遠藤慶隆(えんどう よしたか、天文19年(1550年) - 寛永9年3月21日(1632年5月10日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけてその名を刻んだ武将である。美濃国郡上郡の国人衆として頭角を現し、八幡城主を経て、後に美濃八幡藩(郡上藩)初代藩主の座に就いた 1 。その生涯は、美濃斎藤氏への臣従に始まり、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代一流の権力者の下を渡り歩く、まさに戦国乱世の縮図であった。天正年間(1573年-1592年)初期には盛枝と名乗った時期もある 1 。
本報告書は、現存する史料に基づき、この遠藤慶隆の出自、主君の変遷に伴う動静、特に関ヶ原の戦いにおける郡上八幡城奪還という劇的な旧領回復、さらには郡上藩初代藩主としての治績、そしてその人物像や後世への影響について、多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。慶隆が如何にして激動の時代を生き抜き、大名としての地位を確立するに至ったのか、その軌跡を詳細に追う。
以下に遠藤慶隆の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。これにより、彼の83年間にわたる人生の大きな流れと、彼が関わった重要な歴史的転換点を概観することができる。
年代(和暦) |
年齢 |
出来事 |
出典 |
天文19年(1550年) |
1歳 |
美濃国木越城にて誕生 |
1 |
永禄5年(1562年) |
13歳 |
父・遠藤盛数の死により家督相続、郡上八幡城主となる |
3 |
永禄10年(1567年)頃 |
18歳 |
稲葉山城落城後、織田信長に帰順 |
1 |
元亀元年(1570年) |
21歳 |
姉川の戦いに織田方として参陣 |
1 |
天正10年(1582年) |
33歳 |
甲州征伐に参陣 |
1 |
天正16年(1588年) |
39歳 |
豊臣秀吉により美濃八幡領を没収され、賀茂郡白川へ転封(改易) |
2 |
慶長5年(1600年) |
51歳 |
関ヶ原の戦い。東軍に属し、郡上八幡城の戦いで勝利し旧領を回復 |
1 |
慶長5年(1600年)以降 |
51歳~ |
美濃郡上藩(八幡藩)初代藩主(2万7000石)となる |
1 |
慶長18年(1613年) |
64歳 |
幕命により妻子と共に郡上から江戸へ移住 |
1 |
慶長19年(1614年) |
65歳 |
大坂冬の陣に参陣。嫡男・慶勝を伴う |
1 |
元和元年(1615年) |
66歳 |
嫡男・慶勝が京都にて病死。大坂夏の陣に参陣 |
1 |
寛永9年(1632年) |
83歳 |
2代将軍徳川秀忠の死後、出家し旦斎と号す |
1 |
寛永9年3月21日(1632年5月10日) |
83歳 |
江戸藩邸にて死去 |
1
|
この年譜は、慶隆が戦国時代から江戸時代初期という、日本史における大きな転換期を生きた人物であることを明確に示している。彼の人生は、主家の興亡、自身の栄達と失脚、そして最終的な地位の確立という、波乱に満ちたものであった。
遠藤慶隆の家系である遠藤氏は、その起源を辿ると、鎌倉時代後期に下総国東荘から美濃国郡上郡へ移住した千葉氏の庶流、東氏に随伴した家臣団に求められるとされる 7 。室町時代を通じて、郡上地方は東氏の支配下にあり、遠藤氏はその家臣という立場であった。
しかし、戦国時代の動乱期に入ると、宗家である東氏の内部で混乱が生じ、当主・東常慶の子である常堯の非道な振る舞いなどが遠因となり、遠藤氏が台頭する機会が生まれる。慶隆の父である遠藤盛数は、東常慶の娘婿という立場にありながら、実兄である遠藤胤縁が東常堯によって謀殺された事件を契機とし、これを弔い合戦と称して蜂起した。永禄2年(1559年)の「赤谷山城の戦い」において、盛数は東氏を攻め滅ぼし、東氏の家督をも継承するという形で郡上支配の実権を握ったのである 3 。これにより、遠藤氏は郡上八幡城を本拠地とし、郡上一円を支配する戦国領主としての地位を確立した。この時期、郡上には木越城を拠点とする遠藤胤俊(盛数の兄・胤縁の子、慶隆の従兄)の系統と、郡上八幡城を拠点とする盛数の系統が存在し、これらは「両遠藤」と称される勢力を形成していた 3 。
遠藤氏のこの台頭劇は、主家を実力で排除するという典型的な下克上の一例と言える。しかし同時に、盛数が東常慶の娘婿であり、慶隆自身も東常慶の外孫にあたるという血縁関係は、単なる武力による支配だけでなく、旧支配者層との連続性を示し、在地領民の支持を得やすくするための戦略的要素を含んでいたと考えられる。武力と婚姻政策を巧みに組み合わせることで、郡上における支配権を確立・強化したこの手法は、戦国武将が新たな領地支配を安定させるためにしばしば用いたものであった。
遠藤慶隆は、天文19年(1550年)、遠藤盛数の長男として、美濃国木越城(現在の岐阜県郡上市大和町)で生を受けた 1 。幼名は三郎四郎と伝えられている 1 。母は、当時の郡上領主であった東常慶の娘、照用院友順である 10 。
父・盛数は、東氏を打倒した後、郡上郡南部を直接支配下に置き、兄・胤縁の子である遠藤胤俊は木越城に留まり、郡上郡北部を支配するという分担統治の形をとった 9 。盛数は、美濃国の太守であった斎藤道三、その子義龍、さらに孫の龍興という斎藤家三代に仕えた。しかし、織田信長の美濃侵攻が激化する中、永禄5年(1562年)、盛数は井ノ口(現在の岐阜市)における戦闘で討死したとされている 9 。父の死により、慶隆はわずか13歳という若さで家督を相続し、郡上八幡城主となる運命を背負うことになった 3 。
若くして家督を継いだ慶隆の行く手は、決して平坦ではなかった。当初、彼は美濃斎藤氏の後見を受け、稲葉山城下に居住していたとされる 4 。しかし、永禄7年(1564年)、竹中半兵衛重治が稲葉山城を奇襲し占拠するという混乱に乗じ、木越城主であり慶隆の従兄にあたる遠藤胤俊が、慶隆に対して叛旗を翻し、八幡城を奪取するという事件が発生した 3 。
この危機に対し、慶隆は母の再婚相手であった継父・長井道利(斎藤道三の子、または家臣)の援軍を得ることに成功する。翌永禄8年(1565年)、慶隆はこの支援を受けて胤俊と和睦し、八幡城を回復することができた 3 。敗れた胤俊は、弟の遠藤胤基に木越城を譲り、自身は剃髪して宗祇水のそばに隠棲し、慶隆に恭順の意を示したと伝えられている 3 。この一連の出来事は、若き日の慶隆が直面した試練であり、同時に彼が郡上における支配権を実質的に固めていく上での重要な画期となった。13歳での家督相続と直後の反乱という事態は、当時の若年当主が抱える権力基盤の脆弱さを示している。しかし、継父という外部の有力者の支援を巧みに利用してこの危機を乗り越えたことは、慶隆自身の政治的才覚の萌芽、あるいは彼を支える周囲の補佐体制が有効に機能したことを示唆している。戦国時代において、個人の武勇のみならず、婚姻や同盟といった外交戦略がいかに重要であったか、そして慶隆が早くからそうした厳しい環境に身を置いていたことを物語っている。
遠藤慶隆の生涯は、まさに主君の盛衰と共にあった。美濃の国人領主として家名を存続させるため、彼は目まぐるしく変わる天下の情勢の中で、必死の選択を重ねていくことになる。
父・盛数の死後、家督を継いだ慶隆は、当初、美濃国の領主であった斎藤龍興に仕えた 1 。しかし、織田信長の美濃侵攻は激しさを増し、永禄10年(1567年)には斎藤氏の本拠地である稲葉山城が落城。これにより斎藤氏は没落し、慶隆もまた、新たな時代の覇者として台頭しつつあった織田信長に帰順することを余儀なくされた 1 。この頃、天正年間(1573年-1592年)の初めには「盛枝」と名乗っていた時期もあると記録されている 1 。
織田信長に仕えることになった慶隆は、信長の天下布武の戦いに加わり、各地を転戦して武功を重ねた。元亀元年(1570年)に勃発した姉川の戦いでは、浅井長政・朝倉義景連合軍と激しく戦火を交えた 1 。この戦いで慶隆が身に付けたとされる「紺糸縅弐枚胴具足」は、現在、郡上八幡城に重要文化財として展示されており、彼の武人としての一面を今に伝えている 10 。
天正3年(1575年)8月、信長が越前一向一揆討伐のために敦賀へ出陣した際には、慶隆は弟の遠藤慶胤(胤基)と共に日根野弘就らと郡上から越前へ進軍し、同じく織田家臣であった金森長近と合流して、穴馬城や大野城といった越前の拠点を攻略した 1 。天正4年(1576年)、信長の嫡男・織田信忠が美濃国主となると、慶隆は信忠に臣従した 1 。同年、三瀬の変(伊勢長島一向一揆の残党掃討に関連する戦いと推測される)が起こると、弟の慶胤が慶隆の名代として参戦している 1 。
さらに、天正10年(1582年)2月、信長が敢行した甲州征伐においては、慶隆は弟の胤基と共に金森長近の指揮下に入り、飛騨方面から甲斐国へ進軍。天目山における戦いで武田勝頼を滅亡させる一翼を担った 1 。
一方で、信長への忠誠が常に盤石であったわけではないことを示唆する記録も存在する。武田信玄が織田領に侵攻した際(元亀3年(1572年)の西上作戦を指すと思われる)、慶隆は信長に反逆を計画したが、信玄の急死によりその計画を断念したという 1 。これは、当時の国人領主が自領と家名を保つため、常に複数の選択肢を模索し、時には主君への忠誠よりも現実的な利害判断を優先させていた状況を反映している。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変により織田信長が横死すると、織田家の体制は急速に動揺する。この混乱の中、慶隆は信長の三男であり、旧美濃国主であった織田信孝に帰属した 4 。しかし、信孝は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との織田家後継者争いに敗れ、天正11年(1583年)に自刃に追い込まれる。これにより、慶隆は再びその立場を失う危機に直面することとなった。
織田信孝の死後、慶隆は天下統一への道を突き進む豊臣秀吉に仕えることとなる。天正13年(1585年)、秀吉が断行した紀州征伐には、弟の胤基と共に参戦した 1 。同年8月には、金森長近・可重親子が飛騨の三木自綱を討伐する戦いにも加わり、自綱を降伏させるのに貢献した 1 。
天正15年(1587年)には、秀吉による九州征伐にも参陣している 1 。翌天正16年(1588年)、秀吉が京都に聚楽第を造営した際には、西京口に屋敷を与えられ、妻子と共に上洛した記録も残っている 1 。
しかし、秀吉政権下での慶隆は、必ずしも順風満帆ではなかった。同じく天正16年(1588年)、慶隆は秀吉の命により、先祖伝来の地である美濃八幡領を没収され、賀茂郡白川(現在の岐阜県白川町)へわずかな領地と共に転封させられた 2 。これは実質的な減封であり、左遷であった。その理由として、過去に秀吉に敵対したこと、具体的には賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家側に与した織田信孝の麾下にあったことが挙げられている 1 。郡上の旧領は、稲葉貞通に与えられた 10 。
この秀吉による慶隆の改易は、単に過去の敵対行為に対する個人的な処罰という側面だけでなく、より大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。豊臣政権が全国統一を進める中で、かつて敵対した可能性のある地方勢力を整理し、より直接的な支配体制を構築しようとする中央集権化政策の一環であったと解釈できる。秀吉は天下統一後、各地の大名配置転換(国替え)や検地を強力に推し進めた。慶隆のような、かつて敵対勢力に与した経歴を持つ国人領主を、より信頼できる直臣や与力大名に置き換えることは、政権の安定化に不可欠であった。したがって、慶隆の改易は、彼の「過去の行動」が、秀吉の「天下統一後の体制固め」という大きな政治的潮流の中で清算された結果と見ることができる。これは、多くの戦国武将が経験した運命であり、個人の意思を超えた時代の大きな流れを示している。
豊臣秀吉による改易という不遇を味わった遠藤慶隆にとって、秀吉の死後に訪れた天下の動乱は、まさに雪辱と旧領回復の好機であった。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康が急速に台頭し、豊臣政権内部の対立は決定的となる。このような状況下で、慶隆は家康率いる東軍に与することを決意する。その背景には、秀吉によって旧領である郡上八幡領を没収されたことへの深い恨みがあったとされている 1 。「改易された秀吉への恨みから、東軍に加担する事を決意したと言われています」との記述がそれを物語っている 12 。慶隆は家康に対し、旧領である郡上八幡城の奪還を強く願い出た 4 。この個人的な動機と、家康の将来性を見据えた戦略的判断が結びつき、彼の行動を強く方向づけたと言える。旧領回復という具体的な目標が、彼の関ヶ原における行動の最大の推進力となったのである。
慶長5年(1600年)8月、天下分け目の関ヶ原の戦いの前哨戦として、美濃国郡上八幡城をめぐる激しい攻防戦が繰り広げられた 8 。この戦いは、その経過において複雑な情報戦と状況の変化を伴うものであった。
当時、郡上八幡城主であった稲葉貞通は西軍に属し、主力と共に犬山城に出陣中であった。そのため、城の守備は貞通の次男(資料により三男通孝とも 4 )稲葉道孝が担っていた 14 。慶隆は、娘婿である飛騨高山城主・金森可重の援軍を得て、郡上へと進軍した 4 。
当初、徳川家康は郡上を「両遠藤」、すなわち慶隆と同じく東軍に与した遠藤胤直(慶隆の同族)の双方に与えるという許可を出していた 13 。しかし、この胤直が西軍の岐阜城主・織田秀信(斎藤秀信、信長の孫)に加担するという事態が発生し、状況は複雑化する。慶隆は、この胤直の動向を警戒しつつ、八幡城攻略を進めることになった 13 。
攻城戦は9月1日に開始された 4 。慶隆軍は城の大手から、金森可重軍は搦手(裏手)から同時に攻撃を仕掛けた 13 。慶隆隊は大手門に迫り、城内からの激しい射撃に応戦しつつ門内に乱入。さらに、裏木戸の守備兵を撃破した別働隊も二ノ曲輪に突入した 13 。一方、金森軍は搦手で二重の濠に阻まれて苦戦を強いられたが、一部は二の丸に進撃し、東木戸を破って二ノ曲輪への進入に成功した 13 。この戦いは熾烈を極め、金森軍では勇将として知られた元小鷹利城主・牛丸親綱をはじめ16名が戦死し、負傷者も50名余りに及んだと記録されている 14 。また、乱戦の中で遠藤・金森勢が同士討ちを起こす場面もあったとされ、初日の戦いは決着がつかず痛み分けとなった 4 。
戦況が膠着する中、慶隆と可重は協議の結果、城中に軍使を派遣して降伏を勧告した。翌9月2日、城を守る稲葉道孝はこの勧告を受諾し、和議が成立した 13 。
しかし、事態はここで急転する。八幡城の危機を知った稲葉貞通が、犬山城から急遽軍勢を率いて帰城したのである。和議成立に油断していた慶隆の本陣(赤谷山愛宕、または愛宕山に置かれていた 13 )は貞通軍の夜襲を受け、慶隆は命からがら吉田川を渡り、金森可重の陣へと逃げ込んだという 14 。貞通は八幡城への入城を果たし、戦況は再び西軍有利に傾いたかに見えた。
ところが、その後、稲葉貞通は金森可重のもとに使者を送り、和議を申し入れた。結果として貞通は城を明け渡し、剃髪して謹慎することとなった 14 。この一連の混乱の最中、8月21日付で家康から慶隆個人に対して郡上一円の所領を安堵する旨の書状が届けられた 13 。これにより、慶隆による郡上支配の正当性が最終的に確定したのである。この戦いの経過は、当時の情報伝達の不確実性と、それによって生じる戦況の流動性がいかに激しかったかを示している。慶隆は、金森可重との連携、困難な状況下での城攻めの強行、そして最終的には家康からの直接的な指示(安堵状)によって、この複雑な状況を乗り越え、自身の地位を確立することに成功した。これは、局地戦における戦術的成功のみならず、中央権力との強固な結びつきがいかに重要であったかを物語っている。
以下に郡上八幡城の戦いの概要を表として示す。
郡上八幡城の戦い(関ヶ原前哨戦)概要
項目 |
内容 |
時期 |
慶長5年(1600年)8月~9月初旬 |
場所 |
美濃国 郡上八幡城 |
対立構造 |
東軍 : 遠藤慶隆、金森可重(援軍)<br> 西軍 : 稲葉道孝(城代)、後に稲葉貞通本体 |
主要な経過 |
1. 慶隆・可重連合軍による攻城開始(9月1日)<br>2. 大手・搦手からの攻撃、激戦となるも落城せず<br>3. 和議成立(9月2日)、道孝は開城に合意<br>4. 稲葉貞通の帰城と慶隆本陣への夜襲、貞通が八幡城に入城<br>5. 再度の和議、貞通は城を明け渡し降伏<br>6. 家康より慶隆に郡上一円の安堵状が届く |
結果 |
遠藤慶隆の勝利、郡上八幡城奪還 |
関ヶ原の戦い本戦において東軍が最終的な勝利を収めたことにより、遠藤慶隆は正式に郡上八幡城主に復帰し、2万7000石の所領を安堵された 1 。これは、豊臣秀吉によって改易されて以来、約12年ぶりとなる悲願の達成であり、慶隆の生涯における最大の転機であり、栄光の瞬間であったと言えるだろう。この郡上八幡城の戦いは、関ヶ原の戦い全体から見れば一局地戦に過ぎないかもしれないが、美濃国における東軍の勢力確保という点で重要な意味を持っていた。慶隆の勝利は、家康にとって美濃口での優位を固め、西軍の岐阜城や大垣城への圧力を強める一助となったのである。
関ヶ原の戦いにおける功績により、遠藤慶隆は念願の旧領回復を果たし、近世大名としての道を歩み始める。
慶長5年(1600年)、遠藤慶隆は徳川家康より美濃国郡上郡に2万7000石の所領を与えられ、郡上藩(八幡藩とも称される)の初代藩主に就任した 1 。藩庁は郡上八幡城に置かれ、その所領は郡上郡を中心に、隣国である越前国大野郡の一部にも及んだ 6 。
藩主となった慶隆は、まず戦乱で荒廃した領内の安定と復興に着手したものと考えられる。慶長6年(1601年)から慶長8年(1603年)にかけては、本拠地である八幡城の改修工事を行った 1 。この改修では、本丸を桜の丸と松の丸という二つの曲輪に分けるなどの手が加えられたとされている 3 。慶長9年(1604年)には、従五位下但馬守に叙任されている 1 。
藩主としての初期の具体的な藩政運営に関する詳細な記録は乏しいものの、長年の戦乱で疲弊した領民の生活再建、検地の実施による領内把握、家臣団の編成、そして城郭の防御機能の回復などが優先課題であったと推測される。
郡上八幡城主として復帰した慶隆は、前述の通り城の改修に着手した 1 。しかし、今日見られるような郡上八幡の美しい城下町の本格的な整備は、慶隆の孫にあたる第3代藩主・遠藤常友の時代、特に寛文7年(1667年)頃に行われたものとされている 5 。常友は、承応元年(1652年)に発生した大火で大きな被害を受けた城下町に対し、用水路を整備するなどして火災に強い町として再生させたと伝えられており、これが現在の郡上八幡の町並みの礎となった 5 。
したがって、慶隆の時代における城下町整備は、関ヶ原の戦い後の復興と、藩支配体制の基盤を確立することが主眼であり、大規模な都市計画的整備まで手が回らなかった可能性が高い。一部資料には「慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設しました」との記述もあるが 12 、これは遠藤氏による初期の建設(父・盛数の時代を含む)を指すか、あるいは関ヶ原後の再建の初期段階を示すものと考えられ、常友の代に行われた計画的な大改修とは区別して捉える必要があるだろう。慶隆の藩主としての初期の活動は、新たな藩体制の基盤を固めることに主眼があり、大規模なインフラ整備まで手が回らなかったのは、当時の財政的・人的リソースの限界や、まだ完全に安定したとは言えない世情を反映していたのかもしれない。慶隆自身も、後述する大坂の陣への参陣など、軍役の負担がまだ残っていた時代であり、内政に全ての力を注ぎ込める状況ではなかったと考えられる。
一方で、慶隆の治世と関連付けて語られる文化的な側面に「郡上おどり」の起源がある。慶隆が領民の融和を図り、また人心を掌握する目的で、それまで領内各地で踊られていた盆踊りを城下に集めて奨励したという説があり、これが今日の日本三大盆踊りの一つに数えられる郡上おどりの始まりであるとされている 15 。ある資料では、これを「郡上八幡の観光の基礎」とまで評価している 17 。ただし、江戸時代中期、宝暦騒動という大規模な百姓一揆の後に、青山氏が藩主であった時代(1758年以降)に四民融和(士農工商の身分融和)のために奨励したのが発祥であるという説も存在し、その起源は必ずしも明確ではない 16 。しかし、初代藩主である慶隆にその起源を求める伝承が根強く残っていること自体が、近世大名が領民の娯楽や祭礼の奨励を通じて、間接的に支配の安定化を図ろうとした可能性を示唆している。特に郡上は、関ヶ原の戦いによって城主が入れ替わり、領民の間に動揺があった可能性も考えられ、融和策は重要な課題であったかもしれない。
郡上藩主となった慶隆は、徳川幕府の体制下で、大名としての役割も果たしていく。慶長6年(1601年)には、豊臣氏恩顧の大名に対する示威的な意味合いも含む天下普請として、膳所城(滋賀県大津市)などの築城作業に動員された記録がある 1 。
慶長7年(1602年)には、領内の長尾村銀山を幕府より拝領している 1 。これは藩の財政にとって重要な収入源となった可能性がある。
また、慶長14年(1609年)11月、伯耆国米子城主であった中村一忠が跡継ぎなく死去し、中村家が無嗣断絶となった際には、慶隆は幕府の命により米子藩に2ヶ月間滞在し、城の受け取りや事後処理にあたった 1 。これは、慶隆が幕府から一定の信頼を得ており、重要な任務を任される立場にあったことを示している。
さらに、元和3年(1617年)には、飛騨高山藩主であり慶隆の娘婿でもあった金森可重が、幕府の規定に反して妻子を江戸の藩邸に送っていなかった問題が発生した。この際、慶隆は2代将軍・徳川秀忠の命を受け、高山へ赴いて可重と交渉にあたったとされている 1 。これもまた、幕府と他の大名との間の調整役を任されるなど、慶隆が幕藩体制の中で一定の役割を果たしていたことを示す事例である。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が確立されつつあったが、豊臣氏との最終決戦である大坂の陣が勃発すると、遠藤慶隆もまた徳川方の大名として参陣することになる。
慶長18年(1613年)、遠藤慶隆は幕府の命により、妻子と共に本領である郡上から江戸へ移住した 1 。これは、諸大名を江戸に集住させ、幕府の支配力を強化しようとする政策の一環であり、後の参勤交代制度の先駆けとも言える動きであった。
翌慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、当時65歳であった慶隆は、嫡男の遠藤慶勝を伴って出陣した。慶隆親子は枚方に布陣し、戦略上の要衝である久良加利峠(暗峠)の守備を担当した 1 。
しかし、この冬の陣の最中、あるいはその直後である元和元年(1615年)2月12日、嫡男の慶勝が京都の柳の馬場において病死するという不幸に見舞われる 1 。跡継ぎを失った慶隆の悲しみは察するに余りあるが、同年、大坂夏の陣が再燃すると、慶隆は失意の中でも再び徳川方として出陣した。彼は山城国八幡(現在の京都府八幡市)に布陣し、本多康紀・康俊らと共に再度、久良加利峠の守備にあたり、その後は松原に留まったと記録されている 1 。
具体的な戦功に関する詳細な記述は乏しいものの、慶隆が二度にわたる大坂の陣に、高齢をおして嫡男と共に参陣したという事実は、徳川幕府に対する忠誠心と、譜代大名としての軍役奉仕の義務を果たすという強い意志の表れであった。関ヶ原の戦いで東軍に与し旧領を回復した大名として、徳川家への忠誠を示すことは極めて重要であり、大坂の陣はその試金石とも言える戦いであった。その最中に嫡男を失うという個人的な悲劇は、戦国乱世を生き抜いてきた老将にとって、計り知れない痛手であったろう。それでもなお夏の陣に再参陣したのは、武士としての意地と幕府への義理立てがあったからに他ならない。
大坂の陣が徳川方の勝利に終わり、豊臣氏が滅亡すると、世は本格的な泰平の時代へと移行する。慶隆も郡上藩主として、また幕府に仕える大名としての日々を送った。前述の江戸への移住は、彼が徳川幕府の支配体制にしっかりと組み込まれ、中央政権との結びつきを強めていたことを明確に示している。
寛永9年(1632年)、2代将軍・徳川秀忠が薨去すると、遠藤慶隆はその後を追うように出家し、法名を旦斎(たんさい)と号した 1 。主君の死を悼んで出家する行為は、特に戦国時代から江戸時代初期にかけて見られた風習であり、当時の武士が抱いていた主君に対する追悼や忠誠の念の深さの一つの表れと言える。慶隆は徳川家康に仕えることで旧領を回復し、その後秀忠の治世下で藩主としての地位を全うした。秀忠の死は、彼にとって一つの時代の終わりを象徴する出来事であったのかもしれない。
出家からわずか2ヶ月後の同年3月21日(旧暦)、慶隆は江戸の藩邸において、83歳(数え年。満年齢では81歳または82歳)の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。
嫡男の慶勝は既にこの世になかったため、遠藤家の家督は養子として迎えられていた遠藤慶利が継承した 1 。
遠藤慶隆は、戦国乱世を生き抜き、近世大名としての地位を確立した人物であるが、その人物像は武勇一辺倒ではなく、多面的な魅力を持っていたと伝えられている。
慶隆は、若き日の姉川の戦いをはじめとして、甲州征伐、紀州征伐、九州征伐、そして関ヶ原の戦いにおける郡上八幡城の戦い、大坂の陣と、数多の合戦に参加し、その都度武功を立ててきた歴戦の武将である 1 。特に、姉川の戦いで使用したとされる「紺糸縅弐枚胴具足」が重要文化財として現存することは、彼の武人としての勇猛さや格式を物語る具体的な証左と言えるだろう 10 。また、郡上八幡城の戦いでは、一時劣勢に立たされながらも、最終的には和議と家康の裁可によって旧領を奪還しており、単なる武勇だけでなく、不屈の精神力と戦略的な判断力も兼ね備えていたことがうかがえる。
一方で、慶隆は文化的な素養も持ち合わせていたとされる。「古今伝授で有名な美濃東氏の伝統を受け重んじ和歌、茶道にも造詣が深く」「まさに文武両道の人物とも言える」との評価が存在する 10 。遠藤氏が東氏の家督を継承したという経緯 7 を考えれば、東氏が代々守り伝えてきた文化、特に中世歌壇において重要な位置を占めた古今伝授のような和歌の伝統に触れる機会があった可能性は十分に考えられる。戦国武将の中には、武勇や知略だけでなく、茶の湯や和歌、連歌といった文化的活動に深く親しむ者も少なくなく、慶隆もそうした教養豊かな武将の一人であったのかもしれない。このような文化的素養は、単なる個人の趣味に留まらず、支配者としての権威を高め、また精神的な支柱となるものであった。
慶隆は信仰心が篤く、領内に多くの寺社を創建、再建、あるいは寄進したと伝えられている 10 。その中でも特筆すべきは、慶長6年(1601年)、室町時代の著名な歌人であり東氏の当主でもあった東常縁の玄孫にあたる正勧坊正欽を、飛騨の照蓮寺から招請して、郡上八幡に長敬寺を創建し、これを遠藤家の菩提寺としたことである 1 。長敬寺には現在も慶隆の墓所が残されており、彼の信仰の一端を今に伝えている 1 。
また、美並市白山(現在は郡上市美並町)にある乗性寺も、慶隆の子である慶利が創建し、慶隆の法号(旦斎)に因んで寺号が定められたとされている 10 。
さらに、郡上八幡城の戦いで慶隆が本陣を敷いたとされる愛宕神社(郡上市八幡町)の付近には、この戦いで慶隆を助けて討死した5人の家臣を供養するために、孫の常友が建立した五人塚や、慶隆が戦勝を記念して植えたと伝えられる「墨染め桜」が現存しており 10 、家臣を思う心や戦勝への感謝の念がうかがえる。
前述の通り、慶隆が領民の融和や人心掌握、あるいは娯楽の提供といった目的で、領内各地で行われていた盆踊りを城下に集めて奨励したことが、今日の「郡上おどり」の始まりであるという説が有力に語り継がれている 15 。ある資料では、これを「郡上八幡の観光の基礎」とまで評価しており 17 、もしこれが事実であれば、慶隆は武人・統治者としてだけでなく、地域の文化形成にも大きな影響を与えた人物と言える。武力や法度による直接的な支配だけでなく、文化政策を通じて領民の統合を図るという、よりソフトな統治術を彼が意識していた可能性を示唆している。たとえこの伝承が後世の創作であったとしても、初代藩主である慶隆にその起源を求めることで、「郡上おどり」という文化に歴史的権威と正統性を与えようとする地域社会の意識が働いた可能性があり、歴史上の人物が地域のシンボルとしてどのように受容され、語り継がれるかの一例と言える。
土佐藩初代藩主・山内一豊の妻として、「内助の功」で名高い千代(見性院)の出自については諸説あるが、その有力な説の一つに、彼女を遠藤盛数の娘、すなわち慶隆の妹(または姉)とするものがある 3 。ある資料では「弘治3(1557)年 後に山内一豊の妻となる千代が、遠藤盛数の娘として生まれる」と具体的に記されており、父・盛数の死後、母が長井道利に再嫁した際に、千代も母と共に(美濃国関へ)移ったとしている 3 。現在の郡上八幡城の本丸跡に山内一豊と千代の夫婦像が設置されているのは、この郡上説に基づいている 21 。この説が正しければ、遠藤慶隆は土佐24万石の藩祖・山内一豊の義理の兄ということになり、遠藤氏の歴史的イメージに、賢妻として名高い千代との縁戚関係という付加価値を与えることになる。これにより、遠藤氏が中央の著名な大名家とも繋がりがあった可能性が示唆され、地方領主としての格を高める効果があったと考えられる。
遠藤慶隆が築いた郡上藩と遠藤家は、彼の死後も変遷を重ねながら歴史の舞台に名を留めることになる。
慶隆の死後、家督は養子の遠藤慶利が継承した 1 。慶隆の嫡男であった慶勝は、大坂の陣の最中に早世していたためである 1 。慶利は郡上藩の第2代藩主となった。
その後、第3代藩主には遠藤常友(慶隆の孫、慶利の子または養子)が就いた 3 。常友の治世下では、前述の通り城下町の大規模な改修が行われ、現在の郡上八幡の町並みの基礎が築かれた 5 。また、幕府からの待遇も、それまでの城主格から正式な城主へと格上げされたと記録されている 6 。
しかし、栄華を誇った郡上藩遠藤氏も、第5代藩主・遠藤常久が元禄5年(1692年)にわずか7歳で早逝したため、跡継ぎがなく無嗣断絶となった 6 。これにより、慶隆が関ヶ原の戦いで回復して以来、約90年間にわたった郡上における遠藤氏本家による支配は終焉を迎えることになった。
郡上藩の本家は断絶したが、遠藤氏の血筋が完全に途絶えたわけではなかった。第2代藩主・遠藤慶利の時代、正保3年(1646年)に嫡男の常友が郡上藩2万7千石の家督を相続した際、その弟たちに領地が分与され、旗本として別家を立てている 7 。
次弟の遠藤常昭は2000石を与えられて旗本の乙原遠藤氏となり、西乙原(現在の岐阜県郡上市美並町乙原)に陣屋を構えた 7 。また、三弟の遠藤常紀は1000石を与えられて旗本の和良遠藤氏となり、下洞(現在の岐阜県郡上市和良町下洞)に陣屋を構えた 7 。これらの旗本遠藤家は、その後も存続し、明治維新を迎えている 7 。
慶隆が再興した郡上藩遠藤本家は5代で無嗣断絶という結果に終わったが、分家である旗本遠藤家が存続し、さらに後述するように血縁のない家系が名跡を継いで大名家として存続した。これは、江戸時代の武家における「家」の存続が、単なる血統の継承だけでなく、家名や家格の維持という側面も強く重視されていたことを示している。武家社会では、直系男子による血統の継承が理想とされたものの、それが途絶えた場合でも、養子縁組、分家の存続、さらには幕府の意向による名跡再興など、様々な形で「家」を存続させようとするメカニズムが働いていた。遠藤家の事例は、その複雑な様相を具体的に示している。
郡上藩遠藤氏が無嗣断絶となった後、遠藤家の名跡は意外な形で存続することになる。第5代将軍徳川綱吉の側室であったお伝の方の甥にあたる人物が遠藤胤親(たねちか)を名乗って遠藤家の名跡を継承し、近江国三上藩(現在の滋賀県野洲市)1万石の藩主として移封された 7 。この三上藩遠藤家は、慶隆の血統とは直接的な繋がりはなかったものの、遠藤家の家名を継承した。
この三上藩遠藤家の最後の藩主となった遠藤胤城(えんどう たねき)は、明治維新後の明治11年(1878年)、遠藤氏の祖先がかつて仕えた東氏に縁のある姓であるとして、姓を「東(とう)」に改めた 7 。さらに、明治17年(1884年)には子爵を授けられ、華族の列に加えられた 7 。胤城の子である東胤禄(とう たねよし)がその爵位を継承し、彼は陸軍軍人として日露戦争にも出征している 7 。
遠藤胤城が「東」に改姓し子爵となったことは、明治維新という大きな社会変革期において、旧大名家が新たな国家体制の中で自らのアイデンティティを再構築し、その地位を確保しようとした一例と言える。遠藤氏のルーツであり、かつて郡上を支配した名家である東氏への回帰は、歴史的権威に接続することで、華族としての家の正当性や格を高めようとする意図があったのかもしれない。これは、伝統と変革が交錯する明治初期の社会状況を色濃く反映している。
遠藤慶隆は、天文19年(1550年)の誕生から寛永9年(1632年)の死に至るまで、戦国時代の最終局面から江戸幕府の確立期という、日本史における激動の83年間を生き抜いた武将であった。
美濃の国人領主の子として歴史の舞台に登場し、斎藤氏、織田氏、豊臣氏、そして徳川氏と、時の権力者に仕えながらも、巧みな処世術と不屈の武略をもって家名を保ち続けた。その生涯は、まさに波乱万丈であり、豊臣秀吉による改易という最大の危機を乗り越え、関ヶ原の戦いにおける郡上八幡城奪還という劇的な復活劇を演じたことは、彼の不屈の精神と時勢を読む鋭い洞察力を如実に示している。最終的には郡上2万7000石の初代藩主として近世大名の列に加わり、その地位を確固たるものとした。
郡上藩主としては、長年の戦乱で疲弊した領内の安定化と藩政の基礎固めに尽力し、その後の郡上地方の発展の礎を築いたと言える。また、今日に伝わる「郡上おどり」の起源に関する伝承に見られるように、領民の融和や地域文化の振興にも意を用いた可能性が指摘されており、単なる武断的な統治者ではなかった側面も持つ。
武人としての勇猛果敢な側面だけでなく、和歌や茶道に通じた文化人としての一面や、篤い信仰心から寺社を建立し保護したことなども伝えられており、その人物像は多面的である。慶隆の生涯は、戦国乱世を生き抜いた地方領主の一つの典型例であると同時に、近世初期の大名へと巧みに転身を遂げた過渡期の武将の姿を鮮明に映し出している。
彼が築いた郡上藩遠藤氏は、孫の代までは順調に続いたものの、曾孫の代で無嗣断絶という悲運に見舞われた。しかし、分家である旗本遠藤家は存続し、さらに血縁こそ異なるものの遠藤(後に東)家は名跡を継承する形で明治時代まで存続し、歴史にその名を刻み続けた。
遠藤慶隆は、郡上という特定の地域史において極めて重要な位置を占める人物であることは論を俟たない。それと同時に、日本の戦国時代から江戸時代初期への移行期という大きな歴史の転換点を理解する上で、その生き様や事績は、注目に値する武将の一人として評価されるべきであろう。彼の生涯は、激動の時代を生きる知恵と力、そして運命の変転を我々に示唆している。