日本の戦国時代は、数多の英雄たちが天下を競った華々しい時代として語られますが、その輝かしい歴史の陰には、時代の大きなうねりに翻弄され、名もなき存在として消えていった無数の武将たちがいます。本報告書で光を当てる陸奥国の武将、米谷常秀(まいや つねひで)もまた、そうした歴史の狭間に埋もれた一人です。
米谷常秀は、天文4年(1535年)に生まれ、天正19年(1591年)にその生涯を閉じた、陸奥の戦国大名・葛西氏の家臣です 1 。彼の生きた時代は、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が日本の隅々にまで及び、旧来の地方権力が解体されていく激動の時代でした。特に彼の最期は、秀吉による「奥州仕置」と、それに反発して起きた「葛西大崎一揆」という、東北地方の歴史を根底から揺るがした大事件の渦中において、きわめて悲劇的な形で訪れます。
常秀の生涯は、単なる一地方武将の物語にとどまりません。それは、鎌倉時代以来の名門・千葉氏の血脈を引く誇り高き一族の系譜、四百年にわたり奥州に君臨した主家・葛西氏の没落過程、そして、東北の覇権を狙う伊達政宗の冷徹な策謀という、三つの大きな歴史的文脈が交差する一点に位置しています。
したがって、本報告書は、米谷常秀という一人の人物の生涯を丹念に追うことを通じて、戦国末期の東北地方で繰り広げられた権力闘争の実像と、中央集権化の波に飲み込まれていった地方勢力の悲運を、多角的に解明することを目的とします。彼の死は、中世という一つの時代の終わりと、近世という新しい時代の幕開けを告げる、象徴的な出来事だったのです。
米谷常秀という武将の人物像、そして彼の行動原理を深く理解するためには、まずその血脈的背景、すなわち彼が属した米谷氏の出自を解明することが不可欠です。米谷氏は、葛西氏の家臣団の中にあって、単なる一被官ではなく、関東の名門・千葉氏の流れを汲むという、高い家格を誇る一族でした。この出自こそが、彼らの誇りの源泉であり、同時に悲劇の一因ともなったのです。
諸資料によれば、米谷氏は桓武平氏を祖とする下総国(現在の千葉県北部)の名門、千葉氏の一族に連なります 2 。その直接の祖先は、下総国千田荘亀卦川村(現在の千葉県内)を名字の地とした亀掛川(きけがわ)氏です 3 。
鎌倉時代、源頼朝の有力御家人であった千葉氏の勢力は、奥州藤原氏滅亡後の東北地方にも及んでいました。亀掛川氏の祖とされるのは、千葉氏の始祖・常胤から四代目の千葉胤氏(三郎、左馬助)です 2 。胤氏は、鎌倉時代に一族の一部を率いて陸奥国へ移住し、葛西氏の配下に入ったと伝えられています 1 。これが、後に葛西領内で有力な一族として根を張る、亀掛川千葉氏の始まりでした。
陸奥へ移った亀掛川氏は、葛西氏の有力な被官として、登米郡や磐井郡(現在の宮城県北部から岩手県南部)一帯に所領を与えられ、勢力を拡大しました。一族は本拠とした米谷のほか、大原新山城や西郡、狼河原などにも分かれ、葛西領の統治において重要な役割を担うようになります 4 。
亀掛川氏の嫡流、あるいはその分流から、どのようにして「米谷氏」が成立したのか、その正確な経緯は史料上必ずしも明確ではありません。一説には、亀掛川氏の祖・胤氏の曽孫にあたる盛政が、米谷の地に鼎館(かなえだて)、別名「米谷古館」を築いたことが始まりともされます 4 。いずれにせよ、亀掛川一族の一部が米谷の地名を名乗り、米谷氏として分立したと考えられます。
特筆すべきは、複数の資料が米谷氏を「平姓亀卦川千葉氏の本宗」、すなわち宗家(本家)であると記している点です 2 。これは、米谷氏が単なる分家ではなく、亀掛川千葉一族全体の中で中心的な権威を持つ家系と認識されていたことを示唆します。この高い家格は、葛西家臣団内における彼らの発言力や影響力の基盤となっていたことでしょう。
米谷常秀は、この米谷氏の当主・米谷常時(豊前守と称される)の子として、天文4年(1535年)に誕生しました 1 。彼には複数の兄弟がおり、特に五男・常忠と七男・信忠は、常秀と運命を共にすることになります。常忠は「亀卦川五郎」や「米谷修理」とも称され、狼河原邑主であった亀卦川信忠の養嗣子となったという記録も残っています 3 。この事実は、米谷家と亀掛川一族が分立後も婚姻や養子縁組を通じて密接な関係を維持し、一族としての結束を保っていたことを物語っています。
このように、米谷常秀は、源平の時代にまで遡る名門・千葉氏の血を引くという、誇り高い出自を持っていました。この血統意識は、戦国の世を生きる彼の精神的支柱であったに違いありません。しかし、皮肉なことに、この伝統的な権威と家格は、戦国末期の激しい権力闘争と、豊臣政権という中央からの巨大な圧力の前では、もはや何の盾にもなりませんでした。常秀の悲劇は、旧来の血筋や家柄といった価値観が、伊達政宗のような新興勢力の冷徹な政治的計算の前では無力であったという、時代の大きな転換を象徴しているのです。
米谷常秀がその生涯の大部分を捧げた主家・葛西氏は、戦国末期、大きな岐路に立たされていました。常秀の運命を理解するためには、彼が仕えた葛西氏が置かれていた状況と、その中で彼が果たした役割、そして本拠地である米谷の戦略的重要性を分析する必要があります。
葛西氏は、鎌倉幕府の成立に貢献した初代・清重が源頼朝から奥州の広大な所領を与えられて以来、約四百年にわたって陸奥国に君臨した名族です 6 。しかし、戦国時代末期に至ると、その権勢には陰りが見え始めていました。
常秀が仕えた第17代当主・葛西晴信の時代、葛西氏は領内の一族や家臣間の小競り合いに明け暮れ、領国経営の近代化や統一的な支配体制の構築に後れを取っていました 7 。南からは伊達氏、西からは大崎氏といった周辺勢力との緊張関係が続く中、葛西氏は領内の結束を固め、外へと働きかける外交戦略を十分に展開できずにいました。
決定的な転機となったのは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして行った小田原征伐でした。葛西晴信は、秀吉からの参陣命令に応じず、これが豊臣政権への反逆と見なされました。結果、同年の「奥州仕置」において、葛西氏は四百年間守り抜いた全ての所領を没収され、戦国大名としての歴史に幕を閉じることになったのです 1 。異説として、晴信は秀吉の仕置軍と戦って討死したとも伝わりますが 8 、いずれにせよ、葛西氏の権力が完全に失われたことに変わりはありませんでした。
このような斜陽の主家にあって、米谷常秀は「右馬助」や「左馬允」といった官位を称し、葛西氏の有力被官として重きをなしていました 1 。彼の本拠地であった米谷(現在の宮城県登米市東和町米谷)は、北上川左岸に位置し、水陸交通の要衝として戦略的にきわめて重要な場所でした 9 。
この米谷地区には、近接して「米谷城」「鼎館(かなえだて)」「大膳館」という三つの城館が存在したことが知られています 4 。常秀の居城がこのうちのどれであったかについては、史料によって見解が分かれています。一般には「米谷城主」として知られますが 1 、より古い形式を持つ「鼎館」が「旧米谷館」や「米谷古城」とも呼ばれていることから、常秀の時代の実際の居館はこちらであった可能性も有力視されています 11 。この居城の不確定性は、地方豪族に関する史料が断片的になりがちなことを示す一例と言えるでしょう。
いずれの城館を本拠としていたにせよ、米谷一族が北上川流域の交通と軍事を押さえる要として、葛西領の防衛と統治に不可欠な存在であったことは間違いありません。
しかし、常秀の運命は、彼個人の能力や忠誠心だけではどうにもならない、より大きな力によって規定されていました。それは、主家である葛西氏の時代錯誤な戦略的失敗と、その領地が置かれた地政学的な宿命です。葛西領は、南から領土拡大の野心を燃やす伊達氏と、西から中央集権化の圧力をかける豊臣政権という、二つの巨大な勢力に挟まれた緩衝地帯でした。このような状況下で、旧来の独立を維持しようとした葛西氏の戦略は、もはや現実的ではありませんでした。
米谷常秀は、この沈みゆく船とでも言うべき葛西氏から離れることなく、最後まで運命を共にした忠臣であったと言えます。しかし、その忠誠心は、結果として彼自身を、そして彼の一族を破滅へと導くことになったのです。彼の悲劇は、一個人の物語であると同時に、より大きな権力構造の中に飲み込まれていく地方勢力の脆弱性を体現するものでした。
主家・葛西氏の改易により、米谷常秀は一日にして所領と主君を失う「浪人」の身となりました。しかし、彼の運命を決定づけたのは、この直後に発生した「葛西大崎一揆」でした。この一揆は、表向きは新領主への抵抗運動でしたが、その裏では伊達政宗の巨大な策謀が渦巻いていました。常秀は、自らの意思とは関わりなく、この謀略の渦へと巻き込まれていきます。
天正18年(1590年)の奥州仕置により、葛西・大崎両氏の旧領三十万石は、豊臣秀吉の家臣である木村吉清・清久親子に与えられました 15 。しかし、新領主となった木村親子は、性急かつ強引な支配を行いました。新たな検地(太閤検地)の実施や、武士身分の者から農民に至るまでの武器を取り上げる刀狩りなど、土地の伝統や慣習を無視した政策は、土地に深く根を張って生きてきた葛西・大崎の旧臣や領民たちの激しい反発を招きました 16 。
同年10月、ついに旧臣たちの不満が爆発し、大規模な一揆が勃発します。彼らは木村氏の居城である寺池城を占拠し、佐沼城に逃れた木村親子を包囲しました 15 。米谷常秀も、多くの葛西旧臣たちと同様に、先祖伝来の土地と誇りを守るため、この一揆に身を投じたと考えられます。
一揆の報を受けた豊臣秀吉は、伊達政宗と会津の蒲生氏郷にその鎮圧を命じました。しかし、ここから事態は複雑な様相を呈します。蒲生氏郷のもとに、「この一揆は伊達政宗が裏で扇動している」という密告がもたらされたのです 16 。
政宗が一揆を煽ったとされる理由は、彼の野心にありました。彼は、自ら混乱を引き起こし、それを鎮圧するという「手柄」を立てることで、秀吉から葛西・大崎の旧領を自らの所領として与えられることを狙っていたのです。後に、政宗が一揆の指導者に宛てたとされる密書が証拠として突きつけられますが、政宗は書状に据えられた自身の花押(サイン)について、「本物の自分の花押は、鶺鴒(せきれい)の目の部分に針で穴を開けているが、この書状のものには穴がない。よって偽物である」と主張し、絶体絶命の窮地を切り抜けました 18 。
秀吉は、この政宗の弁明を表向きは受け入れ、死罪を免じました。しかし、その後の処置は、明らかに政宗への懲罰と見なせるものでした。秀吉は、政宗が鎮圧した葛西・大崎領を彼に与えることはせず、代わりに本拠地であった米沢から岩出山へと転封を命じました 19 。これは、秀吉が内心では政宗の扇動を事実と確信しており、その野心を警戒していたことの証左と言えるでしょう 20 。
自らへの疑惑を晴らすため、そして自らの野望を達成するため、伊達政宗による一揆鎮圧は凄惨を極めました。天正19年(1591年)6月、政宗は二万の大軍を率いて一揆勢の拠点である佐沼城を攻撃します。
城には侍約500人、そして女子供を含む領民約2,000人が立てこもっていましたが、政宗軍はこれを容赦なく攻め立て、7月3日に城を陥落させました 21 。政宗は、城内にいた人間を一人残らず殺害する「撫で斬り」を命じ、その様子は「城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほどであった」と伝えられています 16 。この時討ち取られたおびただしい数の首は、城の近くに埋められ、後世「首壇(くびだん)」と呼ばれる塚として、その悲劇を現代に伝えています 21 。
この葛西大崎一揆は、単なる旧領主への忠誠心から起きた抵抗運動ではありませんでした。それは、土地を守ろうとする旧臣たちの切実な願いというエネルギーを、伊達政宗が自らの領土的野心のために巧みに利用し、増幅させた、二重構造を持つ事件だったのです。一揆に参加した米谷常秀をはじめとする武士たちは、自らの権利のために戦っていると信じていたでしょう。しかし、彼らは結果として、政宗の描いた壮大な謀略の筋書きの上で踊らされる駒となり、その役割を終えれば容赦なく切り捨てられる運命にあったのです。
葛西大崎一揆の鎮圧後、米谷常秀ら生き残った葛西の旧臣たちを待っていたのは、さらなる過酷な運命でした。伊達政宗は、自らの策謀の痕跡を抹消するため、最後の仕上げに取り掛かります。それが、戦国史の中でも特に陰惨な謀略として知られる「須江山の惨劇」です。この事件によって、米谷常秀はその生涯に幕を閉じることになります。
天正19年(1591年)8月、一揆の主要な拠点が鎮圧され、大勢が決した後、伊達政宗は葛西の旧臣たちに対して、偽りの和解案を持ちかけました。政宗は彼らを呼び出し、「お前たちの罪が軽くなるよう、豊臣秀吉公に私が取りなしてやろう。だから、安心して沙汰を待て」という趣旨の言葉をかけたと伝えられています 24 。
主家を失い、一揆にも敗れた旧臣たちにとって、これは一縷の望みでした。米谷常秀は、弟の常忠、信忠、そして同じく葛西旧臣の中心人物であった武鑓重信らと共に、この言葉を信じて政宗のもとへ赴きました。しかし、彼らがそれぞれの知行地へ戻る帰路、桃生郡深谷の須江山(現在の登米市と石巻市にまたがる地域)の糠塚(ぬかづか)と呼ばれる場所で、悲劇は起こりました。待ち伏せていた数百人の伊達勢が彼らに襲いかかり、抵抗する間もなく、常秀をはじめとする一族、そして多くの葛西旧臣たちが謀殺されたのです 1 。
この「須江山の惨劇」は、単なる残党狩りではありませんでした。それは、政宗が一揆を扇動したという事実を知る者たちを、この世から抹殺するために仕組んだ、計画的な「口封じ」であったとする見方が根強くあります 4 。一揆の指導者層であった米谷常秀らは、政宗の謀略の最も重要な証人でした。彼らを生かしておくことは、政宗にとって将来に禍根を残す危険な賭けだったのです。偽りの和解で油断させ、一網打尽にするという手口は、政宗の冷徹な計算高さを如実に物語っています。
この謀殺に、歴史の皮肉な交差点とも言うべき事実が隠されています。この暗殺部隊の指揮者の一人として、後に慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡り、世界史にその名を刻むことになる支倉六右衛門常長(当時の名は与市)が加わっていたと記録されているのです 24 。
平和と通商を求めてローマ教皇に謁見した高名な使節が、そのキャリアの初期において、主君の謀略を遂行する冷徹な武士として、同郷の武将たちの騙し討ちに手を染めていたという事実は、強烈な衝撃を与えます。しかしこれは、支倉個人の資質の問題というよりも、戦国という時代の倫理観と、そこで生きる武士の多面性を浮き彫りにするものです。主君への絶対的な忠誠が求められる時代にあって、須江山での「汚れ仕事」もまた、主君に認められ、家を存続させるためには避けて通れない任務でした。そして、その任務を遂行した忠誠心と能力があったからこそ、後に彼は国を代表する大役を任されることになったのです。米谷常秀の死という地方の悲劇は、支倉常長の存在によって、期せずして世界史的な文脈と接続されることになりました。
事件の構図を明確にするため、以下に主要な関係者をまとめます。
表1:須江山の惨劇における主要関係者
立場 |
氏名 |
役職・身分 |
事件における役割と末路 |
典拠 |
被害者 |
米谷常秀 |
旧葛西家臣、米谷城主 |
謀殺された葛西旧臣の中心人物。伊達政宗に誘殺される。 |
1 |
|
米谷常忠 |
常秀の弟(五男) |
兄・常秀と共に謀殺される。 |
1 |
|
米谷信忠 |
常秀の弟(七男) |
兄・常秀と共に謀殺される。 |
ユーザー提供情報 |
|
武鑓重信 |
旧葛西家臣 |
米谷一族と共に謀殺される。 |
1 |
加害者 |
伊達政宗 |
出羽米沢城主、一揆鎮圧軍総大将 |
謀殺の首謀者。一揆扇動の口封じが目的と目される。 |
4 |
|
支倉常長 |
伊達家臣 |
謀殺部隊の指揮者の一人。後に慶長遣欧使節となる。 |
24 |
この表は、事件に関わった人々の立場と役割を明確にし、特に加害者側に後の歴史的重要人物である支倉常長が含まれていることが、この事件の持つ歴史的な深みと皮肉を象徴していることを示しています。
米谷常秀の死、そして「須江山の惨劇」は、単に一個人の悲劇として終わるものではありませんでした。この事件は、東北地方の勢力図を決定的に塗り替え、中世以来の権力構造に終止符を打つ、画期的な出来事でした。常秀の死後、彼の一族と本拠地がたどった運命は、歴史における勝者と敗者の非対称な現実を浮き彫りにします。
須江山での謀殺は、葛西旧臣たちの抵抗力を物理的にも精神的にも完全に打ち砕きました。指導者層を一挙に失ったことで、散発的な抵抗はあっても、組織的な反乱の芽は完全に摘み取られました。これにより、鎌倉時代から四百年にわたり奥州に一大勢力を築いてきた葛西氏という存在は、歴史の舞台から完全に姿を消すことになります。
この一連の事件、すなわち葛西大崎一揆の扇動、その苛烈な鎮圧、そして須江山での口封じという伊達政宗の一連の行動は、結果として彼の政治的目的を達成させました。豊臣秀吉は政宗の野心を警戒し、当初の目的であった葛西・大崎旧領の直接支配は許しませんでしたが、最終的にこの地域は伊達領に組み込まれることになります。須江山の惨劇は、伊達氏による新たな支配体制が確立される過程で流された、最後の大きな血でした。これ以降、この地は近世を通じて仙台藩の統治下に置かれ、安定期を迎えることになります。
米谷常秀の死後、彼の本拠地であった米谷の所領と城は、勝者である伊達氏の手に渡りました。この地は伊達家臣に与えられ、仙台藩の要衝として機能し続けます。記録によれば、文禄5年(1596年)には石母田景頼、元和2年(1616年)には柴田宗朝(伊達騒動で有名な柴田外記の養父)が入城し、その後も桑折氏、高泉氏と、城主は次々と代わっていきました 4 。これは、土地の支配者が旧来の葛西系豪族から、新たな支配者である伊達家臣へと完全に交代したことを明確に示しています。土地は残り、支配者は代わる。歴史の非情な現実がそこにあります。
一方、敗者となった米谷一族のその後はどうなったのでしょうか。常秀と弟たちが謀殺されたことで、彼の直系は断絶したと見られます。一族の多くが須江山で命を落としたか、あるいは離散し、歴史の表舞台から姿を消しました。
しかし、一族が完全に根絶やしにされたわけではなかった可能性を示唆する、興味深い記録が存在します。後の時代の仙台藩の家臣を記録した名簿の中に、「米谷長左衛門」という名が見られるのです 30 。この人物が、常秀の遠縁にあたる者なのか、あるいは須江山の惨劇を生き延びた分家筋の末裔なのか、その詳細は定かではありません。しかし、このわずかな記録は、敗れた一族が、改姓や身分を落としての帰農、あるいは新たな支配者への必死の仕官など、苦難の道を乗り越えて、その血脈をかろうじて繋いでいた可能性を物語っています。
勝者である伊達氏の歴史は、その家臣たちの活躍と共に詳細に記録され、語り継がれていきました。対照的に、敗者である米谷一族の名は、藩の記録の中に断片的にその痕跡をとどめるのみです。この記録の非対称性は、歴史がいかに勝者によって紡がれていくかという現実を如実に示しています。米谷常秀の物語を徹底的に掘り下げることは、この「勝者の歴史」の影に埋もれた、無数の敗者たちの声に耳を傾け、歴史を複眼的に捉え直す試みでもあるのです。
陸奥の将、米谷常秀の生涯を追う旅は、我々に何を問いかけるのでしょうか。彼の人生は、戦国時代という一つの時代が終わりを告げ、新たな時代が生まれようとする、巨大な地殻変動の中で生きた一人の地方武将の悲劇として集約されます。
米谷常秀の生涯は、中世的な地方分権体制が、豊臣政権という中央集権体制へと移行していく過程で必然的に生じた、無数の悲劇の典型例であったと言えるでしょう。彼は、主家への忠誠、鎌倉以来の名門としての誇りといった、旧来の武士的な価値観に殉じた人物でした。しかし、彼が信じたそれらの価値観は、伊達政宗に代表される、新しい時代の権力者の冷徹なリアリズムと、巨大な政治的・軍事的圧力の前には、あまりにも無力でした。
常秀は、自らの意思で歴史の表舞台に躍り出た英雄ではありません。むしろ、彼は時代の激流に抗うすべもなく、ただ飲み込まれていった存在です。しかし、彼の物語を詳細に追うことには、大きな意義があります。それは、伊達政宗や豊臣秀吉といった「勝者」の視点から描かれがちな歴史を、名もなき「敗者」たちの視点から再評価する機会を与えてくれるからです。
華々しい英雄譚の影には、故郷を奪われ、家族を殺され、誇りを踏みにじられた無数の米谷常秀たちが存在しました。彼らの声なき声に耳を傾けるとき、戦国時代という時代の持つ光と影、その複雑さと非情さが、より深く、より人間的なものとして我々の前に立ち現れてくるのです。米谷常秀の悲劇的な生涯は、歴史とは勝者だけのものではなく、そこに生きた全ての人々の記憶の集積であることを、静かに、しかし力強く我々に語りかけています。