藤田行政、通称を伝五。その名は、日本の歴史を揺るがした天正十年(1582年)六月の「本能寺の変」から、わずか十数日後の「山崎の合戦」に至る激動の渦中において、主君・明智光秀の傍らにあり続けた悲劇の忠臣として、人々の記憶に刻まれている 1 。利用者が提示した「明智家臣。通称は伝五郎。明智光秀の父の代からの重臣と伝わる。山崎の戦いで筒井順慶に参戦を促すも失敗。戦闘中の負傷により撤退し、自害して果てた」という概要は、彼の生涯の最も劇的な局面を的確に捉えている。
しかし、この簡潔な人物像は、彼の生涯が内包する複雑さと多面性を十分に語り尽くしているとは言い難い。断片的に残された史料の数々を丹念に繋ぎ合わせることで、これまで通説とされてきた出自を巡る根本的な論争、単なる武将としてだけではない吏僚(官僚)としての優れた側面、そして明智家臣団における彼の特異な地位が鮮やかに浮かび上がってくる。
本報告書は、後世の軍記物語などが描く類型的な人物像を無批判に受け入れることなく、信頼性の高い一次史料と近年の学術的研究成果を基盤として、藤田行政という一人の武将の生涯を徹底的に再検証する。これにより、彼の知られざる実像に迫るとともに、彼が仕えた主君・明智光秀という人物、そして光秀が目指した天下の構造を、腹心たる家臣の視点から解き明かすことを目的とする。
藤田行政の生涯において、最も謎に包まれているのがその出自である。古くからの譜代の臣であったのか、それとも光秀の躍進と共に見出された新参者であったのか。この問いは、彼の人物像だけでなく、明智家臣団の形成過程を理解する上でも極めて重要である。
江戸時代に成立した軍記物語である『明智軍記』や、それを基にした後世の編纂物においては、藤田行政は光秀の父・明智光綱の代から仕えた、いわゆる美濃以来の譜代の臣であったと記されることが多い 2 。この記述は、主君への揺るぎない忠誠心を持ち、最期まで運命を共にした彼の生涯を劇的に演出する上で、非常に都合の良い設定であった。このため、「譜代の忠臣」というイメージは広く浸透してきた。
しかしながら、この説を直接的に裏付ける同時代の一次史料は、今日に至るまで一切発見されていない 4 。彼の忠節を強調するための物語的な要請から生まれた可能性は否定できず、史実としての信憑性は極めて低いと評価せざるを得ないのが現状である。
長らく定説とされてきた「美濃譜代説」に大きな一石を投じたのが、近年その存在が知られるようになった滋賀県守山市水保(みずほ)の藤田家に伝わる『藤田系図』である 4 。この系図は、18世紀後半の成立と推定されるものの、行政の出自について驚くべき伝承を伝えている。
それによれば、行政(伝五)とその兄弟とされる藤田行久(伝三)は、近江守護であった六角定頼の家臣・藤田五兵衛尉貞長の子であると記されている 6 。この記述が事実であれば、行政のルーツは美濃ではなく近江にあったことになり、彼の経歴は根本から見直されることになる。光秀自身も近江出身説があることと併せて、非常に興味深い伝承である 4 。
この説は、明智家臣団の成り立ちに関する重要な示唆を与える。もし行政が近江出身であれば、彼は美濃時代からの世襲の家臣ではなく、光秀が織田信長に仕え、近江に拠点を構えた永禄十一年(1568年)以降に登用されたことになる。諸国を流浪した経験を持つ光秀は、斎藤利三の登用例に見られるように、出自を問わず有能な人材を積極的に抜擢したことで知られる。行政が譜代ではないにもかかわらず、最終的に家中の最高幹部にまで上り詰めた事実は、光秀の徹底した実力主義的な人材登用方針を象徴する好例と言えるだろう。
『藤田系図』は画期的な史料であるが、研究者はその内容を全面的に肯定しているわけではない。特に、水保の藤田家の惣領家が代々用いる諱(いみな)の通字が「貞」であるのに対し、行政・行久兄弟のみが「行」である点や、通称が「彦」と「伝」で異なる点など、系譜上の不自然さが指摘されている 6 。このことから、元は同族であった水保の藤田家が、明智家で立身出世を遂げた行政らを、後世になってから自家の系譜に付け加えた可能性も考察されている 6 。
この議論に決定的な光を当てたのが、元亀四年(1573年)五月二十四日付の『西教寺文書』である 6 。この文書は、光秀が今堅田城の戦いで戦死した家臣18名の菩提を弔うために西教寺へ寄進を行った際の記録であり、その戦死者リストの中に「藤田伝七」という名が見える。彼は、行政(伝五)、行久(伝三)の兄弟と考えられるが、18人中15番目という序列の低い家臣として記載されている 6 。
この事実は、極めて重要な意味を持つ。元亀四年の段階で、藤田兄弟が明智家中で決して高い地位にはなかったことを示しているからだ。これは、彼らが「美濃以来の譜代衆」ではなく、光秀が近江滋賀郡を領有した前後の時期に新たに召し抱えられた「新参家臣」であった可能性を強く裏付ける。そして、そこから本能寺の変が起こる天正十年までのわずか9年間で、行政が家中の最高幹部へと驚異的なスピードで昇進したことは、彼の非凡な能力と、それを見抜いて重用した光秀の慧眼を物語っている。
以上の検討から、藤田行政は「美濃譜代の臣」という通説とは異なり、光秀が近江に拠点を築いて以降に登用された「近江出身の新参者」であった可能性が極めて高い。彼は、旧来の縁故ではなく、自らの実力のみで主君の絶対的な信頼を勝ち取り、重臣へと駆け上がった、戦国時代の実力主義を体現する武将であったと結論付けられる。
藤田行政は、単なる一武将に留まらず、明智光秀の畿内支配を支える多才な能力を発揮した。彼の活動は、軍事的な側面だけでなく、政治・外交の領域にまで及んでおり、その多能性こそが、彼が新参者でありながら重用された理由であった。
記録によれば、行政は山城国の静原山城(しずはらやまじょう)の城主であったと伝えられている 1 。静原の地は、京都から若狭・越前方面へと抜ける鞍馬街道や、若狭街道(敦賀街道)を押さえる戦略的要衝であった 8 。このような重要な拠点の支配を任されたことは、行政が軍事指揮官として光秀から高く評価されていたことを示している。
行政の人物像をより深く理解する上で、興福寺の僧侶・英俊らによって記された年代記『多聞院日記』の記述は欠かすことができない。この日記には、武将としてではない、吏僚としての行政の姿が記録されている。
天正五年(1577年)、行政は織田信長の「副使」という立場で大和国に派遣され、興福寺に対して「御反銭(ごたんせん)」と呼ばれる税の徴収に関する督促を行っている 7 。この任務は、単なる軍事的な威圧で解決するものではなく、日本有数の権威と伝統を持つ宗教勢力を相手取った、極めて繊細な財政・外交交渉であった。
この重要な任務に、他の家臣ではなく行政が、しかも信長自身の代理人という立場で派遣された事実は、いくつかの重要な点を示唆している。第一に、彼がこうした行政的・外交的な交渉を遂行できる高度な実務能力を備えていたこと。第二に、他の史料からも示唆されるように、彼が明智家における大和方面、特に寺社勢力との交渉を専門的に担当する立場にあったことである 12 。この奈良における豊富な経験と築き上げられた人脈こそが、後に本能寺の変後、光秀の命運を左右することになる筒井順慶への説得工作という、さらに重大な任務を託される背景となったのである。彼の役割は、専門性が高く、代替の難しいものであった。
後世の軍記物語などでは、藤田行政は、斎藤利三、明智秀満、明智光忠、溝尾茂朝らと共に「明智五宿老」の一人として数えられている 1 。この呼称は、同時代の史料には見られないことから、江戸時代以降に、光秀の重臣たちを顕彰するために作られた文学的な表現である可能性が高い 3 。
しかし、この五人が本能寺の変の計画に参画し、光秀の意思決定に関わる中枢の重臣であったことは、第一級史料である『信長公記』の記述からも明らかである 1 。彼らは、光秀が最も信頼を置いた家臣団の中核であり、その構成は光秀の人材登用の特徴をよく表している。以下の表は、彼らの出自や役割を比較分析したものである。
氏名 |
出自 |
主な役割・特質 |
本能寺の変後の主要任務 |
推定される地位・知行 |
藤田行政 (伝五) |
近江出身の新参説が有力 6 |
武官・吏僚の兼務 。対寺社交渉、特に大和方面の担当官 7 。 |
筒井順慶の説得工作 1 |
山城国静原山城主 1 |
斎藤利三 |
美濃斎藤氏一族。稲葉家からの移籍 17 |
筆頭家老 。軍事・政務の両面で光秀を補佐。四国方面の外交担当 19 。 |
山崎の合戦で先鋒 20 |
丹波国黒井城主、1万石 17 |
明智秀満 (弥平次) |
光秀の娘婿・一門衆 21 |
一門の筆頭 。武勇に優れ、福知山城代として統治も担う 21 。 |
安土城の守備 22 |
丹波国福知山城代 21 |
溝尾茂朝 (庄兵衛) |
光秀の最も古い家臣の一人とされる 24 |
側近中の側近 。光秀の介錯を務めたとされるほどの信頼 25 。 |
光秀に最後まで随行 26 |
不明 |
明智光忠 (次右衛門) |
光秀の一門衆(従兄弟説など) 27 |
一門として軍事の中核を担う。 |
二条城攻撃で負傷し、療養 23 |
不明 |
この表から明らかなように、光秀の中枢家臣団は、一門衆である秀満や光忠、古参の側近である溝尾、そして外部から卓越した能力を買われて登用された斎藤利三と藤田行政という、多様な経歴を持つ人材で構成されていた。このバランスの取れた構成こそが、明智家の強みであったと言えるだろう。
天正十年六月、藤田行政は主君・明智光秀と共に、日本史上最大級のクーデター「本能寺の変」に深く関与することになる。彼の行動は、光秀からの絶大な信頼を物語っている。
織田家家臣・太田牛一によって著された、信憑性の高い記録『信長公記』によれば、天正十年六月一日、光秀が中国攻めの援軍として丹波亀山城から出陣する途上、重臣たちに自身の本心を打ち明けたとある 1 。この歴史的な密議の場に、明智秀満、斎藤利三らと共に、藤田行政の名は明確に記されている 1 。
これは、行政が単なる指揮官ではなく、主君の重大な決断を共有され、運命を共にする覚悟を問われた、まさに腹心中の腹心であったことを証明する動かぬ証拠である。新参者でありながら、この謀議に加えられたという事実は、彼がいかに光秀から信頼されていたかを雄弁に物語っている。
六月二日未明、明智軍による本能寺襲撃が開始される。この作戦において、藤田行政は明智光忠、溝尾茂朝と共に第二陣の兵力約4000を率いたとされている 1 。この部隊は、明智秀満率いる第一陣が本能寺を急襲する中、外周を固め、信長の嫡男・織田信忠が宿所としていた二条新御所への攻撃にも主力として加わったと考えられる。このクーデターの成功において、彼が果たした軍事的な役割は決して小さくなかった。
本能寺の変を成功させた光秀にとって、その後の天下を盤石なものとするためには、周辺大名の支持を取り付けることが急務であった。この成否の鍵を握る最重要任務が、藤田行政に託された。
変の後、光秀はただちに行政を大和郡山城主・筒井順慶のもとへ派遣した。その目的は、順慶を味方に引き入れ、その軍事力を自軍に加えることにあった 1 。大和一国を領する順慶の兵力は、目前に迫る羽柴秀吉との決戦を前に、光秀が是が非でも手に入れたいものであった。
この重大な交渉役に、これまで大和方面の担当官として寺社勢力との折衝に実績を重ねてきた行政が選ばれたのは、当然の成り行きであった 12 。光秀は、行政の交渉能力と大和における人脈に、自らの命運を託したのである。
しかし、交渉相手の筒井順慶は、極めて難しい立場に置かれていた。彼は天正四年(1576年)以来、信長の命令によって光秀の与力(配下武将)となっており、両者の間には深い関係があった 33 。光秀からすれば、順慶が味方するのは当然と考えていた節がある。
一方で、順慶は宿敵・松永久秀との長年にわたる抗争を生き抜き、大和を統一した慎重かつ現実的な判断力を持つ武将でもあった 33 。彼は、旧主・信長を討った光秀に与する義理と、備中高松から驚異的な速さで京へ向かっている羽柴秀吉の圧倒的な勢いとの間で、激しく揺れ動いていた。家中の意見も光秀派と秀吉派に割れ、一枚岩ではなかったとされる 34 。『多聞院日記』には、光秀に味方するそぶりを見せながらも、秀吉にも使者を送るなど、彼の苦悩と日和見的な態度が克明に記録されている 36 。
この時の順慶の態度から、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」という、日和見主義の代名詞ともいえる故事が生まれた 39 。これは、順慶が山崎と大和の境にある洞ヶ峠に陣取り、戦況を傍観して有利な方につこうとした、という俗説に由来する。
しかし、これは史実とは異なる。信頼性の高い史料である『多聞院日記』や『蓮成院記録』によれば、実際に洞ヶ峠に布陣して順慶の来援を待っていたのは、 明智光秀 の方であった 38 。順慶は、行政の再三の説得にもかかわらず、最後まで居城である大和郡山城から動くことはなかったのである。この故事は、歴史の事実が後世に誤って伝わった典型的な例と言える。
行政の説得工作は、最終的に失敗に終わった。しかしその原因は、彼の交渉能力の欠如にあったわけではない。それは、光秀の戦略的見通しの甘さと、秀吉の常識を超えた神速の行動がもたらした地政学的状況の激変という、一個人の努力では到底覆すことのできない巨大な要因によるものであった。この失敗は、山崎の合戦における明智軍の決定的な兵力不足に直結し、光秀敗北の最大の要因となったのである。
筒井順慶の説得に失敗し、十分な兵力を集められなかった明智光秀は、天正十年六月十三日、天下の趨勢を決する最後の戦いに臨んだ。藤田行政もまた、主君と共にこの運命の戦場に立った。
山崎の地で対峙した両軍の兵力差は歴然としていた。明智軍が約1万6000であったのに対し、羽柴軍は約4万と、倍以上の兵力を擁していた 43 。光秀は天王山と淀川に挟まれた狭隘な地形を利用し、数的劣勢を覆そうと試みた。
この決戦における明智軍の布陣において、藤田行政は右翼の部隊を率いたと複数の記録が伝えている 30 。江戸時代の軍記物である『川角太閤記』には、行政の部隊が奮戦し、一時的に羽柴軍の蜂屋隊などを押し返す場面も描かれている 6 。しかし、戦況は長くは続かなかった。羽柴軍の池田恒興らが円明寺川を渡って明智軍の側面を突く奇襲に成功すると、戦局は一変 45 。これをきっかけに明智軍は動揺し、総崩れとなった 46 。
激戦の中、藤田行政は体中に六ヶ所もの深手を負うほどの重傷を負いながらも、かろうじて戦場を離脱し、淀まで退却した 1 。しかし、彼の奮闘も虚しく、明智軍の敗北は決定的であった。
翌十四日、主君・光秀が小栗栖(おぐるす)で落武者狩りに遭って命を落とし、最後の拠点であった勝龍寺城も陥落したとの絶望的な報せが、傷ついた行政のもとに届く。もはやこれまでと全てを悟った行政は、その場で潔く自刃して果てた 1 。その死は、主君と運命を共にし、最後まで忠節を貫き通すという、彼の武士としての生き様を象徴する壮絶な最期であった。
本報告書を通じて行ってきた藤田行政の生涯に関する徹底的な調査は、彼が単なる「譜代の悲劇の忠臣」という一面的な人物像に収まらない、より複雑で多才な戦国武将であったことを明らかにした。
彼の出自は、通説であった美濃の譜代ではなく、近江出身の新参者であった可能性が極めて高い。この事実は、彼が旧来の縁故に頼ることなく、自らの実力で主君・明智光秀の腹心にまで上り詰めた、戦国時代における新しいタイプの人材であったことを示している。
また、彼は山城国の要衝を任されるほどの武勇を備える一方で、『多聞院日記』に見られるように、対寺社との繊細な交渉を担う高度な政治・外交能力を兼ね備えた「武官兼吏僚」であった。その専門性は、光秀の畿内支配において不可欠な役割を担っていたと言える。
藤田行政の生涯は、彼が仕えた主君・明智光秀という人物像を映し出す鏡でもある。光秀が、旧来の門閥や家柄に捉われず、行政のような実力ある新参者を積極的に登用した事実は、その先進的な組織運営術を雄弁に物語っている。そして、行政に託された最後の任務、すなわち筒井順慶の説得工作の失敗は、光秀が描いた天下構想が、いかに脆弱な大名間の同盟関係という砂上の楼閣の上に成り立っていたかを浮き彫りにした。
藤田行政という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、単に一個人の伝記を追うに留まらない。それは、本能寺の変という歴史的事件の構造的要因、そして戦国という時代のダイナミズムを、より深く理解するための極めて重要な視座を提供してくれるのである。彼の名は、謎に包まれながらも、主君に全てを捧げた忠臣として、そして時代が生んだ有能な実務家として、歴史の中に確かな足跡を残している。