最終更新日 2025-06-28

谷衛友

猛将か、智将か―丹波山家藩祖・谷衛友の生涯と実像

序章:乱世を駆け抜けた生存者

日本の歴史上、最も激しい変革の時代であった戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代へ。この動乱期を、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕え、巧みに生き抜いた一人の武将がいた。その名は谷衛友(たに もりとも)。彼は、丹波国に一万石余の小藩、山家藩の初代藩主としてその名を刻む。

一般に衛友は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属しながらも、巧みな立ち回りで所領を安堵された人物として知られる。しかし、その生涯は単なる処世術に長けた武将という評価に留まるものではない。戦場では比類なき武勇を誇る「猛将」としての顔を持つ一方で、時代の潮流を読み、人間関係という無形の資産を最大限に活用する「智将」としての側面も併せ持っていた。

本報告書は、谷衛友の出自から、豊臣政権下での華々しい武功、天下分け目の関ヶ原における決断、そして徳川の世における藩主としての治世まで、その生涯を多角的に検証する。彼の行動原理、そして彼が築いた山家藩が、なぜ激動の時代を乗り越え明治維新まで家名を存続させ得たのか。その成功の要因が、個人の武勇にあったのか、時流を読む政治的嗅覚にあったのか、あるいは人間関係の構築力にあったのか。これらの複合的な要因を解き明かし、谷衛友という武将の実像に迫ることを目的とする。

第一部:谷家の出自と武門の礎

谷衛友の人物像を理解するためには、まず彼が生まれ育った谷家の背景と、その武門の伝統を紐解く必要がある。谷家は、単なる地方の武士ではなく、専門技術を持つ特異な家系であった。

美濃の土豪・谷氏の源流

谷衛友の父は、谷衛好(もりよし)という武将である 1 。衛好は享禄2年(1529年)、美濃国(現在の岐阜県)にて福田正之の子として生を受けた 2 。母は蒲生貞之の娘と伝わる 2 。彼は、近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井氏に仕える伯父、谷綱衛(谷野綱衛とも)の養子となり、福田姓から谷(あるいは谷野)姓へと改めた 2 。谷氏のルーツは、近江国甲賀郡谷郷にまで遡るとされ、この地名が姓の由来となったと考えられている 5

衛好は当初、美濃の「蝮」と恐れられた斎藤道三に仕え、その子・義龍、孫・龍興の三代にわたって斎藤家の家臣として活躍した 1 。しかし、織田信長によって斎藤氏が滅ぼされると、衛好は信長に仕官し、その命によって羽柴秀吉の与力(配下の武将)となった 1

信長の家臣団に加わった衛好は、天正4年(1576年)の石山合戦において武功を挙げ、信長自らから感状を授かるという栄誉を得た 2 。この功績により、彼は播磨国平田(現在の兵庫県)に6,000石の所領を与えられ、秀吉の中国攻めにおける重要な一翼を担うこととなる 2

父・衛好の武名と「谷流試刀術」

谷衛好は、戦場での武勇のみならず、特異な専門技術を持つ人物として知られていた。それは、日本刀の切れ味や性能を鑑定する「試刀術(しとうじゅつ)」である 2 。衛好はこの道の達人であり、自ら「谷流」という一流派を興した始祖とさえ伝えられている 10

この谷流試刀術は、息子の衛友にも継承された。さらに後世、江戸時代に公儀御様御用(こうぎおためしごよう)として名を馳せた山田浅右衛門といった試し斬りの名手たちも、その源流を辿れば谷流に行き着くとされる 10

この事実は、谷家が単に戦場で戦うだけの武辺の家ではなく、武士の魂ともいえる刀剣の性能を見極めるという、高度な専門知識と技術を持つ一族であったことを示唆している。武具への深い理解は、戦場での働きに直結する。衛友が後年見せる数々の武功の背景には、こうした技術的基盤に裏打ちされた、武器を最大限に活用する能力があった可能性は高い。この専門性は、他の多くの武将との明確な差別化要因となり、織田・豊臣という実力主義の政権下で谷家が重用される一因となったとも考えられる。

第二部:豊臣政権下の猛将

父・衛好が築いた武門の礎の上で、谷衛友は豊臣秀吉の下でその才能を遺憾なく発揮する。彼のキャリアは、父の死という悲劇を乗り越えた鮮烈な初陣から始まった。その武勇は、実力主義が色濃い豊臣政権において、彼を大名の地位にまで押し上げる原動力となった。

初陣と父の仇討ち―三木合戦の武功

天正7年(1579年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受けて播磨の別所長治が籠る三木城を攻撃していた(三木合戦)。この戦いで、父・衛好は三木城の兵糧道を断つための重要拠点である平田砦(賀伏城)を守備していた 1 。同年9月10日、毛利氏の援軍が生石治家を大将としてこの砦に夜襲を仕掛け、激戦の末、衛好は衆寡敵せず討死した。享年50であった 1

この時、父と共に戦陣にいたのが、弱冠17歳の谷衛友であった。この三木合戦が彼の初陣であった 1 。父の壮絶な死を目の当たりにした衛友は、悲しみにくれる間もなく、その場で父を討った敵将・室小兵衛(むろ こへえ)に単騎で挑みかかり、見事これを討ち取った。さらに敵中に残された父の遺骸を奪い返すという、初陣とは思えぬ離れ業を演じたのである 1

この若武者の目覚ましい武功は、すぐに総大将である秀吉、そして信長の耳に達した。信長は衛好の死を深く悼むと共に、衛友の勇猛果敢な働きを賞賛。9月27日付の書状で、父の本領であった播磨平田6,000石の安堵に加え、新たに2箇所の新恩地を与えることを約束した 1 。これにより、衛友は17歳にして6,200石を知行する武将として、華々しいキャリアの第一歩を踏み出した。この成功体験は、彼のその後の行動原理、すなわち戦場での功名を第一とする猛将としての生き方を決定づけたと言えるだろう。

秀吉麾下での転戦と武勇伝

父の跡を継いだ衛友は、秀吉麾下の武将として、その後の主要な合戦のほとんどに参加し、数々の武功を立てていく。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の紀州征伐など、彼の名は常に秀吉軍の先鋒にあった 1

彼の負けん気の強さと功名心を示す逸話として、天正15年(1587年)の九州征伐における豊前国・岩石城(がんじゃくじょう)攻めでの一件が伝わっている。城への一番乗りを狙う際、衛友は我先にと駆ける味方の武将の草履を後ろから引っ張って転ばせ、その隙に自分が一番乗りの功名を立てたという 1 。現代の感覚では非難されかねないこの行為も、武功を尊ぶ当時の価値観の中では、彼の勇猛さの証として秀吉から称賛された 1

天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉本陣の前備衆の一人として伊豆山中城攻めに参加し、軍功を挙げた 1 。続く文禄元年(1592年)からの文禄の役では、450人の兵を率いて朝鮮へ渡海。ここでも戦功を挙げ、秀吉から名刀「国光」を賜っている 1 。そして慶長3年(1598年)、天下人・秀吉がその生涯を閉じると、衛友は遺品として釣切の脇差を拝領する栄誉に浴した 1 。これらの戦歴は、彼が豊臣政権の中核を担う、信頼された猛将であったことを物語っている。

丹波山家一万六千石への栄進

一連の戦功により、谷衛友の評価は不動のものとなった。天正10年(1582年)頃、秀吉は彼の働きに応え、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)山家(現在の京都府綾部市)に移封し、1万6,000石を与えた 1 。これにより、衛友は一城の主、すなわち大名へと昇進したのである。

さらに天正16年(1588年)には、従五位下・出羽守(でわのかみ)に叙任され、名実とも有力武将の仲間入りを果たした 1 。父の代からの地盤を着実に引き継ぎ、自らの武勇でそれを大きく飛躍させた衛友の姿は、豊臣政権下で成り上がりが可能であったことを示す典型例と言えよう。

表1:谷衛友の主な戦歴と武功

年代(西暦/和暦)

合戦名

所属/役割

主な行動と武功

備考・逸話

関連史料・出典ID

1579年(天正7年)

播磨・三木合戦

羽柴軍

父・衛好の戦死後、その場で仇(室小兵衛)を討ち、遺骸を奪還。

鮮烈な初陣。信長・秀吉から賞賛され、所領を安堵・加増される。

1

1583年(天正11年)

賤ヶ岳の戦い

羽柴軍

秀吉方として従軍。

豊臣政権内での地位を固める一歩となる。

1

1587年(天正15年)

九州征伐(岩石城攻め)

豊臣軍

一番乗りを果たす。

味方の草履を引っ張り転ばせて功を立てたと伝わる。

1

1590年(天正18年)

小田原征伐(山中城攻め)

豊臣軍(本陣前備衆)

230人を率いて参陣し、軍功を挙げる。

秀吉の天下統一戦における中核部隊の一員として貢献。

1

1592年(文禄元年)

文禄の役

豊臣軍(朝鮮渡海)

450人を率いて渡海。戦功により名刀「国光」を拝領。

海外派兵にも参加し、武将としての経験を積む。

1

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い(田辺城攻め)

西軍(形式上)

細川幽斎の籠る城に対し、内通して空砲を撃つ。

「谷の空鉄砲」。戦後の本領安堵に繋がる決定的な行動。

1

1614-15年(慶長19-20年)

大坂の陣

徳川軍

徳川方として参陣。夏の陣では馬印を奪われるも奮戦し城内に突入。

徳川政権への忠誠を示し、御伽衆に加えられる。

1

第三部:天下分け目の決断―関ヶ原

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は急速に流動化する。徳川家康と石田三成の対立が先鋭化する中、全国の大名は東西いずれかの陣営に与することを迫られた。谷衛友もまた、この天下分け目の局面で、自らの家と領地の存続を賭けた重大な決断を下すことになる。彼の選択は、武力(ハードパワー)だけでなく、人間関係や文化的繋がり(ソフトパワー)がいかに重要な政治的資源となり得たかを示す、絶好の事例である。

西軍への不本意な参加

慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、谷衛友は本多正純を介して家康への従軍を願い出た 1 。これは、彼が早くから家康方に与する意思を持っていたことを示す行動である。しかし、家康からの返答は「汝は領国に留まり、畿内の警備に当たれ」というもので、同行は許されなかった 1

家康率いる東国の大名が東へ向かい、畿内が軍事的に手薄になった隙を突いて、石田三成らが挙兵する。衛友の領地である丹波国は、地理的に西軍の勢力圏の真っ只中にあった。周囲の丹波・但馬の大名の多くが西軍に与する状況下で、彼が単独で東軍支持を表明することは、即座に滅亡に繋がりかねない危険な選択であった 1 。結果として、衛友は不本意ながらも西軍への参加を余儀なくされ、大坂城では京口の小橋の警備を命じられている 1

田辺城攻防戦と「谷の空鉄砲」

西軍に加わった衛友に下された命令は、東軍に与した細川忠興の居城・丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)の攻略であった 1 。この時、城を守っていたのは忠興の父で、当代随一の文化人として知られる細川幽斎(ゆうさい、藤孝)であり、その手勢はわずか500名ほどであった 18 。対する攻城軍は、小野木重次を総大将とする1万5,000の大軍であり、衛友もその一翼を担っていた 18

しかし、衛友にとってこの命令は極めて酷なものであった。彼は、武将であると同時に、細川幽斎を和歌の師と仰ぐ弟子でもあったのである 1 。師である幽斎に弓を引くことを潔しとしなかった衛友は、密かに城中の細川方と内通を図る。そして、攻城戦が始まると、彼は味方に戦意を疑われぬよう鉄砲隊に射撃を命じながらも、実弾を込めさせず、音だけが轟く空砲を撃たせたという 1 。この逸話は、後に「谷の空鉄砲」として語り継がれることとなった。この時の様子は、城内で籠城していた幽斎の妻・麝香(じゃこう)が記録に残していたとも言われている 21

細川家との内通と本領安堵

田辺城攻めで消極的だったのは、衛友だけではなかった。攻城軍に加わっていた小出吉政など、他の武将の中にも幽斎の弟子が複数おり、彼らもまた積極的な攻撃を控えたとされる 24 。江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』にも、衛友がこの戦いの裏で細川氏と通じていた旨が記されており、彼の行動が意図的なものであったことを裏付けている 19

やがて関ヶ原の本戦で徳川家康率いる東軍が勝利すると、西軍に属した大名たちの運命は風前の灯火となった。本来であれば、衛友も改易、あるいは死罪となってもおかしくない立場であった。しかし、ここで彼が戦場で張った伏線が生きてくる。田辺城での恩義に報いる形で、細川忠興・幽斎親子が家康に強く働きかけたのである 15 。その結果、衛友は罪を問われることなく、丹波山家1万6,000石の所領をそのまま安堵された 1

この一連の出来事は、関ヶ原の戦いが単なる軍事衝突ではなく、各大名が自家の存続を賭けて繰り広げた、複雑な情報戦・政治戦であったことを象徴している。衛友は、不可避の状況下で西軍に属するというリスクを負いながらも、かねてから築いていた細川家との「人間関係」という安全保障を巧みに発動させ、最大の危機を乗り切ったのである。

第四部:山家藩初代藩主としての治世

関ヶ原の危機を乗り越えた谷衛友は、徳川の世において外様大名として新たな道を歩み始める。彼は、戦国武将としての武勇を徳川政権への忠誠へと転化させると同時に、山家藩の初代藩主として藩政の基礎を固めることに注力した。しかし、その晩年には、自らの家督相続を巡る問題が、新たな時代の秩序の中で大きな波紋を呼ぶことになる。

徳川の世への順応と大坂の陣

徳川の治世が始まると、衛友は豊臣家への旧恩よりも、新たな天下人への順応と忠誠を選んだ。その証として、慶長19年(1614年)から翌年にかけて勃発した大坂の陣には、徳川方として参陣している 1

特に慶長20年(1615年)の夏の陣では、三男・衛勝と四男・衛政を伴い、大和口から大坂城への総攻撃に参加した 1 。この戦いで、谷勢は豊臣方の猛烈な突撃を受けて一時崩れ、乱戦の中で衛友は自らの馬印(大将の旗指物)を敵に奪われるという、武将として最大の屈辱を味わった。しかし、家臣の松田六左衛門が身を挺して馬印を奪い返すと、谷勢は態勢を立て直し、味方の反撃に乗じて城の楼門から城内へと突入。首級9を挙げるという奮戦を見せた 1

戦後、細川幽斎の次男である細川興元が衛友の陣所を訪れ、その武功を尋ねたが、衛友は馬印を奪われたことを深く恥じ、頑なに功を語らなかったという 1 。しかし、その働きは将軍・徳川秀忠の知るところとなり、黄金を賜ると共に、将軍の側近であり話し相手を務める名誉職「御伽衆(おとぎしゅう)」の一人に加えられた 1 。これは、彼の武人としての価値と徳川家への忠誠が、新政権に完全に認められたことを意味する出来事であった。

山家陣屋の構築と藩政の基礎

衛友は、天正10年(1582年)に入部して以来、領地である丹波国山家(現在の綾部市広瀬町)の経営に力を注いだ。彼は、由良川とその支流である上林川に挟まれた丘陵の突端という要害の地に、藩の政庁となる山家陣屋(山家殿、鷹栖陣屋とも呼ばれた)を構築した 5 。そして、上林川を挟んだ対岸の河岸段丘には城下町を整備し、藩政の拠点としての体裁を整えた 5

山家藩の領地は山がちで、大規模な稲作には適していなかった。そのため、藩の財政は林業や、特産品であった黒谷和紙の生産に大きく依存していた 23 。衛友は、豊臣秀吉から何鹿郡内の山林からの運上金、すなわち「山年貢」を徴収する権利を認められていた 29 。この権利を実効支配するため、彼は茶薄山(ちゃうすやま)城に山奉行所を設置し、家臣の伊藤伊織を派遣して徴収業務にあたらせた記録が残っている 30 。これは、衛友が単なる武人ではなく、領地の経済的特性を理解し、その基盤固めに努めた統治者であったことを示す具体的な証左である。

晩年と家督相続問題

数々の武功を立て、藩の礎を築いた谷衛友であったが、寛永4年12月23日(西暦1628年1月29日)、江戸の藩邸にて65年の生涯を閉じた 1 。彼の死後、谷家は大きな問題に直面する。家督相続問題である。

衛友には多くの男子がいたが、嫡男(長男)であった衛成は父に先立って亡くなっていた 31 。衛友は生前、末子であった衛冬(もりふゆ)に家督を継がせたいとの遺言を残していた 1 。衛友がなぜ末子相続を望んだのか、その明確な理由は史料に残されていないが、寵愛していた側室の子であった可能性などが推測される 1

しかし、この衛友の遺言は、幕府の年寄衆(老中)には受け入れられなかった。この相続問題には、谷家と旧知の間柄であった肥後熊本藩主・細川忠興と忠利の親子も深く関与し、当初は衛友の遺言通りに事が進むよう衛冬を支援した 32 。だが、最終的には幕府の裁定が下り、寛永5年(1628年)、四男の衛政(もりまさ)が家督を継ぐことが命じられた 32

この裁定は、嫡流に近い男子による相続を原則とし、御家騒動を未然に防ごうとする初期徳川政権の強い意志の表れであった。さらに、家督相続に伴い、衛友が遺した1万6,000石の所領は分割されることになった。本藩は衛政が1万石を継承。残りの6,000石は、弟の衛冬に1,500石(梅迫谷家)、甥の衛之(早世した長男・衛成の子)に2,500石(上杉谷家)、衛清(三男・衛勝の子)に2,000石(十倉谷家)がそれぞれ分知され、この三家は藩主の家臣ではなく、将軍直属の旗本となった 5 。これは、大名の力を削ぎ、その一族を直臣として組み込むことで中央集権体制を強化しようとする幕府の巧みな政策であり、谷家はこの幕府の方針を受け入れることで、本家の存続と一族全体の安泰を確保したのである。この一件は、戦国の遺風が薄れ、幕藩体制という新たな秩序が確立していく時代の転換点を象徴する出来事であった。

第五部:谷衛友の人物像と逸話

谷衛友の生涯を彩るのは、戦場での武功や政治的な決断だけではない。彼の人柄を伝える数々の逸話は、猛々しさと繊細さを併せ持つ、多面的な人物像を浮かび上がらせる。それは、戦国から江戸へと移り変わる時代が求めた、新たな武士の理想像を体現していたのかもしれない。

「匹夫の勇」―加藤清正との対峙

衛友の剛直で気性の激しい性格を物語る逸話として、加藤清正との対決が伝えられている。ある時、親友である細川忠興の仲介で、豊臣恩顧の猛将として天下に名高い加藤清正と面会する機会があった。その席で、些細なことから口論となり、衛友は清正に対し「清正、俺を誰だと思って今のような暴言を吐いたのか」と一喝し、恫喝したという 1

その場は忠興が慌てて間に入り、事なきを得たが、この逸話は衛友が相手の身分や名声に一切臆することのない、純粋な武人としての気概を持っていたことを示している。同じく豊臣政権下で叩き上げとして出世した清正に対し、同格、あるいはそれ以上の自負心を抱いていたことが窺える。その勇気は、時に「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」(思慮に欠ける向こう見ずな勇気)と評される危うさもはらんでいたが、彼の武人としての矜持を象徴する出来事であった。

細川忠興との深い親交

衛友の生涯において、細川家との関係は極めて重要であった。特に関ヶ原の戦いを経て、細川忠興との間には利害を超えた深い友情が育まれていた。

その絆を象徴するのが「肥後橋」の逸話である。関ヶ原の後、細川家が豊前から肥後へ国替えとなった際、その道中で衛友の領地である山家を通過した。その時、一行が渡れるようにと谷間に橋が架けられた。この橋は細川家に因んで「肥後橋」と名付けられ、後年、洪水で橋が流失した際には、遠く肥後の地から細川家が修復のための資金を援助したと伝えられている 1

忠興の衛友に対する評価は非常に高く、その武勇に深く敬意を払っていた。後年、忠興が家臣に与えるための綿棒(武具の手入れ道具か、あるいは指揮棒のようなものか)を、わざわざ衛友の姿に似せて作らせ、「あいつの武勇にあやかるように」と語ったという逸話も残る 8 。この二人の関係は、谷家が徳川の世で安泰を得るための、何より強固な支えとなったのである。

文化人としての一面

猛将としての逸話が際立つ衛友だが、彼にはもう一つの顔があった。それは、文化人としての一面である。彼は細川幽斎に師事して和歌を嗜む教養人でもあった 1 。この文化的素養は、単なる趣味に留まらなかった。関ヶ原の折、田辺城に籠る師・幽斎を攻めあぐねた「谷の空鉄砲」の逸話が示すように、彼の教養と人脈が、結果的に谷家そのものを滅亡の危機から救ったのである。

戦場では誰よりも勇猛でありながら、平時においては文化の価値を理解し、人間関係を重んじる。この一見矛盾するような二面性こそが、谷衛友という人物の深みであり、魅力であろう。彼の生涯は、武勇を意味する「武」と、学問や教養を意味する「文」を両立させる「文武両道」が、乱世から治世への移行期を生き抜く上でいかに重要であったかを力強く物語っている。

第六部:後世への影響と谷家の血脈

谷衛友が築いた礎は、彼一代で終わることはなかった。彼が命懸けで守り抜いた家名は、丹波の地で明治維新まで存続し、さらにその血脈は、誰もが予期せぬ形で日本の歴史の中心へと繋がっていくことになる。

旗本三家の分立と山家藩の存続

衛友の死後、家督相続に伴う分知によって山家藩の石高は1万6,000石から1万石へと減少した 23 。しかし、藩主・谷家は外様大名として巧みに徳川の世を生き抜き、13代にわたって山家の地を治め、明治維新を迎えた 23

明治時代に入り、廃藩置県によって山家藩は山家県となり、その後京都府に編入された 23 。谷家は、明治政府によって新たに創設された華族制度のもとで、旧小藩藩主として子爵(ししゃく)に列せられ、近代日本の貴族の一員となった 3 。一人の武将が興した家が、幾多の時代の荒波を越えて近代まで続いたことは、初代・衛友の功績の大きさを物語っている。

皇室へと繋がる血脈

谷衛友が後世に残した影響の中で、最も驚くべきは、その血脈が日本の皇室にまで繋がっているという事実である。

衛友には娘がおり、その一人が京都の公家、権大納言・園基音(その もとなり)に嫁いだ 1 。武家と公家の婚姻は、当時、政治的な結びつきを強めるためによく行われた。この婚姻によって、谷家は朝廷との間に貴重なパイプを持つことになった。

この二人の間に生まれた娘が、園国子(その くにこ)、後の新広義門院(しんこうぎもんいん)である。彼女は後水尾天皇の後宮に入り、皇子を産んだ。この皇子こそが、後に第112代天皇として即位する霊元天皇である 1

つまり、谷衛友は霊元天皇の外曾祖父にあたる。これにより、美濃の土豪から身を起こした一武将の血は、女系を通じて天皇家に受け継がれた。そして、その血筋は霊元天皇以降の歴代天皇を経て、現在の皇室にまで連綿と続いているのである 1 。これは、歴史の偶然のようにも見えるが、衛友が細川家との交流を通じて京の文化圏と接点を持ち、娘を名門公家に嫁がせるだけの家格と人脈を築き上げたという、彼の生涯の努力がもたらした必然の結果とも言える。

終章:谷衛友の総合評価

谷衛友の生涯は、戦国乱世の終焉と近世幕藩体制の確立という、日本史の大きな転換点を一個人がいかにして生き抜いたかを示す、類稀な物語である。

彼は、父・衛好から受け継いだ武門の伝統と試刀術という専門技術を背景に、豊臣政権下でその武勇を遺憾なく発揮した「猛将」であった。初陣での父の仇討ち、一番乗りへの執着、そして加藤清正をも恫喝する剛胆さ。これらは、実力が全ての戦国の世を駆け上がるために不可欠な資質であった。

しかし、彼の真骨頂は、単なる武辺一辺倒の人物に留まらなかった点にある。天下分け目の関ヶ原において、彼は武力ではなく、師である細川幽斎との文化的・人間的な絆を頼りに、自家の存続という最大の目的を達成した。この「谷の空鉄砲」に象徴される行動は、彼が時代の変化を敏感に察知し、新たな価値観に適応できる「智将」の側面を持っていたことを示している。徳川の世が到来すると、彼はその武勇を新政権への忠誠へと転化させ、大坂の陣での奮戦によって御伽衆という名誉ある地位を確立した。

谷衛友は、武勇、知略、そして人間的魅力を巧みに駆使し、家名を未来へと繋いだ。彼が築いた丹波山家藩は、その故地である京都府綾部市に今なお歴史の息吹を伝え、彼が遺した血脈は、思いがけない形で現代の日本にまで続いている。谷衛友は、戦国という時代が生んだ、記憶されるべき一人の「生存者」であり、卓越した成功者であったと結論付けられる。

引用文献

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  10. 谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36313/
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  13. 羽柴方谷大膳衛好、憤死の地、平田山砦 - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/02/08/hiratayamatoride/
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