足利尊氏は室町幕府初代将軍。鎌倉幕府を倒し建武の新政から離反、南北朝時代を招く。弟直義との対立「観応の擾乱」を制し、武家政権を確立。
日本史上、足利尊氏ほどその評価が時代によって劇的に揺れ動いた人物は稀有である。室町幕府の初代将軍として歴史に名を刻みながら、彼は長らく「逆賊」の烙印を押され続けてきた。特に、江戸時代に徳川光圀が主導した水戸学の史観が、後醍醐天皇の南朝を正統と位置づけたことにより、天皇に弓を引いた尊氏は非難の対象となった 1 。この評価は幕末の尊王攘夷運動を経て明治政府の皇国史観へと受け継がれ、戦前の日本では、尊氏は国家と天皇に背いた「国賊」として、楠木正成の忠義と対比される形で断罪されたのである 3 。
しかし、戦後、皇国史観の束縛から解き放たれた歴史学は、史料に基づいた実証的な研究を推し進めた。その結果、尊氏が直面した時代の困難、武家の棟梁としての苦悩、そして彼自身の人間的な魅力や寛容さが再評価されるようになった 1 。こうして、かつての「逆賊」像は、より複雑で多面的な人物像へと塗り替えられていった。
本報告書は、こうした単純な二元論に陥ることなく、尊氏の生涯を多角的に検証することを目的とする。彼の出自から鎌倉幕府打倒、建武の新政との決別、室町幕府の創設、そして「観応の擾乱」という未曾有の内乱に至るまで、その行動の軌跡を丹念に追う。さらに、彼の統治政策、経済基盤、そして彼を取り巻く重要人物との関係性を深く分析することで、矛盾に満ちた時代の要請に応えようとした一人の英雄の実像に迫るものである。
西暦 (和暦) |
尊氏の年齢 |
足利尊氏の動向 |
幕府・武家社会の動向 |
朝廷(南朝・北朝)の動向 |
1305 (嘉元3) |
1歳 |
足利貞氏の次男として誕生 5 。 |
- |
- |
1331 (元弘元) |
27歳 |
父・貞氏の死去に伴い足利氏当主となる 7 。幕府の命で元弘の乱鎮圧のため上洛。 |
鎌倉幕府、後醍醐天皇討伐軍を派遣。 |
後醍醐天皇、笠置山で挙兵。 |
1333 (元弘3) |
29歳 |
丹波で幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻略 9 。 |
新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府滅亡。 |
後醍醐天皇、隠岐から帰京し建武の新政を開始。 |
1335 (建武2) |
31歳 |
中先代の乱を鎮圧後、鎌倉に留まり建武政権と対立 9 。 |
北条時行が中先代の乱を起こす。 |
後醍醐天皇、尊氏討伐のため新田義貞を派遣。 |
1336 (建武3/延元元) |
32歳 |
一時九州へ敗走後、再起。湊川の戦いで楠木正成・新田義貞を破り入京 11 。『建武式目』を制定。 |
- |
光明天皇(北朝)を擁立。後醍醐天皇は吉野へ逃れ南朝を樹立。 |
1338 (暦応元/延元3) |
34歳 |
北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く 9 。 |
- |
北朝と南朝の対立が本格化。 |
1339 (暦応2/延元4) |
35歳 |
後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺の造営を開始 14 。 |
- |
後醍醐天皇、吉野で崩御。 |
1349 (貞和5/正平4) |
45歳 |
高師直のクーデターにより、弟・直義が政務から引退し出家 16 。 |
執事・高師直と足利直義の対立が激化。 |
- |
1350 (観応元/正平5) |
46歳 |
直義が南朝に降り、観応の擾乱が勃発 18 。 |
幕府が尊氏・師直派と直義派に分裂し、全国的な内乱へ。 |
南朝、直義の降伏を受け入れ勢力を回復。 |
1351 (観応2/正平6) |
47歳 |
打出浜の戦いで敗北。高師直・師泰兄弟が殺害される 19 。南朝と和睦(正平一統)。 |
高師直一族が滅亡。 |
正平一統により、一時的に皇統が南朝に一本化される。 |
1352 (文和元/正平7) |
48歳 |
直義を破り、鎌倉で死に至らしめる(毒殺説あり) 10 。 |
観応の擾乱が終結に向かう。 |
正平一統が破綻。南朝、京都を一時占拠するも撤退。 |
1358 (延文3/正平13) |
54歳 |
九州遠征を計画するも、背中の腫物が悪化し、京都で死去 10 。 |
嫡男・義詮が2代将軍を継ぐ。 |
南朝との抗争は継続。 |
足利尊氏は、嘉元3年(1305年)、鎌倉幕府の有力御家人であった足利貞氏の次男として生を受けた。母は上杉清子である 9 。幼名を又太郎、初名を高氏(たかうじ)といい、この「高」の一字は、当時の幕府執権であった北条高時から拝領したものと伝えられている 6 。
足利氏の出自は、清和源氏の嫡流、八幡太郎源義家に遡る名門であった 5 。源氏将軍の血筋が三代で途絶えた後、足利氏は事実上の「源氏の正嫡」として、武士社会全体から広く認識される存在となっていた 9 。その家格は、幕府の実権を握る北条氏と肩を並べるほど高く、代々北条一門と婚姻関係を結ぶことで、幕府中枢における不動の地位を築いていた 9 。尊氏自身も、鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹である赤橋登子を正室に迎えており、北条氏とは極めて密接な関係にあった 9 。彼は、一族の故郷である下野国足利(現在の栃木県足利市)には居を構えず、鎌倉の足利館から幕府に出仕する、生粋の鎌倉武士としてその青年期を過ごしたのである 5 。
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕の兵を挙げると(元弘の乱)、鎌倉幕府は、その鎮圧軍の大将として足利尊氏を起用した 7 。有力御家人の筆頭であり、北条氏と姻戚関係にある尊氏の出陣は、幕府にとって当然の選択であった 10 。
しかし、尊氏の心中には別の思惑が渦巻いていた。京都へ進軍する道中、彼は密かに後醍醐天皇と連絡を取り、丹波国篠村の八幡宮で、突如として幕府への反旗を翻したのである 9 。寝返りを決意した尊氏は、京都に設置されていた幕府の出先機関、六波羅探題を猛攻の末に攻略。時を同じくして関東で挙兵した新田義貞による鎌倉陥落と合わせ、尊氏の離反は、約150年続いた鎌倉幕府に終焉をもたらす決定的な一撃となった 9 。
尊氏のこの劇的な寝返りは、単なる日和見的な裏切り行為として片付けることはできない。その背景には、個人的な野心と、時代の要請が複雑に絡み合った、複合的な動機が存在した。第一に、足利氏が長年培ってきた「源氏の正嫡」という自負と、事実上、北条得宗家の家臣のように扱われる現状との間にあった構造的な矛盾である 9 。第二に、元寇後の恩賞問題の不満や、北条氏による得宗専制政治の強化によって、全国の御家人たちの間に幕府への不信感が蔓延していたという時代の空気がある 23 。多くの武士が、現状を打破する新たなリーダーの登場を待望していた。そして第三に、弟である足利直義からの進言も、彼の決断を後押ししたとされる 25 。
これらの要因が複合的に絡み合う中で、後醍醐天皇からの綸旨(りんじ)は、尊氏に「天皇の敵である北条氏を討つ」という絶対的な大義名分を与えた。これにより、彼は単なる反逆者ではなく、「幕府に代わる新たな武家の棟梁」として、歴史の表舞台に躍り出ることを決意したのである。彼の行動は、個人の野心と、武士階級全体の期待を背負うリーダーとしての宿命が、歴史の転換点において交差した結果であったと言えよう。
鎌倉幕府を滅亡に導いた最大の功労者として、足利尊氏は後醍醐天皇から破格の待遇で迎えられた。彼は鎮守府将軍に任じられ、従三位という公卿に匹敵する官位を与えられた 10 。さらに、後醍醐天皇は自らの諱(いみな)である「尊治(たかはる)」から「尊」の一字を授け、高氏は「尊氏」と改名した 10 。天皇が臣下に自らの名を与えることは極めて異例であり、これは尊氏が新政権においていかに重要な存在と見なされていたかを示すものであった。
後醍醐天皇が開始した「建武の新政」は、摂政・関白や幕府といった中間権力を排し、天皇が直接統治を行う親政の復活を目指すものであった。その理想は、10世紀の醍醐・村上天皇の治世、「延喜・天暦の治」に求められた 26 。しかし、この壮大な理想は、あまりにも性急かつ現実を無視した政策の連続によって、開始当初から深刻な混乱と不満を生み出すことになる。
武士たちの不満は、主に以下の三点に集約された。
第一に、恩賞の不公平である。倒幕のために命を懸けて戦った武士たちへの恩賞の給付は遅々として進まず、その内容も不十分であった。一方で、戦功のない公家や寺社が優遇される様は、武士たちの目に不公平極まりないものと映った 27。
第二に、所領問題の混乱である。新政権は、鎌倉幕府が発行した所領安堵の文書を一方的に無効とし、改めて天皇の綸旨による再確認を義務付けた。これにより、自らの所領の権利を確定させようとする武士たちが京都に殺到し、訴訟が激増。その処理のために「雑訴決断所」が設置されたものの、案件が多すぎて機能不全に陥り、武士たちの生活基盤を脅かす事態となった 26。
第三に、武家社会の慣習の無視である。新政権は、武士たちが長年培ってきた慣習や法を軽視し、公家中心の律令制的な支配を強行しようとした。さらに、大内裏の造営計画を立て、その費用を賄うために新たな増税を課そうとしたことも、戦乱で疲弊していた武士や農民の生活をさらに圧迫した 26。
こうした新政下の混乱と人々の失望は、「此比都ニハヤル物。夜討、強盗、謀綸旨…」(この頃都で流行るもの。夜討ち、強盗、偽の綸旨…)という一節で始まる『二条河原の落書』によって、痛烈に風刺されている 29 。この落書は、建武の新政が、いかに民心から乖離していたかを物語る、時代の証言と言える。
尊氏個人は天皇から厚遇されていたものの、彼は次第に全国の武士たちの不満の象徴的な受け皿となっていった 29 。武士たちの間では、「武士のことを第一に考える尊氏」への期待が高まり、その心は徐々に後醍醐天皇から離れていった 28 。
この状況に決定的な転機をもたらしたのが、1335年(建武2年)に勃発した「中先代の乱」である。北条高時の遺児・時行が、信濃で挙兵し、一時は鎌倉を占領する事態となった。尊氏は、この反乱を鎮圧するため、後醍醐天皇に征夷大将軍の職を求めたが、武家勢力の再興を警戒する天皇はこれを許可しなかった 9 。ここにきて、尊氏は決断する。彼は勅許を得ないまま独断で出陣し、見事に乱を平定。そして、後醍醐天皇からの再三の帰京命令を無視して、そのまま鎌倉に居座り、独自の恩賞給付を行うなど、新政権と公然と対立する道を選んだのである 9 。
尊氏のこの離反は、彼が受けた個人的な恩義を裏切る行為であった。しかし、彼の立場はもはや単なる一御家人ではなかった。建武の新政は、源頼朝以来の武家政権の存在意義そのものを否定するものであり、武士階級全体の利益と根本的に相容れないものであった 28 。尊氏は、「天皇への忠誠」という個人的な義理と、「武家の棟梁」として階級全体の利益を代表するという公的な役割との間で、究極の選択を迫られたのである。中先代の乱は、彼が後者を選ぶための決定的な契機となった。天皇の許可なく出兵し、武士たちに独自の恩賞を与えた行為は、彼が後醍醐天皇の臣下であることをやめ、自らが武士の利益を保障する新たな権力中心となることを、天下に宣言したに等しいものであった。
鎌倉で建武政権に反旗を翻した尊氏であったが、後醍醐天皇が派遣した新田義貞や、奥州から駆け付けた北畠顕家らの追討軍の前に苦戦を強いられ、敗北。京を追われ、西国へと敗走を余儀なくされた 10 。
しかし、九州に逃れた尊氏は、そこで驚異的な速さで勢力を回復させる。彼は、後醍醐天皇によって廃位されていた持明院統の光厳上皇から院宣(上皇の命令書)を得ることに成功し、自らが「朝敵」ではないという正統性を確保した 32 。これにより、西国の武士たちが次々と尊氏の下に馳せ参じ、その軍勢は再び強大なものとなった。態勢を立て直した尊氏は、弟の直義が率いる陸路軍と、自らが率いる水軍の二手に分かれ、再び京を目指して東上を開始した 31 。
1336年(建武3年/延元元年)5月、両軍は摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で激突する。これを迎え撃つのは、新田義貞と楠木正成が率いる朝廷軍であった 11 。この「湊川の戦い」において、尊氏は巧みな戦術を見せる。彼は、大軍船団を率いる水軍を敵の背後に回り込ませる動きを見せ、新田軍の陣形を揺さぶった。背後を突かれることを恐れた新田軍が後退したことにより、陸上で奮戦していた楠木軍は敵中に孤立してしまう 33 。数に劣る楠木軍は、死力を尽くして戦ったものの、ついに力尽き、正成は弟の正季と共に自害して果てた。総大将の一人である楠木正成を失い、新田義貞も敗走したことで、朝廷軍は壊滅。この湊川での決定的な勝利が、尊氏の入京と新たな武家政権の樹立を不動のものとしたのである 12 。
湊川の戦いに勝利し、京を制圧した尊氏は、1336年11月、新たな武家政権の基本方針を示す『建武式目』を制定した 35 。これは、鎌倉幕府の法制度にも通じていた法学者の中原章賢(是円)らが、尊氏の諮問に答えるという形式で起草されたものである 35 。
『建武式目』は、鎌倉時代の『御成敗式目』のような具体的な罰則を定めた基本法典ではなく、これから目指す政治のあり方を示した、いわば政権の所信表明演説(マニフェスト)としての性格が強いものであった 35 。全17条からなるその内容は、倹約の奨励、訴訟の迅速な処理、狼藉(暴力行為)の禁止といった治安維持策に加え、恩賞の際には能力や功績を重視すること、そして「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれる、身分秩序を無視した華美で傍若無人な風潮を戒めることなどが盛り込まれていた 35 。その根底には、建武の新政の混乱を収拾し、「万民の憂いを解く」安定した政治を実現するという、尊氏の強い意志が込められていた。
京を掌握した尊氏は、持明院統の光明天皇を新たに擁立し、自らの政権の権威的支柱とした。これが「北朝」である 10 。一方、比叡山に逃れていた後醍醐天皇は、尊氏に三種の神器の偽物を渡して和睦に応じたと見せかけ、その隙に京を脱出。大和国吉野(現在の奈良県吉野町)に拠点を移し、独自の朝廷を継続した。これが「南朝」である 38 。これにより、日本には二人の天皇と二つの朝廷が並立し、約60年にも及ぶ「南北朝時代」の動乱が幕を開けることとなった 39 。
そして1338年(暦応元年/延元3年)、尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命される 9 。これにより、彼は名実ともに武家の頂点に立ち、京都に室町幕府を開府した。
尊氏の一連の行動は、単なる武力による天下掌握ではなかった。そこには、自らの政権の正統性を構築するための、周到に計算された政治戦略が見て取れる。第一に、光明天皇を擁立することで、「天皇に仕える武家政権」という伝統的な形式を整え、自らが後醍醐天皇に反逆した「朝敵」ではないことを内外に示した。第二に、『建武式目』を公布することで、建武の新政の失敗を乗り越え、武士と民衆の双方に安寧をもたらすという新たな統治のビジョンを提示した。そして第三に、征夷大将軍に就任することで、源頼朝以来の武家の棟梁としての正統な後継者であることを天下に宣言した。彼は、武力と権威、そして理念という三つの要素を巧みに組み合わせることによって、後醍醐天皇というカリスマ的な存在に対抗し、新たな武家政権を創出したのである。
室町幕府の草創期は、南朝との戦いという外部の脅威だけでなく、幕府中枢における深刻な内紛によって、その基盤が大きく揺さぶられた。それが、日本史上最大規模の兄弟喧嘩とも言われる「観応の擾乱」である。
初期の室町幕府は、将軍として軍事指揮権や恩賞の給与といったカリスマ的な権威を担う兄・尊氏と、副将軍格として訴訟の審理や行政・司法といった実務を統括する弟・直義による「二頭政治」によって運営されていた 16 。この体制は、幼少期から仲が良かったとされる兄弟の緊密な連携により、幕府の基礎を固める上で一定の成果を上げた 16 。
かつて歴史学者の佐藤進一氏は、この二頭政治に内包された権限の対立こそが擾乱の根本原因であると指摘した。しかし近年の研究では、必ずしも両者の権限が完全に対立していたわけではなく、幕府の根幹に関わる重要事項は将軍である尊氏が、雑訴を含む日常的な実務は直義が担うという、機能的な役割分担がなされていたという見方も提出されている 40 。いずれにせよ、この権力分担の構造が、やがて来る対立の温床となったことは間違いない。
対立の直接的な引き金となったのは、尊氏の執事(家宰)である高師直と、弟の直義との間に生じた、修復不可能なほどの確執であった 16 。両者の性格と政治理念は、まさに対極にあった。
当初は水面下にあった両者の対立は、四條畷の戦いで南朝の忠臣・楠木正行を討ち取るなど、師直の軍事的功績と名声が高まるにつれて、急速に先鋭化していく 16 。これに危機感を抱いた直義は、尊氏に師直の罷免を強く要求し、一時はこれを実現させる。しかし、師直は即座に軍事力で反撃。自派の軍勢を京に集結させてクーデター(御所巻)を起こし、尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲した。結果、禅僧・夢窓疎石の仲介により、直義が政務から引退して出家することを条件に和睦が成立。師直は執事職に復帰し、権力を取り戻した 16 。
政争に敗れ、出家した直義であったが、彼が師直への復讐と政界への復帰を諦めることはなかった。1350年(観応元年)、尊氏と師直が、直義の養子である足利直冬(尊氏の庶子)の討伐のために西国へ出陣した隙を突き、直義は京都を脱出。あろうことか、それまで敵対していた南朝と結び、「師直討伐」を掲げて挙兵したのである 16 。これにより、幕府の内部対立は、南朝勢力をも巻き込み、全国規模の争乱へと発展した。これが「観応の擾乱」の幕開けである。
摂津打出浜の戦いで、直義軍は尊氏・師直軍を破る。和睦の条件として師直・師泰兄弟は出家するが、京への護送中、直義派の上杉能憲らによって武庫川のほとりで謀殺された 19 。
腹心であった師直を失っても、尊氏と直義の対立は終わらなかった。尊氏は、今度は直義自身を討伐するため、常識外れの策に打って出る。敵であるはずの南朝と一時的に和睦し、北朝の年号を廃止して南朝の年号「正平」に統一したのである(正平一統) 15 。この奇策によって政治的に孤立した直義は、関東へ逃亡するが、追撃してきた尊氏軍に敗れ降伏。そして1352年(正平7年)、鎌倉の浄妙寺境内にあった延福寺で急死した。その死は、高師直の一周忌にあたる日であったことから、尊氏による毒殺説が極めて有力視されている 10 。
観応の擾乱は、単なる権力闘争ではなく、室町幕府がどのような政権であるべきかを巡る、二つの統治理念の激突であった。すなわち、直義が目指した「法と秩序に基づく保守的政権」と、師直が体現した「実力と恩賞に基づく革新的政権」の戦いである。尊氏はこの二つの理念の間で揺れ動いたが、最終的に彼が選んだのは、どちらの理念でもなく、「将軍尊氏」という個人の下に権力を一元化する道であった。そのために、彼は腹心の師直を見殺しにし、実の弟である直義を手にかけた。この擾乱を経て、幕府は二頭政治という不安定な体制から、将軍親裁権を中核とする、より強固な(しかし、依然として脆弱な)統治体制へと移行したのである。それは、尊氏の政治家としての非情さと、権力の本質を見抜く卓越した能力の現れであった。
派閥 |
主要人物 |
動向・結末 |
尊氏・師直派 |
足利尊氏 |
最終的に直義派を制圧し、将軍権力を確立。 |
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高師直 |
尊氏の執事。直義と対立し、クーデターで一時勝利するも、打出浜の戦いで敗北後、謀殺される 19 。 |
|
高師泰 |
師直の弟。兄と共に謀殺される 19 。 |
|
佐々木道誉 |
婆娑羅大名。当初は直義派に与するも、後に尊氏派に転じ、擾乱後も幕府の重鎮として活躍 18 。 |
直義派 |
足利直義 |
尊氏の弟。師直と対立し、南朝と結んで挙兵。一時は優勢となるも、正平一統で孤立し、敗北。鎌倉で急死 19 。 |
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足利直冬 |
尊氏の庶子で直義の養子。九州で勢力を拡大し、直義派の西国における中心となる。擾乱後も抵抗を続ける 10 。 |
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上杉重能・憲顕 |
直義派の重臣。重能は師直のクーデター後に殺害される。憲顕は関東で師直派と戦う 19 。 |
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山名時氏 |
有力守護。当初は直義派として挙兵するが、後に尊氏方に寝返る 19 。 |
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斯波高経 |
有力守護。直義と共に北陸へ逃れるが、後に尊氏方に降る 19 。 |
観応の擾乱という激しい内紛を乗り越え、将軍としての権力を確立した尊氏であったが、彼が創設した室町幕府の統治構造は、常に内乱状態にあるという時代の制約を色濃く反映した、脆弱かつ現実主義的なものであった。
室町幕府の権力構造を理解する上で、先行する鎌倉幕府や、後に成立する江戸幕府との比較は有効である。
尊氏政権は、守護の協力を得るため、彼らの権限を大幅に拡大する政策を打ち出した。その代表的なものが「半済令」と「使節遵行権」である。
常に戦乱の渦中にあった室町幕府の財政は、将軍の直轄領である「御料所」からの収入だけでは到底賄いきれず、多様な財源に依存せざるを得なかった 62 。
尊氏の統治政策を貫くのは、「理想」よりも「現実」への徹底した対応である。鎌倉幕府のような強固な支配体制を築く時間的・政治的余裕はなく、常に内乱という非常事態に直面していた。半済令や使節遵行権の付与は、守護の力を強め、将来的には幕府の権威を脅かす危険性をはらむ政策であったが、当面の軍事協力を取り付けるためには不可欠な「必要悪」であった。彼の政権は、常に妥協と権力分与の上に成り立つ、極めて脆弱で流動的な連合政権であり、その統治スタイルは、彼の生涯が戦乱に明け暮れたことと表裏一体の関係にあったのである。
足利尊氏という人物を理解する上で最も困難なのは、その行動や性格に一貫した論理を見出すことである。彼は、慈悲深い君主であると同時に冷酷な策略家であり、無欲な隠遁者であると同時に天下を望む野心家でもあった。この章では、史料や逸話を通じて、その矛盾に満ちた人物像の核心に迫る。
足利氏側の視点から南北朝の動乱を描いた軍記物語『梅松論』は、尊氏の特異な人間性を「三つの大なる徳」として称賛している 75 。
これらの性格を示す最も有名な逸話が、湊川の戦いで討ち取った宿敵・楠木正成への対応である。尊氏は、京の六条河原に晒されていた正成の首を、丁重に白木の箱に納めさせ、故郷である河内で待つ遺族のもとへと送り届けたのである 31 。これは、敵将に対する最大限の敬意の現れであり、彼の寛容な人柄を物語るエピソードとして知られている。
尊氏の人間性は、彼を取り巻く重要人物との複雑な関係性の中にも色濃く現れている。
尊氏が生きた南北朝時代は、「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれる特異な美意識が席巻した時代でもあった。婆娑羅とは、旧来の身分秩序や権威を無視し、華美で傍若無人な振る舞いを好む、エネルギッシュな文化・風潮である 76 。その代表的な人物が、尊氏の執事であった高師直や、有力守護の佐々木道誉であった。
尊氏自身の性格は、『梅松論』が描くように寛容で無欲であり、派手さを好む婆娑羅の気風とは対極にある。しかし、彼は師直や道誉といったエネルギッシュな婆娑羅大名を巧みに用い、その軍事力を自らの政権の基盤とした 86 。一方で、『建武式目』においては、この婆娑羅の風潮を明確に禁じており、彼らの過激な行動とは一線を画そうとする、為政者としての冷静な視点も持ち合わせていた 35 。
尊氏の人物像の核心は、その「矛盾を内包し、統合する力」にあると言える。彼は、敵への敬意と身内への非情さを併せ持ち、無欲恬淡とされながらも天下を争う激しい野心を秘めていた。また、自らは敬虔な仏教徒でありながら、無頼な婆娑羅大名を使いこなした。これらの相容れない要素は、常人であれば精神的な破綻をきたすであろう。事実、尊氏が戦に敗れては自害しようとしたり、突如出家を宣言したりといった情緒不安定な逸話は、この巨大な矛盾を一身に背負ったことによる精神的重圧の現れだったのかもしれない 9 。彼は、清濁併せ呑むことでしか生き残れない時代の、まさに象徴的な英雄だったのである。
足利尊氏の生涯は、戦乱と裏切り、そして創造に満ちていた。その評価は、彼が没した直後から現代に至るまで、時代の価値観と共に大きく揺れ動き続けてきた。
尊氏を「逆賊」と断じる歴史観が決定的なものとなったのは、江戸時代中期のことである。徳川光圀が編纂を開始した歴史書『大日本史』は、朱子学的な大義名分論に基づき、後醍醐天皇が樹立した南朝こそが正統な皇統であると結論づけた。この史観に立てば、後醍醐天皇に反旗を翻し、北朝を擁立した尊氏は、君主に背いた紛れもない「逆賊」として断罪されることになる 1 。
この水戸学の思想は、幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与え、明治維新後に成立した新政府の「皇国史観」へと直結した。戦前の教育現場では、尊氏は天皇に背いた大悪人として描かれ、逆に、最後まで天皇に忠義を尽くした楠木正成は「大楠公」として神格化され、忠臣の鑑として称えられた。この「逆賊・尊氏、忠臣・正成」という対比的なイメージは、国民的な共通認識として広く定着したのである 3 。
第二次世界大戦後、皇国史観の呪縛から解放された日本の歴史学界では、特定のイデオロギーに依らない、史料に基づいた実証的な研究が活発化した。その結果、尊氏が置かれていた複雑な政治的状況、武家の棟梁として果たさなければならなかった役割、そしてその人間的な苦悩や魅力などが、新たな視点から光を当てられるようになった 1 。
その結果、現代における尊氏像は、かつてのような単純な「逆賊」でも、無条件の「英雄」でもなくなった。彼は、鎌倉から室町へという時代の大きな転換期において、数多の矛盾をその身に抱えながらも、武家社会の利益を代表し、新しい時代を切り拓こうとした、極めて複雑で人間味あふれる人物として理解されている。彼の行動は、時に冷酷で非情であったが、それは混沌とした時代を生き抜くための、為政者としての必然的な選択であったという見方が主流となっている。
足利尊氏は、生涯を通じて戦乱の中に身を置き、腹心や実の弟をも手にかけ、後世からは長らく「逆賊」の汚名を着せられた。しかし、彼が歴史に残した遺産は、決して小さなものではない。
彼が創設した室町幕府は、その権力基盤が常に脆弱で、彼の死後も内紛が絶えることはなかった。しかし、この政権は約240年間にわたって存続し、日本の歴史を大きく前進させた。特に文化面においては、尊氏の時代に基礎が築かれた幕府の下で、三代将軍・義満の時代には華麗な「北山文化」が、八代将軍・義政の時代には幽玄な「東山文化」が花開いた。能や狂言、茶の湯、華道、水墨画、書院造といった、現代にまで繋がる日本の伝統文化の多くが、この室町時代にその原型を確立したのである。
結論として、足利尊氏は、破壊者であると同時に創造者であった。彼の生涯は、裏切りと慈悲、個人的な苦悩と歴史的な偉業が分かちがたく結びついた、日本史上類を見ない壮大なドラマであったと言える。彼が残した室町幕府という枠組みが、その後の日本の政治と文化の新たな展開を準備したことは、紛れもない歴史的な事実なのである。