最終更新日 2025-07-12

細川定輔

長宗我部元親の腹心、細川定輔(宗桃)の生涯 ―土佐の名門武将、その実像と一族の軌跡―

序章:長宗我部家臣・細川定輔という存在

日本の戦国時代、土佐国(現在の高知県)から身を起こし、一時は四国全土をその手中に収めようとした長宗我部元親。その輝かしい武功の陰には、彼を支えた数多の有能な家臣団の存在があった。本稿が主題とする細川定輔(ほそかわ さだすけ)も、そうした家臣の一人である。後に出家して宗桃(そうとう)と号したこの武将は、長宗我部氏の土佐統一、そして四国平定事業において、常に最前線で戦功を重ねた腹心として知られる 1

しかし、細川定輔の生涯を詳細に追跡しようとすると、我々はいくつかの困難に直面する。彼の出自は、室町幕府の管領という名門・細川氏の血を引くものであり、土佐の在地領主(国人)の中でも特異な由緒を誇っていた 1 。彼の父・国隆が長宗我部氏に臣従したことは、単なる一豪族の帰順に留まらず、土佐における旧来の権威構造が新たな実力者の前になびいたことを象徴する出来事であった。定輔自身も、元親から次々と軍事上の要衝を任され、その信頼の厚さをうかがわせる。

一方で、彼の具体的な活躍や一族の動向を伝える史料は、『土佐物語』や『元親記』といった後世に編纂された軍記物語や、断片的な系図、地方史誌に依拠する部分が大きい 3 。これらの史料は貴重な情報源であると同時に、編纂者の意図や伝承の過程で生じた潤色、あるいは記録の混同を含んでいる可能性を常に念頭に置かねばならない。特に、定輔の息子たちの経歴については、史料間で矛盾する記述も見受けられ、その実像を再構築するには慎重な史料批判が不可欠となる。

本報告書は、現存する諸史料を網羅的に調査・整理し、細川定輔という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げるとともに、彼が率いた十市細川氏一族の軌跡を明らかにすることを目的とする。彼の軍功を時系列に沿って再構成し、長宗我部氏の勢力拡大における戦略的役割を分析する。さらに、史料間の矛盾点を比較検討することで、より確度の高い歴史像を提示し、戦国という激動の時代を生きた名門武将の実像に迫るものである。


表1:細川定輔(宗桃) 略年譜

年代(和暦)

出来事

典拠

生誕年

不明

1

天文18年(1549年)頃

父・細川国隆が長宗我部国親に臣従する。

1

永禄4年(1561年)頃

長宗我部元親より土佐郡神田城主に任じられる。

1

永禄6年(1563年)

本山氏が朝倉城を放棄した後、同城の守備主将となる。

1

天正2年(1574年)

幡多郡平定に際し、同地の吉奈城(鶴ヶ城)主となる。

1

天正3年(1575年)

渡川の合戦後、元親の命により吉奈城番として入城。

7

天正6年(1578年)

讃岐国藤目ノ城攻めに従軍。この戦いで四男・弥四郎を失う。

7

天正10年(1582年)

阿波国勝瑞城攻め、伊予国三間郡高森城攻めなどに出陣。

1

天正13年(1585年)

伊予道後方面の合戦で長男・頼重を失う。

7

死没年

不明。吉奈城にて死去したと伝わる。

7


第一章:出自と十市細川氏

1.1 管領細川氏の血脈と土佐への土着

細川定輔の人物像を理解する上で、その出自である十市細川氏(とうちほそかわし)の背景は極めて重要である。この一族は、単なる土佐の在地勢力ではなく、室町幕府の中枢で権勢を振るった管領・細川頼之の後裔を称する名門であった 1 。頼之は、足利幕府初期の政治・文化に多大な影響を与えた人物であり、その血脈を引くことは、戦国時代の地方武士にとって大きな権威の源泉となった。

諸史料によれば、十市細川氏の土佐への土着は明応年間(1492年~1501年)頃、細川重隆(源重隆)が長岡郡十市村に入部し、栗山城(くりやまじょう)を築いたことに始まるとされる 6 。この栗山城は、太平洋を望む丘陵上に位置し、別名を十市城、あるいは蛸城(たこじょう)とも呼ばれた 7 。十市細川氏は、この地を本拠としたことから「十市」の姓も称した 1

彼らは土佐において、細川宗家(京兆家)の代理人たる管領目代(かんれいもくだい)の地位にあり、土佐守護代であった田村細川氏と共に、土佐の統治に関与していたと見られている 7 。その所領は4000石に及んだと伝えられ、長宗我部氏が台頭する以前の土佐において、屈指の勢力であったことがうかがえる 7 。この高貴な出自と確固たる経済基盤は、十市細川氏が他の土佐国人と一線を画す存在であったことを示している。

1.2 長宗我部国親の台頭と臣従への道

16世紀半ばの土佐国は、中央における細川宗家の内紛(永正の錯乱など)の影響を受け、守護による統治体制が崩壊し、国人たちが群雄割拠する動乱の時代にあった 11 。そうした中、岡豊城(おこうじょう)を拠点とする長宗我部国親(元親の父)が、巧みな内政と軍事行動によって急速に勢力を拡大し始めていた 5

国親は、仇敵であった本山氏や山田氏を次々と滅ぼし、その矛先を長岡郡南部に向けた 5 。そして天文18年(1549年)頃、ついに十市細川氏の本拠・栗山城を攻撃するに至る 6 。この時、十市細川氏の当主であった細川国隆(定輔の父)は、国親の勢いを前にして降伏し、その軍門に下った 1

この臣従は、単なる軍事的な勝敗以上の意味を持っていた。長宗我部氏自身も、歴史的には土佐守護細川氏の被官であり、その権威の下で勢力を伸ばしてきた一族であった 3 。その長宗我部氏が、かつての主家である細川氏の名門分家を屈服させ、自らの家臣団に組み込んだのである。これは、旧来の権威の象徴であった細川氏の権威を、新興勢力である長宗我部氏が実力で継承し、自らのものとしたことを内外に示す画期的な出来事であった。名門・十市細川氏を従えたという事実は、国親の台頭に大きな正当性を与え、他の国人たちを靡かせる上で強力な政治的資本となったに違いない。この時から、細川定輔とその一族は、長宗我部家の重臣として、新たな主君の覇業に身を投じていくこととなる。

第二章:元親の腹心として ―土佐統一への貢献―

父・国隆の跡を継いだ細川定輔は、長宗我部国親の子・元親の代になると、その類稀なる将器を見込まれ、家臣団の中核として重用される。彼の軍歴は、元親による土佐統一事業の進展と密接に連動しており、その配置は常に長宗我部氏の戦略的要請を色濃く反映していた。

2.1 本山氏との攻防と軍事拠点

永禄3年(1560年)に父・国親の跡を継いだ元親にとって、土佐統一の最大の障壁は、長年にわたり抗争を続けてきた本山氏であった。元親はこの宿敵を打倒するため、周到な軍事作戦を展開する。その中で、細川定輔は極めて重要な役割を担った。

永禄4年(1561年)頃、元親は土佐郡の神田城(こうだじょう)を攻略すると、その城主に定輔を任じた 1 。神田城は、本山氏の本拠・朝倉城に圧力をかけるための最前線拠点であり、この人事は定輔への深い信頼を示すものであった。さらに永禄6年(1563年)、度重なる攻勢に耐えかねた本山氏が朝倉城に火を放って退去すると、元親は定輔を主将として、この重要拠点の守備を命じている 1 。土佐中央部の覇権を決定づける一連の戦いにおいて、定輔が常に最重要拠点の大将を任されていた事実は、彼が元親にとって最も信頼のおける戦略的指揮官であったことを物語っている。

2.2 幡多郡平定と吉奈城主就任

本山氏を滅ぼし、東部の安芸氏を打倒して土佐の大半を統一した元親の次なる目標は、西端の幡多郡に君臨する公家大名・土佐一条氏の攻略であった。天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけての戦いで一条氏を追放し、幡多郡を平定した元親は、この新領土の経営と、隣国伊予への侵攻準備という新たな戦略段階に入る。

この重要な局面で、再び白羽の矢が立ったのが細川定輔であった。元親は土佐統一に多大な功績のあった定輔を、幡多郡の要衝である吉奈城(よしなじょう、現在の宿毛市にあった鶴ヶ城)の城主として抜擢した 1 。この異動は、単なる恩賞や名誉職ではなかった。吉奈城は、伊予国との国境に位置する最前線基地であり、今後の四国平定戦における兵站と出撃の拠点となるべき戦略上の要地であった 7

定輔の経歴を俯瞰すると、長宗我部氏の戦略的重心の移動と見事に一致していることがわかる。土佐中央部の平定が課題であった時期には、対本山氏の最前線である神田城・朝倉城を任された。そして、その課題が達成され、次なる目標が四国平定(特に伊予侵攻)に移ると、即座に対伊予の最前線である吉奈城へと転じている。これは、元親が各戦略段階において、最も重要と判断した戦線に、最も信頼する将である定輔を投入し続けたことの証左である。定輔はまさに、長宗我部氏の覇業を切り拓く「槍の穂先」であったと言えよう。

なお、定輔が吉奈城に移った後、本拠であった栗山城は長子の備前守が在城して守りを固め、一族の根拠地を維持した 1

第三章:四国制覇の先鋒 ―各地での軍功と犠牲―

吉奈城主となった細川定輔は、そこを拠点として、元親が推し進める四国統一戦争の先鋒として各地を転戦する。その活躍は伊予、阿波、讃岐の三国に及び、長宗我部軍の快進撃を支える原動力となった。しかし、その輝かしい戦功の裏では、一族の血が流されるという大きな犠牲も払われた。

3.1 阿波・讃岐・伊予での転戦

『宿毛市史』などに残された記録は、定輔が単なる一城主ではなく、四国全域を舞台に活動した野戦指揮官であったことを克明に伝えている 7

彼の主戦場となったのは、隣国の伊予であった。天正4年(1576年)、元親軍の武将として宇和郡に侵攻し、西園寺氏配下の河原淵氏が守る河後森城を攻め、これを降伏させている。天正10年(1582年)2月には、桑名弥次兵衛ら幡多の将兵800余騎を率いて伊予三間郡の高森城を攻撃した 7 。さらに天正12年(1584年)から翌年にかけての、伊予守護・河野氏を降伏に追い込む最終的な平定戦にも参加しており、その武功は伊予全土に及んだ 7

伊予のみならず、阿波、讃岐でも定輔の姿は見られる。天正10年(1582年)8月には、阿波における三好氏との決戦であった勝瑞(しょうずい)の合戦に出陣 1 。また、天正6年(1578年)には讃岐国藤目ノ城攻めに参加するなど、元親の四国平定戦において、彼の名が記されていない主要な戦いはほとんどないと言っても過言ではない 7 。これらの記録は、定輔が約10年(1575年~1585年)にわたり、四国の戦場を駆け巡り続けたことを示している。

3.2 戦功の代償 ―息子たちの死―

戦国武将の常として、輝かしい武功は常に死と隣り合わせであった。細川定輔もまた、主君への忠誠の代償として、我が子を戦場で失うという悲劇に見舞われている。

『宿毛市史』に引用される『細川氏系図』によれば、天正6年(1578年)の讃岐藤目ノ城攻めの際、四男の細川弥四郎がわずか18歳の若さで討死した 7 。若き息子の死は、老将の心に深い傷を残したであろう。

さらに悲劇は続く。天正13年(1585年)、元親が四国統一の総仕上げとして伊予の河野氏を攻めた道後方面での合戦において、今度は長男の頼重(よりしげ)が討死したのである 7 。家督を継ぐべき長男までも失った定輔の悲嘆は、察するに余りある。

これらの犠牲は、細川一族が長宗我部氏の覇業にいかに深く、そして献身的に関わっていたかを物語っている。定輔の戦歴は、単なる勝利の記録ではない。それは、一族の血と涙の上に築かれた、長宗我部氏の栄光の軌跡そのものであった。

第四章:細川宗桃の一族 ―繁栄と悲劇の交錯―

細川定輔(宗桃)の忠勤は、一族に長宗我部家臣団内での高い地位をもたらした。息子たちはそれぞれ城主となり、娘は有力家臣と婚姻を結ぶなど、一族は繁栄の道を歩んでいるように見えた。しかし、その運命は主君・長宗我部氏の意向一つで翻弄される、戦国武家の宿命を色濃く映し出している。

4.1 息子たちの生涯と一族の運命

定輔には複数の息子がいたことが記録されているが、その経歴や末路については、史料によって異なる記述が見られ、一族の複雑な運命を浮き彫りにしている。

  • 長男・備前守/頼重(びぜんのかみ/よりしげ)
    父・定輔が吉奈城へ移った後、一族の本拠地である栗山城に在城した 1。彼の最期については、史料間に重大な矛盾が存在する。『宿毛市史』が引く『細川氏系図』では、天正13年(1585年)に伊予道後での合戦で討死したと明確に記されている 7。一方で、Wikipediaなどの記述では、定輔の跡を継いだ三男(あるいは嫡男)の「頼重」が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに出陣したとされている 1。この矛盾は、本報告書の第五章で詳述する。
  • 次男・池頼定(いけ よりさだ)
    定輔の次男・頼定は、長岡郡の池城(いけじょう)主となり、池氏を名乗って分家を立てた 1。長宗我部氏への臣従を巡っては、父・定輔が従う中で頼定は抵抗したという説 17 と、頼定は降伏しようとしたが家臣に止められたという説 18 があり、記録は錯綜している。
  • 孫・池頼和(いけ よりかず)
    定輔の孫にあたる池頼定の子・頼和の生涯は、一族の悲劇を象徴している。頼和は長宗我部元親の娘を娶り、主家との間に最も強い血縁関係を築いた 18。これにより池氏は長宗我部水軍の中核を担い、堺との交易で主家の財政を支えるなど、重要な役割を果たした 20。しかし、文禄2年(1593年)、頼和と妻(元親の娘)との仲が不和になると、元親は頼和に謀反の疑いをかける。弁明の機会も与えられず、頼和は仁井田(にいだ)にて自刃を命じられた 18。主君の娘婿という立場すら、猜疑心の前には無力であった。この事件により、定輔から分かれた池氏の系統は断絶した。
  • 三男・頼重(よりしげ)
    Wikipediaなどで定輔の跡を継いだとされるのが、この「三男・頼重」である 1。しかし、前述の通り、長男の名前も「頼重」であり、伊予で戦死したとされる。これが同一人物の経歴に関する記録の混同なのか、あるいは別人なのかは、史料からは断定しがたい。
  • 四男・弥四郎(やさぶろう)
    天正6年(1578年)、讃岐での戦いで18歳で戦死した 7。

この一族の軌跡は、戦国時代の家臣の立場がいかに栄光と危険に満ちていたかを示している。忠功によって城や所領を得る一方で、主君の些細な疑心によって、血縁関係すら何の保証にもならず、一族が滅亡の淵に追いやられる。細川一族の歴史は、戦国武家社会の非情な現実を凝縮した事例と言える。

4.2 婚姻による同盟戦略

細川一族が長宗我部家臣団の中枢に組み込まれていたことは、軍事面だけでなく、婚姻政策からも見て取れる。定輔は自らの娘を、有力国人であった香宗我部秀通(こうそかべ ひでみち)に嫁がせている 1 。香宗我部氏もまた、元親の弟・親泰を養子に迎える形で長宗我部一門に組み込まれた名族であった 23

この婚姻は、旧来の権威を代表する細川氏と、同じく土佐の有力国人であった香宗我部氏とを結びつけるものであった。元親は、こうした有力家臣団同士の縁組を奨励することで、家臣団内部の結束を固め、自らの支配体制をより強固なものにしようとしたと考えられる。細川一族は、その出自の高さと軍事力だけでなく、婚姻を通じた政略においても、長宗我部政権の安定に不可欠な役割を担っていたのである。


表2:細川定輔(宗桃)一族の動向

関係

人物名

役職・動向

典拠

細川国隆

栗山城主。天文18年頃、長宗我部国親に臣従。

1

本人

細川定輔(宗桃)

備後守。元親の重臣として土佐・四国平定に貢献。吉奈城主。

1

長男

備前守 / 頼重

【説1】 天正13年(1585年)、伊予道後にて戦死。

7

【説2】 定輔の跡を継ぎ、関ヶ原の戦い(1600年)に出陣。

1

次男

池頼定

池城主となり池氏を称す。長宗我部氏への臣従を巡り、史料により動向に差異あり。

17

三男

頼重

【説2に基づく人物】Wikipedia等で嫡男とされ、関ヶ原に出陣したとされる。長男・頼重との混同の可能性が指摘される。

1

四男

弥四郎

天正6年(1578年)、讃岐藤目ノ城攻めで18歳で戦死。

7

(名不詳)

香宗我部秀通の室となる。婚姻により長宗我部家臣団内の結束を固める。

1

池頼和

頼定の子。元親の娘を娶るも、文禄2年(1593年)に謀反の疑いで自刃させられる。

18


第五章:人物像と史料的考察

細川定輔の生涯を追うことは、戦国時代の歴史研究における史料解釈の重要性と難しさを示す好例である。断片的な記録を繋ぎ合わせ、その信憑性を吟味することで、一人の武将の実像がおぼろげながら浮かび上がってくる。

5.1 武将・細川宗桃の実像

これまでの記録を総合すると、細川定輔(宗桃)は、主君・長宗我部元親から絶大な信頼を寄せられた、極めて有能な軍事指揮官であったと結論付けられる。土佐統一から四国平定に至るまで、常に戦略上の最重要拠点や方面軍の指揮を任された事実が、その評価を裏付けている 1 。彼の軍歴は、長宗我部氏の領土拡大の歴史そのものであり、その忠誠心に揺らぎが見られたことを示唆する史料は存在しない。

一方で、彼は単なる武辺一辺倒の人物ではなかった可能性もある。『宿毛市史』には、彼が元親の「連歌の会の仲でもあった」という興味深い記述が見られる 14 。これが事実であれば、定輔は武勇のみならず、和歌や連歌といった文化的素養も備えており、元親とは単なる主従関係を超えた、個人的な親交もあったことが推察される。名門細川氏の血を引く彼が、都の文化に通じていたとしても不思議はない。武勇と教養を兼ね備えた、深みのある人物像が想像される。

5.2 『土佐物語』と諸記録―史料の信憑性を問う

細川定輔の生涯を再構築する上で、我々が依拠する史料の性質を理解することは不可欠である。

まず、最も信頼性の高い一次史料として、長宗我部氏が作成した検地帳である『長宗我部地検帳』が挙げられる 3 。これは行政文書であり、土地の所有関係や給人(知行を与えられた家臣)の配置などを客観的に記録している。例えば、吉奈村の給人として「吉奈衆」の中に「十市新蔵人」といった名が見えることは 27 、定輔の一族が同地に駐留していたことを裏付ける有力な証拠となる。しかし、検地帳は物語を語らないため、個人の具体的な行動を知ることはできない。

そこで重要になるのが、『土佐物語』、『元親記』、『長元物語』といった、江戸時代初期に成立した軍記物語である 3 。これらの二次史料は、長宗我部氏の興亡を物語形式で記しており、定輔の軍功など多くの情報を提供してくれる。しかし、これらは事件から数十年後に、元家臣などによって執筆されたものであり、記憶違いや、主君を顕彰するための誇張、物語としての脚色が含まれることは避けられない 28 。従って、その記述は慎重に扱う必要がある。

この史料批判の好例が、第四章で提示した定輔の息子・頼重の最期を巡る矛盾である。

  • 【説1】伊予道後にて戦死 :この説の典拠は『宿毛市史』に引用された『細川氏系図』である 7 。地方史誌である『宿毛市史』は、地域の古文書や系図を基に編纂されることが多く、その元となった『細川氏系図』は、一族の歴史を記録するために作られたものであり、特定の戦闘での死といった具体的な出来事については比較的高い信憑性を持つと考えられる。
  • 【説2】関ヶ原の戦いに出陣 :この説は、主にWikipediaなどのウェブ情報に見られるが、その直接的な一次史料や信頼性の高い二次史料による裏付けが明確ではない 1 。関ヶ原の戦い自体、本戦における各部隊の正確な構成を記した一次史料は現存しておらず、現在知られる布陣図の多くは江戸時代の軍記物に基づいている 30 。広大な戦場で、特定の武将が「出陣した」という記録は、混同や後世の創作によって紛れ込みやすい。

両説を比較検討すると、特定の合戦における具体的な戦死の記録を持つ【説1】の方が、漠然とした出陣の記録である【説2】よりも、歴史的な確実性は高いと判断するのが妥当であろう。おそらく、長男・頼重は伊予で戦死し、関ヶ原に出陣したとされる「頼重」は、何らかの理由で生じた記録の混同、あるいは別人である可能性が高い。

このように、細川定輔のような、歴史の主役ではないが重要な役割を果たした人物の生涯を解明する作業は、パズルのピースを組み合わせるような地道な考証を必要とする。絶対的な正解が存在しない場合も多いが、史料の性質を吟味し、より蓋然性の高い歴史像を導き出すことこそ、歴史研究の要諦である。

結論:戦国乱世を生きた武将の軌跡

本報告書は、長宗我部氏の重臣・細川定輔(宗桃)の生涯について、現存する諸史料を基に多角的な分析を行った。その結果、以下の結論に至る。

第一に、細川定輔は、室町幕府管領家の血を引く名門・十市細川氏の出身であり、その出自は長宗我部氏が土佐国人社会の中で権威を確立する上で、象徴的な意味を持っていた。彼の父・国隆の臣従は、旧勢力が新興勢力に屈服し、その正当性を承認する画期的な出来事であった。

第二に、定輔は長宗我部元親の腹心として、その軍事行動の中核を担った極めて有能な指揮官であった。彼の経歴は、対本山氏戦における中央部の要衝から、対伊予戦の最前線である幡多郡の吉奈城へと、長宗我部氏の戦略的重心の移動と完全に一致する。これは、元親が常に最も重要な戦線に、最も信頼する定輔を配置し続けたことの証左であり、彼が元親の覇業に不可欠な存在であったことを示している。

第三に、彼の輝かしい軍功は、息子二人を戦場で失うという大きな個人的犠牲の上に成り立っていた。さらに、元親の娘を娶った孫の池頼和が、主君の猜疑心によって自刃に追い込まれた悲劇は、戦国時代の主従関係の厳しさと、家臣の立場の脆弱性を如実に物語っている。一族の繁栄と悲劇は、まさに戦国乱世の縮図であった。

最後に、定輔の生涯の再構築は、史料批判の重要性を改めて浮き彫りにする。特に息子・頼重の最期を巡る記録の矛盾は、軍記物語の記述を無批判に受け入れることの危険性を示唆している。断片的な記録を丹念に比較検討することで、より確度の高い歴史像に迫る努力が求められる。

細川定輔は、織田信長や豊臣秀吉、あるいは主君の長宗我部元親のような、歴史の表舞台で時代を動かした英雄ではないかもしれない。しかし、彼のような武将たちの忠誠と犠牲、そして一族の喜びと悲しみの積み重ねこそが、戦国という時代の歴史を織りなしていたのである。彼の生涯を深く知ることは、乱世の実像をより立体的に理解するための一助となるであろう。

引用文献

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  2. 細川定輔(ほそかわさだすけ)『信長の野望・創造PK』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=E306
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  8. 土佐 栗山城(十市城、十市細川氏の居城) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/kochi/tosa_kuriyamajo/
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  26. 紹 介 長宗我部地検帳の研究 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249665/1/shirin_045_5_800.pdf
  27. 中世編-長宗我部氏と宿毛 https://www.city.sukumo.kochi.jp/sisi/018101.html
  28. ごあいさつ - 高知県立歴史民俗資料館 https://kochi-rekimin.jp/up/202403/50GynEPUQDJiepCO12193355.pdf&put5=RKImiN/%E3%80%90%E5%A3%B2%E5%88%87%E3%82%8C%E3%80%91%E9%96%8B%E9%A4%A830%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%20%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3.pdf
  29. 土佐史料に見る岡本合戦の年数批判 - 清良の庵(きよよしのいおり) https://seiryouki.exblog.jp/26734889/
  30. 関ヶ原本戦の配置とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE
  31. 関ヶ原本戦の配置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%85%8D%E7%BD%AE