戦国時代、数多の武将が覇を競う中で、西園寺実充(さいおんじ さねみつ、永正7年(1510年) - 永禄8年(1565年))は、伊予国(現在の愛媛県)南部に君臨した特異な存在として歴史にその名を刻んでいる。彼は単なる一地方領主(豪族)に留まらず、京都の名門公家の血を引く「公家大名」という、戦国期において稀有な出自を持つ人物であった 1 。その生涯は、黒瀬城主として周辺勢力と干戈を交える武士としての厳しい現実(武)と、京に上り宗家の和歌会に列するほどの洗練された文化的素養(雅)という、二つの側面を往還するものであった 1 。
実充の権力基盤は、軍事力のみならず、彼が受け継いだ公家としての文化的権威と不可分に結びついていた。彼の人生は、この武と雅の二元性が時に相克し、時に融合する物語として捉えることができる。本報告書は、実充の政治的・軍事的行動が、彼の公家としてのアイデンティティといかに深く結びついていたかという視点から、その生涯を立体的に再構築することを目的とする。公家の日記である『言継卿記』のような一次史料、伊予の軍記物である『清良記』、そして現代の歴史研究の成果を批判的に比較検討することで、これまで断片的に語られてきた西園寺実充という武将の、より精緻で多角的な人物像に迫るものである 2 。
伊予西園寺氏の源流は、京都にその本拠を置く公家の名門、西園寺家にある。藤原北家閑院流を汲むこの一族は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて朝廷内で大きな勢力を誇った 6 。特に鎌倉時代には、朝廷と幕府の連絡役である「関東申次」の職を世襲し、太政大臣を輩出するなど、公家社会の筆頭格として政界に君臨した 6 。
この西園寺家が伊予国と深く関わるきっかけとなったのが、伊予国最大の荘園であった宇和荘の獲得である。鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)、西園寺公経が鎌倉幕府との強固な関係を背景にこの広大な荘園を知行国主として手中に収めた 2 。これが、後の伊予西園寺氏が誕生する経済的・政治的基盤となったのである。当初、西園寺家は代官を派遣して宇和荘を経営するに過ぎなかったが、南北朝時代の動乱期に入ると、宗家の一族が荘園からの年貢収入の安定化と在地支配の強化を目的として、直接宇和の地に下向し土着するようになった 2 。これにより、彼らは京の公家から、在地の武士団を統率する地方領主、すなわち「公家大名」へとその性格を変貌させていったのである。
西園寺実充が生きた16世紀の伊予国は、複数の勢力が複雑に入り乱れる群雄割拠の状態にあった。中予(伊予中部)には守護である河野氏が勢力を張り、西園寺氏の領地である宇和郡に隣接する喜多郡には宇都宮氏が、そして南方の土佐国(現在の高知県)からは、同じく公家を祖とする土佐一条氏が国境を越えて影響力を及ぼしていた 11 。西園寺氏は、これら周辺勢力との間で絶えず緊張と抗争を繰り返すことを余儀なくされた。
西園寺氏の支配体制は、強力な中央集権的なものではなかった。宇和郡内に割拠する在地国人(土豪)たちを束ねる「盟主」としての立場であり、その権力は「西園寺十五将」に代表される有力家臣団との連合政権に近い性格を有していた 8 。このため、その支配基盤は常に内部からの離反の危険性をはらむ、脆弱なものであったと言える。
西園寺実充の出自、特にその父親が誰であるかについては、史料によって記述が錯綜しており、長らく謎とされてきた。ある系図では西園寺公家(きんいえ)の子とされ、別の説ではさらにその父である公季(きんすえ)の子とするものまで存在し、情報が混乱している 1 。
この情報の混乱は、単なる記録の誤りというよりも、戦国時代の社会の流動性や、後世に編纂された系図が持つ政治的意図、そして記録管理の不確実性を象徴する事象と捉えることができる。当時の動乱の中で正確な記録が失われたか、あるいは後の時代に一族の権威を高めるなどの目的で、都合の良いように系図が改変された可能性が考えられる。
こうした状況に対し、現代の歴史学者である石野弥栄氏は、矛盾の多い系図よりも他の一次史料との整合性を重視する史料批判の手法を用い、実充は西園寺公宣(きんのぶ)の子であるとする説を提唱した 1 。この「公宣子息説」は、現時点において最も説得力のある学説として広く受け入れられている 14 。この学説の提示自体が、錯綜した史料の中からより確からしい歴史像を再構築しようとする、歴史学の営みそのものを示している。
西園寺実充は、その居城の名から「黒瀬殿」という尊称で呼ばれ、南伊予の領主として一定の権威を確立していたことがうかがえる 1 。彼の統治は、絶対的な君主として君臨するものではなく、宇和郡内に割拠する有力な土豪たちを束ねる盟主としての性格が強かった。その象徴が「西園寺十五将」と呼ばれる家臣団である 2 。彼らはそれぞれが独立した勢力を持つ国人であり、実充との関係は主従でありながらも同盟に近い側面を持っていた 18 。このため、実充の統治は常に彼らとの協調と、内部結束の維持という課題を抱えていた。
実充の治世における最大の事業の一つが、本拠地の大規模な移転であった。天文年間(1532年~1555年)頃、伊予西園寺氏が代々拠点としてきた松葉城を離れ、新たに築城した黒瀬城へと本拠を移したのである 3 。
この拠点移転は、単なる居城の変更ではなく、実充の優れた戦略眼を如実に示す決断であった。当初、西園寺氏にとっての主たる脅威は、北方に位置する河野氏や宇都宮氏であり、これに対する防御拠点として松葉城は機能していた 3 。しかし、実充の時代になると、地政学的な脅威の方向性が大きく変化した。南の土佐からは一条氏が、そして西の豊後(現在の大分県)からは大友氏が、それぞれ伊予への侵攻を活発化させていたのである 3 。
黒瀬城は、この南と西からの新たな脅威に正面から対抗するため、宇和盆地の南方に戦略的に配置された。さらに、長期の籠城戦において勝敗を左右する重要な要素である「水の手」、すなわち水源の確保という点においても、黒瀬城は松葉城に比べて格段に有利な立地であった 3 。これらの事実を総合すると、実充が時代の変化と地政学的リスクを的確に読み解き、将来を見据えた合理的な戦略判断を下せる、優れた領主であったことが結論付けられる。
特徴 |
松葉城(旧拠点) |
黒瀬城(新拠点) |
戦略的意義 |
立地 |
宇和盆地北部 |
宇和盆地南部 |
防御正面を北方から南方・西方へ転換 |
主たる想定脅威 |
河野氏、宇都宮氏 |
土佐一条氏、豊後大友氏 |
地政学的脅威の変化への適応 |
水の手(水源) |
不足が指摘される |
確保が容易 |
長期籠城戦への対応能力向上 |
築城時期 |
不明(西園寺氏初期) |
天文年間(実充期) |
戦国中期の最新の築城思想の反映 |
黒瀬城は、標高350メートル、比高200メートルの峻険な黒瀬山の山頂に築かれた、典型的な連郭式山城である 7 。現存する遺構や縄張図からは、その堅固な防御思想を読み取ることができる。
城の中心となる本丸は、東西に細長い広大な曲輪で、その周囲は急峻な崖に囲まれている 7 。本丸から東に向かって、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が階段状に配置され、それぞれが独立した防御区画として機能するよう設計されていた 19 。これらの曲輪群は、尾根を断ち切るように掘られた複数の堀切や、斜面に設けられた帯曲輪(犬走り)によって厳重に守られている 19 。また、城の出入り口である虎口は、敵の侵入を困難にするため、枡形と呼ばれる複雑な構造を持っていた 19 。
このように、黒瀬城は天然の地形を最大限に活用しつつ、石垣や土塁、堀切といった人工的な防御設備を巧みに組み合わせることで、難攻不落の要塞として構築された 20 。この城の存在こそが、実充の支配を軍事的に支える最大の柱であり、彼が「宇和最強の雄城」を拠点とする領主として、周辺勢力に対峙することを可能にしたのである 22 。
実充の治世において、隣接する喜多郡の領主・宇都宮豊綱との領土をめぐる争いは、避けて通ることのできない主要な軍事紛争であった 3 。この対立は、単なる二つの在地勢力間の境界争いに留まらず、伊予国全体の勢力図を左右する代理戦争の様相を呈していた。
当時の南伊予では、西園寺氏が中予の河野氏と連携する一方で、宇都宮氏は南の土佐一条氏と手を結ぶという、広域的な同盟関係が形成されていた 11 。このため、西園寺氏と宇都宮氏の衝突は、必然的に河野氏や一条氏、さらにはその背後にいる毛利氏や大友氏といった大勢力の思惑が絡み合う、複雑な国際紛争へと発展する可能性を常に秘めていたのである。
弘治2年(1556年)、両者の長きにわたる緊張関係は、ついに大規模な軍事衝突へと発展する。宇都宮豊綱が、西園寺方の支城である飛鳥城(現在の西予市宇和町)を攻め寄せたのである 3 。この戦いは、西園寺実充とその一族にとって、忘れ得ぬ悲劇の舞台となった。
この戦において、実充が待望していた嫡男であり、西園寺家の未来を担うはずであった西園寺公高(きんたか)が、わずか19歳という若さで討死を遂げたのである 13 。軍記物である『清良記』や『南予史概説』によれば、公高は当時、狩猟に出ていたが、飛鳥城の急を知るや否や、その場から戦場へ直行したという。そして、得意の槍を手に自ら敵陣に突入し、勇猛果敢に奮戦したものの、敵の矢(一説には鉄砲)に当たり、壮絶な最期を遂げたと伝えられている 27 。これらの軍記物の記述には文学的な脚色が含まれる可能性も否定できないが、後継者である公高がこの戦いで命を落としたという歴史的事実は、複数の史料で確認できる確かなものである 4 。
嫡男・公高の戦死は、西園寺実充個人にとって計り知れない悲しみであったと同時に、伊予西園寺氏という一族の運命を大きく揺るがす決定的な出来事であった。この一件は、西園寺氏の衰亡へと繋がる一連の負の連鎖を引き起こす画期となったのである。
後継者を失った衝撃と軍事的な敗北は、実充の立場を著しく弱体化させた。彼は失意の中、宿敵であった宇都宮豊綱との和睦を受け入れざるを得なくなる。さらに深刻なのは、その和睦の仲介を、伊予国内の同格の領主であるはずの河野通宣に依頼しなければならなかったという事実である 1 。これは、西園寺氏が自力で紛争を解決する能力を失い、河野氏の権威に頼らざるを得ないほどに追い詰められていたことを内外に示すものであり、一族の威信を大きく損なう屈辱的な出来事であった。
この「軍事的敗北」「後継者の喪失」「屈辱的な和睦」という一連の流れは、西園寺氏の支配体制に深刻な亀裂を生じさせた。直系の後継者がいなくなったことで、実充は甥の公広を僧籍から還俗させて養子に迎えるという、不規則な家督継承を強行せざるを得なくなった 3 。この不安定な継承問題は、後の長宗我部氏による侵攻を容易にする遠因となり、西園寺氏滅亡への道を準備することになったのである。
永禄3年(1560年)、西園寺実充は朝廷より従五位下・左近衛少将に叙任された 1 。戦国時代の地方武将にとって、京都の朝廷から官位を授かることは極めて重要な意味を持っていた。これは、自らの支配の正統性を内外に誇示し、周辺の在地領主たちに対する格の違いを見せつけるための、強力な政治的手段であった。特に実充の場合、彼自身が名門公家の血を引くことから、この叙任は彼の公家としての出自という文化的資本を最大限に活用した、巧みな戦略であったと評価できる 11 。
永禄8年(1565年)5月、実充は京都へ上洛する。この事実は、当時の公家・山科言継の日記である『言継卿記』に明確に記録されている、信頼性の高い情報である 1 。この上洛は、単なる文化的な都見物ではなかった。その時期を鑑みれば、極めて緊迫した政治状況下で行われた、高度な政治的行為であったことがわかる。
『言継卿記』によれば、実充が京で和歌会に列席したのは永禄8年5月9日である 4 。一方、室町幕府第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって二条御所で襲撃され、殺害された一大政変「永禄の変」が勃発したのは、同年の5月19日であった 30 。わずか10日という時間的近接性は、実充が平穏な京都を訪れたのではなく、政変前夜の不穏な空気が充満する中、意図的に情報収集と政治工作のために上洛したことを強く示唆している。この文脈で彼の上洛を捉え直すと、それは中央政界の動向を肌で感じ、自らの政治的立場を再確認し、朝廷や有力者との繋がりを誇示するための、極めて戦略的な行動であったと評価できるのである。
実充の上洛におけるハイライトは、京都の西園寺本家当主であった左大臣・西園寺公朝(きんとも)の邸宅で開かれた和歌会への列席であった 1 。この出来事もまた、『言継卿記』に記されている 4 。
この文化的活動は、象徴的な意味合いを強く帯びていた。西園寺家は代々、和歌の家として朝廷内で名高く、多くの優れた歌人を輩出してきた家門である 31 。その宗家の歌会に参加するということは、実充が単なる伊予の田舎武士ではなく、京の雅な文化世界に連なる正統な公家の一員であることを、天下に示す行為に他ならなかった。彼の武将としての「武」の側面だけでなく、文化人としての「雅」の側面をアピールすることは、彼の権威の源泉を補強し、武力だけではない統治の正当性を支える重要な要素であった 33 。
嫡男・公高の戦死により、西園寺氏は断絶の危機に瀕した。この窮地を乗り越えるため、実充は一族の存続を賭けた決断を下す。それは、甥にあたる公広(きんひろ)を後継者として迎えることであった 1 。公広は当時、伊予来住寺(きしじ)で僧籍に身を置いていたが、実充の強い要請を受けて還俗し、西園寺家の家督を継ぐことになった 3 。
さらに実充は、自らの娘である西姫を公広に嫁がせた 1 。これにより、養子縁組と婚姻という二重の絆で後継者としての公広の立場を固め、一族の血脈を繋ごうと図ったのである。これは、後継者不在という最大の危機に直面した老将の、最後の望みであった。
京への上洛から伊予へ帰国して間もない永禄8年(1565年)、西園寺実充はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年56であった 1 。同年のうちに出家したことも記録されており、自らの死期を悟っていたのかもしれない 1 。
実充の跡を継いだ西園寺公広は、就任直後から困難な舵取りを迫られた。南の土佐からは、「土佐の出来人」と称された長宗我部元親が、破竹の勢いで四国統一へと乗り出していたのである 3 。実充が懸命に築き上げた南伊予における西園寺氏の権勢も、戦国末期の巨大な時代のうねりの前には、もはや盤石なものではなくなっていた 36 。
公広の治世は、絶え間ない外圧との戦いであった。長宗我部元親の猛攻の前に、天正12年(1584年)、ついに公広は降伏し、その軍門に下った 3 。しかし、その翌年の天正13年(1585年)には、天下統一を目指す豊臣秀吉が四国平定軍を派遣。公広は今度は秀吉軍を率いる小早川隆景に降伏し、その支配下に入ることで、かろうじて黒瀬城とその周辺の所領を安堵された 9 。
しかし、伊予西園寺氏の運命は、ここで尽きる。天正15年(1587年)、秀吉の国替え政策により、伊予南部の新たな領主として戸田勝隆が入部した。勝隆は、豊臣政権の支配を確立すべく、強硬な太閤検地を実施しようとしたが、これに反発する西園寺氏の旧家臣や在地領主らによる一揆が勃発する 39 。勝隆はこの一揆の背後に、隠然たる影響力を持つ旧領主・公広がいると疑った。
そして、勝隆は非情な謀略に打って出る。「秀吉公が、貴殿の旧領を安堵するとの朱印状を下された」という偽の書状で公広を大洲城へと誘い出し、油断したところを謀殺したのである 3 。これにより、鎌倉時代から続いた伊予西園寺氏の家系は、大名としては完全に滅亡した 41 。
この戸田勝隆の行為は、『清良記』などの後世の編纂物において、彼の「残虐非道な暴君」というイメージを決定づけた 40 。しかし、この評価は史料批判的な視点から再検討する必要がある。山内治朋氏らの研究が示すように、勝隆の悪評を裏付ける同時代の一次史料は乏しい 43 。彼の行動は、個人的な残虐性というよりも、豊臣政権が全国で進めていた、旧来の在地勢力を排除し、中央集権的な支配を確立するという国家政策を、新領主として忠実に実行した結果と捉えることも可能である。公広の謀殺は、豊臣政権による地方支配確立の過程で頻発した、旧勢力排除の典型的な一例であり、戦国時代の終焉を象徴する悲劇であったと言えよう。
西園寺実充の生涯は、激動の戦国時代にあって、一族の存続と繁栄という重責を背負い、武と雅を両輪として戦い抜いた、有能な領主の姿を我々に示している。彼は、黒瀬城の築城という優れた軍事戦略、周辺勢力との巧みな合従連衡、そして上洛や叙任といった文化的権威の活用を駆使し、南伊予の地に確固たる地位を築き上げた。
実充は、戦国時代における「公家大名」の典型として評価することができる。彼の生涯は、公家という高貴な血筋とそれに伴う文化的資本が、いかにして乱世における権力の源泉となり得たかを示す好例である。しかし同時に、その伝統的な権威も、長宗我部氏や豊臣政権といった、純然たる軍事力と中央集権的な支配システムを持つ新興勢力の前に、最終的には無力であったという歴史の非情な現実と、その限界をも示している。
彼の奮闘にもかかわらず、嫡男・公高の戦死という一つの不運が、家督継承に修復不可能な亀裂を生じさせ、結果として彼自身の死からわずか22年で一族は滅亡の淵に追いやられた。西園寺実充の物語は、単なる一地方領主の興亡史に留まらない。それは、戦国乱世の最終段階において、多くの旧来の名門勢力が辿った運命の縮図であり、時代の大きな転換期における権力の変質と、個人の力では抗い難い歴史の非情さを、今に伝えている。