本報告書は、徳川御三家筆頭である尾張藩の初期藩政を主導した付家老、竹腰正信(たけのこし まさのぶ、1591-1645)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に再構築し、その歴史的役割と実像を明らかにすることを目的とする。正信の人生は、彼の母・お亀の方が徳川家康の側室となり、後の尾張藩祖・徳川義直を産んだという特異な出自に大きく規定されている 1 。しかし、彼の功績は単なる縁故による立身出世に留まるものではない。
正信は、徳川家康および二代将軍秀忠という幕府の最高権力者から直接的な信頼を勝ち取り、武勇と行政手腕を発揮して自らの地位を確立した。彼は、異父弟である藩主・義直の後見人として、また幕府の意向を体現する付家老として、草創期の尾張藩の統治機構を成瀬正成と共に盤石なものへと築き上げたのである 1 。本報告書では、正信が徳川の天下泰平を支えるための重要な「楔」として、いかにして尾張藩の安定と幕府の全国支配体制の確立に貢献したかを、彼の出自、武功、藩政における役割、そして文化的側面から多角的に分析する。彼の生涯を追うことは、戦国から江戸への移行期における徳川政権の統治戦略と、個人の運命が時代の大きなうねりの中でいかに交錯したかを理解する上で、極めて重要な示唆を与えるものである。
【表1】竹腰正信 略年表
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
1591年 |
天正19年 |
1歳 |
1月21日、竹腰正時の長男として誕生。幼名は萬丸、小傳次。 |
4 |
1594年 |
文禄3年 |
4歳 |
母・お亀の方が徳川家康の側室となる。正信も家康に召し出される。 |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
10歳 |
11月、異父弟・五郎太丸(後の徳川義直)が誕生。 |
5 |
1601年 |
慶長6年 |
11歳 |
甲斐国に5,000石を与えられる。 |
2 |
1607年 |
慶長12年 |
17歳 |
駿府城火災の際、家康を救出。成瀬正成と共に義直の後見役に任じられ、尾張に5,000石を加増され計1万石となる。 |
2 |
1611年 |
慶長16年 |
21歳 |
従五位下・山城守に叙任される。 |
2 |
1612年 |
慶長17年 |
22歳 |
平岩親吉の死後、成瀬正成と共に尾張藩の執政に就任。名古屋城の普請を監督。将軍・徳川秀忠の前で砲術を披露し、1万石を加増される。 |
2 |
1614年 |
慶長19年 |
24歳 |
大坂冬の陣に、義直を補佐して出陣。 |
10 |
1615年 |
元和元年 |
25歳 |
大坂夏の陣に出陣。今橋の戦いで武功を挙げる。 |
11 |
1619年 |
元和5年 |
29歳 |
主君・義直から1万石を加増され、合計3万石となる。美濃国今尾を居所とする。 |
2 |
1645年 |
正保2年 |
55歳 |
4月30日、名古屋にて死去。 |
2 |
竹腰正信の立身出世の物語を理解するためには、まず彼の父祖が置かれた状況を把握する必要がある。竹腰氏のルーツは、宇多源氏佐々木氏の流れを汲むとされ、古くから美濃国に根を下ろした国人であった 1 。戦国時代に入ると、彼らは美濃の実力者である斎藤氏の重臣として歴史の舞台に登場する。特に、大垣城主であった竹腰道鎮は、斎藤道三とその子・義龍が美濃の覇権を争った「長良川の戦い」(1556年)において、義龍方に与して戦死した記録が残る 12 。道鎮の子である柳沢城主・竹腰尚光もまた、斎藤家の重臣として名を連ねており、竹腰家が斎藤氏の支配体制において重要な役割を担っていたことがうかがえる 12 。
しかし、織田信長による美濃侵攻と斎藤氏の滅亡は、竹腰家の運命を大きく変転させる。正信の父である竹腰正時(通称、助九郎)は、主家を失い浪々の身となった 6 。その後の正時の足跡については諸説あり、定かではない。一つの説では、会津の上杉景勝に再仕官を試みるも叶わず、妻であったお亀の方と離別した後に自害したとされる 13 。また別の説では、秋田城之助なる人物に仕えた後、故あって切腹したとも伝えられている 13 。いずれにせよ、正信は幼くして父を失い、没落した旧臣の子という境遇に置かれた。
この出自は、正信の生涯を考える上で極めて重要である。彼は、徳川家譜代の家臣のように先祖代々の忠誠や功績という後ろ盾を持たなかった。彼の立身の基盤は、既存の徳川家臣団の内部にはなく、全くゼロからの出発であった。このことは、裏を返せば、彼が過去のしがらみを持たず、新たな主君である徳川家康に対して純粋かつ絶対的な忠誠を捧げる素地を持っていたことを意味する。彼の成功は、この「持たざる者」であった境遇と、後述する母の数奇な運命が結びついた結果であり、その後の彼の驚異的な出世をより際立たせる要因となっている。
竹腰正信の運命を劇的に変えたのは、母であるお亀の方(1573-1642、後の相応院)の存在であった。お亀の方は京都の石清水八幡宮の社家、志水宗清の娘として生まれた 7 。社人とはいえ、その身分は決して高くはなかったとされる 13 。彼女は最初の夫である竹腰正時と死別(あるいは離別)した後、文禄3年(1594年)、伏見城にて天下人・徳川家康の目に留まる。当時21歳であったお亀の方は、給仕として家康の前に出た際、その豊満で美しい容姿に加え、聡明さを高く評価され、家康の側室として迎え入れられた 13 。
家康の寵愛は深く、お亀の方は家康が50代から60代にかけて特に寵愛した「中の三人衆」の一人に数えられるほどであった 13 。この寵愛は、彼女に大奥内での確固たる地位をもたらし、間接的に政治的な影響力を行使する基盤となった。彼女は家康との間に、まず文禄4年(1595年)に八男・仙千代を産むが、この子は6歳で早世してしまう 7 。しかし、関ヶ原の戦いが終結した直後の慶長5年(1600年)11月、仙千代の生まれ変わりのように、家康59歳にして九男・五郎太丸(後の徳川義直)を産んだ 5 。家康はこの子を大いに喜び、「天下の楔(くさび)となってくれるだろう」との願いを込めて「五郎太丸」と名付けたとされ、その後の尾張徳川家では代々の世子にこの幼名が用いられるようになった 13 。
母・お亀の方が家康の側室となったことで、その連れ子であった竹腰正信の運命もまた、大きく動き出す。幼名を萬丸、あるいは小傳次と称した正信は、母を通じて家康に引き合わされ、その近習として仕えることになった 2 。当初は一介の小姓に過ぎなかったが、異父弟である徳川義直の誕生は、彼の立場を決定的に変えた。彼は単なる家康の近習ではなく、「将来の御三家筆頭当主の兄」という、他に類を見ない特別な地位を得ることになったのである 1 。
家康は、この異父兄弟の関係を巧みに利用し、徳川家の安泰を図るための布石とした。慶長6年(1601年)、正信はわずか11歳にして甲斐国に5,000石の知行を与えられた 2 。これは、彼が単なる「お亀の方の連れ子」ではなく、徳川家の家臣として正式に認められ、将来を嘱望された存在であることを示す最初の、そして極めて重要な指標であった。この時から、正信は徳川家の家臣として、そして義直の兄として、そのキャリアを力強く歩み始めることになる。
【表2】竹腰正信 関係系図
Mermaidによる関係図
注:大久保忠隣の養女・春は、実際には忠隣の息子・忠常の娘、すなわち忠隣の孫である 6 。
竹腰正信のキャリアを語る上で不可欠なのが、彼が就任した「付家老(つけがろう)」という特異な役職である。付家老、あるいは御附家老とは、江戸幕府が徳川将軍家の一族(親藩)を大名として新たに封じる際に、藩政の補佐と監督を目的として、将軍の直接命令により派遣した家老を指す 1 。彼らは、形式的には藩主の家臣(陪臣)でありながら、その任命の経緯から将軍の直臣(じきしん)に近い性格を併せ持つ、いわば二重の主従関係の中にあった。この制度は、強大な力を持つ御三家などが幕府から独立した勢力となることを防ぎ、幕府の統制下に置くための巧妙な統治システムであった 17 。
慶長12年(1607年)、徳川義直が清洲藩主(後に尾張藩主)に封じられた当初、藩の国政を実際に執っていたのは、徳川十六神将の一人でもある宿老・平岩親吉であった 3 。しかし、慶長17年(1612年)に親吉が嗣子なく死去すると、尾張藩の統治体制に空白が生じる 20 。この後継として、家康が白羽の矢を立てたのが、竹腰正信と成瀬正成であった。当時まだ22歳という若さであった正信が、御三家筆頭の藩の執政という重責に抜擢された背景には、義直の異父兄という血縁関係と、後述する駿府城火災での忠義などによって得た家康からの絶大な個人的信頼があったことは間違いない 1 。
正信は、同じく家康の側近であった成瀬正成と共に尾張藩の執政に就任し、以後、この二家は「両家」あるいは「両家年寄」と称され、幕末に至るまで尾張藩の最高職を世襲する二大付家老家として君臨することになる 3 。藩の重要政策に関する決定や公式な通達は、この両名の連署をもって発行されるのが常であった。例えば、元和4年(1618年)に尾張藩が美濃国内で5万石の加増を受けた際、その旨を国奉行の藤田民部に通達した連署状が現存しており、そこには「成隼人正(成瀬正成)」と「竹山城守(竹腰正信)」の名が並んで記されている 23 。
この「両家」体制は、単に二人の有力者を置いたというだけではない。それは、相互に牽制し合いながら藩主を補佐させることで、特定の家老への権力の集中を防ぎ、常に幕府の意向を藩政に円滑に反映させるための、計算された統治システムであったと分析できる。正信と正成は、いわば幕府と尾張藩とを繋ぐ制度的なパイプ役であり、その連署は幕府の権威と尾張藩の統治権が一体であることを示す象徴でもあった。
執政就任直後、正信に課せられた最初の大きな仕事は、天下普請として進められていた名古屋城の普請監督であった 2 。これは、巨大な城郭の建設を滞りなく進めることで、彼の行政手腕を内外に示す絶好の機会となった。
さらに彼は、草創期の尾張藩の領国経営と支配構造の確立に深く関与していく。現存する藩政史料からは、その多岐にわたる活動がうかがえる。例えば、元和2年(1616年)には、新たに拝領した美濃国の年貢(物成)の受け取りに関して、幕府老中らから正信と成瀬正成宛に連署状が発給されている 25 。また、元和5年(1619年)の岐阜町編入の方針を巡っても、両名が国奉行と書状を交わしており、幕府と藩、そして現場の間の調整役として不可欠な存在であったことがわかる 25 。
その他にも、寛永12年(1635年)に藩領内のキリシタン禁制の徹底を命じる老中連署奉書が両名宛に出されていることや 25 、家臣への知行地の割り当て(知行宛行) 25 、江戸と京都を結ぶ街道筋の治安維持に関する指示 25 など、正信は藩政の軍事、民政、司法、財政のあらゆる分野において、幕府の代行者として、また尾張藩の最高責任者として、その権能を振るっていた。このように、彼ら付家老は、若き藩主義直に代わって藩政の実務を担うだけでなく、幕府の政策を藩内に浸透させ、巨大な尾張藩を徳川の支配体制に安定的に組み込むための、制度的な橋渡し役という極めて重要な役割を果たしていたのである。
竹腰正信は、優れた行政官であると同時に、戦国の気風を色濃く残す武将でもあった。彼の生涯には、その忠誠心と武勇を物語る逸話が数多く残されている。
正信の忠誠心と勇敢さを最も象徴する逸話が、慶長12年(1607年)の駿府城火災における家康救出劇である。『新訂寛政重修諸家譜』などの記録によれば、この年、完成したばかりの駿府城から出火し、城内が混乱に陥った 6 。当時、家康は病の床にあり、避難が遅れていた。この報に接した正信は、誰よりも早く城に駆けつけ、燃え盛る炎の中から家康を抱えて庭へ脱出させ、自らの屋敷へと避難させたという 6 。
この時、正信はまだ17歳の若者であった。主君の危機に際して身を挺して行動したこの一件は、家康に深い感銘を与え、正信に対する信頼を不動のものにした 17 。この出来事は、単なる美談に留まらず、彼が後に異例の抜擢を受け、尾張藩の執政という重責を担うことになる重要な伏線であったと分析できる。
慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣は、初陣となる若き主君・徳川義直にとって、そしてその後見役である正信にとっても、真価が問われる戦いであった。正信は義直を補佐して冬・夏の両陣に従軍し、武将としての能力を遺憾なく発揮した 10 。
特に大坂夏の陣において、彼の武勇を伝える逸話が残されている。徳川方が大坂城に総攻撃をかける中、正信が担当した今橋の陣所は、城に最も近く、豊臣方から絶え間なく激しい鉄砲攻撃を受けていた。この状況を見た正信は、自ら鉄砲を手に取ると、敵の城壁にある銃眼(狭間)を目がけて3発射撃した。すると、3発ともが寸分違わず狭間を射抜き、これに驚愕した敵兵は攻撃をぴたりと止め、門を閉ざしてしまったという 11 。この逸話は、彼が単に采配を振るうだけの指揮官ではなく、卓越した戦闘技術を持つ、実戦経験豊かな武将であったことを如実に物語っている。
正信の武芸、特に砲術の腕前は、天下に鳴り響いていた。その技量を天下に示す決定的な機会となったのが、慶長17年(1612年)、二代将軍・徳川秀忠の御前で行われた砲術の披露であった 2 。
この時、正信は十三町(約1.3キロメートル)という長距離に置かれた的に対し、火縄銃を3発放ち、3発とも見事に命中させるという離れ業をやってのけた 11 。戦乱の記憶が生々しいこの時代において、砲術は最新かつ最強の軍事技術であり、その技量は武士の価値を測る重要な指標であった。正信のこの神技ともいえる腕前は、将軍秀忠を深く感嘆させた。
この功績は、単なる賞賛に終わらなかった。秀忠は、その場で正信に1万石の知行と与力50騎を直々に下賜したのである 2 。これは極めて重要な意味を持つ。この加増は、主君である義直を介したものではなく、将軍から直接与えられたものであった。この事実は、正信が尾張藩の家老であると同時に、幕府、すなわち将軍個人に直属する価値ある家臣であることを公に示すものであった。この砲術披露は、軍事的なデモンストレーションであると同時に、彼の政治的地位を飛躍的に高めるための戦略的なパフォーマンスでもあった。これにより、彼は尾張藩内における自らの権威をさらに強固なものとし、付家老としての二重の忠誠構造を内外に明確に示すことに成功したのである。
竹腰正信のキャリアの進展は、その知行高の変遷に明確に見て取ることができる。彼の知行は、慶長6年(1601年)に家康から与えられた甲斐国における5,000石から始まった 2 。慶長12年(1607年)に義直の後見役に任じられると、尾張国内に5,000石を加増され、合計1万石となった 2 。
その後、彼の石高は飛躍的に増加する。慶長17年(1612年)、将軍秀忠の前での砲術披露の功績により、幕府から直接1万石を加増される 2 。さらに元和5年(1619年)には、主君である徳川義直から1万石を加増され、最終的に合計3万石の領主となった 2 。この3万石の知行地のうち、彼は美濃国安八郡今尾(現在の岐阜県海津市平田町)に陣屋を構え、自らの本拠地とした 3 。これが、事実上の「今尾藩」の始まりである。
【表3】竹腰正信の知行変遷
年代(元号) |
石高 |
加増の内訳 |
加増の主体 |
累計石高 |
典拠 |
慶長6年 (1601) |
5,000石 |
新規拝領(甲斐国) |
徳川家康(幕府) |
5,000石 |
2 |
慶長12年 (1607) |
5,000石 |
加増(尾張国) |
徳川家康(幕府) |
10,000石 |
2 |
慶長17年 (1612) |
10,000石 |
加増(砲術披露の功) |
徳川秀忠(幕府) |
20,000石 |
2 |
元和5年 (1619) |
10,000石 |
加増 |
徳川義直(尾張藩) |
30,000石 |
2 |
この表が示すように、彼の知行3万石のうち、実に3分の2にあたる2万石が家康・秀忠という将軍家から直接与えられたものであった。この事実は、彼の権力の源泉が本質的に幕府にあったことを明確に物語っており、付家老としての彼の立場を具体的に示している。
3万石という石高は、当時の基準では独立した大名と見なされるに十分な規模であった。しかし、竹腰家は江戸時代の大部分を通じて、正式な大名(藩)としては認められず、あくまで尾張藩の家臣、すなわち「陪臣(ばいしん)」という身分に留め置かれた 9 。
この一見矛盾した地位こそ、付家老という制度の特質を象徴している。幕府は、竹腰家に対して藩政を動かすに足るだけの石高と権威を与えつつも、身分的には藩主に従属させることで、彼らが尾張藩内で独立勢力化することを巧みに防いだのである 1 。この曖昧な立場は、竹腰家にとって常に緊張をはらむものであったが、同時に幕府と尾張藩の双方に対して影響力を行使できる源泉ともなった。この状況は幕末まで続き、慶応4年(1868年)、王政復古によって徳川幕府の体制が崩壊した後に、新政府の計らいによって初めて独立した「今尾藩」として公式に認められることになる 9 。
正信は今尾の領主として、城下町の振興にも力を注いだと考えられる 32 。彼の統治の痕跡は、今も地域文化の中に息づいている。特に、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されている「今尾の左義長」は、400年以上の歴史を持つ火祭りで、竹腰家が治めた城下町としての歴史を背景に持ち、今日まで受け継がれている 33 。
正信が築いた今尾陣屋の跡地は、現在、海津市立今尾小学校の敷地となっている 27 。往時の建物は残されていないが、陣屋からほど近い西願寺には、今尾城(陣屋)の門が山門として移築され現存しており、当時の面影を今に伝えている 27 。
竹腰正信の政治的地位を固める上で、彼の姻戚関係は極めて重要な役割を果たした。彼の正室・春は、徳川家康の重臣中の重臣であり、当時小田原藩主であった大久保忠隣の養女であった 2 。より正確には、忠隣の息子・忠常の娘、すなわち忠隣の孫にあたる 15 。この婚姻は、慶長14年(1609年)に家康自身の命令によって取り決められたものであり 11 、単なる個人的な結びつきではなく、高度な政治的意図に基づいた政略結婚であった。
この婚姻が持つ意味は大きい。それは、母の縁によって成り上がった新興の竹腰家を、徳川家譜代の筆頭格である大久保家と結びつけることであった。これにより、正信は徳川政権の中枢に確固たる足場を築き、その家格と正統性を補強することができた。家康にとってこの縁組は、自身の個人的な信頼に基づく新しい家臣(竹腰家)を、古くからの譜代大名ネットワークに組み込み、徳川の支配体制全体を安定させるための巧みな一手だったのである。
正信には、正室・春との間に三男一女がいた。長男の成方、次男の正晴、三男の正辰、そして娘が一人(後に尾張藩家老・石川正光の継室となる)である 2 。しかし、嫡男であるはずの成方は病弱であったためか、あるいは自ら出家したためか家督を継がず、次男の正晴が竹腰家の家督を継承し、二代目の付家老となった 43 。
正信は、勇猛な武将であり、有能な行政官であっただけでなく、当代一流の文化人としての素養も兼ね備えていた。特に茶の湯に対する造詣は深く、そのことを示す逸話や遺品が残されている。
徳川美術館が所蔵する「唐物丸壺茶入 銘 唐丸壺」は、その代表例である 45 。この茶入は、南宋から元代にかけて作られたとされる中国渡来の名品(大名物)であり、元々は正信が所持していたものが、後に竹腰家から尾張徳川家へ献上されたものである。このような高名な茶道具(名物)を所持することは、当時の武将にとって、単なる趣味に留まらず、自らの社会的地位や文化的権威を示す重要な手段であった。
さらに、正信が当代随一の文化人たちと交流を持っていたことも、現存する書状から明らかである。特に、茶人として名高い小堀遠州との間には親密な交流があった。遠州から正信に宛てて、贈られた椿への礼を述べた書状や、依頼した掛物の表具の出来栄えを賞賛する書状などが残されている 46 。
これらの事実は、正信が武辺一辺倒の人物ではなかったことを示している。彼にとって文化活動、特に茶の湯は、自らのステータスを確立し、他の大名や文化人との洗練されたネットワークを構築するための重要なツールであった。美濃の敗将の子という出自から、徳川政権の中枢へと駆け上がった彼にとって、武勇や行政手腕だけでなく、こうした文化的資本を身につけることは、自らをエリート層の一員として正統化し、その地位を盤石にするために不可欠な営為だったのである。
尾張藩の礎を築き、主君・義直を支え続けた竹腰正信は、正保2年4月30日(1645年5月25日)、名古屋の地でその生涯を閉じた。享年55(満54歳)であった 2 。その法号は正信院安誉道輝とされた 2 。
彼の死後、その遺骸がどこに葬られたかは、彼の生涯における特異な立場を象徴している。正信の墓所は、二箇所に存在するのである。一つは、愛知県名古屋市千種区の平和公園内にある、母・お亀の方(相応院)の菩提寺である相応寺の墓域である 2 。これは、尾張藩の家老として、また母を思う息子としての立場を示す墓所と言える。
しかし、もう一つの墓所が栃木県日光市に存在する 2 。日光は、言うまでもなく徳川初代将軍・家康を祀る日光東照宮が鎮座する、徳川幕府にとって最も神聖な場所である。彼の同僚であった成瀬正成もまた、その遺骨が日光山家康廟の傍らに葬られている 48 。
この二つの墓所の存在は、付家老という制度の本質を雄弁に物語っている。名古屋の墓所が尾張藩における彼の役割と家族への想いを表す一方で、日光の墓所は、彼の、そして竹腰家の究極的な忠誠の対象が、尾張藩主ではなく、徳川宗家、すなわち幕府そのものであったことを示す、死してなお強力な政治的ステートメントなのである。それは、彼が徳川の支配体制を支えるための直接的な装置であったことの、永続的な象徴と言えよう。
竹腰正信が創始した竹腰家は、彼の死後もその遺志を継ぎ、成瀬家と共に尾張藩の付家老職を世襲し、幕末に至るまで藩政の中枢を担い続けた 1 。彼らは藩主の補佐役として、時には藩主と対立しながらも、御三家筆頭という巨大な藩の舵取りを担ったのである。
竹腰正信の生涯を振り返ると、彼は母の縁という千載一遇の好機を最大限に活かし、自らの忠誠心、武勇、そして行政能力によって、その地位を不動のものとした人物であった。家康が、愛息・義直の将来を案じ、その幼名に「天下の楔」となる願いを込めたが 13 、その義直を最も近くで支え、尾張藩という巨大な組織を徳川の支配体制にしっかりと固定する「楔」そのものの役割を果たしたのは、まさしく異父兄である竹腰正信であった。
彼の人生は、戦国乱世から徳川泰平の世へと移行する時代のダイナミズムと、徳川幕府がいかにして巧妙な支配体制を構築していったかを、一人の人間のドラマを通して鮮やかに示している。竹腰正信という、特異な出自を持つ有能な家老の存在なくして、御三家筆頭・尾張藩の安定した初期統治はあり得なかったと言っても過言ではない。彼は、徳川の平和を支えた、目立たぬが故に極めて重要な人物として、歴史の中にその名を刻んでいる。