西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
1573年(天正元年) |
1歳 |
美濃国岩手にて、竹中半兵衛重治の嫡男として誕生。幼名は吉助 1 。 |
1579年(天正7年) |
7歳 |
父・重治が播磨三木城攻めの陣中で病死。叔父の竹中重利が後見人となる 1 。 |
1584年(天正12年) |
12歳 |
小牧・長久手の戦いに初陣を飾る 1 。 |
1588年(天正16年) |
16歳 |
家督を相続。従五位下・丹後守に叙任される 1 。 |
1589年(天正17年) |
17歳 |
豊臣秀吉より美濃国不破郡内に5,000石を安堵される 1 。 |
1590年(天正18年) |
18歳 |
小田原征伐に従軍 2 。 |
1592年(文禄元年) |
20歳 |
文禄の役では、名護屋城に駐屯する 2 。 |
1594年(文禄3年) |
22歳 |
河内国内にて1,000石を加増され、合計6,000石となる 2 。 |
1597年(慶長2年) |
25歳 |
慶長の役では、軍目付として朝鮮へ渡海する 3 。 |
1600年(慶長5年) |
28歳 |
関ヶ原の戦い 。当初西軍に属し犬山城に籠城するが、黒田長政らの説得で東軍に転じる。本戦では長政と共に岡山(丸山)に布陣し、石田三成隊を攻撃。戦後、伊吹山中に逃亡した小西行長を捕縛する大手柄を立て、徳川家康より所領安堵、感状、米千石、名刀光忠を賜る 2 。 |
1608年(慶長13年)頃 |
36歳 |
菩提山城を廃し、山麓の岩手に竹中氏陣屋を築く 6 。 |
1614年(慶長19年) |
42歳 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣 1 。 |
1615年(慶長20年) |
43歳 |
大坂夏の陣に徳川方として参陣 1 。 |
1625年(寛永2年) |
53歳 |
将軍・徳川家光より、美濃・河内合わせて6,000石の所領を安堵される 1 。 |
1631年(寛永8年) |
59歳 |
儒学者・林羅山に師事し、和漢の学を修める。死の間際に豊臣秀吉の一代記『豊鑑』を著す。同年閏10月9日、江戸屋敷にて病死。墓所は泉岳寺(東京都港区) 1 。 |
戦国時代に彗星の如く現れ、「今孔明」とまで称された天才軍師、竹中半兵衛重治。わずか16人の手勢で難攻不落の稲葉山城を乗っ取り主君を諫め、後に豊臣秀吉の参謀としてその天下取りを支えた逸話の数々は、今なお多くの人々を魅了してやまない 9 。彼の名は、知略と、そして私欲のなさの象徴として、戦国史に燦然と輝いている。
本報告書の主題である竹中重門は、この偉大なる父・半兵衛の嫡男として生を受けた人物である。彼が7歳の時に父は陣中で病没し、重門は「天才軍師の息子」という、計り知れない期待と重圧をその一身に背負って歴史の表舞台に立つこととなった 1 。一部の史料では「父半兵衛ほどの軍才は受け継がなかったらしい」と評されるように、彼の生涯は常に偉大な父の影と比較される宿命にあった 12 。
しかし、竹中重門という人物を単に「父の影」として片付けることは、歴史の複雑な綾を見過ごすことになる。彼が生きた時代は、個人の武勇や知略が雌雄を決した戦国乱世の終焉から、徳川幕府による安定した統治体制が確立される「泰平の世」への、まさに一大転換期であった。求められる能力も、戦場で勝利を掴む「武」から、領地を治め、家の存続を図る「治」と「文」へと大きく舵を切る時代であった。
本報告書は、竹中重門を父の付属物としてではなく、一人の独立した武将、領主、そして文化人として捉え直すことを目的とする。彼が父から受け継いだ無形の遺産をいかに活かし、天下分け目の大乱を乗り越え、そして新たな時代に求められる役割を自ら見出し、行動することで、旗本竹中家の礎を築き上げたのか。その多面的な実像に、詳細かつ徹底的に迫るものである。
竹中重門は、天正元年(1573年)、豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治の嫡男として、美濃国不破郡岩手で生を受けた 1 。幼名は吉助といった 3 。母は、西美濃三人衆の一人として知られる安藤守就の娘、得月院である 1 。この婚姻により、竹中家は美濃の有力国人と強固な縁戚関係を築いていた。
しかし、重門の幼少期は平穏ではなかった。天正7年(1579年)、父・重治が播磨国三木城攻めの陣中にて、わずか36歳の若さで病に倒れる 4 。この時、重門はまだ7歳であった。後ろ盾となるべき偉大な父をあまりにも早く失った重門は、父の従弟にあたる竹中重利の後見のもと、豊臣秀吉に仕えることとなる 1 。父・半兵衛が秀吉の家臣というよりは、織田信長から付けられた与力武将であったという見方もあるが 13 、その死後、遺された息子が秀吉に直接仕える形となったことは、両者の間に極めて強い信頼関係があったことを物語っている。
父との数少ない思い出として、半兵衛の厳格な教育方針を示す逸話が伝わっている。ある時、半兵衛が軍議の席で重要な軍談をしている最中、幼い重門が小用に立とうとした。すると半兵衛は、「軍談中に小用に立ってはならぬ。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したといわれれば、竹中家の面目であろう」と厳しく叱責したという 14 。この逸話は、半兵衛が息子に対し、武家の棟梁として公の場での立ち居振る舞いがいかに重要であるかを、幼い頃から徹底して教え込んでいたことを示している。
重門の生涯を決定づける上で最も重要な出来事は、彼の幼少期に、父・半兵衛の決断によってもたらされた。天正6年(1578年)、摂津有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、村重と親交のあった黒田官兵衛孝高が説得に向かうも、逆に捕らえられ城内に幽閉されてしまった 4 。
連絡が途絶えた官兵衛が裏切ったと誤解した信長は、人質として秀吉に預けられていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じる。しかし、半兵衛は盟友である官兵衛の忠節を固く信じていた。彼は主君・信長の命令に背くという極めて大きな危険を冒して、「松寿丸は殺害した」と偽りの報告を上げ、密かに自らの領地である美濃国岩手に松寿丸を匿ったのである 4 。
この半兵衛の命を懸けた信義の行動は、単に松寿丸の命を救い、黒田家の血筋を繋いだだけに留まらなかった。この庇護されていた期間、重門(吉助)と長政(松寿丸)は、岩手の地で共に遊び、友情を育んだとされる 14 。父・半兵衛が官兵衛に示した信義は、息子たちの世代に個人的な絆として受け継がれた。この出来事によって生まれた竹中家と黒田家の二代にわたる強固な盟約と恩義の関係は、20年後の関ヶ原において、重門の運命を劇的に好転させる決定的な伏線となるのである。
父の死後、豊臣秀吉の家臣となった竹中重門は、若くして武将としてのキャリアを歩み始める。天正12年(1584年)、12歳の時に小牧・長久手の戦いで初陣を飾ると 1 、天正18年(1590年)には豊臣軍の一員として小田原征伐にも従軍した 2 。これらの主要な合戦への参加は、彼が武将としての責務を着実に果たしていたことを示している。
豊臣政権下での重門の地位は、父・半兵衛の功績に対する秀吉の配慮もあって、順調に確立されていった。天正16年(1588年)、16歳で家督を正式に相続すると、従五位下・丹後守に叙位・任官される 1 。翌天正17年(1589年)には、本拠地である美濃国不破郡内に5,000石の所領を安堵された 1 。
重門のキャリアにおいて特筆すべきは、文禄・慶長の役における役割である。文禄の役(1592年-)では肥前名護屋城に駐屯し、後方支援の任に就いた 3 。続く慶長の役(1597年-)では、海を渡り「軍目付」として朝鮮の地に赴いている 3 。軍目付とは、諸将の戦功を検分し、軍令違反を監視する監察官としての役割を担う重要な役職である。この役目を任されたことは、秀吉政権が重門を単なる「半兵衛の息子」としてではなく、冷静な判断力と公正さを備えた、信頼できる実務官僚としても評価していた可能性を示唆している。父のような華々しい奇策を用いる軍師ではなかったかもしれないが、与えられた職務を堅実にこなす能力は、この時点で既に認められていたと見てよいだろう。
これらの朝鮮出兵における奉公が評価され、戦後、重門は河内国の大県郡および安宿郡内に1,000石を加増された 2 。これにより、彼の所領は合計6,000石となり、豊臣政権下で確固たる地位を築き上げるに至ったのである。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康と石田三成の間で急速に緊迫化する中、竹中重門は生涯で最も重大な決断を迫られることとなる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、豊臣恩顧の武将である重門は、当初、西軍に与した 3 。これは、父の代から秀吉に仕えてきた家臣として、ごく自然な選択であった。彼は、同じく西軍に味方した加藤貞泰(重門の妻は加藤光泰の娘であり、貞泰は義理の兄弟にあたる 3 )らと共に、犬山城主・石川貞清の応援として犬山城に籠城した 2 。
しかし、戦局は東軍優位に進む。東軍の福島正則らが岐阜城をわずか一日で攻略すると、西軍の動揺は隠せなくなった 2 。この状況下で、重門のもとに東軍からの調略の手が伸びる。井伊直政の仲介に加え、決定的な役割を果たしたのは、幼馴染である黒田長政の説得であった 3 。かつて父・半兵衛が命を懸けて長政を救い、共に岩手の地で過ごした少年時代の記憶と、二代にわたる両家の固い絆は、豊臣家への恩義という旧来の価値観を乗り越えさせた。重門は、もはや豊臣家一個の存続ではなく、天下の静謐というより大きな視点に立つことを選び、東軍への鞍替えを決断したのである。
東軍に転じた重門は、すぐさま自らの居城である菩提山城を徳川家康に提供し、東軍の重要な拠点の一つとした 3 。そして決戦当日、彼は黒田長政と共に、戦場全体を見渡せる関ヶ原北部の岡山(丸山)に布陣した 2 。この地から東軍開戦の狼煙が上げられたと伝えられており、重門が緒戦において重要な役割を担ったことがうかがえる 2 。
本戦では、黒田長政軍と緊密に連携し、西軍の主力である石田三成の本陣・笹尾山に対して側面から攻撃を仕掛けるなど、激戦地で奮戦した 2 。
重門の関ヶ原における最大の功績は、合戦終結後にもたらされた。西軍の総崩れにより敗走した将、小西行長が伊吹山中に潜伏しているとの情報が入る。行長は熱心なキリシタンであったため、教義により自害することができず、自ら捕縛されることを望んだとされる 19 。地元の庄屋であった林蔵主の手引きにより、在地領主である重門の家臣団が行長の身柄を確保し、家康の本陣があった近江草津まで送り届けたのである 3 。この小西行長捕縛という大手柄は、重門の戦後における立場を決定的なものにした 2 。
徳川家康は、重門の一連の働きを高く評価した。合戦直後の9月16日、家康は近江へ向かうにあたり、重門に米千石を与えた。これは、合戦が彼の領地で行われたことへの慰労と、戦乱で迷惑を被った領民への配慮を促すものであった。同時に、戦場の夥しい数の遺体を収拾して首塚を築くこと、そして戦で損害を受けた社寺の修復を命じている 2 。この命令は、家康が重門を単なる戦闘員としてではなく、関ヶ原という土地を治める領主として認め、徳川が構築する新たな秩序の中に組み込もうとする明確な政治的意図の表れであった。
さらに、小西行長捕縛の功に対して、家康は直筆の感状と、行長が帯びていた名刀「光忠」を下賜した 3 。戦後の論功行賞においても、当初西軍に与したという経緯にもかかわらず、その功績と東軍への転向が評価され、美濃・河内合わせて6,000石の所領は安堵された 26 。こうして竹中重門は、天下分け目の大乱を乗り切り、徳川の世で家名を存続させることに成功したのである。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、竹中重門の役割は戦国の武将から近世の領主へと大きく変貌を遂げる。彼が築いた旗本竹中家の基礎は、その後の約250年にわたる一族の運命を決定づけた。
時代の変化を象徴するように、重門は戦乱の世の拠点であった堅固な山城・菩提山城を廃し、慶長13年(1608年)頃、平時の統治に適した山麓の岩手(現・岐阜県不破郡垂井町)に新たな居館として「竹中氏陣屋」を築いた 6 。当初は「岩手城」とも呼ばれたこの陣屋は、旗本の居館としては異例なほど大規模な石垣と水堀を備えており、「小型の城」と評されるほどの堅固な構えであった 16 。現在も残る白壁の櫓門は、旗本が築いた城郭建造物として全国で唯一現存する貴重な文化財である 6 。
興味深いことに、陣屋を囲む水堀の一部は、関ヶ原合戦後に家康から賜った米千石を費用に充てて完成させたと伝えられ、「千石濠」の名で呼ばれている 6 。これは、徳川への忠誠の証として得た褒賞を、自家の防備と威光を示すための投資へと転換した、重門の領主としてのしたたかさを示している。領主としては、中山道垂井宿の助郷役を支配するなど、交通の要衝における行政の一端を担っていたことも史料からうかがえる 29 。
竹中家は、石高こそ1万石に満たない旗本であったが、徳川幕府から「交代寄合(こうたいよりあい)」という特別な家格を与えられた 3 。これは、旗本でありながら大名と同様に参勤交代を義務づけられ、江戸城に登城した際には大名が詰める柳間や帝鑑間に席を持つことを許されるなど、大名に準ずる高い格式と待遇を意味した 32 。この破格の待遇は、父・半兵衛の功名と、重門自身の関ヶ原での功績に対する幕府からの評価の表れであった。
しかし、この名誉には大きな代償が伴った。5,000石程度の収入で大名格の参勤交代や江戸屋敷の維持を行うことは、竹中家の財政に極めて大きな負担を強いた 31 。これは、名誉を与える一方で経済的に藩の力を削ぎ、幕府への従属を徹底させるという、大名統制にも通じる巧みな統制策であったと解釈できる。名誉と格式を維持するため、重門とその子孫は常に財政難と隣り合わせとなり、幕府への奉公と領地経営に専心せざるを得なかったのである。
幕府への公役としては、慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として参陣したほか 1 、二条城の普請なども務めている 3 。
寛永2年(1625年)、三代将軍・徳川家光から改めて美濃・河内合わせて6,000石の所領を安堵され、徳川の旗本としての地位を不動のものとした 1 。その後、寛永8年(1631年)閏10月9日、参勤交代のため滞在していた江戸屋敷にて、59年の生涯を閉じた 1 。墓所は、主君であった浅野内匠頭長矩の墓でも知られる江戸・高輪の泉岳寺にあり、現在もその墓石は静かに佇んでいる 3 。
竹中重門の生涯を語る上で欠かせないのが、武将としての一面と並び立つ、優れた文化人としての一面である。戦乱が終わり、泰平の世が訪れる中で、彼は武力に代わる新たな価値観を体現し、家の格を高めていった。
重門は、江戸幕府初期の思想的支柱であった儒学者、林羅山に師事し、和漢の学問を深く修めた 1 。この師弟関係は形式的なものではなく、重門の長男・重常の婚礼に際して羅山が祝賀の言葉を贈るなど、個人的な交流も深かったことが記録されている 2 。
この行動の背景には、寛永期という時代の大きな変化がある。三代将軍・徳川家光の下で幕府の支配体制が盤石になると、政治は力による「武断」から、学問や礼節を重んじる「文治」へと移行した 37 。幕府は朱子学を官学として奨励し、大名や旗本に学問を修めることを求めた。重門が当代随一の学者である羅山の門を叩いたことは、この時代の潮流を的確に読み、新たな支配者の価値観に積極的に適応しようとする、彼の知的な鋭敏さを示している。
重門の文化的業績の中で最も重要なものが、その死の間際である寛永8年(1631年)に完成した、かつての主君・豊臣秀吉の一代記『豊鑑(とよかがみ)』である 1 。本書は、童子の問いに答える形で秀吉の事績を語るという体裁をとった仮名書きの軍記物語であり 40 、秀吉の出自を下層民の子とするなど、比較的客観的な視点も見られる 41 。
『豊鑑』の執筆は、単なる旧主への追慕や文化的趣味に留まるものではない。それは、複数の意味合いを持つ高度な政治的・文化的営為であったと解釈できる。第一に、徳川の治世が安定し、秀吉が歴史上の人物として語られることが可能になった時代背景がある。第二に、幕府のイデオローグである林羅山の弟子が秀吉の伝記を著すことは、幕府の暗黙の了解があった可能性を示唆する。そして第三に、最も重要な点として、重門は秀吉の物語の中に、父・半兵衛の活躍を巧みに織り込むことで、竹中家の功績と、自らが「交代寄合」という特別な地位にあることの正当性を後世に伝えようとしたのである 42 。これは、武力ではなく「歴史記述」という知的営為によって、自家の名誉と存在意義を確立しようとする、近世武家の新たな生存戦略であった。
重門の文筆活動は『豊鑑』に留まらない。彼は和歌にも通じた教養人であり 1 、『時雨記(しぐれき)』と『木曽記(きそき)』という二冊の優れた紀行文も残している 2 。これらは、参勤交代という義務的な旅の道中で見聞した風景や心情を綴ったものであり、彼の繊細な観察眼と豊かな文学的才能を今に伝えている。武士が「戦う者」から「治める者」、そして「文化を担う者」へと変貌していく時代の流れの中で、重門は義務であった移動さえも文学創作の機会へと昇華させた。彼の文化活動は、新しい時代への見事な適応の証左と言えるだろう。
竹中重門の生涯は、偉大な父・半兵衛の影に覆われがちであった。しかし、彼の決断と行動が、その後の竹中家の運命を決定づけ、徳川の世における確固たる地位を築いたことは疑いようのない事実である。
重門が築いた基礎の上に、旗本竹中家は交代寄合という特別な家格を維持し、幕末まで存続した 8 。嫡男の重常は、父の文化的な素養を受け継ぎ、幕府の要職である禁裏の造営奉行を務め、また祖母・得月院の遺志を継いで菩提寺である禅幢寺の本堂を建立するなど、家の威光を高めた 2 。そして、その忠義の系譜は幕末に至る。最後の当主となった竹中重固は、幕府陸軍奉行として鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と戦い、敗走後も榎本武揚らと共に箱館五稜郭まで転戦し、旧幕府軍として最後まで戦い抜いた 8 。重門が関ヶ原で下した徳川への忠誠という決断は、約250年の時を経て、その子孫によって幕府の終焉まで貫かれたのである。
父・半兵衛が、乱世を自らの知略で切り拓いた「創造」の時代の軍師であったとすれば、重門は、確立された秩序の中で家を存続させる術を心得た「統治」の時代の領主であった。軍才では父に及ばないと評されながらも 12 、彼は政治的な判断力と、時代が求める文化的素養によって、見事に家を守り抜いた。
また、幼馴染であり関ヶ原の盟友であった黒田長政との比較も興味深い。長政は関ヶ原での功績により筑前52万石の大大名へと躍進した 12 。対して重門は6千石の旗本に留まった。この差は、両者の功績の大きさだけでなく、長政には父・官兵衛という強力な後見人がいたこと、そして徳川家に対する「外様」としての距離感の違いも影響しているだろう。しかし、重門は石高という実利に代えて、「交代寄合」という格式と名誉を確保した。異なる道筋ではあったが、彼もまた家の存続という最大の目的を達成したのである。
竹中重門の生涯は、偉大な父の威光という「光」と、そのために常に比較されるという「影」の両面を併せ持っていた。しかし彼は、父が遺した最大の財産である黒田家との絆を最大限に活用し、天下分け目の大乱という最大の危機を乗り越えた。そして、もはや武力のみが価値ではない新しい時代が到来したことを鋭敏に察知し、領地経営、幕府への奉公、そして学問と文筆という新たな武家の規範を実践することで、自らの手で旗本竹中家の未来を切り拓いた。
彼は、戦国武将の気骨と近世領主の理性を兼ね備え、時代の転換点を巧みに生き抜いた、類い稀なる「過渡期の武将」として、再評価されるべき人物である。
代 |
領主名 |
家督年月 |
没年月 |
領知(石高) |
主要事績 |
3 |
竹中重門(しげかど) |
天正16年(1588) |
寛永8年(1631) |
6,000石 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し、小西行長を捕縛。旗本交代寄合となる。著作に『豊鑑』など。 |
4 |
竹中重常(しげつね) |
寛永8年(1631) |
寛文4年(1664) |
6,000石 |
禁裏造営奉行を務め、従五位下越中守に叙任。禅幢寺本堂を建立。 |
5 |
竹中重高(しげたか) |
寛文4年(1664) |
延宝6年(1678) |
5,000石 |
弟・重之に1,000石を分知し、5,000石となる。 |
6 |
竹中重長(しげなが) |
延宝6年(1678) |
天和2年(1682) |
5,000石 |
|
7 |
竹中重栄(しげよし) |
天和2年(1682) |
宝暦10年(1760) |
5,000石 |
伊予大洲藩加藤家より養子に入る。 |
8 |
竹中元敏(もととし) |
享保14年(1729) |
宝暦3年(1753) |
5,000石 |
|
9 |
竹中元儔(もととも) |
宝暦3年(1753) |
安永9年(1780) |
5,000石 |
|
10 |
竹中重寛(しげひろ) |
天明元年(1781) |
文化4年(1807) |
5,000石 |
|
11 |
竹中重英(しげひで) |
文化4年(1807) |
文政7年(1824) |
5,000石 |
|
12 |
竹中重知(しげとも) |
文政7年(1824) |
天保11年(1840) |
5,000石 |
|
13 |
竹中重明(しげあきら) |
天保11年(1840) |
明治24年(1891) |
5,000石 |
|
14 |
竹中重固(しげかた) |
文久元年(1861) |
明治24年(1891) |
5,000石 |
幕府陸軍奉行。戊辰戦争で箱館五稜郭まで転戦。 |
8