那須与一は源平合戦の屋島で扇の的を射抜いた弓の名手。その功績は『平家物語』で語り継がれるが、史実性は不明。戦後は那須家の家督を継ぎ、各地に伝承が残る。
『平家物語』巻十一に描かれる「扇の的」の場面は、日本文学史において最も鮮烈な印象を残すものの一つである。時は元暦2年(1185年)2月18日、源平最後の決戦を目前にした屋島の海辺。夕暮れの光が海面を染める中、平家の軍船から一艘の小舟が進み出て、美しい女房が竿の先に掲げた紅の扇を指し示す。揺れる舟、吹き荒れる潮風、遥か彼方の小さな的。この絶望的とも思える状況下で、源氏の若武者・那須与一は神がかり的な一矢を放ち、見事扇を射抜いてみせた。この一瞬の輝きにより、それまで無名に近かった一人の武者は、時代を超えて語り継がれる不滅の伝説となった 1 。
しかし、この華々しい武功は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には一切記されていない 5 。この歴史書の沈黙は何を意味するのか。那須与一という人物は、確かな足跡を残した史実の人物なのか、それとも琵琶法師の語りによって生まれた文学的英雄なのか。この「史実」と「物語」の間に横たわる深い溝こそが、那須与一という存在を探求する上での核心的な問いとなる。
本報告書は、この問いに答えるべく、史実(歴史)、文学(物語)、そして伝承という三つの異なる光を当てることで、那須与一という多面的な存在の実像に迫るものである。第一章では彼が生きた時代と一族の背景を解き明かし、第二章では伝説の中核である「扇の的」の逸話を徹底的に分析する。続く第三章では、謎に満ちた彼の後半生と那須家の運命を追い、第四章では、彼が後世の文化に与えた広範な影響を検証する。これらを通じて、一般に知られる情報の範疇を遥かに超えた、詳細かつ深遠な人物像を提示することを目的とする。
那須与一の人物像を理解するためには、まず彼が属した那須一族とその歴史的背景を把握する必要がある。那須氏は、下野国那須郡(現在の栃木県北東部)を本貫とした武士団であった 6 。その起源については諸説あり、一つは藤原北家道長流の藤原資家(後に須藤貞信と改名)が奥州の賊「岩嶽丸」を討った功により那須郡を賜ったことに始まるとする説である 6 。また、古代の地方官である那須国造の後裔とする説 6 や、相模国を拠点とした須藤氏の一族とする説 7 も伝えられており、その出自は複数の伝承の中に語られている。
平安時代末期、下野国では宇都宮氏が最大の勢力を誇っていた。宇都宮氏は二荒山神社の神職を背景に持ち、当初は平家方であったが、後に源頼朝に帰順してその地位を確固たるものとした大豪族である 12 。那須氏は、この宇都宮氏や常陸国の佐竹氏といった有力大名に囲まれ、常に緊張関係にあった。特に宇都宮氏とは長年にわたるライバル関係にあり、戦国時代に至るまで抗争を繰り返したことが記録されている 7 。一方で、与一の後継者とされる那須頼資の出自に宇都宮氏が関わる説 16 も存在し、両家の関係が敵対一辺倒ではなく、婚姻や養子縁組を通じた複雑なものであったことが窺える。
那須氏は、宇都宮氏や佐竹氏のように室町幕府から守護に任じられることはなく、その歴史は常に大国の狭間で独立を維持するための苦闘の連続であった 10 。一族が上那須家と下那須家に分裂して衰退した時期もあり 6 、また「那須七騎」と称される家臣団は独立性が強く 7 、宗家の支配基盤は決して盤石ではなかった。このような不安定な政治的立場にあった那須氏にとって、与一の「扇の的」の功名は、単なる個人の武勇伝以上の意味を持っていた。それは、一地方豪族が全国に名を轟かせ、源氏の総大将である源頼朝から直接恩賞を受けることで、一族の政治的地位を飛躍的に高める「起死回生の一矢」であったと考えられる。この功績は、長年のライバルであった宇都宮氏に対する強力な牽制となり、一族の存続に大きく寄与した可能性が高い。
治承4年(1180年)、以仁王の令旨を奉じた源頼朝が伊豆で挙兵すると、東国社会は大きく揺れた。治承・寿永の乱(源平合戦)の勃発である。坂東(関東)の武士団は、源氏につくか、平家との旧恩を守るか、あるいは日和見を決め込むか、一族の運命を左右する極めて難しい選択を迫られた 20 。この状況下で、那須一族もまた、源氏方と平家方に分裂するという決断を下す。これは、当時の武士団が直面した苦悩の縮図であり、与一の運命を大きく左右する要因となった。
那須与一の本名は、宗隆(むねたか)と伝えられている 1 。宗高(むねたか)という表記も見られる 24 。家督を相続した後は、父の名を継いで資隆(すけたか)と名乗ったとする説もある 4 。「与一(余一)」は「十に余る一」、すなわち十一男を意味する通称である 26 。
生年については、嘉応元年(1169年)説 22 や仁安元年(1166年)説 5 などがあり、確定していない。これにより、屋島の戦い(1185年)当時の年齢は15歳から20歳前後と幅があり、その人物像に影響を与える。没年についても、文治5年(1189年)8月8日説と建久元年(1190年)10月説が有力視されている 1 。
父は那須資隆(すけたか) 1 。妻は上野国(現在の群馬県)の有力武士である新田義重の娘とされている 22 。そして、与一の生涯を理解する上で最も重要なのが、兄弟との関係である。
兄弟(通称) |
名前 |
源平合戦での所属 |
備考(分地先など) |
典拠 |
太郎 |
光隆 |
平家方? |
南那須町森田に分地 |
1 |
次郎 |
泰隆 |
平家方? |
大田原市佐久山に分地 |
1 |
三郎 |
幹隆 |
平家方 |
那須町梁瀬芋斑に分地 |
1 |
四郎 |
久隆 |
平家方 |
湯津上村片府田に分地 |
1 |
五郎 |
之隆 |
平家方 |
大田原市福原に分地 |
1 |
六郎 |
実隆 |
平家方 |
烏山町滝田に分地 |
1 |
七郎 |
満隆 |
平家方 |
矢板市沢に分地 |
1 |
八郎 |
義隆 |
平家方 |
黒羽町片田に分地 |
1 |
九郎 |
朝隆 |
平家方 |
矢板市豊田に分地 |
1 |
十郎 |
為隆 |
源氏方 |
与一と共に源氏に従軍。後に千本氏の祖となる |
1 |
十一男(与一) |
宗隆 |
源氏方 |
那須家家督を継承 |
1 |
この表が示すように、与一の兄たちのうち、十郎為隆を除く9人が平家方に与したという事実は、与一の人生を決定づけた最大の要因である 26 。これは単なる兄弟間の不和と見るよりも、源平という二大勢力に対し、一族の誰かがどちらについても生き残れるようにリスクを分散させる「両賭け」という、当時の武士団に見られた生存戦略であった可能性が指摘できる。源平合戦期、他の多くの武士団が同様の分裂や寝返りを経験しており、那須氏の選択もその文脈で理解することができる。
この戦略の結果、源氏が最終的に勝利したことで、平家方についた兄たちは政治的に失脚した。その結果、数少ない源氏方であった十一男という低い序列の与一に、那須家の家督を継承するという千載一遇の好機が巡ってきたのである。したがって、与一の成功は、彼の弓の腕前という個人的資質のみならず、この一族を挙げた政治的ギャンブルが源氏方の勝利という形で結実した結果という側面が極めて強い。彼の歴史的功績は、扇を射たこと以上に、戦後にこの分裂した一族を再統合し、赦免された兄たちに領地を分け与えることで、那須氏の新たな礎を築いた点にあると言えるだろう 26 。
与一の伝説が生まれた屋島の戦いは、文治元年(1185年)、治承・寿永の乱の最終局面に位置する重要な合戦である。一ノ谷の戦いで手痛い敗北を喫した平家は、幼い安徳天皇と三種の神器を奉じ、四国の屋島(現在の香川県高松市)を拠点として再起を図っていた 30 。
これに対し、源義経は平家の意表を突く奇襲作戦を敢行する。折からの暴風雨の中、周囲の制止を振り切ってわずか五艘の船で摂津国渡辺津を出航し、通常3日かかる航路を数時間で走破して阿波国に上陸した 32 。そして、背後から屋島を急襲したのである 30 。この大胆不敵な作戦により、平家軍は陸の陣を捨てて海上へ逃れ、源平両軍は海を挟んで対峙することとなった。
この屋島の戦いに臨む与一には、一つの重要な前日譚が伝えられている。京へ向かう途上で重い病に倒れた与一が、京都伏見にあった即成院(当時は光明院、または伏見寺とも)に参籠し、本尊の阿弥陀如来に一心に病気平癒を祈願したところ、無事に快癒したという逸話である 34 。この伝承は、彼の篤い信仰心と、後の奇跡的な成功を結びつける、物語上の重要な伏線として機能している。
『平家物語』およびその異本である『源平盛衰記』の記述に基づき、「扇の的」の名場面を再構成すると、その劇的な展開が浮かび上がる。
日本文学史上有数の名場面である「扇の的」の逸話は、『平家物語』や『源平盛衰記』といった軍記物語には詳細に描かれている。しかし、鎌倉幕府が編纂した同時代の最も信頼性の高い史書である『吾妻鏡』には、この出来事を示唆するいかなる記述も見られない 5 。この事実は、この出来事が史実ではない、あるいは少なくとも物語で語られるような劇的な形では起こらなかった可能性を極めて高く示唆している。
『吾妻鏡』は、御家人の功績や恩賞を記録する幕府の公式日誌であり、その記述は一次史料に近い価値を持つ。もし与一がこれほどの大功を立て、それが家督相続や五カ国もの荘園拝領の直接の理由であったならば、その功績が『吾妻鏡』に記載されるのが自然である。その記載が完全に欠落しているということは、出来事自体がなかったか、あったとしても幕府が公式に記録するほど重要視しなかったか、あるいは後世の文学的創作である可能性を強く示唆する。逸話の劇的な展開(神仏の加護、象徴的な小道具、敵味方の喝采)などを考慮すると、この逸話は、事実の核があったとしても、琵琶法師たちが聴衆を魅了するために語りを盛り上げ、洗練させていった結果生まれた、壮大な文学的フィクションであると結論付けるのが最も合理的であろう 43 。
この逸話が『平家物語』という作品全体の中で果たしている文学的機能は多岐にわたる。
『平家物語』の世界では、屋島の戦功により、那須与一は源頼朝から那須氏の惣領(家督)の地位を認められ、正式に鎌倉幕府の御家人となったと語られる 1 。
恩賞として、丹波国五賀庄(現在の京都府)、信濃国角豆庄(現在の長野県)、若狭国東宮河原庄(現在の福井県)、武蔵国太田庄(現在の埼玉県)、そして備中国絵原庄(現在の岡山県)という、広範囲にわたる五カ国の荘園を与えられた 1 。この恩賞は、頼朝政権の全国的な支配力を示すと同時に、那須氏の伝説が各地に広まる地理的な土台となった。
戦後、与一は平家方についていた兄たちを赦免し、彼らに領地を分け与えることで、分裂した那須一族を再興し、下野国における那須氏の基盤を強化したとされる 26 。これは、単なる弓の名手としてだけでなく、一族を統べる棟梁としての器量の大きさを示す重要な逸話である。
『平家物語』での華々しい活躍とは裏腹に、平家滅亡後の与一の具体的な動向は歴史記録に乏しく、その生涯は謎に包まれている 5 。複数の記録や伝承が一致して語るのは、平氏滅亡後、自身が祈りを捧げた石清水八幡宮に戦勝報告の参詣をした帰途、京都の伏見にて急死したという点である 1 。
与一の若すぎる死は、単なる病死ではなく、政治的な背景があった可能性が推測される。彼は源義経の麾下で大功を立てた武将であり 7 、戦後に頼朝と義経が対立した際、頼朝から「義経党」の一員として危険視され、粛清されたか、あるいはそれを恐れて隠遁生活のうちに亡くなったのではないか、という見方である。歴史的事実として、頼朝は義経とその与党を徹底的に捜索し、粛清した。与一の死が「急死」とされ 9 、その若さが不自然さを感じさせるのはこのためである。
この仮説を補強する可能性のあるものとして、彼が「御霊神社」に祀られているという伝承がある 5 。御霊信仰は、政治的陰謀などで非業の死を遂げた人物の怨霊を鎮めるためのものである。これらの状況証拠を結びつけると、「与一は頼朝の粛清を恐れて身を隠したか、あるいは実際に何らかの形で命を落とし、その死を悼んだ人々が彼の御霊を鎮めるために神社を建てた」という、英雄譚の裏に隠された悲劇的な末路の仮説が成り立つ。これは、彼の物語に深みと哀感を与える重要な視点である。
与一の死後、那須氏の家督は、系図上は那須頼資、そしてその子の光資へと継承されたと見られる 6 。与一が当主であった期間は、たとえあったとしても極めて短かったと考えられる。建久4年(1193年)に源頼朝が那須野で大規模な巻狩を催した際には、すでに光資が当主としてその接待役を立派に務めており、鎌倉御家人としての那須氏の地位を確立している 16 。これは、与一の功績が一族の地位向上に寄与したことを示唆している。
那須氏はその後、与一が築いたとされる基盤の上に、南北朝時代の動乱や一族の分裂を乗り越え、戦国時代を生き抜いた。江戸時代には那須藩主となったが後に改易され、その後は旗本として家名を存続させていった 6 。
那須与一の墓と伝えられる場所は、全国に複数存在する 49 。これは、分骨や供養塔の建立に加え、恩賞として与えられた荘園に赴いた一族が、祖先の栄光を語り継ぐために伝承を創出していった結果と考えられる。特に重要な拠点は、京都、栃木、岡山の三地域である。
地域 |
主要な史跡・施設 |
伝承の概要と特徴 |
現代における役割・状況 |
関連典拠 |
京都府京都市 |
即成院 (泉涌寺塔頭) |
【信仰と終焉の地】 屋島合戦前に病気平癒を祈願し快癒。戦後に出家し、この地で一生を終えたとされる。与一の墓(石造宝塔)がある。 |
「那須の与一さん」として親しまれ、病気平癒や極楽往生の信仰と結びついている。 |
1 |
栃木県大田原市・那珂川町 |
那須与一伝承館 、玄性寺(御霊神社)、那須与一の墓(とされるもの) |
【生誕と成長の地】 生まれ故郷であり、那珂川で水練し、那須の広野で弓の稽古に励んだとされる。英雄の原風景が語られる。 |
「道の駅那須与一の郷」に伝承館を併設し、地域の歴史的英雄として観光・地域振興の核となっている。 |
1 |
岡山県井原市 |
伝那須与一の墓 、永祥寺、袖神稲荷、那須氏一族の墓 |
【恩賞と御利益の地】 恩賞として与えられた備中荏原荘にちなむ。一族がこの地を治め、菩提寺や神社を建立。 |
「一発必中」の故事から、特に受験生の合格祈願の聖地となっている。駅舎も弓矢をモチーフにするなど、現代的なアイコン化が進んでいる。 |
1 |
与一の伝説は、これら三つの拠点(出自の栃木、終焉の京都、恩賞の岡山)で、それぞれの地域の歴史や人々の願いと結びつき、独自の文脈で「地域化(ローカライズ)」され、再生産されてきた。栃木では「英雄の誕生譚」、京都では「信仰と死の物語」、岡山では「功績と現世利益の伝説」というように、それぞれ異なるテーマに焦点が当てられている。このことから、伝説は固定されたものではなく、地域の人々のアイデンティティ形成や願い(地域振興、合格祈願など)を反映して、時代と共に変化し、新たな意味を付与され続けていることがわかる。これは、歴史上の人物が「文化資源」として活用され、生き続ける典型的なプロセスである。
那須与一の物語は、後世の様々な文化芸術にインスピレーションを与え続けてきた。
那須与一の伝説は、現代においても多様な形で生き続けている。
那須与一は、史実上の記録は断片的で、その生涯の多くが謎に包まれた下野国の一地方武士であった。しかし、『平家物語』という日本文学の金字塔によって、彼の名は一瞬の神がかり的な輝きと共に、日本人の集合的記憶に深く刻まれた。
彼の存在は、歴史的事実そのものの重さ以上に、人々が歴史に何を求め、英雄をどのように語り継いできたかを映し出す鏡である。史実の武士・宗隆は、物語の英雄・与一となり、やがて各地の伝承や現代の多様なメディアの中で様々な姿に生まれ変わりながら、今なお「武士の鑑」として、また「願いを叶える象徴」として、我々の心の中に生き続けている。那須与一の物語は、一人の人間の生涯を超え、日本の文化が持つ物語生成能力の豊かさと、時代を超えて人の心を捉える「一矢」の力の普遍性を、見事に証明しているのである。