最終更新日 2025-08-03

肝付兼久

肝付兼久は大隅の国人領主。幼くして家督を継ぎ、新納氏の援助で高山城を奪還。守護島津忠昌と対立し、二度の高山城攻防戦で撃退。忠昌を自害に追い込み、大隅での優位を確立した。
肝付兼久

大隅の風雲児、守護を揺るがす ― 肝付兼久の生涯と南九州戦国黎明期の真相

序章:乱世に屹立する国人領主、肝付兼久

戦国時代の南九州史において、肝付兼久(きもつき かねひさ)という名は、しばしば大隅守護・島津忠昌を自害に追い込んだ反逆者として、簡潔に語られることが多い 1 。この評価は、彼の生涯の最も劇的な一幕を捉えてはいるものの、その行動の背景にある複雑な力学や、彼が生きた時代の構造的変化を見過ごさせる危険性をはらんでいる。兼久は、単なる一介の反乱者だったのだろうか。

本報告書は、この問いに答えるため、肝付兼久という人物を、15世紀末から16世紀初頭にかけての南九州における権力構造の変動期という、より広大な文脈の中に位置づけ直すことを目的とする。彼の生涯は、守護の権威が失墜し、在地領主である国人衆が自らの実力で勢力を伸張させていく「戦国黎明期」の動乱を、まさに体現するものであった。

我々は、兼久の出自、彼が拠った本拠・高山城の戦略的価値、そして彼の行動を支えた同盟関係を丹念に分析することで、彼が単なる反逆者ではなく、時代の変化を的確に捉え、自家の存続と発展のために闘った、自立した国人領主であったことを明らかにする。彼の物語は、島津氏という巨大な権力に挑み、一時はそれを凌駕した一人の武将の記録であると同時に、室町時代の秩序が崩壊し、新たな時代が幕を開ける過程で南九州が経験した、激しい産みの苦しみの証言でもある。

【図表1:肝付兼久 相関人物図】

カテゴリ

人物名

肝付兼久との関係

肝付氏(本家)

肝付兼連

2

新納忠匡の娘

2

肝付兼久

本人

肝付兼興

子、第15代当主 2

肝付兼親

2

頴娃兼洪

子、頴娃氏へ養子 2

島津氏(宗家)

島津忠昌

守護、加冠役、敵対者 2

島津勝久

忠昌の子、後の守護 3

新納氏(志布志)

新納忠続

母方の縁者、兼久の庇護者 4

新納忠武

忠続の子、高山城の戦いにおける援軍の将 4

島津氏(豊州家)

島津忠朝

島津氏分家。兼久の子・兼興の岳父 6

第一章:落日の守護、黎明の国人 ― 十五世紀末の南九州

肝付兼久の行動を理解するためには、まず彼が生きた時代の特質、すなわち守護権力の形骸化と国人衆の台頭という、南九州における大きな地殻変動を把握する必要がある。兼久の島津氏への反旗は、孤立した事件ではなく、この時代の必然が生んだ帰結であった。

第一節:権威の黄昏 ― 島津守護体制の動揺

15世紀後半の南九州は、名目上の支配者である守護・島津氏の権威が著しく揺らいでいた時代であった。島津氏は、鎌倉時代以来の薩摩・大隅・日向の三州守護職を世襲する名門であったが、その統治は決して盤石ではなかった。特に、8代当主・島津久豊の死後、宗家内部での家督争いや、有力な分家である総州家・薩州家との対立が頻発し、領国は慢性的な内乱状態に陥っていた 7

肝付兼久が直接対峙した11代当主・島津忠昌の治世(1475年-1508年)は、この混乱が頂点に達した時期であり、「国中大乱」と称されるほどの未曾有の危機に見舞われていた 1 。忠昌は、家督相続直後から一族の島津国久らの反乱に直面し、その後も薩州家を中心とする有力庶家との抗争に明け暮れた 8 。守護の権威は地に堕ち、その命令は領国の隅々にまで及ばなくなっていた。忠昌は、領国内の反乱を鎮圧するために絶えず軍事行動を強いられ、その権力基盤は消耗の一途をたどっていたのである 1

この状況は、肝付兼久のような在地領主にとって、千載一遇の好機であった。守護の力が及ばない権力の真空地帯が広がる中で、国人衆はもはや守護の顔色をうかがうことなく、自らの実力で領地を拡大し、独自の勢力圏を築くことが可能となっていた。兼久の反乱は、島津忠昌の自害の直接的な引き金の一つであったことは事実であるが、その根本的な原因は、守護としての統治能力を喪失していた島津氏自身の構造的弱体化にあった。兼久は、この時代の大きなうねりを的確に読み、自家の勢力拡大という最も合理的な選択をした、時代の変化を象明する人物であったと評価できる。

第二節:「国一揆」の時代 ― 自立する国人衆

島津守護体制の弱体化と並行して、南九州の国人衆の間では、自立と連携の動きが活発化していた。その源流は、南北朝時代にまで遡る。1377年には、九州探題・今川了俊と島津氏久の対立を機に、薩摩・大隅・日向・肥後の国人衆が広域的な「国一揆」を結成した記録が残っている 10 。この一揆には、肝付氏をはじめ、渋谷氏、禰寝氏、伊東氏、相良氏といった、後の戦国時代に名を馳せる諸氏が名を連ねており、彼らが守護の枠組みを超えて、自主的に連携し行動する伝統が古くから存在したことを示している 10

15世紀に入っても、国人衆の自立性は衰えるどころか、むしろ強化されていった。彼らは、島津宗家の内紛に乗じて離反と帰順を繰り返し、時には独自の判断で他の国人と同盟を結び、守護の意向に逆らってでも自家の利益を追求した。島津忠昌の時代に頻発した反乱は、こうした国人衆の独立志向の現れであり、肝付兼久の行動もまた、この大きな流れの中に位置づけられるべきものである。

彼らはもはや、守護の「家臣」という従属的な存在ではなかった。自らの領地と一族郎党を統べる、独立した領主としての意識を強く持っていたのである。肝付氏もまた、平安時代にまで遡る古い由緒を持つ大隅の在地領主として、鎌倉時代以降に外部から入ってきた島津氏とは一線を画すという自負があったと考えられる。この誇りが、守護の権威に屈しない精神的な支柱となり、兼久の大胆な挑戦を可能にした一因であろう。

第二章:大隅の旧家・肝付氏と本拠・高山城

肝付兼久の強靭な意志と戦略を育んだ背景には、彼が率いた「肝付氏」という一族の歴史と、その権力の源泉であった「高山城」という物理的基盤の存在があった。この二つの要素を解き明かすことは、兼久の行動原理を深く理解する上で不可欠である。

第一節:伴氏の末裔 ― 肝付氏の起源と誇り

肝付氏の系譜は、平安時代中期の廷臣・伴氏に遡るとされる 12 。伝承によれば、伴善男の玄孫にあたる伴兼行が薩摩掾として下向したのが始まりであり、その子孫である兼俊が11世紀に大隅国肝属郡の弁済使となり、地名を取って「肝付」を名乗ったという 13 。この系譜の正確性については議論の余地があるものの、重要なのは、肝付氏が自らを、鎌倉幕府によって地頭に任じられた島津氏よりも古くからこの地に根を下ろす、由緒ある在地領主であると認識していた点である。

この歴史的背景は、肝付氏の独立志向を精神的に支える大きな要因となった。彼らは、南北朝の動乱期には南朝方として、北朝方についた島津氏と激しく戦った歴史も持つ 8 。その後、室町時代を通じて島津氏の守護体制下に組み込まれてはいたものの、領土問題などをきっかけに対立を繰り返しており、決して従順な存在ではなかった 13 。一族からは、頴娃氏、北原氏、梅北氏といった多くの庶流が分かれ、大隅半島一帯に広大な勢力網を築いていた 14 。この一族としての結束力と、在地領主としての誇りが、守護という格上の権力に立ち向かう際の精神的な拠り所となったことは想像に難くない。

第二節:難攻不落の要塞 ― 高山城の構造と戦略性

肝付氏の独立を物理的に支えたのが、本拠地である高山城(こうやまじょう)であった 16 。現在の鹿児島県肝付町に位置するこの城は、シラス台地の先端部分を巧みに利用して築かれた、南九州特有の広大な群郭式山城である 15

高山城は、単一の城郭ではなく、本丸、二の丸、山伏城、奥曲輪といった複数の曲輪(くるわ)が、深く掘り込まれた空堀と急峻な切岸(きりぎし)によって巧みに連結・分断された複雑な構造を持っていた 19 。城の周囲を三方の川が天然の堀として囲み、防御力をさらに高めていた 17 。その規模は50ヘクタールにも及んだと推測され、まさに難攻不落の要塞と呼ぶにふさわしいものであった 19

この城の堅牢さは、肝付氏の軍事戦略において、単なる防御施設以上の意味を持っていた。それは、兵力で勝るであろう守護・島津氏の大軍を相手にする際に、戦力差を埋め、あるいは逆転させるほどの「力の増幅器(フォース・マルチプライヤー)」として機能したのである。実際に、島津忠昌は自ら大軍を率いて二度にわたり高山城を攻撃したが、いずれも撃退されている 5 。これは、兼久の優れた指導力や同盟関係に加え、高山城そのものが持つ地形的・構造的優位性が、勝利の絶対的な基盤として存在したことを雄弁に物語っている。在地の一国人に過ぎない肝付氏が、守護と互角以上に渡り合えた背景には、この堅城の存在が決定的な役割を果たしていたのである。

第三章:肝付兼久、波乱の生涯

肝付兼久の生涯は、まさに波乱に満ちたものであった。家督相続直後の亡命、一時的な和睦、そして守護との決戦。彼の行動の一つ一つは、15世紀末から16世紀初頭にかけての南九州の激動を色濃く反映している。

【図表2:肝付兼久と島津忠昌の動向比較年表】

西暦 (和暦)

肝付兼久の動向

島津忠昌の動向

南九州の情勢

1473 (文明5)

-

12歳で家督相続。

島津氏一族の国久らが反乱。

1483 (文明15)

幼くして家督相続。家中反乱で日向飫肥へ亡命 4

-

伊作久逸の乱が勃発(翌年) 9

時期不明

新納忠続の援助で高山城を奪還、当主に復帰 4

-

-

時期不明

忠昌を加冠役として元服。一時的に和睦 2

-

領内の反乱鎮圧に奔走 1

1494 (明応3)

**【高山城の戦い①】**島津軍を撃退 5

高山城を攻撃するも失敗。

-

1506 (永正3)

**【高山城の戦い②】**新納忠武の援軍を得て島津本隊を撃破 4

自ら大軍を率いて高山城を攻めるが大敗。

-

1508 (永正5)

大隅における優勢を確立。

度重なる戦乱を憂い、清水城にて自害(享年46) 1

島津宗家の権威がさらに失墜。

1523 (大永3)

死去(享年51) 2

-

忠昌死後、島津家は内紛が激化。

第一節:家督相続と亡命 ― 新納氏との生命線

兼久の試練は、早くも家督相続直後に訪れた。文明15年(1483年)、父・兼連の死により幼くして肝付家14代当主となったが、その地位は不安定であった 2 。間もなく家中で反乱が起こり、兼久は本拠地である高山城を追われる身となったのである 4

この絶体絶命の窮地において、兼久が頼ったのが、日向国飫肥(現在の宮崎県日南市)の城主・新納忠続(にいろ ただつぐ)であった 4 。新納氏は島津氏の支族でありながら、志布志(しぶし)を中心に大隅東部に大きな勢力を持つ国人であった。そして何よりも、兼久の母は新納氏の出身であり、忠続は兼久にとって母方の縁者という極めて強い繋がりがあった 2 。この血縁に基づく紐帯は、単なる政治的同盟を超えた、運命共同体とも言うべき強固な関係性の基盤となった。

新納忠続は亡命してきた兼久を庇護し、軍事的な援助を与えた。この支援を得て、兼久は高山城の奪還に成功し、当主の座に復帰することができた 2 。この経験は、兼久の生涯を通じて、新納氏との関係を揺るぎないものにした。新納氏との連携は、彼の政治的・軍事的戦略の根幹をなし、後の島津氏との決戦においても決定的な役割を果たすことになる。

第二節:束の間の和睦 ― 島津忠昌の加冠という名の政治劇

高山城に復帰した兼久は、意外な行動に出る。守護である島津忠昌を烏帽子親(えぼしおや、加冠役)として元服したのである 2 。これは表面的には、反乱者であった兼久が守護の権威に服し、和睦したことを意味する。しかし、その内実を深く考察すると、これは双方の利害が一致した、高度な政治的駆け引きであったことが見えてくる。

兼久にとって、守護の権威を借りて元服することは、家中の反乱を乗り越えて復帰した自らの当主としての正統性を、内外に改めて示す絶好の機会であった。一方、領内の度重なる反乱に疲弊していた忠昌にとっても、大隅の有力国人である肝付氏との関係をひとまず安定させることは、喫緊の課題であった。

しかし、この和睦はあくまで一時的な妥協に過ぎなかった。兼久の行動は、彼が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、自家の存続と発展のためには、敵対者の権威すら利用する柔軟な戦略眼を持ったリアリストであったことを示している。地盤が固まり、島津氏の弱体化が明らかになると、彼はためらうことなくこの束の間の和睦を破り、独立への道を歩み始めるのである。

第三節:高山城の攻防 ― 守護への反旗

兼久の独立への意志が明確な形となって現れたのが、二度にわたる高山城での攻防戦であった。

一度目の衝突は、明応3年(1494年)に起こった。島津忠昌方が高山城に攻撃を仕掛けてきたが、兼久は一族郎党を結束させ、昼夜を問わず城の守りを固めた。さらに、近隣の国人である禰寝(ねじめ)氏らの援軍も駆けつけ、島津方を撃退することに成功した 5 。この戦いは、兼久の求心力と、周辺国人との連携能力の高さを示す前哨戦となった。

そして、両者の力関係を決定づける決戦が、永正3年(1506年)に訪れる。業を煮やした島津忠昌は、自ら大軍を率いて出陣し、高山城の北西に位置する柳井谷(やないだに)に本陣を構えた 5 。守護自らが乗り出す、まさに総力戦であった。両軍が放つ矢が空中でぶつかり合い、谷間に大量の折れた矢が散乱したと伝えられるほど、戦いは熾烈を極めた 21

この絶体絶命の状況で、兼久の戦略が冴えわたる。彼は高山城に籠城して島津軍の猛攻を耐え抜くと同時に、かねてより連携していた志布志城主・新納忠武(ただたけ、忠続の子)に援軍を要請していた 4 。忠武は精兵を率いて島津軍の背後を突き、不意にその陣営を急襲した。これに呼応して、兼久も城から撃って出た 5 。前後から挟撃される形となった島津軍は総崩れとなり、忠昌は高山城を落とすことができぬまま、鹿児島への退却を余儀なくされたのである 5 。この戦いは、二ヶ月にも及んだ末の、肝付・新納連合軍の完全な勝利であった 21

第四節:守護の自害と権勢の頂点

高山城での大敗は、島津忠昌の心身に深刻な打撃を与えた。この敗北に加え、領内で頻発する他の反乱の収拾にも苦慮し、心労が重なった忠昌は、永正5年(1508年)、ついに居城の清水城にて自害を遂げた 1 。享年46。彼は死に際し、西行法師の「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」という歌を詠んだと伝えられ、武将というよりは文人肌であった彼の苦悩が偲ばれる 1

守護の自害という前代未聞の事態は、島津宗家の権威を決定的に失墜させた。忠昌の死後、島津家はその後を継いだ子らが相次いで早世するなど、さらなる内紛の泥沼に陥っていく 2 。この好機を逃さず、肝付兼久は島津氏との抗争を続け、大隅における優位な立場を不動のものとした 2 。守護を自害に追い込み、その後の混乱を横目に自家の勢力を固めた兼久は、まさしくその権勢の頂点を迎えたのである。彼は大永3年(1523年)に51歳でその生涯を閉じたが、その死まで大隅の雄として君臨し続けた 2

第四章:遺されたもの ― 兼久後の肝付氏と南九州

肝付兼久の死は、一つの時代の終わりを告げたが、彼が築いた礎は、次世代の肝付氏に引き継がれ、一族の歴史に新たな展開をもたらした。彼が遺したものは、大隅における独立した勢力基盤と、島津氏と渡り合うための外交戦略の雛形であった。

第一節:子・兼興の時代 ― 対立から融和へ

兼久の跡を継いだのは、子の肝付兼興(かねおき)であった 2 。兼興の時代、肝付氏の対島津戦略は、父・兼久の徹底抗戦路線から、対立と協調を使い分ける、より柔軟なものへと変化していく。

兼興は、島津氏の分家である豊州家(ほうしゅうけ)の当主・島津忠朝の養女を正室に迎えた 6 。これは、島津氏の一翼を担う有力分家と姻戚関係を結ぶことで、宗家を牽制しつつ、自家の安全保障を図るという高度な外交戦略であった。しかし、この融和策も長続きはせず、大永4年(1524年)には、兼興はこの岳父である忠朝の勢力圏であった串良城(くしらじょう)を攻撃し、奪取している 6 。これは、兼久から受け継いだ実力行使を辞さない姿勢と、新たな時代に対応するための婚姻外交を組み合わせた、複雑な戦略の現れであった。

さらに、兼興の子である肝付兼続(かねつぐ)の代になると、この融和と対立の二面戦略は一層洗練される。兼続は、島津宗家の実力者であった島津忠良の長女・御南(おみなみ)を正室に迎える一方、自らの妹を忠良の子で後の島津家当主となる貴久に嫁がせた 4 。この二重の婚姻関係は、両家の間に一時的な蜜月時代をもたらし、肝付氏が島津氏の薩摩統一戦に干渉されることなく、大隅半島での勢力拡大に専念することを可能にした。

第二節:最盛期への礎

肝付兼久がその生涯をかけて成し遂げた、守護権力からの自立と大隅における勢力基盤の確立は、孫である兼続の時代に花開くこととなる。兼続は、祖父と父が築いた土台の上に、巧みな外交と軍事行動を展開し、日向の飫肥城を制圧するなど、肝付氏の領国を最大(十数万石)にまで拡大させた 16 。これは、肝付氏の歴史における最盛期であり、大隅半島のほぼ全域を支配下に置くほどの勢いであった 4

この兼続の飛躍は、兼久の闘争なくしてはあり得なかった。もし兼久が島津忠昌に屈服していたならば、肝付氏は島津氏の家臣団の一員として組み込まれ、独立した戦国大名として成長する道は閉ざされていたであろう。兼久が守護の権威を揺るがし、高山城を死守し、大隅における独立性を勝ち取ったからこそ、兼続は島津氏と対等な立場で渡り合い、婚姻関係を結び、そして最終的には覇を競うことができたのである。兼久の生涯は、まさに肝付氏最盛期への礎を築くための、不可欠な闘争の時代であったと言える。

第三節:大名としての終焉

しかし、歴史は非情である。兼続という名将を擁して頂点を極めた肝付氏も、彼の死後は急速に衰退していく 13 。兼続の子・良兼の死後、家督を継いだ兼亮(かねすけ)は、島津氏への臣従を良しとせず、日向の伊東氏と結んで抵抗を試みるが、親島津派の家臣団や母・御南(島津貴久の姉)によって追放されてしまう 13

その後、当主に立てられた兼護(かねもり)の代、天正2年(1574年)に肝付氏は正式に島津氏に降伏。天正8年(1580年)には先祖伝来の地であった高山を没収され、薩摩国阿多(あた)へ移封された 13 。これにより、平安時代から続いた大隅の雄、戦国大名としての肝付氏は事実上滅亡し、島津氏の家臣として組み込まれていくことになった。兼久が命を懸けて守り抜いた独立は、彼の死から約半世紀後、孫の代で終焉を迎えたのである。

終章:肝付兼久の歴史的意義と史料の壁

本報告書を通じて、肝付兼久の生涯を多角的に検証してきた。最後に、彼の歴史的評価を改めて位置づけると共に、彼を研究する上で直面する史料的な課題について言及し、総括としたい。

第一節:戦国黎明期の体現者としての再評価

肝付兼久は、単に「守護を自害に追い込んだ反逆者」という一面的なレッテルで語られるべき人物ではない。彼は、室町時代から続く守護領国制という旧来の秩序が崩壊し、実力主義に基づく新たな秩序が形成される戦国黎明期という時代の転換点を、誰よりも鋭敏に感じ取り、行動した人物であった。

彼の生涯は、弱体化した権威に見切りをつけ、血縁という最も信頼できる絆を頼りに、堅固な城という物理的基盤を最大限に活用し、自らの実力で道を切り拓いていく、まさに戦国武将の典型的な姿を示している。彼が島津氏に敢行した反乱は、個人的な野心の発露であると同時に、もはや機能不全に陥った守護体制に対する、在地領主からの構造的な挑戦でもあった。その意味で、肝付兼久の闘争は、南九州が本格的な戦国乱世へと突入する、その狼煙であったと評価することができる。彼は、旧時代の破壊者であり、新時代の創造者の一人であった。

第二節:史料の壁と「敗者の歴史」

我々が肝付兼久の姿を追う上で、常に念頭に置かなければならない大きな壁がある。それは、史料の非対称性である。後の南九州の覇者となった島津氏に関する記録は、藩政時代の編纂物を含め豊富に残されている。一方で、最終的に島津氏に敗れ、吸収された肝付氏側の一次史料は、その多くが散逸してしまっている 25

現存する肝付氏の系図や文書も存在するが 26 、その全体像を再構築するには断片的であり、多くを後世の記録、特に勝者である島津氏の視点から書かれた史料に頼らざるを得ないのが現状である 25 。例えば、我々が用いる「反乱」という言葉自体が、守護である島津氏を正統とみなす立場からの表現である。肝付氏の立場からすれば、それは「独立戦争」であったかもしれない。

したがって、本報告書で描き出した兼久像もまた、「勝者のフィルターを通して描かれた敗者」の姿であるという限界を免れない。この史料的な偏りを認識すること自体が、歴史を研究する上で極めて重要である。我々が知る歴史は、常に勝者によって語られ、敗者の声はかき消されがちである。肝付兼久という一人の武将の生涯を深く掘り下げていく作業は、この「敗者の歴史」をいかにして再構築するかという、歴史学そのものが抱える根源的な課題を我々に突きつける。今後の新たな史料の発見によって、彼の真の姿がより鮮明に浮かび上がる日を期待し、本報告書の筆を置くこととしたい。

引用文献

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  3. 伴性頴娃氏(肝付一族)の内紛と衰退【R5】8月6号 - 「散策」ブログ https://sansaku-blog.com/%E4%BC%B4%E6%80%A7%E9%A0%B4%E5%A8%83%E6%B0%8F%E8%82%9D%E4%BB%98%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%AE%E5%86%85%E7%B4%9B%E3%81%A8%E8%A1%B0%E9%80%80/
  4. 肝付氏のこととか、高山の歴史とか - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2021/04/13/104204
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  6. 肝付兼興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E5%85%BC%E8%88%88
  7. 戦国時代の南九州、大混乱の15世紀(4)島津忠国と島津用久の対立 https://rekishikomugae.net/entry/2021/08/09/233334
  8. 薩摩・島津家の歴史 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/shimadzu-history/
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  11. 南北朝の動乱と南九州の武士たち - 鹿児島県 https://www.pref.kagoshima.jp/ab24/nanbokucyou.html
  12. 武家家伝_肝付氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kimo_k.html
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  14. 肝付一族についてまとめてみた、南九州に伴氏が根付き、そして枝葉を広げた - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/10/04/202457
  15. 大隅 高山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ohsumi/koyama-jyo/
  16. 高山城跡 / Trace of Koyama Castle | 肝付町観光案内所 https://kankou-kimotsuki.net/archives/introduce/trace-of-koyama-castle
  17. 【きもつき情報局】難攻不落の山城「高山城」 | 肝付町観光案内所 https://kankou-kimotsuki.net/archives/10756
  18. 高山城の見所と写真・100人城主の評価(鹿児島県肝付町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/399/
  19. 高山城跡にのぼってみた、肝付氏の栄華の地 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2021/04/07/103612
  20. 高山城跡:九州エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14510
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  22. SM04 島津立久 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/SM04.html
  23. 歴史を歩く ⑳ - 大崎町 https://www.town.kagoshima-osaki.lg.jp/kh_bunkakouminkan/documents/22.pdf
  24. 高山城跡(昭和20年2月22日指定) - 肝付町 https://kimotsuki-town.jp/soshiki/rekishiminzoku/1/2/1651.html
  25. 【きもつき情報局】歴史探訪 第5回 都城・末吉編1 島津氏の歴史と肝付氏 - 肝付町観光協会 https://kankou-kimotsuki.net/archives/10318
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