結城宗広は南北朝時代の南朝忠臣。北畠顕家と京を奪還し、奥州の要となる。暴風雨で奥州帰還を阻まれ伊勢で病没。その評価は時代で変遷した。
鎌倉幕府による武家支配が1世紀半に及び、その体制が内から揺らぎ始めた14世紀初頭、日本は歴史的な転換点を迎えていた。北条氏得宗家の権力は形骸化し、各地の武士や悪党の活動が活発化する中、後醍醐天皇は天皇親政の理想を掲げて倒幕の旗を挙げる。この未曾有の動乱は、やがて日本全土を巻き込む南北朝の内乱へと発展し、数多の武将たちを運命の渦に投げ込んだ。本報告書が光を当てる結城宗広(ゆうき むねひろ)もまた、この激動の時代に己の信念と一族の存亡を賭して戦い抜いた、奥州の雄である。
一般に、結城宗広は新田義貞らと共に鎌倉を攻略し、北畠顕家に従って足利尊氏と戦い、南朝に最後まで忠誠を尽くした「忠臣」として知られている 1 。その一方で、軍記物語『太平記』は彼を「常に死人の首を見なければ気が済まない」と語られる、残忍非道な武将として描き、その最期は地獄に堕ちるという壮絶なものであったと記す 3 。忠義の士か、暴虐の将か。この両極端な評価の狭間に、結城宗広という人物の真実の姿は埋もれている。
本報告書は、利用者様が既にご存知の情報の範疇に留まることなく、現存する古文書や研究成果を丹念に分析し、結城宗広の生涯を多角的に再構築することを目的とする。彼の出自である白河結城氏の成立背景、鎌倉幕府の御家人から倒幕の旗手へと転じた政治的決断、建武の新政下での栄達と本家・下総結城氏との確執、北畠顕家との共闘、そして息子たちの異なる選択がもたらした一族の運命、さらには『太平記』が創り上げた人物像と史実との乖離、後世における評価の変遷に至るまで、その生涯の全貌を徹底的に解明する。これにより、宗広という一人の武将の生き様を通して、南北朝という時代の本質に迫りたい。
結城宗広の生涯を理解するためには、まず彼が属した「白河結城氏」が、いかにして奥州の地に根を下ろし、いかなる立場にあったのかを把握する必要がある。彼の行動原理の根源は、この一族の成り立ちそのものに深く関わっている。
結城氏の祖は、鎮守府将軍・藤原秀郷の血を引く下野国(現在の栃木県)の名族、小山氏である 5 。小山政光の子、朝光が源頼朝の挙兵に従って功を挙げ、下総国結城(現在の茨城県結城市)を領したことから「結城」を名乗るようになった 5 。結城氏は鎌倉幕府の有力御家人として重きをなした名族であった 5 。
白河結城氏は、この下総結城氏から分かれた庶流である。宗広の父にあたる結城祐広(すけひろ)が、祖父・結城朝光の代に源頼朝から恩賞として与えられた陸奥国白河庄(現在の福島県白河市一帯)に、正応2年(1289年)頃に移り住んだことに始まるとされる 8 。これにより、下総の本家とは別に、奥州の地に「白河結城氏」という新たな家が誕生したのである 11 。彼らは白川城(別名・搦目城)を拠点とし、南奥州に勢力を築いていった 12 。
白河結城氏の二代当主となった宗広は、当初、鎌倉幕府、とりわけ執権を輩出する北条得宗家と緊密な関係を築くことで、その勢力を伸張させた 2 。彼の通称が「上野介」であったことや、法名が「道忠」であったことなどが記録されている 1 。
宗広と得宗家との結びつきの強さは、彼の名乗りからも窺い知ることができる。彼の「宗」の一字は、当時の執権であった北条時宗からの一字拝領、すなわち偏諱であった可能性が指摘されている 14 。これは、主君が家臣に自らの名の一字を与えるという、極めて名誉なことであり、宗広が得宗家から特別な信頼を得ていたことを示唆している。
しかし、この幕府への忠誠は、単なる純粋な奉公心からだけではなかった。その背景には、常に本家である下総結城氏との対抗意識が存在した。庶流である白河結城氏は、一族内での立場を強化し、本家を凌駕するため、幕府の中枢である得宗家という強力な後ろ盾を必要としていたのである 14 。宗広の政治行動の根底には、この「本家対抗」という一族内の力学が常に働いていた。後の南朝への忠誠も、この対立構造の延長線上で捉えることで、その真意がより鮮明になる。彼は、幕府と強く結びつく本家に対し、反幕府勢力と手を組むことで、結城一族全体の主導権(惣領職)を掌握しようという、遠大な野心を抱いていた可能性が高い。
鎌倉幕府の忠実な御家人として南奥州に勢力を築いた結城宗広であったが、時代のうねりは彼に大きな決断を迫る。後醍醐天皇による倒幕計画が浮上し、元弘の乱が勃発すると、彼は幕府方から一転して倒幕の旗手へと、その立場を劇的に変えることになる。
元弘元年(1331年)に元弘の乱が始まると、宗広は当初、幕府の命令に忠実に従い、討伐軍の一員として行動していた 2 。後醍醐天皇の側近であり、幕府調伏の祈祷を行ったとして捕らえられた僧・円観の身柄を預かるなど、幕府の御家人としての役割を果たしていた記録が残っている 15 。息子の親光もまた、幕府軍として上洛している 15 。
しかし、戦局は楠木正成らの奮戦により幕府軍の苦戦が続き、全国的に反幕府の機運が高まっていく 16 。宗広は奥州の地にあって、中央の情勢を冷静に見極めていた。彼が関東の有力武士である新田義貞と連絡を取り合っていたことを示唆する書状も現存しており、幕府の権威が揺らぐ中で、次の一手を慎重に模索していた様子が窺える 17 。
そして元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の綸旨と護良親王の令旨が彼のもとに届くと、宗広はついに決起する 2 。これは単なる日和見主義的な寝返りではない。幕府の敗北を確信し、新たな時代の覇権を握る側に自らの、そして一族の未来を賭けた、周到な計算に基づく戦略的決断であった。この転身により、彼は鎌倉幕府の討伐者という、歴史の表舞台に躍り出ることになる。
幕府に反旗を翻した宗広は、上野国で挙兵した新田義貞の軍勢に合流し、鎌倉へと進撃した 1 。鎌倉攻略戦において、宗広率いる軍勢は重要な役割を果たし、同年5月22日、ついに鎌倉幕府を滅亡へと追い込んだ 2 。この功績により、宗広は建武の新政における功労者の一人として、その名を天下に知らしめることになったのである 19 。
興味深いことに、この時、宗広の宿敵であったはずの下総結城氏の当主・結城朝祐もまた、足利高氏(後の尊氏)に従って六波羅探題を攻め、倒幕に加わっていた 8 。一族が敵味方に分かれるのではなく、それぞれ異なる将の下で同じ目的のために戦うという、複雑な状況が生まれていた。しかし、この共闘は一時的なものに過ぎず、倒幕後の新たな政権下で、両者の対立はより先鋭化していくことになる。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による天皇親政「建武の新政」が開始されると、結城宗広はその功績を認められ、飛躍の時を迎える。特に、彼の長年の悲願であった一族内での地位向上が実現したことは、彼のその後の行動を決定づける上で極めて重要な意味を持った。
建武の新政において、宗広は後醍醐天皇から手厚い恩賞を与えられた。陸奥国白河庄内の所領を安堵されただけでなく、石川庄や金山郷といった新たな知行地を獲得し、その勢力基盤をさらに強固なものとした 6 。
しかし、宗広にとって土地以上に価値のある恩賞は、後醍醐天皇から「結城惣領」として、結城一族全体を統率する権限を公式に認められたことであった 6 。これは、分家である白河結城氏が、本家である下総結城氏を凌駕することを天皇自らが公認したに等しい。宗広にとって、これは一族の宿願であった「下剋上」の達成を意味した。後醍醐天皇は、奥州に強力な支持基盤を築くため、宗広のような在地の実力者を厚遇することで自陣営に引き込もうとし、宗広はこの政治力学を巧みに利用して、一族内での地位を完全に逆転させたのである。
一方で、この措置は本家・下総結城氏の激しい反発を招いた。惣領の地位を奪われただけでなく、所領の一部まで没収された下総結城氏の当主・朝祐にとって、建武政権はもはや敵でしかなかった 20 。彼らが後に足利尊氏に与し、新政に反旗を翻す最大の動機は、この「惣領職」問題にあった。これにより、結城一族内の対立は、来るべき南北朝の全国的な対立構造と完全に連動し、後戻りのできない骨肉の争いへと発展していくことになる。
建武元年(1334年)、公家の北畠顕家が、後醍醐天皇の皇子である義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、陸奥守として多賀国府(現在の宮城県多賀城市)に下向した。ここに、奥州を統治するための出先機関「陸奥将軍府」が設置されると、宗広はその中心的な役割を担うことになった 1 。
宗広は、長男の親朝と共に、陸奥将軍府の最高意思決定機関である「式評定衆」に任命され、奥州の検断職(軍事・警察権)も兼帯するなど、まさに奥州統治の要となった 2 。若き公卿である顕家にとって、奥州の荒々しい武士たちを束ねるためには、宗広のような地域に深く根を張る有力者の協力が不可欠であった 23 。一方、宗広にとって顕家は、自らの「惣領」としての地位を保証し、中央政権との繋がりを確保してくれる重要な存在であった。
両者は単なる主従関係を超え、奥州統治における戦略的なパートナーシップを築き上げていった 14 。この強固な連携が、後に足利尊氏と対峙する奥州軍の強大な力の源泉となるのである。
建武の新政は、武士たちの不満を背景にわずか2年余りで崩壊に向かう。足利尊氏が新政に反旗を翻すと、日本は南朝(後醍醐天皇方)と北朝(足利方)に分かれて争う、南北朝の動乱に突入する。この戦乱の中で、結城宗広は北畠顕家と共に、南朝方の主力として各地を転戦することになる。
建武3年(延元元年、1336年)、足利尊氏が京都を制圧し、後醍醐天皇が比叡山へ逃れると、奥州の北畠顕家のもとに尊氏追討の勅命が下った。これに応じ、顕家は宗広・親朝父子ら奥州の精鋭を率いて西上を開始する 6 。
奥州軍は破竹の勢いで進軍し、行く先々で北朝方を撃破。同年12月には手越河原の戦いなどで勝利を重ね、翌年正月には近江で新田義貞軍と合流した 6 。そして京都での激戦の末、ついに足利軍を都から駆逐し、九州へと敗走させるという大金星を挙げる 6 。この京の回復作戦における宗広の功績は絶大であり、後醍醐天皇からその武功を賞され、名刀「鬼丸」を賜ったと伝えられている 6 。この時、宗広の生涯は頂点を迎えたと言えよう。
九州で勢力を立て直した足利尊氏は、再び大軍を率いて東上し、湊川の戦いで楠木正成を破り、京都を再占領した。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、南朝を開く。延元2年(1337年)、後醍醐天皇は再び顕家に上洛を促し、顕家と宗広は二度目の西上作戦を決行する 6 。
この時、宗広は長男の親朝を白河に残し、後事を託して出陣した 6 。奥州軍はまず鎌倉を攻略し、関東における北朝方の拠点であった鎌倉府を壊滅させ、斯波家長を討ち取るなど、その強さを見せつけた 6 。しかし、西へ向かうにつれ、北朝方の激しい抵抗に遭い、戦いは困難を極めていく。美濃国青野原の戦いでは高師泰らの軍に苦戦し、奥州軍は次第に疲弊していった 6 。軍記物語『太平記』には、この苦しい行軍の最中、奥州軍が食糧などを確保するために周辺地域で略奪を働いたと記されているが、これは補給線を絶たれた軍の過酷な状況を反映したものと考えられる 26 。
度重なる戦闘で消耗した奥州軍は、北朝方の圧倒的な物量の前に次第に追い詰められていく。延元3年(1338年)5月、奈良の般若坂の戦いで奥州軍は敗北を喫し、軍勢は四散した 27 。この戦いで宗広も敗走し、辛うじて吉野の後醍醐天皇のもとへ逃れた 27 。
そして同年5月22日、総大将の北畠顕家は、和泉国石津(現在の大阪府堺市)の戦いで奮戦の末、ついに討死を遂げる 27 。弱冠21歳であった。顕家の死は、宗広にとって単に主君を失っただけでなく、自らの政治的地位を支える最大の柱を失ったことを意味した。そして南朝にとっても、最強の軍事指導者を失った打撃は計り知れず、以後、その勢力は大きく後退していくことになる。
南北朝の動乱は、国家を二分しただけでなく、多くの武家一族の内部にも深刻な亀裂をもたらした。結城宗広の一族も例外ではない。宗広自身が南朝への忠義を貫く一方で、彼の二人の息子、親光と親朝は、それぞれ全く異なる形でこの時代と向き合い、対照的な生涯を送ることになる。
宗広の次男・結城親光(ちかみつ)は、父以上に純粋な形で南朝への忠誠を貫いた人物であった。彼は早くから後醍醐天皇の側近として仕え、その忠勤ぶりは楠木正成、名和長年、千種忠顕と並び、後醍醐天皇の四人の腹心「三木一草」の一人として称えられるほどであった 15 。
建武3年(1336年)正月、京都での戦いの最中、親光は足利尊氏の暗殺を計画する。降伏を偽って尊氏の陣に近づくも、その意図は見破られていた 8 。計画は失敗に終わり、親光は奮戦の末に討死を遂げた 8 。その死は、南朝への揺るぎない忠義に殉じた、悲劇的かつ英雄的な最期として語り継がれている。
一方、長男の結城親朝(ちかとも)は、父や弟とは異なる道を歩んだ。当初は父と共に南朝方として各地を転戦し、下野守護職に任じられるなど活躍したが 6 、顕家の死後、奥州における南朝の勢いが衰えると、彼は一族の将来に深い苦悩を抱くようになる。
この頃、常陸国に拠点を移していた北畠親房(顕家の父)は、現地の窮状を顧みず、親朝に対して執拗に出兵を要請した 5 。その数は70通にも及んだという 5 。南朝の理想と、疲弊する領国や家臣たちの現実との間で板挟みになった親朝は、ついに重大な決断を下す。興国4年/康永2年(1343年)、彼は南朝に見切りをつけ、北朝の足利尊氏方に帰順したのである 30 。
これは父への「裏切り」と映るかもしれない。しかし、それは一族を滅亡から救い、その血脈を未来へ繋ぐという、嫡男としての責任感から生まれた、苦渋に満ちた現実的な選択であった。親朝の帰順を足利尊氏は大いに喜び、彼を奥州南部の広大な地域の軍事・警察権を司る「八郡検断職」に任命した 30 。これにより、白河結城氏は北朝の公的な権威を背景に、その勢力を飛躍的に拡大させることに成功したのである 30 。親朝は、父とは異なる形で、一族への責任を果たしたと言える。
この父子の異なる選択を理解する上で、宗広がとった特異な家督継承の形は示唆に富む。宗広は生前、嫡男である親朝を分家させて「小峰氏」を創始させ、白河結城氏の家督は親朝の子、すなわち宗広の孫である顕朝(あきとも)に直接継がせていた 1 。
この措置の真意は定かではないが、一つの解釈として、宗広の深謀遠慮が考えられる。自らが南朝方として最後まで戦い抜くことで、白河結城氏の惣領家が滅亡するリスクを、宗広は予見していたのかもしれない。そこで、嫡男の親朝をあえて分家させることで、彼が一族の「保険」として、状況に応じて北朝への接近といった柔軟な政治的選択を可能にする余地を残したのではないか。つまり、惣領家は「名誉と忠義」を、分家(小峰氏)は「家の実利と存続」を担うという、役割分担を意図した高度な相続戦略であった可能性がある。
結果として、宗広の死後、孫の顕朝は家督と所領を父・親朝に献上し、最終的に親朝が白河結城氏の惣領となった 1 。親光の「殉教」、宗広の「忠義」、そして親朝の「現実主義」。これらは、一つの家が動乱の時代を生き抜くために選択した、三者三様の生存戦略だったのである。
人物 |
所属 |
主な立場 |
主要な活動 |
結末 |
結城 宗広 |
白河結城氏 |
南朝 |
鎌倉攻略、北畠顕家と共に西上し足利尊氏と交戦。 |
伊勢にて病没。 |
結城 親光 |
白河結城氏 |
南朝 |
後醍醐天皇の側近「三木一草」。足利尊氏の暗殺を試みる。 |
尊氏暗殺に失敗し、討死。 |
結城 親朝 |
白河結城氏 (小峰氏祖) |
南朝 → 北朝 |
当初は父と共に南朝方で戦うが、後に北朝に帰順。八郡検断職を得て勢力を拡大。 |
白河結城氏の勢力基盤を確立し、病没。 |
結城 顕朝 |
白河結城氏 |
南朝 → 北朝 |
祖父・宗広から家督を継承するが、後に父・親朝に譲る。父と共に北朝方として活動。 |
父の跡を継ぎ、白河結城氏の繁栄を導く。 |
結城 朝祐 |
下総結城氏 (本家) |
北朝 |
宗広に惣領職を奪われ、足利尊氏に与して戦う。 |
多々良浜の戦いで戦死。 |
北畠顕家という最大の支柱を失い、奥州軍が壊滅した後も、老将・結城宗広の闘志は尽きなかった。彼は再起を期して最後の力を振り絞るが、その夢は天候という人の力の及ばぬものによって阻まれ、無念の最期を迎えることになる。
顕家の死後、吉野に逃れていた宗広は、伊勢国(現在の三重県)に移り、敗残兵をまとめ上げた 27 。彼は北畠親房らと協議し、南朝勢力を再建するための一大計画を立てる。それは、顕家の弟である北畠顕信(あきのぶ)を新たな総大将とし、義良親王を奉じて、海路で本拠地である奥州へ帰還するという壮大なものであった 27 。この計画が成功すれば、南朝は再び強力な軍事拠点を手に入れることができるはずだった。
延元3年(1338年)9月、宗広らは500艘もの船からなる大船団を組織し、伊勢大湊から奥州を目指して出航した 27 。しかし、彼らの行く手には無情な運命が待ち受けていた。船団は出航後まもなく、折悪しく天龍灘で激しい暴風雨に遭遇し、離散してしまう 2 。
宗広が乗る船もまた、伊勢の安濃津(現在の津市周辺)に吹き戻された 15 。再起の夢は、荒れ狂う波濤の前に脆くも打ち砕かれた。この時の宗広の絶望は、察するに余りある。失意のうちに彼は病に倒れ、伊勢の光明寺で療養するも、70歳を超えた老体は回復することなく、同年11月、ついにその波乱の生涯を閉じた 1 。多くの武勇伝が戦場での華々しい討死を美化するのに対し、宗広の最期は、夢半ばでの病死という、あまりに人間的な結末であった。この事実は、南北朝という巨大な動乱の中で、一個人の武勇や意志だけではどうにもならない運命の非情さを物語っている。
『太平記』は、宗広の臨終の場面を極めて劇的に描写している。死の床で、寺の僧侶が後生を願って念仏を唱えるよう諭したのに対し、宗広はこれを一蹴したという。「我は十悪五逆を尽くした大悪人。仏にすがり心穏やかに死を待とうとは思わぬ」と述べ、こう続けたと記す。「ただこの度、再び都に上り、朝敵を滅ぼすことなく黄泉の旅路につくことこそ、未来永劫の心残りとなろう。我が息子・親朝には、後生の弔いは一切無用、ただ朝敵の首を捕らえ、我が墓の前に懸け並べて見せよと伝えよ」 5 。そして、刀を逆手に握り、歯を食いしばりながら絶命したとされる 33 。
この遺言は、彼の南朝への揺るぎない執念を示すものとして、後世に強い印象を与えた。しかし、このあまりに壮絶な描写は、史実というよりも、『太平記』という物語が、彼の人間的な最期をより劇的なものへと昇華させるために施した、文学的な脚色と見るべきであろう。
結城宗広という人物を語る上で、軍記物語『太平記』の影響は無視できない。しかし、『太平記』が描く宗広像は、他の史料から見える姿とは大きくかけ離れており、その記述を鵜呑みにすることは、歴史の真実を見誤る危険を伴う。
『太平記』は、宗広を極めて残忍で暴虐な人物として描いている。例えば、「常に死人の首を見ないと気分が晴れないと言って、僧俗男女を問わず、日々2、3人の首を斬って目の前に懸けた」といった、常軌を逸した悪行が記されている 3 。
しかし、このような猟奇的な行動は、同時代の一級史料である『白河結城家文書』などからは一切裏付けることができない 19 。むしろ、現存する宗広の自筆書状などからは、理知的で、一族や地域の統治に心を砕く、中世の典型的な武将としての側面が浮かび上がる 17 。したがって、『太平記』における残虐な描写は、史実とは考え難く、物語を劇的にするための文学的な脚色である可能性が極めて高い 3 。
『太平記』はさらに、宗広の死後の物語として、地獄に堕ちる逸話を創作している。仏にすがらずに死んだ宗広は阿鼻地獄に堕ち、鬼たちから責め苦を受けたとされる 3 。後に、その様子を夢で見たという僧侶から話を聞いた息子の親朝が、父のために供養を行ったことで、宗広はようやく地獄の苦しみから救われた、という筋書きである 3 。
この逸話は、作者が複数いるとされる『太平記』の中でも、特に仏教的な色彩が強い部分に見られる特徴的な創作である 3 。その意図は、武士の「殺生」という罪業の深さを強調し、いかに忠義を尽くした武将であっても、仏法の救いなしには成仏できないという、仏教的な無常観や教訓を読者に示すことにあったと考えられる 3 。『太平記』は単なる歴史記録ではなく、壮大な物語文学であり、南朝の有力武将であった宗広は、その物語の中で、武士の業の深さを体現する象徴的な「キャラクター」として必要とされたのである。
『太平記』が描く「悪人」としての宗広像は、古文書から浮かび上がる実像とは著しく乖離している。例えば、国の重要文化財に指定されている『白河結城家文書』は、鎌倉時代から室町時代にかけての白河結城氏の歴史を伝える貴重な史料群であり、特に宗広・親朝父子の活動が活発であった南北朝期の文書がまとまって残っている 9 。これらの文書からは、宗広が地域の秩序維持や所領経営に努める、現実的な領主であったことが窺える。
『太平記』の物語は、南北朝時代の動乱を生き生きと伝える魅力を持つ一方で、史実を歪める危険性もはらんでいる。結城宗広の実像に迫るためには、この軍記物語の創作性を常に念頭に置き、古文書などの一次史料と慎重に比較検討する視点が不可欠である。
結城宗広の死後も、彼が築いた白河結城氏の歴史は続き、また彼自身への評価も時代と共に大きく変遷していった。現代においても、彼の生涯を物語る史跡が各地に残り、その記憶を今に伝えている。
宗広の死後、白河結城氏の家督を継いだのは、北朝に帰順した長男・親朝であった。彼は父とは異なる現実的な路線を選択し、足利氏から与えられた「八郡検断職」という強大な権限を背景に、巧みに立ち回った 30 。親朝とその子・顕朝の時代に、白河結城氏は南奥州の雄として最盛期を迎え、その勢力は北関東にまで及んだ 30 。宗広の南朝への忠義と、親朝の北朝での活躍という、一見矛盾した父子の行動が、結果として白河結城氏の繁栄をもたらしたのである。
しかし、その栄華も長くは続かなかった。戦国時代に入ると、一族の内訌や周辺大名の台頭により、白河結城氏は次第に衰退していく 6 。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置によって所領を没収され、改易。ここに、約400年にわたる南奥州の支配者としての白河結城氏の歴史は、幕を閉じた 35 。
『太平記』によって「残忍な武将」の烙印を押された宗広であったが、時代が下り、江戸時代に入ると、その評価は一変する。幕藩体制を支える儒教的な「忠孝」の価値観が広まる中で、彼は南朝に最後まで殉じた「忠臣」として再評価されるようになったのである。
その象徴が、白河藩主であった松平定信の命により、文化4年(1807年)に白川城跡の断崖絶壁に刻まれた巨大な石碑「感忠銘(かんちゅうめい)」である 13 。高さ7.6メートル、幅2.7メートルにも及ぶこの磨崖碑には、宗広と、彼と共に忠義に殉じた次男・親光の忠烈を称える文章が刻まれている 37 。題字である「感忠銘」の三文字は定信自らの筆によるものであり、時の為政者が『太平記』の評価を覆し、宗広を「忠臣」として公に顕彰したことを示している 13 。この「感忠銘」の建立は、その後の宗広に対する見方を決定づける大きな出来事となった。
結城宗広の波乱に満ちた生涯は、700年近い時を経た今も、ゆかりの地の史跡を通じて語り継がれている。
これらの史跡は、結城宗広という一人の武将が、いかにして時代の動乱を生き、そして後世の人々によってどのように記憶されてきたかを物語る、貴重な歴史の証人である。彼の評価は、『太平記』の「悪人」、松平定信の「忠臣」、そして近代皇国史観下の「南朝の英雄」と、各時代の支配的なイデオロギーを映す鏡のように変遷してきた。結城宗広の生涯を追うことは、単に一人の武将の歴史を知るだけでなく、日本の歴史における「忠義」という概念がいかに時代と共にその姿を変えてきたかを辿る旅でもあると言えよう。