戦国時代の土佐国にその名を刻んだ武将、秦泉寺泰惟(じんぜんじ やすこれ)。彼の人物像は、一般に「長宗我部元親の家臣として初陣で槍の使い方を指南し、後に農民との争いを起こして元親の怒りを買い、討伐された」と語られることが多い。しかし、この一見明快な物語は、歴史の潮流の中で二人の異なる人物の生涯が絡み合い、融合して形成された伝承である可能性が極めて高い。この混同こそが、秦泉寺一族をめぐる歴史の理解を複雑にし、その悲劇の本質を見えにくくしている根源と言える。
本報告書は、この歴史的混同を丹念に解きほぐすことを主眼とする。具体的には、元親の師として知られる「秦泉寺豊後守泰惟(じんぜんじ ぶんごのかみ やすこれ)」と、その後に秦泉寺城主となり同じく誅殺の運命を辿った「中島大和守親吉(なかじま やまとのかみ ちかよし)」、通称「秦泉寺大和(じんぜんじ やまと)」という、二人の人物の生涯と悲劇をそれぞれ独立して、かつ相互に関連付けながら描き出す。この作業を通じて、長宗我部元親という戦国大名の家臣団統制と領国支配の実態、そしてその人物像の多面性を浮き彫りにすることを目的とする。
読者の理解を助けるため、本稿で中心的に扱う主要人物の関係性を以下に整理する。
【表1】本報告書で扱う主要人物の整理
人物 |
通称・官途名 |
長宗我部元親との主な関わりと結末 |
秦泉寺 泰惟(やすこれ) |
豊後守(ぶんごのかみ) |
元親の初陣(長浜戸合戦)で槍術を指南した師。父・掃部が起こした土佐一宮との領地争いに連座し、父子共に元親の命で誅殺されたとされる 1 。 |
秦泉寺 茂景(しげかげ) |
掃部(かもん) |
泰惟の父。元は本山氏方だったが長宗我部国親に降る。土佐一宮の郷民との争論において、元親の裁定に背き、一族誅殺の原因を作った 1 。 |
中島 親吉(ちかよし) |
大和守(やまとのkami) |
長宗我部家臣。秦泉寺氏粛清後、秦泉寺城主となり「秦泉寺大和」と名乗る。天正16年(1588年)、農民との私闘を理由に元親の怒りを買い、誅殺された。これにより秦泉寺城は廃城となる 4 。 |
この伝承の複合化という現象は、単なる歴史上の誤解ではない。むしろ、史実が軍記物語や口承によって語り継がれる過程で、いかに変容し、再構築されるかを示す典型的な事例である。共通の「場所(秦泉寺城)」、共通の「原因(農民との争い)」、そして共通の「結末(元親による誅殺)」という三つの要素が、本来は別個である二つの悲劇を、後世の記憶の中で一つのより劇的で分かりやすい物語へと収斂させたと考えられる。本報告書では、この「伝承の複合化」という現象そのものにも光を当て、単なる事実の訂正に留まらない、歴史の語られ方についての高次の考察を目指すものである。
秦泉寺泰惟の悲劇を理解するためには、まず彼の一族が根を下ろした「秦泉寺」という土地の歴史的背景と、そこに拠った秦泉寺氏の成り立ちを把握する必要がある。
「秦泉寺」という地名は、古代にまでその起源を遡ることができる。高知市秦地区に存在する「秦泉寺廃寺跡」は、発掘調査により飛鳥時代末(白鳳期)の7世紀末頃に創建されたと推定される古代寺院の跡である 7 。この寺院は土佐国土佐郡では唯一の古代寺院であり、この地域が古くから政治的・文化的な要地であったことを示している 7 。さらに、出土した瓦の系統などから、この寺院の建立に渡来系の有力氏族である秦氏が関与した可能性が指摘されており、「秦泉寺」の名の由来に歴史的な深みを与えている 7 。
戦国時代、この地にそびえたのが秦泉寺城である。この城の築城は鎌倉時代に遡り、源氏の一族である吉松播磨守光義によるものと伝えられる 5 。すなわち、秦泉寺氏が歴史の表舞台に登場する以前から、この地が軍事的な要衝として認識されていたことがわかる。
やがて、この城を拠点とする土佐の国人領主として秦泉寺氏が登場する。彼らは当初、土佐中部に勢力を誇った本山氏の傘下にあった 2 。しかし、東方から長宗我部国親(元親の父)が勢力を拡大してくると、その力関係は大きく変動する。弘治2年(1556)、国親は秦泉寺城を攻略し、城主であった秦泉寺掃部茂景(しげかげ)を降伏させた 2 。これにより、秦泉寺氏は長宗我部家の家臣団に組み込まれることとなったのである。
この秦泉寺氏の帰属は、単なる一豪族の服属以上の戦略的な意味を持っていた。地理的に見て、秦泉寺は長宗我部氏の拠点である岡豊城と、宿敵・本山氏の勢力圏との間に位置する緩衝地帯であり、同時に前線基地でもあった。国親が秦泉寺城を制圧したことは、本山氏との全面対決に先立ち、背後の安全を確保し、敵の本拠地を窺うための重要な足掛かりを得たことを意味する。事実、この後、長宗我部氏は本山氏との決戦である長浜戸合戦へと突き進んでいくのであり 10 、秦泉寺氏の動向は、土佐の勢力図を塗り替える上で決定的な一歩だったのである。
永禄3年(1560年)5月、長宗我部氏と本山氏の雌雄を決する長浜戸(とのもと)の合戦が勃発した 10 。この戦いは、当時22歳であった長宗我部元親にとって、待ち望んだ初陣であった。それまでの元親は、色白で物静かな風貌から家中では「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され、その武将としての器量を疑問視する声も少なくなかった 12 。この初陣は、彼の評価を決定づける極めて重要な一戦であった。
この歴史的な戦いの直前、元親の武将としての覚醒を促す象徴的な逸話が、軍記物である『元親記』や『土佐物語』に記されている。出陣に際し、元親は槍の扱い方すら知らず、家臣である秦泉寺豊後守泰惟にその要諦を尋ねたという 1 。泰惟はこう答えたと伝えられる。「槍は敵の目と鼻を突くように狙い、大将たる者は、いたずらに先駆けして功を焦るものではなく、かといって臆病に遅れをとるものでもありません」と 12 。
元親はこの教えを忠実に守り、いざ戦端が開かれると、自ら槍を手に五十騎ほどの兵を率いて敵陣に突入し、見事に敵兵を突き崩した 3 。その戦いぶりは、それまでの「姫若子」という柔弱なイメージを完全に覆すものであり、人々は畏敬の念を込めて彼を「鬼若子(おにわこ)」と呼ぶようになった 12 。
この槍術指南の逸話は、単なる武術指導の記録として捉えるべきではない。むしろ、元親という英雄の「誕生譚」として、極めて象徴的な意味を持つ物語として読み解くべきである。『元親記』は元親の家臣であった高島孫右衛門によって著されたとされ 3 、主君の正当性とカリスマ性を後世に伝える意図が色濃く反映されている。この逸話は、元親が天性の武才を持ちながらも、決して驕ることなく家臣の的確な助言を素直に聞き入れる度量をも兼ね備えていたことを示し、理想的な君主像を描き出している。その中で、秦泉寺泰惟は、未熟な若者が師との出会いを経て英雄へと覚醒する物語の、重要な触媒(カタリスト)としての役割を担っているのである。元親の輝かしい武将としての第一歩は、師である泰惟の存在なくしては語れない。そして、この輝かしい出発点こそが、後に訪れる泰惟自身の悲劇的な最期を、より一層際立たせることになる。
長宗我部元親の師として、その初陣を輝かしい勝利に導いた秦泉寺泰惟であったが、彼の運命は予期せぬ形で暗転する。その引き金となったのは、秦泉寺氏の領地で発生した一つの争論であった。
時期は明確ではないが、長浜合戦の後、秦泉寺氏の領民と、隣接する土佐郡一宮の郷民との間で、水利権か領地の境界をめぐる争いが起こり、一宮側の郷民が殺害されるという事件が発生した 1 。一宮とは、土佐国で最も格式の高い神社である土佐神社のことであり、地域の精神的支柱ともいえる存在であった。元親自身も、土佐統一の過程で荒廃した土佐神社の社殿を再建するなど、その権威を重んじ、手厚く保護していた 17 。
この重大な事件に対し、一宮の神官たちは元親に裁定を求め、犯人である秦泉寺の農民を引き渡すよう要求した 1 。領主として、また一宮の保護者として、元親はこの要求を認め、泰惟の父である秦泉寺掃部茂景に犯人の引き渡しを厳命した。しかし、掃部は自領の農民を庇い、主君である元親の命令を拒否するという挙に出たのである 1 。
この行為は、元親の逆鱗に触れた。主君の裁定に対する公然たる反逆と見なされ、元親はただちに中島親吉に命じ、秦泉寺掃部・豊後守泰惟の父子を誅殺したと伝えられている 1 。かつて「鬼若子」の誕生を助けた師は、その「鬼若子」の手によって、一族もろとも滅ぼされるという悲劇的な結末を迎えた。
この粛清は、単に元親の個人的な怒りによるものと解釈すべきではない。むしろ、戦国大名として領国支配の根幹を確立しようとする過程で直面した、二つの重大な挑戦に対する、冷徹な政治的・法的判断の結果であったと見るべきである。
第一に、土佐一宮という宗教的権威への挑戦である。掃部の行動は、元親が一貫して進めてきた対一宮融和政策を根底から覆し、領国全体の精神的な安定を損なうものであった。元親にとって、一宮の面子を立て、その権威を認めることは、領国統治上不可欠であった。
第二に、より重要なのは、大名権力そのものへの挑戦である。戦国大名は、領内の私的な紛争(喧嘩)を禁じ、その裁定権を自らに一元化することで、絶対的な支配者としての権威を確立しようとした。その基本法理が、後に『長宗我部元親百箇条』にも「喧嘩口論堅く停止の事、理非に寄らず双方成敗すべし」と明記される「喧嘩両成敗」の原則である 18 。これは、争いの理由の如何を問わず、実力行使や公的な裁定への不服従といった行為そのものを罪とし、大名以外の者が武力や独自の判断で問題を解決することを禁じるものであった 19 。掃部が元親の裁定を拒否した行為は、この大名の司法権への真っ向からの挑戦であり、これを許せば他の在地領主(国人)たちへの示しがつかず、家臣団の統制が崩壊する危険性を孕んでいた。
したがって、秦泉寺父子の誅殺は、宗教的権威との関係維持と、大名としての法的権威の確立という二つの側面から、元親にとっては不可避の決断であった。かつての師とその子を、法の下に厳しく断罪したこの一件は、元親の非情さを示すと同時に、彼が一個人の感情を超えて、領国を統治する冷徹な戦国大名へと変貌を遂げたことを象徴する事件だったのである。
秦泉寺泰惟・掃部父子の悲劇の後、秦泉寺城とその名をめぐる物語は、別の人物によって引き継がれる。それが中島大和守親吉であり、彼もまた、元親による粛清という同じ運命を辿ることになる。
中島氏は長宗我部氏の支流ともされる一族で 22 、中島大和守親吉は、国親・元親の二代にわたって戦功を重ねた譜代の重臣であった 23 。彼は、秦泉寺氏が粛清された後、その旧領と居城であった秦泉寺城を与えられた 2 。
城主となった親吉は、その地の名を名乗り「秦泉寺大和」と称するようになる 4 。これは、その土地の支配者となったことを内外に明確に示すための、当時の武家の慣習であった。いくつかの史料、例えば『土佐軍記』などによれば、元親の命令を受けて秦泉寺父子を直接手にかけたのが、この中島親吉その人であったとされている 2 。もしこれが事実であるならば、彼は旧城主を討った功績によってその城を与えられたことになり、彼のその後の運命に一層皮肉な影を落とすことになる。
一連の出来事は、戦国大名が領国を支配していく過程で典型的に見られる権力強化策の一環と見なすことができる。長宗我部氏にとって、秦泉寺氏はもともと敵対勢力であった本山氏に属していた外様的な国人領主であった。そのような潜在的な不安要素を持つ一族を排除し、その知行地を信頼の置ける譜代の家臣である中島氏に再配分することによって、元親は秦泉寺地域に対する直接的な支配力を格段に強化した。これは単なる懲罰や恩賞という次元を超え、家臣団の序列を再編し、大名への忠誠度を基準に領地を再分配するという、極めて合理的かつ効果的な統治行動だったのである。
しかし、秦泉寺城の新たな主となった中島大和の治世もまた、悲劇によって幕を閉じる。天正16年(1588年)、彼は元親の怒りを買い、その子である掃部(奇しくも先代城主の父と同じ官途名である)と共に誅殺されてしまった 4 。そして、この粛清の後、秦泉寺城は完全に放棄され、同年に編纂が始まった『長宗我部地検帳』には、すでに「荒城」として記されている 5 。
注目すべきは、この粛清の理由が、表向きには「農民の私闘のこと」と記録されており、先の秦泉寺氏の事件と酷似している点である 6 。しかし、この二つの事件の背景には、大きな違いがあった可能性が高い。
この粛清が行われた天正16年(1588年)という時期が、その鍵を握る。これは、元親が最も信頼し、将来を嘱望していた嫡男・長宗我部信親が、豊臣秀吉の九州征伐における戸次川の戦いで戦死(天正14年、1586年末)した、わずか1年あまり後のことである 13 。信親の死は元親に計り知れない衝撃を与え、多くの史料が、これを境に元親の性格が大きく変わったことを示唆している。愛息を失った悲しみは彼を苛み、猜疑心が異常なまでに強くなった。そして、後継者問題に異を唱えた一門の重鎮である吉良親実や比江山親興らを次々と粛清するなど、その治世は恐怖政治的な側面を色濃く帯びていく 25 。
このような状況を鑑みると、中島大和の誅殺は、先の秦泉寺泰惟父子のケースとは根本的に性質が異なると考えられる。泰惟の事件が、領国統治法に基づく合理的(しかし冷徹な)政治判断であったのに対し、中島大和の事件は、信親の死という個人的な悲劇によって精神の均衡を失った元親の、猜疑心と恐怖心に基づいた衝動的な粛清であった可能性が浮かび上がる。中島大和は譜代の功臣であり、元親の命令に背くとは考えにくい。酷似した誅殺理由は、単なる口実に過ぎなかったのではないか。同時期に他の重臣までもが次々と粛清されている事実と合わせれば、これは個別の事件ではなく、元親の統治スタイルそのものが、信親の死を境に変質してしまったことの悲劇的な表れと見るべきであろう。中島大和は、主君の個人的な悲劇が政治へと波及した結果の、犠牲者だったのである。
本報告書で解明してきたように、一般に「秦泉寺泰惟」という一人の人物に集約されてきた伝承は、実際には二つの異なる悲劇から成り立っている。一つは、長宗我部元親の台頭期を支えた槍の師「秦泉寺豊後守泰惟」とその一族の悲劇。もう一つは、元親の治世後期、その支配体制が揺らぐ中で起きた功臣「中島(秦泉寺)大和」の悲劇である。
これら二つの事件は、長宗我部元親という一人の戦国大名の生涯における、異なる段階の貌を鮮明に映し出している。
『元親記』に描かれる若き日の元親と泰惟の逸話は、まだ何者でもなかった青年が、家臣の助言に素直に耳を傾け、その才能を開花させていく快活な英雄の姿を我々に見せてくれる 3 。しかし、その師である泰惟父子を、領土紛争を理由に法の名の下に冷徹に粛清した時、彼は私情を排し、権威と法によって領国を支配する非情な戦国大名としての顔を現す。これは、土佐統一という大事業を成し遂げるために不可欠な、支配者としての厳格さの表れであった。
一方で、それから約20年の後に行われた中島大和の粛清は、全く異なる様相を呈する。嫡男・信親を失い、かつての覇気も失せ、豊臣政権下の一大名という立場に甘んじる中で、元親は猜疑心と恐怖に苛まれる一人の人間としての脆さを見せる。譜代の功臣であるはずの中島までもが、先の事件と似たような口実で葬り去られた事実は、彼の統治がもはや合理性だけでは動かされていないことを示唆している。
かくして、秦泉寺氏、そしてその名を継いだ中島氏の二つの悲劇は、単なる家臣の粛清事件という枠を超え、一人の戦国武将が時代の荒波の中で権力を確立し、栄光を掴み、そして個人的な悲劇によってその精神を蝕まれ、衰退していくまでの軌跡を克明に映し出す鏡となっている。若き日の「鬼若子」を育てた師とその一族が、その「鬼若子」の手によって法の下に裁かれ、さらにその後の功臣までもが晩年の猜疑心によって葬り去られるという皮肉な運命は、長宗我部元親という人物が持つ英雄性と、戦国大名としての冷徹さ、そして人間としての弱さという、複雑で多面的な実像を我々に強く示唆しているのである。