日本の戦国史を彩る数多の武将の中で、那古野勝泰(なごや かつやす)という名は、ほとんど知られていない。彼の通称である弥五郎(やごろう)の名は、織田信長の一代記として比類なき史料価値を誇る『信長公記』の、それも冒頭部である首巻の一節に、ただ一度だけ現れる 1 。その記述は、信長が尾張統一への第一歩として、主家である清洲織田氏の本拠・清洲城を乗っ取るための調略において、彼が極めて重要な役割を果たしたことを示唆している 3 。この一瞬の輝きこそが、那古野勝泰を歴史の記録に留めさせた唯一の理由であり、同時に、その生涯の大部分を深い謎の中に沈めてしまう原因ともなった。
本報告書は、この断片的な記録を起点とし、彼を取り巻く「那古野」という一族の歴史的背景、彼が生きた天文年間の尾張国における複雑怪奇な政治情勢、そして調略の成否を左右した武家社会特有の習俗といった、重層的なコンテクストを現存する資料群から丹念に読み解くものである。これにより、単に「信長の協力者」という一面的な評価に留まることなく、那古野勝泰という一人の若武者の実像と、彼が歴史の転換点において果たした真の意義を、立体的かつ深く掘り下げて再構築することを目的とする。
那古野勝泰という個人の行動原理を理解するためには、まず彼が背負っていた「那古野氏」という一族の歴史と、その置かれた苦境を明らかにせねばならない。彼の決断は、個人的な野心のみならず、一族の存亡と再興という重い宿命に根差していたからである。
「那古野」とは、現代の「名古屋」の古表記であり、その地名は鎌倉時代から戦国期にかけて尾張国愛知郡に存在した「那古野荘」に由来する 5 。この地を拠点とした那古野氏は、駿河の太守・今川氏の庶流とされ、室町幕府の奉公衆を務めるほどの格式を持った名門であった 5 。彼らは、現在の名古屋城二之丸付近に那古野城(別名:柳之丸)を築き、一帯を支配していた 8 。
しかし、戦国時代の到来とともに、その運命は暗転する。天文7年(1538年)頃、尾張において急速に台頭した織田弾正忠家の当主・織田信秀(信長の父)が、計略を用いて当時の城主・今川氏豊を追放し、那古野城を奪取したのである 8 。これにより、那古野氏は父祖伝来の本拠地を失い、新興勢力である織田弾正忠家の支配下に組み込まれるという、屈辱的な立場に追いやられた。
一族が城主の座を追われた後も、那古野氏は織田弾正忠家への臣従を通じて生き残りを図った。その証左として、信長の信頼できる第一級史料である『信長公記』には、天文11年(1542年)に勃発したとされる第一次小豆坂合戦において、織田信秀軍に属した「那古屋弥五郎」が、今川軍の由原(ゆはら)なる武将に討ち取られたという記録が残されている 3 。
清洲城の調略に登場する若武者もまた、「那古野弥五郎」と呼ばれている 2 。これは通称であり、その諱(いみな)が勝泰であったとされる 17 。『信長公記』の記述や、当時の武家の慣習から判断して、この那古野勝泰こそ、小豆坂で戦死した弥五郎の嫡男であった可能性が極めて高い 2 。
この事実は、那古野勝泰が置かれた状況をより鮮明に描き出す。彼は、自らの一族から本拠地を奪った織田家のために父を失い、わずか16、7歳という若さで、三百人もの兵を率いる一族の当主となったのである 2 。彼の双肩には、没落した名門の再興という、あまりにも重い期待がのしかかっていた。この強いプレッシャーと、武功を立てて一族の栄光を取り戻したいという渇望こそが、後に彼を危険極まりない調略へと駆り立てる、内的な原動力となったと解釈するのが自然であろう。
那古野勝泰が歴史の表舞台に登場した天文23年(1554年)前後の尾張国は、複数の権力が複雑に絡み合い、一触即発の緊張状態にあった。彼の選択は、この時代の大きなうねりの中でなされたものであり、その背景を理解することは不可欠である。
当時の尾張は、名目上、三つの勢力によって統治されていた。
この三者の関係は、守護―守護代―奉行という本来の主従関係が完全に崩壊し、実力のみがものを言う、極めて不安定な状態にあった。
この歪な権力構造の均衡は、天文23年(1554年)7月、ついに破局を迎える。守護代の織田信友は、日に日に増大する信長の力を恐れ、また信長が主君である斯波義統と密かに通じていると疑った。そして、家老の坂井大膳らと共謀し、あろうことか自らの主君である斯波義統を襲撃し、自害に追い込むという暴挙に出たのである 22 。
これは、単なる権力闘争を超えた、家臣が主君を殺害するという、当時の価値観においても許されざる下剋上であった。この凶行の際、義統の嫡男であった斯波義銀(よしかね、幼名:岩竜丸)は、家臣に守られてかろうじて難を逃れ、父と良好な関係にあった那古野城の織田信長を頼って落ち延びた 25 。
この一連の事件は、織田信長にとって、まさに千載一遇の好機であった。それまで信長は、父の代から主家である清洲織田氏と対立していたものの、単なる分家の当主が主家を攻撃するには、他の国人衆の支持を得るための正当な理由が欠けていた 29 。しかし、信友が主君殺しという大罪を犯し、さらに殺された守護の正統な後継者である義銀が自らを頼ってきたことで、状況は一変した。
信長は、いまや「主殺しの逆賊・織田信友を、正統なる守護・斯波義銀様をお守りして討つ」という、誰にも否定しようのない「大義名分」を手に入れたのである。この最強の政治的武器は、清洲方の家臣を切り崩す上で絶大な効果を発揮した。信長側につくことは、もはや単なる裏切りではなく、「正義」の側に立つ行為として正当化され得たからである。後述する簗田弥次右衛門が那古野勝泰を説得する際にも、この論理が巧みに用いられたことは想像に難くない。
斯波義統の死によって尾張国内の緊張が頂点に達する中、水面下では信長による清洲城乗っ取り計画が着々と進行していた。その中心にいたのが、那古野勝泰と、彼を操る謎の男・簗田弥次右衛門であった。
この調略の経緯は、『信長公記』首巻の「簗田弥次右衛門御忠節の事」という一節に、生々しく記録されている 2 。その要点をまとめると以下のようになる。
斯波義統の家臣に、簗田弥次右衛門という身分の低い男がいた。彼は才覚によって成り上がろうと、清洲城にいる那古野弥五郎(勝泰)に目をつけた。弥五郎は16、7歳の若武者でありながら、三百人ほどの兵を率いる立場にあった。弥次右衛門は、まず弥五郎と「若衆かたの知音(ちいん)」、すなわち衆道の関係を結んだ。そして、その親密な関係を足掛かりに、「清洲城内で内部分裂を起こし、信長殿の味方になれば、多大な知行(領地)を拝領できるであろう」と、繰り返しそそのかした。那古野弥五郎はこれを受け入れ、さらに清洲織田家の家老たちにもこの話を持ちかけたところ、彼らも欲に目がくらんで同調した。計画がまとまると、弥次右衛門は信長のもとへ参上し、この忠節を尽くす旨を密かに申し上げた。信長はこれを聞き、大いに満足したという。 2
この記述は、調略の骨子を明確に示している。それは、内部の重要人物である那古野勝泰を、簗田弥次右衛門が籠絡し、城内の分裂を画策するというものであった。
この調略において、特に注目すべきは、簗田弥次右衛門が那古野勝泰を説得する手段として「衆道」を用いた点である。戦国時代の武家社会において、衆道は単なる同性愛を意味するものではなかった。それは、主君と小姓、あるいは武士同士が結ぶ、極めて強固な精神的、時には政治的な契約であった 30 。その絆は「命を捨つるが衆道の至極」とまで言われ、裏切りのない絶対的な忠誠と信頼の証と見なされていたのである 32 。
簗田弥次右衛門は「一僕の人」、すなわち身分の低い人物であった 2 。彼が正面から三百の兵を持つ名門の末裔・那古野勝泰に接近し、主家への裏切りという危険な話を持ちかけることは、通常では不可能に近い。そこで彼は、武家社会で神聖視すらされていた衆道の関係を結ぶことで、身分の壁を乗り越え、勝泰の懐深く入り込むことに成功した。
この行為は、単なる個人的な関係構築に留まらない、高度に戦略的なものであった。史料によれば、衆道の関係が諜報活動や敵方の情報を得るための「戦術」として利用された例は、実際に存在した 33 。簗田は、家の再興に焦る16、7歳の若き当主の心理的弱点を見抜き、衆道という名の強固な信頼関係を築き上げた上で、「信長に味方すれば一族は安泰である」という甘言を囁いた。この調略において、衆道は最も効果的に用いられた「兵器」だったのである。
この複雑な人間関係と各人の動機を整理すると、以下の表のようになる。
表1:清洲城調略における主要人物とその関係
人物名 |
所属・立場 |
動機 |
調略における役割 |
那古野勝泰 |
清洲織田家臣、三百の兵を率いる若武者 |
父の戦死、没落した一族の再興、武功への渇望 |
内部協力者。簗田の説得を受け入れ、清洲城内の家老衆を信長方へ引き入れる。 |
簗田弥次右衛門 |
斯波家臣(一僕の人) |
立身出世、才覚による成り上がり |
調略の首謀者・仕掛け人。衆道を用いて勝泰を篭絡し、信長に計画を売り込む。 |
織田信長 |
織田弾正忠家当主 |
尾張統一、主家打倒 |
調略の最終的な受益者。簗田の計画を採用し、大義名分を得て清洲城を狙う。 |
織田信友 |
清洲織田家当主、尾張守護代 |
斯波氏からの完全な独立、信長の排除 |
調略の標的。斯波義統を暗殺し、信長に介入の口実を与えてしまう。 |
斯波義銀 |
尾張守護・斯波義統の嫡男 |
父の仇討ち、守護家の権威回復 |
信長に大義名分を与える存在。彼の保護が信長の行動を正当化した。 |
この調略の結果、弘治元年(1555年)、信長は叔父・織田信光の協力も得て、ついに織田信友を討ち果たし、尾張国の中心地であった清洲城を手中に収めた 25 。これは、彼の天下統一事業における、記念すべき第一歩であった。
清洲城乗っ取りという、信長の尾張統一において決定的な意味を持つ大功を立てたはずの那古野勝泰。しかし、彼の名は『信長公記』のこの一節を最後に、主要な歴史の記録から忽然と姿を消してしまう。この「沈黙」は、彼の生涯を追う上で最大の謎であり、戦国という時代の非情さを物語っている。
信長は、功績ある者には身分を問わず、破格の恩賞で報いることで知られていた。清洲城攻略に協力した叔父の織田信光には、信長自身の旧居城であった那古野城が与えられた 14 。後の桶狭間の戦いでは、情報提供の功で簗田政綱(弥次右衛門と同一人物か一族かは不明)に、今川方の拠点であった沓掛城と三千貫文という、土豪にとっては望外の恩賞が与えられている 36 。信長の初期の恩賞は、土地の加増が基本であり 40 、その功績を明確に評価するものであった 41 。
これらの事例から推察すれば、内部から城を切り崩すという絶大な功績を挙げた那古野勝泰にも、相応の恩賞(知行地の安堵または加増)が与えられたと考えるのが論理的である。しかし、その具体的な内容を示す記録は、一切残されていない。
対照的に、共謀者であった簗田弥次右衛門は、その後も信長の家臣として活動を続けた形跡が確認できる。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めに参加した武将の中にその名が見え、天正10年(1582年)には、かつて簗田政綱が建立した九之坪の十所社を修築したという記録が残っている 42 。彼の人生は、自らの才覚で道を切り開くという、立身出世の物語として続いているのである。
では、那古野勝泰はなぜ歴史の表舞台から消え去ったのか。資料からは断定できないものの、いくつかの可能性が考えられる。
これらの可能性を鑑みるに、那古野勝泰の「沈黙」は、決して特異な事件ではない。むしろ、それは戦国時代という過酷な新陳代謝と、歴史記述の持つ本質を象徴する、典型的な事例と解釈すべきである。歴史の記録は、どうしても勝者や後世に大きな影響を与えた人物を中心に編纂される。その陰には、那古野勝泰のように、ある特定の局面で決定的な役割を果たしながらも、その後のキャリアで大成することなく忘れ去られていった無数の武士たちが存在する 45 。彼の物語は、華々しい英雄譚の裏に隠された、無数の名もなき武士たちのリアルな姿を我々に示唆しているのである。
那古野勝泰は、戦国史の主役でもなければ、後世に名を轟かせる英雄でもない。しかし、彼の存在を無視して、織田信長の初期の成功を語ることはできない。信長が尾張を統一し、天下布武への道を歩み始めるその出発点、すなわち本拠地・清洲城の奪取という極めて重要な局面において、彼は内部から城を切り崩すという、他に代えがたい決定的な役割を果たした。彼の危険な決断と行動なくして、信長のその後の飛躍は、より困難なものになっていた可能性は否定できない。
彼の短い生涯は、旧来の権威(斯波氏や清洲織田氏)が音を立てて崩壊し、新たな実力者(織田信長)が台頭するという、戦国時代の巨大な地殻変動の只中で、自らの一族の存亡と再興を賭けて大きな決断を下した地方国人領主の姿を、鮮やかに映し出している。彼は、家の再興という悲願、武功への渇望、そして立身出世の野心といった、人間的な感情の狭間で、歴史の転換点にその身を投じた数多の武士たちの一人であった。
『信長公記』の片隅に記された、わずか数行の記述。そこから、一人の若武者の背景と動機、そして彼が生きた時代の力学を読み解く作業は、歴史の深淵を覗き込む行為に他ならない。那古-野勝泰の物語は、たとえ断片的な史料であっても、それらを丹念につなぎ合わせ、時代の文脈の中に置くことで、いかに豊かで示唆に富む人間ドラマが浮かび上がってくるかを示す、好個の事例と言えよう。彼は、歴史の表舞台に立った時間は短かったかもしれないが、その一瞬の輝きによって、自らの名を戦国の歴史に確かに刻み込んだのである。