臼杵鑑続(うすき あきつぐ)は、日本の戦国時代、九州北部に覇を唱えた豊後大友氏の重臣として活躍した人物である。彼の生きた16世紀前半から中葉にかけては、大友氏がその勢力を急速に拡大させた激動の時代であった。このような勢力拡大期において、有能な家臣団の存在は不可欠であり、彼らは外交、内政、軍事の各方面で主家を支え、時にはその戦略を主導する役割さえ担った。臼杵鑑続もまた、そのような重臣の一人として、大友義鑑(よしあき)、そしてその子である義鎮(よししげ、後の宗麟)の二代にわたり、大友家の発展に深く関与した 1 。
鑑続の活動時期は、大友氏の当主が義鑑から義鎮へと移行し、義鎮政権が確立されていく重要な過渡期と重なる。この時期、大友氏は筑前、筑後、肥後など九州各地へと積極的に勢力を伸張しようとしており、その過程で周辺諸勢力との複雑な外交交渉や、獲得した領地の安定的な統治が喫緊の課題となっていた。このような状況下で、臼杵鑑続は外交官として、また筑前経略の実行者として、さらには博多の都市整備を手がけるなど、多岐にわたる分野でその手腕を発揮した。彼の活動は、大友氏の国家戦略と密接に結びついており、その成功に大きく貢献したと考えられる。本報告では、限られた史料の中から臼杵鑑続の生涯と業績を丹念に追い、戦国大名大友氏の興隆における彼の役割と歴史的意義を明らかにする。
臼杵鑑続の人物像を理解する上で、彼が属した臼杵氏の出自と、大友家におけるその地位を把握することは不可欠である。
臼杵氏は、古代における豊後の有力豪族であった大神氏(おおがし)の一族を祖先に持つとされる 2 。中世に入り、鎌倉幕府によって豊後守護に任じられた大友氏が豊後国に入国すると、臼杵氏は大友氏の一族と姻戚関係を結ぶことなどを通じて、その家格と影響力を高めていった 2 。さらに、臼杵氏は大友氏の庶流である戸次氏(べっきし)の流れを汲む一族でもあったとされ、大友一門としての側面も有していた 3 。
鑑続の父である臼杵長景(ながかげ)は、大友義長(よしなが、義鑑の父)の時代から大友家に仕え、家中の最高意思決定機関の一つである加判衆(かはんしゅう)を務めた重臣であった 1 。長景は豊後国海部郡臼杵庄(現在の大分県臼杵市)に水ケ城(みずがじょう)を構え、臼杵氏の勢力基盤を固めた 2 。このように、臼杵氏は代々大友家の領国支配の中枢に関与し、加判衆という重職を輩出する家柄として、大友家中で確固たる地位を築いていた 1 。
臼杵氏が単なる譜代の家臣というだけでなく、大友氏との姻戚関係や、大友庶流の戸次氏の分家という複雑な出自を持っていたことは、大友家中における彼らの影響力の源泉となると同時に、時には微妙な立場を生む要因ともなり得たであろう。戦国大名家において、一門衆や有力な庶流は当主を支える重要な柱であると同時に、潜在的な権力闘争の火種ともなり得る存在であった。臼杵氏が代々加判衆という重職を担うことができたのは、その血縁的背景と、それに伴う主家への忠誠心への期待、そして何よりも実務能力の高さ故であったと考えられる。特に、鑑続の父・長景が既に加判衆として重きをなしていたことは、鑑続が若くして重要な地位に就くための強力な後ろ盾となったことは想像に難くない。これは、家格や職務の世襲が一般的であった武家社会の慣行を色濃く反映している。
また、臼杵氏は豊後という地理的条件から、水軍とも深い関わりを持っていたことが指摘されている。史料によれば、臼杵長景は大友水軍の中核を担った若林氏を被官(家臣)としており、鑑続自身も後に博多湾を臨む筑前国志摩郡の柑子岳城(こうじだけじょう)の城督を務めている 5 。豊後国は瀬戸内海と太平洋に面し、古来より海運や水軍の重要性が高い地域であった。大友氏は、特に宗麟の時代には南蛮貿易を積極的に推進するなど、海洋への関心が高い大名であったが 6 、その素地はそれ以前から形成されていたと考えられる。臼杵氏が水軍に関与していたことは、大友氏の領国経営における海の重要性を反映しており、鑑続が後に筑前沿岸部の統治を任されることとも無関係ではなかったであろう。
臼杵鑑続の具体的な生年は、残念ながら不明である 1 。一部の推定では明応年間(1492年~1501年)の後半から文亀年間(1501年~1504年)にかけて生まれたのではないかとされているが 3 、確たる証拠に乏しい。しかし、父・臼杵長景が大友義長(活動期15世紀末~1518年頃)の時代に加判衆であったこと 1 、そして鑑続の弟とされる臼杵鑑速(あきはや)の生年が永正17年(1520年)頃と推定されていること 4 から、鑑続は16世紀初頭頃の生まれで、1520年代後半から1530年代初頭には元服し、父の跡を継いで大友家に出仕し始めた可能性が高いと考えられる。彼の活動期間は、まさしく大友氏がその勢力を九州北部へと大きく拡大していく重要な時期と合致する。
鑑続の死没年は、永禄4年2月15日(西暦1561年2月28日)と記録されている 1 。別名として太郎(たろう)、あるいは三郎右衛門(さぶろうえもん)と称したことが伝えられている 3 。官位は安房守(あわのかみ)を名乗っており 3 、この官途名は彼の格式を示すと同時に、後に彼が関与したとされる博多の「房州堀(ぼうしゅうぼり)」の名称の由来ともなった 7 。この事実は、鑑続の事績が単に文書上の記録に留まらず、具体的なインフラの名称として後世に記憶されるほど、地域社会に影響を与えた可能性を示唆している。
父・臼杵長景の死後、家督を継いだ鑑続は、父同様に加判衆として、大友義鑑、そしてその子・義鎮(宗麟)の二代にわたって仕えた 1 。加判衆は、主君の発給する文書に署名(加判)する資格を持つ重臣であり、大友家の政策決定に深く関与する最上位の家臣団の一員であった 2 。
項目 |
内容 |
氏名 |
臼杵 鑑続(うすき あきつぐ) |
生没年 |
生年不詳 – 永禄4年2月15日(1561年2月28日) |
別名 |
太郎、三郎右衛門 |
官位 |
安房守 |
主な役職 |
大友氏加判衆、筑前国志摩郡代、柑子岳城督 |
主な功績 |
大内氏等との外交交渉、大友晴英(大内義長)の養子縁組斡旋、筑前経略の推進、博多の都市整備(房州堀・石堂川開削) |
表1:臼杵鑑続 略歴
この表は、鑑続の基本的な情報をまとめたものである。彼の多岐にわたる活動を概観することで、以降の各章で詳述される個々の業績の位置づけがより明確になるであろう。
臼杵鑑続の業績の中で特に注目されるのが、その卓越した外交手腕である。戦国時代において、外交は軍事と並んで大名の存亡を左右する極めて重要な要素であり、鑑続の活動は大友氏の勢力維持・拡大に大きく貢献した。
主要な外交相手の一つが、周防・長門国(現在の山口県)を本拠とする大大名、大内氏であった。鑑続は大内氏との和睦交渉において重要な役割を果たしたと記録されている 1 。具体的には、天文7年(1538年)に大内義隆と大友義鑑の間で結ばれた和睦に、鑑続が関与していた可能性が考えられる 9 。さらに、大友義鎮(宗麟)の弟である晴英(はるひで、後の大内義長)を、大内義隆の猶子(養子)として送り込むという複雑な養子縁組を取りまとめたのも鑑続の功績とされる 1 。この養子縁組の背景には、天文20年(1551年)に大内氏家臣の陶晴賢(すえ はるかた)が謀反を起こし主君・義隆を討ち、大内家の実権を掌握した「大寧寺の変」という事件があった 9 。陶晴賢は、自らが擁立する新たな大内氏当主として、大友氏から晴英を迎え入れたのである。この一連の動きにおいて、鑑続は大友家の代表として交渉の前面に立ったものと推察される。
鑑続の外交活動は、大友氏の対大内氏政策の転換点に深く関与していたことを示している。当初の和睦路線から、大内氏内部の混乱に乗じた影響力行使(晴英の養子縁組)、そして大内氏の実質的滅亡後には、その旧領への進出と、一貫して大友氏の戦略目標に沿った動きを見せている。晴英改め大内義長が、弘治元年(1555年)に毛利元就によって滅ぼされると 9 、大友義鎮は豊前国(現在の福岡県東部から大分県北部)の支配に乗り出す。その際、臼杵鑑続は豊前国宇佐郡の闕所地(所有者のいなくなった土地)の扱いについて現地の佐田隆居に指示を出し、郡代としての任務を命じている 10 。これは、大友氏が大内氏旧領の吸収を具体的に進める過程で、鑑続が中心的な役割を担っていたことを示す証左である。これらの外交活動は、単発のものではなく、長期的な視点に立った大友氏の対外戦略の一環として鑑続が実行したものであり、彼の高度な政治感覚と交渉能力を物語っている。
また、鑑続は室町幕府への使者としても活動した記録がある 1 。その具体的な内容は不明であるが、主君・大友義鎮が将軍・足利義晴から偏諱(「義」の字)を賜り元服する際の交渉や、大友氏が豊前国や筑前国などの守護職を幕府から公認される際の手続きなどに関与した可能性が考えられる。弟の臼杵鑑速も同様の任務で活躍したとされているが 4 、加判衆としての序列や経験年数を考慮すれば、兄である鑑続がより早期から、あるいはより中枢的な外交案件を担当していた可能性は高い。
その他にも、鑑続は大友義鎮の婚礼に関する交渉をまとめたり 1 、豊前国の国人領主であった可能性のある進藤鎮治(しんどう しげはる)との間で書簡のやり取りや直接の外交交渉を行い、功績を挙げたと伝えられている 11 。主家の重要な儀礼に関する外交は、特に主君からの信頼が厚い重臣に任されることが多く、鑑続が大友家中でいかに重用されていたかが窺える。
一部の史料では、鑑続は同じく大友氏の重臣で外交に長けた吉岡長増(よしおか ながます)と並ぶ「策士なタイプだったのかもしれない」と評されており 1 、その知略に富んだ交渉術が高く評価されていたことがわかる。
臼杵鑑続は、外交官としての顔だけでなく、大友氏の筑前国(現在の福岡県西部)方面への勢力拡大、いわゆる「筑前経略」においても重要な役割を担った。
16世紀前半、父・長景の跡を継いで間もなく、鑑続は筑前国志摩郡(現在の福岡市西区から糸島市一帯)の郡代(ぐんだい、郡の行政官)に任命された 2 。この地で、彼は大友氏による北部九州統治の確立に貢献したとされる 2 。志摩郡は博多湾に面し、古くから海上交通の要衝であり、また大陸や朝鮮半島との交易拠点である博多にも近接する戦略的に極めて重要な地域であった。鑑続は、この志摩郡の政務を司る拠点であり、また軍事的な前線基地ともなる柑子岳城(好士岳城とも記される)に入り、博多津内の行政や外交事務も兼任したとされている 9 。
柑子岳城は、大友氏が筑前支配のために整備した主要五城の一つに数えられる重要な城であった 12 。鑑続(あるいは臼杵一族)は、この城の城督(じょうとく、城の軍事指揮官)として、現地の元岡氏や古庄氏といった有力な武士たちを与力衆(味方となる武士団)として組織下に組み入れ、郡内の防衛体制を強化するとともに、大友軍の各地での戦闘に動員する体制を敷いた 9 。
ただし、柑子岳城督としての臼杵鑑続の具体的な活動時期については、史料によって記述に混乱が見られる点に注意が必要である。鑑続の没年は永禄4年(1561年)であるが 1 、例えばある史料では、永禄11年(1568年)に立花鑑載(たちばな あきとし)が謀反を起こした際、柑子岳城主「臼杵鑑続」が援軍として立花山城へ向かった隙に、原田氏に柑子岳城を攻められ、急ぎ引き返して城を奪還したという記述がある 12 。しかし、これは年代的に鑑続の没後であり、実際には鑑続の死後に柑子岳城代を引き継いだとされる弟の臼杵鎮続(しげつぐ、紹冊とも) 12 、あるいは他の臼杵一族の事績が鑑続のものとして誤伝された可能性が高い。同様に、元亀3年(1572年)に臼杵鎮氏(しげうじ)が戦死した後、「臼杵鑑続が城代となる」と記す史料もあるが 14 、これも没年と矛盾する。複数の史料を突き合わせると、柑子岳城の城督は臼杵親連(ちかつら)、鑑続、鎮続、鎮氏といった臼杵一族が連続的、あるいは世襲的に務めていたと考えられ 13 、鑑続はその初期の城督の一人として、大友氏の筑前支配の橋頭堡を築き、在地勢力を掌握するという重要な任務を遂行したと位置づけるのが妥当であろう。
筑前国志摩郡代と柑子岳城督を兼任していたことは、鑑続が同地域において軍事と行政の両面にわたる権限を掌握していたことを意味する。筑前は、少弐氏、大内氏、そして後には毛利氏や龍造寺氏など、多くの有力勢力が覇権を争う最前線であった。このような戦略的要衝に派遣され、現地の統治を任される人物は、高度な軍事・行政能力はもちろんのこと、主君からの絶大な信頼を得ている必要があった。鑑続の任命は、まさに彼がそのような器量と信頼を兼ね備えた人物であったことを示している。
臼杵鑑続の多才ぶりを示すもう一つの側面が、国際貿易港として栄えた博多の都市整備事業への関与である。彼の名は、特に「房州堀」と「石堂川」という二つの大規模な土木工事と結びつけて語り継がれている。
江戸時代中期に成立した地誌『筑前国続風土記』には、博多の南辺、現在の瓦町から辻堂にかけて、幅二十間(約36メートル)余りの堀の跡が存在し、これは「房州堀」と呼ばれていたと記されている。そして、この堀を掘らせたのが臼杵安房守鑑続であると伝えられている 7 。この房州堀は、博多市街の南方を防御するための要害、すなわち防御施設としての機能を持っていたと考えられている 8 。近年の発掘調査によって、この堀の存在と規模が部分的ながらも考古学的に確認されており、文献史料の記述を裏付けている 7 。
同じく『筑前国続風土記』によれば、博多の東部を流れる石堂川(現在の御笠川)もまた、臼杵鑑続が開削したものとされている 7 。それ以前のこの地域の主要な川であった比恵川(ひえがわ)は、博多市街と住吉(現在の博多区住吉)の間を西に蛇行して流れており、しばしば洪水を引き起こして博多の町に水害をもたらしていた。鑑続は、この比恵川の流れを博多市街の手前で北方向に変え、承天寺と聖福寺の裏手の松原を横切らせて博多湾に直接流入させるという大規模な河川改修工事を行ったと伝えられる 7 。
これらの房州堀の築造と石堂川の開削という二つの土木工事は、それぞれ独立したものではなく、相互に関連し合った、都市博多全体の治水と防御を目的とした計画的な事業であったと考察されている 7 。すなわち、まず比恵川を付け替えて洪水を防ぎ、都市の東側の防御線とし、次いで旧河道付近に新たに房州堀を築いて南側の防御を固めるという、壮大な都市改造計画であったと考えられる。これらの事業は、大友義鎮(宗麟)政権下における博多統治の重要な政策の一環であり、臼杵鑑続はその実行責任者(作事奉行)としてこの難事業を指揮したと見なされている 7 。
戦国時代において、これほど大規模な都市改造計画を実行できた大名は限られている。これは、大友氏の経済力と技術力の高さを示すと同時に、それを具体的に計画し、実行する臼杵鑑続のような有能な家臣の存在が不可欠であったことを物語っている。博多は、対外貿易を通じて大友氏に莫大な富をもたらす経済的基盤であり、その機能を維持・発展させ、同時に敵対勢力からの攻撃に備えるための都市整備は、大友氏にとって極めて重要な課題であった。鑑続がこの事業を主導したことは、彼の土木技術や都市計画に関する知識・能力が高く評価されていたことを示唆する。
ただし、史料の中には、この事業と鑑続の関与について慎重な見方を示すものも存在する。例えば、福岡市博物館の解説では、『筑前国続風土記』の記述を引用しつつも、「当時の大友氏の家臣に『臼杵安房守鑑つぐ』という人物は存在しません」と述べ、築造時期についても元亀・天正年間(1570年~1592年、鑑続の没後)や、さらに遡って大内氏支配時代に造られたものを臼杵氏が修補した可能性などを指摘している 8 。しかし、他の史料では臼杵鑑続が安房守を名乗っていたことは確認されており 3 、この福岡市博物館の記述は、調査時点での情報や解釈に基づくものである可能性も考慮する必要がある。名古屋学院大学の鹿毛敏夫教授(国際文化学部)のように、これらの事業を臼杵鑑続の功績として積極的に評価する研究者もおり 7 、考古学的にも堀の存在が確認されていることからも、鑑続の関与を完全に否定することは難しい。むしろ、事業の正確な開始時期や規模、あるいは鑑続の計画が彼の死後に後継者によって実行・完成されたのかといった、詳細な点でのさらなる検討が求められる。いずれにせよ、彼の名がこれらの重要な都市インフラと結びつけて後世に伝えられていること自体が、彼が何らかの形で深く関与したことを強く示唆していると言えるだろう。
臼杵鑑続の生涯を語る上で、彼が属した臼杵一族、特に父や兄弟との関係は重要な要素となる。臼杵氏は大友家中で代々重きをなした一族であり、鑑続の活躍もこの一族のネットワークと無縁ではなかった。
鑑続の父は、前述の通り臼杵長景である 1 。長景は大友義長時代から加判衆を務めた宿老であり、鑑続はその地位と家督を継承した。
鑑続には多くの兄弟姉妹がいたことが記録されている 3。
兄には臼杵鑑栄(あきよし、通称は上総介)がいた 3。
弟で最も著名なのが臼杵鑑速(あきはや、通称は四郎左衛門尉、官位は越中守)である。鑑速は兄・鑑続と共に外交面で活躍し、後には兄の職であった豊前方分(豊前方面の担当官)、筑前方分(筑前方面の担当官)や加判衆の地位を引き継いだ 2。さらに鑑速は、戸次鑑連(べっき あきつら、後の立花道雪)や吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)と共に「大友三老」と称されるほどの重臣にまで登り詰めた 4。
その他にも、弟として鑑定(あきさだ)、鑑良(あきよし)、鎮続(しげつぐ、号は紹冊)、鎮氏(しげうじ)、鎮順(しげより)、統光(むねみつ)らの名が伝えられている 3。
姉妹の一人である養孝院(ようこういん)は、後に大友家の柱石となる戸次鑑連(立花道雪)の継母となった 3。これにより、臼杵家と戸次家(後の立花家)は姻戚関係で結ばれることになり、大友家中の有力家臣団の結束を強める一因となった可能性がある。戦国時代の武家社会において、姻戚関係は同盟や協力関係を強化するための常套手段であった。臼杵氏と戸次氏は共に大友家の屋台骨を支える重臣であり、この関係は両家の連携を円滑にし、大友家への忠誠心を高める効果があったかもしれない。しかし同時に、家格や影響力を巡る競争関係も存在した可能性は否定できず、姻戚関係が常に盤石な協調を保証するものではなかった点も留意すべきである。
臼杵鑑続とその弟・鑑速は、兄弟で大友家の外交や内政の枢要を担ったが、その役割には時期や専門性による分担があった可能性が高い。鑑続が外交や筑前統治、博多整備といった特定の事業でその名が史料に多く見られるのに対し、鑑速は「三老」の一人としてより広範な国政運営に関与し、特に軍事面での活躍も目立つ 4 。これは、兄である鑑続が特定の専門分野、例えば対外折衝や特定地域の統治・開発といった分野で先駆的な役割を果たし、その基盤を弟の鑑速が引き継ぎつつ、より総合的な国政補佐へとその役割を拡大させていった可能性を示唆している。鑑続の比較的早い死(1561年、40代~50代か)が、結果として鑑速のより早い台頭を促した側面もあったかもしれない。
比較項目 |
臼杵 鑑続(あきつぐ) |
臼杵 鑑速(あきはや) |
生没年 |
不詳 – 永禄4年(1561年) |
永正17年(1520年)? – 天正3年(1575年) |
主な役職 |
加判衆、筑前国志摩郡代、柑子岳城督 |
加判衆、豊前方分、筑前方分、大友三老 |
活動分野 |
外交(対大内氏、幕府等)、地方行政(筑前統治)、都市整備(博多) |
外交(対毛利氏、島津氏、幕府等)、国政補佐(三老として)、軍事指揮(各地の合戦に従軍) |
特筆功績 |
大内義長養子縁組斡旋、房州堀・石堂川開削 |
大友義鎮の将軍偏諱拝領交渉、主要合戦での武功多数、吉岡長増没後の外交主導 |
人物評等 |
「策士タイプ」(吉岡長増と並ぶ) 1 、博多の作事奉行 7 |
「才徳勇猛の良将」 4 、鑑速・吉岡宗歓(長増の子)の死後、大友の政治は乱れたと立花道雪らが嘆く 4 |
表2:臼杵鑑続と臼杵鑑速の比較
この表は、混同されやすい鑑続と鑑速の兄弟について、その役割と功績を比較整理したものである。鑑速は「三老」として後世にも名高く、その兄である鑑続の独自の貢献を浮き彫りにする上で、このような比較は有効であると考えられる。
臼杵鑑続は、永禄4年2月15日(西暦1561年2月28日)にその生涯を閉じた 1 。その死因に関する具体的な記述は、現存する史料からは見出すことができない。
鑑続の死は、大友宗麟(義鎮)の治世が本格化し、中国地方の雄・毛利元就との対立が激化し始める直前の時期にあたる。大友宗麟は鑑続の死の翌年である永禄5年(1562年)に臼杵城を築いて本拠を移し、嫡男・義統との二元政治を開始するが 6 、この頃から毛利氏の九州進出も本格化し、豊前門司城などを巡って激しい攻防が繰り広げられるようになる。鑑続は、特に大内氏関連の外交や筑前方面の統治・経営において豊富な経験と実績を持つ専門家であった。彼の死によって、これらの分野における有能な実務者が大友家中から失われたことは、少なからぬ痛手であった可能性が考えられる。弟の鑑速がその役割の多くを引き継いだとされるものの 4 、鑑続の死が一時的な権力の空白や政策遂行の遅滞を生んだ可能性は否定できない。特に、対毛利氏戦略が焦眉の急となる局面での彼の不在は、大友氏にとって惜しまれるものであったかもしれない。
歴史的評価として、臼杵鑑続は外交手腕に優れ、大友義鑑・義鎮の二代にわたって重用された忠臣であったと言える 1 。吉岡長増と並ぶ「策士タイプ」であった可能性も指摘されており 1 、その知略が高く評価されていたことが窺える。また、博多の都市整備に貢献した作事奉行としての側面も、彼の多才ぶりを示す重要な業績である 7 。弟・鑑速の華々しい活躍や「大友三老」という名声の陰に隠れがちな面はあるものの、鑑続が大友氏の勢力拡大期、特に義鑑から義鎮への政権移行期および義鎮政権初期において果たした貢献は決して小さくない。
鑑続の事績、とりわけ博多の房州堀や石堂川開削といった都市整備事業が、後世の編纂史料である『筑前国続風土記』によって具体的に伝えられていることは注目に値する 7 。編纂史料は同時代史料に比べて史料的価値が劣る場合もあるが、一方で地域に伝わる伝承や記録を丹念に収集して編まれるため、その地域社会における歴史的記憶を色濃く反映していることが多い。鑑続の名が、具体的な土木事業と結びつけて数百年後の地誌に記録され、記憶されていたという事実は、彼の業績が単なる一過性の武功とは異なり、地域住民の生活に大きな影響を与え、長く語り継がれるだけのインパクトを持っていたことを示唆している。これは、戦国武将に対する歴史的評価の一つの形と言えるだろう。
臼杵鑑続は、戦国時代の大友氏において、外交、筑前統治、そして博多の都市整備という多岐にわたる分野で顕著な功績を残した重臣であった。彼の活動は、大友氏の当主が義鑑から義鎮(宗麟)へと移行し、その勢力が九州北部へと大きく伸張していく極めて重要な時期と重なっており、大友氏の発展に不可欠な役割を果たした。
特に、複雑な情勢下にあった大内氏との外交交渉や、大友氏の弟・晴英(後の大内義長)の養子縁組の取りまとめは、鑑続の高度な政治感覚と交渉能力を示すものであった。また、筑前国志摩郡代および柑子岳城督として、大友氏の筑前経略の最前線に立ち、現地の統治と防衛体制の確立に尽力した。さらに、博多における房州堀の築造や石堂川の開削といった大規模な都市整備事業への関与は、彼の知略が軍事・外交に留まらず、都市計画や土木技術といった実務的な分野にまで及んでいたことを示している。
弟である臼杵鑑速が「大友三老」の一人として後世に名を馳せたため、兄である鑑続の存在はやや陰に隠れがちであるが、鑑続が築いた外交的・行政的基盤の上に鑑速の活躍があった側面も否定できない。臼杵一族という大友家中の名門にあって、鑑続は独自の専門性と能力を発揮し、主家の発展に貢献した。
限られた史料の中から彼の全体像を捉えることは容易ではないが、臼杵鑑続は、戦国時代の理想的な家臣像の一つとして、単なる武勇だけでなく、知略、交渉力、そして領国経営に必要な実務能力を兼ね備えた、多才なテクノクラート的武将であったと評価できよう。彼の生涯と業績は、戦国大名大友氏の興隆を支えた知られざる重臣の姿を我々に伝えている。今後のさらなる史料の発見や研究の進展により、臼杵鑑続という人物の歴史的意義が一層明らかになることが期待される。