織田信清(おだ のぶきよ)は、戦国時代にその名を刻んだ武将でありながら、従兄弟である織田信長の圧倒的な存在感の前に、その生涯の詳細は長らく歴史の陰に隠されてきた。彼は尾張国犬山城主として、信長の尾張統一事業において、当初は重要な協力者であり、最終的には「最後の壁」として立ちはだかった人物である。信長との間に血縁と婚姻という二重の絆を持ちながらも、やがて敵対し、故郷を追われるに至った彼の生涯は、戦国乱世の非情さと、天下統一という巨大な潮流の中で独立を保とうとした地方領主の苦悩を象徴している。
本報告書は、現存する断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、織田信清という一人の武将の実像に迫ることを目的とする。彼の出自から、信長との関係性の変遷、尾張を追われた後の後半生、そして彼の子孫たちが辿った運命までを徹底的に調査・分析することで、信長の天下布武の過程をより複眼的に理解し、戦国という時代を生きた武将の多様な生き様を浮き彫りにする。
織田信清は、織田信長の父・信秀の弟にあたる織田信康(おだ のぶやす、通称:与次郎)の子として生まれた 1 。信長とは従兄弟の関係にあり、織田弾正忠家という、後に天下を席巻することになる一族の血を引く人物であった。通称は十郎左衛門、後に下野守を称し、甲斐へ逃れた後は出家して鉄斎と号し、津田姓を名乗ることもあったため、犬山鉄斎、津田鉄斎とも呼ばれる 2 。
彼の父・信康は、兄である信秀を軍事・政治の両面で支えた有力な武将であった。天文6年(1537年)、信康は尾張北部の要衝である犬山に、従来の木之下城から拠点を移す形で犬山城を築城し、その初代城主となった 4 。これにより、信長を輩出した織田弾正忠家の分家として、犬山を本拠とする「犬山織田家」が形成されたのである。
なお、江戸時代前期から中期にかけて、信長の次男・織田信雄の曾孫にあたる同姓同名の旗本「織田信清」が存在するが、本報告書で扱う戦国武将とは全くの別人である 7 。
信清の生涯を理解するためには、当時の尾張国が置かれていた複雑な政治状況を把握することが不可欠である。16世紀半ばの尾張は、名目上の支配者である守護・斯波氏の下で、二つの守護代家が実権を巡り激しく対立していた。尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配したのが、宗家筋にあたる岩倉城の「織田伊勢守家(岩倉織田家)」、そして下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を支配したのが清洲城の「織田大和守家(清洲織田家)」である 9 。
信長や信清が属する「織田弾正忠家」は、本来、清洲織田家の家臣であり、三人の奉行のうちの一つに過ぎない家柄であった 9 。しかし、信長の父・信秀の代に、津島湊を掌握して得た経済力を背景に軍事力を増強し、主家である清洲織田家をも凌駕する勢力へと急成長を遂げた 13 。
この複雑な勢力図の中で、犬山織田家は特異な立場を占めることになる。信清の父・信康は、弾正忠家の人間でありながら、対立する岩倉織田家の当主・織田信安(おだ のぶやす)が若年であったため、その後見役を務めたとされる記録がある 2 。これは、弾正忠家当主の信秀が、主家である清洲方を牽制し、尾張全体の主導権を握るための戦略の一環として、敵対勢力である岩倉方にも影響力を行使しようとした深謀遠慮の現れと解釈できる。この結果、犬山織田家は、弾正忠家の分家でありながら岩倉織田家とも深い繋がりを持つという、両勢力の中間に位置する独自の政治的地位を築くことになった。この成り立ちこそが、後の信清の独立志向と、信長との協力、そして対立へと繋がる伏線となるのである。
表1:織田信清 略年譜
西暦 (和暦) |
年齢 (推定) |
主な出来事 |
出典 |
不明 |
|
織田信康の子として誕生。 |
2 |
1544年頃 (天文13年頃) |
不明 |
父・信康が加納口の戦いで戦死。信清が犬山城主を継承。 |
4 |
1549年 (天文18年) |
不明 |
伯父・信秀の存命中に、信長の所領を巡り対立。 |
16 |
1558年 (永禄元年) |
不明 |
信長の姉(犬山殿)を娶り、婚姻同盟を締結。 |
2 |
1558年 (永禄元年) |
不明 |
浮野の戦い 。信長の要請に応じ援軍を派遣。岩倉織田家(織田信賢)の撃破に大きく貢献。 |
1 |
1561年 (永禄4年) |
不明 |
十四条・軽海の戦い 。美濃斎藤氏との戦いで弟・広良が戦死。 |
21 |
1562年頃 (永禄5年頃) |
不明 |
岩倉城旧領の分与等を巡り信長と対立。美濃の斎藤龍興と結ぶ。 |
1 |
1564年 or 1565年 (永禄7年 or 8年) |
不明 |
犬山城の戦い 。信長に攻められ、城を明け渡して甲斐国へ逃亡。 |
1 |
1564年以降 |
不明 |
甲斐にて武田氏に仕え、出家して「犬山鉄斎」と号す。『甲陽軍鑑』に信玄の御伽衆として名が見える。 |
1 |
1582年 (天正10年) |
不明 |
甲州征伐により武田氏が滅亡。以降の消息は不明となる。 |
26 |
父・信康の死により若くして犬山城主となった信清は、当初、従兄弟である信長と必ずしも良好な関係ではなかった。しかし、尾張統一という共通の目標の下、両者は一時的に手を結び、信清は信長の覇業に不可欠な役割を果たすことになる。
天文13年(1544年)または天文16年(1547年)、父・織田信康は美濃国主・斎藤道三との「加納口の戦い」で討死した 3 。これにより家督を継いだ信清は、犬山城を拠点とする領主となる。しかし、弾正忠家の強力な当主であった伯父・信秀が天文21年(1552年)頃に没し、信長が後を継ぐと、信清は独自の勢力として行動を活発化させる。史料によれば、信秀の死後、信清が信長の直轄地を押領しようと試みるなど、両者の間には所領を巡る緊張関係が存在した 2 。このことは、信清が信長を一族の宗主として単純に受け入れるのではなく、自立した領主としての意識を強く持っていたことを示唆している。
尾張統一を目指す信長にとって、最大の障害は上四郡を支配する宗家・岩倉織田家であった。岩倉城を攻略するにあたり、その後方に位置し、独立勢力として侮れない力を持つ犬山城主・信清の存在は、看過できない脅威であった。信清が岩倉方につけば、信長は挟撃される危険に晒される。
この状況を打開するため、信長は巧みな外交手腕を見せる。彼は自身の姉(一説に妹)を信清に嫁がせ、婚姻関係を結ぶことで同盟を成立させたのである 2 。この妻は「犬山殿」と呼ばれ、信清と信長は従兄弟であると同時に義兄弟という、極めて強固な血縁関係で結ばれることになった。この政略結婚により、信清は信長への協力を約束し、信長は後顧の憂いなく岩倉城攻略に集中できる体制を整えた。
表2:織田信清と関連人物の略式系図
織田信定
┃
┏━━━━━━┻━━━━━━┓
織田信秀 織田信康
┃ ┃
┏━━━┻━━━┓ ┏━━━┻━━━┓
┃ ┃ ┃ ┃
織田信長 ━┳━ 犬山殿(姉) 織田信清 織田広良
┃(婚姻) ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛ ┃
津田信益
注: 上記は本報告書に関連する人物に絞った略式系図であり、全ての兄弟姉妹を網羅したものではありません。犬山殿の続柄は姉説が有力ですが、妹説も存在します 29 。
信長と信清の同盟がその真価を発揮したのが、永禄元年(1558年)に勃発した「浮野の戦い」である。当時、岩倉織田家では当主・織田信安とその嫡男・信賢の間で後継者争いが生じ、信賢が父を追放して実権を握るという内紛が起きていた 18 。
信長はこの好機を逃さなかった。直ちに軍勢を率いて岩倉城へと進軍する。しかし、兵力において信長軍は約2,000、対する岩倉の織田信賢軍は約3,000と、信長は数的に不利な状況にあった 19 。戦いが始まると、信長軍は一時劣勢に立たされる。この窮地を救ったのが、信清の援軍であった。
信長の要請に応じた信清は、1,000の兵を率いて戦場に駆けつけた 19 。これにより、織田連合軍の兵力は3,000となり、岩倉軍と互角、あるいはそれ以上の戦力となった。信清軍の参戦によって形成は一気に逆転し、岩倉軍は総崩れとなり壊滅、信賢はかろうじて岩倉城へと敗走した 19 。この戦いで岩倉方が失った首は1,250にも上ったと記録されている 19 。
勢いに乗った信長は、翌永禄2年(1559年)に岩倉城を包囲し、信賢を降伏させた。これにより、尾張守護代の宗家であった織田伊勢守家は滅亡する 10 。浮野の戦いにおける信清の協力がなければ、信長は兵力的に劣勢のまま苦戦を強いられ、尾張統一は大幅に遅延した可能性が高い。この一点をもってしても、信清が信長の初期の覇業において、極めて重要な役割を担ったことは疑いようがない。
浮野の戦いで信長の勝利に貢献し、尾張統一の功労者とも言える信清であったが、両者の蜜月は長くは続かなかった。協力関係から一転、信清は信長に反旗を翻し、尾張統一の最終局面で信長の前に立ちはだかる「最後の壁」となる。
信清が信長に敵対するに至った理由は、単一のものではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。史料からは、主に以下の三つの原因が浮かび上がる。
1. 岩倉織田家旧領の分与を巡る確執
最も直接的な原因として挙げられるのが、浮野の戦後の論功行賞、すなわち旧岩倉織田家領の分与を巡る不満である 17。信清は、自らの援軍が勝利の決定打となったにもかかわらず、その功績に見合うだけの恩賞が与えられなかったことに強い不満を抱いたとされる。信長が尾張の絶対的な支配者として振る舞い、信清を対等な同盟者ではなく、一介の家臣として扱ったことが、独立心の強い信清のプライドを傷つけ、両者の間に決定的な亀裂を生んだ可能性が高い。
2. 軽海の戦いでの弟の死
永禄4年(1561年)、信長は美濃の斎藤氏攻略を本格化させる。その一環として行われた「十四条・軽海の戦い」において、信清の弟である織田広良(『信長公記』による 22)が討死した 21。一説には、信清はこの弟の死を信長の無理な戦のせいだと恨み、信長への反感を募らせたとも言われている 17。血縁者の死が、政治的な対立に感情的な憎悪を加える要因となったことは想像に難くない。
3. 美濃斎藤氏との連携
信長との関係が悪化する中、信清は生き残りをかけて新たな同盟相手を模索する。彼が選んだのは、信長の宿敵である美濃の斎藤龍興であった 1。犬山城は木曽川を挟んで美濃と尾張の国境に位置する戦略的要衝である。信清が斎藤氏と結ぶことは、信長の美濃攻略計画にとって、背後を脅かす深刻な脅威となることを意味した。
これらの要因から見えてくるのは、信清の反乱が単なる恩賞への不満に留まらない、より根源的な動機に基づいていたことである。すなわち、それは織田弾正忠家という巨大な権力に組み込まれることを拒否し、犬山城を中心とする独立領主としての地位を守り抜こうとする「最後の抵抗」であった。信長から見れば裏切りであるが、信清の立場からすれば、それは戦国武将としての自立をかけた必死の戦いであったと言えるだろう。
信清の反乱に対し、信長は断固たる措置を取る。尾張一国を完全に掌握し、美濃攻略に全力を注ぐため、背後の脅威である犬山城の攻略は避けて通れない課題であった。
1. 時期の特定
犬山城が落城した時期については、史料によって見解が分かれている。『信長公記』の記述解釈などから永禄7年(1564年)とする説 1 と、永禄8年(1565年)とする説 34 が存在するが、本報告ではより多くの史料で支持される永禄7年を中心に記述を進める。
2. 小牧山城築城による軍事的圧力
信長は、武力攻撃に先立ち、周到な準備を進めた。永禄6年(1563年)、犬山城の南約10kmの地点に小牧山城を築城し、本拠を清洲から移した 36。これは、美濃攻略の拠点であると同時に、犬山城に対する直接的な軍事圧力であった。眼前に巨大な城が築かれていく様を目の当たりにした信清の家臣団、特に犬山城の支城であった小口城(於久地城)の兵たちは戦意を喪失し、戦わずして城を明け渡し、犬山城へと退却したと『信長公記』は伝えている 36。
3. 家臣の切り崩しと丹羽長秀の調略
信長は、力攻めだけでなく、得意の調略を駆使して信清を内部から切り崩していく。重臣・丹羽長秀を使い、信清の家老であった中島豊後守(旧小口城主)や和田定利(黒田城主)に内応を働きかけた 33。主君に見切りをつけた重臣たちが信長に寝返ったことで、信清は急速に孤立を深めていった。
4. 犬山城の落城と尾張統一の完成
永禄7年(1564年)5月、信長は満を持して犬山城に総攻撃をかける。丹羽長秀らが率いる軍勢は、内応者の手引きによって犬山城を包囲し、城下町や近隣の瑞泉寺などに火を放った 17。もはや抗戦は不可能と悟った信清は、城を明け渡し、甲斐国へと逃亡した 23。
この犬山城の落城をもって、織田信長は、父・信秀の代からの悲願であった尾張一国の完全統一を成し遂げたのである 23 。これ以降、犬山城は信長の美濃攻略における重要な後方支援拠点となり、歴史の新たな段階へと進んでいく。
故郷・尾張を追われた織田信清の後半生は、謎に包まれた部分が多い。しかし、断片的な史料は、彼が信長の宿敵・武田信玄のもとで再起を図り、特異な役割を担っていたことを示唆している。
犬山城から落ち延びた信清が向かった先は、東の強国・甲斐の武田信玄のもとであった 1 。信長と敵対する者にとって、武田信玄は最も頼りになる存在であり、この選択は当時の政治情勢から見て自然な流れであった。甲斐に入った信清は出家し、「犬山鉄斎」あるいは「津田鉄斎」と号して、武田氏に仕えることになったと伝えられている 1 。
信清の甲斐での動向を伝える貴重な史料が、武田家の軍学書として名高い『甲陽軍鑑』である。その品第十七には、武田信玄に仕えた文化人や側近を列挙する中で、「御とぎ衆(御伽衆)」の一人として「犬山鉄斎」の名が明確に記されている 24 。
御伽衆とは、単なる話し相手ではなく、主君の側近くにあって様々な相談に応じ、時には政治的な助言も行うブレーン的な役職である。敵国・尾張から亡命してきた信清が、信玄の側近集団に加えられていたという事実は、彼が武田家で特別な待遇を受けていたことを示している。江戸時代に編纂された甲斐国の地誌『甲斐国志』も、『甲陽軍鑑』を引用する形でこの事実を記録している 24 。
信玄が信清を高く評価した背景には、信清が持つ情報的価値があったと考えられる。信清は信長の従兄弟であり、元義兄弟でもある。織田家の内情、一族の人間関係、そして何よりも信長自身の性格や思考、用兵術について、他の誰よりも深く知る人物であった。対信長戦略を練る上で、信清は武田信玄にとって他に代えがたい貴重な「情報源」であり、生きた教材であった。彼を「御伽衆」として遇したのは、単なる亡命者の保護という次元を超え、彼の持つ知識と経験を最大限に活用しようとする信玄の高度な戦略的判断があったと推測される。信清は、事実上の軍事顧問に近い役割を担っていた可能性すらある。
信清の庇護者であった武田信玄は元亀4年(1573年)に病没し、武田家は勝頼が継いだ。そして天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の圧倒的な兵力の前に武田氏は滅亡する(甲州征伐)。
この武田家滅亡という一大動乱の中で、信清がどのような行動を取ったのか、そしてどのような最期を迎えたのかを示す確かな史料は、残念ながら現存していない。武田氏滅亡後、その遺領を巡って徳川家康、北条氏直、上杉景勝が争った「天正壬午の乱」に関する一連の記録にも、彼の名は一切見当たらない 26 。彼の没年、没地、墓所のいずれも不明である 17 。
彼の後半生が歴史の闇に消えた理由については、いくつかの可能性が考えられる。第一に、甲州征伐の際に信長軍に捕縛され、処刑された可能性である。信長は武田一族や重臣の徹底的な殲滅を命じており、かつて自分を裏切り宿敵に与した信清が、その対象から外れるとは考えにくい。第二に、武田家滅亡の混乱の中で討死した可能性。第三に、乱戦を生き延びたものの、身分を隠してどこかの地でひっそりと生涯を終えた可能性である。
いずれにせよ、確たる記録が残されていないこと自体が、歴史の勝者となった織田・徳川方から見て、信清が「記録するに値しない存在」、あるいは「その存在を抹消すべき対象」と見なされた結果である可能性を物語っている。信長の前に立ちはだかった尾張最後の壁は、その最期を語られることなく、歴史の舞台から静かに姿を消したのである。
父・信清が信長への抵抗の末に歴史の闇に消えたのとは対照的に、彼の子どもたちは激動の時代を巧みに生き抜き、新たな支配者である徳川の世で一族の血脈を見事に繋いでいく。そこには、武力による抵抗から政治的な処世術へと、家の存続戦略を大きく転換させた姿が見て取れる。
信清の子・津田信益(つだ のぶます)は、父とは全く異なる道を歩んだ。父が「織田」の名に固執し独立を貫こうとしたのに対し、信益は織田一門が用いることのあった「津田」姓を名乗ることで、父の過去と距離を置き、信長への恭順の意を示したと考えられる 2 。
この戦略は功を奏し、信益は父の罪を許され、信長の家臣団に復帰を果たす 41 。その信頼は厚く、天正9年(1581年)に京都で行われた大規模な軍事パレードである「京都御馬揃え」には、信長の一門衆である「連枝衆」の一人として参加している 41 。さらに天正10年(1582年)、本能寺の変の直前に信長が上洛した際には、安土城本丸の留守を預かる重臣の一人にも名を連ねており、『信長公記』にもその名が記されている 41 。
本能寺の変で信長が倒れた後は、天下人となった豊臣秀吉に仕え、茶道の縁から片桐且元のもとにいた時期もあるとされる 41 。そして秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、晩年には越前北ノ庄藩(福井藩)の初代藩主・結城秀康(徳川家康の次男)に仕官し、江戸幕府との連絡役なども務めたようである 41 。信長、秀吉、家康と、目まぐるしく変わる天下の支配者に巧みに仕えることで、信益は自らの地位を保ち、一族存続の礎を築いた。彼は寛永10年(1633年)に没したと記録されている 41 。
信益の処世術の巧みさは、娘たちの婚姻関係において頂点に達する。彼は娘たちを徳川家の中枢と結びつけることで、一族の安泰を決定的なものにした。
信益の息子たちも、長男・信総の子孫は尾張藩士となり、三男・信勝は松平直良に仕えて大野藩の家老職を務め、後に「織田」姓に復している 41 。武力で抵抗し没落した父・信清とは対照的に、息子・信益は政治力と婚姻政策を駆使して、一族を大名家や御三家の外戚という名誉ある地位へと導いたのである。
津田信益の出自には、もう一つ興味深い説が存在する。それは、彼が実は信長の嫡男・織田信忠の次男である織田秀則(信長の孫)その人であるというものである 41 。この説によれば、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れた秀則は、兄・秀信と別れて落ち延び、豊臣恩顧の大名であった結城秀康に匿われた。そして、身分を隠すために「津田信益」と改名したという。この説の真偽を確定する史料はないが、信益とその一族が、単なる信長の従甥という立場以上に徳川家から厚遇された背景を説明する一つの仮説として注目される。
この一族の物語は、父・信清の代における「武」による抵抗の失敗と、子・信益の代における「政」による再生という、戦国から江戸への移行期を生きた武家の二つの典型的な生き残りの姿を、一つの家族史の中に鮮やかに描き出している。
織田信清の生涯を多角的に検証すると、彼は単なる信長の縁者の一人という評価に留まらない、重要な歴史的意義を持つ人物として浮かび上がってくる。
第一に、信清は織田信長の尾張統一事業において、決定的な役割を果たした人物である。当初は浮野の戦いで信長を勝利に導く不可欠な「協力者」であり、その後の美濃攻略の道を拓いた。しかし、信長の支配体制が強化されるにつれて、彼はその体制に組み込まれることを拒否し、信長の前に立ちはだかる越えるべき「最後の壁」となった。彼の存在なくして、信長の尾張平定の過程、その困難さと戦略の巧みさを正確に語ることはできない。
第二に、信清とその一族が辿った運命は、戦国乱世の非情さと、時代の変化に適応していく武家のしたたかさを象徴している。独立領主としての誇りをかけて信長に抵抗し、歴史の闇に消えた父・信清。その一方で、父の失敗を教訓とし、姓を変え、主君を変え、ついには婚姻政策によって一族を徳川政権下で繁栄させた息子・信益。この対照的な親子二代の生き様は、武力から権威と家格が重視される世へと移行する時代の大きな転換点を、一つの家族史として見事に映し出している。
最後に、信清の生涯は、歴史研究における史料の重要性と限界を示している。彼の人生は断片的な記録の中にしか残されていない。しかし、それらの記録を丹念に繋ぎ合わせ、行間を読むことで、信長という巨大な光の影に隠れがちであった一人の武将の、誇りと独立をかけた戦いの実像が浮かび上がってくる。織田信清の物語は、天下統一という大きな歴史の潮流の中で翻弄され、あるいはそれに抗い、そして消えていった数多の武将たちの人生を代弁する、貴重な歴史の一断面なのである。