最終更新日 2025-06-18

草野直清

戦国武将・草野直清の生涯 ― 相馬家中の忠誠と謀反の狭間で

序章:奥州の動乱と相馬家臣・草野直清

16世紀半ば、日本の東北地方、特に陸奥国南部の浜通り地域は、長きにわたる地政学的緊張の坩堝と化していた。この地域の覇権を巡り、北の雄・伊達氏と、沿岸部に行方郡、標葉郡、宇多郡を領する相馬氏との間で、絶え間ない抗争が繰り広げられていたのである。両家は時に婚姻関係を結び、一時的な和睦を見ることもあったが、その根底には伊具郡や宇多郡といった戦略的要衝の支配を巡る深刻な対立が存在し、一進一退の攻防が常態化していた 1 。この終わりの見えない緊張関係こそが、当時の武士たちが置かれた過酷な現実であり、彼らの運命を大きく左右する決定的な要因であった。

本報告書で詳述する草野直清(くさの なおきよ、永正11年(1514年)生 - 永禄6年(1563年)没)は、この相馬・伊達両家の熾烈な争いの最前線において、主家への忠誠と反逆という、戦国武将が直面しうる二つの極致をその生涯で体現した、極めて象徴的な人物である 4 。相馬家の重臣として伊達氏に対する防衛の要である中村城の城代を任されるほどの信頼を得ながら、主君の代替わりを機に伊達氏に内通し、反旗を翻すに至った彼の生涯を丹念に追跡することは、単に一個人の伝記を明らかにすることに留まらない。それは、戦国時代という激動の時代における武家の主従関係の脆さと複雑さ、そして大名家の権力移行期に頻発する家臣団の動揺の実態を解明するための、貴重な事例研究となる。

本報告書は、草野直清という一人の武将の生涯を、現存する複数の史料を比較検討することによって立体的に再構築し、その行動の背景にある政治的・個人的動機を深く考察することを目的とする。

【表1:草野直清 関連年表】

西暦

和暦

年齢

主な出来事

関連する主君・人物

1514年

永正11年

1歳

誕生 4

1521年

大永元年

8歳

相馬顕胤が14歳で家督を相続 2

相馬顕胤

1541年

天文10年

28歳

伊達家の内乱「天文の乱」が勃発。親類の草野肥前が伊達稙宗の救出に関与 5

伊達稙宗、伊達晴宗

不明

不明

不明

相馬顕胤に仕え、重用される。中村城代に任命される 2

相馬顕胤

1549年

天文18年

36歳

主君・相馬顕胤が42歳で死去。嫡男の相馬盛胤が家督を相続 2

相馬盛胤

1563年

永禄6年

50歳

黒木城代・青田顕治と共に伊達輝宗に内通し、相馬盛胤に謀反を起こす 1

相馬盛胤、伊達輝宗

1563年

永禄6年

50歳

貝殻坂の戦いで敗北後、中村城外にて討死 3

相馬盛胤、相馬義胤


第一章:草野氏の出自と名君・相馬顕胤の時代

草野直清の生涯を理解するためには、まず彼が属した「草野氏」という一族の相馬家中における位置づけと、彼が忠誠を誓った最初の主君・相馬顕胤の治世について深く掘り下げる必要がある。この時代、直清は顕胤からの厚い信頼を背景に、そのキャリアの頂点を極めることになる。

第一節:陸奥における草野一族の動向

相馬家の家臣団において、「草野」という姓を持つ一族は、直清一人に限定されるものではなかった。江戸時代に相馬中村藩によって編纂された公式な家臣系図集である『衆臣家譜』には、複数の草野家が記録されており、一族が藩内で代々一定の地位を保っていたことが確認できる 8 。この事実は、直清の行動を評価する上で極めて重要な背景を提供する。

特に注目すべきは、永禄6年(1563年)に直清が起こした謀反の際に見られる一族内での忠誠心の分裂である。直清が伊達氏に通じ主家に弓を引いた一方で、 草野小市郎晴清 (くさの こいちろう はるきよ)という同族の武将は、一貫して相馬方として戦い、坪田八幡での戦闘において討死を遂げたという記録が残されている 10 。これは、直清の謀反が草野一族全体の総意によるものではなく、一族内部に深刻な政治的対立、あるいは異なる生存戦略が存在したことを示す動かぬ証拠である。直清の行動は、彼個人の決断であると同時に、草野一族内に存在したであろう「親伊達派」とも言うべき潮流を代表するものであった可能性が考えられる。対照的に、晴清の行動は、あくまで相馬家に忠誠を尽くし続ける「親相馬派」の存在を明確に示している。

さらに、この親伊達派の源流は、直清の謀反より以前に遡ることができる。相馬家の軍記物である『奥相茶話記』によれば、天文10年(1541年)に伊達家で発生した大規模な内乱「天文の乱」において、当主・伊達稙宗が嫡男・晴宗によって幽閉された際、稙宗を救出した人物の一人として 草野肥前 (くさの ひぜん)の名が挙げられている。そして、この草野肥前は「草野直清の親類」であったと明記されているのである 5 。この記述は、直清の反乱の二十年以上も前から、草野一族の一部が伊達家の内部事情に深く関与し、特定の派閥(この場合は稙宗方)と密接な関係を築いていた可能性を強く示唆する。

これらの断片的な記録を統合すると、陸奥における草野氏は決して一枚岩の集団ではなく、相馬・伊達という二大勢力の狭間で、ある者は相馬家に忠誠を誓い、ある者は伊達家に接近するという、複雑で多面的な様相を呈していたことが浮かび上がってくる。直清の生涯の悲劇は、こうした一族が抱える構造的な分裂と無関係ではなかったであろう。

第二節:名君・相馬顕胤への奉仕と中村城代への抜擢

草野直清がそのキャリアの黄金期を過ごしたのは、相馬氏第14代当主・ 相馬顕胤 (そうま あきたね、1508-1549)の治世下であった。顕胤は、身長六尺(約180センチメートル)を超える恵まれた体躯を持ち、鉄製の軍配を自在に操るほどの剛力を誇る勇将であったと伝えられる 2 。しかし、その評価は単なる武勇に留まらない。彼は領民を深く慈しみ、公平な政治を行ったことから、家臣領民から広く敬愛された名君であった 12

顕胤は、北の伊達氏との絶え間ない緊張関係を深く認識しており、その防衛網の要として宇多郡の中村城を極めて重視していた。中村城は、平安時代初期の延暦20年(801年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が築いたという伝承を持つ、歴史と戦略性に富んだ城郭であった 7 。顕胤はこの伊達氏に対する最前線の拠点である中村城の城代として、草野直清を抜擢したのである 2 。城代、特にこれほど重要な城の守りを任されることは、主君からの絶対的な信頼の証であり、直清が顕胤の治世においていかに重用されていたかを物語っている 4

この時期の直清は、主君・顕胤の期待に見事に応え、その忠臣として相馬家の勢力基盤固めに貢献していたと考えられる。名君の下で重臣としての地位を確立したこの時代は、皮肉にも、後の彼の劇的な転身との鮮烈な対比をなすことになる。


第二章:永禄六年の謀反 ― 決起から敗北まで

相馬顕胤の死は、草野直清の運命、そして相馬家の安定に大きな影を落とす転換点となった。先代の主君への忠誠と、新たな当主への不満が交錯する中、伊達氏の巧みな調略が、直清を謀反へと駆り立てていく。

第一節:謀反の背景 ― 主君交代と伊達輝宗の調略

天文18年(1549年)、相馬家中を支えてきた名君・顕胤が42歳の若さでこの世を去り、その嫡男である 相馬盛胤 (そうま もりたね、1529-1601)が21歳で家督を相続した 6 。この主君の代替わりこそが、直清の謀反に至る直接的な引き金となった。史料は、顕胤の死後、直清が「主家に不満を抱いた」と明確に記録している 4 。その不満の具体的な内容を記した史料は見出せないものの、先代の主君に重用された宿老が、新たな若き当主の体制に馴染めず、自らの待遇や影響力の低下を危惧するという構図は、戦国時代の主君交代期に頻繁に見られた現象である 17 。直清の心中に、先代への恩義と新体制への反発が渦巻いていたことは想像に難くない。

直清はこの不満を一人で抱え込んだわけではなかった。彼は、同じく相馬家の重臣であり、黒木城代を務めていた 青田信濃守顕治 (あおた しなののかみ あきはる)と結託し、共に反乱の計画を進める 1 。青田顕治もまた、過去に家中の対立から主君に讒言した経緯を持つなど、潜在的な不満分子であった可能性が示唆されており 19 、両者の利害と思惑が一致した結果、強固な反乱同盟が形成されたと考えられる。

そして、この国内の不満分子に巧みに接触したのが、隣国の雄・ 伊達輝宗 (だて てるむね、伊達政宗の父)であった。直清と顕治は、輝宗に内通し、その支援を取り付ける 4 。輝宗は、敵対勢力の家臣を調略によって切り崩し、内部から弱体化させる戦略を得意としていた。事実、後年にも相馬家臣の佐藤為信を調略し、寝返らせることに成功している 20 。伊達氏との最前線である中村城と黒木城の城代を務める直清と顕治は、輝宗にとって、相馬領を切り取るための絶好の標的であった。

このように、草野直清の謀反は、単一の動機によって引き起こされたものではない。それは、

  1. 先代の主君・顕胤への忠誠心と、新当主・盛胤の体制に対する個人的な不満や不安(個人的・感情的要因)。
  2. 同じ境遇にあった重臣・青田顕治との連携による、反主流派閥の形成(派閥的要因)。
  3. 相馬家の内情を突こうとする伊達輝宗による、時宜を得た巧みな調略(外的要因)。

これら三つの要素が複雑に絡み合った結果、発生した複合的な事件であったと結論付けられる。彼の行動は、単なる個人的な裏切りという側面だけでなく、国境地帯で繰り広げられる大名間の熾烈な情報戦・心理戦の文脈の中で捉えるべきなのである。

第二節:戦いの経緯 ― 貝殻坂の攻防

永禄6年(1563年)、水面下で進められていた謀反は、ついに伊達勢の軍事侵攻という形で火蓋を切った。伊達家臣の舟山豊前守と大谷地掃部が率いる部隊が相馬領奥深くへ侵入し、沿岸部の礒部城へと襲いかかった 3

しかし、伊達勢の目論見はここで早くも躓く。礒部城主であった 佐藤伊勢守好信 (さとう いせのかみ よしのぶ)は、伊達勢の攻撃を巧みな用兵で凌ぎきり、城を堅守した。彼は単に防戦に徹しただけではなく、直ちに主君・盛胤の居城である小高城へ急使を派遣し、敵の侵入を報告するという忠臣としての務めを果たした 1

報告を受けた相馬盛胤の対応は迅速であった。彼は自ら軍勢を率いて出陣し、この戦いは盛胤の嫡男・ 相馬義胤 (そうま よしたね、後の第16代当主)にとっての初陣ともなった 1 。盛胤は宇多郡の館腰館に本陣を構え、反乱鎮圧の指揮を執った 22

一方、謀反の主役である草野直清は、居城の中村城から出陣する。しかし、彼に同調しなかった相馬家臣・高田内膳の伏兵によって進軍を阻まれる。その後、青田顕治の軍勢と合流した直清は、中村城南方の 貝殻坂 (かいがらざか)において高田勢と激突した。高田内膳は高地に陣を張り、巧みに防戦。一時は乗馬を射られて落馬するほどの苦戦を強いられながらも、徒歩で兵を鼓舞し続け、ついに草野・青田連合軍を打ち破った。敗れた反乱軍は中村城を目指して潰走を始める 3 。この好機を逃さず、盛胤の本隊が到着。桑折太郎左衛門らが敗走する反乱軍を追撃し、さらに岡田直胤、堀内近胤といった相馬一門の将たちも戦場に駆けつけ、反乱軍は完全に打ちのめされたのである 3

【表2:永禄六年の乱 主要人物一覧】

勢力

人物名

役職・地位

乱における主な行動

反乱軍

草野 式部 直清

相馬家臣、中村城代

青田顕治と共に伊達輝宗に内通し謀反。貝殻坂の戦いで敗北し、討死 3

青田 信濃守 顕治

相馬家臣、黒木城代

草野直清と共に謀反。敗北後、中村城に籠城するも開城し、三春へ逃亡 7

相馬軍

相馬 盛胤

相馬家 第15代当主

迅速に出陣し、反乱を鎮圧。嫡男・義胤の初陣を飾らせる 1

相馬 義胤

盛胤の嫡男

父と共に初陣を飾り、反乱鎮圧軍に加わる 1

佐藤 伊勢守 好信

相馬家臣、礒部城主

伊達勢の侵攻を撃退し、盛胤に急報。反乱鎮圧のきっかけを作る 1

高田 内膳

相馬家臣

直清に従わず伏兵を配置。貝殻坂で反乱軍主力を打ち破る大功を立てる 3

桑折 太郎左衛門

相馬家臣

貝殻坂で敗走する反乱軍を追撃 3

伊達軍

伊達 輝宗

伊達家 第16代当主

草野直清らを調略し、謀反を画策。相馬領へ軍を派遣する 4

舟山 豊前

伊達家臣

大谷地掃部と共に相馬領に侵攻し、礒部城を攻撃するも失敗 3

大谷地 掃部

伊達家臣

舟山豊前と共に相馬領に侵攻 3


第三章:直清の最期と乱の終結

貝殻坂での敗北は、草野直清の運命を決定づけた。彼の野望は、主君・相馬盛胤の迅速な対応と、忠誠を貫いた家臣たちの奮戦の前に、脆くも崩れ去ったのである。

第一節:中村城外での討死

貝殻坂から中村城へと敗走する草野直清の軍勢に、相馬盛胤・義胤父子が率いる討伐軍本隊が襲いかかった 3 。もはや組織的な抵抗もままならない中、直清は自らが城代として守ってきた中村城を目前にしながら、城外での激しい戦闘の末、ついに討ち取られた 4 。永禄6年(1563年)、享年50。相馬顕胤に重用され、一時は家中の要職を占めた武将の、あまりにも呆気ない最期であった 4

一方、共謀者であった青田顕治とその子・胤治らは、辛うじて中村城へと逃げ込むことに成功し、籠城の構えを見せた 7 。しかし、主将である直清を失った反乱軍に、もはや戦意は残されていなかった。相馬盛胤は力攻めを避け、城兵の助命を条件として開城を勧告した。この条件を受け、顕治らは城を明け渡し、同盟関係にあった三春の田村清顕のもとへと落ち延びていった 7 。こうして、相馬家中を揺るがした大反乱は、首謀者の死と共謀者の追放という形で、完全に鎮圧されたのである。

第二節:乱後の相馬領と中村城

この一連の危機に対する相馬盛胤の対応は、彼が単なる名家の跡継ぎではなく、有能な戦国大名であったことを証明している。彼は反乱という家臣団の裏切りに直面しながらも、動揺することなく迅速な軍事行動を起こし、これを鎮圧した。そして乱の終結後、彼は直ちに領国の体制再建に着手した。

その象徴的な措置が、反乱の震源地となった中村城の人事である。盛胤は、空席となった中村城代に、自らの次男である 相馬隆胤 (そうま たかたね)を任命した 1 。これは、伊達氏との国境を守る最重要拠点を、血縁者、それも最も信頼できる自らの息子に委ねることで、防衛体制を抜本的に強化しようとする明確な意図の表れであった。重臣の裏切りという苦い経験を経て、盛胤は一族による支配を強化することで、家臣団の統制を図り、より強固な統治基盤を築き上げたのである。

草野直清の謀反は、相馬家にとって紛れもなく最大の危機の一つであった。しかし、盛胤はこの危機を巧みに乗り越えることで、家臣団に対する求心力をかえって高め、自身の治世を盤石なものとする契機とした。直清の反逆は、結果として、皮肉にも盛胤の統治者としての評価を不動のものにする一助となったと言えるだろう。


終章:草野直清の歴史的評価

草野直清の生涯は、戦国時代の武将が直面した忠誠と裏切りの狭間にある葛藤を、鮮やかに映し出している。彼の行動を単なる「裏切り」として断じることは容易いが、その背景にある複雑な要因を解き明かすことで、より深い歴史的評価が可能となる。

第一節:謀反の動機再考

草野直清の謀反の動機は、複合的であったと結論付けられる。彼が先代の名君・相馬顕胤から中村城代に抜擢されるほど重用されていたという事実は、その行動が単なる私利私欲や底知れぬ野心だけで説明できないことを示唆している 4 。彼の心中にあったのは、先代への強い恩義と忠誠心、そして、若き新当主・盛胤の治世に対する不安や反発であっただろう。戦国時代、主君の代替わりは家臣団の勢力図を塗り替え、時には宿老の失脚を意味した 17 。直清は、自らの将来を悲観し、隣国・伊達輝宗からの誘いに新たな活路を見出したのかもしれない。それは、戦国の武将が常に直面する究極の選択であった。しかし、彼は新当主・相馬盛胤の器量と、佐藤好信に代表される他の家臣たちの主家への忠誠心を見誤った。その判断の誤りが、彼の致命的な敗因となったのである。

第二節:相馬家中の「草野氏」 ― 断絶と存続

草野直清の系統は、この謀反によって相馬家中から断絶したと見られる。しかし、彼の死は「草野氏」そのものの終わりを意味しなかった。江戸時代に編纂された『衆臣家譜』や、安永年間の給人郷士人名簿には、相馬藩士として「草野」の姓が存続していることが確認できる 8 。特に、永禄6年の乱において、直清とは対照的に相馬方として忠義を尽くし戦死した草野小市郎晴清の存在は、この事実を裏付ける 10 。これは、相馬氏が反逆者の一族全てを連座させて粛清するのではなく、直接関与しなかった者や、忠誠を示した者についてはその存続を許すという、現実的かつ柔軟な統治を行っていた証左と言える。直清の反逆と晴清の忠死は、相馬家における草野一族の複雑な歴史、そして戦国大名の家臣団統制の現実を象徴している。

第三節:結論 ― 時代の波に消えた重臣

草野直清は、相馬家の重臣として、また伊達氏との最前線を守る城代として、一時はその治世に不可欠な役割を担った重要人物であった。しかし、主君の代替わりという時代の大きな転換点において、彼は主家を見限り、己の生き残りを賭けて反旗を翻した。その結果、志半ばで討死し、歴史の敗者としてその名を残すことになった。

彼の生涯は、忠誠と裏切りが常に表裏一体であった戦国時代の非情さ、そして大名家の家督相続という一大事業が、いかに家臣団一人ひとりの運命を激しく揺さぶるかを雄弁に物語っている。草野直清の名は、相馬・伊達両家の長きにわたる抗争史の中に、悲劇的な謀反人として刻まれている。だが同時に、彼の反乱が結果的に相馬盛胤の治世を強化する一因となったという逆説的な意味合いをもって、奥州の戦国史に記憶され続けるべき人物なのである。

引用文献

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