最終更新日 2025-06-16

蒲生定秀

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蒲生定秀:六角家を支え、蒲生家発展の礎を築いた知勇兼備の将

戦国時代の近江国に、蒲生定秀(がもう さだひで)という武将がいた。彼は、名将・蒲生氏郷の祖父として、また南近江の雄・六角氏の宿老としてその名を知られる。しかし、彼の生涯は単なる一介の勇将や忠臣という言葉では語り尽くせない。武勇に優れ、領国経営に才を発揮し、主家の内乱を収拾する政治力を持ち合わせ、時代の転換期を的確に読み解き一族を繁栄へと導いた。本報告書は、蒲生定秀という人物の生涯を多角的に検証し、彼が戦国史において果たした役割と、その真の姿に迫るものである。

表1:蒲生定秀 略年表

西暦

和暦

年齢(数え)

主要な出来事

1508年

永正5年

1歳

近江国蒲生郡にて、蒲生高郷の子として誕生 1

1531年

享禄4年

24歳

箕浦河原の合戦で浅井亮政軍と戦い、大功を挙げる。主君・六角定頼より感状と太刀「雲次」を賜る 3

1533年

天文2年

26歳

音羽城から中野城(日野城)へ拠点を移し、築城と城下町の整備を開始する 4

1549年

天文18年

42歳

六角氏の援軍として摂津国に出陣し、三好長慶と戦う 6

1558年

永禄元年

51歳

出家し、快幹軒宗智と号する 6

1560年

永禄3年

53歳

野良田の戦いで六角軍の先鋒を務めるも、浅井長政に敗れる 7

1562年

永禄5年

55歳

六角家の家臣でありながら、独自に徳政令を発布する 6

1563年

永禄6年

56歳

観音寺騒動が勃発。主君・六角義治を保護し、家中の調停に尽力する 6

1568年

永禄11年

61歳

織田信長の上洛軍に対し、日野城に籠城して抵抗。その後、説得に応じて降伏し、孫の鶴千代(氏郷)を人質に出す 4

1579年

天正7年

72歳

4月22日、日野にて死去 1


序章:戦国近江と蒲生一族の黎明

蒲生定秀の生涯を理解するためには、まず彼が生まれた時代の近江国と、蒲生一族が置かれた状況を把握する必要がある。

蒲生氏の出自と近江での基盤形成

蒲生氏は、天慶の乱(940年)で平将門を討伐した藤原秀郷を祖と称する、藤原北家の流れを汲む名門とされる 10 。鎌倉時代には近江国蒲生郡に根を下ろし、現地の国人領主として勢力を扶植していった 10 。ただし、近江に関連する諸家の系図には、後世の創作や潤色が加えられている可能性も指摘されており、史料上で確実に動向を追えるのは15世紀初頭の蒲生秀兼以降とされている 12

定秀の父である蒲生高郷の時代、蒲生一族は内部に対立を抱えていた。本家は近江守護である六角氏と敵対する姿勢を見せていたが、高郷は分家として、主家である六角氏との連携を深める道を選んだ 13 。この政治的判断は、蒲生家の将来にとって決定的な意味を持つことになる。高郷と定秀の父子は、六角氏当主・定頼の信頼を勝ち取り、定秀は六角家の重臣である馬淵山城守の娘を妻に迎えることで、主家における地位を盤石なものとした 1

この父・高郷の戦略的な選択がなければ、定秀が六角家中で重臣としての地位を築き、その類稀なる才能を発揮する舞台は整わなかったであろう。一族内の対立を乗り越えてでも、地域の最大権力者である守護大名との連携を強化するという高郷の現実的な政治判断こそが、定秀、そして後の氏郷の代における蒲生家飛躍の源泉となったのである。

第一章:六角家臣としての台頭 ―定頼・義賢二代に仕えた武勇―

六角氏の家臣として、蒲生定秀はまずその卓越した武勇によって頭角を現した。主君である六角定頼、そしてその子・義賢の二代にわたり、軍事の中核として数々の戦場でその名を馳せたのである。

若き日の定秀と主君・六角定頼の信頼

永正五年(1508年)に生まれた定秀は、通称を藤十郎と称した 1 。若くして父・高郷と共に六角定頼に仕え、その武勇と知略は早くから定頼に高く評価されていた 14 。定頼は定秀を深く信頼し、六角軍の先鋒という最も重要な役割を度々任せている 7 。この信頼関係は、定秀が単なる一武将ではなく、主君の戦略を理解し実行できる将であったことを示唆している。

武勇の証明:箕浦河原の合戦と各地での戦功

定秀の武名を天下に知らしめたのが、享禄四年(1531年)の「箕浦河原の合戦」である。この戦いで六角軍は、北近江で勢力を拡大する浅井亮政の軍と激突した。定秀は六角軍の最前線である岩脇に布陣し、鶴翼の陣形の要として浅井軍の猛攻を一身に受け止める役割を担った 15 。戦況が膠着し、味方の士気が下がり始めると、定秀は自ら槍を手に前線に躍り出て兵を鼓舞。凄まじい勢いで敵兵を薙ぎ倒し、敵将の北河又五郎をはじめとする29の首級を挙げるという獅子奮迅の働きを見せた 3 。この戦功により、主君・定頼から直々に感状と名刀「雲次」を賜るという最高の栄誉に浴した 3

定秀の活躍はこれに留まらない。天文十八年(1549年)には主家の援軍として摂津国へ赴き、畿内の実力者・三好長慶と矛を交えた 6 。永禄二年(1559年)には、長年の宿敵である浅井氏の属城・佐和山城を攻めるなど、六角家の軍事行動において常に中心的な役割を果たした 6

一方で、定秀は単なる猛将ではなかった。永禄三年(1560年)の「野良田の戦い」では、六角軍の先鋒を務めるも、浅井長政の巧みな戦術の前に苦杯を嘗める 7 。この敗戦は、六角家の権威に陰りをもたらす一因となった 7 。しかし、その翌年の永禄四年(1561年)、山城国神楽岡で松永久秀の軍を破った際には、敗走する敵を深追いしようとする味方を制止している 3 。この逸話は、定秀が目先の戦果に逸ることなく、敵の罠や戦線の過度な伸長といったリスクを冷静に計算できる「知将」の側面を併せ持っていたことを物語っている。猪突猛進の「勇」だけでなく、状況を大局的に判断し、リスクを管理する「知」を兼ね備えていたからこそ、彼は定頼・義賢の二代にわたって重用され続けたのである。

第二章:日野城主としての内政手腕 ―領国経営の才―

蒲生定秀の卓越性は、戦場での武勇だけに留まらない。彼は日野城主として、領国経営においても非凡な才能を発揮した。その内政手腕は、単なる一国人領主の枠を大きく超えるものであり、後の蒲生家発展の盤石な礎を築き上げた。

先進的な城下町の建設

定秀の先見性を示す最大の功績の一つが、日野城(中野城)の築城と、それに伴う計画的な城下町の建設である。天文二年(1533年)頃、彼はそれまでの拠点であった山城の音羽城を離れ、平地に新たな城を築くことを決断した 4 。これは、防衛一辺倒の中世的な城郭から、政治・経済の中心地としての機能を持つ近世的な城郭への移行を意味する。

彼は築城と同時に大規模な町割りを行い、城の周囲に武家屋敷地帯と町屋敷地帯を計画的に配置した 4 。これは当時としては極めて先進的な都市計画であり、孫の蒲生氏郷が各地で行った城下町整備の原型が、既に祖父である定秀によって日野で実践されていたのである 19

殖産興業と軍備近代化

定秀は領国の経済的発展にも注力した。彼は領内に点在していた木地師や塗師といった職人を城下に集住させ、漆器の生産を奨励した 6 。これが、やがて日野の特産品となる「日野椀」の始まりであり、後の日野商人が全国を行商する際の重要な商品となって、蒲生領の経済を潤した 6

さらに、軍事面においても時代の変化に敏感であった。彼は鉄砲の重要性をいち早く認識し、日野の城下に鉄砲職人を招聘して生産体制を整えていた 6 。これは、蒲生軍の近代化を推し進め、その軍事力を高める上で大きな意味を持った。

独自の権勢と外交戦略

定秀が単なる六角家の家臣ではなかったことを最も雄弁に物語るのが、永禄五年(1562年)に行った「独自の徳政令発布」である 6 。徳政令の発布は、領主の最も重要な権能の一つであり、これを主家の許可なく一介の家臣が行うことは通常あり得ない。この事実は、定秀が自らの領内において、主家である六角氏とは半ば独立した統治権を行使できるほどの絶大な権力と権威を確立していたことを示している。

また、彼は巧みな婚姻政策によって、蒲生家の勢力圏を戦略的に拡大した。次男を佐々木一族の名門・青地氏へ、三男を北伊勢の有力国人・小倉氏へ養子に出し、さらに娘たちを伊勢の関盛信や神戸具盛といった実力者に嫁がせた 6 。これにより、彼は六角家の軍事力に依存するだけでなく、蒲生家独自の外交ネットワークを構築し、周辺勢力との安定した関係を築き上げたのである。

これらの事績を統合して見るとき、蒲生定秀の姿は、単なる六角家の「重臣」という枠を超え、事実上の独立領主、すなわち「大名分国中の小大名」とも言うべき存在として浮かび上がってくる。彼の内政手腕は、単なる領国経営に留まらず、孫・氏郷の代での大飛躍を見据えた、壮大な家門繁栄計画の一環であったと解釈できよう。氏郷という名将の誕生は、この祖父が築き上げた経済的、軍事的、そして外交的な「遺産」なくしてはあり得なかったのである。

第三章:観音寺騒動と調停役 ―主家の危機に際して―

蒲生定秀の政治家としての真価が最も発揮されたのが、主家である六角氏を根底から揺るがした内乱「観音寺騒動」においてであった。この危機に際し、彼は卓越したバランス感覚と交渉力で事態の収拾に奔走する。

騒動の勃発と六角家中の分裂

永禄六年(1563年)、六角家の若き当主・六角義治が、父・義賢の代からの宿老であり、家中で人望の厚かった後藤賢豊を観音寺城内で謀殺するという暴挙に出た 8 。若年の義治が、父の代からの重臣が持つ強い影響力を疎んじ、当主としての権力を確立しようとした結果の凶行であったとされる 8

この事件は、六角家臣団に激震を走らせた。後藤氏と縁戚関係にあった者たちを中心に、多くの重臣たちが義治の独断専行に激怒し、観音寺城を離脱。彼らは六角氏に反旗を翻し、敵対関係にあった北近江の浅井長政に支援を要請するに至った 8 。家臣団に見限られた義治は観音寺城を支えきれず、父・義賢と共に城を追われるという前代未聞の事態に陥ったのである 8

定秀の調停と事態の収拾

主君が居城を追われるという異常事態の中、義治が頼ったのが蒲生定秀・賢秀父子であった。義治は日野城へと逃げ込み、定秀に庇護を求めた 6 。主家の崩壊という危機を前に、定秀は義治を保護しつつも、分裂した家臣団との間の調停役として即座に行動を開始する 6

彼の調停案は、極めて現実的かつ巧緻を極めたものであった。彼は、反乱軍の要求を大筋で受け入れ、以下の三点を柱とする和睦案を提示した 8

  1. 反乱軍を支援する浅井勢の愛知川以南への不介入を確約させる。
  2. 殺害された後藤賢豊の子・高治の家督相続と所領を安堵する。
  3. 騒動の原因を作った義治を隠居させ、その弟・義定を新たな家督に据える。

この案は、反乱を起こした家臣団の名分を立てつつ、主家である六角家の完全な崩壊を防ぐという絶妙な内容であり、定秀の尽力によって双方の合意が取り付けられ、騒動は一応の収束を見た。

騒動の結末と六角氏の衰退

定秀の調停によって六角義賢・義治父子は観音寺城への復帰を果たしたものの、この騒動が六角氏に与えた打撃は致命的であった。当主が家臣によって追放されるという事件は、六角氏の権威を完全に失墜させた 7 。その結果、永禄十年(1567年)には、家臣団が当主の権力を法的に制約する分国法「六角氏式目」が制定されるに至る。定秀と息子の賢秀もこれに連署しており、六角氏が事実上、有力家臣団の合議制によって運営される脆弱な政権へと変質したことを示している 9

観音寺騒動における定秀の行動は、単なる「主家への忠誠心」という言葉だけでは説明できない。彼が提示した和睦案は、主君・義治に隠居を迫る厳しいものであった。これは、義治個人の権威よりも、六角家という「秩序の枠組み」そのものの存続を優先したことを意味する。なぜなら、守護大名である六角氏が完全に崩壊すれば、南近江は権力の空白地帯となり、浅井氏や三好氏といった外部勢力の介入を招き、蒲生家自身も戦乱に巻き込まれる危険性が高まるからである。彼の調停は、忠義という感情論以上に、自家の安泰を確保するために、弱体化してでも六角家という秩序の「蓋」を維持しようとした、冷徹な政治判断に基づく「危機管理」行動であったと分析できる。

第四章:時代の転換期 ―織田信長への臣従―

観音寺騒動を経て弱体化した六角氏に、決定的な終焉の時が訪れる。尾張から急速に台頭した織田信長の登場である。この時代の大きな転換点において、蒲生定秀は一族の存亡を賭けた重大な決断を下すことになる。

六角氏の没落と日野城籠城

永禄十一年(1568年)、後の将軍・足利義昭を奉じた織田信長が、大軍を率いて上洛を開始した。信長は六角義賢・義治父子に臣従と上洛への協力を求めたが、彼らはこれを拒絶し、徹底抗戦の道を選ぶ 3 。しかし、勢いに乗る織田軍の前に六角軍はなすすべもなく、本拠地である観音寺城はわずか一日で陥落。義賢・義治父子は南方の甲賀郡へと敗走した 4

主家が潰走し、他の重臣たちが次々と信長に降伏する中、蒲生定秀と息子の賢秀は日野城に籠城し、織田軍への抵抗の意志を明確に示した 4 。この毅然とした態度は、後の世に『諸国廃城考』において「此城に楯籠り義を守て降らず」と記され、旧主への信義を貫く武将としての評価を高めることになった 4

苦渋の決断と蒲生家の新たな道

信長は、堅固な日野城を力攻めにすることなく、外交による解決を図った。彼は、定秀の娘婿であり、既に織田家の部将となっていた伊勢の神戸具盛を説得の使者として日野城へ派遣した 4 。姻戚関係にある具盛からの説得という、降伏するための名分を得た定秀・賢秀父子は、これを受け入れて城を開き、信長に臣従することを決断した。その忠誠の証として、定秀の孫であり、蒲生家の未来を担う嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として岐阜の信長の下へ送ったのである 4

この決断が、蒲生家の運命を大きく好転させる。人質として対面した鶴千代の才気煥発な様子に、信長は深く感銘を受けた。「この子の眼は常の者とは違う。いずれ大物になるであろう」と、その非凡な器量を見抜き、将来自分の婿にすることを約束したという 12 。事実、信長は鶴千代を寵愛し、後に自身の娘である冬姫を娶らせるなど、単なる人質ではなく、将来の有力武将として破格の待遇で迎えた 4

日野城籠城から降伏に至る定秀の一連の行動は、極めて計算された二段構えの外交戦略であったと見ることができる。まず籠城によって、安易に主を裏切るような軽輩ではないという武士としての「義」を天下に示し、交渉相手としての価値を高めた。そして、姻戚を通じた説得という「名分」が与えられた段階で速やかに降伏し、一族の存続という「実利」を確保した。この老練な政治手腕によって、蒲生家は滅亡の危機を乗り越えただけでなく、新時代の覇者・信長との間に、孫・氏郷を通じて極めて強固な関係を築くことに成功したのである。

第五章:晩年と後代への遺産

織田信長への臣従という大きな決断を下した後、蒲生定秀は歴史の表舞台から静かに身を引いていく。しかし、彼が築き上げた礎は、次代、そして次々代へと受け継がれ、蒲生家が戦国大名として飛躍するための揺るぎない基盤となった。

織田体制下での隠居と最期

信長に仕えるようになってからは、家督を正式に息子の賢秀に譲り、自身は隠居生活に入ったものと考えられる。織田家臣団の一員としては、賢秀と孫の氏郷が、各地の戦役に従軍し活躍した 10 。定秀は隠居後も本拠地である日野に留まり、長年にわたって培った経験と人脈を背景に、一族の後見役として隠然たる影響力を持ち続けたと推察される。

そして天正七年(1579年)4月22日、定秀は生まれ故郷である日野の地で、72年の波乱に満ちた生涯を閉じた。法名は快幹軒宗智と伝えられている 1

菩提寺・信楽院と定秀

蒲生一族の菩提寺である信楽院(滋賀県日野町)は、定秀と深く関わりのある寺院である 32 。もともとは音羽城内にあったが、定秀が日野城を築城した際に移された。その後、孫の氏郷が伊勢へ転封となると一時的に荒廃したが、慶長年間に蒲生家の旧臣たちの手によって、定秀が隠居所としていた現在の場所に見事に再興された 33 。境内には氏郷の供養塔とされる石塔も存在し、今なお蒲生一族の歴史を静かに伝えている 36

後代への影響:名将・蒲生氏郷の礎として

蒲生定秀の最大の功績は、彼自身の武功や内政手腕に留まらない。それは、彼が残した有形無形の遺産が、孫である蒲生氏郷という稀代の名将を育て上げた点にある。氏郷が伊勢松坂や会津若松で見せた卓越した城下町経営や商業振興の手腕は、祖父・定秀が日野で実践した先進的な町づくりや「日野椀」の奨励といった政策を直接的に継承し、発展させたものであった 19

定秀が築き上げた日野の経済的基盤、鉄砲を取り入れた軍事的先進性、そして何よりも、時代の転換期に織田家との良好な関係を構築した外交的成功がなければ、氏郷が若くして信長の娘婿となり、やがて豊臣政権下で会津92万石の大大名へと駆け上がる道は、決して開かれなかったであろう 10

定秀の生涯は、自らが時代の頂点に立つことよりも、一族という共同体の永続的な繁栄を最優先に考えた、長期的な視点を持つ戦略家のそれであった。彼は、戦国乱世の荒波から蒲生家という船を守り抜き、次代、次々代が大きく飛躍するための完璧な「滑走路」を整備し、その生涯を終えたのである。

終章:蒲生定秀という武将の再評価

蒲生定秀の生涯を俯瞰するとき、我々の前には、単なる「氏郷の祖父」や「六角家の勇将」といった一面的なレッテルでは捉えきれない、複合的で奥行きの深い武将像が浮かび上がる。

第一に、彼は六角家の忠臣として、箕浦河原の合戦で見せたような比類なき武勇で主家を支えた。第二に、彼は日野の領主として、先進的な城下町を建設し、日野椀や鉄砲といった産業・軍事の近代化を推し進める卓越した内政家であった。そして第三に、彼は観音寺騒動を収拾し、六角氏滅亡の際には巧みな交渉で一族の活路を開いた、冷静な判断力を持つ政治家・外交官であった。

彼は、旧主への「義」という中世的な価値観を重んじながらも、それに固執することなく、天下人の登場という新しい時代の現実を的確に認識し、一族の存続と繁栄という「実利」を確保する絶妙なバランス感覚を有していた。多くの国人領主が時代の変化に対応できずに淘汰されていく中で、蒲生定秀は主家の衰退と権力構造の激変という二重の危機を乗り切り、一族を更なる高みへと導く礎を築き上げた。

その生涯は、華々しい戦功や天下取りの物語に光が当たりがちな戦国史において、地方の国人領主がいかにして激動の時代を生き抜き、次代への繁栄を繋いでいったかを示す、極めて示唆に富んだ好例である。蒲生氏郷という輝かしい星の光は、その祖父・蒲生定秀が築き上げた盤石なる大地なくしては、決してあれほど強く輝くことはなかったであろう。蒲生定秀の歴史的価値は、まさにその点において、再評価されるべきである。

引用文献

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