戦国時代の蝦夷地(現在の北海道南部)に、宗家に対して反旗を翻し、討ち死にした一人の武将がいた。その名は、蠣崎基広(かきざき もとひろ)。彼の名は、勝者によって編纂された歴史の中に、単なる「家督に不満を抱いた反逆者」として、簡潔に記録されているに過ぎない 1 。しかし、彼の生涯と行動を、当時の蝦夷地が置かれた複雑な政治・経済・軍事の文脈の中に置き直すとき、その人物像は一層の深みと異なる様相を帯びてくる。彼の叛逆は、本当に個人的な野心のみに起因するものだったのだろうか。
本報告書は、蠣崎基広という人物の生涯を徹底的に調査し、彼の叛逆が単なる個人的野心に留まらない、蠣崎氏の権力確立期における構造的矛盾の現れであったことを、文献史料と考古学的成果を駆使して解き明かすことを目的とする。松前藩の公式史書である『新羅之記録』の記述を史料批判の観点から再検討し 3 、基広が拠点とした勝山館跡の発掘調査がもたらした知見と照らし合わせることで、これまで語られてこなかった叛逆の深層に迫る。さらに、基広の死後、その御霊が「荒神」として祀られたという伝承が意味するもの 5 を読み解き、彼の存在が地域社会に与えた衝撃の大きさと、その歴史的意味を考察する。本報告書は、歴史の敗者として片付けられてきた蠣崎基広という人物を再評価し、彼が蝦夷地戦国史において果たした役割を正当に位置づける試みである。
蠣崎基広の叛逆を理解するためには、まず、当時の蝦夷地における蠣崎氏の立場と、その権力構造の特質を把握する必要がある。蠣崎氏は、15世紀半ばから約1世紀をかけて、蝦夷地南部の和人社会における覇権を確立したが、その過程は平坦なものではなく、内部に構造的な矛盾を抱え込むものであった。
蠣崎氏の蝦夷地における歴史は、津軽の安東氏の被官、すなわち家臣という立場から始まった 2 。安東氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて、津軽から蝦夷地に影響力を持つ有力豪族であった 11 。蠣崎氏はその代官として蝦夷地の和人を束ねていたが、長禄元年(1457年)に発生したアイヌ民族の一斉蜂起「コシャマインの戦い」が大きな転機となる。この戦いで、蠣崎季繁の客将であった武田信広(後の蠣崎氏初代)がアイヌ軍を破り、和人社会の壊滅を救ったことで、蠣崎氏は蝦夷地における絶対的な武威と名声を獲得した 12 。この功績により、武田信広は蠣崎氏の家督を継承し、以後、蠣崎氏は蝦夷地和人社会の盟主として、徐々に安東氏からの自立性を高めていくことになる。しかし、この主従関係は16世紀半ばに至るまで形式的には継続し、蠣崎氏の行動を制約する一方で、安東氏の権威を利用して内部統制を図るという複雑な関係が続いた。
蠣崎氏の権力基盤の根幹は、和人商人とアイヌ民族との間で行われる交易を管理・独占することにあった 12 。蝦夷地の豊かな産物(鮭、昆布、毛皮など)と、本州からもたらされる鉄製品や米、漆器などとの交換は、蠣崎氏に莫大な富をもたらした。しかし、この交易利権は、必然的にアイヌ民族との緊張関係を生み出す源泉ともなった。
三代当主・義広(基広の伯父、季広の父)の時代には、交易を巡る対立からアイヌとの武力衝突が頻発した。義広は、アイヌの首長タナサカシやタリコナを謀殺するなど、強硬な政策でこれを抑え込もうとした 16 。しかし、絶え間ない抗争は領域支配を不安定にするものであり、義広の子である四代・季広の時代になると、政策は大きく転換される。季広は、武力一辺倒の方針を改め、アイヌの有力首長と和睦し、交易の利益を一部配分することで緊張緩和を図る「融和策」へと舵を切った 2 。この蠣崎氏の基本政策の転換が、後に基広との間に深刻な対立を生む伏線となる。
蠣崎氏の統治体制の確立過程で、後の対立の種となる重要な画期があった。二代当主・光広(基広・季広の祖父)の時代、永正11年(1514年)に、一族の本拠地がそれまでの上ノ国・勝山館から、南の松前・大館(後の徳山館、福山城)へと移されたのである 3 。
この本拠地移転は、蠣崎氏の領主としての性格の変化を象徴するものであった。松前は本州との交易港としてより至便な立地であり、軍事的な豪族から交易を基盤とする領主へと脱皮を図る上で戦略的な一手であった 14 。これにより、松前の宗家は「交易管理と外交」を主たる役割として担うことになった。
一方で、光広は弟の高広(基広の父)を、旧本拠地であり、依然として対アイヌ防衛の最前線である勝山館の主(城代)として残した 3 。勝山館はアイヌとの境界に位置する軍事拠点であり、その重要性は変わらなかったため、信頼できる一族を防衛の要に置くのは当然の采配であった。
この結果、蠣崎氏の権力構造は、当初から「中央(松前)の交易・統治機能」と「辺境(上ノ国)の軍事・防衛機能」という二元的な性格を内包することになった。松前の宗家は安定した交易のためにアイヌとの融和を志向しやすくなるのに対し、上ノ国の分家は常に軍事的緊張に晒されるため、より現実的で強硬な姿勢を維持する必要に迫られる。両者の立場と関心事が地理的に分離されたこの時点で、将来の政策的・利害的な対立を生む土壌が形成されたと言えるだろう。
蠣崎基広の叛逆は、彼の出自と、彼が統治した勝山館の地政学的な重要性を抜きにしては語れない。彼は蠣崎一門の有力な分家の嫡男として、蝦夷地における軍事・経済の要衝を支配する実力者であった。
蠣崎基広は文亀元年(1501年)、蠣崎高広の子として生まれた 1 。父・高広は蠣崎氏二代当主・光広の次男であり、三代当主・義広の弟にあたる。したがって、基広は四代当主・季広とは従兄弟の関係となる 1 。蠣崎氏の正統な血を引く有力な分家の嫡男という彼の立場は、宗家の家督継承に対して異を唱えるだけの血統的正当性を、彼自身に意識させるに十分であったと考えられる。
表1:蠣崎氏主要人物系図(光広から慶広の代まで) |
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世代 |
人物 |
初代 |
蠣崎信広(武田信広) |
二代 |
蠣崎光広 |
三代 |
蠣崎義広(光広の長男) |
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蠣崎高広(光広の次男、 基広 の父) |
四代 |
蠣崎季広(義広の子) |
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蠣崎基広 (高広の子) |
五代 |
蠣崎舜広(季広の長男、早世) |
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明石元広(季広の次男、早世) |
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松前慶広(季広の三男、後の松前藩初代藩主) |
出典: 1 等の情報を基に作成
基広の父・高広は、当初、泊館(とまりだて、現・北海道檜山郡江差町)の館主であったが、永正11年(1514年)に兄・光広が本拠を松前に移すと、その旧本拠地である勝山館の主(城代)に任じられた 3 。これは、高広が一門の中でも対アイヌ防衛の要を任されるほどの重鎮であったことを示している。しかし、史料によっては体が弱かったとも伝えられており 17 、その実権の所在については、子の基広の時代に焦点が移っていく。
基広が父の跡を継いで館主となった勝山館は、単なる辺境の砦ではなかった。国指定史跡である勝山館跡の発掘調査は、その驚くべき実像を明らかにしている 21 。
これらの考古学的成果は、蠣崎基広を単なる辺境の一武将ではなく、軍事・経済・民族交流の機能を併せ持った「中世都市」とも呼ぶべき勝山館の統治者であったことを示している 27 。彼が、自ら統治するこの領域と、そこから得られる富と権力に強い自負を抱いていたことは想像に難くない。基広の「家督への不満」とは、単に地位を望んだだけでなく、自らが統治する勝山館の重要性や、対アイヌ政策における自身の実績が、松前の宗家から軽んじられていると感じたことへの反発であった可能性が、ここから浮かび上がってくる。
天文17年(1548年)、蠣崎基広はついに宗家に対して兵を挙げた。この叛逆は、周到な準備の末に実行されたが、結果として蠣崎季広の権力基盤をより強固なものにするための試金石となった。
表2:蠣崎基広の乱 関連年表 |
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西暦(和暦) |
出来事 |
主要人物 |
典拠 |
1545年(天文14年) |
蠣崎義広(三代)死去。嫡男・季広が家督を継承。 |
義広、季広 |
1 |
1545年~1548年 |
基広、季広の家督継承に不満を抱く。 |
基広、季広 |
1 |
時期不詳 |
基広、僧・賢蔵坊に季広の呪殺を依頼するが失敗。 |
基広、賢蔵坊 |
3 |
1548年(天文17年) |
基広、勝山館にて謀叛を起こす。 |
基広 |
1 |
同年 |
季広の命を受けた家臣・長門広益が基広を討伐。基広は戦死(享年48)。 |
季広、長門広益、基広 |
1 |
1549年(天文18年) |
基広の鎮魂のため、勝山館跡に荒神堂が建立される。 |
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8 |
1550年頃(天文19年頃) |
季広、安東舜季の仲介でアイヌと和睦(夷狄之商舶往還之法度)。 |
季広、安東舜季 |
2 |
叛逆の直接的なきっかけは、天文14年(1545年)の伯父・義広の死と、その嫡男である従兄弟・季広の家督継承であった 1 。祖父・光広を同じくする基広にとって、宗家の家督が自身の家系(高広流)に回ってくることなく、義広流に継承されたことは、容認しがたいことであった。特に、自身が軍事・経済の要衝である勝山館を統治する実力者であるという自負が、この不満を増幅させたとみられる 1 。
松前藩の公式史書である『新羅之記録』は、基広の叛逆を、正当性のない陰湿なものとして描いている。同書によれば、基広は武力蜂起に先立ち、季広が深く帰依していた賢蔵坊という僧侶を金品で抱き込み、数年にわたって季広を呪い殺すための祈祷を行わせたという 3 。
この「呪殺の企て」の記述は、史実として慎重に扱う必要がある。『新羅之記録』は、松前(蠣崎)氏の支配の正当性を後世に示すために編纂された歴史書であり、その記述には勝者の論理が色濃く反映されている 37 。呪殺という行為は、武士の道から外れた卑劣な手段と見なされる。この逸話を挿入することで、基広の叛逆の動機を個人的な怨恨や邪悪な野心に矮小化し、彼の掲げたであろう大義名分を完全に否定する意図があったと考えられる。一方で、その呪詛が「叶わなかった」と記すことで、季広には神仏の加護があり、彼こそが正統な支配者であることを暗示している。これは、季広政権の正統性を補強するための、巧みな文学的・政治的脚色であった可能性が極めて高い。
呪詛が失敗に終わった後、基広はついに勝山館で兵を挙げた。この叛乱に対し、季広は譜代の家臣であり、武勇に優れた猛将として知られる長門広益に討伐を命じた 35 。広益は主君の期待に応え、見事に基広の軍勢を打ち破り、基広本人を討ち取った。その首級は季広のもとへ届けられたと伝えられている 36 。天文17年(1548年)、基広は48歳でその生涯を閉じた 1 。この迅速な鎮圧劇は、季広政権の武威の高さと、家臣団が宗家に忠誠を誓っていたことを内外に示す結果となり、季広の支配体制を一層強固なものにした。
『新羅之記録』が語るように、蠣崎基広の叛逆は単に家督への不満だけが原因だったのだろうか。当時の政治・経済状況を多角的に分析すると、より根深く、構造的な対立要因が浮かび上がってくる。
基広の叛逆の背景として最も重要なのが、宗家とのアイヌ政策を巡る対立である。四代当主・季広は、父・義広の武力強硬路線を転換し、アイヌとの融和政策を推進した。その集大成が、天文19年(1550年)頃に制定された「夷狄之商舶往還之法度」である 19 。これは、渡島半島東西のアイヌの首長であるハシタインとチコモタインの権威を認め、彼らに和人商船から徴収した税の一部(夷役)を分配することで、交易の安定と平和共存を図る画期的なものであった 19 。
しかし、この政策は、対アイヌ防衛の最前線である勝山館の主・基広の立場から見れば、到底受け入れがたいものであった可能性がある。日々アイヌとの軍事的緊張に直面し、硬軟両様の現実的な対応を迫られていた基広にとって、宗家が打ち出した融和策は、アイヌへの「弱腰な妥協」や「危険な譲歩」と映ったかもしれない。自らが守ってきた国境線の軍事的役割や権威が、松前の交易利権のために軽んじられたと感じ、宗家の方針に強く反発したと推察される。
第一章、第二章で詳述したように、基広は単なる一武将ではなく、軍事・経済の複合拠点である「中世都市」勝山館を統治する、半ば独立した領主であった。彼の支配地は、独自の経済基盤と軍事力を有していた。
このような状況下で、松前の宗家が進める中央集権化の動きは、基広にとって自身の権力が削がれる直接的な脅威と感じられたはずである。季広によるアイヌ政策の統一や交易管理の一元化は、勝山館の自立性を脅かし、その利権を奪うものであった。家督継承問題は、長年蓄積されてきたこの中央と地方の構造的な対立が噴出する、格好のきっかけに過ぎなかったのではないか。彼の叛逆は、戦国時代に各地で見られた、中央の権力に抵抗する地方有力者の動きと軌を一にするものであった。
基広の叛逆を、単なる蠣崎氏内部の問題としてのみ捉えるのは一面的である。当時の蠣崎氏の主家であった安東氏は、秋田の湊安東氏と檜山安東氏に分裂し、激しい内紛を繰り返していた 44 。この北奥羽の政情不安が、蠣崎氏の内紛に影響を与えた可能性は高い。
注目すべきは、季広のアイヌとの和睦(夷狄之商舶往還之法度)が、檜山安東氏の当主・安東舜季の主導、あるいは強い後援のもとで行われたという点である 2 。これは、季広政権が檜山安東氏と密接に結びつくことで、その権威を確立しようとしていたことを示唆する。
この状況を踏まえると、基広の叛逆は安東氏の内紛と連動していたという仮説が成り立つ。すなわち、檜山安東氏と結ぶ季広に対抗するため、基広は対立勢力である湊安東氏などと結託、あるいはその支援を期待して蜂起したのではないだろうか。戦国時代の地方豪族の内部抗争が、主家や周辺大名の勢力争いと連動するのは常套手段である。直接的な史料こそないものの、基広の乱の背景に、この安東氏を巡る外交路線の対立が存在した可能性は十分に考えられる。彼の叛逆は、蝦夷地内部に留まらず、北奥羽全体の政治力学の中に位置づけられるべき事件であった。
以上の考察から、『新羅之記録』が描く基広像がいかに一面的であるかがわかる。松前氏の正統性を徳川幕府に示すために編纂されたこの史書にとって 4 、基広の叛逆は、季広の徳の高さと正統性を際立たせるための「乗り越えられるべき試練」として描く必要があった。そのため、呪殺の企てといった逸話を創作し 3 、動機を単なる家督への不満に限定することで 1 、基広の行動から政策的・政治的な正当性を剥ぎ取り、個人的な野心に矮小化する操作が行われたのである。
蠣崎基広の物語は、彼の死で終わりではなかった。むしろ、その死後に生まれた伝承こそが、彼の叛逆が地域社会に与えた衝撃の大きさを物語っている。
基広が討たれた翌年の天文18年(1549年)、彼の鎮魂を目的として、その旧本拠地である勝山館跡に一宇の堂が建立された 8 。これが現在、「荒神堂跡」として伝えられる場所である 5 。
地元に伝わる伝承によれば、非業の死を遂げた基広は、死後に亡霊となって夜な夜な暴れ、地域に祟りをなした。そのため、人々はその墓所に堂を建て、「荒神」として祀ることでその怨念を鎮めようとしたのだという 5 。
非業の死を遂げた権力者が怨霊となり、それを神として祀ることで祟りを鎮め、逆に守護神として崇敬する「御霊信仰」は、日本古来の信仰形態である。基広が「荒神」という荒ぶる神として祀られた事実は、彼の死が当時の人々にとって、単なる反逆者の自業自得の死ではなく、強い怨念を残す悲劇的な死と受け止められていたことを強く示唆している。
これは、基広の叛逆に同情的であったり、彼の主張に一定の理解を示したりする人々が、勝山館を中心とする上ノ国地域に少なからず存在したことの何よりの証左である。もし基広が誰からも支持されない、ただの悪逆非道な反逆者であったならば、死後に手厚く祀られることは考えにくい。「祟り」の伝承は、彼の死が不当であった、あるいは同情すべき点があったという人々の感情が投影されたものと解釈できる。
また、勝利した季広政権側にとっても、叛乱の根を完全に断ち、地域の動揺を鎮めるためには、武力による鎮圧だけでなく、基広の御霊を祀るという宗教的な手段を用いて人心を掌握する必要があった。これは、武力だけでは地域社会を完全に服従させられなかったことの裏返しとも言える。
したがって、荒神堂の存在は、公式の歴史書『新羅之記録』が語る「単純な反逆者」という物語とは裏腹に、地域レベルでは彼の死が容易に忘却・清算できないほどの大きな事件であったことを物語る、極めて重要な民俗学的・考古学的証拠なのである。
蠣崎基広の叛逆は、歴史の表舞台では「家督に不満を抱いた従兄弟による、鎮圧されて然るべき反乱」として片付けられてきた。しかし、本報告書で検証してきたように、その深層には、より複雑で構造的な要因が横たわっていた。
彼の叛逆は、単なる個人的な野心による事件ではない。それは、蠣崎氏が蝦夷地という特殊な環境で領主権力を確立していく過程で必然的に生じた、中央集権化と地方分権、アイヌに対する融和政策と強硬政策、そして主家である安東氏の内紛という外部要因が複雑に絡み合った、相克の悲劇であった。基広は、辺境の軍事拠点を守り、独自の経済圏と対アイヌ関係を築いてきた地方領主として、松前宗家が進める新たな統治体制に異を唱えたのである。
歴史は常に勝者によって語られる。この内乱を乗り越え、反対勢力を粛清したことで、季広の権力は盤石なものとなった。蠣崎氏の統治方針は、季広の敷いた融和・交易管理路線で一本化され、その後の安東氏からの実質的な自立、そして息子・慶広の代における豊臣・徳川政権からの公認、すなわち松前藩の成立へと繋がる道筋が確固たるものとなった。その意味で、基広の死は、いわば松前藩誕生のための「産みの苦しみ」の一部であったと結論づけることができる。
蠣崎基広は、歴史の敗者である。彼の名は、子孫が繁栄した季広の影に隠れ、ほとんど顧みられることはない。しかし、彼の存在を多角的に検証することは、戦国時代という時代の権力闘争の本質、勝者によって語られる歴史の危うさ、そして文献史料の記述を考古学や民俗学の成果と統合することで、いかに歴史の深層に迫ることができるかという、歴史研究の重要性を我々に教えてくれる。勝山館跡に今も残る荒神堂の伝承は、公式記録が抹消しようとした敗者の記憶が、地域の人々によって語り継がれてきた証である。蠣崎基広の生涯は、北の辺境で繰り広げられた知られざる戦国史を映し出す、一枚の鏡なのである。