日本の戦国史において、その名は中央の著名な武将たちの影に隠れがちである。しかし、南九州、大隅国の歴史を語る上で、肝付兼続(きもつき かねつぐ)という人物の存在を無視することはできない。彼は、平安時代より続く大隅の名門・肝付氏の第16代当主として、一族を史上最大の版図へと導いた稀代の戦略家であった 1 。その治世は、隣国薩摩で勢力を拡大する島津氏と時に結び、時に激しく覇を競った、まさに動乱の時代そのものであった。
兼続は、巧みな外交と卓越した軍事能力を駆使して、一時は島津氏を凌駕するほどの勢威を誇った。だが、その輝かしい功績とは裏腹に、彼の最期は謎に包まれ、その死は一族の急速な衰退、そして大名としての滅亡へと直結する。通説として語られる「自害説」は、果たして史実なのであろうか。かつての盟友・島津氏との決裂の裏には、いかなる力学が働いていたのか。
本報告書は、現存する断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、肝付兼続の生涯を包括的に再構築するものである。その出自から、勢力拡大の過程、島津氏との関係性の劇的な変遷、そして謎に満ちた最期と一族の末路までを詳細に追う。さらに、通説とされる「自害説」や、兼続没後の肝付家の内情に深く切り込むことで、南九州戦国史における彼の真の姿と、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
年代(西暦) |
肝付兼続および肝付氏の動向 |
島津氏および周辺の動向 |
永正8年(1511年) |
肝付兼興の長男として誕生 3 。 |
|
天文2年(1533年) |
父の死後、叔父・兼親を滅ぼし家督を相続 3 。 |
|
天文7年(1538年) |
高岳城を攻略し、大隅半島をほぼ平定 3 。 |
島津貴久、紫原の戦いで勝利し薩摩半島を平定 5 。 |
天文22年(1553年) |
嫡男・良兼に家督を譲り隠居するも、実権は保持 3 。 |
島津実久が病死し、貴久の薩摩守護としての地位が確立 5 。 |
永禄元年(1558年) |
日向の伊東氏と結び、島津氏との関係が悪化 3 。 |
|
永禄4年(1561年) |
廻城を奪取。竹原山の戦いで島津忠将を討ち取る 1 。 |
島津貴久の弟・忠将が戦死 3 。 |
永禄5年(1562年) |
志布志城を攻略し、肝付氏の最大版図を形成 3 。 |
|
永禄9年(1566年) |
11月、島津軍の反攻により高山城が陥落。志布志にて死去(享年56) 3 。 |
島津貴久、家督を義久に譲り隠居 5 。 |
元亀2年(1571年) |
17代当主・肝付良兼が病死 4 。 |
島津貴久が死去 5 。 |
天正元年(1573年) |
18代当主・肝付兼亮が母・御南と家臣団により追放される 1 。 |
|
天正2年(1574年) |
19代当主・肝付兼護が島津氏に臣従 1 。 |
島津氏、肝付氏を降伏させ三州統一をほぼ完了 10 。 |
天正8年(1581年) |
阿多へ移封され、領地を没収。大名としての肝付氏が滅亡 1 。 |
|
肝付兼続という傑出した人物を理解するためには、まず彼が生まれた時代の背景、すなわち肝付氏の歴史的土壌と、当時の南九州を覆っていた政治情勢を把握する必要がある。
肝付氏の歴史は、薩摩・大隅の地において、島津氏よりも古く、深く根を張っていた。そのルーツは平安時代中期、薩摩掾(さつまのじょう)として中央から下向した伴氏にまで遡る 1 。伴氏の子孫は11世紀(長元9年、1036年)には大隅国肝属郡の弁済使となり、その地の名を取って「肝付」を名乗るようになった 1 。この事実は、彼らが単なる新興の武士ではなく、古くからの在地領主としての正統性と権威を有していたことを示している。
その権力の源泉となっていたのが、本拠地である高山城(こうやまじょう)と、それが位置する地政学的な優位性であった。高山城は、南九州に特徴的なシラス台地を巧みに削り出して築かれた天然の要害であり、堅固な山城であった 2 。城の眼下には、古くから穀倉地帯として知られる広大な肝属平野が広がり、これが一族の強固な経済基盤を形成していた 17 。さらに、肝付氏は高山城を中核として、肝属川流域に30を超える支城を配備し、緻密な城塞ネットワークを構築していた 2 。この、農業生産力という「経済」と、城塞網による「軍事」が一体となった支配体制こそ、肝付氏が長年にわたり大隅の雄として君臨し得た力の根源である。後発の勢力である島津氏が、容易にこの地を制圧できなかったのは、この深く根差した「土着の力」があったからに他ならない。
南北朝時代には、肝付氏は南朝方として、北朝方についた島津氏と激しく対立した 1 。この数百年にわたる抗争の歴史は、両家の間に根深い対抗意識を植え付け、戦国時代に至るまで、服属と対立を繰り返す緊張関係の土台となったのである 1 。
肝付兼続が歴史の表舞台に登場する16世紀前半、隣国薩摩の守護大名・島津氏は深刻な内紛の渦中にあった。宗家の当主が相次いで早世し、若年の当主・島津勝久が家臣団を統制できず、宗家は著しく弱体化していた 5 。その隙を突き、分家である薩州家の島津実久が守護の座を狙い、薩摩国内は分裂状態に陥っていた。
このような島津家の混乱は、周辺の国人領主たちにとっては、自らの勢力を伸張させる絶好の機会であった。大隅の肝付氏もまた、この権力の空白を傍観してはいなかった。後に兼続が、島津氏の数ある分家の中から、当時はまだ非主流派であった相州家の島津忠良(日新斎)・貴久親子と手を結ぶことになるが、その背景には、この複雑怪奇な政治状況を的確に見抜き、自家の利益を最大化しようとする冷徹な戦略眼があったのである 11 。
島津家の内紛という好機を捉え、肝付兼続は一族を率いて飛躍の時代を迎える。巧みな外交戦略と卓越した軍事行動により、肝付氏の勢力は史上最大にまで拡大し、兼続の名は南九州に轟くこととなる。
永正8年(1511年)、肝付氏第15代当主・兼興の長男として生まれた兼続は、若くしてその非凡な器量の片鱗を見せる 3 。天文2年(1533年)、父・兼興が死去すると、叔父の兼親(兼執)との間で家督争いが勃発するが、兼続はこれを武力で制圧し、第16代当主の座を実力で勝ち取った 3 。この内紛を乗り越えた経験は、彼の政治家としての胆力を養う上で重要な意味を持った。
当主となった兼続がまず着手したのは、隣国・島津氏との関係構築であった。しかし、彼が選んだのは、弱体化した宗家ではなく、薩州家と対立し再起を期していた相州家の島津忠良・貴久親子であった 11 。兼続は、忠良の長女である御南(おみなみ)を自らの正室として迎える一方で、自身の妹(花室清忻)を貴久の正室として嫁がせるという、二重の婚姻関係を築いた 3 。
これは単なる友好親善を目的とした政略結婚ではない。「敵の敵は味方」という論理に基づき、共通の敵(薩州家・島津実久)を打倒するため、相手を自陣営に深く組み込む極めて高度な外交戦略であった。この同盟は、兼続にとっては大隅半島内での勢力拡大行動における背後の安全を保障するものであり、島津貴久にとっては薩摩統一戦争を遂行する上での強力な後援者を得ることを意味した。この相互依存関係を最大限に活用したことこそ、兼続が後に行う急速な勢力拡大を可能にした最大の要因であり、彼の類稀なる戦略眼を物語っている。
Mermaidによる家系図
(注:図中の破線は婚姻関係を示す)
島津氏との強固な同盟関係を背景に、兼続は大隅半島内の平定事業を本格化させる。天文7年(1538年)に高岳城を攻略したのを皮切りに、天文11年(1542年)の百引城、天文15年(1546年)の逢原城など、次々と周辺の諸城を攻略していった 3 。その勢いは留まることを知らず、最終的には大隅半島のほぼ全域から日向南部の一部にまで版図を拡大し、石高にして十数万石ともいわれる肝付氏史上最大の領国を築き上げたのである 1 。
この一連の領土拡大において、特に重要な意味を持つのが、永禄5年(1562年)の志布志城攻略である 3 。志布志は、古くから琉球や大陸との交易で栄えた重要な港湾都市であった 23 。この港を掌握したことは、肝付氏に伝統的な年貢収入(米)に加えて、貿易による莫大な富(銭)と、海外からの最新情報をもたらした。兼続の強さの源泉は、この「ハイブリッド型」の経済基盤にあった。すなわち、高山城を中心とする肝属平野の農業生産力と、志布志港を拠点とする商業・貿易活動という二つの経済エンジンを両輪とすることで、兵を養い、武器を調達し、長期にわたる軍事行動を支えることが可能となったのである。これは、彼が単なる在地領主から、広域的な視野を持つ戦国大名へと脱皮したことを明確に示している。その重要性を認識していたからこそ、兼続は後にこの志布志に隠居所を構え、領国経営の最終的な拠点としたのであろう 3 。
かつては固い絆で結ばれていた肝付氏と島津氏の関係は、両者の勢力拡大に伴い、やがて避けられない衝突へと向かう。蜜月は終わりを告げ、大隅の覇権を巡る死闘の幕が切って落とされた。
盤石に見えた両家の同盟は、永禄元年(1558年)頃を境に、急速にその輝きを失っていく 3 。その根本的な原因は、両者の勢力圏が境を接し、利害が直接的に衝突し始めたことにあった。島津貴久は薩摩の統一をほぼ成し遂げ、次なる膨張の矛先を大隅・日向へと向け始めていた 5 。一方、大隅の平定を完了した兼続もまた、日向南部への進出を窺っていた。かつては共通の敵(薩州家)の存在によって一致していた両者のベクトルは、今や大隅・日向の国境地帯、特に豊州島津氏や北郷氏、そして日向の伊東氏の権益を巡って、ゼロサムゲームの様相を呈し始めたのである 29 。
この地政学的な必然ともいえる対立を前に、兼続は新たな活路を求める。それが、島津氏の宿敵である日向の大名・伊東義祐との連携であった 1 。兼続は嫡男・良兼の妻に伊東義祐の娘を迎え、新たな同盟関係を構築する 31 。これは、かつての盟友・島津氏に対する明確な敵対の意思表示であり、防衛同盟の構築という、彼の視点から見れば極めて合理的な戦略的判断であった。
この両家の決裂を象徴する逸話として、後世に「鶴の吸い物事件」が語り継がれている 11 。宴席での家臣同士の些細な口論が発端となり、両家の関係が破綻したという物語である。しかし、これを文字通りの史実と捉えるのは早計であろう。この逸話は、もはや修復不可能な対立関係に至っていた両者の抜き差しならない緊張状態を、後世の人々が物語として分かりやすく象徴的に表現したものと解釈するのが妥当である。その根底には、大隅・日向の覇権を巡る、武将たちの個人的な感情を超えた冷徹な国益の衝突が存在していたのである。
永禄4年(1561年)、兼続はついに島津氏への本格的な軍事行動を開始する。大隅・薩摩の国境に位置する島津方の廻城(めぐりじょう)を攻略し、全面戦争の火蓋を切った 6 。これに対し島津貴久も軍を派遣し、両軍は竹原山で激突する。この「竹原山の戦い」において、肝付軍は島津軍を打ち破り、貴久の弟で猛将として知られた島津忠将を討ち取るという大金星を挙げた 1 。この勝利は、兼続の軍事的能力と肝付氏の武威を南九州に轟かせ、彼の名声を最高潮に高めるものであった。
この全面戦争は、兼続の家庭にも暗い影を落とした。敵将となった島津貴久の姉であり、討ち取った忠将の兄嫁でもある妻・御南に対し、兼続は離縁を迫ったと伝えられる 3 。御南はこれを毅然として拒絶したというが、この逸話は、実家と嫁ぎ先が敵対関係となった戦国女性の過酷な立場を痛切に物語っている。
兼続は軍事行動と並行して、巧みな外交戦略を展開する。伊東氏との同盟を軸に、周辺の反島津感情を持つ国人たちを糾合し、島津包囲網を形成した。永禄9年(1566年)には、島津方に与する北郷時久の軍勢を破り、日向の福島(現在の宮崎県串間市)まで進撃するなど、軍事的に島津氏を圧倒する局面も見られた 3 。この時期、兼続と彼が率いる肝付氏は、まさにその絶頂期にあった。
合戦名 |
年月日 |
対戦相手 |
場所(城名など) |
結果・特記事項 |
高岳城の戦い |
天文7年(1538年) |
― |
高岳城 |
勝利。大隅平定の端緒となる 3 。 |
廻城攻め |
永禄4年(1561年) |
島津氏 |
廻城 |
勝利。島津氏との本格的な抗争が始まる 6 。 |
竹原山の戦い |
永禄4年(1561年) |
島津貴久軍 |
竹原山 |
大勝。島津忠将を討ち取る 1 。 |
志布志城攻め |
永禄5年(1562年) |
豊州島津氏 |
志布志城 |
勝利。肝付氏の最大版図を達成 3 。 |
日向福原の戦い |
永禄7年(1564年) |
島津忠親軍 |
日向福原 |
勝利 3 。 |
対北郷氏戦 |
永禄9年(1566年) |
北郷時久軍 |
日向福島周辺 |
勝利。日向へ進撃 3 。 |
高山城の戦い |
永禄9年(1566年)11月 |
島津貴久軍 |
高山城 |
敗北。高山城が陥落 1 。 |
栄華を極めた兼続であったが、その絶頂は長くは続かなかった。体勢を立て直した島津氏の猛攻の前に、彼の運命は暗転する。そして、その謎に満ちた死は、強大だった肝付氏を滅亡の淵へと突き落とす引き金となった。
永禄9年(1566年)11月、数々の勝利を重ねてきた兼続に、最大の試練が訪れる。島津貴久率いる島津軍の総攻撃を受け、肝付氏累代の本拠である高山城がついに陥落したのである 1 。
この高山城陥落の報を聞いた兼続が、失意のあまり隠居城の志布志付近で自害した、というのが広く知られた通説である 1 。しかし、この劇的な最期は、史実として受け入れるには多くの疑問点が残る。第一に、この「自害説」は、江戸時代以降に編纂された地元の郷土史料に散見されるものであり、同時代に記録された肝付氏側の一次史料や、敵であった島津氏側の信頼性の高い史料には、兼続が自害したと明確に記したものは見当たらない 3 。
第二に、当時の状況を鑑みれば、兼続が自害を選ぶ蓋然性は低い。本拠・高山城を失ったとはいえ、肝付氏の勢力は依然として健在であり、志布志を中心とする広大な領土と、伊東氏という強力な同盟者を保持していた。城一つを落とされたという敗北だけで、百戦錬磨の当主が全ての望みを捨てて自刃するとは考えにくいのである 3 。
これらの点を総合的に考察すると、兼続の死の真相は、通説とは異なる姿を浮かび上がらせる。彼が永禄9年に志布志で没したことは、墓所の存在などから確かと見られるが 8 、その死因は自害ではなく、高山城陥落の心労や、それまでの度重なる合戦で負った傷が悪化したことによる病死であった可能性が極めて高い。偉大な領主であった兼続の死を、単なる病死ではなく、より悲劇的で英雄的なものとして記憶したいという後世の人々の願望が、この「自害説」という「物語」を形成し、定着させたのではないだろうか。
偉大な指導者を失った肝付氏の衰退は、驚くほど速やかに進行した。兼続の死後、家督を継いだ嫡男の良兼(よしかね)は、父の遺志を継いで島津氏への抵抗を続けた。伊東氏と連携して島津軍を撃退するなど奮戦し、父に劣らぬ器量を示したが、元亀2年(1571年)、志半ばにして37歳の若さで病死してしまう 4 。
良兼の早世は、肝付家にとって致命的な打撃となった。跡を継いだ弟の兼亮(かねあき)は、なおも伊東氏と結び、島津氏への徹底抗戦を主張した 1 。しかし、この強硬路線は、もはや勝ち目のない戦いと判断した親島津派の家臣団、そして、兼続の正室であり、島津忠良の娘でもある義母・御南の強い反対に遭う 1 。
ここで、肝付氏の運命を決定づける驚くべき事件が起こる。天正元年(1573年)、御南と家臣団はクーデターを決行し、当主である兼亮を日向へ追放するという非常手段に打って出たのである 1 。これは、嫁ぎ先である肝付氏の「独立」よりも、一族の「存続」を最優先した御南の冷徹な政治的決断であった。彼女は、実家である島津氏に恭順の意を示すことで一族の血脈を守ろうとし、その最大の障害となる抵抗派の頭、すなわち自らの義理の息子を排除したのである。この出来事は、戦国時代の政略結婚における女性が、単なる人質や道具ではなく、時に一族の存亡を左右する重要な「政治主体」として機能し得たことを示す、極めて重要な事例と言える。
御南らが新たに擁立した当主・兼護(かねもり)には、もはや抵抗する力も意思もなかった 35 。天正2年(1574年)、肝付氏は島津氏に正式に臣従 1 。家名こそ存続を許されたものの、天正8年(1581年)には高山城を含む全ての旧領を没収され、薩摩半島の阿多(現・南さつま市)へ移封された 1 。これにより、大隅に五百年以上君臨した大名としての肝付氏は、事実上滅亡した。その後、当主・兼護は関ヶ原の戦いで討死し、その子も不慮の死を遂げるなど苦難は続いたが、一族は薩摩藩の一家臣として、かろうじてその名を後世に伝えていくこととなる 1 。
肝付兼続は、南九州という限定された地域の大名でありながら、戦国時代という激動の時代を象徴するに足る、傑出した人物であった。彼の生涯は、戦略家として、そして経営者としての卓越した手腕と、時代の大きな潮流に抗い、そして呑み込まれていった地方領主の悲哀を我々に示している。
兼続の功績は多岐にわたる。まず、外交戦略家として、島津家の内紛という千載一遇の好機を的確に見抜き、二重の婚姻同盟という巧みな手段で自らの安全保障を確保した 3 。その上で、大隅平定を着実に進めるという長期的なビジョンは、高く評価されるべきである。
軍事指揮官としては、竹原山の戦いで島津氏の猛将・忠将を討ち取るなど、戦術レベルにおいても非凡な才能を発揮した 1 。また、伊東氏と結んで島津包囲網を形成するなど、戦略レベルでの駆け引きにも長けていた。
そして、領国経営者として、伝統的な農業基盤に加えて、志布志港を拠点とする商業・貿易活動を重視し、富国強兵を実践した点も特筆に値する 17 。これらの総合的な能力があったからこそ、彼は肝付氏を一地方豪族から、島津氏と互角に渡り合う強大な戦国大名へと飛躍させることができたのである。その手腕は、後世の史料が「名将」 1 、「英傑」 11 と評するにふさわしいものであった。
肝付兼続の最大の歴史的意義は、戦国後期の南九州において、島津氏による三州統一事業の前に立ちはだかった「最大の障壁」であったという点に尽きる 10 。彼の存在がなければ、島津氏の南九州平定は、史実よりもはるかに早期に、そして容易に達成されていた可能性が高い。彼の抵抗は、南九州における国人領主たちが、巨大な戦国大名へと変貌していく島津氏に対して見せた、最後の、そして最大の輝きであった。
それゆえに、彼の死と、その後に続いた肝付氏の滅亡は、南九州における独立した国人領主の時代の終わりと、島津氏による強力な一円支配体制の完成を象徴する、分水嶺となる出来事であった。
しかし、肝付の血脈が完全に途絶えたわけではない。大名としての地位は失ったものの、一族は薩摩藩士として存続した。特に、早くから島津氏に恭順した庶流の喜入肝付氏は、藩内で重きをなし、幕末期には維新の十傑の一人に数えられる小松帯刀(本名・肝付兼戈)という傑出した政治家を輩出するに至る 1 。また、現代においても、著名な声優であった故・肝付兼太(本名・肝付兼正)氏がその末裔であるとされ、その名は多くの人々の記憶に刻まれている 1 。
肝付兼続が築いた栄光と王国は、永禄9年(1566年)の彼の死と共に潰えた。しかし、彼が示した不屈の精神と、彼が残した血脈は、形を変えながらも歴史の中に確かな足跡を刻み続けているのである。