本報告書は、戦国時代の信濃国伊那谷にその名を刻んだ一人の武将、藤沢頼親(ふじさわ よりちか)の生涯を、現存する史料に基づき、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の人生は、甲斐の武田信玄という巨大な勢力に対する執拗な抵抗、敗北と流浪、そして故郷での再起と、戦国乱世の激動の中で在地領主が辿る運命の縮図そのものであった。本報告書では、第一章でその謎に包まれた出自と勢力基盤を、第二章で武田信玄との死闘の軌跡を、第三章で流浪と再起の時代を、そして第四章で「天正壬午の乱」における悲劇的な最期を詳述する。これにより、一人の国衆(国人領主)の生涯を通して、戦国という時代の本質に迫る。
藤沢頼親が本拠とした信濃国伊那谷は、地政学的に極めて重要な位置にあった。東に甲斐の武田氏、北に越後の上杉氏、そして西と南からは尾張・三河の織田氏・徳川氏という、戦国を代表する大名たちが覇を競う、まさに係争地の真っただ中であった。特に甲斐の武田氏にとって、信濃を平定し、さらに西上して天下に号令するためには、伊那谷はその通路にあたる戦略的要衝であった 1 。この地理的条件は、藤沢頼親をはじめとする伊那の国衆たちに、常に厳しい選択を迫り、その運命を大きく左右する根源的な要因となったのである。
本報告全体の理解を助けるため、藤沢頼親の生涯における主要な出来事を年表形式で以下に示す。
年代(西暦/和暦) |
頼親の動向 |
主要関連人物 |
拠点 |
備考・主要典拠 |
生年不詳 |
藤沢隆親(または頼継)の子として誕生 |
藤沢隆親, 藤沢頼継 |
福与城 |
3 |
天文11年 (1542) |
高遠頼継に与し武田晴信に反旗を翻すも、駒井高白斎に攻められ降伏 |
高遠頼継, 武田晴信, 駒井高白斎 |
福与城 |
6 |
天文13年 (1544) |
再び武田に反旗を翻し、箕輪の戦いで武田軍を一時撃退 |
高遠頼継, 小笠原長時 |
福与城 |
10 |
天文14年 (1545) |
福与城攻防戦。50余日籠城するも、竜ヶ崎城陥落後、弟を人質に和議・開城。城は焼失 |
武田信玄, 小笠原長時, 穴山信友 |
福与城 |
10 |
天文17年 (1549) |
上田原の戦いでの武田軍敗北を機に、三度武田から離反 |
村上義清 |
- |
19 |
天文23年 (1555)頃 |
小笠原長時と上洛し、畿内の実力者・三好長慶に仕える |
小笠原長時, 三好長慶 |
京 |
5 |
1560年代 |
旧領箕輪に帰還し、新たな拠点として田中城を築城 |
- |
田中城 |
5 |
天正10年 (1582) |
天正壬午の乱 武田氏滅亡後、旧領を回復。主家・小笠原氏が北条方についたため、徳川方と敵対。徳川方の保科正直に攻められ、子・頼広と共に自刃。藤沢氏滅亡。 |
保科正直, 徳川家康, 北条氏直, 小笠原貞慶 |
田中城 |
1 |
信濃伊那谷に確固たる勢力を築いた藤沢氏、そしてその当主である藤沢頼親の出自は、複数の説が伝わっており、一筋縄では解明できない複雑な様相を呈している。
最も有力視されているのが、藤沢氏が信濃の古社・諏訪大社の上社大祝(おおほうり)家、すなわち神氏(諏訪氏)の支流であるとする説である 4 。この説によれば、諏訪神氏の一族が分家し、藤沢谷の地頭となったことに始まるとされる 26 。『神氏系図』などの系譜史料にも、諏訪氏から分かれた藤沢氏の名が見え 23 、また藤沢氏の家紋とされる「梶の葉」が、諏訪神氏流の代表的な家紋であることも、この説の信憑性を高めている 10 。実際に、頼親が同じ諏訪一族である高遠城主・高遠頼継と容易に連携して武田氏に対抗した事実 6 は、彼らの間に同族としての強い連帯感があったことを示唆しており、この説を裏付ける状況証拠と言えるだろう。
一方で、全く異なる起源を主張する説も存在する。相模国藤沢(現在の神奈川県藤沢市)の住人であった藤沢義親の一族、藤沢行親が、建武の新政期に足利尊氏方として戦功を挙げ、その恩賞として信濃国箕輪六郷を賜り、この地に移住して福与に城を構えたのが始まりである、とする説である 1 。天和4年(1684年)に成立した『箕輪記』には、福与の古城に「鎌倉沢」という地名が残っているのは、藤沢氏が鎌倉から移ってきたからだ、という伝承が記されており、中央の武家政権との繋がりをうかがわせる 31 。
史料によって、頼親の父の名が「頼継」であったり 3 、「隆親」であったりする 4 など、系譜上の混乱も見られる。さらに、『箕輪記』には、頼親が「諏訪からの養子」であるという説も世間に伝わっていたことが記されている 3 。
これらの情報の錯綜は、単なる記録の不備と片付けるべきではない。戦国時代の国衆にとって、その権威の源泉は一つではなかった。諏訪神氏という、その土地に根差した神聖な血統(在地性)を主張することは、周辺の国衆との連携や領民支配において絶大な効果を発揮したであろう。一方で、相模国から下向し、室町幕府という中央権力から公的に所領を安堵されたという系譜(権威性)は、信濃守護である小笠原氏など上位権力との関係構築において有利に働いた可能性がある。藤沢氏は、これら二つの異なる出自を戦略的に使い分け、あるいは両方の血統を自らの内に統合することで、その権威を最大化しようとしたたかな在地領主であったのかもしれない。この出自の「曖昧さ」こそ、中小領主が激動の時代を生き抜くための知恵であったと解釈することも可能である。
藤沢頼親の権勢を支えたのは、本拠である福与城(ふくよじょう)と、上伊那北部に広がるその勢力範囲であった。
福与城は、別名を箕輪城とも呼ばれ、天竜川東岸の河岸段丘上に築かれた大規模な平山城である 19 。城域は東西約330メートル、南北約440メートルに及び、本城、北城、南城の三つの主要な郭から構成されていた 15 。さらに、頼親の弟の名を冠したとされる「権次郭」や、物見櫓跡、家臣の屋敷跡といった遺構も確認されており、軍事拠点であると同時に、一族郎党が居住する館としての機能も兼ね備えていた 15 。
この城の最大の特徴は、その地形を巧みに利用した防御構造にある。北は鎌倉沢、南は南沢という深い沢によって、三方を天然の断崖に守られた要害であった 17 。そのため、攻め口は唯一、南東の尾根続きに限られており、防御施設もこの方面に集中していたと推測される 9 。この堅固な縄張こそが、後に武田信玄率いる大軍を相手に、50日以上にもわたる籠城戦を可能にした最大の要因であった。
藤沢頼親は、単なる城主にとどまらず、伊那谷における有力な領主であった。『二木寿斎記』によれば、その所領は「六千貫」に達したと記録されており、これは当時の国衆としては相当な経済力を有していたことを示している 3 。彼は伊那衆の盟主格と目されており、下伊那の松岡氏や飯田を拠点とする坂西氏、神峯の知久氏といった他の国衆と肩を並べる、あるいはそれらを束ねるほどの存在感を持っていた 3 。この政治的・経済的基盤が、武田氏という強大な外部勢力に対して、地域を挙げて抵抗する原動力となったのである。
天文9年(1540年)に家督を継いだ武田晴信(後の信玄)が信濃侵攻を本格化させると、伊那谷の国衆・藤沢頼親の運命は、甲斐の虎との死闘という形で大きく動き出す。彼の生涯は、まさに武田氏への抵抗の歴史そのものであった。
天文11年(1542年)、武田晴信は諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡を制圧した。これに対し、諏訪一族であり高遠城主の高遠頼継が、諏訪領の領有を巡って晴信と対立。藤沢頼親は、この高遠頼継に与し、武田氏への明確な敵対姿勢を示す 6 。晴信は、滅ぼした諏訪頼重の遺児・寅王を名目上の後継者として担ぎ出し、頼継討伐の大義名分を得る。
同年9月、晴信の命を受けた重臣・駒井高白斎が伊那に侵攻し、福与城を包囲した 8 。同じ諏訪一族である頼親にとって、諏訪宗家の正統な後継者(とされた寅王)に弓を引くことは心理的な抵抗が大きかったのか、あるいは武田軍の勢いを前にして戦いを不利と判断したのか、この時は大きな抵抗をすることなく降伏し、一度は武田氏に従属した 8 。しかし、これはあくまで一時的な屈服であり、彼の闘争心は全く衰えていなかった。
武田への従属は、頼親にとって屈辱以外の何物でもなかった。彼は水面下で反撃の機会をうかがい、二年後、再び武田に牙を剥く。
天文13年(1544年)、頼親は再び高遠頼継と結び、さらに信濃守護であり、自身の義兄(頼親の妻が長時の妹)でもある小笠原長時の支援も得て、公然と武田氏に反旗を翻した 7 。これに対し武田軍は、福与城の支城である荒神山砦を攻略し、福与城へと迫った。11月2日、両軍は松嶋原で激突(箕輪の戦い)。この戦いでは、高遠・小笠原からの援軍を得た藤沢方が武田軍の猛攻を凌ぎきり、武田方は福与城を落とすことができずに撤退を余儀なくされた 7 。この勝利は、頼親と伊那衆の士気を大いに高め、武田への徹底抗戦の覚悟を固めさせる結果となった。
前年の雪辱を期す武田信玄は、翌天文14年(1545年)4月、周到な準備の末に伊那へと大軍を進める。信玄は、長雨で敵が油断している隙を突いて高遠城を奇襲。高遠頼継は戦わずして城を放棄し、武田軍は伊那攻略の重要拠点をいとも簡単に手に入れた 16 。
高遠城を落とした武田軍は、その勢いのまま4月20日に福与城へと殺到し、これを完全に包囲した。この時、福与城には頼親率いる箕輪衆のほか、各地から馳せ参じた伊那衆の武士100騎余、雑兵1,500が籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 16 。
福与城の守りは固く、攻城戦は武田軍の予想をはるかに超えて熾烈を極めた。4月29日の戦闘では、武田方の部将・鎌田長門守が討死するなど、武田軍は大きな損害を被った 10 。この粘り強い抵抗を支えていたのが、義兄・小笠原長時が天竜川西岸の竜ヶ崎城に布陣した後詰(後方支援部隊)の存在であった 9 。
攻めあぐねた信玄は、戦略を転換する。今川義元・北条氏康から得た援軍を投入し、福与城への直接攻撃と並行して、後詰めの拠点である竜ヶ崎城の攻略を開始した 16 。6月1日、板垣信方らが率いる部隊が竜ヶ崎城を猛攻し、わずか一日でこれを陥落させる 16 。
最大の頼みであった小笠原軍の敗報と撤退は、籠城を続ける福与城の将兵に大きな衝撃を与えた。後詰を失い、完全に孤立無援となった頼親と伊那衆の士気は急速に衰える。この機を逃さず、武田方の重臣・穴山信友らが頼親に和議を勧告した 17 。
もはやこれまでと覚悟した頼親は、これを受け入れる。6月11日、和議の証として、実弟の権次郎を人質として武田方に差し出し、ついに降伏した 10 。50日以上にわたって武田の大軍を食い止めた福与城は、開城後、信玄の命によって焼き払われた 1 。この放火は、単なる戦後処理ではない。信玄にとって、伊那衆の抵抗のシンボルであった福与城を物理的に破壊し、その記憶を抹消することは、彼らの心を完全に折るための冷徹な心理戦であった。この城の焼失は、頼親の人生の第一幕が、軍事的敗北と権威の失墜という二重の意味で終わったことを告げる象徴的な出来事だったのである。
福与城を失い、武田氏の軍門に降った頼親であったが、その抵抗精神が完全に潰えたわけではなかった。天文17年(1549年)、信玄が北信濃の雄・村上義清に生涯最大とも言われる敗北を喫した「上田原の戦い」が起きると、頼親はこの好機を逃さず、三度(みたび)武田から離反した 19 。この執拗なまでの抵抗は、彼が単に状況に流されるだけの国衆ではなく、地域の独立という強い意志を持った人物であったことを物語っている。彼の戦いは、一個人の野心というよりも、外部勢力による支配を拒絶し、伊那谷全体の自立性を守ろうとする「盟主」としての責任感に根差していた。だからこそ、何度敗れても、機会さえあれば再び蜂起し、地域の旗頭としての役割を放棄しようとはしなかったのである。
福与城を焼かれ、武田信玄への抵抗の拠点を完全に失った藤沢頼親は、雌伏の時を余儀なくされる。しかし、彼は不屈の精神で再起の機会をうかがい続け、ついに故郷の土を再び踏むことになる。
福与城の落城後、信濃における活動が困難になった頼親は、同じく武田氏によって本拠を追われた義兄の小笠原長時を頼り、共に京へと上った 5 。天文23年(1555年)頃、彼らは当時の畿内において絶大な権勢を誇っていた三好長慶に仕えたと記録されている 5 。これは、単なる亡命生活ではなく、中央の政治情勢を見極め、いずれ故郷に復帰するための人脈と機会を模索する、戦略的な雌伏の期間であったと考えられる。この京での経験は、頼親の世界観に大きな影響を与えた可能性が高い。
永禄7年(1564年)に三好長慶が没し、畿内の情勢が再び流動化する中、頼親は長年にわたる流浪の末、ついに故郷である伊那谷箕輪への帰還を果たした 5 。その正確な時期は1560年代とされ、武田氏の支配が続く中での帰還が如何にして可能であったかは詳らかではないが、何らかの政治的状況の変化があったものと推測される。
帰還した頼親は、かつての居城であった福与城を再建するのではなく、その南東約1キロメートルの平地に、新たな拠点として「田中城」の築城を開始した 5 。この田中城は、六角形の堀を持つ特異な縄張りであったと伝わるが、後の洪水などによりその遺構の多くは失われ、現在はわずかな土塁が残るのみである 37 。
この城選びには、頼親の統治構想の変化が明確に表れている。福与城は、三方を断崖に囲まれた典型的な山城であり、その機能は純粋な「軍事拠点」に特化していた。対して田中城は、交通の要衝に近い平城である。平城は、防御面では山城に劣るものの、城下町の建設や商業の振興、行政の効率化といった「領国経営の拠点」としてはるかに優れている。
頼親がなぜ、防御上有利な福与城を捨て、敢えて平城を築いたのか。その背景には、京での経験があったと考えられる。彼は三好長慶のもとで、戦国後期の畿内における先進的な城郭都市や、経済力を基盤とした新しい統治体制を目の当たりにしたはずである。武力のみに頼るのではなく、安定した領国経営こそが領主の力を支えるという、新しい時代の価値観を学んだのである。
したがって、田中城の築城は、単なる本拠の再建ではなかった。それは、武力による抵抗に明け暮れた前半生と決別し、安定した領国経営によって自らの勢力を再興しようとした、藤沢頼親の新たなビジョンを体現したものであった。しかし、皮肉にもその直後に勃発する天正壬午の乱の奔流は、この新たな城を再び過酷な戦場へと変え、彼の夢は完成を見ることなく潰える運命にあった。
天正10年(1582年)は、日本の歴史が大きく動いた年であった。武田氏の滅亡と織田信長の死という二つの大事件は、信濃国に巨大な権力の空白を生み出し、藤沢頼親を最後の、そして最も悲劇的な戦いへと引きずり込んでいった。
同年3月、織田信長の甲州征伐によって、長年信濃に君臨した武田氏が滅亡した。信濃の諸将は織田氏の支配下に入ったが、それも束の間、6月には本能寺の変で信長が横死する。これにより、旧武田領であった甲斐・信濃は、主のいない「空白地帯」と化した 38 。
この千載一遇の好機を逃さず、北からは越後の上杉景勝、東からは相模の北条氏直、そして南からは三河・遠江の徳川家康が、雪崩を打って信濃へと侵攻を開始した。世に言う「天正壬午の乱」の勃発である 38 。伊那谷の国衆たちは、この徳川・北条・上杉という三つの巨大勢力の狭間で、自らの生き残りを賭けた究極の選択を迫られることになった。
乱が勃発すると、伊那の国衆たちは旧領を回復すべく一斉に蜂起した。高遠城を拠点としていた保科正直は、藤沢頼親や下条頼安らと連携し、織田方が残した高遠城を一時奪取するなど、当初は共同歩調をとっていた 23 。
しかし、三勢力の争いが本格化すると、国衆たちの間にも分裂が生じる。7月、徳川家康が甲斐に入り、甲信地方の本格的な経営に乗り出すと、高遠の保科正直はいち早くその将来性を見抜き、徳川方への帰順を表明した 23 。
一方で、藤沢頼親は異なる道を歩まざるを得なかった。彼の主家筋にあたる府中の小笠原貞慶は、当初徳川の支援を受けて旧領の深志城(現在の松本城)に復帰していた。しかし、北条氏直が4万を超える大軍を率いて碓氷峠を越え、諏訪地方を制圧すると、その圧倒的な軍事力を前にして徳川を見限り、北条方へと寝返ったのである 17 。
国衆にとって、主家の決定は絶対であった。主家である小笠原氏が北条方についた以上、その家臣筋である頼親に「徳川に付く」という選択肢は事実上存在しなかった。主家を裏切ることは、自らの存在基盤そのものを否定する行為に他ならなかったからである。これにより、頼親は北条方として戦うことを企図し、かつて共闘した隣国の保科正直とは、徳川方と北条方として敵対するという、極めて悲劇的な構図の中に置かれることになった 5 。
頼親の運命は、急速に終焉へと向かう。徳川家康の先鋒としての役割を担った保科正直は、北条方に与した頼親の田中城へと軍を進めた 1 。『箕輪記』は、保科氏が徳川の南信進出を見るや、それまで属していた北条氏から「たちまち変心して」頼親を攻めたと記しており、大義や旧交よりも目の前の利を優先する乱世の非情さを伝えている 24 。
保科正直は、旧知の頼親に降伏を勧告したが、頼親はこれを毅然として拒絶した 1 。もはや選択の余地がない状況に追い込まれた彼にとって、降伏は武士としての誇りが許さなかったのである。
同年9月(『箕輪記』では7月など諸説あり)、田中城の攻防戦が始まった。頼親と箕輪の兵たちは、三日三晩にわたって勇猛に戦ったが、多勢に無勢であった。城兵の多くが討死し、城の守りも限界に達した 9 。
もはやこれまでと覚悟を決めた藤沢頼親は、城に火を放つと、嫡子・頼広と共に自刃して果てた 5 。これにより、鎌倉時代から伊那谷に根を張り、戦国乱世を駆け抜けた名族・藤沢氏は、歴史の表舞台から完全にその姿を消した。彼の滅亡は、個人的な判断ミスというよりも、天正壬午の乱という巨大な構造変動の中で、中小国衆が直面した「選択の不可能性」がもたらした悲劇であった。頼親の最期は、自らの意思とは無関係に敗者側へと追いやられてしまった者の、最後の抵抗だったのである。
藤沢頼親の生涯は、一見すると敗北と流浪の連続であった。しかし、その軌跡を丹念に追うとき、彼は単なる悲劇の武将ではなく、戦国という時代を精一杯生き抜いた、記憶されるべき一人の国衆としての姿が浮かび上がってくる。
頼親の最大の功績は、武田信玄という当代随一の権力者に対し、伊那衆の先頭に立って最後まで屈しなかったその不屈の精神にある。彼は一度ならず三度までも武田に反旗を翻し 25 、福与城では50日以上にわたって籠城し、武田軍を苦しめた。その執拗なまでの抵抗は、大勢力に安易に飲み込まれることを良しとせず、地域の独立性を守ろうとした信濃国衆の気骨を象徴するものであった 45 。彼の戦いは、伊那谷の武士たちの誇りを体現したものであり、その名は地域の抵抗の歴史に深く刻まれている。
また、頼親は単なる猪武者ではなかった。福与城での巧みな籠城戦の指揮 17 は、彼が地形を読み、兵を動かす戦略眼を持っていたことを示している。さらに注目すべきは、流浪の末に帰還した後、軍事要塞である福与城ではなく、領国経営の拠点となりうる平城・田中城を新たに築いた点である 22 。これは、彼が畿内で得た知見を元に、武力だけでなく経済や行政を重視する新しい時代の領主像を思い描いていたことを示唆しており、彼の先見性を評価する上で重要な要素である。その構想が乱世の奔流によって未完に終わったことは、彼にとって最大の無念であっただろう。
藤沢頼親は、天正壬午の乱の中で滅び去った。しかし、彼の記憶は故郷・箕輪の地に今なお生き続けている。彼の奮戦の舞台となった福与城跡は、昭和44年(1969年)に長野県の史跡に指定され 32 、地元の有志による「福与城址を守る会」の手によって大切に保存されている 47 。毎年4月29日には、激しい攻防戦があった日を記念して「福与城祭り」が開催され、城山太鼓の演奏やのろしが上がるなど、地域を挙げてその歴史が偲ばれている 32 。
藤沢頼親は、天下人になることはなかった。しかし、彼は自らの土地と一族の誇りを守るため、巨大な時代の奔流に最後まで抗い続けた。その悲劇的な生涯は、戦国という時代の非情さと、それに翻弄されながらも懸命に生きた人々の確かな息吹を、現代に生きる我々に力強く伝えている。彼は、信濃伊那谷が生んだ、記憶されるべき一人の驍将である。