最終更新日 2025-06-28

立原久綱

智勇の軍師 立原久綱 ― 尼子再興に生涯を捧げた不屈の武将、その全軌跡

序章:尼子氏の黄昏と一人の智将

戦国時代、中国地方にその名を轟かせた大名・尼子氏。最盛期には山陰・山陽十一ヶ国の太守と称された尼子経久、そしてその勢力を最大版図にまで広げた尼子晴久の時代、尼子氏はまさに日の出の勢いであった [1, 2]。しかし、歴史の歯車は無情である。西から台頭する毛利元就という巨星の出現により、その栄華は急速に翳りを見せ始める。尼子氏の物語は、栄光から滅亡、そして滅びた後の壮絶な再興運動へと続いていく。

この尼子再興運動の主役として、歴史はしばしば山中幸盛(鹿介)の名を記憶に刻んできた。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った悲劇の英雄として、その名は講談や小説を通じて広く知られている [3]。しかし、その幸盛の傍らには、常に冷静な知略と不屈の精神で彼を支え、再興運動の屋台骨を担ったもう一人の傑物が存在した。その人物こそ、本報告書が光を当てる立原源太兵衛久綱である。

山中幸盛が再興軍の燃え盛る「魂」であり「武」の象徴であったとするならば、立原久綱はその運動を現実に動かす「頭脳」であり「智」の化身であった。彼は、宇山久兼と並び「尼子三傑」の一人に数えられるほどの武将でありながら [4, 5]、その本領はむしろ、内政、兵站、そして外交交渉といった、国家の存続に不可欠な実務能力にあった。彼の生涯は、単なる武勇伝ではない。それは、滅びゆく組織をいかにして支え、絶望的な状況からいかにして再起を図るかという、極めて高度な戦略とマネジメントの物語なのである。

本報告書は、立原久綱の享禄4年(1531年)の生から慶長18年(1613年)の死に至る83年の生涯を時系列に沿って詳細に追う。その出自と尼子家臣としての活躍、主家滅亡後の不退転の決意、そして山中幸盛と共に駆け抜けた再興運動の全貌を、史料に基づき多角的に解き明かす。武将として、外交官として、そして戦略家としての彼の多面的な実像に迫り、なぜ彼の功績が幸盛の影に隠れがちであったのか、その歴史的評価に至るまでを徹底的に考察するものである。

【表1:立原久綱関連年表】

| 和暦 | 西暦 | 年齢 | 立原久綱の動向 | 関連する主要な出来事 |

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| 享禄4年 | 1531年 | 1歳 | 出雲国にて誕生 [6, 7] | |

| 永禄6年 | 1563年 | 33歳 | 白鹿城の戦いで殿軍を務め、武功を挙げる [4, 7] | 毛利元就による第二次出雲侵攻 |

| 永禄9年 | 1566年 | 36歳 | 月山富田城開城の交渉役を務める。毛利氏からの仕官の誘いを断り上洛 [4, 7] | 戦国大名としての尼子氏が滅亡 |

| 永禄11年 | 1568年 | 38歳 | 山中幸盛らと共に、京にて尼子勝久を擁立し、再興の兵を挙げる [7, 8] | 織田信長が足利義昭を奉じて上洛 |

| 元亀元年 | 1570年 | 40歳 | 布部山の戦いで毛利軍本隊に敗北 [7, 9] | |

| 天正6年 | 1578年 | 48歳 | 播磨上月城の戦いで敗北。毛利軍に捕縛されるが、後に脱出に成功する [3, 7] | 尼子勝久自刃、山中幸盛処刑。尼子再興運動が事実上終焉 |

| 慶長18年 | 1613年 | 83歳 | 阿波国渭津にて死去 [4, 7] | 徳川家康による江戸幕府の支配体制が確立される時期 |

第一章:出自と尼子家臣としての前半生

立原久綱という人物の不屈の精神と主家への深い忠誠心を理解するためには、まず彼の出自と、尼子政権下で築き上げた地位を詳細に見ていく必要がある。彼の行動原理は、血筋、縁戚、そして職責という複数の強固な基盤の上に成り立っていた。

1.1. 立原一族の淵源 ― 佐々木氏庶流としての誇り

立原氏のルーツは、主家である尼子氏と同じく、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む一族であった [6, 10]。元をたどれば信濃国伊那郡の飯沼氏の一族とされ、その後、出雲国大原郡立原(現在の島根県雲南市加茂町立原)に移り住み、その地名を姓としたと伝えられている [6, 11]。この雲南市立原は、後世に至るまで立原一族の本貫地(発祥の地)として記憶され、久綱ゆかりの史跡や伝承が今なお残されている [11]。

この出自は、久綱のアイデンティティを形成する上で極めて重要な意味を持つ。彼は単なる被官ではなく、主家・尼子氏と源流を同じくする「同族」としての意識を強く持っていたと考えられる。この同族意識こそが、主家が滅亡の淵に立たされた時、他の多くの家臣とは一線を画す、彼の並外れた忠節心の源泉の一つとなったのである。

1.2. 山中幸盛との関係 ― 叔父として、盟友として

立原久綱の生涯を語る上で、甥である山中幸盛との関係は不可分である。久綱の父は立原幸綱(綱重ともされる [4])といい、久綱には幸隆という兄がいた [7, 12]。そして、久綱の姉(または妹)である「なみ」が、尼子家臣・山中満幸に嫁いで産んだ子が、後に「山陰の麒麟児」と称される山中幸盛であった [3, 4, 6, 13]。つまり、立原久綱は幸盛の叔父にあたる。

この血縁関係は、単なる親族という以上に、二人の運命を固く結びつける絆となった。後の尼子再興運動において、二人は常に中核として行動を共にする。幸盛が武勇を以て軍を鼓舞すれば、久綱は知略を以て組織を支える。この叔父と甥による絶妙な連携が、一度は滅びた尼子家の名を十余年にわたって戦国の世に繋ぎとめる原動力となった。久綱にとって尼子家への奉公は、主君への忠義であると同時に、愛する甥・幸盛と運命を共にし、彼を支え守るという血縁者としての強い責任感を伴うものであった。

1.3. 尼子政権下での台頭 ― 近習衆筆頭格としての職責と武功

立原久綱は、尼子晴久、そしてその子・義久の治世において、単なる一武将に留まらない、政権の中枢を担うエリート官僚としての一面を持っていた。彼は尼子氏の直臣として「奉行衆」に名を連ね、主君が発給する公的な文書に連署する立場にあったことが確認されている [4]。これは、彼が尼子家の行政と意思決定に深く関与していたことを示す動かぬ証拠である。

軍記物である『雲陽軍実記』などによれば、久綱は「中老衆」の一人として美作国に2万3千石という広大な知行を与えられていたとされ、家臣団の中でも極めて高い地位を占めていたことがうかがえる [7, 14]。さらに永禄6年(1563年)、主君・尼子義久が三刀屋城を攻めた際には、「近習衆筆頭格」として先発隊を率いるという重責を担っており、主君の側近くに仕える信頼厚い側近であったことがわかる [7]。これらの事実は、彼が尼子政権の当事者であり、その安泰に直接的な責任を負う立場にあったことを物語っている。

1.4. 白鹿城の戦いにおける殿軍 ― 甥・幸盛と共に示した武勇

久綱は優れた行政官であると同時に、戦場においても卓越した能力を発揮する武将であった。その智勇兼備の才が遺憾なく発揮されたのが、永禄6年(1563年)の白鹿城を巡る戦いである。

毛利元就が出雲侵攻の拠点として白鹿城に猛攻を加えた際、尼子義久は弟の倫久を総大将とする救援軍を派遣した [4]。この時、近習衆筆頭格であった久綱は、軍議の場において積極的な救援策を強く主張した。しかし、その意見は他の大身の家老たちに阻まれ、受け入れられなかったという [4]。この逸話は、彼が単に命令を待つだけでなく、自らの戦略眼に基づき作戦を立案し、主張する能力を持っていたことを示している。

結果として、尼子救援軍は毛利軍に撃退され、撤退を余儀なくされる。この絶体絶命の状況で、久綱は甥の山中幸盛と共に殿(しんがり)という最も危険な任務を引き受けた [4, 7]。二人は見事な連携で追撃してくる毛利軍を食い止め、多大な損害を与えつつ、総大将の尼子倫久を本拠地・月山富田城まで無事に逃げ延びさせることに成功したのである [4]。この戦功は、彼の武将としての勇猛さと卓越した部隊指揮能力を証明するものであり、キャリアの初期段階から既に「智」と「武」を兼ね備えた非凡な器量の持ち主であったことを物語っている。

第二章:主家滅亡と忠節の証

尼子氏の命運が尽きようとする時、人の真価が問われる。多くの者が己の保身のために主家を見捨てる中、立原久綱の行動は忠義という言葉の意味を深く問いかけるものであった。彼の選択は、単なる感傷的な忠誠心の発露ではなく、主家の名誉を守り、再興の可能性を未来に繋ぐための、極めて高度な政治的意志の表れであった。

2.1. 月山富田城の籠城戦 ― 相次ぐ離反者の中での不動の忠義

永禄8年(1565年)、毛利元就による第二次月山富田城攻防戦が始まると、尼子氏の状況は日増しに悪化していった。毛利軍の巧みな兵糧攻めにより城内は飢餓に苦しみ、将兵の士気は低下の一途をたどった。この絶望的な状況下で、尼子譜代の重臣でさえも次々と城を脱出し、毛利方に投降する者が後を絶たなかった [7, 15]。

しかし、立原久綱は違った。彼は、甥の山中幸盛らと共に、最後まで城に踏みとどまり、主君・尼子義久を支え続けたのである [7]。籠城戦においては、義久の弟・尼子倫久の指揮下に入り、幸盛や秋上宗信といった勇将たちと共に、城の重要拠点である塩谷口の守備を担当した [4]。相次ぐ裏切りによって人間不信に陥り、正常な判断力を失っていく主君の姿を目の当たりにしながらも、彼の忠誠心が揺らぐことはなかった。この不動の忠義は、彼が尼子家と運命を共にするという固い決意の証であった。

2.2. 降伏交渉の大役 ― 毛利元就を前にした堂々たる駆け引き

永禄9年(1566年)11月、兵糧は尽き、もはや落城は時間の問題となった。万策尽きた尼子義久は、ついに降伏を決断する。この時、主家の最後を託されるという、最も困難で屈辱的な大役、すなわち降伏交渉の正使に任じられたのが立原久綱であった [4, 7]。

彼は敗軍の将の使者として、敵将・毛利元就の本陣に赴いた。その交渉の具体的な内容は詳らかではないが、彼が見せた態度は、勝者である毛利方をも感嘆させるものであったと伝えられる。敗者としての卑屈さを見せることなく、武家の作法に則り、主君・尼子一族の助命を第一とする堂々たる交渉を行った。その水際立った対応と、逆境においても失われることのない人間的な器量は、敵である毛利氏からも高く評価されたのである [4]。

2.3. 仕官の誘いを蹴って京へ ― 再興への静かなる誓い

久綱の交渉能力と武将としての器量を高く評価した毛利氏は、彼に対して破格の条件を提示した。知行2,000貫という、当時の武将としては最高級の待遇で自家に仕官するよう、熱心に誘ったのである [4, 10]。戦国乱世において、主家が滅亡した後に、能力を認められて新たな有力大名に仕えることは、武士としてごく自然な選択であり、むしろ名誉なことであった。

しかし、久綱はこれを毅然として断った [4]。この選択こそ、彼の真骨頂を示すものである。彼にとって、毛利家に仕えることは、尼子氏の完全な滅亡を自ら追認し、その歴史に終止符を打つことを意味した。彼が守りたかったのは、自身の家や安泰な生活ではなかった。それは、滅び去った主家・尼子氏の名誉と、そしていつの日か再興を果たすという、万に一つの可能性の「火種」であった。有力家臣である彼が服従を拒否することで、尼子家はまだ完全には死んでいないという無言のメッセージを発したのである。

その後、主君・尼子義久一行が安芸国へ護送される際には、杵築(現在の出雲大社周辺)まで見送り、そこで主従決別の盃を交わしたと伝えられる [2, 15]。そして、彼は多くの家臣が新たな道を求めて四散する中、ただ一人、再興への静かなる誓いを胸に、京都へと潜行したのである [4, 7]。それは、滅亡した主家への最後の、そして最大の奉公であった。

第三章:尼子再興の旗揚げ ― 知勇兼備の軍師として

主家滅亡から二年。雌伏の時を経て、立原久綱は歴史の表舞台に再びその姿を現す。それは、単なる一人の忠臣の復讐譚ではなく、滅びた大名家を再興するという、前代未聞の壮大な挑戦の始まりであった。この尼子再興運動において、久綱は山中幸盛という「武の象徴」と対をなす「智の実行者」として、その類まれな能力を最大限に発揮することになる。

3.1. 主君・尼子勝久の擁立と再興軍の組織化

永禄11年(1568年)、京に潜伏していた久綱は、同じく再興の機会を窺っていた甥の山中幸盛らと再会する。彼らは、尼子一族の血を引く者を探し求め、かつて尼子晴久によって粛清された新宮党の当主・尼子誠久の遺児が、京都の東福寺で僧となっていることを突き止めた [7, 10, 15]。

久綱らは早速この僧を訪ね、主家再興の大義を説いて還俗させることに成功する。こうして尼子勝久と名乗らせた若き当主を旗頭として擁立し、尼子再興軍はついにその第一歩を踏み出した [8, 16]。

好機は翌永禄12年(1569年)に訪れる。毛利軍の主力が、九州の覇者・大友宗麟との戦いのために北九州へ出払い、山陰地方の防備が手薄になったのである [17]。この間隙を突き、勝久、幸盛、そして久綱ら再興軍は、数百艘の船で海を渡り、故国・出雲国の島根半島に上陸した [15, 17]。彼らが再興の檄を飛ばすと、圧政に苦しんでいた民衆や、毛利支配下で不遇をかこっていた旧臣たちが続々と馳せ参じ、その軍勢はわずか数日のうちに3,000人を超えるまでに膨れ上がったという [15, 17]。再興軍は破竹の勢いで出雲国内の城を次々と攻略し、一時は出雲国一円をその支配下に置くほどの勢いを見せた [18, 19]。

3.2. 戦略家としての久綱 ― 軍事の幸盛、政略・外交の久綱

この尼子再興軍は、山中幸盛というカリスマ的な軍事指導者と、立原久綱という実務的な戦略家による、絶妙な役割分担によって成り立っていた。幸盛がその武勇を以て常に最前線に立ち、兵士を鼓舞し、戦の指揮を執る「武の顔」であったとすれば、久綱はその後方にあって組織全体を動かす「智の頭脳」であった。

史料によれば、久綱は再興軍が発給する安堵状などの副状に署名しており、占領地の内政や民政を掌握する重要な役割を担っていたことがわかる [10]。軍団を維持するためには、戦闘能力だけでなく、兵糧や武器の調達といった兵站管理、占領地の安定化、そして外部勢力との連携が不可欠である。これらの極めて実務的かつ戦略的な領域を統括していたのが、まさに久綱であった [10]。幸盛の武勇が兵を集め、士気を高める「求心力」であるならば、久綱の政略は、その軍団に正統性と持続可能性を与える「実務能力」であった。この「デュアル・リーダーシップ」とも言うべき体制こそが、一度滅亡した尼子氏が、その後十余年にもわたって強大な毛利氏を相手に抵抗を続けられた核心的な要因であったと言える。

もちろん、久綱は後方支援に徹していただけではない。原手合戦や美保関の合戦など、主要な戦いにおいては幸盛と共に軍を率いており、戦場においても重要な指揮官であった [4, 20]。

3.3. 織田信長との同盟締結 ― 「立振舞も尋常なり」と評された外交手腕

再興軍が一時的に出雲を席巻したとはいえ、毛利氏という巨大な敵を打倒するには、より強力な後ろ盾が不可欠であった。久綱はこの現実を冷静に見据え、当時、天下統一への道を突き進んでいた織田信長に活路を見出す。

彼は再興軍を代表して上洛し、信長への謁見を果たす。この外交交渉こそ、久綱の真骨頂が発揮された場面であった。彼は、信長という当代随一の実力者を前にしても臆することなく、尼子家再興の正当性と、それが織田家にとっても戦略的利益をもたらすことを理路整然と説いた。その堂々たる態度と優れた弁舌は信長に深い感銘を与え、「立原は男も良きが、立振舞も尋常なり(容姿も立派だが、その立ち居振る舞いは並々ではない)」と最大級の賛辞を贈られたという [4, 10]。信長はこの時、その評価の証として、久綱に名刀「貞宗」一振りを下賜したと伝えられる [4]。

この信長の評価の背景には、西方の強敵である毛利氏を牽制、消耗させるための「駒」として、尼子再興軍の利用価値を見出したという、信長自身の冷徹な戦略的計算があった。久綱の優れた交渉能力は、信長に対して、尼子再興軍が単なる烏合の衆ではなく、信頼に足る「同盟相手」であることを確信させる上で決定的な役割を果たしたのである。この久綱の外交的大成功により、尼子再興軍は信長の公的な支援を取り付け、彼の中国方面軍総司令官である羽柴秀吉の麾下に組み込まれることになった [4]。これは、再興運動のその後の運命を大きく左右する、極めて重要な転換点であった。

3.4. 布部山の戦いと因幡・但馬転戦 ― 苦難の連続と不屈の精神

織田氏という後ろ盾を得たものの、再興への道は依然として険しかった。元亀元年(1570年)、九州から引き返してきた毛利輝元率いる毛利軍本隊が、ついに尼子再興軍の前に立ちはだかる。両軍は出雲国布部山にて激突した(布部山の戦い) [9, 21]。

尼子軍は地の利を活かして奮戦するも、毛利軍の大軍の前に衆寡敵せず、大敗を喫してしまう [7, 15]。この敗戦により、再興軍は出雲における拠点の多くを失い、再び苦境に立たされた。しかし、久綱と幸盛の闘志は衰えなかった。敗走の際には、二人が再び殿を務めて味方の撤退を助けたと伝えられる [22]。

元亀2年(1571年)には、ついに最後の拠点であった新山城も陥落し、尼子勝久は隠岐島へ脱出、再興軍は出雲から完全に駆逐されてしまう [2, 23]。だが、彼らは諦めなかった。久綱と幸盛は、残存兵力を率いて因幡国(鳥取県)、但馬国(兵庫県北部)へと転戦し、現地の反毛利勢力である山名氏らと結びながら、執拗に抵抗を続けたのである [2, 7]。その姿は、まさに七転八倒、不撓不屈の精神そのものであった。

第四章:悲劇の上月城 ― 最後の抵抗と敗北

十年に及ぶ尼子再興運動は、天正6年(1578年)、播磨国上月城において、最も壮絶で悲劇的な結末を迎える。この最後の戦いにおいて、立原久綱の冷静な戦略眼は、再び彼の非凡さを示す一方で、その意見が容れられなかったことが、再興軍の運命を決定づけることとなった。

4.1. 上月城籠城策への反対 ― 久綱の冷静な戦略眼

天正5年(1577年)、織田信長の中国方面軍に属していた尼子再興軍は、羽柴秀吉の軍勢と共に毛利方の赤松政範が守る播磨上月城を攻略し、この城を新たな拠点として与えられた [4, 16]。しかし、この拠点は、織田軍の主戦線から遠く離れた、対毛利の最前線に孤立する極めて危険な場所であった。

翌天正6年(1578年)4月、毛利氏は吉川元春・小早川隆景を総大将とする3万を超える大軍を派遣し、尼子勝久、山中幸盛、そして立原久綱らが籠る上月城を包囲した [3]。この時、尼子再興軍の首脳部は城に立て籠もって織田の援軍を待つという籠城策を決定する。しかし、この決定に対して、立原久綱はただ一人、強く反対したと複数の史料が伝えている [7, 10, 24]。

久綱が籠城に反対した理由は、彼の優れた戦略眼に基づいていた。彼は、上月城が味方の拠点である羽柴秀吉の姫路城からあまりに遠く、兵站線が伸びきってしまうこと、そして毛利の大軍に包囲された場合、援軍が到着するまで持ちこたえることは不可能であることを見抜いていたのである。この状況は、再興軍の内部における「理想主義」と「現実主義」の最後の相克であった。幸盛らが、信長から与えられた城を死守するという武士の名誉や、ここで退けば再興の望みが絶たれるという背水の陣の覚悟といった理想論を重んじたのに対し、久綱は兵力、兵站、援軍の可能性を冷徹に計算し、「ここで全滅するのは無駄死にであり、生き残って次の機会を窺うべきだ」という、より大局的で現実的な戦略判断を優先したのである。

4.2. 見殺された再興軍 ― 織田・毛利の狭間で潰えた夢

久綱の懸念は、最悪の形で現実のものとなった。当初、羽柴秀吉は1万の軍勢を率いて上月城の救援に向かう姿勢を見せた [3]。しかし、その途上、織田方に属していたはずの播磨三木城主・別所長治が突如毛利方に寝返るという事件が発生する [4]。

この事態に、織田信長は秀吉に対し、上月城の救援よりも三木城の攻略を優先するよう厳命を下した。秀吉は再三にわたり尼子軍への援軍を信長に嘆願したが、信長はこれを却下 [4]。結果として、上月城の尼子再興軍は、味方であるはずの織田軍に見殺しにされる形となった。彼らは、織田信長の巨大な対毛利戦略の中で、敵の兵力を引きつけるための「捨て駒」として利用されたのである。

4.3. 捕縛、そして執念の脱出 ― 生き延びて主君の菩提を弔う道へ

援軍の望みは絶たれ、城内の兵糧も完全に底をついた。7月、孤立無援となった上月城はついに落城する。降伏の条件として、主君・尼子勝久とその弟は自刃を命じられ、ここに尼子氏の正統な血筋は絶えた [3, 7]。そして、再興運動の象徴であった山中幸盛も捕虜となり、備中への護送中に謀殺され、その悲劇的な生涯を閉じた [3]。

立原久綱もまた、毛利軍の猛将・吉川元春に捕らえられ、捕虜の身となった [7, 10, 24]。再興の夢は潰え、主君も甥も失い、まさに万事休したかに見えた。しかし、久綱の執念は尽きていなかった。彼はその後、詳細は不明ながらも、毛利軍の監視下から脱出することに成功するのである [4, 7]。一説には、「病を理由に、回復を待って処分を下す」という毛利方の配慮(あるいは油断)に乗じて逃れたとも言われる [4]。この執念の脱出は、彼の驚異的な生命力と、生き延びて主君と盟友たちの菩提を弔い、その物語を後世に伝えねばならないという、最後の使命感の表れであったと言えよう。

第五章:晩年と後世への遺産

上月城の悲劇を生き延びた立原久綱は、もはや再興の旗を掲げることなく、静かな晩年を送ることになる。しかし、彼の物語はそこで終わったわけではない。阿波の地で迎えた大往生、そして出雲各地に残された複数の墓所は、彼の生涯がいかに人々の記憶に深く刻まれたかを雄弁に物語っている。

5.1. 阿波への道 ― 娘婿・福屋隆兼を頼っての安住

毛利軍からの脱出後、上洛した久綱が次に向かったのは、四国の阿波国(現在の徳島県)であった。そこには、彼の娘婿が阿波の大名・蜂須賀家政に仕えていたからである [4, 7]。久綱はこの娘婿を頼り、渭津(いづ)という地で、ようやく安住の地を得た [4, 10]。

この娘婿の名は、史料によって「福屋隆兼」あるいは「里村隆兼」と記されており、その出自にはいくつかの説が存在する [12, 25]。一説には、かつて石見国の国人領主で、一時は尼子氏にも属した福屋隆兼その人、あるいはその一族とされる [26]。また別の説では、久綱の実子(あるいは養子)が福屋(里村)氏の名跡を継いだものとも考えられている [12, 25, 27]。特に『蜂須賀家家臣成立書并系図』によれば、この人物は「里村太郎右衛門隆兼」といい、久綱の子として生まれ、初めは福屋彦太郎と名乗ったが、後に里村、そして福屋へと姓を改めたと記されており、複雑な経緯がうかがえる [25]。いずれにせよ、久綱が血縁者を頼って阿波に落ち着き、戦乱の世を生き抜いたことは確かである。

5.2. 慶長十八年の死 ― 83年の波乱に満ちた生涯の終焉

慶長18年(1613年)4月26日、立原久綱は阿波の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年83 [4, 7]。法名は「節山院珠栄全忠居士」と伝えられる [4, 7]。尼子氏が戦国大名として滅亡してから47年、関ヶ原の戦いから13年後のことであった。彼は、戦国という時代の終焉と、徳川家康による新たな泰平の世の幕開けを、その目で見届けて世を去ったのである。

5.3. 複数の墓所が語るもの ― 松江・雲南・大田に遺された足跡とその考察

久綱の終焉の地は阿波国であったにもかかわらず、彼の墓所と伝えられる場所は、故郷である出雲国、現在の島根県内に複数存在する [4]。これは、彼の存在がその死後も、いかに各地で記憶され、敬愛されていたかを示す物理的な証拠である。

  • 松江市長源寺 : 松江市東津田町にある長源寺には、久綱の墓とされる五輪塔が現存する [28, 29]。この寺は、久綱自身が尼子・毛利の戦乱で犠牲となった人々の菩提を弔うために開基となったと伝えられており、彼との縁が非常に深い [30]。墓石の台座には、白鹿城落城の報を聞いた久綱が、悔しさのあまり投げつけたとされる「地団駄石」の伝承も残る [31]。
  • 雲南市加茂町立原地区 : 久綱の一族の発祥の地であるこの地区にも、彼の墓所が伝えられている [4]。興味深いことに、この地区では「毛利に知られることを憚り、立原ゆかりの地であることを長年隠してきた」という言い伝えがある [11]。江戸時代を通じて毛利氏の支配下にあったため、その名を公にできなかったが、人々は密かにその記憶を守り続けてきたのである。この伝承は、彼の存在が、時の権力者への恐怖を乗り越えて語り継がれるほど、地域の人々の心に深く根差していたことを示している。
  • 大田市長久町浄土寺 : この寺にも久綱の墓とされるものが存在する [4]。

これらの墓所は、実際の埋葬地というよりは、久綱の功績を偲び、その霊を慰めるために、子孫や縁者、あるいは彼を崇敬する地元の人々によって建立された供養塔としての性格が強いと考えられる。公的な歴史記録以上に、彼が地域レベルで「記憶されるべき英雄」として扱われていたことの何よりの証左と言えよう。

5.4. 子孫への継承 ― 恒松家と『上月城(恒松家の先立原久網公羽の事蹟)』の存在

立原久綱の血脈と物語は、近代に至るまで受け継がれていた。昭和後期から平成にかけて島根県知事を3期務めた恒松制治氏は、自らが立原久綱の後裔であると公言している [4, 32]。

さらに注目すべきは、恒松家に『上月城(恒松家の先立原久網公羽の事蹟)』という、久綱の事績に関する文献が伝わっていたことである。この文献の存在は、出雲市立中央図書館のレファレンス協同データベースに記録として残されている [33, 34]。これは、久綱の生涯、特にそのクライマックスであった上月城での戦いの記憶が、一族によって大切に語り継がれてきたことを示す、極めて貴重な傍証である。戦国武将の子孫が、近代において地方行政のトップという公職に就き、かつ先祖の記録を保持していたという事実は、立原家の「智」の伝統が、武力だけでなく、教育や記録の継承という形で後世に受け継がれ、一族の存続と発展に寄与した可能性を示唆している。

終章:立原久綱の歴史的評価

立原久綱の生涯をたどることは、戦国乱世における忠義、知謀、そして人間の不屈の精神について、深く考察する機会を与えてくれる。彼の歴史的評価を、より著名な甥・山中幸盛との比較を通じて行うことで、その実像は一層鮮明になる。

6.1. 「尼子三傑」としての実像の再検証

「尼子三傑」と称される三人の武将、宇山久兼、山中幸盛、そして立原久綱 [4, 5]。彼らはそれぞれ異なる形で尼子家への忠誠を体現した。宇山久兼は、主君への忠義のあまり讒言を信じた主君自身の手によって殺害されるという、悲劇の忠臣であった [35]。山中幸盛は、七難八苦を厭わぬ不撓不屈の精神で再興に命を燃やし、若くして非業の死を遂げた、悲劇の英雄である [3]。

これに対し、立原久綱は、彼らとは異なる道を歩んだ。彼は、感情や理想に流されることなく、常に冷静な知謀と卓越した実務能力で組織を最後まで支え、天寿を全うした「現実主義の忠臣」であった。彼の忠義は、華々しい自己犠牲ではなく、地道な交渉、緻密な戦略、そして粘り強い組織運営という形で示された。三者三様の忠義の形は、尼子氏の末期がいかに多様な人材によって支えられていたかを物語っている。

6.2. なぜ山中幸盛ほど著名にならなかったのか ― 悲劇の英雄と実務家

立原久綱が山中幸盛ほどの知名度を得られなかった理由は、二人の功績の性質の違いにある。幸盛の生涯は、物語として極めて魅力的である。「我に七難八苦を与えたまえ」という有名な祈り、鹿角の兜という印象的な出で立ち、そして若くして散ったその劇的な最期は、後世の講談や小説の格好の題材となった [3]。彼は、人々が求める「悲劇の英雄」という物語の類型に完璧に合致していた。

対照的に、久綱の功績は、月山富田城での降伏交渉 [4]、織田信長との外交 [10]、再興軍の内政と兵站管理 [10]、そして上月城での籠城策への反対 [7] といった、地味ながらも極めて重要な実務に集中している。これらの功績は、現代の組織論や政治学の観点からは高く評価されるべきものであるが、大衆向けの物語としての華やかさには欠ける。彼の生涯は、血湧き肉躍る「英雄譚」というよりは、冷静沈着な「組織マネジメント論」に近い。歴史はしばしば劇的な英雄を記憶するが、その英雄が活躍するための舞台を整え、組織の存続を可能にするのは、久綱のような実務家の存在なのである。歴史的な人気と、歴史への貢献度は、必ずしも一致しない。

6.3. 忠義と知謀に生きた武将 ― 立原久綱が現代に問いかけるもの

立原久綱の83年の生涯は、敗者の物語として片付けるにはあまりに豊かで、示唆に富んでいる。彼は、主家が滅亡するという絶望的な状況に直面しても、決して希望を捨てなかった。そして、その希望を現実に変えるために、武力という選択肢だけに頼るのではなく、知力、交渉力、戦略的思考、そして人間的魅力といった、持ちうる全ての能力を駆使して最後まで戦い抜いた。

彼の生き様は、単なる過去の一武将の物語に留まらない。それは、先行きの見えない困難な時代において、いかにして組織を率い、目標を追求すべきかという、普遍的なリーダーシップのあり方を我々に示してくれる。理想を掲げつつも、現実に足をつけ、冷静に最善の道を探る判断力。そして、いかなる逆境にあっても屈することのない精神力の尊さ。立原久綱という智勇兼備の軍師の生涯は、時代を超えて、現代に生きる我々に多くのことを問いかけているのである。

引用文献

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  2. 尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/plusonline/online2.data/1kou.pdf
  3. 山中幸盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
  4. 立原久綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%8E%9F%E4%B9%85%E7%B6%B1
  5. 山中幸盛品川将員の一騎討ちとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%B0%86%E5%93%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%A8%8E%E8%A8%8E%E3%81%A1
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  13. 歴史の目的をめぐって 山中幸盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-36-yamanaka-sikanosuke.html
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