最終更新日 2025-06-23

重見通種

忠節と反骨の生涯――伊予の将、重見通種の軌跡

序章:謎多き武将、重見通種

戦国時代の歴史は、天下統一を目指す著名な大名たちの華々しい活躍によって語られることが多い。しかし、その陰には、時代の激流に翻弄されながらも、自らの信念と矜持を貫き通した無数の武将たちが存在する。重見通種(しげみ みちたね)もまた、そうした人物の一人である。彼の名は、戦国史の表舞台で頻繁に語られるものではない。一般的には「元は伊予の河野氏に仕えたが、後に主家を裏切り大内氏に亡命。最後は厳島の戦いで陶晴賢に殉じ、毛利元就の誘いを『旧恩をすて新恩をになうは武士の恥』と一蹴して自刃した」という、断片的な逸話によって記憶されているに過ぎない。

この評価は、一見すると「反乱」と「忠節」という、相容れない二つの要素を内包している。主君を裏切った反逆者でありながら、同時に恩義に殉じた忠義の士でもあるという、矛盾に満ちた人物像は、我々に深い問いを投げかける。彼の行動は、単なる気まぐれや裏切りであったのか。それとも、そこには戦国という時代を生き抜くための、やむにやまれぬ理由と、武士としての確固たる哲学が存在したのか。

本報告書は、この重見通種という一人の武将の生涯を、その出自から最期に至るまで徹底的に追跡し、断片的な伝承の集合体から、体系的な歴史像を再構築することを目的とする。彼の生きた伊予国や周防国の政治情勢、主家であった河野氏や大内氏の内部状況といった歴史的背景を深く掘り下げることで、彼の「反乱」と「忠節」という二つの行動の背後にあった論理を解き明かし、戦国武士のリアルな生き様と価値観を浮き彫りにするものである。

第一章:伊予の豪族・重見氏の出自と系譜

重見通種の生涯を理解するためには、まず彼が属した重見一族の歴史的背景と、伊予国におけるその地位を把握する必要がある。重見氏は、単なる地方の国人領主ではなく、伊予国の守護大名であった河野氏と深い血縁関係を持つ名門の家柄であった。

伊予の名門・河野氏の庶流

重見氏は、伊予国の有力豪族であった越智氏の流れを汲む、守護・河野氏の庶流(分家)に位置づけられる 1 。より具体的には、河野氏の分家の中でも有力であった得能氏から、さらに分かれた一族とされている 2 。その祖は、南北朝時代に活躍した得能通宗であるといわれ、通宗の子・通勝の代から「重見」の姓を称したと伝えられる 5 。このように、重見氏は守護家と血の繋がりを持つ格式高い家であり、その行動は河野家の内政においても大きな影響力を持っていた。

河野家中の宿老としての地位

戦国時代に至っても、重見氏の河野家中における重要性は揺るがなかった。天文十年(1541年)頃の記録には、当時の河野家当主・河野通直が、来島氏や正岡氏といった他の重臣と並べて「毎時、重見・来島・正岡に相談候て」と述べており、重見氏が河野氏の領国支配の中枢に関与する「宿老」として重きをなしていたことがわかる 4

この高い地位は、通種の祖先の代から築かれてきたものであった。15世紀後半に家督であった重見通昭は、時の伊予守護・河野教通の娘を妻に迎えており、守護家との姻戚関係を背景に、奉行(行政官僚)として絶大な権力を振るった 2 。文明十六年(1484年)に越智郡能寂寺の寺領を安堵し、翌年には三島宮大祝家の神領や二神氏の惣領職を安堵するなど、領国内の重要事項の裁定を自ら行っており、重見氏が河野氏権力の一翼を担う、極めて有力な存在であったことが窺える 3

一族の勢力基盤

重見一族は、伊予国の中央部、現在の愛媛県今治市から松山市北条地域にかけて勢力を持っていた。主な拠点として、越智郡の石井山城(別名:明神山城、現・今治市石井)と、風早郡の日高山城(現・松山市中村)の二城が伝えられている 2 。これらの城は、瀬戸内海にも近く、陸上交通の要衝でもあり、彼らの地盤が軍事的・経済的に重要な位置を占めていたことを示している。

通種は、このような名門一族の家督として、その歴史と重責を一身に背負う立場にあった。彼の決断は、常に一族の存亡という重圧の下で行われたのであり、その後の反乱という行動も、この文脈の中で理解されなければならない。彼の行動は、単なる一個人の野心の発露ではなく、守護家の統治機構に深く組み込まれたエリート層が、時代の変動期に際して下した、極めて重大な政治的決断だったのである。

第二章:主家・河野氏への叛旗――享禄三年の反乱

享禄三年(1530年)、重見通種は、長年仕えた主家・河野氏に対して突如反乱の兵を挙げた。この行動は、彼の生涯における最初の大きな転換点であり、その後の運命を決定づけるものであった。この反乱を単なる「裏切り」として片付けることはできず、当時の伊予国が置かれた複雑な政治状況と、自立を目指す国人領主たちの動向の中に位置づけることで、その真意が見えてくる。

背景:弱体化する河野氏の権力構造

通種が反乱を起こした16世紀前半、伊予国の守護・河野氏の権力は著しく弱体化していた。その最大の要因は、宗家と分家である予州家との間で長年にわたり繰り広げられた内紛であった 9 。この内部抗争は家臣団の結束を乱し、守護の統制力を著しく低下させた。その結果、重見氏のような有力な国人領主たちは次第に自立化する傾向を強めていった 9

さらに、伊予国は地政学的に、西の周防・大内氏、東の阿波・讃岐の細川氏、そして土佐の一条氏や長宗我部氏といった外部勢力の影響を常に受ける立場にあった 11 。弱体化した河野氏にはこれらの勢力に単独で対抗する力はなく、国内の国人たちは、生き残りをかけて、主家である河野氏よりも強力な外部勢力に接近する動きを見せ始めていた。特に、重見氏のような「山方領主」と呼ばれる勢力は、守護権力から自立しようとする傾向が強かったと指摘されている 11

反乱の経緯と鎮圧

このような状況下で、享禄三年(1530年)三月、府中石井山城主であった重見通種は、主君・河野通直に対して反旗を翻した 4 。史料によっては「重見通村」と記されているものもあるが、これは通種と同一人物と見られている 15

反乱の報を受けた河野通直は、当時伊予水軍の中核として勢力を伸長していた来島城主・村上通康に、その討伐を命じた 10 。通種は居城である石井山城に籠り、激しく抵抗したものの、村上軍の猛攻の前に城は陥落。通種は、弟の通遠をこの戦いで失いながらも 4 、海を渡って西隣の周防国、すなわち大内氏の領国へと逃亡した 4

反乱の動機分析

通種の反乱の直接的な理由は、史料には「命に従わず」 10 、「自立の志」 10 などと記されるのみで、具体的には判然としない。しかし、その行動の背景を考察すると、単なる個人的な野心や命令不服従とは異なる、より構造的な要因が浮かび上がってくる。

彼の行動は、弱体化し将来性の見えない主家を見限り、より強力な庇護者を求めて自家の存続を図るという、戦国時代の国人領主として極めて合理的な生存戦略であった可能性が高い。彼が逃亡先に、当時西国最大の大名であった大内氏の領国を選んだという事実は、反乱以前から何らかの接触や連携があった可能性を強く示唆している。つまり、彼の反乱は、衰退する河野氏の支配体制から離脱し、大内氏の勢力圏に組み込まれることを目指した、計算された政治的行動であったと解釈できる。それは、伊予国内の多くの国人領主が直面していた厳しい選択の、一つの現れだったのである。

一族への影響

通種の反乱と亡命は、伊予に残った重見一族に大きな影響を与えた。しかし、一族が断絶することはなかった。家督は、もう一人の弟である重見通次が継承し、日高山城主となった 3 。通次は、その後河野家の家臣として三好氏との戦いなどで功績を挙げており、巧みに一族を河野家臣団へと復帰させている 3 。これは、通種の反乱が彼個人の決断であり、一族全体がそれに殉じるのではなく、分裂することで家名を存続させるという、これもまた戦国時代特有の巧みな生き残り戦略であったことを示している。

第三章:周防への亡命と陶晴賢の客将として

主家・河野氏に反旗を翻し、敗れて伊予を追われた重見通種であったが、その武将としての人生はここで終わらなかった。彼は西国の雄・大内氏の庇護下に入り、新たな活躍の舞台を得ることになる。この周防での日々が、彼の後の運命を決定づける「恩義」を育む重要な期間となった。

西国の雄・大内氏の庇護

周防国へ逃れた通種は、当時の西日本最大の大名であった大内義隆に庇護を求めた 15 。大内氏は、周防・長門国を本拠とし、その勢力を北九州から安芸国にまで及ぼす強大な戦国大名であった 17 。伊予の国人領主たちにとって、大内氏は隣接する強国であり、その動向は常に注視の対象であった。

大内義隆は、亡命してきた通種を客将として迎え入れた。さらに、安芸国西条の木原(現在の東広島市西条町)に所領を与えるという、破格の待遇で遇している 19 。これは、義隆が通種の武将としての能力や、元伊予の有力国人という経歴を高く評価していたことを示唆している。大内氏にとって、伊予の内部事情に精通した通種を抱えておくことは、将来の伊予介入の際の重要な布石となり得た。通種は、大内氏の勢力圏拡大戦略の中で、利用価値のある存在として期待されたのである。

陶晴賢との関係

大内義隆は、通種の身柄を、譜代の重臣で周防守護代の要職にあった陶晴賢(当時は隆房)に預けた 19 。この陶晴賢こそが、後の通種の運命を決定づける人物となる。晴賢は、預けられた客将である通種を「厚く待遇した」と記録されている 19

ここで重要なのは、通種と晴賢の関係が、一般的な主君と家臣のそれとは異なるという点である。通種は陶家の譜代の家臣ではなく、あくまで大内家当主から預けられた「客将」であった 19 。彼の立場は、大内家という大きな枠組みの中にありながらも、日々の生活や軍事行動においては、直接の庇護者である晴賢の指揮下に置かれるという、二重構造の中にあった。この関係性の中で、通種は晴賢個人に対して強い恩義を感じるようになっていったと考えられる。この個人的な結びつきこそが、後に彼の行動原理を支配する「旧恩」の正体であった。

通種の生涯における人間関係の変転は、彼の複雑な立場を物語っている。以下の表は、彼をめぐる主要な人物および勢力との関係性を整理したものである。

表1:重見通種をめぐる主要人物と勢力関係

人物/勢力

所属/本拠地

重見通種との関係

備考

河野通直

伊予国・湯築城主

元主君。通種が反乱を起こした相手。

家中の統制に苦慮し、勢力は衰退期にあった 9

村上通康

伊予国・来島城主

敵対者。通直の命で通種の反乱を鎮圧。

河野氏の有力家臣であり、伊予水軍の中核 15

大内義隆

周防国・山口館主

亡命先の庇護者。

文化人として知られるが、武断派の家臣と対立し、大寧寺の変で非業の死を遂げる 21

陶晴賢

大内氏重臣・周防守護代

直接の庇護者。厚遇を施した恩人。

大寧寺の変で実権を掌握。通種が忠義を尽くした相手 19

毛利元就

安芸国・吉田郡山城主

最終的な敵対者。通種を登用しようとした。

厳島の戦いで陶晴賢を破り、中国地方の覇者となる 23

この表が示すように、通種の忠誠の対象は、彼の人生のステージごとに変化していった。そして最終的に彼が命を捧げることを選んだのは、かつての主君でも、形式上の主君でもなく、苦境にあった自分を救い、厚遇してくれた陶晴賢という一人の個人だったのである。

第四章:厳島の戦い――運命の決戦

天文二十四年(1555年)、重見通種の運命を決定づける戦い、厳島の戦いが勃発した。この戦いは、安芸の毛利元就と、大内家の実権を握る陶晴賢との間で、中国地方の覇権を賭けて行われた決戦であった。客将として晴賢に仕えていた通種も、この歴史的な戦いに身を投じることとなる。

戦いの序曲――防芸引分

戦いの直接的な引き金は、天文二十年(1551年)に陶晴賢が主君・大内義隆を討った「大寧寺の変」に遡る 21 。晴賢は豊後の大友氏から大内義長を新たな当主として迎え、大内家の実権を掌握した 22 。当初、このクーデターに協力的であった安芸の国人領主・毛利元就は、着実に勢力を拡大し、天文二十三年(1554年)に陶氏からの完全独立を宣言した(防芸引分) 23 。これを裏切りと見なした晴賢は、毛利討伐を決意。両者の対立は避けられないものとなった。

陶軍の厳島上陸と布陣

毛利元就は、周到な策略をもって、陶晴賢の大軍を狭隘な厳島へと誘い込んだ 26 。天文二十四年(1555年)9月、晴賢は元就の挑発に乗り、2万ともいわれる大軍を率いて厳島に上陸。元就方が籠城する宮尾城を包囲した 23

陶軍の本陣は、宮尾城を見下ろす塔の岡に置かれ、その軍勢は島の西側の海岸線に沿って広範囲に展開した 29 。重見通種の具体的な配置を一次史料で確定することは困難であるが、後世の軍記物である『陰徳太平記』などによれば、彼は陶軍の「右翼」を担ったと伝えられている 30 。陶軍の右翼方面、すなわち博奕尾(ばくちお)の険しい地形には、重臣の弘中隆兼が布陣して守りを固めており、通種もその指揮下、あるいは連携する部隊として配置されていた可能性が高い 29

毛利元就の奇襲と陶軍の総崩れ

十月一日未明、毛利元就は暴風雨の天候を利して、世に名高い奇襲作戦を決行した。元就率いる本隊は、ひそかに厳島東岸の包ヶ浦に上陸し、夜陰に乗じて陶軍本陣の背後に聳える博奕尾の山を越えた 23 。夜が明けるとともに、元就本隊は山の上から一気に駆け下り、塔の岡の陶軍本陣を強襲した。

完全に意表を突かれた陶軍本陣は大混乱に陥る。時を同じくして、正面からは小早川隆景の軍勢が、海上からは村上水軍が攻撃を開始し、陶軍は完全に包囲された 23 。2万の大軍は、狭い島内で身動きが取れず、組織的な抵抗もできないまま総崩れとなった。

この戦いの勝敗は、兵力の多寡ではなく、地形を最大限に活用し、敵の心理を巧みに操った毛利元就の卓越した知略によって決した。重見通種を含む陶軍の諸将は、個々の武勇を発揮する間もなく、この組織的な崩壊に巻き込まれていった。彼の敗北は、個人的な力量の差というよりも、戦場全体の構造的な敗北の一部だったのである。

第五章:「武士の恥」――その壮絶なる最期

厳島の戦いは、毛利元就の圧倒的な勝利に終わった。陶軍は壊滅し、総大将の陶晴賢もまた、島からの脱出が叶わず自刃して果てた 23 。この混乱の中、重見通種もまた、毛利軍の捕虜となり、その武士としての真価が問われる最後の場面を迎えることとなる。

敗戦と捕縛、そして元就との対峙

敗走する軍勢の中で、通種は島から脱出することに失敗し、毛利方の兵に捕らえられた 20 。彼の身柄は、勝利した毛利元就の前に引き出された。元就は、通種が伊予の名門・重見氏の当主であり、その武勇を知っていたため、その死を惜しみ、自らの家臣になるよう勧誘した 19

この時の両者のやり取りは、江戸時代に成立した軍記物『陰徳太平記』や、それを基にした『大内氏実録』に劇的に描かれている 19 。元就の家臣を通じての説得に対し、通種は毅然としてこう答えたと伝えられる。

「旧恩をすて新恩をになうは武士の恥」 20

この言葉は、彼の揺るぎない決意を示すものであった。説得が不可能と見た元就は、さらに「もし我が命に従わぬのであれば、故郷の安芸国西条に残してきた二人の子を捕らえ、汝の目の前で殺すであろう」と、非情な脅迫をもって翻意を迫った。しかし、通種の覚悟は微動だにしなかった。彼は静かにこう返したという。

「某は陶氏の恩を受けたので、入道(晴賢)と生死を共にしようと望んでいた。捕虜の身となったのは予期せぬことであったが、元就殿の御厚意はかたじけない。しかし、願わくは一死を賜りたい。子らのことについては、西条を出立する際に既に覚悟の上である。これも天の定めであろう」 19

言葉の真意と武士の矜持

通種の最期の言葉は、戦国武士の複雑な忠誠観と死生観を雄弁に物語っている。彼が口にした「旧恩」とは、かつて自らが反乱を起こした元主君・河野氏へのものではない。また、形式上の主君であった大内義長へのものでもない。それは、伊予を追われ、亡命者として苦境にあった自分を客将として温かく迎え入れ、厚遇してくれた陶晴賢という個人に対する、極めて私的な恩義であった。

公的な主従関係が流動化し、下剋上が常態であった戦国時代において、武士の忠誠は必ずしも主家という組織に向けられるものではなかった。通種は、制度的な主従関係よりも、人間的な信頼関係と、一度受けた恩には命をもって報いるという、武士としての個人的な美学を優先したのである。子の命さえも「天の定め」として受け入れるその姿は、自らの信条を貫徹するためには全てを犠牲にするという、戦国武士の凄絶な覚悟を体現している。彼の死は、敗北の結果ではなく、自らの美学を全うするための、能動的な選択であった。

最期の場所と子孫への配慮

通種の固い決意を知った元就は、その覚悟に感じ入り、もはやこれまでと自害を許した。重見通種は、厳島の有浦(大江浦とも伝えられる)にて、静かに腹を切り、その波乱の生涯を閉じた 19 。弘治元年(1555年)のことであった 20

敵将ながらその見事な最期に感銘を受けた元就は、脅迫に用いた言葉とは裏腹に、約束通り西条に残された通種の二人の子に扶持(給与)を与え、毛利家臣として召し抱えた。その子孫は、その後も毛利家に仕え、家名を後世に伝えたとされている 19

終章:重見通種の人物像と後世への影響

重見通種の生涯は、伊予の有力国人として生まれ、主家への反乱、周防への亡命、そして厳島での壮絶な最期という、まさに戦国乱世の縮図のような軌跡を辿った。彼の人生を総括する時、そこには「反骨」と「忠節」という、二つの相貌が浮かび上がってくる。

人物像の総括:反骨と忠節の二面性

一方において、通種は旧来の権威であった主家・河野氏の衰退を見抜き、より強力な大内氏と結びつくことで自家の生き残りを図ろうとした、極めて現実的で合理的な判断力を持つ武将であった。彼の反乱は、時代の変化を敏感に察知し、旧弊な秩序に固執することなく自らの道を切り拓こうとする「反骨」の精神の現れであったと言える。

しかしその一方で、彼は一度受けた恩義には命を懸けて報いようとする、義理堅く、純粋な一面も持ち合わせていた。彼が陶晴賢に捧げた忠誠は、打算や計算に基づくものではなく、亡命者であった自分を救ってくれた個人への感謝という、人間的な「忠節」の発露であった。この野心的な現実主義者と、義に篤い理想主義者という二面性こそが、重見通種という人物の人間的な深みであり、彼が単なる裏切り者として片付けられない理由であろう。彼は、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた武士たちの多様な価値観を、その一身に体現していた。

歴史における評価と後世への影響

歴史における彼の評価は、どの視点から見るかによって大きく異なる。元主君である河野氏の立場から見れば、彼は家中の結束を乱した紛れもない反逆者である。しかし、彼の最期を知る毛利氏の視点、あるいは江戸時代以降に確立された武士道徳の観点から見れば、彼は私恩に殉じた忠義の士、武士の鑑として賞賛される。本報告書は、彼に一方的な評価を下すのではなく、その行動を当時の価値観の中に置き、多面的な人物像を提示することで、より深い歴史理解を目指した。

彼の壮絶な最期は、特に『陰徳太平記』などの軍記物語によって語り継がれ、理想化された武士像を形成する一助となった 19 。その物語は、史実を超えて、後世の人々に強い感銘を与え続けた。

伊予に残った弟・通次の一族は河野家臣として家名を保ち 8 、毛利家に仕えた彼自身の二人の息子たちもまた、新たな主君の下で家系を繋いだ 19 。彼の決断は、結果として重見氏という一族を、異なる場所で存続させることになったのである。重見通種は、戦国史の主役ではなかったかもしれない。しかし、その生涯は、忠とは何か、義とは何か、そして武士としていかに生き、いかに死ぬべきかという、時代を超えた問いを我々に投げかけ続けている。

引用文献

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