日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台に登場し、そして消えていった。その多くは、天下統一の壮大な物語の影に埋もれ、後世にその名を詳しく語られることは少ない。大隅国の戦国大名、肝付氏第18代当主・肝付兼亮(きもつき かねあき)もまた、そうした悲運の武将の一人である。彼の名は、しばしば「母と家臣に追放された当主」という、一度聞いたら忘れ難い、しかし断片的な逸話と共に記憶されている 1 。
本報告書は、この肝付兼亮という人物の生涯を、単なる個人的な悲劇としてではなく、大隅半島に五百年以上にわたり君臨した名門・肝付氏の終焉を象徴する出来事として捉え、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯は、隣国・薩摩の島津氏による南九州統一という、抗いがたい歴史の奔流の中で、いかに翻弄されたのか。そして、彼自身の選択、あるいは彼に残された選択肢の欠如が、如何なる結末を招いたのか。
兼亮の追放劇は、単に家中の内紛に留まるものではない。それは、戦国時代末期における在地領主(国衆)の淘汰と、近世的な大名権力の確立という、より大きな権力構造の変容を映し出す鏡である。彼の生涯を徹底的に検証することは、戦国という時代の終焉期に、旧来の価値観と新しい権力構造の狭間で生きた武将たちの苦悩と、彼らが下した決断の歴史的意味を解き明かす鍵となるであろう 2 。本報告では、兼亮個人、彼を取り巻く一族、そして彼が生きた時代の論理を多角的に分析し、その歴史的評価を試みる。
肝付兼亮が背負った運命を理解するためには、まず彼がその末流に生まれた肝付氏の歴史的背景を把握する必要がある。平安時代以来、大隅半島に深く根を張り、島津氏と覇を競ったこの一族の栄光と、兼亮の時代に色濃く差し始めた翳りについて詳述する。
肝付氏は、その系譜を平安時代に遡る由緒ある一族である。本姓を伴氏とし、平安時代中期に伴兼行が薩摩掾に任じられて南九州に下向したことを起源とする 1 。その子孫である兼貞が、大隅国最大の荘園であった島津荘の弁済使となり、その子・兼俊の代に本拠地の郡名を取って「肝付(肝属)」を称したのが始まりとされる 1 。
長元9年(1036年)にはすでに高山(現在の鹿児島県肝付町)に居住していたとされ、この地を本拠地・高山城として代々受け継いだ 1 。肝付氏の力の源泉は、肝属川流域に広がる豊かな穀倉地帯であった 6 。この経済基盤を背景に、一族は着実に勢力を拡大し、鎌倉時代から戦国時代にかけて大隅半島一帯に三十を超える支城を築き上げる大豪族へと成長した 5 。
島津氏との関係は古く、南北朝時代には、肝付氏は南朝方、島津氏は北朝方について戦うなど、長年にわたる競合関係にあった 1 。戦国時代に入ると、領土問題を巡ってその対立はさらに激化し、肝付氏は日向国の伊東氏と手を結び、島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げることとなる 1 。
兼亮の父であり、肝付氏第16代当主であった肝付兼続(かねつぐ)は、一族の歴史の中でも特に傑出した英主として知られる 9 。彼の治世は、巧みな外交と果敢な軍事行動によって、肝付氏が最も輝いた時代であった。
兼続は当初、隣国島津氏との関係を重視した。島津氏中興の祖と称される島津忠良の長女・御南(おみなみ)の方を正室として迎え、さらに自身の妹を忠良の子である島津貴久に嫁がせた 9 。この二重の婚姻政策は、両家の間に一時的な安定をもたらした。
しかし、その蜜月は長くは続かなかった。大隅・日向の覇権を巡る領土問題が再燃すると、永禄元年(1558年)頃から両家の関係は急速に悪化する。兼続は宿敵・島津氏に対抗するため、日向の伊東氏との同盟を強化し、本格的な抗争へと舵を切った 1 。永禄4年(1561年)の竹原山の戦いでは、島津貴久の実弟である猛将・島津忠将を討ち取るという大金星を挙げ、軍事的に島津氏を圧倒した 9 。さらに永禄5年(1562年)には、海外貿易の拠点であった志布志城を豊州島津家から奪取し、肝付氏の版図を史上最大のものとした 11 。
この島津氏との全面対決の最中、兼続は妻である御南の方に離縁を迫ったと伝えられる。しかし、御南の方はこれを毅然と拒否し、敵対する夫の家に留まり続けた 9 。この逸話は、彼女が単なる当主の妻ではなく、島津家という大国の威光を背景に持つ、一個の政治的存在であったことを示唆している。彼女が肝付家の中枢に留まったことは、家中に「親島津派」の核を温存させる結果となり、後の兼亮追放劇へと繋がる重要な伏線となった。
栄華を極めた兼続であったが、永禄9年(1566年)、島津軍の反攻を受け、その最中に急死する。自害したとも伝えられるが、肝付氏側の史料にその明確な記述はなく、真相は定かではない 9 。いずれにせよ、この偉大な指導者の死は、肝付氏が長い衰退の坂道を転がり落ちる決定的な転換点となったのである 1 。
兼続の死後、家督は嫡男の肝付良兼(よしかね)、すなわち兼亮の異母兄が継いだ 15 。良兼は父の路線を忠実に継承し、島津氏への抵抗を続けた。その姿勢を明確にするため、彼は日向の伊東義祐の長女・高城(たかじょう)を正室に迎え、伊東氏との同盟関係をさらに強化した 15 。
良兼は、伊東氏と連携して飫肥(おび)を攻め、島津軍を撃退するなど、軍事的な手腕も示した 15 。しかし、その抵抗も長くは続かなかった。元亀2年(1571年)、良兼は突如病に倒れ、37歳の若さでこの世を去る 15 。さらに不運なことに、彼の嫡男であった満壽丸も夭折していた 15 。
父・兼続という大黒柱を失い、その後を継いだ良兼までもが早世したことで、肝付氏は深刻な権力の空白に直面する。島津氏の脅威が日増しに高まる中、一族は存亡の危機に立たされた。この絶望的な状況下で、歴史の表舞台に引き出されたのが、当時まだ14歳の少年、肝付兼亮であった。
兄・良兼の急死により、図らずも名門・肝付氏の命運をその両肩に背負うことになった兼亮。しかし、彼が当主として過ごした時間はあまりにも短く、その治世は挫折と孤立の連続であった。この章では、彼が家督を継いでから追放されるまでの、激動の数年間に焦点を当てる。
永禄元年(1558年)に生まれた兼亮は、元亀2年(1571年)、兄・良兼の死を受けて、わずか14歳で肝付氏第18代当主の座に就いた 19 。この若き当主の誕生は、二人の女性の強い意向が働いた結果であった。一人は、亡き父・兼続の正室であり、島津家出身の義母・御南の方。もう一人は、亡き兄・良兼の正室であり、伊東家出身の兄嫁・高城である 2 。
彼女たちは、良兼の血筋を絶やさぬよう、兼亮に良兼の次女(すなわち兼亮の姪)を娶らせ、婿養子の形で家督を継承させた 15 。これは、敵対する島津家と伊東家、それぞれの出身である二人の女性が、それぞれの実家の利害を超えて「肝付家の存続」という共通の目的のために協力した、極めて政治的な閨閥による決断であった。この時点では、若き兼亮は、彼女たちの意向に沿って家を導く存在として期待されていたのかもしれない。
しかし、若き当主・兼亮は、義母や兄嫁の期待とは裏腹に、父・兼続と兄・良兼が歩んだ「反島津」の道を突き進む。父の仇を討つという思いもあったであろう、彼は宿敵・島津氏への徹底抗戦を改めて宣言した 1 。
だが、かつて兼続が島津軍を圧倒した時代とは、もはや状況が大きく異なっていた。島津氏は義久のもとで着実に国力を増強しており、肝付氏の力は相対的に衰退していた。元亀4年(1573年)、兼亮は島津方の有力国衆である北郷時久との戦いに敗北を喫する 5 。この手痛い敗戦は、肝付氏の軍事的な劣勢を内外に知らしめ、家中の動揺を一層深刻なものにした。
兼亮の苦境をさらに深めたのは、島津義久の巧みな外交戦略であった。義久は、孤立した肝付氏を力攻めにする前に、その数少ない同盟者を周到な調略によって切り崩していった。
まず標的となったのは、大隅半島南部に勢力を持ち、かつては兼続の娘婿として肝付氏と固い絆で結ばれていた禰寝(ねじめ)氏であった。元亀4年(1573年)2月、島津氏の度重なる説得と圧力の末、当主の禰寝重長はついに肝付氏を見限り、島津方へと帰服する 22 。これにより、肝付氏は南からの圧力を直接受けることになり、その勢力圏は大きく揺らいだ。
さらに天正2年(1574年)に入ると、島津軍の攻勢は激しさを増す。同年2月、最後まで肝付氏と共に抵抗を続けていた有力同盟者・伊地知重興の居城である牛根城などが次々と陥落。万策尽きた重興は島津氏に降伏し、武門を捨てる証として出家した 5 。
かつての同盟者が次々と敵に寝返り、あるいは屈服していく中で、肝付氏は大隅半島において完全に孤立無援となった 25 。もはや、戦国大名としての滅亡は時間の問題という、絶望的な状況に追い込まれたのである。この軍事的・外交的な行き詰まりが、家中の路線対立を決定的なものとし、次章で詳述する「主君押込」という内部クーデターの直接的な引き金となった。
以下の表は、兼亮の追放劇を理解する上で不可欠な、複雑な人間関係と政治的立場を一覧化したものである。特に、敵対する島津家と伊東家の血が、御南の方と高城という二人の女性を通じて肝付家の中枢に入り込んでいる構造は、この事件の力学を解明する上で極めて重要である。
人物名 |
所属/家 |
続柄/関係 |
追放事件における立場/役割 |
関連資料 |
肝付兼亮 |
肝付家(本宗家) |
第18代当主 |
**追放される当主。**反島津・親伊東政策を堅持するが、軍事的・外交的に孤立し、家の存続を危うくしたとして母・兄嫁・家臣団により追放される。 |
1 |
御南の方 |
島津家→肝付家 |
兼亮の父・兼続の正室( 義母 )。島津忠良の娘、島津貴久の姉。 |
**追放の首謀者の一人。**島津家出身でありながら、嫁ぎ先である肝付家の存続を最優先。反島津を掲げる兼亮の方針を危険視し、追放を決断。 |
1 |
高城 |
伊東家→肝付家 |
兼亮の兄・良兼の正室( 兄嫁 )。伊東義祐の娘。 |
**追放の首謀者の一人。**実家である伊東家と連携する兼亮の方針に反対し、義母・御南と協調。嫁ぎ先である肝付家の存続を優先した。 |
2 |
兼亮の妻 |
肝付家 |
兄・良兼の娘( 姪 )。 |
兼亮との夫婦仲が悪かったとされ、追放の一因となる。兼亮追放後、弟の兼護に再嫁させられる。 |
2 |
肝付兼護 |
肝付家(本宗家) |
兼亮の異母弟。 |
兼亮追放後、兄の妻を娶り 第19代当主 として擁立される。島津氏に臣従する。 |
1 |
薬丸兼将 |
肝付家家臣 |
筆頭重臣。 |
**追放の実行者。**御南の方を支持し、兼亮追放に協力。後の島津氏への服属交渉では使者を務める。 |
27 |
伊地知重興 |
伊地知家 |
肝付氏の有力同盟者。 |
島津軍の猛攻を受け、天正2年に降伏。肝付氏の孤立を決定づける。 |
21 |
禰寝重長 |
禰寝家 |
肝付氏の有力同盟者。兼続の娘婿。 |
元亀4年、島津氏の調略によりいち早く降伏。反肝付包囲網の一角を担う。 |
23 |
島津義久 |
島津家 |
宿敵。薩摩・大隅・日向の守護。 |
巧みな調略と軍事力で肝付氏を追い詰め、その内部崩壊を誘発。大隅統一を成し遂げる。 |
29 |
伊東義祐 |
伊東家 |
肝付氏の同盟者。高城の父。 |
肝付氏と連携して島津氏に対抗するが、勢力は衰退。兼亮が頼った存在。 |
17 |
軍事的・外交的に完全に孤立した肝付家内部で、ついに決定的な亀裂が生じる。それは、当主である兼亮を追放するという、前代未聞の内部クーデターであった。この章では、本報告書の中核をなす「兼亮追放事件」を、戦国武家社会の構造的な論理から深く分析する。
天正元年(1573年)、同盟者が次々と脱落し、島津氏の圧力が頂点に達する中、肝付家内部の路線対立はもはや隠しきれないものとなっていた。一方には、父祖の遺志を継ぎ、あくまで島津氏との徹底抗戦を主張する当主・兼亮。もう一方には、これ以上の抗戦は一族の滅亡を招くだけであり、家の存続のためには島津氏への臣従もやむなしと考える、現実主義的な勢力があった 2 。後者の中心にいたのが、義母・御南の方、兄嫁・高城、そして筆頭家老の薬丸兼将ら重臣たちであった 2 。
史料において、兼亮追放の直接的な理由として挙げられるのは「日向国の伊東氏と通じたこと」そして「(兄の娘である)正室との夫婦仲が悪かったこと」の二点である 2 。これらは単なる個人的な問題として片付けるべきではない。「伊東氏との通交」は、家中の現実主義者たちが最も危惧した、破滅的な外交方針そのものであった。そして「夫婦仲の悪さ」は、兼亮が、兄・良兼の血筋を継ぐ妻との関係を良好に保てず、家中の閨閥ネットワークからも孤立していたことの象徴と解釈できる。彼は、当主でありながら、家中の誰からの支持も得られない、裸の王様と化していたのである。
このクーデターにおいて、決定的な役割を果たしたのは、御南の方と高城という二人の女性であった。彼女たちの決断は、戦国時代の女性が持つ政治的な影響力と、「家」の存続にかける執念を如実に示している。
御南の方は、島津忠良の娘、島津貴久の姉という、敵方の最重要人物の血縁者であった 32 。彼女は、その出自を最大限に活用し、島津家との和睦交渉におけるパイプ役を担うことで、嫁ぎ先である肝付家の存続を図ろうとしたと考えられる。彼女にとって、血の繋がらない義理の子である兼亮の当主の座を守ることよりも、亡き夫・兼続から託された「肝付の家」そのものを、たとえ形を変えてでも後世に残すことが最優先の課題であった 2 。これは、戦国時代の武家の妻が、単に夫に従う存在ではなく、嫁ぎ先の「家」全体の利益を代弁し、時には当主の意向にさえ逆らってでもその存続を図る、重要な政治的主体であったことを示している 34 。
一方、兄嫁・高城の決断は、さらに複雑で冷徹な政治判断に基づいていた。彼女は日向伊東氏の出身であり、兼亮が頼ろうとしていたのは、まさに彼女の実家であった 17 。しかし、彼女は実家と手を結ぼうとする兼亮を追放する側に回ったのである。これは、木崎原の戦いでの大敗以降、伊東氏の勢力が著しく衰退しており、もはや同盟相手として頼るに値しないと判断した上で、自らが嫁いだ肝付家の存続という、より現実的な利益を選択した結果であろう 2 。彼女の行動は、戦国期の女性が、単なる血縁や情に縛られるのではなく、自らが所属する「家」の置かれた状況を冷静に分析し、極めて合理的な政治判断を下し得たことを雄弁に物語っている。
御南の方と高城という、肝付家における二人の「女主人」が決断を下したことで、家臣団も行動を起こした。筆頭家老の薬丸兼将をはじめとする重臣たちは、この二人の女性を担ぎ、当主・兼亮の追放に協力したのである 27 。
彼らがなぜ主君を裏切るという行動に出たのか。その理由は、彼らの忠誠が、兼亮という「個人」に対してではなく、「肝付家」という共同体そのものに向けられていたからに他ならない。父・兼続、兄・良兼の代から続く島津氏との長きにわたる戦いで、家臣団は心身ともに疲弊しきっていた。彼らの目には、兼亮の頑なな抗戦路線は、一族郎党を道連れにする無謀な自殺行為に映ったであろう。そこに、御南の方と高城が示した「島津への臣従による家の存続」という道は、暗闇の中の一筋の光であり、唯一の現実的な選択肢として受け入れられたのである。
この追放劇が、島津氏への服属を前提とした計画的なクーデターであったことは、その後の薬丸兼将の行動からも裏付けられる。彼は兼亮追放後、肝付家の代表として島津氏との降伏交渉の使者を務めている 27 。これは、彼らの行動が単なる下剋上ではなく、家の存続を賭けた、周到に準備された政治行動であったことを示している。
肝付兼亮の追放事件は、歴史家・笠谷和比古が提唱した「主君押込(しゅくんおしこめ)」という概念を用いることで、その歴史的構造をより深く理解することができる 37 。
近世以降の儒教的倫理観では、君臣の秩序は絶対的なものとされる。しかし、戦国時代の武家社会において、主君と家臣団の関係は、より双務的な「運命共同体」としての性格が強かった 37 。家臣団は主君に忠誠を誓う一方、主君には家臣団と「家」そのものを守り、繁栄させる責務があった。そのため、主君の個人的な資質の欠如や政策の失敗によって「家」が存亡の危機に瀕したと家臣団が判断した場合、彼らは合議の上で主君を強制的に隠居・監禁(押込)させ、新たな当主を立てることで、家の存続を図るという慣行が存在したのである 37 。
兼亮のケースは、まさにこの「主君押込」の典型例であった。彼の頑なな反島津政策は、もはや家臣団の目には「家の存続を危うくする悪政」と映った。そして、島津家出身の御南の方という、クーデターの正統性を担保する存在を担ぐことで、家臣団は「主君押込」を成功させたのである。これは、戦国武家社会の根底に流れる、個人よりも「家」の永続性を絶対視する、ドライで合理的な論理の発露であったと言えよう 37 。
兼亮の追放は、単なる裏切りや権力闘争ではない。それは、島津氏の圧倒的な圧力という外的要因、家の存続を最優先する武家社会の構造的論理、御南と高城という二人の女性の政治的決断、そして疲弊した家臣団の現実主義という四つの要素が複雑に絡み合って発生した、ある種の必然的な帰結であった。彼は、父の仇討ちという個人的な情念を、「家」の論理と時代の潮流の上に置こうとしたために、自らが率いるべき共同体そのものから排除されたのである。
当主の座を追われ、歴史の表舞台から姿を消した兼亮。そして、彼が去った後の肝付宗家。両者のその後の足跡は、戦国末期の権力移行の非情さを物語っている。この章では、兼亮個人の末路と、彼が守ろうとした「家」の終焉を追う。
天正元年(1573年)、母と家臣団によって追放された兼亮は、かつての同盟者であった伊東氏を頼り、その領国である日向へと落ち延びた 16 。しかし、彼が頼った伊東氏もまた、没落の淵にあった。天正5年(1577年)、伊東氏は島津軍の猛攻の前に本拠地を失い、当主・義祐は豊後国の大友宗麟のもとへと亡命する 30 。
主家を失った伊東家中で、追放された元当主である兼亮がどのような処遇を受けたか、その詳細を伝える史料は乏しい。しかし、庇護者を失い、不遇の流浪生活を送ったであろうことは想像に難くない。
彼の死は、追放から60年以上が経過した寛永11年(1634年)と記録されている 19 。享年77。大名としての肝付氏が完全に滅亡し、世の中が徳川幕府による安定期、いわゆる「元和偃武」の時代へと移行していく様を、彼はどのような思いで見つめていたのだろうか。その長寿は、彼にとって静かな余生であったのか、それとも失われた過去を悔やむ長い時間であったのか、知る由もない。
一方、兼亮に代わって第19代当主に擁立された異母弟の肝付兼護(かねもり)は、天正2年(1574年)、正式に島津義久に臣従した 1 。この決断により、肝付氏は家名そのものを断絶させるという最悪の事態だけは免れることができた。
しかし、島津氏の支配は決して甘いものではなかった。一度は臣従を許された肝付氏であったが、天正8年(1580年)、島津氏の国衆統制策の一環として、突如として所領の移転(国替え)を命じられる。五百数十年にわたり一族が支配してきた本拠地・高山城をはじめ、大隅半島の所領はほぼ全て没収され、代わりに薩摩国阿多(現在の南さつま市金峰町)にわずかな領地を与えられた 1 。
阿多への移封は、単なる領地の変更ではなかった。それは、肝付氏が長年培ってきた大隅の地盤と、そこに住まう家臣や領民との結びつきを完全に断ち切ることを意味した。在地に強い基盤を持つ国衆を本拠地から引き剥がし、大名への直接的な支配体制を強化するこの政策は、戦国大名が近世大名へと脱皮する過程でしばしば見られた手法である。この移封をもって、戦国大名としての肝付氏は事実上、滅亡した 1 。
その後の肝付宗家の運命は、さらに過酷なものであった。当主の兼護は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて島津軍の一員として参戦し、討死する。その嫡男・兼幸もまた、琉球出兵からの帰途、嵐に遭い19歳の若さで溺死した 1 。ここに肝付本宗家の直系は完全に途絶えた。
家名は、島津一族の新納家から養子を迎えることでかろうじて存続し、江戸時代には薩摩藩の一家臣として続いた 1 。皮肉なことに、早くから島津氏に服属し、兼続や兼亮と敵対した庶流の喜入肝付家は、江戸時代を通じて5500石を領する「一所持」として高い家格を保ち続けたのである 1 。
結果だけを見れば、反島津を貫こうとした兼亮の選択も、臣従を選んだ兼護の選択も、大名としての肝付氏を救うことはできなかった。彼らの運命は、戦国末期の国衆が、織田、豊臣、そして島津といった巨大な統一権力に飲み込まれていく大きな歴史の流れの中にあった。兼亮の追放劇は、この抗いがたい時代のうねりの中で起きた、一つの象徴的な出来事に過ぎなかったのかもしれない。
これまでの分析を踏まえ、最後に肝付兼亮という人物の歴史的評価を試みたい。彼の生涯は、我々に何を問いかけるのか。
肝付兼亮の生涯には、二つの側面から評価が可能である。
一つは、父祖の遺志を継ぎ、巨大な敵である島津氏に果敢に立ち向かったものの、信頼すべき母や家臣団に見限られ、志半ばで追放された「悲劇の当主」としての側面である 1 。父の仇討ちという、武士として純粋な動機に殉じようとした結果、孤立無援となった彼の姿には、確かに同情を禁じ得ない。
しかし、もう一方の側面として、時代の変化を読み切れなかった指導者としての限界も指摘せねばならない。彼が当主となった天正年間初頭、島津氏の国力と戦略は、もはや肝付氏が単独で、あるいは衰退した伊東氏と組んで対抗できるレベルを遥かに超えていた。その客観的な状況を冷静に分析できず、いたずらに抗戦を続けたことは、指導者としての視野の狭さや戦略の欠如の表れとも言える 20 。彼は、もはや在地領主(国衆)が単独で巨大権力と渡り合える時代ではない、という戦国末期の冷徹な現実を直視できなかったのではないか。
彼の人物像は、ゲームの能力値 46 や断片的な逸話だけで判断すべきではない。彼が置かれた絶望的な歴史的文脈の中で、彼が下した選択の意味を立体的に捉える必要がある。彼は、武家の棟梁として「家の存続」という至上命題よりも、「父の復讐」という個人的な情念を優先した。その結果、彼は自らが守るべき「家」そのものから、その存続のために排除されるという、戦国武家社会の非情な論理の前に敗れ去ったのである。
肝付兼亮の追放と、それに続く大名肝付氏の滅亡は、一個人の、あるいは一家の悲劇に留まるものではない。それは、南九州という地域において、中世以来の在地領主(国衆)がその独立性を失い、島津氏という単一の強力な大名領国制の下に再編成されていく、歴史の必然的なプロセスを象ึงする出来事であった。
兼亮の物語は、戦国という時代の終焉期に、旧来の価値観と新しい権力構造の狭間で翻弄された、数多の国衆たちの運命を代表している。彼の生涯を追うことは、中世が終わり、近世が始まる時代の大きな転換点における、権力の本質、忠誠のあり方、そして「家」の論理を理解する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれる。悲劇の当主・肝付兼亮は、その存在そのものをもって、一つの時代の終わりを我々に告げているのである。