足利義満は室町幕府3代将軍。康暦の政変で親政を開始し、土岐・山名・大内氏を討伐し将軍権力を確立。南北朝合一を達成し、明との勘合貿易で「日本国王」となるなど、室町幕府の最盛期を築いた。
室町幕府、ひいては日本の歴史において、足利義満ほど絶大な権力を掌握し、華麗な文化を創造した人物は稀である。彼は、分裂した国家を統一し、武家と公家の双方に君臨し、さらには外交の舞台で「日本国王」として振る舞った。その治世は室町幕府の最盛期と称され、彼が築いた北山文化は後世に計り知れない影響を与え続けている。しかし、その栄光の裏には、冷徹な謀略、朝廷への野心、そして家族との確執といった複雑な影が潜んでいた。本報告書は、室町幕府第3代将軍・足利義満の生涯を、政治、外交、文化、そして後世の評価に至るまで、あらゆる側面から徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。
足利義満は、延文3年(1358年)8月22日、室町幕府第2代将軍・足利義詮の嫡男として、京都の幕府政所執事・伊勢貞継の邸宅で生を受けた 1 。この日は、祖父であり幕府の創始者である足利尊氏の死から、奇しくもちょうど100日目にあたる象徴的な日であった 1 。幼名を春王と名付けられた彼は、生まれながらにして将軍家の未来を担う宿命を背負っていた 1 。
彼の血脈には、武家の棟梁たる源氏の血だけでなく、母方を通じて天皇家へと繋がる系譜が存在した。母である紀良子は、石清水八幡宮の神官の娘であったが、その血筋を遡ると第84代順徳天皇の玄孫にあたる 1 。この皇室との縁戚関係は、義満自身に皇胤としての自覚を芽生えさせ、後に彼が展開する朝廷に対する一連の野心的な政策や、皇位簒奪説が囁かれるほどの行動の遠因となった可能性が指摘されている 3 。
義満の幼少期は、父の不在と政局の不安定さの中で過ぎていった。貞治6年(1367年)、父・義詮が重病に倒れると、わずか10歳の春王が家督を継承することとなる 1 。死期を悟った義詮は、四国で勢力を誇っていた細川頼之を京都に呼び寄せ、義満の後見人および政治の指導役として、幕府の将来を託した 1 。
頼之の存在は、幼い義満にとって単なる政治的な補佐役にとどまらなかった。頼之の妻が義満の乳母であったことから、両者の間には公私にわたる極めて強い結びつきがあった 7 。頼之は事実上、義満の育ての親として、彼の教育にも深く関与した。応安元年(1368年)の元服の際には烏帽子親を務め、加冠、理髪といった重要な役を細川一門で固めるなど、義満を全面的に支える姿勢を示した 1 。頼之の主導の下、幕府は「応安の半済令」を発布して武士への所領安堵を進めるなど、安定化に向けた政策を次々と打ち出していった 5 。しかし、頼之の厳格な統治と、一門を重用する姿勢は、斯波氏をはじめとする他の有力守護大名や、南都北嶺の寺社勢力からの強い反発を招くことにもなった 5 。
義満が22歳となった康暦元年(1379年)、管領・細川頼之の権勢に対する守護大名たちの不満が頂点に達した。斯波義将や土岐頼康らを中心とする大名たちは、軍勢を率いて京都に集結し、義満に対して頼之の罷免を強硬に要求した。この「康暦の政変」は、義満の治世における最初の、そして最大の転換点であった 5 。
この政変は、単に諸大名の圧力に屈して義満が後見人を切り捨てたという単純な構図ではなかった。むしろ、成長した義満が、頼之という「強すぎる後見人」の軛から逃れ、自らの親政体制を確立するための、計算された政治的決断であったと解釈できる。彼は、諸大名の対立構造を巧みに利用し、頼之を失脚させることで、一方では大名たちの不満を解消して彼らを懐柔し、もう一方では将軍としての最終決定権が自らにあることを内外に明確に示したのである。この政変を通じて、義満は京都の施政権をも幕府の支配下に置き、公家社会への影響力を飛躍的に高めることにも成功した 10 。傀儡の君主から脱皮し、自らの意志で権力を行使し始めたこの経験は、後の守護大名抑圧策に見られるような、彼の冷徹で現実主義的な政治手法の原点となった。
年号(西暦) |
義満年齢 |
出来事 |
関連分野 |
延文3年 (1358) |
1歳 |
8月22日、京都にて誕生。幼名は春王 1 。 |
- |
貞治6年 (1367) |
10歳 |
父・義詮の死去により家督を継承。細川頼之が管領として後見 1 。 |
政治 |
応安元年 (1368) |
11歳 |
征夷大将軍に任官 2 。 |
政治 |
応安7年 (1374) |
17歳 |
新熊野神社で猿楽を鑑賞し、世阿弥と出会う 11 。 |
文化 |
永和4年 (1378) |
21歳 |
京都室町に「花の御所」を造営し移り住む 1 。 |
政治 |
康暦元年 (1379) |
22歳 |
康暦の政変。細川頼之を罷免し、親政を開始 5 。 |
政治 |
明徳元年 (1390) |
33歳 |
土岐康行の乱。土岐氏の勢力を削減 2 。 |
政治 |
明徳2年 (1391) |
34歳 |
明徳の乱。山名氏の勢力を削減 2 。 |
政治 |
明徳3年 (1392) |
35歳 |
南北朝の合一を達成(明徳の和約) 2 。 |
政治 |
応永元年 (1394) |
37歳 |
将軍職を子・義持に譲り、従一位・太政大臣に任官 1 。 |
政治 |
応永2年 (1395) |
38歳 |
出家し、法名を道義と号す。以後も実権を掌握 1 。 |
政治 |
応永4年 (1397) |
40歳 |
京都北山に北山第(後の鹿苑寺)の造営を開始 10 。 |
文化 |
応永6年 (1399) |
42歳 |
応永の乱。大内義弘を堺で討ち、西国支配を確立 2 。 |
政治 |
応永8年 (1401) |
44歳 |
僧・祖阿、商人・肥富らを明に派遣し、国交を打診 1 。 |
外交 |
応永11年 (1404) |
47歳 |
明より「日本国王」に冊封され、勘合貿易を開始 2 。 |
外交 |
応永13年 (1406) |
49歳 |
妻・日野康子が後小松天皇の准母となる 3 。 |
政治 |
応永15年 (1408) |
51歳 |
5月6日、北山第にて死去。享年51 1 。 |
- |
親政を開始した足利義満が最初に着手したのは、祖父・尊氏、父・義詮の代からの懸案であった、将軍権力に対する潜在的な脅威、すなわち有力守護大名の存在であった。彼は巧みな謀略と圧倒的な軍事力を背景に、これらの勢力を計画的に、そして容赦なく排除していく。この一連の粛清を通じて、室町幕府はかつてない中央集権的な支配体制を確立し、義満は武家社会の絶対的な頂点に君臨することになる。
義満は、自らの権威が単なる軍事力や官位だけでなく、視覚的な壮麗さによっても支えられることを深く理解していた。永和4年(1378年)、彼は京都の北小路室町に、壮大な邸宅を造営した 1 。この邸宅は、全国から集められた名木・名花で彩られたことから「花の御所」と称され、その壮麗さは京の人々を圧倒した 2 。
花の御所は、単なる将軍の私邸ではなかった。それは、幕府の政庁であり、全国の武士や公家、さらには海外からの使節を引見する外交の舞台でもあった。この場所に将軍が住んだことから、義満は「室町殿」と呼ばれ、やがてその呼称は足利将軍家そのものを指すようになる 1 。後の歴史用語である「室町幕府」および「室町時代」も、この花の御所の所在地に由来するものであり、義満がいかに自らの存在を時代の中心に据えようとしたかを物語っている 1 。
花の御所という権威の舞台を整えた義満は、次なる標的として、幕府内で大きな力を持つ有力守護大名へと狙いを定めた。彼の手法は、正面からの武力衝突を極力避け、まず相手の内部対立や一族間の不和を煽り、内紛を誘発させるという、極めて周到なものであった 15 。そして、相手が幕府への反逆という形で挙兵せざるを得ない状況に追い込み、自らは「朝敵を討伐する正義の将軍」として振る舞うことで、討伐を正当化し、他の守護大名の同調を防いだ。
有力守護大名の勢力を次々と削ぎ落とし、幕府の軍事力を絶対的なものとした義満は、次なる目標として、約60年にもわたり日本を二分してきた南北朝の動乱に終止符を打つことを目指した。これは、単なる内乱の終結に留まらず、足利将軍家が日本における唯一無二の正統な支配者であることを内外に示すための、極めて重要な政治的事業であった。
義満が親政を開始した当初、南朝は依然として九州の懐良親王や、楠木正儀らの武将に支えられ、一定の勢力を保持していた。しかし、義満が土岐氏や山名氏を打ち破った明徳の乱(1391年)を経て、幕府の権威と軍事力が圧倒的であることが明らかになると、南朝方の戦意は急速に衰えていった 9 。幕府は、南朝方の有力武将であった楠木正儀を寝返らせるなど、巧みな切り崩し工作も行い、南朝を軍事的に完全に孤立させた 9 。
このような状況下で、西国の大内義弘らが仲介役となり、幕府と南朝との間で本格的な和平交渉が開始された 22 。もはや武力による逆転の可能性が潰えた南朝側には、幕府が提示する条件を受け入れる以外の選択肢は残されていなかった。
明徳3年(元中9年、1392年)、両朝の間で和平の合意が成立した。これは「明徳の和約」と呼ばれる 28 。その核心は、南朝の後亀山天皇が、皇位の象徴である三種の神器を北朝の後小松天皇に譲渡する、いわゆる「譲国の儀」を行うことであった 2 。
この和約には、南朝側の面子を保つためのいくつかの重要な条件が付されていた 28 。
これらの条件、特に「両統迭立」は、南朝側が皇統の断絶を免れ、将来に望みをつなぐための最後の砦であった。同年、後亀山天皇は吉野から京都へ還幸し、後小松天皇に神器を譲渡。ここに、建武の新政以来、約60年間にわたって続いた国家の分裂は終わりを告げた 8 。
しかし、この「平和的統一」は、その実態において、義満の権謀術数が色濃く反映されたものであった。南朝の唯一の希望であった「両統迭立」の約束は、当初からその履行が極めて曖昧なものであった。この和約は、北朝の公家たちの合意を得ないまま、義満と南朝の間で結ばれたものであり、北朝側には約束を守る義務感は希薄であった 28 。
案の定、この約束は義満の存命中から形骸化し、義満の死後、後小松上皇が自らの皇子である称光天皇に譲位したことで、完全に反故にされた 28 。これにより、大覚寺統の皇族は皇位継承の道から永久に閉ざされ、その一部は「後南朝」として幕府に対する散発的な抵抗を続けることになる。
義満は、守られる保証のない「両統迭立」という約束を交渉の切り札として利用し、南朝側が抵抗を諦めるための「名分」として提供した。結果として、彼は南朝を武力で殲滅するという血生臭い手段を避け、「神器の正統な継承」という平和的な形式で国家統一を成し遂げた。これにより、義満は自らの権威を一切傷つけることなく、長年の動乱を終結させ、室町幕府の支配者としての正統性を絶対的なものとしたのである。この南北朝合一は、彼の政治家としての卓抜した手腕と冷徹な現実主義を象見せる、最大の功績であった 2 。
武家社会の統合と国家の統一を成し遂げた足利義満の野心は、もはや国内の枠に収まらなかった。彼は、武家の棟梁たる「将軍」の地位を超え、公家社会の頂点、さらには国際社会における日本の代表者としての地位を渇望する。その野望を実現するため、彼は朝廷の権威を巧みに利用・吸収し、大胆な外交戦略を展開し、そして自らの権勢を象徴する壮麗な文化を創造していく。この時期、義満は単なる将軍ではなく、公・武・禅の三界に君臨する、前例のない超越的な支配者へと変貌を遂げる。
応永元年(1394年)、義満は将軍職を嫡男の義持に譲るという驚くべき行動に出る 2 。しかしこれは権力の座からの引退を意味するものではなかった。翌応永2年(1395年)、彼は武家としては平清盛以来、二人目となる従一位・太政大臣に昇進した 1 。律令制における最高官職である太政大臣に、征夷大将軍の経験者が就任したのは日本史上初めてのことであり、足利将軍家の中でもこの栄誉に浴したのは義満ただ一人であった 1 。これにより、彼は名実ともに武家社会と公家社会の双方の頂点に立つ存在となった 10 。
太政大臣就任からわずか数ヶ月後、義満は再び世間を驚かせる。太政大臣の職を辞し、出家したのである。法名を道義、道号を天山と号した 1 。この出家は、世俗の権力から離れることを意味するものでは全くなかった。むしろ、それは天皇の臣下としての序列や官位といった、あらゆる世俗的な束縛から自らを解き放ち、より自由で超越的な立場から権力を行使するための、極めて計算された戦略的行動であった 1 。
事実、出家後も彼は「大御所」として幕府の実権を完全に掌握し続け、花の御所や、後に造営する北山第から政治を意のままに動かした 10 。この時、斯波義将をはじめとする多くの武家や公家、さらには皇族までもが彼に追従して出家しており、義満の権威がいかに絶大であったかを物語っている 1 。
国内の権力基盤を盤石にした義満の目は、次なる富と権威の源泉として、海外へと向けられた。当時、中国大陸では朱元璋が建国した明が強大な勢力を誇っていたが、日本との公式な国交は途絶えていた。明は、朝鮮半島や中国沿岸部で略奪行為を繰り返す海賊「倭寇」に長年苦しめられており、日本に対してその取り締まりを求めていた 30 。
義満はこの状況を好機と捉えた。応永8年(1401年)、博多の商人・肥富と臨済宗の僧・祖阿を使節として明に派遣し、倭寇の取り締まりと引き換えに国交の再開と貿易を求めた 1 。その際、義満は明の皇帝を世界の中心とする「中華思想」に基づいた国際秩序を受け入れるという、大胆な決断を下す。すなわち、明の皇帝を君主とし、自らをその臣下と位置づける「朝貢」という形式を甘受したのである 31 。
この朝貢形式の貿易は、日本側が明皇帝に貢物を献上すると、明側はその権威と豊かさを示すために、貢物の何倍もの価値がある豪華な返礼品を下賜するというものであった 31 。義満は、国家の対等な関係という「名誉」を捨て、莫大な経済的利益という「実利」を優先する、極めて現実的な外交戦略を選択したのである 31 。
この外交交渉の結果、応永11年(1404年)、義満は明の永楽帝から「日本国王源道義」として正式に冊封される 2 。この「日本国王」という称号の受容は、義満の権力戦略の集大成ともいえるものであった。
この称号は、二重の戦略的意味を持っていた。対外的には、義満が日本の唯一の外交責任者、すなわち国家元首であることを明に認めさせ、勘合と呼ばれる証票を用いた公式貿易(勘合貿易)の利権を独占することを可能にした 2 。一方で国内的には、天皇とは別の、国際的に承認された「王」という権威を手に入れることで、天皇の存在を相対化し、自らの権力を絶対的なものにしようとする狙いがあった。当時、九州を拠点としていた南朝方の懐良親王が、先に明から「日本国王」として認められていたことも、義満がこの称号の獲得に強く固執した一因であったとされる 34 。
義満は、国内における「征夷大将軍」「太政大臣」、そして国際社会における「日本国王」という三つの異なる最高権威を一身に集め、それらを状況に応じて巧みに使い分けることで、前例のない絶対的な権力を築き上げた。彼の出家は、これらの権威を俗世の序列から切り離し、神格化するための最終仕上げであったと言えるだろう。
義満の権力は、政治や軍事の領域に留まらなかった。彼は自らの絶大な権勢を背景に、壮麗かつ洗練された文化を創造し、その最大のパトロンとして君臨した。彼の邸宅があった京都の北山にちなんで「北山文化」と称されるこの文化は、義満という一人の人間の美意識と政治的野心が結晶化したものであり、その後の日本文化の潮流を決定づけるほどの大きな影響力を持った 35 。
北山文化の最大の特徴は、それまで異質なものとされてきた三つの文化潮流を、義満という強力な触媒によって融合させた点にある。すなわち、王朝時代から続く優雅な「公家文化」、鎌倉時代以来の質実剛健な「武家文化」、そして日明貿易を通じて流入した大陸の先進的な「禅宗文化」である 35 。義満は、これら三つの世界の頂点に立つ支配者として、それらの文化的エッセンスを抽出し、自らの下で一つに統合しようとした。
義満の文化理念を最も雄弁に物語るのが、彼が造営した建築物である。
義満は、文化の創造者である芸術家たちを積極的に庇護し、彼らの才能を開花させることにも情熱を注いだ。彼にとって文化活動は、単なる慰みではなく、自らの権威を正当化し、洗練されたものとして見せるための高度な政治的装置であった。
絶頂を極めた義満の権勢であったが、その晩年には次第に影が差し始める。強大すぎる権力は、家庭内に深刻な不和をもたらし、後継者問題に揺れた。そして、彼の死は、その野望の大きさを物語るかのように、日本史上前例のない論争を巻き起こすことになる。義満が築き上げた巨大な権力構造は、彼の死と共に大きな揺らぎを見せ始め、その遺産は光と影の両面を後世に残した。
栄華を極めた義満であったが、その家庭は決して平穏ではなかった。彼の絶対的な権力と、後継者を巡る思惑は、息子たちとの間に深刻な確執を生み、やがて悲劇へと繋がっていく。
義満は、将軍職を継いだ嫡男の足利義持との関係が極めて険悪であったことで知られている 45 。その原因は複合的であった。義満は義持に将軍職を譲った後も、一切の実権を手放さず、「大御所」として君臨し続けたため、義持は長年にわたり名ばかりの将軍という立場に甘んじなければならなかった 46 。
さらに、両者の不和を決定的にしたとされるのが、義持の生母であり義満の側室であった藤原慶子の死を巡る逸話である。慶子が亡くなった際、義満は悲しみに暮れる義持を尻目に、弔いもそこそこに宴会を開き、酒宴に興じたという 45 。この非情な態度は、義持の中に父に対する拭い難い不信感と憎悪を植え付けた。この深刻な確執は、義満の死後、義持が父の政策をことごとく否定し、覆していくという「反動」の直接的な原因となった 2 。
義持との冷え切った関係とは対照的に、義満は義持の異母弟にあたる次男の義嗣を異常なまでに寵愛した 45 。容姿端麗で才気に溢れていたとされる義嗣を、義満は自らの後継者として考えていた節がある 49 。
その偏愛ぶりが最も顕著に表れたのが、応永15年(1408年)に行われた義嗣の元服の儀であった。義満は、この儀式を天皇の御所である内裏で執り行い、その待遇は皇太子や親王の元服に準じるという、臣下としては前代未聞の破格のものであった 46 。この一件は、諸大名や公家たちに「義満は義持を廃し、義嗣を新たな足利家の後継者に据えるつもりだ」という憶測を抱かせ、義持の立場を著しく不安定にした 46 。さらに、この義嗣への異常な厚遇は、義満が義嗣を単なる足利家の後継者ではなく、皇位に就けることまで画策していたのではないかという「皇位簒奪説」の最も有力な根拠の一つとして、後々まで語られることになる 49 。この父の偏愛は、義持と義嗣の兄弟間に修復不可能な亀裂を生み、義満の死後、義持が義嗣を謀反の疑いで誅殺するという、骨肉相食む悲劇の伏線となった 45 。
義満の野心は、天皇家との関係においても大胆な形で示された。彼は、自らの正室である日野康子(ひのやすこ)を、巧みな政治工作によって、天皇家における極めて高い地位に就かせたのである。応永13年(1406年)、後小松天皇の生母が亡くなると、義満はその機を逃さず、康子を天皇の「准母(じゅんぼ)」、すなわち母親に準じる存在とするよう朝廷に働きかけた 3 。
皇族でもなく、天皇の后妃でもない、単なる武家の妻が天皇の准母となり、さらには「北山院(きたやまいん)」という女院号まで授けられるというのは、日本の歴史上、全く前例のないことであった 17 。これは、義満の権勢が、朝廷の長年の伝統や慣習さえも意のままに覆すほど強大であったことを示す、象徴的な出来事である。この政策の背後には、妻を天皇の「母」とすることで、自らを天皇の「義理の父」と位置づけ、天皇家そのものを事実上、足利家の権威の下に組み込もうとする、壮大な野望があったと解釈されている 3 。
応永15年(1408年)5月6日、後小松天皇の北山第への行幸や、寵愛する息子・義嗣の華々しい元服を見届け、その権勢が頂点に達したかに見えた矢先、足利義満は病に倒れ、51年の生涯を閉じた 1 。彼の死は、その巨大な存在感ゆえに、幕府と朝廷に大きな衝撃を与え、日本史上最大の謎の一つである「皇位簒奪計画」を巡る論争の幕開けとなった。
義満の死後、朝廷は彼の生前の絶大な功績を称えるため、前代未聞の称号を贈ることを決定した。それは「太上天皇(だいじょうてんのう)」、すなわち上皇の尊号であった 3 。天皇の臣下である人臣に対して、天皇の父や祖父にのみ許されるこの尊号が追贈されようとしたのは、日本の歴史を通じて義満ただ一人であり、彼の権力が当時の人々にとっていかに天皇に匹敵する、あるいはそれを凌駕するものと見なされていたかを物語っている 2 。
しかし、この破格の追贈は実現しなかった。父の跡を継いでいた第4代将軍・義持が、幕府の重鎮であった管領・斯波義将らの強い進言を受け入れ、「臣下の身としてあまりに恐れ多い」として、この尊号の宣下を固辞したからである 2 。この義持の決断の背景には、父・義満への根深い反発と、義満の行き過ぎた権力集中と朝廷への接近が、武家の棟梁としての本来のあり方から逸脱しているという、幕府首脳たちの強い危機感があった。
義満の一連の常軌を逸した行動は、彼が本気で皇位を簒奪し、自らが天皇、あるいはそれに代わる日本の統治者になろうとしていたのではないか、という説を古くから生んできた。この「皇位簒奪説」は、現代の歴史学においても最大の論争点の一つとなっている。
この歴史的論争に最終的な決着をつけることは困難である。しかし、計画の真偽はともかく、足利義満が、単なる将軍という臣下の立場に飽き足らず、武家、公家、宗教界のすべてに君臨し、臣下と君主の境界線を極限まで曖昧にした、日本史上類を見ない「王」たらんとした野心家であったことは間違いない。その巨大すぎる権勢と野望こそが、この魅力的な歴史の謎を生み出した根源なのである。
義満が築き上げた巨大な権力と、彼独自の価値観に基づく秩序は、そのあまりにも強大な個人的カリスマに依存していた。そのため、彼の死は、円滑な権力移譲を妨げ、大きな権力の空白と深刻な路線対立を生み出した。父への反発を募らせていた義持による日明貿易の中止といった政策転換は、単なる個人的な感情のもつれに起因するものではない。義満の「日本国王」路線や朝廷への過度な接近は、斯波義将ら幕府の重臣たちにとって、武家の棟梁の分をわきまえない「逸脱」と映った。義持の政策転換は、父への反抗であると同時に、義満によって歪められた幕府のあり方を、伝統的な将軍の姿という「正常な軌道」に戻そうとする、幕府内の保守派の意志の表れでもあった。皮肉にも、義満の急進的で強大すぎた権力が、その死後の幕府の権威の揺らぎと、政策の断絶を招いたのである。
足利義満は、室町幕府の権勢を頂点にまで高め、華麗な文化を咲かせた、疑いようもなく偉大な為政者であった。しかし同時に、その手法は謀略に満ち、その野心は人臣の分を超えていたと批判されることも多い。彼の歴史的評価は、時代ごとの価値観を反映して大きく揺れ動き、今日に至るまで活発な議論の対象となっている。
義満の治世を評価する上で、その功績と罪過は表裏一体の関係にある。
義満が確立した将軍独裁体制は、彼の死後、徐々に揺らぎ始める。彼が力で抑え込んできた守護大名やその他の勢力が再び台頭し、幕府の権力は弱体化の一途をたどった 1 。第6代将軍・足利義教が「万人恐怖」と恐れられた恐怖政治の末に暗殺されるという「嘉吉の変」は、義満が築いた強権的な支配体制の負の側面が噴出した事件とも言える 61 。
一方で、彼が創造・庇護した文化は、時代を超えて生き続けた。能楽、水墨画、書院造、茶道、生け花といった北山文化の諸要素は、後の東山文化や桃山文化へと受け継がれ、現代に至る日本の美意識の根幹を形成している 38 。
義満に対する歴史的評価は、時代と共に大きく変遷してきた。
足利義満は、安定と繁栄をもたらした偉大な統治者であると同時に、既存の秩序を破壊することも厭わない危険な野心家でもあった。その矛盾を孕んだ巨大な存在こそが、彼を日本史上、最も魅力的で論争的な人物の一人たらしめているのである。
比較項目 |
平清盛 |
足利義満 |
豊臣秀吉 |
権力掌握の手段(対朝廷) |
娘・徳子を入内させ外戚関係を構築。武士として初の太政大臣に就任 62 。 |
太政大臣就任後、出家して超越的地位を確立。妻・日野康子を天皇の准母とする。死後に太上天皇の追贈が決定 1 。 |
関白・太政大臣に就任し、朝廷の権威を背景に惣無事令を発布。天下統一を正当化 64 。 |
経済基盤 |
日宋貿易の推進と瀬戸内海航路の掌握。荘園・知行国からの収入 62 。 |
日明貿易(勘合貿易)の独占による莫大な利益。守護大名からの段銭・棟別銭徴収 2 。 |
太閤検地による全国の石高の直接把握。佐渡金山・石見銀山など重要鉱山の直轄支配 67 。 |
対外政策 |
日宋貿易を積極的に推進し、大輪田泊(神戸港)を修築。経済的利益を重視 65 。 |
明の冊封体制下に入り「日本国王」となる。朝貢形式で実利を得る現実主義的外交 31 。 |
当初は南蛮貿易を奨励するも、後にキリスト教を禁教。朝鮮へ二度の出兵(文禄・慶長の役) 64 。 |
文化への影響 |
厳島神社の造営に代表される、貴族的・仏教的な文化の庇護 65 。 |
公家・武家・禅宗文化を融合させた「北山文化」を創造。鹿苑寺金閣の建立、能楽の大成 36 。 |
豪華絢爛な「桃山文化」を開花させる。茶の湯の奨励、城郭建築の発達(大坂城、聚楽第)。 |
最高官位 |
従一位・太政大臣 63 。 |
従一位・太政大臣 1 。 |
従一位・関白・太政大臣 64 。 |