戦国時代の日本列島において、美濃国東部、すなわち東美濃は、地政学的に極めて重要な意味を持つ地域であった。西に尾張の織田信長、東に甲斐の武田信玄という、当代屈指の二大勢力が覇を競う中、その緩衝地帯として常に緊張に晒されていたのである 1 。この地を本拠としたのが、美濃源氏土岐氏の流れを汲むとされる国衆(在地領主)、遠山氏であった 3 。彼らは岩村、苗木、明知などを拠点とする一族連合体を形成し、大国の狭間で巧みな外交と武力をもってその命脈を保とうと苦心していた。
本報告書が主題とする遠山友忠(とおやま ともただ)は、まさにこの激動の時代、東美濃の国境領主として生きた武将である。彼の生涯は、織田家への臣従、武田氏との死闘、主君信長の横死、そして旧領からの追放と、まさに戦国乱世の荒波に翻弄されたものであった。しかし、その一見敗北の連続に見える生涯を深く分析すると、そこには単なる一武将の悲劇に留まらない、中小領主が生き残りを賭けて繰り広げた生存戦略の典型が見て取れる。彼の決断の一つ一つは、常に一族の存続という至上命題と結びついており、短期的な名誉や勝利よりも、次世代へ血脈を繋ぐという長期的な視点に基づいていた。
本報告書は、遠山友忠の出自からその最期、そして彼の子孫である苗木藩の成立に至るまでを、関連史料を基に網羅的かつ徹底的に追跡する。特に、彼の生涯における重要な転換点、すなわち木曾義昌の調略、森長可との対立、そして徳川家康への臣従といった出来事を詳細に分析し、その決断が彼自身と遠山家の運命にいかなる影響を与えたのかを明らかにする。友忠の生涯を解き明かすことは、戦国時代における国境領主の苦悩と選択の実像に迫る試みである。
年代(西暦) |
出来事 |
関連人物 |
典拠史料/スニペットID |
(生年不詳) |
美濃国恵那郡の飯羽間遠山氏当主・遠山友勝の子として誕生。 |
遠山友勝 |
5 |
永禄12年 (1569) |
父・友勝が信長の命で苗木遠山氏を継承。友忠は父の旧領・飯羽間城主となる。 |
織田信長, 遠山友勝, 遠山直廉 |
5 |
天正2年 (1574) |
阿照城の戦い。次男・友重が武田方の木曽軍との戦いで戦死(享年19)。 |
遠山友重, 遠山友政, 木曾義昌 |
4 |
天正10年 (1582) 2月 |
木曾義昌の調略に成功。武田氏離反の直接的なきっかけを作る。 |
木曾義昌, 織田信長 |
8 |
天正10年 (1582) 6月 |
本能寺の変。絶対的な後ろ盾であった織田信長が死去。 |
織田信長 |
4 |
天正11年 (1583) 5月 |
森長可に苗木城を攻められ開城。息子・友政と共に浜松の徳川家康を頼る。 |
森長可, 羽柴秀吉, 遠山友政 |
10 |
天正12年 (1584) 5月12日 |
旧領回復を見ることなく、遠江国浜松にて病死。 |
徳川家康, 菅沼定利 |
10 |
慶長5年 (1600) |
三男・友政が関ヶ原の戦いの功により苗木城を奪還。後に初代苗木藩主となる。 |
遠山友政, 徳川家康 |
4 |
遠山友忠の生涯を理解する上で、まず彼の出自と、当時の東美濃における遠山一族の立ち位置、そして織田信長との関係構築の過程を把握することが不可欠である。彼の初期の経歴は、彼自身の能力以上に、父・遠山友勝と信長の政治的判断によって大きく方向付けられた。
遠山氏は、鎌倉時代に源頼朝の重臣であった加藤景廉が美濃国遠山荘の地頭に任じられたことを起源とするとされる 1 。戦国時代には、岩村城を本拠とする惣領家を中心に、苗木、明知、飯羽間、串原、明照、安木の城主たちが連合体を形成し、「遠山七頭」と称されていた 3 。彼らは独立した領主でありながら、一族として連携し、外部勢力に対抗していた。
友忠が生まれた飯羽間遠山氏は、この七頭に数えられる有力な分家の一つであった 3 。飯羽間城(現在の岐阜県恵那市岩村町飯羽間)を拠点とし、独自の勢力を保持していたことが記録からうかがえる 5 。友忠は、その当主であった遠山友勝の子として、この飯羽間城で生を受けた 5 。
友忠の運命が大きく動き出すのは、永禄12年(1569年)のことである。この年、苗木城主であった遠山直廉が、飛騨の三木氏との戦いで受けた矢傷がもとで嗣子なく死去した 5 。直廉は織田信長の妹を娶っていたともされ、織田家と深い関係にあったが、その後継者がいないことは、東美濃における織田家の影響力低下に直結する問題であった 4 。
この事態に、美濃支配の安定化を急ぐ織田信長が直接介入する。信長は、遠山一族の中でも自身に協力的であった飯羽間城主・遠山友勝を後継者に指名し、苗木遠山氏の名跡を継がせ、苗木城主としたのである 5 。この信長の命令により、友勝は飯羽間城から、より戦略的価値の高い苗木城へと本拠を移した。そして、友忠は父・友勝の跡を継ぐ形で、飯羽間城主となった 5 。この一連の出来事は、友忠個人の意思を超えた、信長の東美濃戦略という大きな政治力学の結果であった。これにより、飯羽間遠山氏の分家筋であった友忠父子は、苗木遠山家という、より中心的な立場へと押し上げられ、否応なく織田・武田の対立の最前線に立つこととなったのである。
信長の友忠父子に対する信頼は、血縁関係の構築によってさらに強固なものとなる。友忠は、織田信長の姪を正室として迎えている 5 。信長は、東美濃の国衆を自らの陣営に引き込むため、叔母をおつやの方として岩村遠山氏の遠山景任に、妹を苗木遠山氏の遠山直廉に嫁がせるなど、戦略的な婚姻政策を積極的に展開していた 15 。
友忠の婚姻もこの政策の一環であり、信長が友忠とその父・友勝を、武田氏に対抗するための東美濃における重要なパートナーと見なしていたことの明確な証左である。この信長との姻戚関係は、友忠に織田家中の他の武将にはない特別な地位を与え、後の木曾義昌調略といった重要な外交任務を担う上での大きな後ろ盾となった。
織田信長との関係を深め、東美濃における重要性を増した遠山友忠であったが、それは同時に、甲斐の武田氏との直接対決を宿命づけられることを意味した。元亀から天正年間にかけて、彼の人生は武田氏との熾烈な戦いに明け暮れることとなる。
元亀3年(1572年)、武田信玄が大規模な西上作戦を開始すると、その進路上に位置する東美濃は、瞬く間に織田・武田両軍が激突する主戦場と化した 5 。信玄は家臣の秋山虎繁(信友)に別働隊を率いさせて東美濃へ侵攻させた。遠山氏の惣領家であった岩村遠山氏の当主・遠山景任がこの年に病死し、その後継者として信長が自身の五男・御坊丸(後の織田勝長)を送り込んでいたが、秋山虎繁はこの岩村城を巧みな調略を用いて攻略し、城主未亡人であったおつやの方(信長の叔母)を娶って武田方の拠点としてしまう 5 。
この岩村城の陥落は、東美濃の勢力図を大きく塗り替えるものであった。織田方にとって、友忠が守る苗木城は、武田の更なる西進を食い止めるための最後の砦ともいえる、防衛の最重要拠点となったのである 2 。
この緊迫した状況下で、友忠は飯羽間城から、より前線に近い阿照城(明照城とも記される)へ、そして最終的には苗木城へと拠点を移していった 5 。そして天正2年(1574年)2月、武田勝頼が父・信玄の遺志を継いで東美濃に大軍を侵攻させた際、友忠にとって生涯忘れることのできない悲劇が起こる。
この時、武田方として従軍していた信濃の木曾義昌の軍勢が、友忠の次男・遠山友重が守る阿照城(現在の岐阜県中津川市付知町)を攻撃した 3 。友重は当時19歳の若武者であったと伝わる 4 。報せを受けた友忠は、三男の友政(後の初代苗木藩主)と共に苗木城から救援に出撃し、木曽勢と激しく戦った 4 。しかし、奮戦も及ばず、阿照城は陥落し、友重は若くしてその命を散らした 3 。
国衆にとって、跡継ぎである息子を失うことは、一族の存続そのものを揺るがす最大の痛手である。この直接的な血の代償は、友忠の武田氏に対する感情を、単なる政治的な敵対関係から、個人的な憎悪と復讐心を含む、より根深いものへと変質させた可能性が高い。この悲劇は、彼のその後の行動原理を理解する上で極めて重要な出来事であった。この戦いの後、友忠と友政は信長の命により、防衛拠点を苗木城に集約することになる 7 。
勝頼の猛攻は続き、天正2年(1574年)の侵攻では、友忠の拠点である苗木城も武田軍の攻撃を受け、陥落したことが記録されている 6 。苗木城だけでなく、周辺の支城16箇所もことごとく攻略され、東美濃は一時的に武田の勢力下に置かれた 6 。
しかし、翌天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田軍に壊滅的な打撃を与えた織田軍は反攻に転じる。織田信忠を総大将とする軍勢が東美濃に進攻し、岩村城を奪還。これに伴い、苗木城をはじめとする諸城も織田方の手に戻った 6 。友忠父子は、この極めて苦しい戦いを耐え抜き、再び苗木城主として返り咲いたのである。
天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が開始される。この戦役において、武田氏が驚くほど短期間で滅亡に至った背景には、一人の国衆の離反があった。信濃の木曾義昌である。そして、この世紀の調略を成功させ、武田氏滅亡の引き金を引いたのが、遠山友忠であった。これは、息子の仇である武田氏への復讐を期す友忠にとって、生涯最大の功績となる。
長篠の戦いでの大敗後、武田勝頼の威信は大きく揺らいでいた。特に、天正9年(1581年)から始まった新府城(山梨県韮崎市)の築城は、領内の国衆に過大な普請役と経済的負担を強いることになり、不満が鬱積していた 8 。
木曾谷の領主・木曾義昌も、その一人であった。彼は武田信玄の娘・真理姫を娶った親族衆(一門衆)という特別な立場にありながら、勝頼の代になってからの待遇に強い不満を抱いていたとされる 8 。地理的に織田領と接する木曽谷の防衛という重責を担わされながら、その負担に見合うだけの評価を得られていないと感じていた義昌の心は、次第に武田家から離れていった。
この武田家中の動揺を、織田信長が見逃すはずはなかった。信長は甲州征伐を本格化させるにあたり、武田領侵攻の突破口として、木曾義昌の調略を画策する。その交渉の大役を任されたのが、遠山友忠であった。
友忠がこの任務に選ばれたのには、複数の理由があった。第一に、彼の居城である苗木城と木曽谷は地理的に隣接しており、秘密裏の交渉が容易であったこと。第二に、彼が信長の姪婿という姻戚関係にあり、信長の全権代理として交渉に臨む上で、義昌に絶対的な信頼感を与えられたことである。そして第三に、彼自身も武田方に息子を殺されており、「同じく勝頼に不満を持つ者」として、義昌の心情に寄り添い、共感を得やすかったであろうことだ。彼の立場そのものが、最高の交渉カードだったのである 7 。
『信長公記』をはじめとする複数の史料には、友忠(苗木久兵衛)が信長の命を受け、義昌との交渉にあたったことが明確に記されている 25 。友忠は、武田家を見限るという一族の存亡を賭けた大博打に踏み切れないでいた義昌に対し、離反後の木曽谷の所領安堵はもちろん、新たに信濃国の安曇・筑摩二郡を与えるという破格の条件を提示し、説得を重ねたとされる 26 。
友忠の粘り強い交渉は、ついに実を結ぶ。天正10年(1582年)2月1日、木曾義昌は武田家からの離反を決意し、織田方へ内通した 28 。この報に激怒した勝頼は、人質として預かっていた義昌の母や嫡子らを処刑し、自ら討伐軍を率いて木曽へ向かう 8 。しかし、地の利を得た義昌は織田信忠の派遣した援軍と共にこれを撃退 8 。
木曽口が開かれたことの軍事的影響は絶大であった。織田信忠率いる本隊は、本来ならば激しい抵抗が予想された木曽路をほぼ無抵抗で進軍することが可能となり、信濃深くまで一気に侵攻した。これをきっかけに、武田譜代の重臣たちの離反が相次ぎ、名門・武田氏は内部から崩壊。同年3月11日、勝頼は天目山にて自刃し、ここに甲斐武田氏は滅亡した 8 。
この一連の出来事において、遠山友忠の調略が武田氏滅亡の直接的な引き金の一つとなったことは疑いようがない。これは、織田家への忠誠を示すと同時に、愛息の仇を討つという個人的な復讐を成し遂げた、彼の武将としての生涯における最大の功績であった 7 。
武田氏滅亡という大功を立て、織田政権下での安泰を確かなものにしたかに見えた友忠であったが、その運命は、天正10年(1582年)6月2日に起きた未曾有の大事件によって、再び暗転する。本能寺の変である。
主君・織田信長の横死は、友忠にとって絶対的な後ろ盾の喪失を意味した。織田家の統制が失われた東美濃は、再び権力の空白地帯と化し、新たな動乱の時代へと突入する。この混乱の中、信濃にいた森長可(森蘭丸の兄)は、旧領である美濃金山城への帰還を目指して決死の撤退行を開始する。この時、友忠が長可の通り道である千旦林(現在の中津川市)でその暗殺を企てていたという逸話が残されている 31 。この計画は、長可が木曾義昌の子を人質に取っていたため、義昌の懇願により中止されたが、両者の間に当初から根深い対立感情があったことを物語っている。
山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田家の実権を掌握した羽柴秀吉は、天下統一事業の一環として、麾下の猛将・森長可に東美濃の平定を命じた。長可は「鬼武蔵」の異名を持つ勇将であったが、旧信長家臣団の一員に過ぎない。
秀吉は、友忠と息子の友政に対し、長可の指揮下に入るよう勧告した。しかし、信長直参の国衆としての誇りを持つ友忠父子は、これを断固として拒絶した 10 。この事実は、苗木遠山家に伝わる『苗木伝記』に明確に記されており、同格以下の長可に従うという屈辱を受け入れられないとする、友忠の国衆としての意地がうかがえる。
友忠の拒絶を受け、森長可は天正11年(1583年)5月、2,200とも3,000ともいわれる軍勢を率いて苗木城に攻め寄せた 4 。友忠父子は、木曽川を天然の堀とし、巨岩を巧みに利用した天険の要害である苗木城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた 4 。坂折峠では、苗木方の鉄砲の名手であった小池兄弟が長可を狙撃したという逸話も残るほど、激しい抵抗であった 34 。
しかし、信長という後ろ盾を失った今、友忠に外部からの援軍の望みはなかった。圧倒的な兵力差の前に、籠城は時間稼ぎにしかならず、最終的には一族郎党の全滅につながることは明らかであった。ここで友忠は、武将としての名誉である玉砕か、城を明け渡して一族の再起を図るかという、究極の選択を迫られる。
そして彼は、後者を選んだ。無益な犠牲を避け、一族の血脈を未来に繋ぐことこそが家長の責務であると判断したのである。この決断は、彼が単なる武辺者ではなく、一族の未来を見据える冷静なリアリストであったことを示している。天正11年5月、友忠は森長可と和睦し、苗木城を開城した 4 。この現実主義的な判断こそが、結果的に遠山家を滅亡の淵から救うことになる。
苗木城を明け渡した友忠の人生は、栄光から一転、流浪の日々へと変わる。しかし、その苦難の中でも彼は一族再興の道を模索し続け、新たな主君として徳川家康を選択した。
『苗木伝記』によれば、天正11年(1583年)5月20日の夜、友忠と息子の友政は、少数の家臣と共に夜陰に乗じて苗木城を脱出した 10 。彼らは城の南に位置する坂下方面から木曽路へと向かい、中山道の宿場町である妻籠宿(現在の長野県木曽郡南木曽町)へと落ち延びたとされる 10 。かつて東美濃にその名を轟かせた領主の、あまりにも寂しい逃避行であった。
妻籠に身を寄せた友忠父子は、次なる活路を徳川家康に求めた。彼らはさらに南下し、遠江国浜松城にいた家康のもとを訪れ、その麾下に入った 5 。当時、家康は秀吉との対立を日に日に深めており、翌年に勃発する小牧・長久手の戦いの前夜ともいえる緊迫した状況にあった。秀吉と敵対する森長可に故郷を追われた友忠を受け入れることは、家康にとって東美濃における反秀吉勢力を自陣営に取り込み、来るべき対決に備える上で、戦略的に大きな意味を持っていた。
家康は友忠父子を受け入れ、家臣の菅沼定利(小大膳)にその身柄を預けた 5 。菅沼定利は、当時、徳川方の信濃・美濃方面における国衆統括の任を担う重要人物であり、友忠の東美濃における知見と人脈は、家康にとって価値あるものであったと考えられる 37 。
友忠は、家康の下で旧領回復の機会を窺っていたはずである。しかし、その夢が叶うことはなかった。苗木城を去ってからわずか1年後の天正12年(1584年)5月12日、友忠は遠江国浜松の地で病に倒れ、その波乱の生涯を閉じた 10 。彼の死は、まさに歴史の転換点の直前であった。この年の3月には小牧・長久手の戦いが勃発しており、同じく家康を頼っていた明知遠山氏らは家康方として参戦し、一時的に旧領を回復している 3 。もし友忠の寿命があと数ヶ月でも長ければ、彼もまたこの戦いに参加し、自らの手で苗木城奪還の先鋒を務めた可能性が極めて高い。彼は文字通り、再起の好機を目前にして力尽きたのであり、その最期は彼の生涯の悲劇性を象徴するものとなった。
遠山友忠の物語は、彼の死で終わりではない。むしろ、彼の「戦略的撤退」という決断があったからこそ、その遺志を継いだ息子・友政による「栄光ある復活」の物語が始まる。友忠の生涯は、友政の立藩によって完結する、父子の二代にわたる壮大な物語として捉えるべきである。
父・友忠の死後、三男の遠山友政(弘治2年・1556年生まれ 40 )が、流浪の遠山家を率いることになった。彼は父と共に徳川家康に仕え、天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されるとこれに従った。上野国館林(群馬県館林市)において、徳川四天王の一人である榊原康政に預けられ、約18年という長い雌伏の時を過ごすこととなる 4 。この間、彼は父の無念を晴らし、故郷である苗木の地を回復するという執念の炎を、片時も消すことはなかったと考えられる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、友政はこれを千載一遇の好機と捉えた。彼は家康に、東山道(中山道)を進軍する徳川秀忠の本隊に先んじて、旧領の苗木城を奪還することを願い出た。東美濃の地理と情勢に精通した友政の申し出を、家康は高く評価。これを許可し、鉄砲30挺と弾薬、黄金などを与えてその活動を支援した 4 。
友政は、父・友忠の代からの旧臣たちを率いて東美濃へ進撃。当時、苗木城は西軍に与した川尻直次(秀長)の所領となっており、城代の関治兵衛が守っていた 3 。友政は関ヶ原の本戦に先立つ8月、見事に苗木城を攻撃し、奪還に成功したのである 4 。さらに岩村城の攻略にも功を挙げ、東美濃一帯を徳川方の支配下に置く上で決定的な役割を果たした 4 。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、友政の戦功は高く評価された。徳川家康は、友政に対し、旧領である美濃国恵那郡および加茂郡内の46村、合計1万521石の所領を安堵した 4 。これにより、ここに苗木藩が立藩。友忠が涙をのんで城を明け渡してから18年の歳月を経て、息子・友政の手によって、遠山家は戦国時代の国衆から近世大名へと劇的な飛躍を遂げたのである。
もし友忠が森長可との戦いで玉砕という道を選んでいれば、友政も共に命を落とし、遠山家の嫡流は途絶えていたであろう。友忠が「負け」を受け入れ、家康の下へ逃れるという苦渋の決断を下したからこそ、友政に再起の機会が残された。友忠の行動は、単独で見れば「城を失った敗将」の物語であるが、友政の成功と繋げて見るとき、その意味は「次世代への投資」「未来への布石」へと昇華される。苗木遠山氏は、その後、江戸時代を通じて一度も転封(領地替え)されることなく、12代にわたって苗木の地を治め、明治維新を迎えた 1 。
戦国武将・遠山友忠の生涯は、大国の狭間に生きた国境領主の苦悩と選択を凝縮したものであった。彼は、織田信長という強力な後ろ盾を得て一族の中での地位を高め、武田氏との熾烈な戦いを経験し、甲州征伐においては木曾義昌調略という歴史的な大功を立てた。しかし、本能寺の変という時代の激震は彼の運命を暗転させ、森長可との戦いに敗れて故郷を追われる身となった。徳川家康の下で再起を期すも、志半ばで異郷に客死するという悲劇的な結末を迎えた。
彼の人生は、終始、織田、武田、羽柴(豊臣)、徳川という巨大な権力の思惑に翻弄され続けた。しかし、彼の歴史的価値は、その武功や悲劇性のみにあるのではない。彼の最も重要な功績は、苗木城攻防戦において、武将としての名誉である玉砕の道を選ばず、一族の血脈を未来に繋ぐという、極めて現実的な決断を下した点にある。その「負けを受け入れる勇気」ともいえる判断がなければ、遠山家は歴史の舞台から姿を消していた可能性が高い。
友忠が守り抜いた命の襷は、息子・友政へと確かに受け継がれた。そして友政は、父の無念を晴らすかのように、関ヶ原の戦いで旧領を奪還し、一族を近世大名へと押し上げるという偉業を成し遂げた。この意味において、遠山友忠は、自らは悲劇的な結末を迎えながらも、一族を近世大名へと導いた陰の立役者であり、その礎を築いた人物として再評価されるべきである。彼の生涯は、戦国乱世における地方領主の生存戦略の複雑さと、目先の勝敗を超えた先見性の重要性を、我々に深く教えてくれる。