戦国時代の阿波国(現在の徳島県)に、その短い生涯を権力闘争の渦中で終えた一人の守護大名がいた。彼の名は、一般に「細川持隆(ほそかわ もちたか)」として知られている。通説によれば、彼は阿波守護家の当主として、隣国播磨の守護・赤松晴政の要請に応じて備中国へ出兵し、尼子晴久と戦って敗れた。そして後年、室町幕府の将軍候補であった足利義栄を擁して上洛を試みるも、その方針を巡って家臣の三好実休(みよし じっきゅう、義賢とも)と対立し、天文22年(1553年)、非業の死を遂げたとされる 1 。この、有力な家臣による主君殺害、すなわち「下剋上」の典型例として語られる物語は、江戸時代以降に編纂された軍記物や系図類を通じて広く浸透してきた人物像の骨子である。
しかし、この通説は、近年の学術研究、特に同時代の一次史料の丹念な読解と比較検討によって、その根幹から見直しを迫られている。本報告書は、この「細川持隆」という人物の実像に迫るべく、その諱(いみな、実名)や出自に関する学術的論争の最前線を踏まえ、彼の生涯と、彼が生きた時代の権力構造を多角的に再構築することを目的とする。通説の向こう側にある、より複雑で、より人間的な武将の姿を明らかにすることが、本稿の主題である。
本報告書が提示する中核的な論点は、二つある。第一に、通称「持隆」とされるこの人物の諱が、実際には「 氏之(うじゆき) 」であった可能性が極めて高いという点である 3 。この事実は、天文9年(1540年)に彼が京都の讃州寺に発給した判物(はんもつ、武家様式の公的文書)に「氏之」という署名が確認されたことから判明した、近年の研究における重要な発見である 3 。この発見は、「持隆」という名が後世の創作、あるいは誤伝であった可能性を示唆している。
第二に、さらに重要性の高い論点として、彼の出自の問題が挙げられる。従来、彼は阿波守護・細川之持(ゆきもち)の子であるとされてきた 4 。しかし、この説は彼の生年と父とされる人物の没年との間に深刻な矛盾を抱えている。これに対し、近年の研究では、彼は細川京兆家(宗家)の当主であった細川澄元(すみもと)の子、すなわち、当時の管領・
細川晴元(はるもと)の実弟 であったとする新説が、有力な根拠と共に提示されている 3 。この説の根拠は、『細川両家記』といった同時代に近い史料に彼が「晴元の御舎弟」と記されていることや、他の史料から彼の生年が永正13年(1516年)頃と推定され、之持の没年(永正9年/1512年説が有力)とは整合しないことにある 3 。
この実名と出自の問い直しは、単なる系図上の修正に留まらない。主君であった細川晴元との関係が「従兄弟」から「実の兄弟」へと変わることで、彼の政治的・軍事的行動の動機や、後の三好実休との対立構造の理解は、根本から再解釈を迫られることになる。本報告書では、これ以降、原則としてこの人物を「氏之(持隆)」と併記し、彼が管領・細川晴元の実弟であったという新説の視座から、その生涯と時代の深層を徹底的に掘り下げていく。
細川氏之(持隆)の生涯を理解するためには、彼が背負っていた「阿波守護」という地位の歴史的文脈と、彼が家督を継いだ時期の畿内における複雑な政治情勢を把握することが不可欠である。彼の悲劇は、個人的な資質の問題以上に、細川一門の構造的矛盾と、被官であった三好氏の急激な台頭という、時代の大きなうねりの中で生起したものであった。
細川氏は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府において最も権勢を誇った武家の一つであった。その宗家は「京兆家(けいちょうけ)」と称され、足利将軍を補佐する管領(かんれい)の職を、斯波氏、畠山氏と共に世襲する「三管領」の筆頭として幕政を主導した 7 。
氏之(持隆)が属した阿波細川家は、京兆家の祖・細川頼之の弟である詮春(あきはる)を祖とする有力な分家であり、「讃州家(さんしゅうけ)」とも呼ばれた 9 。彼らは代々阿波守護職を世襲し、京兆家当主からは「下屋形家(しもやかたけ)」と称されるなど、高い家格を認められていた 9 。その役割は、四国における幕府の支配を安定させると同時に、宗家である京兆家を軍事・経済の両面から支えることにあった。このように、細川一門は京兆家を頂点とし、阿波家、和泉家、備中家といった分家が協調して広域支配を維持する「細川同族連合体制」を構築していたのである 11 。
阿波細川家の本拠地は、吉野川下流域の平野に位置する勝瑞城(しょうずいじょう、徳島県藍住町)であった 12 。この城を中心に形成された城下町は、畿内や堺との交易で大いに繁栄し、「天下の勝瑞」と称されるほどであった 13 。この繁栄を支えたのが、阿波国の豊かな経済力である。吉野川がもたらす肥沃なデルタ地帯では、染料として全国的に高い評価を得ていた
藍 の生産が盛んであった 15 。また、瀬戸内海に面した立地を活かした
塩 の生産も重要な産業であり、これらの特産品は畿内市場における重要な商品として、阿波細川家およびその被官に莫大な富をもたらした 15 。
阿波は、畿内と西国、そして九州を結ぶ瀬戸内海航路の要衝に位置しており、その地政学的な重要性は極めて高かった 17 。この強力な経済基盤と海上交通の掌握こそが、阿波細川家が宗家を支え、後にはその被官であった三好氏が畿内に進出し、天下に号令する権力へと飛躍するための揺るぎない土台となったのである 18 。
しかし、氏之(持隆)が家督を継承する頃には、この強固に見えた阿波細川家の権力基盤に陰りが見え始めていた。応仁の乱を乗り越え、阿波細川家の全盛期を築いた名君・細川成之(しげゆき)が永正8年(1511年)に没すると、その強力な求心力が失われる。成之の後継者であった義春(よしはる、氏之の祖父)、そしてその子である之持(ゆきもち、通説における氏之の父)が相次いで早世したことで、阿波細川家は立て続けに若年の当主を戴くことになり、権力基盤は急速に弱体化した 4 。この権力の空白と家中の動揺は、守護の権威を代行し、領国経営の実務を担っていた守護代・三好氏が、その影響力を飛躍的に増大させる絶好の機会となったのである。
氏之(持隆)の生きた時代は、細川京兆家の内部抗争によって、畿内が長期にわたる戦乱に明け暮れた時代であった。その発端は、管領・細川政元が修験道に傾倒して生涯独身を貫き、実子を持たなかったことに遡る 19 。政元は後継者として、公家の九条家から澄之(すみゆき)、阿波守護家から澄元(すみもと、氏之の父とされる人物)、そして分家の野州家から高国(たかくに)という、出自の異なる三人を養子に迎えた 20 。
この複雑な後継者問題は、永正4年(1507年)に政元が家臣によって暗殺される(永正の錯乱)と、養子たちによる壮絶な家督争いへと発展する 22 。これが「両細川の乱」と呼ばれる、澄元派と高国派による約20年にも及ぶ内戦の始まりであった 19 。
この内紛において、澄元、そしてその子・晴元の陣営を支え続けたのが、本国である阿波の軍事力と経済力であった 9 。澄元派は、高国派との戦いに敗れて京を追われると、幾度となく阿波へ退き、再起の機会を窺った 25 。阿波は、澄元・晴元父子にとって、単なる出身地ではなく、政権奪還を目指すための人、物資、資金を供給する最重要拠点として機能したのである。
この両細川の乱を通じて、歴史の表舞台に躍り出たのが、阿波守護細川氏の被官(家臣)であった三好氏である 18 。三好之長(ゆきなが)、そしてその孫である元長(もとなが)といった歴代当主は、主君である澄元・晴元を擁し、その軍事司令官として畿内各地を転戦した 11 。彼らの卓越した軍事的能力は、澄元・晴元派の戦線を支える上で不可欠であり、その功績によって三好氏は細川家中で絶大な発言力を獲得していく。
彼らは、主君の名の下に戦う中で、守護代という立場を超えた権力を徐々に手に入れていった。例えば、軍事費である段銭(たんせん)の徴収権を直接掌握し、阿波国内の在地領主(国人衆)を守護を介さずに自らの支配下に組み込むなど、半ば独立した統治権を確立し始めたのである 27 。三好氏の台頭は、単なる一被官の出世物語ではない。それは、両細川の乱という政治的混乱を背景に、守護の権威を足がかりとしながら、それを実力で乗り越えていくという、戦国時代における構造的な権力移動の始まりであった。氏之(持隆)が後に直面する下剋上の悲劇は、この時点で、すでにその萌芽を宿していたと言える。
阿波細川家の権力は、本来、宗家である京兆家との強固な連携と、在国被官である三好氏への実務的な依存という、二重の構造の上に成り立っていた。京兆家が安定し、幕府の権威が機能している間は、この体制は有効に作用した。しかし、両細川の乱によって宗家そのものが分裂・抗争を始めると、この均衡は崩壊する。阿波細川家は宗家の争いに深く巻き込まれ、その軍事行動を担う三好氏への依存度を極端に高めざるを得なくなった。この過程で、名目上の主君である細川氏と、実務と軍事を担う三好氏との力関係は、徐々に、しかし確実に逆転し始めていた。氏之(持隆)の生涯は、この不可逆的な権力移行の最終段階に位置づけられるのである。
通説の霧を払い、近年の研究成果に基づいて細川氏之(持隆)の生涯を再構築する。彼の人生は、管領の弟という高貴な出自と、下剋上の波に洗われる阿波国主という過酷な現実との間で、常に引き裂かれていた。
氏之(持隆)の人物像を正確に捉える上で、その出自は避けて通れない最大の論点である。通説と新説では、彼の父親、ひいては管領・細川晴元との関係性が根本的に異なるからである。
通説では、彼の生年は不詳、一説に明応6年(1497年)とされ、父は阿波守護の細川之持(ゆきもち)とされてきた 29 。しかし、この説には大きな疑問符が付く。近年の研究を主導する馬部隆弘氏の論証によれば、享禄4年(1531年)に成立した『細川高国晴元争闘記』という史料に、当時、晴元方として戦っていた阿波の「讃州(讃岐守、氏之のこと)」が15、6歳であったという記述が見出された 3 。この記事から逆算すると、彼の生年は永正13年(1516年)あるいは14年(1517年)頃と推定される。この生年は、父とされる細川之持が永正9年(1512年)に没したという有力な説 3 とは、時間的に明らかに矛盾する。
この矛盾を解消し、より史料的整合性の高い説として登場したのが、彼を細川澄元(永正17年/1520年没)の子、すなわち管領・細川晴元(永正11年/1514年生)の実弟とする説である 3 。この説の最も強力な根拠は、『細川両家記』という史料の享禄5年(1532年)の条項に、氏之(持隆)が「晴元様御舎弟」と明確に記されている点にある 3 。また、信頼性の高い系図である現行の『尊卑分脈』には、之持の子として氏之(持隆)の名は見えず、父子関係を記すのは後世に編纂された信憑性に劣る系図類のみであることも、この新説を補強する 3 。
この新説に立てば、氏之(持隆)は、父・澄元が京兆家の家督を巡って高国と争う戦乱の最中に生まれ、父の死後は兄・晴元と共に阿波で養育されたことになる。彼が阿波守護を継承したのは、兄・晴元が京兆家の家督を継いで畿内での活動を本格化させるにあたり、その本拠地である阿波の統治を、最も信頼できる肉親である弟に委ねた、という政治的判断の結果と解釈するのが自然であろう。
項目 |
通説(細川持隆) |
新説(細川氏之) |
諱(実名) |
持隆(もちたか) |
氏之(うじゆき) |
根拠 |
江戸期の系図・軍記物 1 |
天文9年(1540年)発給文書 3 |
推定生年 |
不詳(一説に明応6年/1497年) 1 |
永正13年(1516年)頃 3 |
父親 |
細川之持(ゆきもち) 4 |
細川澄元(すみもと) 3 |
父の没年 |
永正9年(1512年)説が有力 3 |
永正17年(1520年) 23 |
細川晴元との関係 |
従兄弟 |
実の兄弟 |
史料的根拠 |
後世の編纂物中心 3 |
『細川両家記』、『細川高国晴元争闘記』など同時代に近い史料 3 |
結論 |
生年と父の没年に矛盾が生じる可能性がある。 |
史料的整合性が高く、近年の研究では有力説となっている。 |
阿波守護となった氏之(持隆)は、兄・晴元政権の安定化に寄与すると同時に、阿波国主として独自の政治・文化活動を展開した。特に「阿波公方」の存在は、彼の統治に複雑な色彩を与えている。
氏之(持隆)の統治下にあった阿波には、京の政争に敗れて亡命してきた、極めて高貴な人物がいた。前将軍・足利義澄の子である足利義維(よしつな、後に義冬と改名)と、その子・義栄(よしひで)である 2 。彼らは阿波の平島荘(現在の徳島県阿南市)に館を構えて庇護されたことから、「平島公方(ひらじまくぼう)」あるいは「阿波公方(あわくぼう)」と称された 2 。
この阿波公方の存在は、細川晴元・氏之兄弟にとって二重の意味で重要であった。第一に、彼らは現将軍・足利義晴(義澄の兄の子)に対抗しうる、正統な将軍継承権を持つ存在であった。これを手元に置くことは、義晴を擁立する細川高国派や、後に晴元と対立する勢力に対する強力な政治的牽制となった 6 。第二に、将軍家に連なる権威を阿波に招致することは、阿波細川家そのものの格を高め、国内の国人衆に対する求心力を強化する効果があった。
阿波公方の滞在は、阿波の地に京都の洗練された公家文化を直接もたらす契機となった。平島館は一種の文化サロンとして機能し、和歌や連歌、儒学といった学問・文芸が栄えた 33 。また、氏之(持隆)の本拠地である勝瑞城下も、禅宗文化が深く根付いており、多くの寺社が建立され、文化人たちが集う中心地であった 36 。氏之(持隆)自身も、守護としてこれらの寺社を庇護し、和歌会や猿楽といった文化的行事を主催するパトロンとしての役割を担っていたと考えられる 37 。細川一族は伝統的に禅宗、特に曹洞宗や臨済宗と深い関わりを持ち、各地に菩提寺を建立しているが 39 、氏之(持隆)もまた、阿波の丈六寺などを手厚く保護したことが知られている 3 。
阿波国主としての氏之(持隆)の活動は、常に畿内情勢と密接に連動していた。彼の軍事行動は、兄である管領・細川晴元を支えるという、一門としての責務に根差していた。
新説に基づけば、彼の軍事行動の多くは、実兄である晴元の政権を安定させるためのものであった。享禄4年(1531年)、彼は三好元長に率いられた阿波の軍勢を率いて上洛し、兄・晴元と共に宿敵・細川高国を摂津で破り、自刃に追い込んだ(大物崩れ) 2 。この勝利により、長きにわたった両細川の乱は事実上終結し、晴元政権が確立された。この戦いにおいて、若き氏之(持隆)が果たした役割は大きかった。
天文8年(1539年)、氏之(持隆)は播磨守護・赤松晴政からの救援要請を受け、軍を率いて備中国へ出陣した 1 。その目的は、当時、中国地方で急速に勢力を拡大していた出雲国の尼子晴久の勢力を削ぐことにあった。この戦役の背景には、尼子氏と結びついていた西国の大大名・大内氏を牽制するという、より大きな戦略的意図が存在した可能性が指摘されている 44 。しかし、この戦いで細川・赤松連合軍は尼子軍に敗北を喫した 3 。この敗戦は、阿波細川家の軍事力の限界を示すと同時に、彼の守護としての政治判断の一端を物語る出来事であった。
当初、氏之(持隆)と、兄・晴元の被官である三好長慶・実休兄弟との関係は協調的であった。三好兄弟が父・元長の死後、家督を継いで畿内で勢力を伸長していく過程において、氏之(持隆)が率いる阿波の軍勢は、彼らにとっても重要な軍事的支柱であった 45 。舎利寺の戦いなど、長慶が畿内で勝利を重ねる背後には、常に阿波からの支援があった。
しかし、三好長慶の力が、主君である細川晴元を凌駕するほど強大になると、両者の関係に亀裂が生じ始める。長慶は、かつて父・元長を死に追いやった晴元や、その側近である三好政長(長慶の同族だが政敵)に対して、深い不信感を抱いていた 46 。やがて長慶が晴元と袂を分かち、独自の権力構築を目指すようになると、兄・晴元を支持する氏之(持隆)と、長慶の覇業を支える弟・実休との間に、抜き差しならない緊張関係が生まれるのは、もはや時間の問題であった 46 。
天文22年(1553年)6月17日(一説に21年8月19日)、阿波守護・細川氏之(持隆)は、本拠地である勝瑞城下の見性寺において、自らの家臣である三好実休の軍勢に攻められ、自害に追い込まれた 2 。主君がその被官に殺害されるというこの衝撃的な事件は、「見性寺の変」あるいは「勝瑞騒動」と呼ばれ、阿波細川家の事実上の終焉と、三好氏による阿波支配の完成を告げるものであった。
この悲劇に至った直接的な原因については、史料によって記述が異なり、今日でも複数の説が提示されている。これらの要因が単独ではなく、複合的に絡み合った結果、事件が勃発したと考えるのが妥当であろう 48 。
氏之(持隆)の婚姻関係もまた、彼の政治的立場を複雑にしていた。正室には、西国一の大大名であった大内義興の娘を迎えていた 3 。これは、細川氏と大内氏という二大勢力の政治的・軍事的同盟を象徴するものであり、彼の守護としての権威を強化する重要な要素であった 52 。一方で、彼の嫡子である真之(さねゆき)を産んだのは、側室であった小少将(こしょうしょう)である 3 。彼女の存在は、氏之(持隆)の死後、阿波の運命をさらに数奇なものへと導いていくことになる。
対立の要因(説) |
説の概要 |
主な典拠・関連情報 |
1. 将軍擁立構想の対立 |
氏之(持隆)は阿波公方・足利義栄の将軍擁立と上洛を計画。三好長慶と将軍義輝の関係を重視する実休は、これが三好本家の戦略と相反するため強く反対し、対立が激化した。 |
『三好記』など後世の軍記物に見られる説 48 。三好氏が阿波公方を政治的に利用していた事実 54 とも関連する。 |
2. 阿波国内の権力闘争 |
阿波国内で実権を掌握し、主君を凌ぐ勢いとなった実休に対し、氏之(持隆)が危機感を抱き暗殺を計画。しかし計画が事前に露見し、実休が先制攻撃を仕掛けた。 |
『昔阿波物語』などに見られる説 48 。小少将が実休に計画を密告したという逸話も存在する 51 。 |
3. 畿内情勢をめぐる対立 |
三好長慶に敗れて没落した細川晴元(氏之の実兄)を、氏之(持隆)が支援しようとした。これが長慶の覇業の障害となると判断した実休が、兄のために氏之を排除した。 |
三好兄弟の統一的戦略という観点からの推論 48 。氏之と晴元の関係性(兄弟)がこの説の重要性を高める。 |
氏之(持隆)の政治行動は、常に二つの相克する目標の間で揺れ動いていた。一つは「細川一門としての利益」、すなわち兄・晴元政権を支えるという責務である。もう一つは「阿波守護としての独自の利益」、すなわち阿波公方を擁立することで自らの政治的影響力を高めようとする野心である。兄・晴元が現将軍・義輝を奉じている以上、義輝の対抗馬となりうる義栄を擁立する動きは、細川一門の内部分裂を招きかねない危険な賭けであった 55 。この構造的なジレンマが、彼の行動を一貫性のないものに見せ、結果として三好兄弟に付け入る隙を与えることになった。
一方で、見性寺の変は、単なる主従間の感情的な対立の結果ではない。それは、畿内を制圧しつつあった三好長慶と、四国を固める弟・実休による「三好統一政権」の確立に向けた、冷徹な戦略的行動であったと解釈できる。この構想にとって、本拠地である阿波の支配者が、長慶の意に反する独自の動きを見せることは、政権全体の背後を脅かす致命的なリスクであった。実休が主君殺しという大罪を犯してまで氏之(持隆)を排除したのは、三好氏がもはや細川氏の被官ではなく、自らの天下取りの構想を最優先する独立した戦国大名へと完全に変貌を遂げたことを示す、画期的な事件だったのである。
細川氏之(持隆)の見性寺における死は、単に一個人の悲劇に終わらなかった。それは阿波国の支配体制を根底から覆し、細川・三好両家の、そして残された者たちの運命を大きく変転させる分水嶺となった。
氏之(持隆)を討った三好実休は、その直後、氏之の遺児である細川真之を新たな阿波守護として擁立した 56 。これは、主君殺しの汚名をそそぎ、旧来の支配体制を尊重する姿勢を内外に示すための政治的ジェスチャーであった。しかし、その実態は完全な傀儡(かいらい)であり、阿波国の実権は、軍事・政治の両面にわたって完全に三好氏が掌握した 56 。守護の権威は名目だけの存在となり、軍勢動員権や徴税権といった統治の根幹は、守護代であった三好氏によって事実上簒奪されたのである 28 。この時点で、阿波における守護細川家による支配は、実質的に終焉を迎えた。
実休、そして永禄5年(1562年)に彼が戦死した後は、その子である三好長治が阿波の支配者として君臨した。彼らは、篠原長房(じょうぼう)に代表される有能な家臣団を駆使して、阿波一国に留まらない広域な領国経営を展開した 22 。特に長房は、阿波のみならず讃岐にも進出し、その統治を安定させるなど、三好政権の四国方面における最大の功労者となった。フロイスの『日本史』においても、当時の長房が阿波において絶対的な権力を持つ執政であったと記されている 22 。
さらに三好氏は、検地を実施して領国内の生産力を正確に把握し、それに基づいて軍役を課すなど、旧来の守護の権限を超えた、戦国大名としての直接的な領国支配体制を確立していった 60 。また、家臣や領民が守るべき法度として「新加制式(しんかせいしき)」を制定し、紛争の公正な解決や在地領主の権益保護を明文化することで、家中の結束と領国の安定を図った 28 。これらは、三好氏がもはや守護の被官ではなく、独立した大名権力として阿波を統治していたことを明確に示している。
氏之(持隆)の死後、最も数奇な運命を辿ったのは、彼の側室であり、真之の母であった小少将であろう。彼女は、夫を殺害した仇である三好実休の妻となったのである 51 。この事実は、後世の物語において、彼女が類まれな美貌と男を惑わす魔性を備えた妖婦であったため、といった逸話として語られることが多い 56 。
しかし、その本質は、より冷徹な政治的判断と生存戦略の結果であったと見るべきである。実休にとって、傀儡守護である真之の生母を自らの妻とすることは、旧主の家を乗っ取ったという事実を糊塗し、支配の正統性を補強する上で極めて有効な手段であった。一方の小少将にとっても、仇である実休の庇護下に入ることは、自らと幼い息子・真之の生命と地位を保全するための、唯一の選択肢であったのかもしれない。彼女は実休との間に、後に阿波三好家の当主となる三好長治と、讃岐十河氏を継ぐ十河存保(そごう まさやす)を産み、結果的に細川家と三好家という、敵対する二つの家の血をその身一つで繋ぐという、類例のない役割を果たすことになった 12 。
三好氏の傀儡として擁立された細川真之であったが、成長するにつれてその境遇に甘んじることはなかった。彼は、父の仇である三好氏を打倒し、阿波細川家の実権を回復することを目指して、反撃の機会を窺っていた 56 。
天正4年(1576年)頃、三好長治が家臣・篠原長房を讒言によって粛清するなど、その統治に綻びが見え始めると、真之はこれを好機と捉え、阿波国内の反三好勢力を結集して挙兵した 65 。この戦いで真之は、長治を討ち取ることに成功し、一時は父の仇を討つ形となった 66 。
しかし、彼の勝利は長くは続かなかった。長治の死後、阿波三好家の家督を継いだ十河存保(真之にとっては異父弟にあたる)が、土佐から勢力を伸ばしてきた長宗我部元親の脅威に対抗するため、阿波の再統一を目指して真之に攻めかかった。四方を敵に囲まれた真之は、天正10年(1582年)頃、ついに自害に追い込まれた 57 。享年41。彼の死をもって、鎌倉時代から続いた名門・阿波守護細川氏は、名実ともに完全に滅亡したのである。
細川氏之(持隆)は、室町幕府から与えられた守護職という権威に依存する旧来の「守護大名」と、自らの実力によって領国を支配する「戦国大名」との間に位置する、まさしく過渡期の武将として評価することができる 68 。彼は、守護としての伝統的な権威を行使し、阿波公方を擁立することで自らの政治的地位を確立しようと試みた。しかし、その権威は、すでに実力で彼を凌駕していた家臣・三好氏の前では無力であった。彼の悲劇は、名目上の権威が、実力によって覆される「下剋上」という時代の非情な論理を、身をもって体現したものであった。
氏之(持隆)の死が戦国史に与えた影響は、決して小さくない。彼の排除によって、三好長慶・実休兄弟は、本拠地である阿波を完全に掌握し、後顧の憂いなく畿内経営に専念することが可能となった。その意味で、氏之(持隆)の死は、三好長慶が織田信長に先駆けて「天下人」へと飛躍するための、最後の、そして決定的な布石であったと言える 18 。
彼は、自らが登用し、力をつけさせた家臣によって乗り越えられるという、皮肉な運命を辿った。その存在と死を抜きにして、戦国時代中期の畿内を席巻した三好政権の成立を語ることはできない。細川氏之(持隆)は、戦国史の主役である三好長慶の物語の序章において、その礎となるべく歴史の舞台から退場を余儀なくされた、忘れられてはならない重要人物として、再評価されるべきである。
本報告書は、戦国時代の阿波守護「細川持隆」として知られてきた人物について、近年の学術研究に基づき、その実像を徹底的に再検討した。その結果、通説の影に隠されていた、より複雑で多面的な人物像が浮かび上がってきた。
第一に、彼の諱は「持隆」ではなく「 氏之 」であり、その出自は従来の「細川之持の子」という説よりも、管領・ 細川晴元の実弟 、すなわち細川澄元の子とする説が、史料的に見てはるかに有力であることを明らかにした。この出自の再定義は、彼の生涯における政治的・軍事的行動の動機を理解する上で、根本的な視点の転換を促すものである。彼の行動は、単なる一地方守護のそれではなく、畿内の最高権力者であった兄を支えるという、細川一門の中枢に関わる重責を担ったものであった。
第二に、彼の生涯は、守護家の権威が形骸化し、その被官であった守護代が実力で国を支配するようになる、戦国時代初期の典型的な権力構造の変化を象徴している。阿波国の豊かな経済力と地政学的重要性を背景に力をつけた三好氏は、両細川の乱という政治的混乱に乗じて、主家の権力を蚕食し、やがては独立した戦国大名へと成長した。氏之(持隆)は、この不可逆的な時代の潮流の、まさに最終段階に立たされた人物であった。
第三に、彼は単なる無力な悲劇の主君ではなかった。兄・晴元を支える一門の論理と、阿波公方を擁して自らの権威を高めようとする阿波国主としての論理との間で、彼は主体的に活路を見出そうと苦闘した政治家であった。しかし、その二つの目標が内包する矛盾、そして兄と対立し始めた家臣・三好兄弟との力関係の中で、彼の試みは結果的に破綻した。見性寺の変は、個人的な対立であると同時に、三好氏が「天下」を見据えた統一政権を構築する上で、その本拠地における不安定要因を排除するという、冷徹な戦略的判断の結果であった。
最終的に、細川氏之(持隆)の死によって、名門・阿波細川氏は滅亡への道を決定づけられ、その一方で三好氏は畿内と四国を股にかける一大勢力へと飛躍する道が完全に拓かれた。彼は、戦国史の主役として語られる三好長慶の物語の序章において、その礎となるべく乗り越えられ、そして歴史の記憶から半ば忘れ去られてきた人物である。しかし、彼こそが、下剋上という時代の非情さをその身に受け、次なる時代の到来を告げた、極めて重要な歴史の証人であったと結論付けることができる。