年代(和暦) |
年代(西暦) |
出来事 |
出典 |
永禄4年 |
1561年 |
肝付兼続の末子として誕生。父・兼続、島津方の廻城を攻撃。 |
1 |
永禄9年 |
1566年 |
父・肝付兼続が島津軍との戦いで死去。 |
3 |
元亀2年 |
1571年 |
長兄・肝付良兼が病死。 |
4 |
天正元年 |
1573年 |
次兄・肝付兼亮が家中政変により追放される。 |
3 |
天正2年 |
1574年 |
兼護が第19代当主となり、島津氏に正式に臣従する。 |
2 |
天正8年12月 |
1581年1月 |
本拠地・高山城を没収され、薩摩国阿多へ移封。大名としての肝付氏が滅亡。 |
3 |
慶長5年9月15日 |
1600年10月21日 |
関ヶ原の戦いにて、島津義弘に従い「島津の退き口」で討死。享年40。 |
1 |
慶長15年 |
1610年 |
(参考)嫡男・肝付兼幸が主君・島津家久に同行中、海難事故で溺死。宗家直系が断絶。 |
3 |
Mermaidによる家系図
注:上記系図は、本報告書の主題である肝付兼護の家督相続の経緯を理解するために、関連人物を抜粋して簡略化したものである 1 。
大隅国(現在の鹿児島県東部)に、平安時代末期から戦国時代に至るまで、約五百年もの長きにわたり君臨した名門豪族、肝付氏 8 。その輝かしい歴史の終焉を一身に背負い、最後の当主として名を刻んだ人物が、第十九代・肝付兼護(きもつき かねもり)である 1 。彼の生涯は、一個人の意志や力量を遥かに超えた、戦国乱世という時代の巨大なうねりの中で、いかにして地方の旧来勢力が淘汰されていったかを示す、典型的な悲劇の物語であった。
ユーザーから提示された「大隅の戦国大名。高山城主。兼続の子。次兄・兼亮の追放により家督を継ぐが、島津軍の攻撃を受けて敗れ、所領を差し出し降伏した。関ヶ原合戦で戦死した」という概要は、兼護の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、その行間には、一族の存亡を賭けた激しい内部対立、巨大勢力・島津氏による冷徹な政治戦略、そして武士としての宿命を受け入れざるを得なかった兼護自身の苦悩が凝縮されている。
本報告書は、この概要情報を出発点とし、現存する各種史料や研究成果を総合的に分析することで、肝付兼護という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げる。具体的には、彼の人生を決定づけた「家督相続の異常な経緯」、「島津氏への臣従と大名としての地位喪失の過程」、そして「関ヶ原における最期」という三つの重要な局面に焦点を当てる。これにより、単なる敗将としてではなく、時代の転換期に翻弄された一族の落日を象徴する人物として、兼護の実像に迫ることを目的とする。彼の物語を解き明かすことは、すなわち、大隅の名門・肝付氏が戦国大名として迎えた終焉の全貌を明らかにすることに他ならない。
肝付兼護の悲劇的な生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた肝付氏という一族の歴史的背景、とりわけ彼の父・兼続の時代に迎えた栄光と、それがもたらした深刻な対立構造を把握する必要がある。
肝付氏の起源は平安時代に遡る。本姓を伴氏(ばんし)とし、薩摩掾(さつまのじょう)として下向した伴兼行を祖とする 3 。その子孫が、大隅国肝付郡の弁済使(べんざいし)という荘園管理の役職を得て土着し、やがて地名を取って「肝付」を名乗るようになったのが始まりである 3 。
以来、一族は国指定史跡でもある高山城(こうやまじょう)を本拠地とし、鎌倉、南北朝、室町時代を通じて大隅半島一帯に勢力を扶植していった 9 。特に南北朝の動乱期には、南朝方として活動し、北朝方についた島津氏とは激しく対立した歴史を持つ 3 。この宿縁は、後の戦国時代における両者の熾烈な抗争の伏線となっていた。
戦国時代、第十六代当主として肝付氏を率いたのが、兼護の父・肝付兼続(かねつぐ)であった。兼続は、薩摩・大隅の統一を目指す島津氏の当主・島津貴久の父である忠良の長女・御南(おなみ)の方を正室に迎えるなど、当初は島津氏と巧みな姻戚関係を結び、協調と対立の狭間を渡り歩いていた 7 。
しかし、領土問題を巡る対立は避けがたく、兼続は日向国(現在の宮崎県)の伊東氏と結び、島津氏との全面対決へと舵を切る 3 。兼続は稀代の名将であり、竹原山の戦いでは島津貴久の実弟・忠将を討ち取り、さらに要衝である志布志の地を奪取するなど、一時は島津氏を圧倒するほどの武威を示した 3 。肝付氏の勢力が歴史上、最大に達した瞬間であった。
兼護がこの世に生を受けた永禄4年(1561年)は、まさにこの対立が頂点に達していた年である。この年、父・兼続は島津方の廻城(めぐりじょう)を攻め落としており、兼護は一族の栄光と、破滅へと向かう戦乱の渦中に生を受けた宿命の子であった 2 。
兼続の急進的な拡大路線は、必然的に島津氏の総力を挙げた報復を招くことになった。永禄9年(1566年)、島津軍の猛烈な反攻に遭い、あれほどの武威を誇った名将・兼続は非業の死を遂げる(自害説が有力だが、否定説も存在する) 3 。彼の死は、肝付氏にとって致命的な打撃となった。
父の栄光は、結果として一族の力を大きく消耗させ、島津氏という巨大な敵の憎悪を決定的にした。兼続の死後、肝付氏にはもはやその勢いを維持するだけの力も、島津氏の攻勢を単独で跳ね返すだけの求心力も残されていなかった。兼続の跡を継いだ長男の良兼も、元亀2年(1571年)に若くして病死し、指導者の不在と戦略の迷走という危機的状況に陥った 4 。この権力の真空状態と、長年の戦争による領内の疲弊が、家臣団の間に「これ以上の抗戦は一族の滅亡を招くだけである」という現実主義的な空気を醸成し、次章で詳述する家中政変の温床となった。兼護の運命は、彼が歴史の表舞台に登場する以前に、父が残した栄光の代償という名の、巨大な負の遺産によって、既に大きく方向付けられていたのである。
父・兼続の死後、急速に傾いた一族の運命は、兼護の兄・兼亮の代に決定的な転換点を迎える。それは、島津氏による武力制圧ではなく、内部からの切り崩しという、より巧妙かつ冷徹な政治的調略によるものであった。この政変劇において、兼護は自らの意志とは無関係に、歴史の主役へと祭り上げられることになる。
兼続、良兼の死後、第十八代当主の座に就いたのは兼護の次兄・肝付兼亮(かねあき)であった 3 。兼亮は、父・兼続の復讐を果たすべく、その遺志を継いで島津氏への徹底抗戦路線を継続した 3 。彼は日向の伊東氏との同盟関係を頼みとし、反島津の旗幟を鮮明にしたが、元亀4年(1573年)には島津方の北郷時久に敗れるなど、戦況を好転させることはできなかった 16 。
長引く戦乱と度重なる敗戦は、肝付家中に深刻な亀裂を生じさせた。家臣団の中から、これ以上の抗戦は無益であり、宿敵・島津氏に臣従してでも家名を存続させるべきだとする「親島津派」が台頭し始める 3 。
この内部対立の動きを決定づけたのが、兼亮の義母であり、兼続の正室であった御南の方の存在である。彼女は島津氏中興の祖・島津忠良の娘であり、時の当主・島津義久の叔母にあたる人物であった 3 。島津本家との強固な血縁を背景に持つ彼女は、肝付家中に絶大な影響力を行使できる立場にあった。御南は、島津本家の意向を代弁する形で、抗戦派の当主・兼亮を排除し、和平路線を実現するための「家中クーデター」を画策したのである。
その口実として、兼亮が密かに伊東氏と通じていたこと、そして正室(長兄・良兼の次女)との夫婦仲が極めて険悪であったことなどが利用された 16 。これらは、当主としての資質を問う格好の材料となり、兼亮を孤立させるのに十分な理由となった。
天正元年(1573年)、ついに御南の方と親島津派の家臣団は政変を決行。抗戦を叫ぶ当主・兼亮を強制的に隠居させ、日向国へと追放した 3 。
そして、新たな当主として白羽の矢が立ったのが、当時、他家に養子に出ていた兼続の末子、すなわち肝付兼護であった 1 。この時、兼護はわずか13歳。家中に全く権力基盤を持たない彼は、親島津派にとって意のままに操れる傀儡の当主として、まさに最適な存在であった。
兼護は高山城に呼び戻され、第十九代当主として擁立された。さらに、この家督相続の正当性を内外に示すため、追放された兄・兼亮の正室であった女性(長兄・良兼の次女)を、自らの妻として娶ることを強要された 1 。兄を追い落とし、その妻を娶るという、極めて異例かつ精神的にも大きな負担を強いるこの措置は、兼護がこの政変の受益者ではなく、むしろ最大の犠牲者の一人であったことを物語っている。彼は、一族の行く末を左右する重大な局面において、自らの意志を表明する機会すら与えられず、ただ運命に流されるまま、名ばかりの当主の座に就いたのであった。
傀儡として当主の座に据えられた兼護の時代は、肝付氏が独立した大名としての地位を完全に失い、島津氏の巨大な権力構造に吸収されていく過程に他ならなかった。島津氏の戦略は、段階的かつ徹底しており、肝付氏が再起する可能性の芽を完全に摘み取るものであった。
兼護が当主となった翌年の天正2年(1574年)、肝付氏は正式に島津氏への臣従を誓った 2 。この降伏によって、一族の家名は存続を許されたものの、その代償はあまりにも大きかった。かつて大隅一円に勢力を誇った肝付氏の所領は大幅に削減され、先祖代々の本拠地である高山城とその周辺のみを安堵されるに留まったのである 1 。
この時点で、兼護はもはや独立した戦国大名ではなく、島津氏の支配下にある一城主に過ぎなかった。彼の権力は完全に名目的なものとなり、肝付氏の軍事・外交に関する一切の権能は、宗主である島津氏に掌握された。
島津氏による肝付氏の解体作業は、それで終わりではなかった。臣従から約7年後の天正8年(1580年)12月(西暦1581年1月)、島津氏は最後の、そして決定的な一手を打つ 3 。兼護は、五百年にわたり一族が本拠としてきた大隅国高山城を没収され、薩摩国阿多(あた、現在の鹿児島県南さつま市金峰町)へわずかな知行地を与えられて移ることを命じられた 5 。
この「阿多への移封」は、単なる領地替えではない。それは、肝付氏をその伝統的な権力基盤、すなわち先祖代々の土地、譜代の家臣団、そして領民の支持から、物理的かつ完全に引き剥がすことを目的とした、極めて高度な政治的措置であった。本拠地を失い、旧領との繋がりを断たれた肝付氏は、もはや潜在的な反乱勢力にすらなり得なくなった。
この移封をもって、大名としての肝付氏は名実ともに滅亡した。以後、肝付氏は島津家の広大な家臣団組織の中に組み込まれ、多くの国人領主の一人に過ぎない「一家臣」として遇されることとなる 1 。島津氏が宿敵を無力化するこの段階的プロセス―すなわち、第一段階で内部対立を利用して傀儡政権を樹立し、第二段階で形式的な臣従をさせて抵抗力を削ぎ、最終段階で権力基盤そのものを剥奪する―は、戦国後期の権力闘争の冷徹な実態を如実に示している。兼護の人生は、この政治プロセスの最終段階を、その身をもって体現するものであった。
大名としての地位を失い、島津氏の一家臣となった兼護の生涯は、皮肉にも、彼の一族を滅ぼしたその島津家への忠義を尽くすことで、その幕を閉じることとなる。彼の最期は、戦国武将が主家への奉公によってのみその存在価値を示し得た、当時の武家社会の厳格な掟を象徴するものであった。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下の実権を巡って徳川家康と石田三成が対立し、関ヶ原の戦いが勃発する。九州にあって独自の動きを見せていた島津氏であったが、在京していた島津義弘は様々な経緯から西軍に与することとなった。この時、肝付兼護も島津家の家臣として義弘に従い、美濃国関ヶ原の戦場へと赴いた 1 。
しかし、この時の島津軍の陣容は、本国からの増援が思うように届かなかったため、わずか1500名程度という寡兵であった 21 。西軍主力の一角として布陣したものの、その兵力はあまりに心許ないものであった 23 。兼護も、この少数精鋭の部隊を構成する一人の武将として、運命の日を迎えた。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原での本戦は、西軍に属していた小早川秀秋の裏切りをきっかけに、わずか半日で東軍の圧勝に終わった 23 。西軍の各隊が総崩れとなる中、島津隊は戦場で孤立し、周囲を敵の大軍に囲まれるという絶体絶命の窮地に陥った。
ここで総大将の島津義弘は、後方の伊吹山方面へ退却するのではなく、敵軍の真っ只中である徳川家康の本陣めがけて正面突破を敢行し、伊勢街道方面へ脱出するという、前代未聞の撤退作戦を決断する。これが後世に「島津の退き口(しまづののきぐち)」として語り継がれる、壮絶な退却戦の始まりであった 25 。
この決死の撤退において、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる特異な戦術を用いた。これは、本隊が前進する時間を稼ぐため、殿(しんがり)を務める小部隊がその場に踏みとどまり、追撃してくる敵部隊を死ぬまで食い止めるという、まさに命を捨てることを前提とした壮絶な戦法であった 27 。
義弘の甥である島津豊久や、家老の長寿院盛淳といった勇将たちが、次々と義弘の身代わりとなって敵中に散っていく。この地獄のような撤退戦のさなか、肝付兼護もまた、島津家臣として主君を逃がすべく奮戦し、慶長5年9月15日、美濃国関ヶ原の地で討死を遂げた 1 。享年40。かつて大隅一国を支配した名門の最後の当主は、自らの家を滅ぼした一族の将の盾となり、その命を終えたのである。この死は、兼護がもはや独立した領主ではなく、島津家の巨大な軍事システムに完全に組み込まれた一人の武士であったことを、最も劇的な形で証明するものであった。
肝付兼護の死は、大名としての肝付氏の物語に終止符を打ったが、一族の血脈そのものが完全に途絶えたわけではなかった。その後の肝付氏は、形を変えながらも薩摩藩の歴史の中に生き続けていくことになる。
関ヶ原で父・兼護が討死した後、家督は嫡男の兼幸(かねゆき)が継いだ 1 。しかし、彼もまた父と同様、主家である島津家への奉公の中で、その短い生涯を終える運命にあった。慶長15年(1610年)頃、島津家久(忠恒)が琉球王国を征服した後、琉球国王を伴って江戸へ上洛した際、兼幸も家臣としてこれに同行した。その帰途、筑前国沖で暴風雨に遭遇し、乗っていた船が難破、兼幸は海に没して溺死したのである 3 。
兼幸には子がおらず、この悲劇的な事故によって、名将・兼続から続いた肝付氏の宗家(本家)直系は、完全に断絶することとなった。父は戦場で、子は海難で、いずれも島津家への忠勤の果てに命を落としたという事実は、一族の宿命を象徴している。
宗家の直系は途絶えたものの、「肝付」の名跡そのものは、島津氏の配慮によって存続が許された。島津氏一門である新納(にいろ)家から養子が迎えられ、肝付本家の家名は江戸時代を通じて薩摩藩士として受け継がれていった 3 。
一方で、早くから分家し、島津氏に仕えていた庶流の家々は、より重要な地位を占めることとなる。特に、喜入(きいれ)を領した分家は、江戸時代には5500石余の知行を持つ私領主「一所持」という、藩内でも極めて高い家格を維持した 3 。幕末期に薩摩藩の近代化を主導し、若くして非凡な政治手腕を発揮した傑物・小松帯刀(本名:小松清廉)は、この喜入肝付家の三男として生まれ、小松家に養子に入った人物である 24 。彼の活躍は、肝付氏の血脈が、形を変えて日本の歴史に大きな影響を与え続けたことを示している。その他にも多くの庶流が薩摩藩士や、支藩である佐土原藩士として存続し、一族の歴史を紡いでいった 3 。
肝付兼護の生涯を振り返るとき、それは彼の個人的な資質や能力の問題以上に、時代の大きな趨勢によって規定されたものであったことがわかる。彼の人生は、島津氏による南九州統一という、抗いようのない巨大な歴史の歯車に巻き込まれ、そして吸収されていった数多の地方豪族の運命を、まさに象徴するものであった。
父・兼続の代に築かれた束の間の栄光、自らのあずかり知らぬ家中政変による傀儡としての家督相続、先祖代々の領地を奪われ大名としての地位を失う屈辱、そして最後は、自らを征服した一族のために忠義の死を遂げるという武士としての宿命。その激動の生涯は、戦国乱世の非情さと、そこに生きた人間の無力さ、そして武家社会の厳格な掟を、後世に生きる我々に痛切に物語っている。肝付兼護の物語を終えることは、大隅に五百年君臨した名門・肝付氏が、戦国大名として迎えた「落日」の全貌を見届けることに他ならない。