私は日本の封建史、特に戦国時代から江戸初期を専門とする博士号を持つ研究者であり、その緻密な学術的研究と格調高い日本語の文章には定評があります。
稲葉道通に関する調査報告書
序章:稲葉道通という武将
本報告の目的と対象:稲葉道通(いなば みちとお)は、織豊政権末期から江戸幕府初期という、日本の歴史における大きな転換期に活動した武将であり、伊勢国に所領を有した大名である。彼の生涯は、戦国の気風が色濃く残る時代から、近世的な幕藩体制へと移行する過渡期と重なり、その動向は当時の政治状況や武士の生き様を考察する上で興味深い事例を提供する。本報告では、現存する史料に基づき、稲葉道通の出自、豊臣政権下での活動、関ヶ原の戦いにおける役割、伊勢田丸藩主としての事績、そして彼にまつわる逸話や人物像を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。
史料上の注意点:稲葉道通に関する一次史料は豊富とは言えず、その生涯や事績の多くは、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』や『藩翰譜』などの二次史料、あるいは地域の伝承を記録した文献に依拠する部分が少なくない。これらの史料は、編纂者の意図や時代の価値観が反映されている可能性があり、特に人物評価や事件の解釈については慎重な吟味が必要となる。例えば、道通の甥にあたる牧村牛之助の殺害疑惑など、彼の人格に関わる逸話については、複数の史料を比較検討し、客観性を期すことが肝要である。本報告では、これらの史料的制約を念頭に置きつつ、可能な限り多角的な視点から稲葉道通という武将の生涯を再構築することを試みる。
第一章:出自と家系
稲葉道通の生涯を理解する上で、まず彼の生きた時代背景と、彼が属した稲葉氏の系譜、そして家族構成を把握することが不可欠である。
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生誕と死没
稲葉道通は、元亀元年(1570年)に美濃国(現在の岐阜県)で生を受けた 1。その生涯は、織田信長の天下布武が進展し、豊臣秀吉による天下統一、そして徳川家康による江戸幕府の開府という、まさに激動の時代と重なる。彼は、慶長12年12月12日(西暦1608年1月29日)、38歳という若さでその生涯を閉じた 1。この比較的早い死は、彼自身のキャリアだけでなく、彼が興した伊勢田丸藩稲葉家の将来にも大きな影響を与えることとなる。
道通の通称は勘右衛門といい、初名は重一、後に通茂とも名乗ったと伝えられる 2。また、諱の「道通」は「みちとお」の他に「つねみち」とも読まれた可能性がある 1。彼の死後、富春院普岩寿趙という戒名が贈られ 2、その亡骸は京都府京都市右京区花園妙心寺町の臨済宗大本山妙心寺の塔頭である雑華院に葬られた 2。特筆すべきは、この雑華院が道通の実兄である牧村利貞によって開基された寺院であるという点である 3。兄が開いた寺に弟とその子(稲葉紀通)までもが葬られているという事実は、後述する牧村家から稲葉道通家への権力移行があった後も、兄弟間、あるいは両家間の一定の関係性が、少なくとも形式的には維持されていた可能性を示唆している。あるいは、利貞の菩提を弔うという名目と、自らの権威を示す場としての意味合いも、道通がこの寺を墓所として選んだ背景にあったのかもしれない。
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稲葉氏の系譜
稲葉道通の家系を遡ると、戦国時代に名を馳せた武将たちに行き着く。祖父は稲葉良通、通称を一鉄といい、斎藤氏に仕えた後、織田信長に臣従し、安藤守就、氏家卜全と共に「美濃三人衆」の一人に数えられた著名な武将である 4。
父は稲葉重通(しげみち)である。重通は良通(一鉄)の庶長子として生まれ、父同様、織田信長、そして豊臣秀吉に仕えた 4。天正16年(1588年)に父・一鉄が没すると、美濃国清水城主となり、1万2千石の遺領を継いだ 4。晩年には秀吉の側近である御伽衆の一員となっている 4。この父・重通が秀吉の御伽衆であったという事実は、道通が豊臣政権内でキャリアをスタートさせる上で、少なからず有利に働いた可能性がある。御伽衆という立場は、秀吉への直接的な進言や情報入手の機会に恵まれることを意味し、子の道通が兄・利貞の遺領を相続する際など、豊臣政権中枢の判断が関わる場面で間接的に寄与したと推察される。
道通の母は、吉田浄忠の娘と記録されている 2。また、叔父には稲葉貞通(さだみち)がいた。貞通は重通の異母弟にあたり 4、関ヶ原の戦いでの功績により豊後国臼杵藩の初代藩主となった人物である 6。道通の家系とは別に、稲葉氏の有力な分家を形成し、その血脈は江戸時代を通じて存続した。
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家族構成
稲葉道通の兄弟姉妹関係は、当時の武家の慣習や家督相続問題を考える上で興味深い。実兄には牧村利貞がおり、彼は牧村政倫の養子となっている 2。次兄は稲葉通重 2、三兄の宗甫は僧籍に入ったとされている 2。『寛政重修諸家譜』においては、婿養子となった稲葉正成(後述する春日局の夫)が道通の兄弟の四男の位置に記載され、道通自身は五男として扱われているが 2、一般的には重通の四男とされることが多い。長兄が他家へ養子に出ており、三兄が僧籍に入っているという状況は、家督相続の可能性を実質的に次兄・通重と道通に絞る状況を生み出していた。道通が兄・利貞の遺領を継承することになった背景には、こうした家族構成も影響した可能性が考えられる。
姉妹には、稲葉正成の最初の室となった人物、石河備後守室、種田正状室がいた 2。そして特筆すべきは、後に三代将軍徳川家光の乳母として絶大な影響力を持つことになる春日局(福)が、重通の養女として稲葉家に迎えられ、稲葉正成の継室となっていたことである 2。これにより、春日局は道通の義理の姉妹にあたる。春日局が幕府内で権勢を振るったことは、道通の死後、その子である稲葉紀通の代には何らかの好影響を与えた可能性も考えられる。しかし、結果として紀通が改易処分となっている事実を踏まえると 9、春日局の庇護が必ずしも万全ではなかったか、あるいは紀通自身の問題行動がそれを上回るほど深刻であった可能性が示唆される。この点は、紀通の人物像や改易の真相を探る上で重要な論点となる。
道通の正室は、日根野盛就(または重之)の娘であった 2。子女としては、嫡男で後に田丸藩を継承する稲葉紀通(のりみち)2、船越永景の継室となった女子、そして譜代大名である阿部忠秋の正室となった女子がいたことが確認できる 2。その他にも数人の子がいたとされる 2。娘が幕閣の重鎮である阿部忠秋に嫁いでいる点は、稲葉家の家格維持や幕府内での関係構築への配慮がうかがえる。
第二章:豊臣政権下での活動
稲葉道通が歴史の表舞台に登場するのは、豊臣秀吉による天下統一が成り、その政権が安定期に入ろうとする時期である。彼のキャリアは、兄の遺領継承という形で始まり、豊臣政権下の大名として着実に地歩を固めていく。
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兄・牧村利貞の遺領継承と伊勢岩出城主時代
文禄2年(1593年)、道通の人生における最初の転機が訪れる。実兄であり、牧村政倫の養子となっていた牧村利貞(まきむら としさだ、牧村政治とも記される 1)が、文禄・慶長の役の最中に朝鮮半島で病死したのである 10。
利貞には牛之助(うしのすけ、兵丸とも呼ばれ、後に長兵衛尉と称す)という幼少の子がいた 2。通常であれば、この牛之助が家督を継承するのが自然な流れであったが、豊臣秀吉の直接の命令により、利貞の実弟である道通がその遺領(伊勢国岩出城主、石高は2万石 1 とも2万3百石 9 ともされる)を継承することとなった 2。これにより、道通は伊勢岩出城(現在の三重県玉城町岩出に所在、宮川左岸の河岸段丘上に位置した城 13)の城主となり、大名としての第一歩を踏み出した 1。
秀吉の直接命令による相続という事実は、道通が豊臣政権、あるいは秀吉個人から一定の信頼や期待を得ていたことを示唆する。前述の通り、父・重通が秀吉の御伽衆であったという立場が、この相続において有利に働いた可能性も否定できない。しかしながら、正当な後継者である甥を差し置いての相続は、穏当な形とは言えず、後の確執の火種を内包するものであった。この時点ではまだ幼かった牛之助が成長するにつれて、この相続のあり方が問題として再燃することは避けられなかったであろう。
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伏見城普請への貢献と豊臣秀吉からの加増
岩出城主となった道通は、豊臣政権下の大名としての務めを果たしていく。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が自身の隠居後の居城として、また政庁としての機能も持つ壮大な伏見城の築城を開始すると、道通もその工事(普請)に動員された。彼はこの任務において功績を挙げ、秀吉から5千7百石(2)(あるいは5千石余り 1)の加増を受け、同時に豊臣姓を下賜されるという栄誉に浴した 9。
これにより、道通の所領は約2万5千7百石となり、その勢力を拡大した。伏見城普請への参加とそれに伴う加増は、道通が豊臣政権の大名として順調にキャリアを重ねていたことを示すものである。また、豊臣姓の下賜は、秀吉からの信任の証であり、彼が名実ともに豊臣家臣団の一員としての地位を確立したことを意味していた。
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九鬼嘉隆との確執
豊臣政権下で順調に実績を積み上げていた道通であったが、慶長3年(1598年)には、後の彼の運命にも影響を与えることになる出来事が発生する。伊勢湾から熊野灘にかけての海域で強大な水軍力を有していた志摩鳥羽城主の九鬼嘉隆との間で、木材の海上輸送税を巡る紛争が生じたのである 2。
この紛争の裁定は、当時五大老の一人として豊臣政権内で大きな影響力を持っていた徳川家康に委ねられた。家康の裁定の結果、稲葉道通が勝利し、九鬼嘉隆は敗訴した。この一件により、両者の間には遺恨が生じたと伝えられている 2。この時点で家康がこのような領主間の紛争の調停を行っているという事実は、注目に値する。慶長3年8月に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内では急速に権力のバランスが崩れ、家康がその影響力を増していくことになるが、この紛争解決はその過程の一端を示す事例と言えるかもしれない。そして、この時に生じた道通と嘉隆の間の個人的な遺恨が、2年後の関ヶ原の戦いにおいて、両者がそれぞれ東軍と西軍に分かれて敵対する伏線となったことは想像に難くない。家康に有利な裁定を得た道通が家康方の東軍に、そして家康に不満を抱いた可能性のある嘉隆が反家康方の西軍に与するという構図は、当時の武将たちの行動原理を考える上で示唆的である。
第三章:関ヶ原の戦いと伊勢田丸藩の立藩
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成ら反家康派との対立は、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いへと発展する。この戦いは、多くの武将にとって自らの将来を左右する重大な岐路であり、稲葉道通もまた、この歴史的な大戦において重要な役割を果たすこととなる。
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徳川方(東軍)への参加と伊勢方面での戦功
関ヶ原の戦いが勃発すると、稲葉道通は徳川家康が率いる東軍に与することを決断した 1。この選択は、前述の九鬼嘉隆との紛争における家康の裁定や、当時の政治情勢を見極めた上での判断であったと考えられる。
新井白石が編纂した『藩翰譜』によれば、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発した際、道通もこれに従軍していた。しかし、石田三成らが畿内で挙兵(西軍決起)すると、家康は道通に対し、領国である伊勢へ戻り西軍の動きに備えるよう指示したという。道通が伊勢へ帰還する途上、かねてより遺恨のあった九鬼嘉隆の勢力圏を通過する際に銃撃を受けるという危機に遭遇したが、辛くも難を逃れたと記されている 2。このエピソードは、道通が早期から家康と連携し、その指示に基づいて行動していたことを示唆している。
伊勢国に戻った道通は、東軍方として西軍に与した勢力と対峙する。特に、旧怨のある九鬼嘉隆は西軍の主力として伊勢方面で活動しており、両者の激突は避けられない状況であった 2。関ヶ原の本戦に先立ち、各地で前哨戦が繰り広げられたが、伊勢方面もその例外ではなかった。東軍方の富田信高(安濃津城主)と分部光嘉(伊勢上野城主)が、西軍の大軍に攻められて安濃津城に籠城する事態となると(安濃津城の戦い)、道通は岩出城から兵を出し、九鬼嘉隆の家臣である北庄蔵が守る中島砦(伊勢山田付近、現在の伊勢市中島周辺か)を攻撃し、これを攻略した 2。この中島砦の攻略は、伊勢方面における東軍の活動を支援し、西軍の勢いを削ぐ上で重要な戦功であった。
道通にとって、東軍への参加は大きな賭けであったに違いない。しかし、伊勢方面でのこれらの軍事行動は結果的に成功を収め、関ヶ原の本戦における東軍勝利と合わせて、彼のその後の地位を決定づけることになった。九鬼嘉隆との個人的な遺恨も、彼が積極的に東軍として活動する動機の一つであった可能性は高い。
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伊勢田丸藩初代藩主としての地位確立
慶長5年9月15日の関ヶ原の本戦は東軍の圧勝に終わり、徳川家康が天下の実権を掌握した。戦後、論功行賞が行われ、東軍に味方し功績を挙げた諸将には加増や新たな所領が与えられた。稲葉道通もまた、関ヶ原の戦いにおける伊勢方面での戦功が認められ、2万石の加増を受け、伊勢田丸城(現在の三重県玉城町田丸)を与えられた 1。
これにより、道通の所領は従来の約2万5千7百石から合計4万5千7百石となり、伊勢国田丸を本拠とする大名となった。これをもって伊勢田丸藩が立藩し、稲葉道通はその初代藩主としての地位を確立したのである 1。関ヶ原の戦いは、多くの武将にとって文字通り運命の分かれ道であったが、道通は的確な判断と行動によって勝者側に立ち、近世大名としての確固たる基盤を築くことに成功したと言える。
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田丸城の大規模修築と藩政の初期状況
新たな居城となった田丸城に移った稲葉道通は、城の大規模な修築に着手したとされている 10。田丸城は、古くは南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房・顕能親子によって築城され、戦国時代には伊勢国司北畠氏の重要拠点の一つであった。天正3年(1575年)には織田信長の次男・信雄(北畠具豊)が城主となり、三層の天守を築くなど近世城郭としての体裁を整えたが、その後一時荒廃していた 16。道通による修築は、この歴史ある城の軍事拠点としての機能を再び強化し、新たな領主としての権威を示すものであったと考えられる。
一説には、道通は旧領の岩出城を廃城とし、その城郭の主要な建造物や石垣などを田丸城に移築して修築に充てたと伝えられている 16。もしこの伝承が事実であれば、それは効率的な城郭整備の手法であると同時に、当時の技術的側面や経済的合理性を示唆するものである。さらに深読みすれば、旧体制の象徴物(兄・利貞の旧領の中心であった岩出城)を解体し、新体制の礎(新たな拠点である田丸城)とするという意味合いも含まれていたのかもしれない。これは、牧村氏からの完全な独立と、稲葉道通家による新たな支配の始まりを内外に宣言する行為であった可能性も考えられる。
しかしながら、道通が行った藩政の具体的な内容、例えば検地(領内の土地調査と石高の確定)、産業振興策、城下町の整備などに関する詳細な記録は、現時点で参照可能な資料からは確認することが難しい 16。田丸藩主としての道通の治績として主に伝わっているのは、この田丸城の修築である。藩政初期の具体的な記録が乏しい背景には、道通の田丸藩主としての在任期間が約7年と比較的短かったことや、その後の稲葉家が次代で改易となり、藩としての記録が散逸したことなどが影響している可能性が考えられる。
第四章:人物像をめぐる逸話と評価
稲葉道通の生涯を語る上で、彼の功績だけでなく、その人物像に影を落とすいくつかの逸話や、文化財との関わりについても触れておく必要がある。これらは、彼が単なる武功一辺倒の武将ではなく、複雑な側面を持った人物であったことを示唆している。
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甥・牧村牛之助殺害に関する嫌疑と諸説の検討
稲葉道通の人物像を考察する上で、最も暗い影を落とすのが、実兄・牧村利貞の遺児である牧村牛之助(前述の通り、兵丸、長兵衛尉など複数の呼び名がある)の殺害に関する嫌疑である。
諸史料によれば、牛之助が成長し、父・利貞の旧領(道通が継承した岩出城とその所領)の返還を道通に求めたが、道通はこれに応じず、自らの実子である紀通に家督を譲ろうとしたとされる 9。これに不満を抱いた牛之助は、当時の最高権力者である徳川家康に直接訴え出るため、駿府(現在の静岡市)へ向かった。しかし、慶長12年(1607年)7月25日、駿府城築城の人夫に紛れて機会を窺っていたところを、何者かによって殺害されてしまった 2。
この牛之助殺害事件については、道通が送った刺客による犯行であるという説が有力視されている。江戸時代後期の天保13年(1842年)に成立した御巫清直(みかなぎきよなお)による『田丸城沿革考』や、新井白石が編纂した『藩翰譜』といった編纂史料に、そのように示唆する記述が見られる 2。
もしこの疑惑が事実であれば、道通は自家の安泰と実子への確実な家督継承のためには、非情な手段も辞さないという、戦国武将特有の冷徹な一面を持っていたことになる。複数の史料がこの事件に言及していることは、当時からこの疑惑が広く知られていたことを示唆している。
さらに、道通自身が牛之助殺害からわずか半年も経たない慶長12年12月に38歳で急死したため、その死は牛之助の祟りによるものではないかとも噂された 9。この祟りの噂は、この事件が当時の人々に与えた衝撃の大きさと、道徳的・心理的な影響の深さを物語っていると言えよう。
ただし、史料批判の観点からは注意が必要である。『田丸城沿革考』は事件から200年以上後、『藩翰譜』も数十年後の編纂物であり、同時代史料による直接的な裏付けが乏しい点は否めない。しかし、複数の編纂物が同様の説を採録していることは、単なる根も葉もない憶測以上の信憑性を示唆する可能性も考慮すべきである。この事件の真相を完全に究明することは困難であるが、道通の人物評価を左右する極めて重要なポイントであることは間違いない。
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若宮信仰との関連性
牛之助殺害疑惑の信憑性を間接的に補強する可能性のある伝承として、若宮信仰との関連が挙げられる。『玉城町史』によれば、稲葉家は牛之助の怨霊を恐れ、その鎮魂のために城内(田丸城か)に若宮を祀ったとされている。この若宮は後に田丸神社の西の山に移され、下田辺村など近郷の人々の信仰を集めたという記録がある 12。
怨霊を鎮めるための祭祀は、当時の日本社会において広く見られた慣習であり、若宮信仰の存在は、稲葉家、あるいは道通自身が牛之助の非業の死に対して何らかの負い目や畏怖の念を抱いていた可能性を示唆する。これが事実であれば、当時の人々がこの事件をどのように受け止め、対処しようとしたかを示す具体例となり、道通の心理状態や当時の社会通念を垣間見る手がかりとなる。
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文化財との関わり
稲葉道通、あるいは稲葉家に関連する文化財として、いくつかの名品が知られている。
まず、名刀「稲葉志津(いなばしづ)」である。これは、南北朝時代の美濃国の刀工である志津三郎兼氏の作とされ、道通が所持していたことに由来してこの名がついたと伝えられている 2。現存していれば国宝または重要文化財に指定される可能性のある名刀であり、道通の武将としての一面、武備への関心を示す遺物と言える。彼がどのような経緯でこの刀を入手したかは不明だが、当時の武将にとって名刀を所持することはステータスシンボルでもあった。
次に、茶道具との関わりである。稲葉家伝来の名物茶入として「稲葉瓢箪(いなばびょうたん)」が知られている 18。また、国宝として名高い「曜変天目茶碗(稲葉天目)」も、元は稲葉家に伝来したとされる 18。これらの茶道具の存在は、稲葉家が茶の湯文化と深く関わっていたことを示している。
ただし、これらの名物が道通個人の所持であったかについては、慎重な検討が必要である。史料によっては「稲葉家」伝来と記されており 18、道通の父である重通(秀吉の御伽衆であり、茶の湯に触れる機会も多かったと推測される)や、叔父で大名となった貞通など、他の稲葉一族の人物が収集または所持した可能性も十分に考えられる。もし道通自身が茶の湯に親しんでいたとすれば、それは当時の武将の嗜みとして一般的であり、彼の文化的側面を示すものとなるが、現時点の資料からは断定は難しい。
第五章:その死と稲葉道通家のその後
稲葉道通は、関ヶ原の戦いを乗り越え、伊勢田丸藩主として新たなスタートを切ったが、その栄光は長くは続かなかった。彼の早すぎる死は、彼自身だけでなく、彼が築いた稲葉家の運命にも大きな影響を及ぼすことになる。
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伏見における早すぎる死
慶長12年12月12日(西暦1608年1月29日)、稲葉道通は、二代将軍徳川秀忠に従って上洛していた最中、伏見城内において38歳という若さで急死した 1。その死因については詳らかではないが、前述の牧村牛之助殺害事件からわずか半年足らずの出来事であったため、牛之助の祟りではないかという噂がまことしやかに囁かれたという 9。
38歳という若さでの死は、道通自身のキャリアの終焉であると同時に、成立間もない田丸藩稲葉家の将来に暗い影を落とした。彼が上洛中に伏見で亡くなったという事実は、彼が徳川政権下においても中央との繋がりを維持し、大名としての活動を続けていたことを示している。しかし、その死があまりにも唐突であったこと、そして牛之助事件との時間的な近接性が、祟りの噂を生み、後世にまで語り継がれる要因となったのであろう。
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子・稲葉紀通による家督相続と、その後の田丸藩稲葉家の変遷
道通の死後、家督は嫡男の稲葉紀通(いなば のりみち)が継承した。この時、紀通はわずか5歳であった 10。幼少の藩主の誕生は、藩政の不安定化を招きやすい。
その後、稲葉道通家は目まぐるしい変転を辿る。まず、元和2年(1616年)、紀通は伊勢田丸から摂津国中島(現在の大阪市周辺)へ4万5700石で移封された。これにより、道通が興した伊勢田丸藩は一時的に廃藩となった 9。
さらに、寛永元年(1624年)、紀通は摂津中島から丹波国福知山藩(現在の京都府福知山市)へ移封される 9。
しかし、福知山藩主となった紀通は、後世に「狂気の行い」として語り継がれるような行動を繰り返したと伝えられている。例えば、狩猟の獲物が少なかったという理由で、近隣の村民多数(一説には60人)を惨殺したという衝撃的な事件が記録されている 9。また、藩政においても、気に入らない家臣を殺害したり、隣国である丹後国宮津藩主の京極高広と、献上品の鰤(ぶり)を巡って些細なことから深刻な争いを引き起こしたりしたと伝わる 9。
これらの常軌を逸した凶行は、当然ながら江戸幕府の知るところとなり、問題視された。その結果、紀通は幕府から厳しく処断されることとなる。史料によって時期に若干のずれが見られるが、『藩翰譜』などによれば、寛永20年(1643年)8月20日(9)、あるいは慶安元年(1648年)(9)、紀通は福知山城内にて自害を命じられ、あるいは自ら命を絶ったとされる。享年46歳であった。これに伴い、丹波福知山藩稲葉家は改易、すなわち所領没収となり、大名としての家は断絶した 9。
稲葉道通が築き上げた田丸藩稲葉家は、その子である紀通の代で、このような悲劇的な形で終焉を迎えたのである。紀通の「狂気」の原因については諸説あり、断定はできない。幼少で家督を継承したことによる重圧、父・道通による牛之助殺害疑惑という家の暗い過去が精神に影響を与えた可能性、あるいは紀通自身の個人的な資質の問題など、複数の要因が複雑に絡み合っていたのかもしれない。もし、道通の非情な決断(牛之助殺害)が、結果として息子の代での家の断絶に繋がったとすれば、それは歴史の皮肉な巡り合わせと言わざるを得ない。この紀通の改易は、江戸幕府初期における大名統制の厳しさを示す事例の一つとしても捉えることができる。
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墓所:京都妙心寺雑華院
前述の通り、稲葉道通は京都の臨済宗大本山妙心寺の塔頭である雑華院に葬られた 2。3の記述によれば、同院には道通だけでなく、その父・重通、兄・利貞(雑華院の開基)、そして子・紀通の墓も存在するとされる。一族が同じ寺院に葬られていることは、雑華院が稲葉家(あるいは牧村家から続く流れで)の菩提寺としての役割を担っていたことを示している。
終章:稲葉道通の歴史的意義
稲葉道通の生涯とその家系の結末を概観すると、いくつかの歴史的意義が見出される。
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戦国末期から江戸初期における役割
:稲葉道通は、豊臣政権から徳川幕府へと権力が移行する激動の時代において、伊勢国という戦略的に重要な地域を基盤としつつ、中央の政治動向にも深く関与した武将であった。特に、関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦において、的確な状況判断と迅速な行動によって東軍に与し、戦功を挙げたことは、彼が近世大名としての地位を確保する上で決定的な要因となった。この点において、彼は時代の変化に対応し、自らの家を存続させようとした典型的な戦国武将の一人として評価できる。
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人物像の多面性
:一方で、稲葉道通の人物像は一面的ではない。伊勢田丸藩主としての城郭修築などの事績が伝えられる一方で、実の甥である牧村牛之助の殺害に関与したという深刻な疑惑も持たれている。これが事実であれば、彼は自家の安泰のためには非情な手段も厭わないという、戦国乱世の気風を色濃く残した冷徹な側面を持っていたことになる。こうした光と影を併せ持つ人物像は、当時の武将たちが生き残りをかけて繰り広げた権力闘争の厳しさや、倫理観のあり方を反映しているとも言えるだろう。
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後世への影響の限定性
:稲葉道通自身は38歳という若さで早世し、彼が興した伊勢田丸藩稲葉家も、その子である紀通の代で改易という形で断絶してしまった。このため、彼の家系が日本の歴史において長期的な影響を及ぼすことはなかった。しかし、彼が関わった田丸城の大規模修築や、伊勢国南部における一時的な支配体制の確立は、局地的な歴史においては一定の意義を持つ。また、彼にまつわる逸話、特に牛之助殺害疑惑とそれに伴う祟りの伝承は、地域の歴史や人々の記憶の中に刻まれ、後世に語り継がれることとなった。
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史料を通じた考察の重要性
:稲葉道通の生涯や人物像については、断片的な史料や後世に編纂された記録から推測する部分が多い。これらの史料は、それぞれの成立背景や編纂意図を持っており、必ずしも客観的な事実のみを伝えているとは限らない。したがって、稲葉道通のような歴史上の人物を研究する際には、残された史料を批判的に検討し、多角的な視点からアプローチすることの重要性を示唆する好個の事例と言える。彼の生涯は、歴史研究における史料解釈の難しさと面白さを同時に提示している。
附表
附表1:稲葉道通 関連略年表
年代(和暦)
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年代(西暦)
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出来事
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石高(推定)
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典拠
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元亀元年
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1570年
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美濃国にて出生
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―
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1
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文禄2年
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1593年
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兄・牧村利貞の死去に伴い、その遺領を継承。伊勢岩出城主となる。
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約2万石
|
1
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文禄3年
|
1594年
|
伏見城普請の功により、5千7百石加増。豊臣姓を下賜される。
|
約2万5千7百石
|
2
|
慶長3年
|
1598年
|
木材海上輸送税を巡り九鬼嘉隆と紛争。徳川家康の裁定により勝訴。
|
同左
|
2
|
慶長5年
|
1600年
|
関ヶ原の戦い。東軍に属し伊勢方面で戦う。戦後、2万石加増、伊勢田丸城主となる。
|
4万5千7百石
|
1
|
慶長12年7月25日
|
1607年
|
甥・牧村牛之助が駿府で殺害される(道通の関与が疑われる)。
|
同左
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2
|
慶長12年12月12日
|
1608年1月29日
|
伏見にて死去(享年38)。
|
―
|
1
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附表2:稲葉道通 関係主要人物一覧
氏名
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道通との関係
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備考
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典拠
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稲葉良通(一鉄)
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祖父
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美濃三人衆の一人。織田信長に仕える。
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4
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稲葉重通
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父
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良通の庶長子。織田信長、豊臣秀吉に仕える。美濃清水城主。秀吉の御伽衆。
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4
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吉田浄忠の娘
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母
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2
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牧村利貞
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実兄(牧村政倫の養子)
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伊勢岩出城主。文禄・慶長の役で朝鮮にて病死。道通がその遺領を継承。妙心寺雑華院開基。
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2
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稲葉通重
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次兄
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美濃清水藩主。後に乱行により改易。
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2
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春日局(福)
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義理の姉妹(父・重通の養女、稲葉正成継室)
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徳川家光の乳母。江戸幕府大奥で権勢を振るう。
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2
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日根野盛就の娘
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正室
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2
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稲葉紀通
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嫡男
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道通の死後、田丸藩を継承。後に摂津中島藩、丹波福知山藩へ移封。凶行により改易。
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2
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阿部忠秋正室
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娘
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江戸幕府の老中を務めた阿部忠秋に嫁ぐ。
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2
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豊臣秀吉
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主君
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天下人。道通に利貞の遺領を継がせ、伏見城普請の功で加増。
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2
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徳川家康
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主君(関ヶ原以降)
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江戸幕府初代将軍。九鬼嘉隆との紛争を裁定。関ヶ原の戦いで道通が属す。
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2
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九鬼嘉隆
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対立した武将
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志摩鳥羽城主。水軍の将。木材輸送税で道通と争い敗訴。関ヶ原の戦いでは西軍に属し道通と敵対。
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2
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牧村牛之助
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甥(兄・利貞の子)
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道通に殺害されたと疑われる。
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2
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引用文献
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稲葉道通(いなば みちとお)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%81%93%E9%80%9A-1055542
-
稲葉道通 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%81%93%E9%80%9A
-
雑華院 京都通百科事典
https://www.kyototuu.jp/Temple/ZakkaInMyoushinJi.html
-
稲葉重通(いなば しげみち)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%87%8D%E9%80%9A-1055532
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稲葉重通 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%87%8D%E9%80%9A
-
240603590 臼杵市役所_稲葉家下屋敷パンフ - 臼杵市観光協会
https://www.usuki-kanko.com/cms/wp-content/uploads/2025/01/inabakeshimoyashiki.pdf
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稲葉貞通 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E8%B2%9E%E9%80%9A
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稲葉通重とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E7%A8%B2%E8%91%89%E9%80%9A%E9%87%8D
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OC09 稲葉重通 - 系図コネクション
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岩出城の見所と写真・100人城主の評価(三重県玉城町) - 攻城団
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市町村合併なのか ……A - 玉城町
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「宮川流域の遺跡を歩く」を携えて訪れた岩出城跡および岩出城下町跡 - 神宮巡々3
https://www3.jingu125.info/2018/02/25/post-64230/
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関ヶ原の戦と三重の城郭 - 三重県
https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/001067704.pdf
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安濃津城の戦い - Wikipedia
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田丸城跡|見どころ|玉城町
https://kizuna.town.tamaki.mie.jp/tamarujo/
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【田丸城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
https://www.jalan.net/kankou/spt_24461af2170019451/
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岩崎彌之助、小彌太の「数奇者とは異なる茶道具蒐集」の成果はまさに眼福! | マンスリーみつびし | 三菱グループサイト - Mitsubishi
https://www.mitsubishi.com/ja/profile/csr/mpac/monthly/m_art/2024/09/1.html
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特別展「茶の湯」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=4959
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武家当主-3
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu05.htm
-
稲葉紀通とブリ戦争 - 迷い犬を拾った
https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_inabanorimichi.html