序章:稲次右近(重知)とは
稲次右近(いなつぎ うこん)、本名を稲次重知(いなつぎ しげとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将である 1 。丹波国稲次城主・荻野左近の三男として生を受け、播磨の別所長治、豊臣家臣の渡瀬繁詮、そして筑後久留米藩初代藩主となる有馬豊氏に仕え、最終的には久留米藩の家老という重職を歴任した。その生涯は、三木合戦、小牧・長久手の戦い、四国攻め、関ヶ原の戦い、島原の乱といった、戦国時代末期から江戸時代初期に至る日本史上の重要な出来事と深く結びついている。
本報告書は、現存する資料に基づき、稲次右近(重知)の出自、武将としての経歴、主要な合戦における武功、そしてその最期に至るまでの詳細を明らかにすることを目的とする。具体的には、第一章で彼の出自と武士としてのキャリアの出発点について述べ、第二章では豊臣政権下での活動を追う。第三章では、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いにおける彼の役割と、その後の有馬家家臣としての地位に焦点を当てる。第四章では、晩年の島原の乱への従軍と壮絶な最期を詳述し、第五章では彼に関する歴史的評価や遺品について考察する。
稲次右近の生涯を辿ることは、戦国時代の終焉から徳川幕府による新たな支配体制が確立されるまでの、激動の転換期を生きた一人の武士の典型的な軌跡を浮き彫りにする。主家を複数回変えるという経歴は、この時代の武士にとっては決して珍しいことではなかった。主家の滅亡や主君の失脚といった外的要因に翻弄されながらも、自らの武勇や才覚を頼りに新たな仕官先を見出し、家名を存続させようと努める姿は、当時の武士が置かれた厳しい現実を反映している。稲次右近は、別所氏の滅亡後に渡瀬繁詮に、繁詮が秀次事件で改易されると有馬豊氏に仕えているが 1 、これは単なる変節と片付けられるものではなく、主家の運命に自身の進退が左右されるという、当時の武士の宿命的な状況を示している。彼がそれぞれの主家で家老などの要職に就き 1 、特に関ヶ原の戦いでは徳川家康から賞賛され 1 、島原の乱では幕府首脳に戦法を進言するなど 1 、その能力が一貫して高く評価されていた事実は、彼が単に運良く生き残ったのではなく、確かな実力によって自らの道を切り開いた人物であったことを物語っている。これは、激動の時代における武士の生存戦略と立身出世の様相を考察する上で、重要な視点を提供するものである。
第一章:出自と初期の経歴
1.1. 誕生と家系
稲次右近(重知)は、永禄2年(1559年)、丹波国稲次城主であった荻野左近の三男として誕生した 1 。稲次氏の名字の由来と考えられる「稲次」という地名は、京都府船井郡京丹波町に現存しており 2 、この地が稲次氏の本拠地であった可能性が高い。父である荻野左近が稲次城主であったとされるが 1 、荻野氏の具体的な系譜や、当時丹波で勢力を誇った赤井氏(「丹波の赤鬼」と称された荻野(赤井)直正などが知られる 3 )との詳細な関係性については、提供された資料からは直接的な情報を得ることはできない。しかし、稲次右近が丹波地方の国人領主層の出身であったことは確かである。
三男という立場は 1 、彼が家督を継承する可能性が低く、自らの武功や才覚によって身を立てる必要があったことを強く示唆している。戦国時代において、嫡男以外の子は、他家への養子縁組、主君への仕官による新たな家の創設、あるいは僧籍に入るなど、多様な道を歩むことが一般的であった。稲次右近のその後の経歴は、まさに実力主義が色濃い戦国乱世において、自らの力で道を切り開いた武士の姿を反映していると言えるだろう。当時の武家社会の慣習として、家督は長男が継承するのが原則であり、三男であった重知が父の稲次城を継ぐことは通常期待されなかった。このため、彼は若くして自らの活躍の場を外部に求める必要に迫られたと考えられ、最初の仕官先が播磨の別所長治であったことは 1 、丹波という地理的条件や当時の周辺勢力との関係性の中で、彼が選択した、あるいは選択し得た道筋であったと推測される。
1.2. 三木合戦への従軍と別所氏の滅亡
天正6年(1578年)、稲次右近は播磨国三木城主・別所長治の配下として、織田信長軍(総大将は羽柴秀吉、後の豊臣秀吉)との間で繰り広げられた三木合戦に籠城側として参加した 1 。この戦いは、織田軍による兵糧攻め、いわゆる「三木の干殺し」として知られ、長期にわたる過酷な籠城戦となった。天正8年(1580年)、別所長治の自刃によって三木城は落城し、戦いは終結する。この際、稲次右近は敵将であった羽柴秀吉によって許され、命を繋ぐことができた 1 。
若き稲次右近にとって、三木合戦における敗北と主君の死は、戦の厳しさ、そして武士の世の非情さを身をもって体験する強烈な出来事であったに違いない。しかしながら、敵将であった羽柴秀吉に許されたことは、彼のその後の運命を大きく左右する重要な転機となった。この経験は、彼が後の人生で主家を変えながらも武士として生き抜いていく上で、精神的な基盤を形成し、また、状況判断能力を養う上で少なからぬ影響を与えた可能性がある。三木合戦は、織田信長の中国方面攻略における重要な戦いの一つであり、その凄惨さは多くの記録に留められている。籠城兵であった稲次右近が生き延び、さらに敵将であった秀吉から赦免を得た背景には 1 、彼の武勇や将来性を見込まれたのか、あるいは何らかの有力な人物による取りなしがあったのか、その詳細は不明である。しかし、この赦免がなければ、彼のその後の武将としての活躍はあり得なかったであろう。
第二章:豊臣政権下での活動
2.1. 渡瀬繁詮への仕官とその経緯
三木合戦後、稲次右近は豊臣秀吉の命により、渡瀬繁詮(わたせ しげあき)の家臣となった 1 。渡瀬繁詮は、豊臣秀次(秀吉の甥で、後に関白となる人物)に仕えた武将である。この時期、稲次右近は小牧・長久手の戦いや四国攻めといった、豊臣秀吉が天下統一を進める上での主要な合戦に従軍し、軍功を挙げたと記録されている 1 。これらの戦功が、後の彼の地位向上に繋がったことは想像に難くない。
2.2. 遠江国横須賀城代および家老としての活動
主君である渡瀬繁詮が遠江国横須賀城(現在の静岡県掛川市)の城主となると、稲次右近は1500石の知行を与えられ、家老に任ぜられた 1 。家老という役職は、主君の領国経営や軍事において中心的な役割を担う重職であり、この抜擢は稲次右近の能力が主君から高く評価されていたことを明確に示している。
2.3. 主君・渡瀬繁詮の改易と有馬豊氏への再仕官
文禄4年(1595年)、豊臣政権内で大きな政変である「秀次事件」が発生した。この事件により、渡瀬繁詮は豊臣秀次への連座を疑われ、改易(領地没収および武士の身分剥奪)という厳しい処分を受けることとなった 1 。主君を失った稲次右近であったが、繁詮の義理の弟にあたる有馬豊氏(ありま とようじ)に仕えることになった 1 。有馬豊氏もまた、豊臣秀吉に仕えた武将であり、この渡瀬氏と有馬氏の姻戚関係が、稲次右近の再仕官に繋がったと考えられる。
秀次事件は、豊臣政権の安定性を揺るがす大事件であり、多くの武将がその影響を直接的、間接的に受けた。主君・渡瀬繁詮の改易は、家老であった稲次右近にとっても、失職とそれに伴う浪人の危機を意味するものであった。しかし、有馬豊氏という新たな主君を見出すことができたのは、彼自身の武将としての能力に加え、渡瀬氏と有馬氏の間に存在した姻戚関係という人脈が作用した結果である可能性が高い。戦国時代から江戸時代初期にかけての武士にとって、主家の盛衰は常に付きまとうリスクであり、それを乗り越えて家名を存続させるためには、個人の実力と共に、こうした縁故や人脈が極めて重要な意味を持っていたのである。渡瀬繁詮が豊臣秀次の麾下であったことから、秀次失脚の影響を直接受けた形となり、その後の稲次右近のキャリアにおいて、この主君の乗り換えは極めて重要な局面であった。有馬豊氏が繁詮の義弟であったという関係性が、比較的スムーズな再仕官を可能にしたと考えられ、これは単に能力があるだけでなく、人間関係や縁故が当時の武士のキャリアパスに大きく影響したことを示す好例と言えるだろう。
第三章:関ヶ原の戦いと有馬家家臣として
3.1. 関ヶ原の戦いにおける稲次右近の動向
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突する、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発した。稲次右近の主君である有馬豊氏は東軍に与し、稲次右近も有馬軍の一員としてこの歴史的な戦いに参戦したものと考えられる 1 。
この戦いにおいて、稲次右近は西軍の将・石田三成の家臣であった横山監物(よこやま けんもつ)を討ち取るという具体的な武功を挙げたと記録されている 1 。この功績は特筆すべきものであり、その結果、稲次右近は東軍の総大将であった徳川家康から直接賞賛を受けたとされる 1 。これは、彼の武勇が当代随一の権力者にも認められたことを意味し、戦後の有馬家中における彼の立場をより一層強固なものにしたと推測される。
関ヶ原の戦いは、豊臣政権から徳川幕府へと時代が大きく転換する決定的な戦いであった。主君・有馬豊氏が東軍に与するという判断は、結果として有馬家の存続とその後の発展に繋がり、その家臣であった稲次右近の運命にも好影響を与えた。横山監物を討ち取ったという具体的な戦功は、稲次右近が単に勇猛であっただけでなく、戦場の状況を的確に捉え、好機を逃さなかった戦術眼の持ち主であったことを示唆しているのかもしれない。徳川家康からの賞賛は、彼の武名を高めると同時に、有馬家の東軍への貢献度を内外に示す効果があったであろう。有馬豊氏の東軍参加は、当時の多くの大名と同様に、将来を見据えた政治的判断であった。その中で稲次右近が石田三成配下の武将である横山監物を討ち取ったという記録は 1 、彼の個人的な武勇を示す重要なエピソードである。徳川家康からの賞賛は、単なる儀礼的なものではなく、戦功に対する正当な評価であり、有馬豊氏の家康に対する忠誠を具体的に示した家臣の功績として、有馬家全体の評価にも繋がった可能性がある。
3.2. 久留米藩家老としての稲次右近
関ヶ原の戦いの後、有馬豊氏は東軍に与した戦功により、丹波福知山から筑後国久留米21万石へと大幅に加増移封された。稲次右近も主君に従い久留米へ移り、久留米藩の家老として引き続き有馬家に仕えた 1 。新たな領地における藩政の確立期において、稲次右近が家老として重要な役割を果たしたことは想像に難くない。実際に、久留米藩の藩士に関する資料には「稲次」という姓が見受けられ 5 、彼の子孫も引き続き久留米藩士として存続し、家名を伝えたと考えられる。
丹波国出身の稲次右近にとって、遠く離れた九州の久留米という新天地で藩の重職を務めることは、大きな挑戦であっただろう。しかし、彼が家老として重用され続けたという事実は、その行政手腕や主君への忠誠心が高く評価されていたことを示している。彼の子孫が久留米藩士として続いたことは、稲次右近が有馬家において確固たる地位を築き、その功績が認められた結果であると言える。有馬豊氏が久留米という大藩の初代藩主となった際、その藩政の基盤固めには有能な家臣団の存在が不可欠であった。稲次右近が家老としてその一翼を担ったことは 1 、彼が軍事面における能力だけでなく、統治能力においても主君から深い信頼を得ていたことを示唆している。
第四章:島原の乱と最期
4.1. 高齢での出陣と戦術進言
寛永14年(1637年)、九州において大規模なキリシタン一揆である島原の乱が勃発した。この時、稲次右近(当時は稲次壱岐とも称したか)は、永禄2年(1559年)生まれであることから計算すると79歳という高齢であったが、主君である久留米藩主有馬豊氏(あるいはその子・忠頼)の軍勢に従い、この鎮圧戦に出陣した 1 。
その豊富な戦経験を買われ、彼は幕府軍の総大将格であった老中・松平信綱ら首脳陣に対して戦法を進言したと伝えられている 1 。これは、老いてなおその戦術眼や武将としての経験が、幕府の中枢を担う人物からも一目置かれていたことを示すエピソードである。
4.2. 乱中での戦死
寛永15年(1638年)、島原の乱における戦闘の最中に、稲次右近は戦死を遂げた 1 。享年80歳であった。久留米市教育委員会所蔵の「銀独拝兜由緒書」には、稲次壱岐(右近)が80歳で島原の乱に出陣し、鉄砲の弾が命中したことが原因で陣中で没したと記されており 6 、彼の具体的な死因が鉄砲傷であったことが伝えられている。
79歳という高齢で、しかも既に徳川幕府による治世が安定しつつあった「元和偃武」後の時代に、危険な戦場へと赴き、そこで命を落とした稲次右近の最期は、まさに武士としての本分を生涯貫き通した壮絶なものであったと言える。彼の死は、戦国乱世を生きた古強者(ふるつわもの)の矜持と、時代の移り変わりを象徴しているかのようである。松平信綱への戦術進言は、単なる老兵の経験談としてではなく、長年の実戦経験に裏打ちされた実質的な助言であった可能性が高く、彼の戦術家としての一面を最後まで示している。特に 6 の記述は、彼の死因を鉄砲傷と具体的に伝えており、これが事実であれば、彼は最前線に近い場所で指揮を執っていたか、あるいは自ら戦っていた可能性も示唆される。江戸時代初期における最大規模の内乱であった島原の乱は、多くの戦国時代を知る武将たちにとって、文字通り最後の戦場となった。稲次右近の最期は、その中でも特に印象深いものの一つとして記憶されるべきであろう。
第五章:稲次右近(重知)に関する考察と遺産
5.1. 武将としての総合評価
稲次右近(重知)は、その生涯を通じて複数の主君に仕えるという、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士としては決して珍しくない経歴を持つ。しかし、その各々の仕官先において軍功を挙げ、家老という要職を歴任した事実は、彼が単に武勇に優れていただけでなく、統率力、政治的判断力、そして主君や同僚からの信頼を得る人間性を兼ね備えていたことを示している。
関ヶ原の戦いにおける徳川家康からの直接の賞賛や 1 、島原の乱における老中松平信綱への戦術進言といったエピソードは 1 、彼の能力が時の最高権力者や幕府中枢の人物にも認められていた証左と言えるだろう。これらの事実は、彼が単なる一地方の武将に留まらず、中央の政局や軍事にも影響を与えうる人物であった可能性を示唆している。
5.2. 伝世する遺品とその意義
福岡県久留米市教育委員会には、稲次壱岐(右近)所用と伝えられる「銀箔押烏帽子形兜」およびその「銀独拝兜由緒書」が所蔵されている 6 。これらの遺品は、稲次右近という武将が実在し、特に有馬家において重要な家臣であったことを具体的に示す貴重な歴史資料である。
兜の由緒書に「稲次壱岐」と記されていることは、彼が「壱岐」という通称でも知られていたことを裏付けており、これは 1 や 1 といった文献資料の記述とも一致する。このような具体的な物証の存在は、文献史料だけでは得られないリアリティを人物像に与える。
「銀箔押烏帽子形兜」という特徴的な兜は、稲次右近の武将としての個性や美意識を反映している可能性がある。また、こうした武具が大切に保管され、由緒書と共に現代に伝えられていること自体が、彼が子孫や旧主家である有馬家中で記憶され、敬意を払われていたことの現れと考えられる。遺品は、文献史料が語ることの少ない、人物の個人的な側面や、後世における評価を読み解く手がかりとなる。特に、 6 に記される由緒書が天明6年(1786年)に稲次成興(子孫か)によって記されていることは、江戸時代中期に至るまで、稲次家内部で彼の事績が語り継がれていたことを明確に示している。これは、彼が有馬家において単なる一過性の家臣ではなく、その後の家中に少なからぬ影響を残した人物であったことを示唆している。
5.3. 史料における「右近」の識別と歴史研究における注意点
「右近」という通称は、右近衛府の官職に由来するなど、武士の間で比較的広く用いられた呼称である。そのため、歴史史料中に「右近」という名が登場した場合、それが直ちに稲次重知本人を指すのか、あるいは同時代や異なる時代の別の「右近」という人物なのかを慎重に吟味する必要がある。
例えば、 7 に掲載されている慶長年間の大谷吉継関連文書には、江良浦(現在の福井県敦賀市周辺か)の年貢米や塩年貢に関する請状の宛先である河上半左衛門尉と共に「右近」という名が見える。この文書が作成された年代(慶長年間)、文書の内容(大谷吉継領内の年貢徴収)、そして関連する地名(江良浦)を総合的に考慮すると、この「右近」は稲次重知ではなく、大谷吉継の領国経営に関わっていた現地の代官や有力者、あるいは大谷吉継配下の別の人物である可能性が極めて高いと判断される。この時期、稲次重知は有馬豊氏の家臣であり、その活動の拠点も異なる。
稲次右近(重知)のような特定の歴史的人物について調査を行う際には、名前や通称だけで安易に同一人物と判断することを避けなければならない。史料が作成された年代、史料の背景、関連する他の人物や出来事などを総合的に比較検討する「史料批判」の視点が不可欠である。これにより、誤った情報の混入を防ぎ、より正確な歴史像を構築することが可能となる。これは、歴史研究における基礎的ながらも極めて重要な作業プロセスである。
終章:まとめ
稲次右近(重知)の生涯の総括
本報告書では、丹波国の国人領主の子として生を受け、戦国乱世の荒波を乗り越え、最終的には江戸時代初期の久留米藩家老として大成し、80歳という高齢で島原の乱の戦塵に散った武将・稲次右近(重知)の生涯を、現時点で入手可能な資料に基づいて概観した。彼の人生は、主家の変遷、数々の戦への参加、そして新時代への適応という、この時代を生きた多くの武士に共通する要素と、彼自身の際立った武勇や才覚によって彩られている。別所氏、渡瀬氏、そして有馬氏と主君を変えながらも、それぞれの家で重用され、特に有馬家では家老として藩政にも関与し、その生涯を全うした。
歴史的意義と後世への影響
稲次右近(重知)は、歴史の表舞台で華々しい活躍を見せるタイプの武将ではなかったかもしれないが、主家を忠実に支え、困難な時代を実力で生き抜いた堅実な武士であったと言える。関ヶ原の戦いにおける武功や、島原の乱での壮絶な最期は、彼の武人としての矜持を雄弁に物語っている。また、彼の子孫が久留米藩士として続いたことは、彼が仕えた有馬家において確固たる信頼を得ていたことの証であり、地方史における一武家の足跡として記憶されるべきである。彼のような、いわゆる「名将」の陰に隠れがちな人物の生涯を丹念に追うことは、戦国時代から江戸時代初期への移行期を生きた武士たちの多様な生き様や、彼らが直面した現実をより深く理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。彼の存在は、激動の時代を生き抜いた無数の武士たちの、一つの確かな記録として価値を持つ。
補遺
1. 稲次右近(重知)関連年表
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
1559年 |
永禄2年 |
1歳 |
丹波国稲次城主・荻野左近の三男として誕生。 |
1 |
1578年 |
天正6年 |
20歳 |
三木合戦において別所長治の配下として籠城。 |
1 |
1580年 |
天正8年 |
22歳 |
別所長治の切腹後、豊臣秀吉に許され、秀吉の命により渡瀬繁詮の家臣となる。 |
1 |
(不明) |
(不明) |
― |
小牧・長久手の戦い、四国攻め等で軍功を挙げる。 |
1 |
(不明) |
(不明) |
― |
渡瀬繁詮が遠江国横須賀城主となると1500石を与えられ家老に任ぜられる。 |
1 |
1595年 |
文禄4年 |
37歳 |
渡瀬繁詮が秀次事件に連座し改易されると、その義弟にあたる有馬豊氏の家臣となる。 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
42歳 |
関ヶ原の戦いにおいて石田三成の家臣・横山監物を討ち取り、徳川家康に賞賛される。 |
1 |
(1600年以降) |
(慶長年間) |
― |
有馬豊氏の久留米移封に従い、久留米藩家老となる。 |
1 |
1637年 |
寛永14年 |
79歳 |
島原の乱に高齢ながら出陣し、幕府軍首脳陣の松平信綱等に戦法を進言する。 |
1 |
1638年 |
寛永15年 |
80歳 |
島原の乱の最中に戦死する。 |
1 |
2. 稲次右近(重知)呼称一覧表
呼称 |
読み |
典拠 (Snippets) |
備考 |
稲次 重知 |
いなつぎ しげとも |
1 |
本名 |
宗雄 |
そうゆう |
1 |
改名後 |
右近 |
うこん |
1 |
通称 |
壱岐 |
いき |
1 |
通称、特に有馬家臣時代や遺品に関連して使用 |
三六 |
さんろく |
1 |
通称 |
半兵衛 |
はんべえ |
1 |
通称 |