本報告書は、江戸時代初期の大名、近藤政成(こんどう まさなり)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。彼の生涯は、豊臣政権から徳川幕藩体制へと移行する時代の武家の生き様、特に主家の盛衰と個人の立身、そして「家」の存続というテーマを象徴する事例として極めて重要である。
政成が生きた天正16年(1588年)から元和4年(1618年)は、豊臣秀吉の天下統一が完成し、その死後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が新たな支配体制を構築する激動の時代であった 1 。この時代、多くの大名家が栄枯盛衰を繰り返す中で、政成はいかにして自らの家を存続させ、徳川の世に適応していったのか。本報告では、この時代背景を常に念頭に置き、政成の行動選択の背景にある政治力学を解き明かす。
考察の根幹をなすのは、江戸幕府編纂の公式系譜集である『寛政重修諸家譜』である 3 。この史料は、近藤政成とその一族に関する基本的な情報を提供する。これに加え、『当代記』や『慶長日件録』といった同時代の記録 1 、さらには地方史料や近年の学術研究を横断的に参照し、多角的な分析を行うことで、一人の武将の生涯を通して、近世初期という時代の転換点の実像に迫る。
近藤政成の生涯を理解する上で、彼が血脈を受け継いだ実家「堀家」と、家名を継承した養家「近藤家」という二つの家の背景を把握することが不可欠である。この二重の家系は、彼の人生に複雑かつ決定的な影響を与えた。
政成の実父は、堀秀政(ほり ひでまさ)である 2 。秀政は「名人久太郎」の異名で知られ、織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕えた当代屈指の武将であった 2 。美濃の土豪の家に生まれた秀政は、早くから信長の小姓・側近として取り立てられ、各種奉行職を歴任する一方で、天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐や天正6年(1578年)の有岡城の戦いなど、数々の合戦で軍事的な才能を発揮した 2 。信長の側近には、秀政のほかに菅屋長頼、長谷川秀一、万見重元らがおり、彼らは信長の政権運営において中核的な役割を担っていた 2 。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、秀政は羽柴(豊臣)秀吉に属し、山崎の戦いでは先鋒として明智光秀軍の側面を突くなど、秀吉の天下取りに大きく貢献した 2 。その功績により近江佐和山9万石を与えられ、その後も小牧・長久手の戦いや九州平定などで戦功を重ね、最終的には越前国北ノ庄に30万石ともいわれる大領を与えられるに至った 2 。秀政の卓越した軍事・行政能力と豊臣政権内での高い地位は、その子である政成の生涯に大きな、そして見えざる影響を与え続けることになる。
堀家の家臣団は、秀政の出身地である美濃以来の譜代の臣に加え、近江出身の在地武士、さらには柴田勝家や丹羽長秀といった旧織田家臣団の旧臣など、多様な出自の武士たちで構成されていた 8 。秀政はこれらの家臣を巧みに統率し、越前支配においては、豊臣政権の基本政策である太閤検地などを忠実に実行し、近世的な領国経営に優れた手腕を発揮した 7 。
しかし、天正18年(1590年)、秀政は天下統一の総仕上げである小田原征伐の陣中にて、38歳の若さで病没する 1 。秀政の死後、家督は長男の堀秀治が継承し、次男の親良も父の遺領から分知を受けて大名となった 11 。政成は秀政の四男として、兄たちとは異なる運命を辿ることになるのである。
政成の養父となったのは、堀家重臣の近藤重勝(こんどう しげかつ)である 3 。『寛政重修諸家譜』によれば、近藤氏は尾張国沓掛城主であった一族とされ、重勝の父・重郷は織田信長の側近である万見重元(まんみ しげもと)に仕えていた 11 。重勝も父同様に万見重元に仕えたが、天正6年(1578年)の有岡城(伊丹城)攻めで主君・重元が討死すると、その同僚であった堀秀政に招かれて仕えることとなった 8 。この時、重勝は鉄砲傷を負いながらも奮戦し、その武名は広く知られたという 14 。
堀秀政に仕えた重勝は、その能力を高く評価され、天正13年(1585年)に秀政が越前北ノ庄城主となると5,000石を与えられた 8 。秀政の死後は、その次男・堀親良に属し、慶長3年(1598年)に堀家が越後へ転封されると、親良の蔵王堂4万石のうち1万石を分与され、大名級の知行を持つ家老となった 11 。
この重臣・近藤重勝には実子がおらず、そこに堀秀政の四男である政成が養子として入った 3 。この養子縁組は、単に家名を継がせるという私的な問題に留まらない、高度な政治的戦略性を内包していた。豊臣政権下の大名家にとって、有力な家臣、特に外様の出自を持つ大身の家臣の忠誠心をいかに確保し、その知行地を安定的に自家の支配下に置き続けるかは、家門の安泰を左右する最重要課題であった 8 。主君の子を重臣の養子に入れることは、血縁という最も強固な絆を築くことで、この課題を解決する有効な手段であった。これにより、重臣の家は主家の一門に準ずる存在となり、その忠誠心は格段に強化される。堀家にとっては、近藤重勝が持つ1万石という広大な知行が、将来にわたって堀家の血を引く者によって継承されることが保証され、堀家全体の支配体制はより盤石なものとなる 18 。一方、近藤家にとっても、主君の公子を養子に迎えることで家格は飛躍的に向上し、他の家臣に対する優位性も確立できる。このように、この養子縁組は、堀家と近藤家の双方に利益をもたらす、計算された政略であったと言える。これは、戦国から近世への移行期に見られる、大名家が内部の権力構造を安定させるために用いた典型的な手法の一つであった 20 。
堀家の貴公子として生まれた政成の運命は、時代の大きなうねりの中で、新たな主君・徳川家康へと向かう。それは、彼自身の、そして近藤家の生き残りをかけた、極めて重要な選択であった。
天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦が勃発した慶長5年(1600年)、当時13歳であった政成は、徳川家康に拝謁し、その小姓に列した 3 。堀家は一族を挙げて東軍に与しており 21 、この政成の出仕は、天下の趨勢が徳川にあることを見極め、次代の支配者である家康との直接的かつ個人的な関係を構築するための、堀家による重要な布石であった。小姓として家康の側に仕えることは、忠誠の証であると同時に、実質的な人質としての側面も持っていた。しかしそれ以上に、主君との個人的な信頼関係を築く絶好の機会であり、将来の立身に向けた第一歩であった。
この家康への臣従は、結果的に政成の運命を大きく左右することになる。すなわち、政成が家康の直臣(小姓)となったことは、後に堀宗家が改易された際に、彼自身が連座を免れるための決定的な「保険」となったのである。当初、政成の身分はあくまで堀家の一員であり、養父・重勝も堀家の重臣であった。しかし、慶長5年の出仕により、彼は「堀家の一員」であると同時に「徳川家康の直臣」という二重の身分を獲得した。慶長15年(1610年)、堀宗家が御家騒動(越後福嶋騒動)によって改易処分を受けた際、通常であれば一族や重臣も連座して所領を没収される危険性が高かったが、政成はこれを免れ、独立した1万石の大名として存続を認められた 3 。これは、彼がもはや単なる堀家の陪臣ではなく、幕府(将軍家)に直接仕える大名として認識されていたからに他ならない。家康への早期の臣従は、政成個人のみならず、彼が継いだ近藤家の存続を保証する、極めて戦略的な一手だったのである。
慶長8年(1603年)、政成は16歳で従五位下信濃守に叙任され、家康の征夷大将軍宣下の御礼のための参内に従っている 1 。これは、彼が若くして徳川家中で一定の地位を認められていたことを示している。そして慶長9年(1604年)1月、養父・重勝が京都で死去すると 13 、同年4月、政成は正式に養父の遺領である越後蔵王堂1万石の相続を許された 14 。
政成が家督を相続して間もなく、本家である堀家は大きな動揺に見舞われる。慶長11年(1606年)に当主の堀秀治が、さらに慶長13年(1608年)には一族の重鎮であった堀直政が相次いで死去すると、幼い新当主・堀忠俊の下で家臣間の権力闘争が激化した 22 。特に、筆頭家老であった堀直清(直政の嫡男)と、その異母弟である堀直寄の対立は深刻化し、ついに幕府の介入を招く事態となる。直寄は駿府の家康に直清の非道を訴え、これを受けた家康は、慶長15年(1610年)、忠俊の「家中取締不十分」を理由に、越後45万石を没収、改易という厳しい裁断を下した 23 。
この「越後福嶋騒動」により、名門・堀宗家はあっけなく没落した。しかし、前述の通り徳川家直臣の身分を得ていた政成は、この改易に連座することなく、独立した大名としての地位を認められた。彼の所領1万石は、旧堀家領が家康の六男・松平忠輝に与えられ高田藩が成立するのに伴い、越後の地から信濃国と美濃国に移されることになった 14 。一方で、政成の兄である堀親良も、宗家の騒動以前に家老との不和から出奔していたため、改易の連座を免れていた 28 。親良は後に徳川家に仕え、下野国烏山藩主として大名に復帰する。この親良の存在が、後に近藤家の運命に再び大きく関わってくるのである。
慶長15年(1610年)、堀宗家の改易に伴う替地により、近藤政成は信濃国高井郡内に5,000石、美濃国安八・山県・石津・中島郡内に5,000石、合計1万石を与えられた 3 。これにより、政成を初代藩主とする「近藤藩」が立藩した。
しかし、「近藤藩」は1万石の大名領でありながら、その実態は一般的な城主大名とは異なり、特定の居城を持たない「陣屋大名」に近い、過渡期的な支配形態であった可能性が高い。その理由として、第一に所領が信濃と美濃という遠隔地に分散している点が挙げられる 14 。これは統一された領国経営を困難にし、強力な城郭を拠点とする支配体制とは相容れない。第二に、史料上、政成が藩主時代に拠点とした特定の城、すなわち藩庁についての明確な記述が見当たらないことである 29 。これは、彼が江戸に常住する定府大名であり、知行地には代官を派遣して統治を行っていた可能性を示唆している。事実、政成の死後に旗本となった近藤家は信濃国伊那郡に「陣屋」を構えており 14 、大名時代も同様の支配形態であったと推測される。したがって、「近藤藩」という呼称は後世的なものであり、実態は徳川幕府直属の1万石級の領主(大名格)であったと理解するのがより正確であろう。これは、幕藩体制が完全に確立する以前の、支配形態の流動性を示す一例と言える。
政成に与えられた信濃国高井郡の領地は、穀倉地帯として知られ 33 、具体的には間山村(現・中野市)、羽場村・押切村(現・小布施町)など7か村であった 14 。当時の北信濃は、松平忠輝領(川中島藩)、堀直寄領(飯山藩)、堀直重領などが複雑に入り組んでおり、政成の領地もその中に点在する形であった 27 。美濃国の領地も4郡10か村にまたがっており、領国の一体性は乏しかった 3 。
国 |
郡 |
村名(代表例) |
石高 |
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信濃国 |
高井郡 |
間山村、羽場村、押切村など7か村 |
5,000石 |
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美濃国 |
安八、山県、石津、中島郡 |
仏師川村、深浜村、下宿村、里村など10か村 |
5,000石 |
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表1:近藤藩 所領一覧(慶長15年~元和4年) 3 |
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独立大名となった政成にとって、徳川の臣としての忠誠と武勇を示す最大の機会が訪れる。慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣である。
豊臣家を滅ぼすための最終決戦である大坂冬の陣および夏の陣において、政成は徳川方の大名として両陣に従軍した 3 。これは、徳川の支配体制下に組み込まれた大名として当然の軍役であった。
諸史料によれば、政成は徳川譜代の重臣・永井直勝(ながい なおかつ)の隊に配属された 3 。永井直勝は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで池田恒興を討ち取るなど武勇で知られ、家康の側近として厚い信頼を得ていた人物である 36 。大坂の陣では軍奉行を務めるなど、幕府軍の中枢を担っていた 38 。政成のような外様出身の若い大名が、このような実績と信頼のある譜代大名の指揮下に入ることは、戦功を挙げる上で重要な意味を持っていた。
大坂夏の陣の雌雄を決した慶長20年5月7日の天王寺・岡山の戦いにおいて、徳川軍の布陣は、家康率いる天王寺口と、秀忠率いる岡山口の二手に分かれていた 39 。永井直勝が属した部隊は、最も激戦が予想された天王寺口の、徳川家康本陣の前面に展開する部隊の一つであった 41 。この戦線は、真田信繁(幸村)や毛利勝永らが率いる豊臣方の精鋭部隊と直接対峙する場所であり、徳川軍の主力中の主力が配置された最前線であった。政成もまた、この死線を覚悟すべき持ち場にいたのである。
『寛政重修諸家譜』には、政成が「大坂の陣に従軍、永井直勝の隊に属し戦功を挙げる」と簡潔に記されている 3 。この「戦功」の具体的な内容、例えば敵の首級をいくつ挙げたかといった詳細を記した一次史料は、現在のところ確認されていない。しかし、彼が参陣した戦いの状況と、その後の幕府の処遇から、その功績が単なる形式的なものではなかったと十分に推察される。
天王寺・岡山の戦いは、歴史上名高い激戦であった。特に真田信繁は、寡兵をもって徳川家康の本陣に三度にわたり猛烈な突撃を敢行し、一時は家康の馬印が倒れ、家康自身が自刃を覚悟するほどに追い詰めたと伝えられている 40 。この凄まじい攻勢の矢面に立ったのが、家康本陣の前面に布陣していた本多忠朝隊や松平忠直隊、そして政成が属していた永井直勝隊などであった。この死線を生き延び、部隊の一員として最後まで持ち場を守り奮戦したこと自体が、大きな武功として評価されるべきである。
この功績を裏付けるように、戦後の元和3年(1617年)5月26日、政成は幕府から正式に所領を認める「領知朱印状」を与えられている 14 。これは、大坂の陣における彼の働きが幕府に公的に認められ、1万石の大名としての地位が再確認されたことを意味する。具体的な首級の記録がなくとも、大坂の陣、とりわけ天王寺口での奮戦は、近藤政成が徳川の武人として忠誠と武勇を証明した重要な功績であり、彼の家と地位を安泰にする上で不可欠なものであったと言えよう。
大坂の陣で武人としての務めを果たし、大名としての地位を確固たるものにしたかに見えた政成であったが、その生涯はあまりにも短かった。彼の早世は、近藤家に大きな転機をもたらすことになる。
大坂の陣終結からわずか3年後の元和4年(1618年)6月22日、近藤政成は江戸の屋敷にて死去した 1 。享年31。その死因については史料に記録がなく、不明である。彼の戒名は「太清院殿如然宗愚大居士」とされた 3 。
墓所は、江戸浅草にある臨済宗妙心寺派の海禅寺に設けられた 3 。海禅寺は寛永元年(1624年)に神田で創建され、明暦の大火(1657年)の後に現在の地に移転した寺院である 46 。近藤家は旗本となってからも同寺を菩提寺とし、寺には近藤家の開基による塔頭「泊船軒」も存在した 46 。
政成の人柄を偲ばせる遺物として、京都大学総合博物館に所蔵される「近藤政成像」がある 3 。この肖像画には、政成の死から28年後の正保3年(1646年)に、長男の重直の依頼を受けて大徳寺第175世住持の隋倫宗宜が記した賛文が添えられている 45 。賛文には「宝剣鈍干将 衣冠推漢儀 早蔵身北斗 永布徳東夷」(宝剣は干将(中国の名剣)をも鈍らせ、その威儀は漢の儀礼を推し量るほどである。早くにその身を北斗に蔵し、その徳は永く東夷(日本)に布かれる)とあり、政成が子孫から深く敬愛され、その遺徳が後世に伝えられようとしていたことが窺える。
政成の死後、跡を継ぐべき長男の重直(幼名・百千代)は、わずか7歳という幼さであった 3 。この幼い跡継ぎの存在が、近藤家の運命を大きく左右する。同年12月16日、二代将軍徳川秀忠は、重直の幼少を理由に、父・政成の遺領1万石のうち5,000石のみの相続を認め、残る美濃国の5,000石を召し上げるという「半知減封」の処分を下した 3 。これにより、近藤家は所領が1万石に満たなくなり、大名の地位を失い、旗本へと降格されることになった。
この半知減封は、単に幼い当主への懲罰的な措置と見るべきではない。そこには、確立期にあった江戸幕府による大名統制と、新たな武家社会の秩序形成を象徴する、多面的な政治的意図が隠されていた。表向きの理由は「嫡男の幼少」であり 3 、これは、藩主としての軍役などの務めを果たせない者には所領を安堵しないという、武家諸法度にも通じる幕府の厳格な姿勢を示すものであった。特に、当主の死に際に慌てて養子を迎えることを禁じた「末期養子の禁」に代表されるように、跡目相続に対する厳しい管理政策の一環と位置づけられる 20 。この措置は、幕府が各家の相続に深く介入し、大名の地位すら容易に剥奪できるという絶対的な権威を諸大名に示す絶好の機会でもあった。
しかし、この裁定には硬い側面だけではなく、巧みな政治的配慮も見られる。召し上げられた美濃国5,000石は、全くの他家に与えられたわけではなく、政成の実兄であり、徳川家への忠勤に励んでいた下野国烏山藩主・堀親良に加増という形で与えられたのである 3 。これは、幕府への忠誠に対する明確な恩賞であり、親良を懐柔し、その忠誠をさらに確実なものにする狙いがあった。同時に、所領を故人の実兄に与えることで、旧堀一族に対する配慮を示し、不満を和らげる効果も期待できた。さらに幕府は、その親良を幼い重直の「後見役」に任命することで 3 、近藤家の存続と安定を図るという温情的な側面も見せている。このように、近藤家の半知減封は、幕府の権威誇示、大名家の再編・格付け、忠臣への恩賞、そして旧勢力への配慮という、硬軟織り交ぜた近世初期の巧みな統治術の表れであった。
大名の列を離れることになった近藤家だが、5,000石という知行高は旗本の中では破格であり、最上位の家格である「寄合席」に列せられた 14 。さらに、元和5年(1619年)、幕府は近藤家の知行地を信濃国高井郡から伊那郡へと再び移転させた 14 。これは、安芸広島藩を改易された福島正則に高井郡の地を与えるための、いわば玉突き人事であったとされる 14 。新たな知行地を得た近藤重直は、伊那郡立石村(現在の長野県飯田市)の甲賀城跡に陣屋を構え、ここが旗本近藤家の新たな本拠地となった 14 。後代には同郡山本村に陣屋を移している 14 。
当初の近藤家は、参勤交代の義務を持つ「交代寄合」という特別な格式を与えられていた 3 。交代寄合は、大名に準ずる待遇を受ける旗本であり、重要な国境や関所の警備などを担う家に与えられることが多かった 50 。5,000石という大身の知行を持つ近藤家がこの格式を与えられたことは、幕府が同家を高く評価していたことを示している。これにより、近藤家は幕藩体制の中で特別な地位を保ち続けることになった。
その後、近藤家は安定した旗本として存続する。三代当主・重信の代には、弟の重興に700石を分知し、本家は4,300石となった 14 。信濃飯田藩主・堀親貞に男子がいなかった際には、重信の子・親常が養子に入り、飯田藩を継承するなど、堀一族との関係も続いた 51 。江戸時代中期には、幕府の馬術師範を務めるようになったためか、江戸定府となり、参勤交代は免除された 14 。明治維新を迎えると、最後の当主である近藤政敏は知行地を政府に奉還し、旧領の山本村に帰農、七久里神社の神職となった 52 。飯田市歴史研究所などでは、この旗本近藤家の知行所支配や明治維新期の動向に関する研究も進められている 53 。
代 |
当主名 |
主要事項 |
初代 |
近藤政成 |
近藤藩立藩。大坂の陣で戦功。元和4年(1618年)死去。 |
2代 |
近藤重直 |
政成の長男。幼少のため5,000石に減封、交代寄合旗本となる。知行地を伊那郡に移す。甲府城在番などを務める 4 。 |
3代 |
近藤重信 |
重直の子。弟・重興に700石を分知し、4,300石を継承。子・親常は信濃飯田藩主堀家の養子となる 14 。 |
... |
... |
(中略) |
幕末期 |
近藤政敏 |
将軍徳川家茂・慶喜の馬術師範を務める。明治維新で知行を奉還し帰農、神職となる 14 。 |
表2:旗本近藤家 歴代当主と主要事項 |
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近藤政成の生涯は、わずか31年という短いものであった。しかしその軌跡は、戦国から江戸へと至る時代の大きな転換を凝縮している。彼は、戦国時代の名将・堀秀政の血を引きながらも、豊臣政権下の大名家における家臣団統制という政治的要請から、重臣・近藤重勝の養子となった。この養子縁組が、彼の運命の第一の分岐点であった。
第二の分岐点は、徳川家康への早期の臣従である。これにより、彼は主家である堀宗家が御家騒動で改易されるという危機を乗り越え、徳川の直臣として1万石の大名の地位を保つことができた。そして大坂の陣では、徳川軍の一員として最も過酷な戦場で戦功を挙げ、武人としての忠誠と存在価値を証明した。
しかし、彼の早世は、近藤家に最後の試練をもたらした。嫡男・重直が幼少であったために半知減封の処分を受け、近藤家は大名の地位を失う。だが、この一見過酷な裁定も、幕府の権威確立と、忠勤に励む兄・堀親良への恩賞という、計算された政治的判断の結果であった。そして、近藤家は完全に断絶させられることなく、交代寄合という大名に準ずる格式を持つ大身旗本として存続を許された。
結論として、近藤政成は、個人の能力や武功だけでなく、血縁、主君との個人的な関係、そして時代の潮流を的確に読む政治感覚が、武家の「家」の存続にいかに重要であったかを示す、まさに典型的な事例である。彼は、豊臣恩顧の大名の子弟が、いかにして徳川の世に適応し、新たな支配秩序の中に組み込まれていったかを体現する人物であった。その短い生涯は、徳川の天下が盤石の礎を築き上げていく過程で、多くの武家が経験した栄光と苦難、そして変転を鮮やかに映し出している。