陸奥国(現在の岩手県南部から宮城県北部)に四百年にわたり君臨した名門、葛西氏。その長大な歴史の中で、第十六代当主として名を刻む葛西親信(かさい ちかのぶ)は、ひときわ謎に包まれた存在である。後世の記録に残るのは、「病弱にして、治世わずか五年で病没した」という、あまりにも断片的な人物像に過ぎない 1 。その短い治世には特筆すべき事績が見当たらず、弟であり後継者でもある葛西晴信の活躍の影に隠れ、歴史研究の俎上に上ることは稀であった。
しかし、一人の武将の記録の乏しさは、必ずしもその人物の無能や無為のみを意味するものではない。むしろ、その記録の欠如自体が、彼が生きた時代の困難さや、彼が率いた一族が抱える構造的問題を雄弁に物語る、重要な「史料」となりうる。
本報告書は、この歴史の狭間に埋もれた当主、葛西親信の生涯を、彼を取り巻く一族の宿痾、そして奥州戦国史の激動という二つの大きな文脈の中に位置づけ、その実像に迫ることを目的とする。親信個人の伝記的情報を丹念に拾い上げると同時に、葛西氏の系譜問題、周辺勢力との力関係、脆弱な権力基盤といった複合的な要因を分析することで、彼の短い治世が持つ歴史的意味を再評価し、その人物像を立体的に再構築する試みである。
葛西親信の生涯を理解するためには、まず彼が背負った「葛西氏」という一族の成り立ちと、その内部に深く根差した構造的問題を解き明かす必要がある。一見安定した名門に見える葛西氏だが、その内実には系譜の混乱と権力闘争の歴史が刻まれていた。
葛西氏は、桓武平氏秩父氏流の一門である豊島氏を祖とし、下総国葛西庄(現在の東京都葛飾区周辺)を本貫地とする鎌倉以来の名門武家である 3 。初代・葛西清重が源頼朝の奥州合戦で武功を挙げ、奥州惣奉行に任じられたことで、陸奥国に広大な所領を得て、その勢力の礎を築いた 3 。
しかし、葛西氏の研究を進める上で最大の障壁となるのが、その系譜の著しい混乱である。現存する葛西氏の系図は、主に伊達氏に仕えた家系が伝えた「仙台系」と、南部氏に仕えた家系が伝えた「盛岡系」に大別され、両者の記述には歴代当主の名から生没年に至るまで、大きな異同が見られる 6 。この食い違いは、単なる記録の誤りや伝承の過程で生じた差異とは考え難い。むしろ、室町時代から戦国時代にかけて、石巻を拠点とする系統と登米の寺池を拠点とする系統とが並立し、それぞれが自らの正当性を主張するために独自の系図を作成・伝承した、一族内部の権力闘争の痕跡と見るべきである 3 。
この系譜問題は、単なる史料上の課題に留まらない。それは、葛西氏が鎌倉時代から抱えていた一族内の分立傾向と、戦国期における惣領家の権力基盤の脆弱さを象徴する「歴史的現象」そのものである。天正年間に葛西氏が滅亡した後、伊達家や南部家に仕えた庶子家によってさらに多くの系譜が作成された事実も、この推論を裏付けている 3 。親信が家督を継いだ十六世紀半ばにおいても、この構造的な問題は宿痾として葛西氏の屋台骨を揺るがし続けていたのである。
親信の父は、葛西氏第十五代当主・葛西晴胤(高信とも)である 3 。晴胤は室町幕府第十二代将軍・足利義晴から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け「晴胤」を名乗っており、中央権威との結びつきを通じて自らの権威を高めようとしていたことが窺える 3 。
晴胤の治世における最大の画期は、南奥州の勢力図を塗り替えた伊達氏の内乱「天文の乱」(1542-1548年)への関与であった。この乱は、伊達氏当主・稙宗とその嫡男・晴宗の父子間の対立に、奥州の諸大名が二分して加わった大規模な争乱であった。葛西晴胤は、婚姻関係などを通じて伊達稙宗方に与したが、六年に及ぶ戦いの末、最終的に勝利を収めたのは晴宗方であった 10 。
この敗北は、次代の親信に重い負の遺産を残すことになった。親信が家督を継いだのは、天文の乱終結からわずか七年後の弘治元年(1555年)である。彼は父から家督と共に、「敗者側」という極めて不利な外交的立場をも継承せねばならなかった。乱の勝者である伊達晴宗は、親信の治世が始まるのとほぼ時を同じくして奥州探題に任じられ、南奥州の覇者としての地位を確立する 11 。親信の治世は、この強大な伊達晴宗との困難な関係性の再構築から始めなければならず、その行動は著しく制約されることとなったのである。
親信の生涯を複雑にするもう一つの要因は、その家族構成にある。各種系図を照合すると、親信の生母は江刺氏の一族である江刺隆見の娘である一方、後に家督を継ぐことになる弟・晴信の生母は黒川景氏の娘であったことがわかる 2 。
この事実は、葛西家中に潜在的な対立の火種が存在したことを強く示唆している。江刺氏も黒川氏も、葛西領内の有力な国人領主であった。嫡男である親信と、その弟である晴信が、それぞれ異なる有力な外戚(母方の親族)を持っていたことは、家中に「親信派(江刺派)」と「晴信派(黒川派)」という二つの派閥が形成される土壌となった可能性が高い。
後述するように、親信の死後、弟の晴信は実弟でありながら「養子」という不自然な形式で家督を継いでいる 1 。この不可解な継承劇の背景には、この外戚を巻き込んだ家中の権力闘争が存在したと考えるのが自然であろう。親信の「病弱」と早世は、この派閥抗争の末に晴信派が勝利を収めた結果である可能性も否定できない。親信の生涯を理解する上で、この家中に渦巻く権力力学は看過できない重要な視点である。
葛西親信の人物像を確定する上で、その生没年に関する情報の錯綜は大きな問題となっている。主要な史料や研究によって提示される説は異なり、それぞれが示唆する歴史的背景も大きく異なる。
史料/典拠 |
生年 |
没年 |
享年 |
備考 |
Wikipedia 2 |
永正10年(1513年)? |
永禄3年4月11日(1560年)? |
48? |
最も一般的に流布している説。壮年の当主像を提示する。 |
『戦国人名事典』 1 |
天文16年(1547年) |
永禄10年(1567年) |
21 |
この場合、父・晴胤の死(1551年または1555年)の時点で4歳か8歳の幼君となる。 |
『葛西氏家譜』 34 |
(逆算で1514年頃) |
永禄3年4月11日(1561年) |
48 |
Wikipedia説と酷似するが、没年が1年異なる。 |
『源光寺過去帳』 33 |
不明 |
永禄3年4月11日(1560年) |
不明 |
没日は一致するが、法名を「周行寺殿相山道円大居士」と伝える。 |
この情報の混乱自体が、葛西氏に関する記録の不確かさを示している。特に注目すべきは、阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』が提示する天文16年(1547年)生誕説である 1 。この説に従うならば、親信は父の死に際してわずか数歳の幼児であり、家督を継いだとしても実権のない傀儡の当主であったことになる。彼の治世に「さしたる事跡も残せぬまま」という評価は、この仮説によってある程度説明が可能となる。一方で、永正10年(1513年)生誕説では、彼は壮年期に当主として君臨したことになり、その無為は別の要因、すなわち政治的力量の欠如や、彼を取り巻く内外の困難な状況に求められることになる。本報告書では、後者の視点に立ち、彼が直面したであろう具体的な課題を分析していく。
葛西親信が家督を相続した弘治年間(1555-1558年)は、奥州の政治情勢が大きく変動した時期であった。強大な隣人・伊達氏の台頭、宿敵・大崎氏との終わりの見えない抗争、そして自らの足元を揺るがす家臣団の問題など、親信は四面楚歌ともいえる状況の中で領国経営の舵取りを迫られた。
親信が当主となった弘治元年(1555年)、伊達晴宗は室町幕府から奥州探題に任じられた 11 。これは、長年にわたり探題職を世襲してきた大崎氏の権威が完全に失墜し、伊達氏が名実ともに南奥州の覇者となったことを天下に示す画期的な出来事であった。天文の乱を通じて伊達氏の支配からは一定の自立性を回復したとはいえ 12 、葛西氏はこの新たな国際秩序の中で、巨大化した伊達氏との関係を慎重に見極めながら、生き残りを図らねばならないという厳しい現実に直面していた。伊達氏の動向一つで、葛西氏の運命が左右されかねない、極めて不安定な力関係の中に親信は置かれていたのである。
親信の短い治世は、父の代から続く宿敵・大崎氏との抗争に明け暮れたと伝えられている 2 。この争いは、単に隣接する両氏間の領土紛争という側面だけでは捉えきれない。その背景には、奥州の覇者となった伊達氏の存在が大きく影を落としていた。
天文の乱において、葛西氏も大崎氏も伊達氏の内部抗争に巻き込まれ、それぞれ稙宗方、晴宗方に分かれて戦った 10 。この構造は乱後も色濃く残り、両氏の内部には依然として親伊達派と反伊達派の対立が存在した。天文13年(1544年)には、同じ稙宗派に属していたはずの葛西氏と大崎氏の間で争いが起こり、伊達家の家臣が仲介に入って和睦させたという記録もある 15 。
このことから、親信の代における葛西・大崎間の抗争は、伊達氏の覇権確立後の南奥州における勢力圏再編の過程で生じた、より大きな地政学的ゲームの一環であったと見なすことができる。伊達氏が直接的な軍事介入を避ける一方で、両氏を巧みに争わせることで双方を疲弊させ、結果的に自らの影響力を維持・拡大しようとした可能性は十分に考えられる。親信は、この巨大な権力力学の中で、自らの意思とは別に動かざるを得ない駒として、苦しい立場に立たされていたのである。
親信が直面した困難は、対外的な問題だけではなかった。彼の権力を足元から揺るがしていたのは、葛西氏の内部構造そのものであった。葛西氏の領国支配は、当主の絶対的な権力によって中央集権的に行われていたわけではなく、郡規模の広大な領域を支配する有力家臣団との連合体に近い性格を持っていた 16 。
特に、胆沢郡を支配した柏山氏や、江刺郡を領した江刺氏などは、単なる家臣というよりも半ば独立した領主であり、主家である葛西氏以上の勢力を持つこともあった 17 。彼らは葛西氏の軍事力を支える重要な存在であったと同時に、独自の判断で行動し、時には主家の意向に反することも辞さない、統制の難しい存在でもあった 18 。
親信が治世において強力なリーダーシップを発揮し、大きな事績を残せなかった背景には、こうした有力家臣団を完全に掌握しきれなかったという「権力基盤の脆弱さ」が根底にあったと考えられる。家臣は当主の政策を支える柱であると同時に、その権力を常に制約する重石でもあった。この構造的な問題は、後の葛西・大崎一揆において柏山氏が中心的な役割を果たすという形で、葛西氏滅亡の直接的な要因の一つとなっていくのである 19 。
対外的にも対内的にも極めて困難な状況下で始まった葛西親信の治世は、わずか五年という短さで幕を閉じる。史料に残る彼の具体的な行動は乏しいが、その「無為」とも見える治世を、彼が置かれた状況と葛西氏の領国経営の実態から多角的に分析することで、その歴史的意味を考察する。
父・晴胤の死を受け、親信は弘治元年(1555年)に葛西氏第十六代当主として家督を相続した(異説あり) 2 。この時点で葛西氏は、北は岩手県南部から南は宮城県北部に至る、北上川流域を中心とした広大な領土を支配していた 3 。その本拠地は、登米郡の寺池城(現在の宮城県登米市)に置かれていた 21 。
しかし、この寺池城は、戦国大名の本拠としては規模が小さく、防御機能にも疑問が呈されている 23 。より大規模な保呂羽館が本来の居城であったとする説もあり、寺池城が主たる居城であったことは、葛西氏の求心力や軍事力の限界を示す一端であった可能性も指摘されている 23 。広大な領土とは裏腹に、その支配体制は盤石とは言い難い状況であった。
親信について語られる数少ない伝承が、「病弱であった」というものである 1 。この「病弱」という評価が、彼の事績の乏しさを説明する根拠として用いられてきた。
しかし、この「病弱」という記述を、文字通り医学的な事実としてのみ受け取るのは早計であろう。歴史上、政治的に無力であったり、家中の主導権を握れなかったりした当主に対し、後世の歴史家、特にその後継者側の立場に立つ者が、その無為を正当化し、家督交代の必然性を強調するために「病弱」というレッテルを貼ることは、しばしば見られる手法である。
親信の場合、彼が実際に身体的に弱かった可能性は否定できない。しかし、それ以上に、彼が置かれた政治的状況の困難さを考慮する必要がある。前章で述べたように、彼は、
という三重の苦境に立たされていた。これらの複合的な要因によって政治的に身動きが取れず、有効な手を打てなかった「無力な」当主であった実態を、後世の記録が「病弱」という一語に集約して表現したと解釈することも可能である。彼の「事績のなさ」は、個人の資質の問題以上に、時代の構造がもたらした必然であったのかもしれない。
戦国大名にとって、領国経営と経済基盤の安定は、軍事力維持の生命線であった。葛西氏の経済基盤は、広大な領内から徴収される年貢米が中心であったと考えられる 24 。それに加え、領国の中央を貫流する北上川の存在は、葛西氏にとって大きな意味を持っていた。北上川舟運は、年貢米や奥州の特産物を沿岸の湊へ、そして中央市場へと運ぶ大動脈であり、葛西氏はその物流を支配することで、関銭や湊からの商業的利益を得ていたと推測される 5 。
また、古来より奥州の特産物として知られる馬や金も、葛西氏の財政を支える重要な要素であった可能性がある 29 。特に金は、軍資金として、また中央の権力者への進物として、外交上も重要な役割を果たした 32 。これらの交易を通じて、葛西氏は他地域との経済的結びつきを維持していたと考えられる。
しかし、親信の五年間の治世において、こうした経済基盤を積極的に強化するような、新田開発や商業振興策といった特筆すべき内政手腕が発揮されたという記録は、現在のところ見当たらない。これは、彼の治世が常に対外的・内的な政治・軍事問題への対処に追われ、腰を据えた領国経営に力を注ぐ余裕が全くなかったことの証左と言えよう。
内外に山積する課題に有効な手を打てぬまま、親信の治世は突如として終わりを迎える。彼の死と、それに続く弟・晴信による家督継承の過程は、多くの謎を含んでおり、葛西氏内部の権力闘争が最も先鋭化した瞬間であったことを物語っている。
諸記録によれば、葛西親信は永禄3年(1560年)4月11日に病死したとされる 2 。生年を永正10年(1513年)とする説に従えば享年48、天文16年(1547年)説ならば享年14(満13歳)となるが、本稿で採用する壮年当主像に基づけば、働き盛りでの早すぎる死であった。
親信には実子がおらず、家督は年の離れた異母弟の晴信が継承した 1 。晴信は当初「信清」と名乗っていたが、家督相続後に「晴信」と改名している 34 。重要なのは、複数の史料が、彼が単に弟として家督を継いだのではなく、兄・親信の「養子」となって継承したと記している点である 1 。
実の弟が、なぜわざわざ「養子」という形式を取らなければならなかったのか。この不自然な手続きは、晴信の家督継承が決して平穏無事なものではなかったことを示唆している。この背景には、いくつかの可能性が考えられる。第一に、親信派の家臣、特に彼の母方の実家である江刺氏などが、母の違う晴信(黒川派)の継承に強く反対した可能性。第二に、家督継承に際し、外部の有力者、すなわち伊達氏の介入があり、その調停の結果として「養子」という形式が取られた可能性である 35 。
いずれにせよ、「養子」という形式は、晴信派が反対勢力を抑え込み、自らの家督継承の正当性を内外に示すための、極めて政治的・法的な意味合いを持つ手続きであったと解釈できる。これにより、親信の血筋(江刺派)による家督は一代で途絶え、新たに晴信(黒川派)の系統が葛西氏の正統となることを宣言する、一種のクーデターに近い権力移譲であった可能性すら否定できない。この継承劇は、葛西氏内部の対立の根深さを浮き彫りにしている。
家督を継いだ晴信の最初の行動は、その政治的洞察力を示すものとして注目に値する。彼は、親信が没したわずか13日後の永禄3年(1560年)4月24日付で、「亡き親(養父)である石見守親信」の菩提を弔うため、伊沢郡の永徳寺に寺領を寄進する安堵状を発給している 36 。
この迅速な寄進行為は、単なる追善供養に留まらない、高度な政治的意図を内包したパフォーマンスであったと考えられる。第一に、兄(養父)の菩提を丁重に弔う姿を見せることで、自らが親信の正当な後継者であることを家臣や領民に強くアピールする狙いがあった。第二に、寺社という宗教的権威を自らの治世の正統性補強に利用しようとする意図があった。そして第三に、親信派の家臣たちの不満を和らげ、家中の融和を図る目的もあったであろう。
この家督相続直後の巧みな一手は、兄・親信とは対照的な、晴信のしたたかな政治感覚を物語っている。彼は、自らの権力基盤が不安定であることを深く認識し、それを補強するために宗教的・文化的権威を巧みに利用したのである。この行動は、葛西氏が新たな時代に入ったことを象徴する出来事であった。
本報告書を通じて行われた多角的な分析の結果、葛西親信の人物像は、従来語られてきた「病弱なだけの悲運の当主」という一面的な評価から、より複雑で多層的なものとして浮かび上がってくる。彼の生涯と短い治世は、一個人の資質の限界というよりも、彼が背負わされた歴史的宿命の重さを物語っている。
親信は、一族が長年にわたり抱えてきた構造的な脆弱性、すなわち系譜の分裂に象徴される求心力の欠如、家中の派閥争い、そして柏山氏のような有力家臣団の存在という内部要因と、天文の乱以降の伊達氏の覇権確立という、抗いがたい外部環境の激変の狭間で、極めて困難な舵取りを強いられた。彼の治世に目立った事績が見られないのは、これらの内外の圧力によって政治的に身動きが取れなかった結果であり、彼の「無力」は、そのまま葛西氏が置かれた状況の厳しさを反映している。
その意味で、葛西親信という人物は、戦国大名としての葛西氏が生き残るために必要であった中央集権的な権力構造の確立や、変化する国際情勢への柔軟な対応といった課題を、ついに克服できなかったことを象徴する「鏡」であったと言える。彼の存在は、その事績の少なさゆえに、かえって戦国末期における奥州の中堅大名の苦悩と悲哀を、我々に雄弁に物語ってくれるのである。
親信の早世と、弟・晴信による不自然な形での家督継承は、すでに始まっていた葛西氏という名門の「黄昏」を決定づける分水嶺であった。この権力移譲を経て、葛西氏は一時的な安定を取り戻すかに見えたが、根本的な構造問題は解決されぬまま、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置と、それに続く葛西・大崎一揆という最終的な破局へと向かう、不可逆的な流れの中にあった。葛西親信の生涯は、その終焉へと至る長い物語の中の、短くも重要な一齣として、歴史の中に位置づけられるべきであろう。