本報告書は、戦国時代の関東地方において、古河公方家の一員として生まれながら山内上杉家の養子となり、関東管領の地位に就くも、政争の波に呑まれ失脚、後に上総国宮原の地に新たな基盤を築き宮原氏の祖となった足利晴直(あしかが はるなお)、またの名を上杉憲寛(うえすぎ のりひろ、または憲広)という、波乱に満ちた生涯を送った人物について、現存する諸史料に基づき、その出自、事績、そして歴史における意義を詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。
足利晴直が生きた戦国時代の関東地方は、室町幕府の出先機関であった鎌倉府の流れを汲む古河公方家、その補佐役であった関東管領を世襲する山内上杉家、そして同じく上杉一族の扇谷上杉家が鼎立し、これに新興勢力である後北条氏が急速に台頭するなど、諸勢力が複雑に権力闘争を繰り広げる、まさに動乱の時代であった。晴直の生涯は、このような混沌とした時代背景と不可分であり、彼の行動や運命を理解するためには、当時の関東の政治状況を把握することが不可欠である。本報告書では、これらの点を踏まえつつ、足利晴直の実像に迫ることを試みる。
足利晴直の生涯を理解する上で、まずその出自と複雑な家族関係を明らかにする必要がある。彼は、関東における名門である古河公方足利家と関東管領山内上杉家という、二つの有力な家系に深く関わることになる。
足利晴直の正確な生年は、諸史料において明記されていない。しかし、兄とされる足利晴氏が永正5年(1508年)の生まれであり 1 、晴直自身は天文20年(1551年)に没していることから 2 、その活動期間をある程度推測することは可能である。彼が若くして山内上杉家の養子となり、政治の表舞台に登場したことは、当時の政略結婚や養子縁組が、個人の年齢や成熟度よりも家同士の政治的都合を優先したことの現れとも考えられる。
実父は、第3代古河公方であった足利高基(あしかが たかもと)である 1 。高基は後に嫡男である晴氏と関東享禄の内乱において対立することになるが、その際、晴直(当時は上杉憲寛)は父である高基方に与して戦ったとされている 5 。
母は、宇都宮成綱(うつのみや しげつな)の娘である瑞雲院(ずいうんいん)とされる 1 。『寛政重修諸家譜』では宇都宮正綱の娘と記されているが 2 、いずれにせよ、この下野国の名族宇都宮氏との姻戚関係は、父・高基の政治基盤にとって重要な意味を持っていたと考えられる。
兄弟には、古河公方家の家督を継いだ足利晴氏のほか、高実(たかざね)、雲岳周揚(うんがく しゅうよう)、大内晴泰(おおうち はるやす)、瑞山尼(ずいさんに)などがいた 1 。晴直が次男であったか、あるいはそれ以降の男子であったかについては史料により記述が異なり、『寛政重修諸家譜』では長男とする一方 2 、他の史料では次男 4 、あるいは四男 7 とするものもある。この兄弟間の序列に関する史料の不一致は、晴直の生涯における立場の変動や、後世の編纂物における認識の差異を反映している可能性があり、特に山内上杉家への養子という経緯が、実家における序列の記録に影響を与えたことも考えられる。もし晴直が次男あるいはそれ以降の男子であったならば、実家での家督相続の可能性は低く、他家への養子縁組の対象となりやすかったであろう。これが彼の運命を大きく左右した最初の要因と言えるかもしれない。
晴直の運命を大きく転換させたのは、関東管領を世襲する名門、山内上杉家への養子入りであった。養父となったのは、当時の関東管領であり山内上杉家当主であった上杉憲房(うえすぎ のりふさ)である 2 。
養子縁組の直接的な経緯は、大永5年(1525年)4月の上杉憲房の死去に起因する。憲房には実子の上杉憲政(うえすぎ のりまさ、後の関東管領)がいたものの、当時はまだ幼少であった。このため、山内上杉家の家督継承と関東管領職の維持という喫緊の課題に直面し、古河公方足利高基の子である晴直(当時は賢寿王丸)が憲房の養子として迎えられ、山内上杉家の家督と関東管領職を継承することになったのである 2 。この養子縁組は、山内上杉家内部の安定化と、古河公方家との政治的連携の強化という、二つの側面から図られたものと考えられる。憲房の死という突発的な事態に対し、古河公方家から養子を迎えることで、山内上杉家は内外の困難に対処しようとしたのであろう。
この結果、晴直には上杉憲政という養兄弟ができた。憲政は、晴直が関東管領を退いた後に同職に就任することになるが 2 、両者の関係は、後の関東享禄の内乱において対立軸の一つを形成することになる。晴直にとって、憲政が幼少であったという事実は、一時的ながらも関東管領という枢要な地位に就く機会を提供したが、それは同時に、憲政が成長した暁にはその地位が不安定になるという潜在的な問題を内包していたと言えよう。
足利晴直 略系図
関係 |
氏名 |
備考 |
実父 |
足利高基 |
第3代古河公方 |
実母 |
瑞雲院 |
宇都宮成綱(または正綱)娘 |
実兄(一説) |
足利晴氏 |
第4代古河公方 |
養父 |
上杉憲房 |
関東管領、山内上杉家当主 |
養兄弟 |
上杉憲政 |
関東管領、山内上杉家当主 |
本人 |
足利晴直(上杉憲寛) |
|
妻(一説) |
足利義明娘 |
小弓公方足利義明の娘とされるが、史料的信憑性には議論あり( 2 ) |
子 |
義勝 |
『寛政重修諸家譜』に記載( 2 ) |
孫 |
宮原義照 |
江戸幕府高家旗本、宮原氏初代当主( 7 ) |
この略系図は、晴直の複雑な人間関係と、それが彼の生涯に与えた影響を理解する一助となるであろう。実家である古河公方家と養家である山内上杉家、そして妻の出自に関する説が正しければ小弓公方家とも繋がりを持つ可能性があった晴直の立場は、当時の関東の政治情勢を色濃く反映している。
足利晴直は、その生涯において幾度か名前を変えている。これは、彼の立場や状況の変化を反映するものであり、その経緯を追うことは、彼の人生の軌跡を理解する上で重要である。また、彼が帯びた官位も、当時の社会における彼の格式を示す指標となる。
晴直の名の変遷は、以下の通りである。
晴直が帯びた官位としては、 左馬頭(さまのかみ) および 従四位下(じゅしいのげ) が記録されている 2 。これらの官位にいつ叙任されたかの具体的な時期は、提供された資料からは明確ではない。関東管領在任中であったか、それ以前であったか、あるいは退任後であったかによって、その政治的意味合いは異なる。関東管領は室町幕府が任免権を持つ役職であったことから 15 、関東管領就任に伴い、あるいはその前後に幕府からこれらの官位が与えられた可能性が高いと考えられる。
左馬頭は武家の、特に関東においては鎌倉公方などが任じられることの多い官職であり、従四位下も公方や有力守護クラスが叙される位階である。これらの官位を帯びていたことは、晴直が単なる上杉家の養子としてではなく、足利一門の高貴な出自を持つ人物として、また関東の枢要な地位にある者として、室町幕府からも一定の格付けをされていたことを示している。
足利晴直の名称と関連情報
時期(推定含む) |
名称 |
読み |
関連事項・典拠 |
幼少期 |
賢寿王丸 |
けんじゅおうまる |
幼名 2 |
大永5年~享禄4年 (1525-1531) |
上杉憲広/上杉憲寛 |
うえすぎ のりひろ/のりとお |
関東管領在任中の名称。山内上杉家養子。「広」と「寛」の表記揺れあり 2 。『寛政重修諸家譜』では初名「晴直」とし、「古河公方系図」では「憲寛」の名も見える 2 。 |
享禄4年 (1531) 以降 |
足利晴直 |
あしかが はるなお |
関東管領退任後、足利姓に復して改名 2 。 |
上総国宮原移住後 |
宮原晴直 |
みやはら はるなお |
宮原移住後に地名を冠して称したとされ、宮原氏の祖となる 2 。 |
この表は、晴直がその生涯で用いた複数の名前を整理し、それぞれの背景を理解する一助となる。彼の人生における転換点が、名前の変化にも表れていることがわかる。
足利晴直(当時は上杉憲寛または憲広)の政治的キャリアにおいて、関東管領への就任と、その地位を失う直接的な原因となった関東享禄の内乱は、極めて重要な出来事である。
晴直が関東管領職に就いたのは、大永5年(1525年)のことである。これは、養父である山内上杉家当主・上杉憲房の死去に伴うものであった。憲房の実子である上杉憲政は当時まだ幼少であったため、養子である晴直が山内上杉家の家督と、同家が世襲してきた関東管領職を継承したのである 2 。
当時の関東地方は、山内上杉氏が上野国を拠点とし 10 、平井城などを主要な居城としていた 10 。しかし、同じ上杉一族である扇谷上杉家との間には連携と対立が繰り返され、さらに相模国から急速に勢力を拡大する後北条氏の台頭など、政治状況は極めて流動的であった。晴直の関東管領就任は、彼自身の野心や能力というよりは、山内上杉家の家督継承問題と、実家である古河公方家との関係強化という、多分に外的要因によってもたらされた色彩が濃いと言える。若年で、かつ養子という立場で関東管領という重職に就いたことは、彼自身の政治基盤の脆弱さを示唆しており、後の関東享禄の内乱における失脚の遠因となった可能性も否定できない。
晴直が関東管領としてどのような統治活動を行ったかについての詳細な記録は、提供された資料からは限定的である。しかし、上杉憲寛名義の書状(寺尾左京亮宛)の存在が示唆されており 12 、また憲寛が発給した文書が5点確認されているとの言及もある 17 。これらの一次史料の内容を詳細に分析することが、彼の具体的な活動を明らかにする鍵となるであろう。
数少ない記録からは、彼が当時の複雑な関東の勢力関係の中で、困難な舵取りを迫られていたことがうかがえる。例えば、扇谷上杉家の上杉朝興は、台頭する後北条氏に対抗するために、小弓公方足利義明との連携を図り、さらに山内上杉家当主である憲寛にも協力を求めた。憲寛はこれに応じたものの、実父である古河公方足利高基とその弟である小弓公方足利義明は、古河公方の地位を巡って敵対関係にあった。そのため、朝興を介して義明とも同盟関係に入った憲寛は、結果的に実父・高基や実兄・晴氏とも戦うという、極めて複雑な立場に置かれることになった 2 。また、別の史料では、憲寛が北条方になびいた金田氏の菖蒲城を攻めたとの記述も見られる 18 。
これらの動向は、関東管領としての憲寛が、自身の出自である古河公方家と、同盟相手である扇谷上杉氏や小弓公方との間で、矛盾を抱えた外交政策を強いられていたことを示している。この複雑な同盟関係への対応の困難さが、後の関東享禄の内乱における彼の敗北に繋がった一因と考えられる。
関東享禄の内乱は、享禄2年(1529年)から享禄4年(1531年)にかけて、古河公方家と関東管領山内上杉家の両家において、ほぼ同時期に発生し終結した内訌である 2 。この内乱は、晴直(憲寛)の政治生命における最大の試練であった。
内乱における対立構図は、古河公方家においては、憲寛の実父である足利高基と、憲寛の実兄である足利晴氏の間で争われた 4 。一方、山内上杉家においては、高基の子である上杉憲寛と、憲房の子であり憲寛の養兄弟にあたる上杉憲政の間で家督が争われた 5 。
憲寛は、この内乱において実父・高基と連携し、実兄・晴氏および養兄弟・憲政の勢力と敵対した 2 。具体的な動向としては、享禄2年(1529年)に上野国安中城の安中氏討伐を開始したが、同盟関係にあった扇谷上杉朝興からは制止されたにもかかわらず、これを無視して出兵したとされる 5 。しかし、その後、山内上杉家中の西氏や小幡氏らが憲政を擁立して憲寛に謀反を起こし、憲寛は長野氏を伴い後退を余儀なくされた 5 。また、用土氏も憲寛に敵対したことが記録されている 5 。憲寛が安中氏討伐のような独自の軍事行動を起こしたことは、関東管領としての権力を行使しようとした試みと見なせるが、結果として家中の反発を招き、自身の失脚を早めた可能性がある。彼の行動は、養子という立場の弱さと、実父との連携という複雑な力学の中で行われたものであり、その判断の是非が彼の運命を分けたと言えよう。
この内乱の結果、古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、父・高基は隠棲に追い込まれた。そして山内上杉家では、上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて関東管領職を失うことになったのである 2 。
憲寛が関東管領職を失ったのは、享禄4年(1531年)9月2日のことであり、同日、上杉憲政が関東管領に就任した 2 。関東享禄の内乱における敗北が直接の原因であり、失脚後、彼は名を足利晴直と改めた 2 。わずか6年余りという短い関東管領在任期間は、彼の政治基盤の脆弱さと、当時の関東における権力闘争の激しさを示している。この失脚は彼にとって大きな挫折であったが、同時に足利姓に戻り、新たな道を模索する契機ともなった。この経験が、後の宮原での再起に繋がった可能性も考えられる。
関東管領の地位を失った足利晴直は、新たな道を模索することになる。その過程で、一時的に実家のある古河に戻り、その後、上総国宮原へと移り住むという動向が記録されている。
関東管領を退いた後、晴直は一時的に古河に戻ったとされている 2 。古河は実家である古河公方家の本拠地であるが、関東享禄の内乱において敵対した実兄・足利晴氏が公方の地位を確立していたため、晴直の立場は非常に微妙であったと推測される。長期間の滞在は困難であった可能性が高く、この古河帰還が、彼にとって実家との関係修復の試みであったのか、あるいは単なる一時的な避難であったのかは不明であるが、結果的に新たな移住先を探すことになったのは、古河での彼の立場が安泰ではなかったことを示唆している。
古河を離れた晴直は、上総国の有力国人であった真里谷信政(まりやつのぶまさ)の勧めにより、同国宮原(現在の千葉県市原市)に移り住んだ 2 。この移住の具体的な時期は、関東管領退任(1531年)後、それほど遠くない時期と推測される。
真里谷氏にとって、晴直のような足利一門という高貴な出自の人物を庇護することには、自らの勢力拡大や権威付けといった政治的なメリットがあったと考えられる。一方、晴直にとっても、新たな庇護者を得て再起の足がかりとする狙いがあったであろう。この移住は、晴直が関東中央の熾烈な政治闘争から距離を置き、地方の有力者との結びつきによって新たな活路を見出そうとした戦略的な判断と見ることができる。
移住先の宮原は、当時の上総国における真里谷氏の勢力圏内に位置していたと考えられる。現在の千葉県市原市宮原の明照院周辺がその故地とされ、土塁や水堀跡などの遺構の存在が伝えられている 14 。これらの遺構の存在は、晴直が単に隠棲しただけでなく、一定の格式を保った生活を送っていた可能性を示唆する。
上総国宮原に移り住んだ足利晴直は、そこで晩年を過ごすことになる。「宮原御所」と呼ばれる館での生活や、その最期について見ていく。
晴直は、宮原において「宮原御所」と称される館に居住したと伝えられている 14 。ある記録では「治乱を避けて余生を送った」と記されており 14 、政治の表舞台からは退いた穏やかな生活を送っていたことをうかがわせる。
また、「日本地理志料」という文献には「天文年間に足利義舜がこの地に居住していた」との記述があり、この「足利義舜」が晴直を指す可能性が郷土史研究者などから示唆されている 14 。ただし、「義舜」が晴直の別名であったのか、あるいは何らかの誤伝であるのかは現時点では不明である。「御所」という呼称が用いられていること自体は、彼が足利一門としての高い身分を保持し続けていたことを示しており、完全に世俗から離れたわけではなく、地域において一定の影響力を持っていた可能性も考えられる。晩年の生活の詳細は不明な点が多いが、子孫が後に宮原氏として存続したことから、この地で家系の基礎を固めることに注力したのかもしれない。
足利晴直の最期は、天文20年2月24日(西暦1551年3月31日)と記録されている 2 。没した場所は、上総国宮原であったと推測される。
法名または院号としては、春敲院殿(しゅんこういんでん)、あるいは春敲院(しゅんこういん)と伝えられている 2 。別の史料では、法名を春敲院得月道台(しゅんこういんとくげつどうだい)とするものもある 9 。
もし晴直の生年が兄・足利晴氏(永正5年/1508年生)と近かったと仮定すれば、没年齢は40代から50代前半と推定され、比較的若年での死であった可能性もある。彼の死後、宮原の地が子孫によって受け継がれ、宮原氏の名字の地となったことは、彼がこの地である程度の基盤を築いた証左と言えるだろう。
足利晴直の私生活、特に妻子に関する情報は断片的であるが、彼が宮原氏の祖として後世に名を残したことは重要である。
晴直の妻については、『寛政重修諸家譜』に、小弓公方であった足利義明(あしかが よしあき)の娘であったとの記載がある 2 。しかし、この説の信憑性については議論がある。具体的には、晴直の子とされる義勝の生年(享禄3年/1530年)と、義明の娘とされる青岳尼の生年との間に年代的な矛盾が生じること、また、晴直の実父・高基と義明は古河公方の地位を巡って敵対した兄弟であり、その子供同士の婚姻が政治的に考えにくいことなどが指摘されている 21 。これらの点から、足利義明の娘を晴直の妻とするのは、史料の誤伝である可能性が高いと論じられている 21 。
この妻の出自に関する問題は、晴直の人間関係や政治的立場を考察する上で重要な論点である。もし義明の娘との婚姻が事実であれば、それは敵対関係にあった小弓公方家との何らかの和解や連携を意味するが、現状の史料状況からはその可能性は低いと言わざるを得ない。『寛政重修諸家譜』のような後世の編纂史料は、情報の正確性について常に批判的検討が必要であることを示す好例であり、晴直の妻が誰であったかは、彼の失脚後の政治的ネットワークを理解する上で鍵となるが、現時点では不明な点が多い。
晴直の子としては、義勝(よしかつ)という名が『寛政重修諸家譜』に見える。母は前述の通り、足利義明の娘とされている 2 。義勝の生年は享禄3年(1530年)とされ、これが妻の出自に関する年代的矛盾の一因となっている 21 。義勝の存在は確認されるものの、その生涯や事績に関する具体的な情報は乏しく、彼が宮原氏の家督をどのように継承したのか、あるいはしなかったのかは明らかではない。
足利晴直は、宮原氏の祖として位置づけられている 2 。晴直自身が宮原を称したかは定かではないが、その子孫が宮原氏を名乗り、家名を後世に伝えた。
特に重要なのは、晴直の孫にあたる宮原義照(みやはら よしてる)の代である。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入部した際、義照は家康に召し出され、「足利は由緒の地たり」との理由で、下野国足利郡駒場村・多田木村において1140石の所領を与えられ、旗本となった 7 。この時、義照は14歳であったと記録されている 22 。
宮原家は、江戸時代には高家旗本という名誉ある家格を与えられた 7 。ある史料によれば、義照の弟・晴克が兄の死後に家督を相続し、「格式無官の高家となされ、采地に住し、随意に参府し奉仕すべし」との仰せを受けたとされるが 23 、系図上の情報には異同も見られる。
関東管領を失い、一時は不遇であった足利晴直の子孫が、徳川政権下で高家という地位を得たことは、足利氏という名門の血筋が依然として社会的な価値を持っていたこと、そして孫の義照が何らかの形で家康に認められる機会を得たことを示している。「足利は由緒の地」として所領を与えられたことは、家康が旧勢力の名家を懐柔し、自らの権威を高めるための一環であった可能性も考えられる。宮原氏の成立と存続は、戦国時代の動乱を生き抜いた武家が、新たな支配体制の中でいかにして家名を保ったかを示す一例と言えるだろう。
足利晴直(上杉憲寛)に関する情報は、いくつかの編纂史料や、断片的な一次史料候補を通じてうかがい知ることができる。しかし、史料間には記述の矛盾や不明確な点も多く、人物像を確定する上での課題も残されている。
上杉憲寛(晴直)自身が発給した、あるいは彼に関連する一次史料の存在も示唆されている。
足利晴直に関する史料には、いくつかの矛盾点や不明確な点が存在する。
これらの矛盾点や不明点は、足利晴直という人物像を確定する上での課題である。今後の史料発見や研究の進展によって解明される可能性もある。史料間の矛盾は、単なる誤記や情報の錯綜だけでなく、それぞれの史料が編纂された時代や編纂者の立場、意図を反映している場合があり、これらの背景を読み解くことが歴史研究の重要な側面となる。
本報告書では、戦国時代の関東に生きた足利晴直(上杉憲寛)について、現存する諸史料に基づいてその生涯と事績を追ってきた。最後に、彼の生涯を総括し、歴史における意義と今後の研究課題について述べる。
足利晴直は、古河公方足利高基の子として生まれ、若くして山内上杉家の養子となり上杉憲寛(または憲広)と名乗り、関東管領という要職に就いた。しかし、関東享禄の内乱という政治的激動の中でその地位を失い、足利晴直と改名。その後、上総国宮原に新たな生活の基盤を築き、その地で没した。彼の子孫は宮原氏を名乗り、江戸幕府の下で高家旗本として家名を存続させた。彼の生涯は、まさに戦国時代の関東地方における権力構造の変動、有力家系間の複雑な関係、そして個人の運命が時代の奔流にいかに翻弄され、また適応していったかを示す典型的な事例として捉えることができる。
足利晴直の歴史的意義は、いくつかの側面から評価できる。
第一に、 関東政治史における位置づけ である。関東管領としての在任期間は短かったものの、当時の関東における最重要ポストの一つを経験し、また、関東の勢力図に大きな影響を与えた関東享禄の内乱という重要な事件の主要な当事者の一人であったことから、関東の戦国史において無視できない存在であると言える。
第二に、 宮原氏の祖としての意義 である。関東管領失脚後も完全に歴史の舞台から消えることなく、上総国宮原に新たな家系の基礎を築き、それが宮原氏として江戸時代を通じて存続したことは、足利氏という名門の血統が持つ社会的な重みと、戦国武将の処世術の一端を示している。
しかしながら、晴直に関する史料は断片的であり、不明な点も多く残されている。特に、関東管領としての具体的な政策や、宮原での晩年の詳細な生活については、今後の研究による人物像の再構築が期待される。そのためには、現存する可能性のある一次史料、特に彼自身が発給した書状などの発見と詳細な分析が不可欠となる。
足利晴直(上杉憲寛)という人物の実像に迫るためには、未発見史料の調査や、既存史料のより精密な再検討が求められる。特に、彼が関わった関東享禄の内乱の全体像や、彼と対立または連携した諸勢力との具体的な関係性については、さらなる研究の深化が期待される。本報告書が、今後の研究の一助となれば幸いである。
足利晴直 略年表
和暦 |
西暦 |
主な出来事 |
(生年不明) |
|
古河公方足利高基の子として誕生。幼名、賢寿王丸。 |
大永5年 |
1525年 |
4月、養父・上杉憲房死去。山内上杉家の家督と関東管領職を継承し、上杉憲広(または憲寛)と称する 2 。 |
享禄2年 |
1529年 |
関東享禄の内乱勃発。実父・高基と連携し、実兄・晴氏、養兄弟・憲政らと対立する 2 。 |
享禄4年 |
1531年 |
9月2日、関東享禄の内乱に敗れ関東管領職を失脚。上杉憲政が関東管領となる。名を足利晴直と改める 2 。その後、古河を経て上総国宮原へ移住したとされる 2 。 |
天文20年 |
1551年 |
2月24日、死去 2 。法名、春敲院殿など。 |