竹崎季長は元寇で活躍した鎌倉御家人。文永・弘安の役で奮戦し、直訴で恩賞を獲得。戦功を『蒙古襲来絵詞』に描かせた。
鎌倉時代の御家人、竹崎季長。この名を聞いて多くの人々が思い浮かべるのは、歴史教科書にも掲載される、元軍の「てつはう」が炸裂し矢が飛び交う中を、ただ一騎で敵陣に突撃していく勇猛果敢な武士の姿であろう 1 。彼は二度にわたる蒙古襲来(元寇)という未曾有の国難において、その武勇を以て活躍し、自らの手で恩賞を勝ち取った人物として知られている 3 。
しかし、その英雄的なイメージの背後には、より複雑で人間味あふれる実像が隠されている。彼は肥後の有力な武士の一族に連なりながらも、所領争いに敗れて経済的に困窮した「没落御家人」であり 5 、自らの正当性を主張するために訴訟も辞さない執念の人物であった。そして何よりも、彼は自らの生涯と戦功を、後世にまで伝える壮大な絵巻物として「プロデュース」した、類稀なる自己表現者であった。
本報告書は、竹崎季長その人が制作を命じた国宝『蒙古襲来絵詞』を主要な手掛かりとして、彼の生涯を徹底的に掘り下げるものである 1 。この絵巻は、単なる戦いの記録ではない。そこには、彼の人生哲学、政治的な計算、そして篤い信仰心が複雑に織り込まれており、彼が自らの人生をいかに解釈し、後世に伝えたかったかを示す「自己表現のメディア」としての性格を色濃く持っている。
本報告では、季長の生涯を誕生から晩年まで時系列に沿って追いながら、各局面における彼の行動原理を解き明かす。そして、その行動が鎌倉という時代精神、社会構造といかに共鳴し、あるいは反発したのかを多角的に分析することで、一人の御家人の実像を通して、激動の時代そのものを浮き彫りにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
季長の年齢 |
竹崎季長の動向 |
関連する歴史的出来事 |
1246年(寛元4年) |
0歳 |
肥後国竹崎郷にて誕生 3 。 |
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1268年(文永5年) |
22歳 |
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元(モンゴル帝国)の使者が国書を携え来日。幕府は返書を送らず。 |
1274年(文永11年) |
28歳 |
文永の役 。手勢五騎で出陣し、博多・赤坂にて「先駆け」の功を立てるも負傷 2 。 |
執権・北条時宗。元・高麗連合軍が対馬、壱岐に侵攻後、博多湾に上陸。 |
1275年(建治元年) |
29歳 |
戦功が認められず、一族の反対を押し切り鎌倉へ 直訴 。御恩奉行・安達泰盛に認められる 9 。 |
元の使者・杜世忠らが斬首される。 |
1276年(建治2年) |
30歳 |
恩賞として肥後国 海東郷の地頭職 を拝領 11 。 |
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1281年(弘安4年) |
35歳 |
弘安の役 。防塁を拠点に、敵船に乗り込むなどの海戦で活躍 7 。 |
元が東路軍と江南軍の二手に分かれて再襲来。防塁での抵抗と暴風雨(神風)により元軍壊滅。 |
1285年(弘安8年) |
39歳 |
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霜月騒動 。恩人である安達泰盛が、内管領・平頼綱に滅ぼされる。 |
1293年(永仁元年) |
47歳 |
『蒙古襲来絵詞』を制作 させたと推定される 13 。海東郷の支配について定めた**『置文』**を制定 14 。 |
平頼綱が滅び、北条貞時が実権を掌握。 |
1297年(永仁5年) |
51歳 |
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永仁の徳政令が発布され、御家人の所領売買・質入れが制限される。 |
1314年(正和3年) |
68歳 |
法名を「法喜」と名乗り、置文を書き改める 15 。塔福寺への寄進状を作成。 |
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没年不詳 |
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領内の平原地区に隠棲し、死去したと伝わる 16 。 |
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竹崎季長は、1246年(寛元4年)、肥後国竹崎郷(現在の熊本県宇城市松橋町)に生を受けた 5 。彼の本拠地は、肥後において大きな勢力を誇った豪族・菊池氏の勢力圏にあり、季長自身もその菊池氏の一族であったとされている 5 。このことは、後年、彼が自ら制定した所領に関する文書『置文』において、自らの名を「藤原季長」と署名していることからも裏付けられる 19 。菊池氏の祖先は藤原氏を称しており、季長もまた同じ藤原姓を名乗ることで、菊池氏との同族意識を保持していたことがうかがえるのである。
しかし、名門・菊池氏の一族という出自にもかかわらず、季長の青年期は逆境の中にあった。彼は一族内部で起こった所領の相続をめぐる争論、すなわち訴訟に敗れ、父祖伝来の土地を失ってしまったのである 5 。これにより、彼は経済的基盤を失い、生活に窮する「無足の身」へと転落する 4 。この訴訟での敗北は、彼を一族の中で孤立させる決定的な要因となった 18 。
彼がなぜ相続争いに敗れたのか。その背景には、彼が嫡子ではなく、庶子(正室以外の子)であった可能性が指摘されている 4 。鎌倉時代、特に中期以降は分割相続が繰り返された結果、多くの御家人の所領は細分化し、経済的に困窮する者が増加していた。このような状況下では、惣領(嫡流の本家)が庶子家の所領を吸収しようとする動きが活発化し、相続をめぐる争いが頻発した。季長の境遇は、彼個人の不運であると同時に、当時の多くの零細御家人が直面していた構造的な問題の縮図でもあった。
この個人的な窮状と、彼を取り巻く社会構造の変化こそが、季長のその後の行動を理解する上で決定的な鍵となる。彼にとって、1274年(文永11年)に勃発した元寇という未曾有の国難は、恐怖の対象であると同時に、失われた地位と経済的基盤を自らの武功によって回復するための、まさに千載一遇の好機と映ったのである 5 。鎌倉武士社会の根幹をなす「御恩と奉公」の原則において、幕府のために命を懸けて戦う「奉公」こそが、新たな所領という「御恩」を得て、人生を逆転させる唯一の道であった。
さらに、菊池氏との複雑な関係は、彼のアイデンティティと行動に深い影響を与えたと考えられる。彼は菊池という名門の血を引くことに誇りを持ちながらも、その本流から弾き出され、同族に所領を奪われたという強いコンプレックスを抱えていたであろう。それゆえに、彼は後の戦場で肥後の英雄である菊池武房に敬意を払い、自らの戦功の証人となるよう依頼する一方で 20 、単に「菊池一族」として埋没するのではなく、自らの力で「竹崎季長」という一個の武士としての功名を打ち立てることに、並々ならぬ執念を燃やすことになったのである。
文永11年(1274年)10月、フビライ・ハーンの率いる元・高麗連合軍が日本に襲来し、文永の役が勃発した。この報を受け、当時28歳の竹崎季長は、幕府の御家人として戦場に駆けつける。しかし、彼の動員できた兵力は、郎党を含めてわずか五騎というあまりに寂しいものであった 6 。この兵力の少なさは、彼が所領を持たない「無足の身」であったという経済的困窮を何よりも雄弁に物語っている。
季長は、九州における日本軍の総大将・少弐景資が陣を敷く博多の息の浜(現在の福岡市東区)に参陣した。多くの御家人が大将の指示を待つ中、季長は功名を焦るあまり、突出した行動に出る。彼は、敵が陣を構える赤坂(現在の福岡市中央区)方面への「先駆け」、すなわち敵陣への一番乗りを敢行しようと試みたのである 9 。
この行動は、単なる血気にはやる若者の無謀な突撃ではなかった。そこには、後の恩賞獲得を見据えた、極めて計算された意図が隠されていた。武士社会において「先駆け」は最高の栄誉とされたが、その戦功が公式に認められるためには、第三者による客観的な証言が不可欠であった 24 。季長は突撃に際し、肥後国の最も有力な御家人であり、すでに武勇で名を馳せていた菊池武房の一隊に遭遇すると、馬を寄せて「わたくしが先駆けをするので、どうか御見証(証人)をお願いしたい」と依頼している 20 。これは、彼の行動が感情的なものではなく、「後で恩賞を請求するための証拠」を確保するという、法的な手続きを意識した戦略的な行為であったことを示唆している。
菊池武房という有力な証人を得た季長は、ついに元軍へと突入する。『蒙古襲来絵詞』には、この時の凄惨な戦闘の様子が克明に描かれている。元軍が用いた新兵器である火薬玉「てつはう」が頭上で轟音と共に炸裂し、無数の矢が飛び交う中を、季長はただ一騎で突き進む 1 。この激しい戦闘の末、彼は敵の矢を受け負傷し、乗っていた馬も射られて失ってしまう 2 。味方の救援によってかろうじて窮地を脱したものの、彼の「先駆け」は多大な犠牲を払ったものであった。
この一連の行動の中で、季長の功名心と焦りを象徴する、注目すべき逸話が記録されている。近年の『蒙古襲来絵詞』の綿密な研究により、原本には、季長が大将である少弐景資の陣前を通過する際に、下馬の礼(馬から降りて敬意を示す武家の礼儀)をとらずに、馬上から声をかけるという、極めて非礼な振る舞いを描いた場面が存在したことが明らかになった 25 。この部分は、武家の秩序を重んじる後世において、意図的に絵巻から隠されたか、あるいは改変された可能性が高いと指摘されている。この非礼な態度は、一刻も早く手柄を立てたいという季長の切迫した心理状態の現れであると同時に、大将に対しても物怖じしない自らの存在を強烈にアピールするための、意図的なパフォーマンスであった可能性すら考えられる。
『蒙古襲来絵詞』の最も有名なこの戦闘場面は、史実を伝える貴重な記録であると同時に、後世に「理想化された記憶」として再構成された側面も持つ。季長が三人の蒙古兵と対峙するこの象徴的な絵は、赤外線写真による分析などから、絵巻の制作当初には存在せず、後から加筆されたものであるという説が有力視されている 25 。
なぜこのような加筆が行われたのか。それは、季長の奮戦ぶりをより劇的に、より英雄的に見せるための演出であったと考えられる。本来の戦闘では、彼は姉婿の三井資長らと共に集団で戦っていた可能性が高いが 25 、この加筆によって彼は「孤高の英雄」として描かれることになった。この改変は、竹崎季長個人の武勇を最大限に際立たせたいという、制作者である季長自身、あるいは後代の所有者の強い意図を反映している。したがって、『蒙古襲来絵詞』を史料として読み解く際には、何が描かれているかを鵜呑みにするのではなく、「なぜそのように描かれたのか」、そして「何が隠され、改変されたのか」という史料批判の視座が不可欠となるのである。
文永の役は、元軍の突然の撤退によって、結果的に日本側の勝利に終わった。しかし、命を懸けて「先駆け」の功を立てたはずの季長のもとには、いつまで経っても幕府からの恩賞の知らせは届かなかった 9 。彼は、自らの戦功が、報告の責任者である少弐氏によって幕府へ正式に報告されていないことを悟る 24 。御家人にとって、戦功に対する恩賞は名誉であると同時に、次の戦に備えるための経済的基盤そのものであった。このままでは自らの「奉公」が水泡に帰してしまうと危機感を抱いた季長は、前代未聞の行動に出る。肥後から遠く離れた鎌倉へ自ら赴き、幕府に直接その功を訴える「直訴」を決意したのである 10 。
この決断に対し、彼の一族は猛反対した 10 。その背景には、季長がこの直訴にかこつけて、かつて敗訴した所領問題の再審を求めるのではないかという、一族の警戒心があったとされる。誰一人として彼の旅路を支援する者はなく、季長は自らの大切な馬と鞍を売り払って旅費を工面し、わずかな供を連れて、孤独な旅に出立した 27 。その胸中には「訴えが聞き届けられなければ、二度と故郷の地は踏まず、出家する」という悲壮な覚悟があった。
建治元年(1275年)、鎌倉に到着した季長であったが、正規のルートを経ない一介の御家人の訴えは、幕府の役人たちに全く相手にされなかった 28 。しかし、彼は諦めなかった。数ヶ月間粘り強く機会をうかがった末、ついに幕府の最高実力者の一人であり、御家人の恩賞を司る「御恩奉行」でもあった安達泰盛の屋敷に乗り込み、直接談判する機会を得る 10 。
泰盛との対面は、緊迫したものとなった。『蒙古襲来絵詞』の詞書は、そのやり取りを生々しく伝えている 29 。泰盛はまず、恩賞の基準となる具体的な証拠について尋ねた。「敵の首を分捕るか、あるいは家人が討死するなどの目に見える戦功はあったのか」。これに対し、季長は正直に「ございません」と答える 30 。すると泰盛は、「それならば論功行賞の対象とはなりがたい。負傷したことは認められているのだから、それで十分ではないか」と、季長の訴えを退けようとした。
これは、幕府の置かれた苦しい立場を反映していた。元寇は防衛戦争であり、承久の乱のように敵から没収して御家人に分配できる新たな土地がない 31 。そのため、恩賞の基準を「敵兵の殺害」といった、より厳格で客観的なものに限定せざるを得なかったのである。
しかし、全てを懸けて鎌倉まで来た季長は、ここで引き下がる男ではなかった。彼は、泰盛の論理に対し、驚くべき反論を展開する。「わたくしが申し上げているのは、恩賞が欲しいということではございません。命を懸けた『先駆け』の功が、将軍に御報告されていないという事実そのものが問題なのです。これが認められなければ、今後の戦で誰が進んで命を懸けて敵陣に切り込むでしょうか」 10 。彼は、自らの個人的な問題を、武士全体の士気に関わる普遍的な問題、ひいては幕府の国防体制の根幹に関わる問題へと巧みにすり替えてみせたのである。
さらに季長は、「もし私の申すことに御不審があるならば、将軍の御教書(命令書)をもって、大将の少弐景資殿にお尋ねください。もし偽りであったならば、この季長の首を刎ねていただいて構いませぬ」と、自らの命を賭けて主張の正当性を訴えた 30 。
この常識外れの気迫と、個人の利害を超えた大義を掲げる論理の前に、百戦錬磨の政治家であった安達泰盛はついに折れた。「話はわかった。将軍のお耳に入れよう。恩賞は間違いないであろう」と、季長の訴えを全面的に認めたのである 10 。
後日、季長は泰盛から、恩賞として肥後国海東郷の地頭職を与えるという将軍からの下文(公式命令書)を直接手渡される 10 。これは、通常は大宰府を経由して交付される手続きを省略した、極めて異例の措置であった。さらに泰盛は、故郷へ帰る季長に、旅費の足しにと見事な馬具を備えた馬一頭を与えた 10 。この一連の出来事は、季長の不屈の精神と交渉術の勝利であると同時に、彼の人物を見込んだ安達泰盛という、器の大きな政治家との幸運な出会いの結果でもあった。この直訴の成功は、硬直した官僚制と、有力者の裁量による柔軟な運用という、鎌倉幕府の統治が持つ二面性を象徴する出来事であったと言える。
文永の役から7年後の弘安4年(1281年)、元軍は東路軍4万、江南軍10万という、前回をはるかに上回る大軍勢で再び日本に襲来した(弘安の役) 12 。しかし、この7年間で日本側の防衛体制は大きく変化していた。幕府は博多湾岸一帯に、元軍の上陸を阻止するための長大な石の防塁を築かせていたのである 2 。これにより、戦闘の主舞台は陸上から海上へと移り、日本軍は防塁を拠点としながら、元軍の船団に夜襲をかけるなどのゲリラ戦を展開した 12 。
竹崎季長も、この二度目の戦いに再び出陣した。文永の役での「先駆け」の経験と、その後の直訴による恩賞獲得という成功体験は、彼をより積極的な武士へと成長させていた。『蒙古襲来絵詞』の下巻には、季長が兜の代わりにすね当てをかぶり、小舟に乗り込んで敵の大船に勇猛果敢に攻めかかり、敵兵の首級を挙げるという、海戦での目覚ましい活躍が描かれている 5 。この弘安の役での戦功によっても、彼は幕府から多大な恩賞を得たと伝えられている 33 。
二度にわたる元寇を生き延び、武士として最高の名誉と実利を得た季長は、戦後、恩賞として与えられた肥後国海東郷(現在の熊本県宇城市小川町)の地頭として、その統治に後半生の情熱を注いだ 16 。彼の活躍はもはや戦場だけのものではなかった。
彼の領主としての姿は、彼自身が後世に遺した複数の古文書、特に『竹崎季長置文』から具体的にうかがい知ることができる 15 。これらの文書は、彼が単なる戦闘狂ではなく、実務能力に長けた有能な在地領主であったことを証明している。例えば、正応6年(1293年)に制定された置文には、郷内の氏神である海東社(海頭社)や、自らの菩提寺と定めた塔福寺の経営を安定させるため、田畑からの年貢の一部をその修造費用として寄進することなどが、詳細な条文で定められている 11 。
これは、武力による支配だけでなく、地域社会の精神的な支柱である寺社の保護を通じて、領民の心を掴み、自らの支配の正統性を高めようとする、鎌倉時代の地頭の典型的な統治手法であった。戦場で敵に突撃する勇猛さと、机に向かって所領の安定と繁栄を構想する冷静な統治者の顔。この二面性こそ、幾多の困難を乗り越えて自らの土地を手に入れた、季長という人物の円熟した姿であった。
季長の晩年に関する詳しい記録は少ないが、領内の平原地区に隠棲し、穏やかな余生を送ったと伝えられている 16 。現在、その地には彼の墓とされる五輪塔が静かに佇んでいる。彼の正確な没年は不明であるが、正和3年(1314年)、68歳の時に「法喜」という法名を名乗り、自筆で寄進状を作成した記録が残っていることから 15 、少なくともその頃までは存命であったことが確認できる。
彼の人生は、自らの手で運命を切り開き、逆境を乗り越えて成功を掴んだ一人の武士の物語であった。そしてその物語は、彼が莫大な費用と情熱を注いで制作させた『蒙古襲来絵詞』と、彼の統治の証である『置文』という、二つの車の両輪によって後世へと伝えられることになった。『絵詞』が「彼はいかにしてこの海東郷を得たか」という正統性の物語を語る壮大なプロパガンダであるとすれば、『置文』はその土地における彼の支配を、神仏の権威と法的な契約によって現実的に安定させるための実務的な装置であった。この二つを同時に進めることで、彼は自らの人生の成果を、あらゆる側面から盤石なものとして未来に遺そうとしたのである。
竹崎季長の生涯を語る上で、彼自身が制作を命じた『蒙古襲来絵詞』の存在は決定的に重要である。この絵巻は、単なる戦功の記録を超え、彼の世界観、価値観、そして政治的意図までもが込められた、極めて多層的な歴史資料である。
『絵詞』の奥書によれば、この絵巻は永仁元年(1293年)頃に制作されたと推定されている 13 。その制作動機は単一ではなく、少なくとも三つの側面が複合的に絡み合っていたと考えられる。
第一に、 自らの戦功の顕彰と子孫への伝達 である。これは最も直接的な動機であり、二度にわたる国難に際して命を懸けて戦った自らの武功を、後世に生きる子孫に末永く伝え、竹崎家の名誉の礎としたいという願いがあった 1 。
第二に、 恩人への鎮魂と感謝の表明 である。季長が海東郷の地頭職を得る上で決定的な役割を果たした恩人・安達泰盛は、1285年の霜月騒動で政敵の平頼綱によって滅ぼされ、「幕府への反逆者」として非業の死を遂げていた。『絵詞』の制作は、この恩人父子の鎮魂を目的とし、彼らから受けた大恩を決して忘れないという季長の固い決意の表明でもあった 1 。幕府の公式記録から抹殺された「反逆者」の功績を、これほど大々的に絵巻の中心に据える行為は、季長の義理堅い人柄を示すと同時に、ある種のリスクを伴う政治的な行動でもあった。
第三に、 神仏への報恩と信仰の表明 である。季長は、自らが戦功を立て、恩賞を得られたのは、ひとえに日頃から信仰していた肥後国の甲佐大明神の御加護によるものだと深く信じていた。『絵詞』の制作は、この神恩に報いるための奉納物としての意味合いも強く持っていた 1 。自らの地頭職の正統性の源泉が、霜月騒動で失脚した安達泰盛にあるという政治的な脆弱性を、神仏への奉納という宗教的な権威付けによって浄化し、より普遍的なものへと昇華させようとする意図があったと解釈することも可能である。
『蒙古襲来絵詞』は、鎌倉時代の武具、甲冑、馬具といった装備品から、武士の館の構造、戦闘の具体的な様子までを、写実的な絵画によって現代に伝える、他に類を見ない一級の視覚的史料である 7 。特に、元軍が使用した「てつはう」や、蒙古兵・高麗兵の装備の違いなど、日本側の文献資料に乏しい情報を補う上で、その価値は計り知れない 1 。
しかし、その史料的価値を評価する際には、いくつかの限界点も認識しておく必要がある。第一に、 後世の加筆・改変の存在 である。前述したように、季長が蒙古兵と戦う場面の加筆疑惑や 25 、大将への非礼な態度を描いた詞書の一部が意図的に隠された可能性など 25 、現存する絵巻は制作当初の姿を完全に留めているわけではない 26 。そのため、描かれた内容をナイーブに事実として受け取るのではなく、慎重な史料批判が不可欠となる。
第二に、 物語としての作為性 である。『絵詞』は客観的な記録映像ではなく、竹崎季長という一人の男を主人公とする、明確な意図をもって構成された「物語」である。彼の行動は常に正当化され、英雄的であるかのように描かれている。例えば、安達泰盛との緊迫した問答の場面は、季長の熱意と論理性が際立つように、非常に劇的に構成されており、そこには制作者の「季長を英雄として描きたい」という強い意志が働いている 29 。
これらの限界を考慮してもなお、『蒙古襲来絵詞』が鎌倉武士の精神性を雄弁に物語る比類なき史料であることに変わりはない。功名を求める渇望、主君や恩人への揺るぎない忠義、神仏への深い信仰心、そして自らの手で運命を切り開こうとする強靭な意志。これらが渾然一体となった姿こそ、竹崎季長が後世に伝えたかった「武士の理想像」であり、鎌倉という時代の精神そのものであったのかもしれない。
竹崎季長の生涯を振り返る時、彼は典型的な鎌倉武士であったのか、それとも特異な存在であったのか、という問いが浮かび上がる。その答えは、両面にあると言えるだろう。
幕府への「奉公」によって所領という「御恩」を得ようとし、戦場での功名を何よりも重んじるという点において、彼は紛れもなく「典型的」な鎌倉御家人であった 8 。彼の行動原理は、当時の武士たちが共有していた価値観の枠内にあった。
しかし、その価値観を実現するための手段において、彼は明らかに「特異」な才能を発揮した。一族郎党の反対を押し切って、たった一人で幕府の中枢に乗り込み直訴を敢行する圧倒的な行動力 10 。幕府の最高権力者である安達泰盛を相手に、一歩も引かずに渡り合う高度な交渉術 10 。そして何よりも、自らの波乱に満ちた生涯を、後世にまで語り継がれる壮大な絵巻物として「プロデュース」するという、驚くべき発想力と実行力 24 。これらは、凡百の御家人には到底真似のできない、竹崎季長ならではの資質であった。
彼は、ただ戦場で武勇を誇るだけの武士ではなかった。自らの価値を客観的に認識し、それをいかにして他者に認めさせ、後世に記録として残すかという、極めて高度な戦略眼を持っていた。戦場での計算された「先駆け」、鎌倉での論理的な「直訴」、そして自らの功績を永遠に刻むための『絵詞』の「制作」。これら一連の行動は、全てが「竹崎季長」という一個人のブランドを確立し、歴史にその名を刻むための一貫した自己プロデュース戦略であったと評価できる。
そして、彼の最大の功績は、その自己顕示欲と執念が結果として、『蒙古襲来絵詞』という比類なき歴史遺産を我々にもたらしたことである。荒唐無稽な描写が多く、史料的価値に疑問が呈される『八幡愚童訓』などとは一線を画し、実際に戦闘に参加した当事者の証言に基づいて描かれたこの絵巻は、彼個人の物語を超えて、元寇という国家的大事件、そして鎌倉という時代そのもののリアルな姿を現代に語りかけてくる 8 。
竹崎季長は、自らの人生を賭して、歴史の単なる登場人物であることを拒み、自ら歴史の「証言者」となったのである。彼の遺した絵巻は、これからも多くの人々を魅了し、鎌倉という時代への尽きせぬ興味をかき立て続けるに違いない。