立石正賀(たていし まさよし)は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた武将です。彼の名は、長宗我部元親・盛親の家臣として、また軍記物『長元記』の著者として、土佐の歴史に刻まれています。しかし、その生涯を詳細に追うと、単なる一地方武将という枠には収まらない、複雑で多面的な人物像が浮かび上がってきます。
本報告書は、立石正賀という人物を、旧主・長宗我部家と新主・細川家という二つの主君に仕え、戦国の終焉と近世武家社会の成立という時代の断層を生き抜いた、稀有な経歴を持つ人物として捉え直すことを試みます。彼の人生は、一個人の立身伝であると同時に、敗者となった大名の家臣団が、如何にして新たな時代に適応していったかを示す、極めて貴重なケーススタディと言えるでしょう。
調査にあたり、彼の生涯を追う上での大きな課題は、その記録が断片的であり、時に矛盾する情報が混在している点です 1 。本報告書では、これらの散逸した情報を丹念に突き合わせ、史料に基づきながら彼の生涯を時系列に沿って再構築します。特に、彼のキャリアにおける最大の転換点である「浦戸一揆」での役割と、彼の名を後世に伝えた最大の要因である軍記物『長元記』の著者問題という二大テーマに焦点を当て、その実像に迫ることを目的とします。
この章では、立石正賀が歴史の表舞台に登場するまでの背景を深く掘り下げます。彼がどのような環境で育ち、いかなる経緯で長宗我部氏に仕えるに至ったのかを解明することは、後の彼の行動原理を理解する上で不可欠です。彼のアイデンティティを形成した土佐の政治状況と、主家を変えるという決断の背景を分析します。
立石正賀の初期の経歴を正確にたどることは、史料の断片性ゆえに困難を伴います。しかし、残された記録から、彼の置かれていた状況をある程度推測することが可能です。
まず、彼の生没年については複数の説が存在し、情報が錯綜しています。生年に関しては、永禄7年(1564年)とする説 2 と、永禄8年(1565年)とする説 1 が並立しています。没年については、多くの資料が不詳とする中で 1 、歴史シミュレーションゲームのデータでは元和10年(1624年)と設定されている例も見られます 4 。この情報の不一致は、彼が中央の歴史記録に頻繁に登場する大名クラスの人物ではなかったことを示唆しており、彼の生涯を追う上での根本的な困難さを象徴しています。
彼の家族構成に目を向けると、彼は立石摂津守の弟であったとされています 2 。これは、彼が当初は家督を継ぐ立場ではなかったことを意味します。実際に家督を継いだのは、甥である右京進が亡くなった後の、天正17年(1589年)から文禄・慶長期(1592年-1597年)の間であったと記録されています 2 。この事実は、彼がキャリアの初期段階において分家の立場にあり、自らの才覚で道を切り開いていく必要があったことを物語っています。彼の通称である「助兵衛(すけべえ)」 1 は、当時の武士として一般的な呼称であり、彼の出自や身分を特定する上で重要な手がかりの一つとなります。
立石正賀のキャリアは、土佐国司であり、応仁の乱を逃れて土佐に下向した公家大名・土佐一条家に仕えることから始まりました 1 。一条氏は、下向当初はその権威をもって土佐国内に大きな影響力を持ちましたが 8 、戦国時代の激しい権力闘争の中で次第にその力を失っていきます 9 。
一方で、一条氏の衰退と入れ替わるように台頭したのが、長宗我部国親・元親親子でした。彼らは「土佐七雄」と称された在地領主たちを次々と打ち破り、土佐統一を着実に進めていきました 12 。この過程で、かつての庇護者であった一条家もその勢威に抗うことはできず、天正3年(1575年)の四万十川の戦いを経て、事実上滅亡の道をたどります 8 。
正賀が長宗我部氏に仕官したのは、この「一条家の没落後」とされています 1 。これは、彼個人の特別な選択というよりは、土佐国内の勢力図が完全に塗り替えられる中で、生き残りをかけた多くの国人領主や武士たちと同様の、時代の流れに沿った必然的な動きであったと考えられます。彼の武士としての経歴は、旧来の権威(一条氏)が新たな実力(長宗我部氏)に取って代わられるという、戦国末期の土佐国の縮図そのものであったと言えるでしょう。この主家の没落という逆境からキャリアをスタートさせた経験こそが、後の彼の冷静な状況判断能力と現実的な思考を育んだ基盤となったと推察されます。彼の生涯は、主家を乗り換えることの連続ですが、それは単なる裏切りや変節ではなく、家名を存続させるための戦国武士としての合理的な生存戦略でした。この「適応能力」こそが、立石正賀という人物を理解する上で最も重要な資質の一つであると位置づけられます。
新たな主君・長宗我部元親のもとで、立石正賀はその能力を発揮し、家臣団の中で確固たる地位を築いていきます。この章では、長宗我部家臣時代の彼の具体的な活動と、家中でどのように評価されていたのかを探ります。
長宗我部家に仕官した正賀は、元親が推し進める四国統一事業において、武将として活躍しました。史料上で確認できる彼の具体的な戦功としては、「伊予三滝城攻めなどで功を立てた」という記述が挙げられます 6 。この戦いは、元親が四国の覇権を確立していく過程 13 で行われた重要な軍事行動の一つであり、正賀が単なる後方の事務官僚ではなく、前線で槍を振るう武将であったことを明確に示しています。
「長宗我部家の四国統一戦で活躍した」 1 という他の記録は、より総括的な表現ではありますが、彼が長期間にわたって元親の軍事行動に深く関与し、その勝利に貢献していたことを裏付けています。彼の武功は、長宗我部家の勢力拡大に不可欠な要素の一つであったと言えるでしょう。
正賀の活躍は、主君から高く評価され、それは彼の待遇にも明確に反映されていました。『豊臣武鑑』によると、彼は長宗我部家から千石の知行を与えられていたとされます 5 。この禄高は、当時の長宗我部家臣団の中では上級家臣に位置づけられるものであり、彼の武功や実務能力が、客観的な評価として認められていたことの証左です。
後世の創作である歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズにおいても、彼の能力値は、武勇よりも知略や政務能力が高く設定される傾向にあります 4 。これはあくまでフィクション上の評価ですが、彼が単なる猛将タイプではなく、交渉や統治といった分野にも長けた、バランスの取れた知将であったというイメージが後世に伝わっていることを示唆しています。
記録に残る具体的な武功が限定的であるにもかかわらず、千石という高い地位と厚遇を得ていた事実は、彼の価値が必ずしも戦場での華々しい活躍だけではなかった可能性を示しています。むしろ、検地の実施、兵站の管理、あるいは他勢力との外交交渉といった、より実務的な面で非凡な才能を発揮していたのかもしれません。長宗我部家にとって「有用な人材」であったこと、そしてその有用性が多岐にわたっていたことこそが、後の関ヶ原合戦後、彼が主家の存亡を託される降伏使者という重役に選ばれた直接的な理由であると考えられます。元親や盛親は、彼の忠誠心のみならず、困難な交渉を乗り切るために必要な知略と冷静さを高く評価していたのでしょう。この「実務家」としての一面が、彼のその後のキャリアを決定づけることになります。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いは、長宗我部家、そして立石正賀の運命を大きく揺るがします。本章は、彼の生涯における最大のクライマックスであり、旧主への忠誠と新時代への適応という、過酷な選択を迫られた彼の行動を詳細に分析します。
関ヶ原の戦いにおいて、長宗我部盛親は西軍に与しました。しかし、戦いはわずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わり、盛親は敗将となってしまいます 19 。これにより、長宗我部家は所領没収、すなわち改易という最大の危機に瀕しました。
この絶望的な状況下で、一縷の望みを託されたのが立石正賀でした。彼は横山新兵衛と共に、徳川家康の腹心であり、戦後処理の中心人物であった井伊直政のもとへ、主君・盛親の謝罪と家名存続を嘆願する使者として派遣されたのです 2 。この交渉の成否には、長宗我部家の存続、少なくとも盛親の生命が懸かっていました。彼がこの極めて重大な任務を託されたという事実そのものが、家中における彼の知略と交渉能力、そして忠誠心に対する信頼がいかに厚かったかを物語っています。交渉は困難を極め、最終的に長宗我部家の改易は覆りませんでしたが、この時、井伊直政と直接交渉を持った経験が、後の彼の運命を大きく左右することになります。
長宗我部家の改易と、新たな土佐領主として山内一豊が入国することが決まると、土佐国内は激しく動揺します。特に、長年にわたり長宗我部氏を支えてきた半農半兵の武士層「一領具足」たちは、この決定に強く反発。彼らは旧主の居城であった浦戸城に立てこもり、新領主への城の引き渡しを断固として拒否しました。これが世に言う「浦戸一揆」です 20 。
この時、立石正賀は人生で最も過酷な選択を迫られます。彼は、井伊直政の家臣である鈴木重好ら徳川方の部隊と共に土佐へ赴き、この一揆の鎮圧と浦戸城の接収に協力したのです 2 。これは、昨日までの同胞に刃を向けるに等しい行為であり、彼の胸中には察するに余りある苦悩があったことでしょう。しかし、彼は大局を見据え、新時代の支配者である徳川方の意向に従うという、極めて現実的な判断を下しました。
一揆は最終的に、城内からの裏切りもあり鎮圧され、首謀者をはじめとする273名の一領具足が処刑されるという悲劇的な結末を迎えました 20 。正賀のこの時の行動は、多くの長宗我部旧臣の視点から見れば「裏切り」と映ったかもしれません。しかし、新たな支配者である徳川・山内方から見れば、土佐の秩序回復に貢献した「功労者」として高く評価されました。この行動こそが、彼のその後の運命を決定づける直接的な原因となったのです。もし彼が旧臣側に立って抵抗していれば、他の多くの者たちと同様に処刑されるか、あるいは先の見えない浪々の身となっていたことは想像に難くありません。彼の行動は、主家が消滅した後の家臣が取りうる、最も効果的な生き残り戦略でした。
この一連の出来事は、武士の「忠義」という概念の多層性を浮き彫りにします。滅びゆく主家と共に殉じることだけが忠義のすべてではありません。主家の祭祀を絶やさず、自らの「家」を後世に伝えるために、時には非情な決断を下し、新たな支配者に仕えることもまた、一つの「忠義」の形であったのかもしれません。正賀の行動は、戦国的な情念の忠義から、近世的な「家」の存続を第一とする、より現実的でプラグマティックな忠義への移行を体現していると言えるでしょう。
主家改易という悲劇を乗り越え、浦戸一揆の鎮圧に協力することで新体制への貢献を示した立石正賀は、新たな天地でそのキャリアを再スタートさせます。この章では、彼がいかにして近世武士として家名を再興したのか、その軌跡を追います。
関ヶ原の戦いの後、西軍に与して改易された大名は数多く、その家臣たちは浪人となるか、他の大名家に再仕官の道を探すかの選択を迫られました 24 。特に、実務能力や武勇に優れた人材は、新たな領国経営や軍備増強を目指す諸大名にとって魅力的な存在であり、積極的に登用される例も少なくありませんでした 26 。立石正賀のケースは、そうした再仕官組の中でも、特筆すべき成功を収めた事例と言えます。
彼の新たな主君となったのは、肥後熊本藩52万石の藩主・細川忠興でした 2 。細川家は関ヶ原の戦いにおける功績により、豊前小倉39万9千石から肥後一国へと大幅な加増移封を遂げたばかりであり、広大な新領国を安定的に統治するため、経験豊富な人材を広く求めていました。正賀は、まさにその要請に応えるうってつけの人物だったのです。
立石正賀が細川家から受けた待遇は、まさに破格のものでした。複数の資料によると、彼は1500石という高禄で召し抱えられたとされています 5 。長宗我部家時代の千石を上回るこの石高だけでも、彼がいかに高く評価されたかが窺えます。
さらに、土佐清水市教育委員会が発行した資料には、より詳細で驚くべき内容が記されています。それによると、正賀自身に1000石が与えられただけでなく、長男の市正宗倫と次男の内蔵助にも、それぞれ600石が給されたというのです 3 。これを合計すると、立石家全体で2200石にも達します。これは、単なる一介の改易大名家臣の再仕官としては、異例中の異例と言えるでしょう。
この破格の待遇の背景には、前章で述べた浦戸一揆鎮圧における功績があったことは間違いありません。彼の行動は、新領主である山内家の土佐統治を助け、ひいては徳川幕府による全国支配の安定化に貢献するものでした。その功績が、降伏交渉の相手であった井伊直政を通じて細川忠興にも伝わり、高く評価された結果が、この類例のない石高に現れているのです。浦戸での「功績」が、肥後での「破格の待遇」という結果に直結しているこの明確な因果関係は、近世初期の武士社会における人材評価が、旧来の家格や観念的な忠節だけでなく、新体制への貢献度という極めて現実的な指標に基づいていたことを示しています。
一部には、正賀が肥後加藤家に仕えた、あるいは大坂の陣に参加したという説も存在します 1 。しかし、細川家への仕官を裏付ける複数の信頼性の高い資料が存在することから 2 、これらの異説は信憑性の低い伝承の域を出ない可能性が高いと判断されます。
重要なのは、息子たちも共にまとまった石高で仕官したという事実です。これは、正賀が単に個人の能力で再仕官を果たしただけでなく、「立石家」という一つの武家を、近世大名の家臣団の中に盤石な形で再興させることに成功したことを意味します。彼の現実を見据えた生存戦略が、完璧な形で結実したことの証と言えるでしょう。
立石正賀の物語は、単なる個人の成功譚ではありません。それは、戦国という流動的な社会が終わりを告げ、徳川幕藩体制という新たな秩序が確立される過程で、多くの武士とその「家」が経験した淘汰と再編のリアルな一例です。彼は、その激しい時代の変化の波を巧みに乗りこなし、自らの家を近世武士として見事に存続させた、卓越したサバイバーであったと言えます。
立石正賀の名を後世に最も広く知らしめた要因は、彼が著者とされる軍記物『長元記』の存在です。しかし、この定説には、史料を突き合わせると大きな疑問符が付きます。この章では、この歴史ミステリーの真相に迫ります。
『長元記』は、『長元物語』とも呼ばれ、主に長宗我部元親の一代記を中心として、その興亡を描いた軍記物です 7 。同じく長宗我部氏を扱った『元親記』など他の軍記物と比較すると、箇条書き形式で構成されるなど、覚え書きとしての側面が強いとされています 7 。その筆致は、長宗我部氏の盛衰を冷静に分析していると評される一方で、構成の特殊さから読みにくく、理解しにくい部分も多いと指摘されています 7 。
史料としての価値については、江戸時代中期に成立した二次史料であるため、他の軍記物と同様に、作者の記憶違いや後世の潤色、誇張が含まれている可能性は常に考慮する必要があります 7 。それでもなお、長宗我部氏の歴史、特に元親時代の土佐七雄との力関係などを知る上で、欠かすことのできない重要な文献の一つとされています 28 。その内容は後世にも影響を与え、ウォーゲームのテーマとして採用されるなど 29 、今なお歴史愛好家の関心を集めています。
古くから、『長元記』の著者は立石正賀であると伝えられてきました 5 。彼は元親・盛親の二代にわたって仕え、長宗我部家の栄光と没落の双方を間近で見てきた人物であり、その一代記を記す著者として、これ以上ないほどふさわしい経歴を持っています。
しかし、この定説には看過できない大きな矛盾が存在します。『長元記』の成立年代は、万治二年(1659年)とされているのです 7 。仮に正賀の生年を永禄7-8年(1564-65年)とすると、この時点で彼は95歳前後という、当時としては驚異的な高齢に達してしまいます。もし元和10年(1624年)に没したという説 4 を採用するならば、当然ながら『長元記』成立時には故人であったことになります。この決定的な年代の矛盾から、現在では研究者の間で、立石正賀が単独でこの書を完成させたという説は強く疑問視されています 2 。
この矛盾を解消するための最も有力な仮説は、次のようなものです。まず、立石正賀が生前に、長宗我部家に関する自身の見聞や記憶を「覚書」や断片的な記録として書き遺していた。そして、それを元にして、彼の死後、子孫や旧臣関係者といった後世の人物が、万治二年(1659年)に一つの書物として編纂・完成させた、というものです。『長元記』が「覚え書きとして書かれているので読みにくく」 7 と評される特徴は、この「原資料(覚書)」と「編纂」という二段階の成立過程を経たとする仮説を強く支持します。
あるいは、正賀が遺した記録を核としつつ、他の長宗我部旧臣からの伝聞なども集めて補い、一冊の書物としてまとめ上げた、という合作の可能性も考えられます。
これらの考察から導き出される結論は、「著者は立石正賀」という古くからの伝承は、彼がオリジナルの情報源、すなわち「原著者」であったことを示唆していると解釈するのが最も妥当である、ということです。しかし、万治二年(1659年)の時点での「編著者」は、彼とは別の人物であった可能性が極めて高いと言わざるを得ません。
この著者問題は、歴史記録がどのようにして成立するのかという、より根源的な問いを我々に投げかけます。歴史書とは、ある一個人がゼロから書き上げるものばかりではなく、複数の人間や世代にわたる記憶の集積と再構成によって生み出されることがある、という事実です。もし『長元記』が後世に編纂されたものであるならば、その内容は編纂者の意図や、徳川の世が安定した万治年間という時代背景に影響されている可能性も考慮しなければなりません。旧主・長宗我部氏の記憶をどのように記録し、後世に伝えるかという編纂者の意識が、記述の取捨選択や人物評価に反映されているかもしれないのです。『長元記』は、立石正賀という個人の記憶が、時を経て「集合的記憶」へと昇華していくプロセスを体現した、貴重なサンプルと言えるでしょう。
本報告書の調査を通じて、立石正賀という人物像は、単なる戦国末期の一武将という静的なイメージから、より動的で多面的なものとして立ち現れてきました。彼は、旧来の価値観が通用しなくなった時代の転換期において、卓越した現実感覚と交渉能力、そして自らの「家」を存続させるという強い意志をもって行動した、極めて有能な実務家であり、戦略家でした。一条家から長宗我部家へ、そして長宗我部家の滅亡後は徳川・山内方へ協力し、ついには肥後細川家の重臣となるその生涯は、敗者の側にありながらも新時代へ巧みに適応し、見事な再生を遂げた武士の生き様を鮮やかに示しています。
彼の浦戸一揆における行動は、旧主への忠誠という観点からは複雑な評価を免れません。しかし、それは主家なき後の家臣が取りうる、最も現実的な生存戦略であり、その結果として彼とその一族は近世大名の家臣として存続することができました。また、『長元記』の著者問題は、彼が旧主・長宗我部家への追憶を終生持ち続けていた可能性を示唆すると同時に、歴史記録そのものの成立過程の複雑さを我々に教えてくれます。
立石正賀の物語は、歴史の主役である大名だけでなく、彼らを支え、時にその運命を左右した家臣たちの動向に目を向けることの重要性を改めて認識させてくれます。断片的な史料をつなぎ合わせ、その背後にある人間の決断や苦悩、そして時代の大きなうねりを読み解くことで、私たちはより立体的で深みのある歴史像を描き出すことができるのです。立石正賀という一人の武士の軌跡は、その好例と言えるでしょう。
西暦(和暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
関連情報・考察 |
典拠 |
1564年(永禄7年)/ 1565年(永禄8年) |
0歳 |
誕生。 |
生年には二つの説が存在する。通称は助兵衛。立石摂津守の弟として生まれる。 |
1 |
不明 |
- |
土佐一条家に仕える。 |
長宗我部氏に仕える以前は、土佐国司であった一条家に仕官していた。 |
1 |
1575年(天正3年)以降 |
11歳以降 |
長宗我部元親に仕える。 |
主家であった一条氏が長宗我部氏によって事実上滅ぼされた後、仕官したとされる。 |
1 |
不明 |
- |
伊予三滝城攻めなどで武功を立てる。 |
長宗我部氏の四国統一戦において、武将として前線で活躍したことが記録されている。 |
6 |
1589年-1597年頃 |
25-33歳頃 |
立石家の家督を相続。 |
兄・摂津守の子である甥の右京進が亡くなったため、家督を継いだ。 |
2 |
慶長期(1596-1615年) |
- |
知行千石を与えられる。 |
『豊臣武鑑』によると、長宗我部家の上級家臣として千石の知行を得ていた。 |
5 |
1600年(慶長5年)秋 |
36-37歳 |
関ヶ原合戦後、降伏の使者を務める。 |
西軍敗戦後、横山新兵衛と共に井伊直政のもとへ主君・盛親の謝罪と家名存続を嘆願。 |
2 |
1600年(慶長5年)冬 |
36-37歳 |
浦戸一揆の鎮圧に協力。 |
井伊家家臣らと共に土佐へ赴き、浦戸城の明け渡しに抵抗した旧臣(一領具足)の鎮圧に尽力。 |
3 |
1601年(慶長6年)以降 |
37-38歳以降 |
肥後熊本藩主・細川忠興に仕える。 |
主家改易後、細川家に仕官。異説として加藤家仕官説や大坂の陣参加説もある。 |
1 |
同上 |
同上 |
破格の待遇で召し抱えられる。 |
1500石で仕官した説と、本人1000石、息子二人に各600石(計2200石)という説がある。 |
3 |
1624年(元和10年) |
60-61歳 |
没(異説)。 |
ゲームデータ等に見られる没年。多くの史料では没年不詳とされている。 |
4 |
1659年(万治2年) |
- |
『長元記』が成立。 |
著者とされるが、成立年代から本人が直接執筆したかは疑問視されている。生前の覚書を元に後世に編纂された可能性が高い。 |
2 |