伊勢津藩二代藩主、藤堂高次の生涯と治世を正確に理解するためには、まず彼の父であり、戦国時代最後の巨星の一人である藤堂高虎が築き上げた、あまりにも巨大な遺産について考察することが不可欠である。高虎の存在は、高次の治世におけるあらゆる側面に色濃く影響を及ぼしており、その偉業と遺訓こそが、高次の行動原理を規定する根源的な枠組みとなっていた。
藤堂高虎は、弘治2年(1556年)に近江国の土豪の子として生を受けた 1 。一介の武士から身を起こし、浅井長政を皮切りに七度も主君を変えながら、その類稀なる才覚をもって乱世を駆け上がった人物である 3 。彼の特筆すべき能力は、加藤清正や黒田官兵衛と並び称される「築城三名人」としての一面に見ることができる 1 。和歌山城、宇和島城、今治城、そして幕府の天下普請における江戸城、二条城、丹波篠山城など、彼が手掛けた城郭は数多く、その縄張り技術、特に高石垣や層塔式天守の考案は、近世城郭の発展に大きく寄与した 2 。
しかし、高虎の真価は単なる築城技術に留まらない。彼は豊臣秀吉の弟、秀長に仕える中で、千利休をはじめとする当代一流の文化人とも交流し、茶の湯などの素養を身につけ、政治家としての洗練された感覚を磨いた 1 。この鋭敏な政治感覚こそが、彼の運命を決定づけた。秀吉の死後、豊臣家臣団が分裂する中で、高虎はいち早く徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として大谷吉継隊と激突するなど、勝利に大きく貢献した 2 。
この功績により、家康からの信頼は絶大なものとなった。外様大名という立場でありながら、江戸城の縄張りという軍事最高機密を任されるなど、事実上、譜代大名と同格の待遇を受けたのである 1 。度重なる加増の結果、最終的に伊賀・伊勢に三十二万石余の大領を得て、津藩の盤石な基礎を築き上げた 7 。高虎が息子・高次に遺したものは、この広大な領地と財産だけではなかった。「徳川家への絶対的忠誠」という家訓、そして幕府枢要との強固な人脈という、目に見えない政治的遺産こそが、高次の生涯を方向づける最も重要な要素となった。高次の治世は、この偉大すぎる父が残した完成されたシステムをいかにして「守り、維持するか」という、創造とは異なる、しかし極めて困難な課題への挑戦であった。彼の全ての政策決定は、「高虎の子としてどうあるべきか」という強烈な自意識と、周囲からの期待という重圧の下で行われたと見るべきであろう。
藤堂高次は、父・高虎が戦国の荒波を乗り越え、大大名としての地位を確立した後の慶長6年閏11月11日(1602年1月4日)、待望の嫡男として誕生した 9 。当時、高虎は46歳。高次の誕生は、藤堂家の後継者問題に新たな光と、そして複雑な影を落とす出来事であった。
高次の幼名は「大助」と伝えられている 9 。彼が生まれるまで、高虎には実子がおらず、天正15年(1587年)に織田信長の重臣であった丹羽長秀の三男・仙丸(後の藤堂高吉)を養嗣子として迎えていた 7 。高吉の存在は、藤堂家の家督相続において無視できない要素であった。一度定まった養嗣子を退けて実子を後継に据えることは、当時の武家の慣習として家中に軋轢を生む可能性を秘めていたからである。
高次は、大藩の世子として、また幕府への忠誠の証として、その幼少期を過ごすことになる。慶長10年(1605年)、わずか4歳の高次は母・松寿院(長連久の娘)と共に人質として江戸に送られ、徳川家の治世下で成長した 12 。これは、父・高虎が家康からいかに深い信頼を得ていたかを示すと同時に、藤堂家が徳川体制に完全に組み込まれていることを象徴する出来事であった。
江戸での生活は、高次に幕府の権威と秩序を肌で感じさせ、父が説く「徳川家への忠誠」の意味を深く理解させる上で重要な役割を果たした。しかしその一方で、彼の治世を通じて常に意識せざるを得ない存在が、養兄・高吉であった。有能な武将であった高吉 13 は、高次にとって単なる親族ではなく、自らの権力基盤を脅かしかねない潜在的な政治的ライバルであった。高次が家督を継承した後、自らの正統性と権威を内外に示す必要に迫られた背景には、この複雑な家庭環境があった。彼の藩主としての歩みは、この潜在的な不安定要因を克服し、自らの支配を確立する過程でもあったのである。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主要な出来事 |
1602年 |
慶長6年 |
1歳 |
伊予今治にて、藤堂高虎の嫡男として誕生。幼名は大助。 |
1605年 |
慶長10年 |
4歳 |
母・松寿院と共に人質として江戸へ赴く。 |
1630年 |
寛永7年 |
29歳 |
父・高虎の死去に伴い、伊勢津藩三十二万石余の家督を相続。第二代藩主となる。 |
1636年 |
寛永13年 |
35歳 |
養兄・藤堂高吉を伊賀名張へ移封する。 |
1638年 |
寛永15年 |
37歳 |
島原の乱に際し、幕府より出陣命令を受け、軍備を整える(乱鎮圧のため出陣には至らず)。 |
1648年 |
慶安元年 |
47歳 |
重臣・西嶋八兵衛による雲出用水が完成。 |
1654年 |
承応3年 |
53歳 |
名張・美旗地区にて、滝之原大池、上小波田東ノ狭間池などを築造し、新田開発を推進。 |
1660年 |
万治3年 |
59歳 |
城下の町人からの願いを受け、上野天神祭の再興を許可する。 |
1669年 |
寛文9年 |
68歳 |
隠居し、家督を長男・高久に譲る。同時に次男・高通に五万石を分与し、支藩・久居藩を立藩。 |
1676年 |
延宝4年 |
75歳 |
死去。 |
寛永7年(1630年)、父・高虎の死を受けて家督を相続した高次は、三十九年にわたる治世を開始する。彼の時代は、戦国の動乱が終焉し、幕藩体制が確立していく「泰平の世」であった。高次に求められたのは、父のような武功ではなく、領国を安定させ、幕府との関係を維持し、次代へと藩を継承していく「守成の君主」としての役割であった。
藩主となった高次がまず取り組んだのは、父・高虎の政策を継承し、藩の経済基盤を強化することであった。彼の内政手腕は、戦乱期とは異なる、平時の統治者として極めて実務的なものであった。具体的には、城下町の整備、河川堤防の築造と改修、そして何よりも積極的な新田開発に力が注がれた 10 。
高虎が築いた津城や伊賀上野城は、軍事拠点としての城郭であった。これに対し、高次が注力したのは、領民の生活と藩の生産力を直接支える経済インフラの整備であった。この時代の藩政を象徴する事業が、大規模な灌漑工事とそれに伴う新田開発である。特に著名なのが、高虎の代から仕えた土木技術の専門家、西嶋八兵衛之友を重用して進められた治水・利水事業である。その集大成ともいえるのが、慶安元年(1648年)に完成した雲出用水であり、この用水路は約600町歩もの水田を潤したと記録されている 16 。
さらに、承応3年(1654年)には、藩の奉行であった加納直盛らの主導のもと、伊賀国名張の美旗地区で大規模な開拓事業が実施された。この時、滝之原村に大池が、上小波田村に東ノ狭間池が築造され、不毛の原野に新たな水利をもたらし、新田開発の礎を築いた 17 。これらの事業は、藩の石高を実質的に増加させ、年貢増収による財政安定を目指すものであり、民生の安定にも大きく寄与した。
高次の内政は、父・高虎が城という「軍事インフラ」で藩の骨格を築いたのに対し、用水路や新田という「経済インフラ」でその肉付けを行ったと評価できる。これは、時代の要請が武力から経済力へと移行したことを的確に捉えた、極めて合理的な藩政運営であった。彼の治世は、父の威光に安住するのではなく、平和な時代における大名の責務を深く理解し、それを着実に実行した「守成」の時代であった。
高次の治世において、内政と並ぶ最重要課題は、江戸幕府との関係維持であった。父・高虎の遺訓である「徳川家への忠誠」を実践するため、高次は幕府の要求に忠実に応え続けた。その最も顕著な表れが、幕府が全国の大名に分担を命じた大規模な土木事業、いわゆる「公儀普請(手伝い普請)」への積極的な参加である 9 。
公儀普請は、江戸城の修築や河川改修など多岐にわたり、その費用は人足の手配から資材の調達まで、全て担当大名の自己負担であった 19 。これは、幕府が大名の経済力を削ぎ、その力を統制するための巧みな政策でもあった。藤堂家は、寛永期の江戸城石垣修繕 20 や、慶安4年(1651年)の日光大猷院(徳川家光の霊廟)造営の石垣普請 21 など、数々の公儀普請に動員された。
高次は新田開発によって藩の増収を図ったが、それを遥かに上回る普請費用が藩財政を圧迫した。結果として、津藩の財政は高次の治世を通じて悪化の一途をたどることになる 9 。経済的な合理性のみで見れば、この過剰な負担は失政と映るかもしれない。しかし、当時の政治状況を鑑みれば、これは高次による高度な政治判断であったと解釈できる。
藤堂家は、関ヶ原の戦い以降に徳川に仕えた外様大名でありながら、譜代大名格という特殊な地位を享受していた。この地位は、ひとえに徳川家への揺るぎない忠誠心によってのみ保証されるものであった。普請への積極的な参加は、その忠誠を最も明確な形で幕府に示すための手段だったのである。財政破綻のリスクを冒してでも、幕府の命令に率先して応じることで、藩の政治的安泰と存続を確実にする。高次は、短期的な経済的損失と、長期的な政治的安定を天秤にかけ、後者を選択した。財政悪化は、藩の存続という至上命題を達成するために支払われた、いわば「必要経費」だったのである。
年代 |
事業名 |
概要 |
寛永16年(1639年) |
江戸城石垣修繕 |
三代将軍家光の時代に行われた江戸城の修築普請の一部を負担 21 。 |
慶安4年(1651年) |
日光大猷院造営 |
家光の霊廟である大猷院の石垣普請に動員される 21 。 |
その他 |
京都仙洞御所造営など |
高次の跡を継いだ高嶷も京都仙洞御所の造営工事を引き継いでおり、高次の代から負担が続いていた可能性がある 23 。 |
注:具体的な負担額を示す直接的な史料は限られるが、上記のような大規模な国家事業への度重なる参加が、津藩の財政を著しく圧迫したことは、複数の記録から明らかである 9 。
高次の治世下で、唯一の軍事的な緊張が走ったのが、寛永14年(1637年)末から翌年にかけて発生した島原の乱であった。この大規模な一揆は、幕府を震撼させ、九州諸藩のみならず、西国の多くの大名に動員令が発せられた。
寛永15年(1638年)、乱が長期化の様相を見せると、津藩にも幕府から出陣の命令が下った 21 。これに対し、高次は迅速に行動した。直ちに領内で出陣準備を整え、同年2月20日付で「備定(そなえさだめ)」と呼ばれる軍令書を発し、具体的な軍団編成を定めている。この記録によれば、藩の重臣である落合左近が一の先手(先鋒部隊)の筆頭に任命されるなど、臨戦態勢が完全に敷かれていたことがわかる 21 。
しかし、津藩の軍勢が実際に出陣する直前の2月28日、幕府軍の総攻撃によって原城が陥落し、乱は鎮圧された。そのため、高次率いる津藩兵が九州の地を踏むことはなかった 21 。
この出来事は、高次の統治者としての資質を別の側面から示している。彼は、父・高虎のように実戦で武功を立てる機会こそなかったが、幕府からの有事命令に対し、即座に、かつ具体的な軍団編成をもって応じる能力と体制を維持していた。戦国の遺風がまだ色濃く残る当時において、これは藩の軍事組織が健全に機能し、藩主の指揮命令系統が有効であることを証明するものであった。実際の戦闘に参加せずとも、幕府の命令に迅速かつ的確に応じる姿勢を示すこと自体が、泰平の世における大名の重要な「軍役」であった。血を流すことなくして軍役の義務を果たし、幕府への忠誠を行動で示したこの一件は、平時における大名の振る舞い方として、極めて巧みなものであったと言えよう。
高次の治世は、政治や経済の安定化に留まらず、文化や社会の振興にも目が向けられていた。武力ではなく、文化の力によって藩の価値を高め、領民の心を掴むという、洗練された統治の一面を見ることができる。
高次の文化的貢献として最も特筆すべきは、伊賀焼への後援である。彼が藩主であった寛永年間(1624年~1644年)に焼かれた伊賀焼は、後世「藤堂伊賀」と呼ばれ、日本の陶磁史において高い評価を得ている 10 。
伊賀焼の茶陶は、父・高虎の時代に、茶人でもあった筒井定次が領主となって以降、本格的に焼かれ始めたとされる 25 。高虎もこの流れを引き継ぎ、高次の代でその芸術性は一つの頂点を極めた。藤堂伊賀の特徴は、桃山時代後期から江戸時代初期にかけて流行した「織部好み」の作風を色濃く反映している点にある 24 。意図的に形を歪ませた豪快な造形、ヘラで削り取ったような力強い文様、そして窯の中で灰が溶けて自然に流れ落ちる緑色のビードロ釉などが、その荒々しくも美しい魅力となっている 25 。主に作られたのは水指や花入といった茶道具であり、特に水指には傑作が多いとされている 24 。
高次による伊賀焼の奨励は、単なる藩主個人の趣味ではなかった。それは、藩の格を高め、経済を潤すための高度な「文化政策」であったと解釈できる。当時、茶の湯は武士階級における最高のステータスを持つ文化的・政治的活動であった。優れた茶器をプロデュースし、それを諸大名への贈答品としたり、幕府へ献上したりすることは、藩主の文化的権威を内外に示す絶好の機会であった。高次は、武力によらない方法で藩のプレゼンスを高める、洗練されたソフトパワー戦略を実践していたのである。これは、彼が時代の変化を的確に読み、文化の持つ力を深く理解していた証左と言えるだろう。
高次の民政家としての一面を物語るのが、伊賀上野の「上野天神祭」の再興である。史料によれば、万治3年(1660年)、何らかの理由で途絶えていた上野天神宮の祭礼について、城下の町人たちが藩主である高次に願状を提出した。高次はこれを受け入れ、祭の再興を正式に許可した 28 。
この時に再興された祭礼が、現在、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている壮麗な「上野天神祭」の直接的な起源となった 30 。当初は神輿を中心とした簡素な行列であったが、藩主の公認と、時には藩主自らが城内から行列を高覧するという栄誉が、町人たちの熱意を掻き立て、祭を発展させる大きな原動力となった 28 。やがて、祭は百数十体の鬼が練り歩く「鬼行列」や、絢爛豪華な9基の「だんじり」が巡行する、全国的にも有名な祭りへと成長していく 28 。
興味深いことに、この祭の最大の見どころである「鬼行列」の起源は、高次の父・高虎にまつわる伝承に繋がっている。晩年に眼病を患った高虎が平癒を祈願し、その返礼として修験道の寺院に役行者の能面を寄進したことが始まりとされる 28 。高次が再興を許可した祭のルーツが、偉大な父・高虎に繋がるという事実は、極めて示唆に富んでいる。
これは、高次が単に民衆の願いを聞き入れたというだけでなく、父の威光を民衆文化の中に巧みに織り込み、それを自らが許可するという形で、藤堂家の支配の正統性を領民レベルで再確認させる効果があった。領民は祭の再興を藩主に感謝し、その起源に初代藩祖への敬意を抱く。これにより、支配者と被支配者の間に文化を通じた良好な関係が築かれ、藤堂家の支配はより自然で盤石なものとなった。民衆の娯楽を許すという寛容な姿勢の裏に、支配を盤石にするという巧みな統治術が隠されていたのである。
幕府に対しては従順な姿勢を貫いた高次であったが、藩内に目を転じれば、彼は極めて冷徹な判断を下せるリアリストとしての一面を見せる。その象徴的な出来事が、家督相続における最大の懸案事項であった養兄・藤堂高吉の処遇である。
前述の通り、高吉は高次が誕生するまで藤堂家の正当な後継者であった。高虎の死後も、高吉は藩の重臣として一定の影響力を保持しており、高次にとっては自らの権威を確立する上で潜在的な障害となりうる存在だった。この長年の懸案に対し、高次は寛永13年(1636年)、ついに断固たる措置を講じる。高吉に対し、伊賀国の要衝である名張への移封を命じたのである 34 。
この移封は、表向きには伊賀国の守りを一門の重鎮に任せるという形をとっていた。しかし、その真の狙いは、高吉を津の政治中枢から物理的に引き離し、彼を支持する可能性のある家臣団から隔離することで、その政治的影響力を完全に削ぐことにあった。当時の記録には、高次が高吉を「藤堂本家からの独立を図る危険分子」と見なしていたという記述も残されており、高次の強い警戒心がうかがえる 13 。
この決断により、高次は藩内に存在した長年の対立の火種を消し去り、自らを中心とする権力基盤を確固たるものにした。高吉が治めることになった名張藤堂家は、幕府から公認された「支藩」ではなく、あくまで津藩内の一門筆頭家老という「一門別家」の扱いに留められた 34 。これにより、藤堂家の家督が分裂する可能性は完全に断たれたのである。
この高吉への処遇は、高次が単なる温厚な二代目ではないことを如実に物語っている。彼は、藩の永続的な安定と自らの権威を守るという大目的のためには、肉親に対しても非情な政治判断を下すことを厭わない、冷徹な統治者であった。それは、偉大な父が一代で築き上げた巨大な藩を、内部分裂によって損なうことは決して許さないという、二代目としての強い意志と責任感の表れでもあった。対外的には従順、対内的には冷徹。この二面性こそ、高次が複雑な政治状況を乗り切るための計算と実行力を兼ね備えていたことの証明である。
三十九年間にわたる治世の後、寛文9年(1669年)、高次は六十八歳で隠居し、家督を長男の高久に譲った 9 。藩主の座を退いた後も、彼は藤堂家の将来を見据えた最後の布石を打っている。
家督相続と同時に、高次は次男の高通に五万石を分与し、幕府の公認を得て支藩である久居(ひさい)藩を立藩させた 35 。これは、万が一、津の本家に後継者が絶えた場合でも、分家である久居藩から養子を迎えることで藤堂家の血筋と家名を存続させるための、先を見越した措置であった。事実、後の時代に本家の血筋が途絶えかけた際には、この久居藩から藩主が迎え入れられており 23 、高次の深謀遠慮が藤堂家を救うことになる。
隠居から七年後の延宝4年11月16日(1676年12月20日)、藤堂高次は七十五歳の生涯を閉じた 9 。その墓所は、藩祖・高虎と同じく、三重県津市の寒松院と伊賀市の上行寺に設けられている 9 。また、江戸上野の藤堂家墓所にも、他の歴代藩主と共に堂々たる宝篋印塔が建てられている 36 。
高次の跡を継いだ三代藩主・高久は、父の時代から続く深刻な財政難を引き継ぐことになった。そのため、高久もまた、綱紀粛正などの藩政改革や、父の代から続く新田開発、水利事業の継続に努めなければならなかった 37 。高次が残した幕府への忠誠という政治的遺産と、それに伴う財政負担という経済的課題は、その後の津藩の歴史を長く規定していくことになる。
藤堂高次の生涯は、戦国の動乱期に築かれた巨大な藩組織を、いかにして泰平の世に適応させ、次代に引き継ぐかという、二代目藩主特有の課題との格闘の連続であった。彼は、父・高虎のような華々しい武功とは無縁であった。しかし、幕府への忠誠という多大な「政治的コスト」を支払い続けることで藩の存続を確実にし、その一方で、内政の充実と文化の振興によって領国の基盤を固めた。さらに、藩内の潜在的な紛争の芽を冷静に摘み取り、円満な家督相続と支藩の創設によって藤堂家の未来を盤石にした。
彼の治世は、一見すると地味で、財政を悪化させたという負の側面も持つ。しかし、その行動の根底には、父が築いたものを守り抜くという強固な意志と、時代の変化に対応する柔軟な思考があった。藤堂高次は、戦国的な価値観から江戸時代的な価値観への移行期にあって、藩の存続と安定という、統治者として最も重要な責務を見事に全うした人物である。彼は「偉大な父を持つ凡庸な二代目」ではなく、父が作った「戦うための藩」を「泰平の世を生きるための藩」へと巧みにモデルチェンジさせた、優れた経営者であり、再評価されるべき「守成の名君」であった。