な記録は、国立公文書館に所蔵されている 3 。
忠総は茶の湯にも深い造詣を持っていた。実父の大久保忠隣が古田織部門下の大名茶人であったこと、そして忠総自身も当代一流の文化人であった小堀遠州と親交が深かったことが、その背景にあると考えられる 3 。近江膳所藩主時代には、その文化的素養を活かして「膳所焼」の育成に尽力し、これを「遠州七窯」の一つに数えられるまでに発展させた 2 。
和歌においても、忠総は優れた才能を示した。公家である中院通村から古今伝授の秘事の一つである「古今三箇の秘事」を伝授されるなど、専門的な知識も有していた 23 。後水尾天皇の勅命により和歌を詠進し、賞されたという逸話も残っており、その実力は高く評価されていたことが窺える 23 。また、当時の代表的な和歌集である『正木のかつら』にも、忠総の作品が収められている 23 。
豊後日田藩主時代には、その往来を記した紀行文『忠総院豊後往来紀行』を著したとされ、これも彼の和歌や古典に対する教養の深さを示すものである 23 。
さらに、書画の分野においても、重要文化財に指定されている「大江山絵詞」(和泉市久保惣記念美術館蔵)の制作に関与したことが知られている。詞書を記した山科言緒の日記によって制作経緯が辿れる貴重な作品であり、忠総が文化活動のパトロンとしても役割を果たしていたことを示している 2 。
これらの活動は、単なる趣味の域を超え、当時の大名としての理想像の一つである「文武両道」を体現するものであった。忠総の豊かな教養は、藩の文化振興(特に膳所焼)に繋がっただけでなく、朝廷を含む広範な人々との交流においても重要な役割を果たし、彼自身の人間的な幅を示すと同時に、藩主としての威信を高める効果もあったと考えられる。
石川忠総は、近江膳所藩主在任中の慶安3年(1650年)12月24日に、69歳でその生涯を閉じた 1 。法名は忠総院日観と伝えられている 9 。
忠総の死後、石川家の家督は、早世した嫡男・廉勝 15 に代わり、孫の石川憲之(のりゆき)が継承した。憲之の母は堀尾忠晴の娘であり、堀尾家との縁は続いていた 14 。憲之は慶安4年(1651年)、膳所から伊勢亀山藩へ移封となり 3 、以降、石川家は伊勢亀山藩主として明治維新まで存続することになる 7 。
忠総の子孫たちは、本家が伊勢亀山藩主として続いたほかにも、多様な形で家名を繋いでいった。次男の石川総長(ふさなが)の系統は、後に常陸下館藩主(2万2千石)となり、明治維新後は子爵家となっている 41 。河南町の白木陣屋を築いたのは、この総長であるとされている 42 。
また、七男の石川総氏(ふさうじ)は、母が堀尾吉晴の娘であり、江戸幕府の旗本となった 12 。総氏は三河国額田郡保久村に陣屋を構え、4000石を領したことから、その家系は「保久石川家(ほっきゅういしかわけ)」と呼ばれ、明治維新まで旗本として続いた 12 。総氏は徳川家綱に仕え、小姓頭などを務めている。
このように、忠総の子孫たちは、本家が大名として存続する一方で、分家が別の藩を立藩したり、旗本として幕府に直参したりするなど、複数の系統がそれぞれ異なる形で家名を維持し、発展させていった。これは、江戸時代の大名家における家門維持と繁栄の一つの典型的なパターンを示している。忠総が築き上げた幕府との信頼関係や、堀尾家との姻戚関係などが、子孫たちのその後のキャリアにも好影響を与えた可能性が考えられる。特に、旗本として分家を立てることは、幕府への忠誠を示すとともに、幕政への影響力を保持する手段でもあった。
石川忠総の生涯は、実父・大久保忠隣の次男という出自から始まり、徳川家康の命による石川家相続、実父の失脚という危機を乗り越え、大坂の陣での武功、そして譜代大名として美濃大垣、豊後日田、下総佐倉、近江膳所と各地の藩主を歴任し、それぞれの地で藩政に手腕を発揮した輝かしいものであった。特に、大垣城の総堀普請や日田における永山城と城下町の整備、膳所における膳所焼の振興などは、具体的な治績として評価される。
武将としては、大坂の陣での戦功や、加藤忠広改易に伴う熊本城接収の上使という重任を遂行したことなどから、その軍事的能力と実務能力の高さが窺える。
文化人としては、『石川忠総留書』という歴史的に極めて価値の高い史料を後世に遺した功績が大きい。特に、徳川家康の伊賀越えに関する記述は、この事件を研究する上で欠かすことのできないものとなっている。また、和歌や茶の湯にも通じた教養人であり、膳所焼の育成に見られるように、文化振興にも貢献した。
徳川幕府への貢献という観点からは、譜代大名として、特に九州初の譜代大名としての役割や、度重なる転封を通じて幕府の全国支配体制の確立に寄与した点が挙げられる。
総じて石川忠総は、江戸幕府初期の激動の時代において、武将として、藩主として、そして文化人として多方面にわたり活躍し、徳川政権の安定と発展に貢献した重要な人物であったと評価できる。その生涯は、当時の武士の生き方や、幕藩体制の確立過程を理解する上で、現代の我々にも多くの示唆を与えてくれる。