16世紀の東北地方は、中央の応仁の乱以降の混乱からは比較的距離を保ちつつも、独自の力学に基づいた群雄割拠の時代であった 1 。その中で、鎌倉時代以来の名族として陸奥国中南部に広大な所領を有した葛西氏は 3 、隣接する奥州探題・大崎氏との長年にわたる抗争に加え 4 、新たに陸奥国守護職を得て急速に勢力を拡大する伊達氏という、二つの大きな力に挟まれ、その存亡をかけた舵取りを迫られていた 3 。本報告書で扱う葛西晴胤は、まさにこの激動の時代に葛西氏を率いた当主であり、彼の生涯は、この時代の東北地方の政治力学を理解する上で極めて重要な事例である。
しかし、晴胤の生涯を正確に追跡する作業は、史料の性質上、極めて困難を伴う。最大の理由は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置と、それに続く葛西大崎一揆によって葛西氏宗家が滅亡し 9 、宗家に伝わる一次史料の多くが散逸してしまったためである 13 。現存する系図の多くは、後に伊達家や南部家に仕えた葛西氏の庶流や旧臣によって作成されたものであり、それぞれの家の立場や伝承が反映され、内容に著しい食い違いが見られる 13 。特に、仙台藩に伝わった系統の「仙台説」と盛岡藩に伝わった系統の「盛岡説」という二大潮流の存在が、研究をさらに複雑にしている 15 。本報告書は、これらの錯綜した情報を丹念に整理・分析し、矛盾点や未解明な点を論点として明示しながら、葛西晴胤という人物の実像に可能な限り迫ることを目的とする。
葛西晴胤の人物像を理解するためには、まず彼が率いた葛西氏そのものが抱える歴史的複雑性を把握する必要がある。葛西氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲み、下総国葛西荘(現在の東京都葛飾区周辺)を本貫とする武士団である 14 。その祖とされる葛西清重は、源頼朝の挙兵に早くから従い、源平合戦や奥州合戦で軍功を挙げた。戦後、その功績により奥州惣奉行に任じられ、陸奥国に広大な所領を得たことで、葛西氏は東北地方に確固たる基盤を築いた 5 。
しかし、その後の葛西氏の歴史、特に室町時代から戦国時代にかけての系譜は不明な点が多い。研究者の間では、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、葛西氏の本拠地を巡って、太平洋岸の港湾都市・石巻を拠点とする系統(石巻系)と、内陸の要衝・寺池(登米)を拠点とする系統(寺池系)に分裂していた可能性が指摘されている 13 。この内部的な分裂が、後の戦国期における家督争いや、現代に伝わる系図の混乱の一因となったと考えられる。
前述の通り、葛西氏宗家の滅亡後にその子孫たちがそれぞれ独自の家伝や系図を作成したため、歴代当主の名前や順序、事績に至るまで、整合性を取ることが非常に困難な状況が生まれている 13 。このため、葛西晴胤に関する記述も、どの系統の史料に基づくかによって大きく内容が異なる。彼の生涯を追うことは、この史料の迷宮を解き明かす作業そのものであると言える。
葛西晴胤の出自、すなわち彼が誰の子であったかという根本的な問いに対して、史料は二つの全く異なる答えを提示している。この論争こそが、晴胤という人物を理解する上での最大の鍵である。
第一の説は、晴胤が葛西氏第14代当主・葛西晴重(別名:稙信)の次男として生まれ、初名を「高信」といったとするものである 20 。この説は、晴胤を葛西氏の正統な血筋を継ぐ者として位置づける。
この説の論拠の一つとして、偏諱(主君などから名前の一字を賜ること)の慣習が挙げられる。彼の父とされる晴重(別名:稙信)や兄・守信(別名:稙清)が室町幕府第10代将軍・足利義稙から「稙」の字を、そして晴胤自身が初名の「高信」として第11代将軍・足利義高(後の義澄)から「高」の字を賜ったとする見方がある。しかし、これは将軍の在位期間と人物の活動時期との間に矛盾が生じるため、そのまま受け入れることは難しい 20 。この説は主に、旧葛西領の北方を支配し、後に葛西氏の旧臣を多く抱えた南部藩(盛岡藩)に伝わった系図に見られる傾向がある 20 。
第二の説は、晴胤が伊達氏の出身であるとする、より複雑で劇的なものである。当時、伊達氏第14代当主の伊達稙宗は、多くの子女を周辺大名の養子や配偶者として送り込む「婚姻・養子政策」によって、南奥羽に一大勢力圏を築き上げていた 8 。この説によれば、稙宗は七男・牛猿丸を葛西晴重の養子として送り込み、この牛猿丸が後に第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け「晴清」または「晴胤」と名乗った、すなわち
葛西晴胤と葛西晴清は同一人物 であるとする 24 。
この説は複数の系図において「晴胤(牛猿丸。葛西晴重の養子=晴清カ)」といった注記が見られることから、古くから存在したことが確認できる 15 。特に、葛西氏旧領の南半分を継承した仙台藩(伊達藩)に伝わる系図では、この説が有力視されている 20 。
この説を強力に裏付けるのが、会津地方で発見された古文書『塔寺八幡宮帳帖』の記述である。そこには、享禄元年(1528年)頃、伊達・芦名連合軍が葛西氏を攻め、当時の当主・稙清(守信か)を討ち、伊達からの養子・牛猿丸(史料では尚清=晴清)を後継者として据えた後、この牛猿丸が「葛西晴胤として伊達家と葛西家の掛け橋となった」という、両説を繋ぐような非常に興味深い記録が存在する 29 。これは、晴胤の家督継承が単なる平和的なものではなく、伊達氏による強力な軍事的・政治的介入の結果であった可能性を強く示唆している。
この出自を巡る二つの説の並立とそれに伴う記録の混乱は、単なる史料の散逸や誤記の結果としてのみ捉えるべきではない。これは、16世紀前半の葛西氏が置かれた政治的力学、すなわち**「伊達氏による強力な浸透・支配」と「それに抗い、自立性を維持しようとする葛西氏内部の抵抗」という二つの巨大な政治的圧力の相克**が、一人の当主の人物像の上に投影された結果と解釈できる。
伊達稙宗の養子政策は、周辺大名を事実上の支配下に置くための強力な手段であった 8 。葛西氏への養子送り込みもその一環であり、「伊達稙宗の子」説は、この伊達氏による支配の実態を色濃く反映している。一方で、「葛西晴重の子」説は、伊達氏の支配に抗い、葛西氏の血統的正統性と独立性を主張したい旧臣たちの願望や立場が反映されたものと考えられる。
したがって、晴胤の出自がどちらであったかという事実そのものを確定させること以上に、 二つの説が並存していること自体が、当時の葛西氏が伊達氏の従属国化の只中にあり、内部で深刻な緊張関係を抱えていたことの何よりの証拠 と言える。彼の生涯は、伊達氏の拡大戦略の最前線における、葛西氏の苦闘の物語そのものであった。
項目 |
説1:葛西晴重の子(高信) |
説2:伊達稙宗の子(晴清/牛猿丸) |
主な根拠史料 |
盛岡藩系系図 20 、『戦国人名事典』 20 など |
仙台藩系系図 20 、『龍源寺葛西氏過去帳』 26 、『塔寺八幡宮帳帖』 29 など多数 |
論拠 |
葛西氏の血統的正統性を継承。 |
伊達氏の養子政策の一環。将軍からの偏諱(晴)と幼名(牛猿丸)が複数の史料で結びつく。 |
矛盾点・課題 |
偏諱の時期に関する矛盾 20 。伊達氏からの強力な影響力を説明しきれない。 |
伊達稙宗の公式な子女リストに名がない 26 。なぜ「晴胤」と「晴清」という二つの名が並存するのか。 |
歴史的解釈 |
葛西氏の独立性を重視する立場を反映。 |
伊達氏による葛西氏支配の実態を反映。より多くの状況証拠と一致する。 |
晴胤の家督継承のプロセスもまた、彼の出自と同様に謎に満ちている。第14代当主・葛西晴重には、嫡男・守信(別名:稙清)がいた 20 。しかし、同時に伊達家から養子・晴清(牛猿丸)が送り込まれ、家督継承の権利を持つ存在として並び立っていた 21 。
ユーザーが提示した情報や一部の史料によれば、兄・守信と養子・晴清がともに早世したため、晴胤が家督を継いだとされている 21 。家督継承の時期は、葛西稙信(守信か)が没し、晴胤が太守となったとされる天文2年(1533年)頃と見られている 32 。
しかし、前述の『塔寺八幡宮帳帖』の記述を考慮に入れると、この継承劇は遥かに血生臭いものであった可能性が浮上する 29 。すなわち、伊達氏の軍事介入によって既存の当主(または後継者)が排除され、伊達の血を引く晴胤(=晴清)が当主の座に据えられた、というクーデターに近い形であった可能性である。この解釈に立てば、葛西晴胤の家督継承は、葛西氏が伊達氏の強い政治的・軍事的影響下に置かれたことを決定づける画期的な出来事だったと言えるだろう。
出自と継承の謎を乗り越え、葛西氏の当主となった晴胤は、戦国大名として領国支配の基盤固めに着手する。その統治は、中央の権威を利用し、拠点を革新することで、自らの支配の正統性と実効性を高めようとする、戦略的なものであった。
戦国時代の地方大名にとって、遠く離れた京都の室町幕府や朝廷の権威は、自らの支配を正当化するための重要なツールであった。晴胤もまた、この点を巧みに利用した。
家督相続後、晴胤は室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜り、「晴胤」と名乗った 20 。これは、当時の東北地方の大名が、献金などと引き換えに幕府の権威を借り、自らの領国支配を内外に示すための常套手段であった 9 。事実、近隣の有力大名である南部晴政なども同時期に義晴から偏諱を受けており、これは当時の東北における一つの政治的トレンドでもあった 9 。
さらに、ある系図によれば、晴胤と改名した年に勅使が上洛(京都へ帰還)したとの記述があり 33 、葛西氏が幕府と直接的なパイプを維持し、官位や偏諱を得ることで自らの権威を高めようとしていたことが窺える。伊達氏の強い影響下で家督を継いだ晴胤にとって、将軍という外部の最高権威との結びつきをアピールすることは、自らの立場の脆弱性を補い、領内の求心力を高める上で不可欠な戦略だったのである。
晴胤の治世における最も具体的かつ重要な政策が、本拠地の移転である。彼は、葛西氏の伝統的な本拠地であったとされる太平洋岸の石巻城から、内陸の登米(とよま)にある寺池城へと拠点を移した 20 。この移転は天文5年(1536年)のこととされている 32 。この決断には、多角的な戦略的意図が込められていた。
まず、地理的・経済的な合理性がある。寺池は広大な葛西領のほぼ中央に位置し、領国経営の心臓部である北上川流域を直接管理する上で、石巻よりも遥かに効率的な場所であった 32 。水陸交通の結節点でもあり、領国の経済的中心地としての発展も期待できた。軍事的に見ても、宿敵・大崎氏や北方の諸勢力に対する前線基地として、また、同盟者である伊達氏の支援を受けやすい位置として、戦略上も重要な意味を持っていた。城の構造自体も、戦乱の激化に対応した、より堅固で防衛的なものだった可能性が指摘されている 16 。
しかし、この本拠地移転は、単なる地理的・軍事的な合理性に基づくものではない。これは、 葛西氏内部に長年存在したとされる「石巻系」と「寺池系」の分裂に終止符を打ち、晴胤を中心とする新たな統一政権の樹立を内外に宣言する、極めて象徴的な政治事業 であった可能性が高い。伊達氏の介入という激しい政変を経て家督を掌握した晴胤の支配基盤は、当初、不安定であったと推測される。このような状況下で、旧来のどちらかの拠点に固執するのではなく、新たな中心地として寺池城を整備し本拠を移すことは、過去の対立を清算し、自らが葛西氏の唯一無二の支配者であることを明確に示す効果的な手段であった。この事業は、来るべき天文の乱という更なる動乱に備え、領国の内的な結束を固め、自らのリーダーシップを確立するための、計算された布石であったと解釈できる。
晴胤の統治下における葛西氏の支配体制は、鎌倉時代以来の奥州惣奉行としての権威を背景としつつも、実態は有力な国人領主(家臣)たちとの連合政権に近い側面を持っていた 37 。当主の権力は絶対的なものではなく、有力家臣の動向に大きく左右される、脆弱な構造を内包していた。
特に、胆沢郡を拠点とする柏山氏 40 や、小野寺氏 13 といった重臣たちは、半ば独立した勢力として存在していた。後に詳述する天文の乱において、これらの家臣団が晴胤と異なる陣営に与したことは 42 、晴胤の家臣団掌握が決して盤石ではなかったことを雄弁に物語っている。彼の治世は、常に内部の分裂リスクを抱えながらの、困難な領国経営であったと言えるだろう。
晴胤の治世のハイライトであり、最大の試練となったのが、天文11年(1542年)に勃発した伊達家の内紛、いわゆる「天文の乱」である。この乱は、葛西氏を否応なく巻き込み、その存亡を揺るがす事態へと発展した。
天文の乱は、伊達氏第14代当主・伊達稙宗の急進的な領国集権化策と、三男・時宗丸を越後守護・上杉定実の養子として送り込む計画に、嫡男・伊達晴宗とそれに同調する家臣団が猛反発したことに端を発する。天文11年(1542年)、晴宗は父・稙宗を居城の桑折西山城に幽閉するという実力行使に出た 22 。
この事件は伊達家内に留まらなかった。稙宗は間もなく救出され、姻戚関係などを通じて周辺の大名に支援を要請。結果として、大崎、相馬、蘆名、最上、そして葛西といった南奥羽の有力大名のほとんどが稙宗方と晴宗方に二分され、互いに争う大規模な争乱へと発展したのである 22 。
この南奥羽全土を揺るがす大乱において、葛西晴胤は極めて困難な立場に置かれた。乱が始まると、晴胤は、実父(または養父の父)である伊達稙宗の側に立って参戦した 22 。これは、自身の出自の経緯や、同じく稙宗方についた隣国・大崎氏との協調関係などが理由と考えられ、自然な選択であった。
しかし、晴胤のこの選択は、葛西領内を二分する深刻な内戦を引き起こした。まず、葛西領北方を支配する有力家臣・柏山氏らは、晴胤とは逆に伊達晴宗方に与し、公然と主家と敵対した 41 。これにより、葛西領は当主と有力家臣が互いに干戈を交える内戦状態に陥った。さらに、史料の混乱が見られる部分ではあるが、「晴胤≠晴清」説に立てば、伊達稙宗の子・葛西晴清も父と同じ稙宗方として参戦したにもかかわらず、なぜか晴宗方に与した晴胤と領内で抗争を繰り返した、という複雑な記述も存在する 24 。これは、葛西氏内部に二人の当主候補が並立し、それぞれが伊達家の内乱の代理戦争を戦ったという、極度の混乱状態を示唆しているのかもしれない。
乱は長期化し、当初優勢であった稙宗方の勢いは、諸将の離反などにより次第に衰えていった 22 。この戦局の変化を冷静に見極めた晴胤は、天文17年(1548年)頃、大きな決断を下す。すなわち、それまで敵対していた伊達晴宗方へと立場を変更したのである 42 。
この晴胤の晴宗方への転向は、単なる日和見主義や裏切りとして片付けられるべきではない。これは、 分裂し内戦状態に陥った自領を再統一し、葛西氏全体の存続を最優先するための、極めて合理的かつ戦略的な政治判断 であったと評価できる。稙宗方に留まり続けることは、領内の最有力家臣である柏山氏との敵対関係を永続させ、葛西氏の国力を無為に消耗させるだけであった。また、乱の趨勢は明らかに晴宗方に傾いており、敗者側に付けば、葛西氏そのものが伊達氏によって滅ぼされる危険性すらあった。ここで優勢な晴宗方に付くことで、敵対していた柏山氏ら家臣団との和解の道を開き、領内を再統一する。そして、新たな伊達氏当主となる晴宗との間に良好な関係を築き、葛西氏の安泰を確保する。この一連の動きは、伊達家への忠誠心の問題ではなく、 葛西家当主としての統治責任から導き出された、一族の生存を賭けた最善の選択 だったのである。
登場人物 |
初期(1542年~)の動向 |
終盤(~1548年)の動向 |
葛西晴胤 |
稙宗方 に与する 22 。領内の晴宗方勢力(柏山氏など)と交戦。 |
晴宗方 に転向 42 。乱の終結に貢献。 |
葛西晴清 |
稙宗方 として参戦 24 。晴胤と対立したとされるが、詳細は不明。天文16年(1547年)に死去 24 。 |
― |
柏山氏 |
晴宗方 に与する 42 。主君・晴胤と敵対し、葛西領内で戦闘。 |
引き続き晴宗方。晴胤の転向により和解か。 |
天文17年(1548年)9月、室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介もあり、伊達稙宗が家督を晴宗に譲って隠居することで、6年以上にわたる大乱は終結した 23 。
この乱は葛西氏に大きな影響を及ぼした。乱の終結後、葛西氏は伊達氏にとって「肉親的存在」と見なされるようになり、関係が一時的に安定したとされている 47 。これは、最終的に勝利者である晴宗の側に付いた晴胤の政治判断が功を奏したことを示している。しかし、この乱を通じて伊達氏の南奥羽における支配力はより一層強固なものとなり、葛西氏の伊達氏への従属的地位もまた、決定的なものとなったと言えるだろう。乱で疲弊した国力の回復と、新たな伊達氏当主・晴宗との関係構築が、晴胤の晩年における最重要課題となったのである。
天文の乱という大動乱を乗り越えた葛西晴胤は、その晩年を、傷ついた領国の再建と、次代への継承に費やしたと考えられる。
天文の乱後の晴胤の具体的な活動に関する記録は乏しい。しかし、分裂した領内の再建と、新たな伊達氏当主・晴宗との関係安定に注力したことは想像に難くない。事実、天文21年(1552年)から22年(1553年)頃にも、伊達氏の要請に応じて黒石(現在の岩手県奥州市水沢黒石町)周辺の合戦に出陣したことを示唆する書状が残っており 48 、伊達氏との協調路線を継続していたことがわかる。
晴胤の没年には複数の説が存在し、これもまた葛西氏史料の混乱を象徴している。
いずれの説を採るにせよ、晴胤は天文の乱終結後、数年から10年弱の間にその生涯を閉じたことになる。
晴胤の血脈は、二人の息子によって次代へと繋がれた。晴胤の死後(弘治元年説を採る)、家督は長男の親信(ちかのぶ)が継承した 7 。親信の生母は江刺氏の娘とされている 7 。
しかし、親信は病弱であったと伝えられ、家督を継いでからわずか5年後の永禄3年(1560年)に病死してしまう 7 。この短い治世の間も、宿敵・大崎氏との抗争は続いていた 7 。
親信には嗣子がいなかったため、年の離れた実弟である晴信(はるのぶ)が、兄の養子という形で家督を継ぎ、葛西氏第17代当主となった 7 。晴信の生母は黒川景氏の娘とされ、親信とは異母兄弟であったことになる 52 。この晴信こそが、豊臣秀吉の奥州仕置によって改易される、葛西氏最後の当主である。
晴胤から親信、そして晴信へと続くこの家督継承は、葛西氏が歴史の表舞台から姿を消すまでの、最後の安定期を築いた。葛西晴胤が天文の乱という大動乱を乗り越え、再構築した葛西氏の支配体制は、彼の死後、息子の晴信の代まで約30年間にわたって維持されたのである。
葛西晴胤の生涯は、彼の出自を巡る根源的な謎、北の巨人・伊達氏の強大な影響力、そして南奥羽全土を巻き込んだ天文の乱という、幾重もの困難と動乱の渦中にあった。彼は、戦国時代の東北地方における「境目の大名」が直面した典型的な苦悩を体現した人物と言える。
統治者としての晴胤は、二つの側面から評価できる。彼の最大の功績は、第一に、寺池城への本拠地移転 20 を通じて、分裂していた可能性のある一族を統合し、戦国大名としての葛西氏の支配基盤を再構築した点にある。第二に、天文の乱という未曾有の危機において、最終的に勝利者側につくという冷徹な政治判断によって一族の滅亡を回避し、次代へと繋いだその戦略的手腕は高く評価されるべきである 47 。
一方で、彼の治世は伊達氏への従属を決定的に深める過程でもあった。また、天文の乱で露呈した家臣団の離反は、彼の領国統制が決して盤石ではなかったことを物語っている。伊達氏という外部の力なくしては、自領の統一すらままならないという、戦国大名としての脆弱性を終生抱え続けていた。
葛西晴胤は、単なる一地方の武将に留まらない。彼の生涯を追うことは、伊達氏の巨大な影の下で、名門一族がいかにして自家の独立と存続のために苦闘したか、そのリアルな姿を浮き彫りにする。そして、彼の出自や行動を巡る史料の錯綜自体が、当時の葛西氏が置かれた複雑な政治的立場を、後世の我々に雄弁に物語っているのである。彼は、記録の断片の中に、戦国東北史のダイナミズムを凝縮した、謎多き、しかしながら極めて重要な人物として、その名を歴史に刻んでいる。