本報告書は、戦国時代の武将「長倉祐有」の実像を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。しかしながら、調査の初期段階において、この人物の特定自体が極めて困難な課題であることが判明した。これは、関連史料において「長倉祐有」 1 、「長倉祐省」 2 、「長倉祐歳」 4 といった複数の名前や、「能登守」という官途名 1 が錯綜して現れ、一人の人物を指しているのか、あるいは複数の人物が混同されているのかが不明瞭であるためである。特に、天文10年(1541年)に主君・伊東義祐に対して反乱を起こした中心人物の特定は、本調査の中核をなす。
この情報の錯綜は、単なる記録の誤りというだけでなく、二次、三次の史料(ウェブ上の百科事典や系譜サイトなど)が相互に参照し合う中で、混乱が増幅された結果とも考えられる。利用者の「長倉祐有」という問いそのものが、歴史情報が伝承される過程で生じた歪みを反映していると言える。したがって、本報告書は単一の伝記を叙述するのではなく、まず史料批判を通じて「長倉祐有」とは何者であったのかを特定する調査的アプローチを取る。その上で、再構築された人物像を軸に、その生涯、彼が深く関わった伊東家の内紛、そして「長倉能登守の乱」と呼ばれる事件の真相に迫る。なお、調査過程で散見された幕末の人物「長倉新八」に関する情報 7 は、時代が全く異なるため、本報告書の対象外として明確に排除する。
長倉氏は、日向伊東氏の始祖である伊東祐時の子、長倉祐氏を祖とする、伊東一門の中でも特に由緒ある庶流(分家)であった 2 。この出自は、彼らが単なる被官(家臣)ではなく、伊東宗家に対して一定の発言権と影響力を持つ、特別な地位にあったことを示唆している。伊東氏が鎌倉時代から南北朝時代にかけて日向国に下向し、その勢力を確立していく過程で、長倉氏は常に宗家に付き従い、家臣団の中核を形成する譜代の家系として重きをなした 2 。
戦国時代、伊東義祐の父・伊東尹祐、および兄・伊東祐充の代において、長倉氏は家老職を務めており、伊東家の政権中枢に深く関与していた 2 。家老という最高の行政・軍事権限を持つ役職と、宗家と血を分けた庶流という高い家格の二重の権威を兼ね備えていたことは、長倉氏の特異な立場を物語っている。
この立場は、伊東家の権力構造における一種の脆弱性を内包していた。長倉氏のような有力庶流の忠誠は、宗家が正統性を維持し、彼らの伝統的な権利や発言力を尊重することによって保たれる、という暗黙の前提の上に成り立っていた。そのため、宗家の家督相続に疑義が生じたり、家臣団の意に沿わない当主が登場したりした場合、彼らは宗家の決定に対する強力な牽制力、あるいは対抗勢力と化す潜在的な危険性を秘めていた。後の家督相続問題において、長倉氏が決定的な役割を演じ、最終的に反乱へと至る伏線は、この特異な権力構造の中にすでに存在していたのである。
当時の日向国(現在の宮崎県)は、在地領主として勢力を拡大した伊東氏と、薩摩・大隅を本拠とし、日向守護職として南九州に覇を唱えようとする島津氏との間で、長年にわたる熾烈な領土紛争が繰り広げられていた 8 。伊東氏は「伊東四十八城」と称される支城網を国内に張り巡らせ、その最盛期を築きつつあったが 10 、島津氏との緊張関係は常に存在した。
特に、日向南部の拠点であり、良港・油津を擁する飫肥城を巡る攻防は、両家の存亡をかけたものであり、80年以上にわたって繰り返された 11 。長倉氏が後に起こす反乱が、この宿敵である島津氏、特に飫肥を管轄する分家の豊州家を巻き込むことになるのは、この地政学的な背景を考慮すれば、半ば必然的な展開であったと言える。伊東家中の内紛は、島津氏にとって勢力拡大の絶好の機会と映ったのである。
天文2年(1533年)、日向伊東家当主・伊東祐充が23歳という若さで病死した 3 。この予期せぬ当主の死が、伊東家を長きにわたる混乱の渦に突き落とす直接の引き金となった。
祐充の治世下では、彼の外祖父にあたる家老・福永祐炳が、幼い当主の後見人として権勢を振るっていた。祐炳はその権力を濫用し、反対勢力を追放・処断するなど専横を極め、多くの家臣団の間に深刻な不満が鬱積していた 15 。史料によれば、祐炳は将来有望な若手家臣であっても、自分に逆らう者は容赦なく排除したとされ、その強権的な手法が家中の亀裂を深めていた 16 。
祐充の死は、福永氏の支配を覆す好機と捉えられた。祐充の叔父にあたる伊東祐武(武蔵守)は、福永氏打倒を掲げて反乱を起こした。彼は祐炳父子ら福永一族を自害に追い込み、伊東氏の本拠である都於郡城を占拠して、自らが家督を継承しようと試みた 15 。この一連の騒動は「武州の乱」と呼ばれる。
しかし、祐武の行動は他の有力家臣の支持を得ることができなかった。福永氏の排除には成功したものの、彼の家督掌握という野心は認められず、重臣の荒武三省らが率いる討伐軍によって敗北し、祐武は自害に追い込まれた 18 。これにより伊東家は、当主不在のまま、さらなる混乱状態に陥った。
「武州の乱」が鎮圧された後、伊東家の最大の課題は次期当主の選定であった。ここで決定的な役割を果たしたのが、家老であった長倉祐省(能登守)である。
当主の継承資格者として、亡き祐充には二人の弟がいた。兄の祐清(後の伊東義祐)と、弟の祐吉である。家督相続の順序からすれば、祐清が継ぐのが自然であった。しかし、長倉祐省は祐清を排し、その弟である祐吉を新たな当主として強力に擁立した 11 。史料によれば、この異例の措置の背景には、祐省と祐清の個人的な関係が悪かったことがあるとされている 3 。祐省は、自らの政治的影響力を維持するために、より御しやすいと考えた祐吉を当主の座に据えたのである。この政治工作の結果、祐清は家督を諦め、出家を余儀なくされた 11 。この一件は、後の義祐政権下における祐省の立場を決定的に悪化させる、運命的な選択となった。
長倉祐省の目論見は、しかし、長くは続かなかった。天文5年(1536年)、当主となった伊東祐吉が、わずか在位3年、20歳の若さで病死してしまったのである 3 。
正統な後継者を再び失った伊東家では、もはや選択の余地はなかった。かつて祐省によって排斥され、出家していた祐清が還俗し、「伊東義祐」として家督を継承することになった 11 。この時、本拠の都於郡城は「武州の乱」で焼失していたため、義祐は佐土原城に入り、新たな本拠地とした 3 。
これにより、伊東家中に抜き差しならない対立構造が生まれることになった。新当主となった伊東義祐と、かつて自分を家督争いから追い落とした中心人物である家老・長倉祐省。両者の間には、もはや修復不可能な亀裂が存在していた。義祐が家中の統制を強化しようとすればするほど、祐省の存在は障害となり、逆に祐省が自らの地位を守ろうとすればするほど、義祐の権威を脅かすことになった。この構造的な対立が、5年後の大規模な反乱へと繋がっていくのである。
表1:伊東家家督相続(天文年間)関連年表
西暦(和暦) |
出来事 |
主な関連人物 |
典拠 |
1533年(天文2年) |
8月、伊東家当主・伊東祐充が23歳で病死。 |
伊東祐充、福永祐炳 |
3 |
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9月、祐充の叔父・伊東祐武が福永氏の専横打倒を掲げ反乱(武州の乱)。福永一族を自害させ、都於郡城を占拠。 |
伊東祐武、福永祐炳 |
15 |
|
11月、祐武、荒武三省らに討伐され自害。乱は鎮圧されるが、家中は混乱。 |
伊東祐武、荒武三省 |
17 |
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乱後、長倉祐省の主導により、祐充の弟・伊東祐吉が家督を継承。祐充の兄・祐清(後の義祐)は出家させられる。 |
長倉祐省、伊東祐吉、伊東祐清 |
11 |
1536年(天文5年) |
7月、当主・伊東祐吉が20歳で病死。 |
伊東祐吉 |
3 |
|
後継者不在のため、出家していた祐清が還俗し、佐土原城に入り家督を継承。 |
伊東義祐(祐清) |
11 |
1537年(天文6年) |
将軍・足利義晴より偏諱を受け、「義祐」と名乗る。 |
伊東義祐、足利義晴 |
11 |
1541年(天文10年) |
7月、長倉祐省(能登守)が伊東義祐に対し反乱を起こす。 |
長倉祐省、伊東義祐 |
2 |
天文10年(1541年)7月、家老・長倉能登守祐省は、ついに主君・伊東義祐に対して公然と反旗を翻した 2 。この反乱の直接的な要因は、前章で詳述した家督相続問題に端を発する、義祐との修復不可能な関係悪化にあった 2 。自らが擁立した当主(祐吉)を失い、かつて排斥した相手(義祐)が主君となったことで、祐省は自身の政治的生命が脅かされていると感じていた。
それに加え、義祐自身の資質や統治スタイルも、反乱の背景的な要因となった可能性がある。義祐は中央の文化に強い憧れを抱き、奢侈に溺れる傾向があった。大和国から仏師を招いて大仏を建立したり、京都の金閣寺を模した金柏寺(きんぱくじ)を建てたりするなど、壮大な寺社建設に莫大な財を投じた 11 。彼の治世下で、本拠地・佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど文化的に発展したが、そのための過酷な課税は民衆を苦しめ、また、武功よりも文化人を優遇する姿勢は、長倉祐省のような譜代の武断派家臣の目に、主君としての資質を欠くものと映ったであろう 15 。祐省にとって、義祐の統治は伊東家の伝統を破壊し、国力を疲弊させる暴政であり、これを正すことが反乱の大義名分となったと考えられる。
長倉能登守の反乱は、周到な計画の下に実行された。彼は、穆佐(むかさ)、長嶺、石塚、田野の四つの城を拠点として一斉に蜂起した 2 。これらの城は、宮崎平野の西部から中央部にかけて連なる戦略的要衝であり、義祐の本拠地である宮崎城や佐土原城を西から圧迫する位置にあった。特に穆佐城は、古くから日向の政治・軍事の中心の一つであり、長倉氏の重要な拠点であったことが記録されている 23 。また、石塚城もこの乱で長倉方に与したことが確認されている 24 。
さらに、長倉能登守は伊東家内部の力だけで義祐を打倒することは困難と判断し、外部勢力との連携を図った。彼は伊東氏の宿敵である、飫肥城を拠点とする島津氏の分家・豊州家に援軍を要請し、その承諾を得ることに成功した 2 。史料によれば、当時の豊州家当主・島津忠広は病身であったため、家臣の日置美作守が独断で出兵を決定したとされる 6 。これは、豊州家が伊東家の内紛を、最小限のリスクで漁夫の利を得る好機と捉え、日和見的に介入した可能性を示唆している。いずれにせよ、宿敵との連携は、この反乱が単なる家中の権力闘争ではなく、日向国全体の勢力図を揺るがしかねない、大規模な紛争へと発展したことを意味していた。
反乱軍は、島津豊州家からの援軍と合流し、伊東義祐の居城である宮崎城に迫り、両軍は激しい戦闘に突入した 2 。戦闘は宮崎城下だけでなく、反乱軍の拠点であった石塚城の南東に位置する高蝉や長嶺といった地域でも繰り広げられた 25 。
しかし、長倉方の目論見は成功しなかった。反乱は間もなく義祐が率いる伊東宗家の軍勢によって鎮圧され、首謀者である長倉能登守祐省は敗北し、戦死した 2 。この反乱の失敗は、いくつかの要因によって説明できる。第一に、長倉能登守の戦略的誤算である。彼は島津の援軍を過大評価し、それが伊東家中の他の家臣を自陣営に引き込む決定打になると期待したのかもしれない。しかし、豊州家の支援は限定的かつ機会主義的なものであり、島津本宗家を巻き込む全面的な介入には至らなかった。第二に、他の伊東家家臣団の政治的判断である。彼らにとって、義祐は好ましからざる主君であったかもしれないが、それでも正統な当主であった。一方、長倉能登守は宿敵である島津氏を領内に引き入れた「裏切り者」と映った。多くの家臣は、一族の存続を脅かす内通者につくよりも、不満はありながらも正統な主君の下で結束する道を選んだ。結果として、長倉能登守は伊東家中で政治的に孤立し、軍事的に打ち破られることになったのである。
表2:「長倉能登守の乱」(天文10年)関連城砦・武将一覧
勢力区分 |
主要人物 |
関連城砦・拠点 |
役割・動向 |
典拠 |
長倉方(反乱軍) |
長倉能登守祐省 |
穆佐城、長嶺城、石塚城、田野城 |
反乱の首謀者。四城を拠点に蜂起し、島津豊州家と連携。宮崎城を攻めるが敗死。 |
2 |
|
長倉上総介 |
穆佐城 |
穆佐城主として能登守と共に反乱に参加したと見られる(能登守の弟か)。 |
23 |
伊東方(鎮圧軍) |
伊東義祐 |
宮崎城、佐土原城 |
伊東家当主。反乱軍を迎え撃ち、鎮圧に成功。家中の支配権を確立する。 |
2 |
島津豊州家(援軍) |
島津忠広、日置美作守 |
飫肥城 |
長倉方の要請に応じ援軍を派遣。伊東家の内紛に介入し、勢力拡大を図るが、反乱失敗に伴い撤退。 |
6 |
本報告書の出発点となった「長倉祐有」という人物を特定するにあたり、史料の比較検討から、彼が天文10年の反乱の首謀者「長倉祐省」と同一人物である可能性が極めて高いという結論に至る。
その根拠は以下の通りである。まず、「長倉祐有」という名前は、後の時代の武将・長倉祐政の父として、「度々当主義祐に反抗的態度を示した為、謀られて討たれ」たという文脈で、限定的に登場する 1 。この「義祐に反抗して討たれた」という経歴は、天文10年の「長倉能登守の乱」を主導し、戦死した「長倉祐省」の末路と完全に一致する 2 。
さらに、「能登守」という官途名は、複数の史料で一貫して「長倉祐省」と結びつけられている 2 。一方で、「祐有」の名が登場する史料においても、その文脈は明らかに能登守の乱の首謀者を指していると解釈できる 1 。これらの事実を総合すると、「祐有」という名は、「祐省」の誤記、あるいは後世の系譜や軍記物語が編纂される過程で生じた異表記であると判断するのが最も合理的である。したがって、本報告書では、調査対象である「長倉祐有」は、天文10年の反乱を主導した「長倉能登守祐省」と同一人物として扱い、その人物像を考察する。
長倉祐省の人物像は、伊東家の伝統と秩序を重んじる、保守的な譜代の重臣として浮かび上がる。彼は、自らが仕えた伊東尹祐・祐充の代までの家中のあり方を理想とし、義祐の登場によってその秩序が崩されることを危惧した。家督相続の過程で義祐を排斥し、祐吉を擁立した彼の行動は、単なる権力欲だけでなく、伊東家の将来を憂うという彼なりの信念に基づいていた可能性がある。
しかし、一度自らが推した主君(祐吉)を失い、敵視していた義祐が新当主となると、彼は新体制に適応することができなかった。義祐の統治下で自らの影響力が削がれることへの危機感と、義祐の京風文化への傾倒や奢侈に対する反感が結びつき、最終的に彼は主君に反旗を翻すという、武士として最も重い決断を下した。それは、自らの政治的信念と既得権益を守るため、一門の分裂と宿敵の介入という、極めて危険な賭けであった。結果として彼は、伊東家の伝統を守ろうとした保守主義者であると同時に、時代の変化に対応できず、家中に破滅的な混乱をもたらした反逆者として、歴史に名を残すことになった。
長倉祐省と対峙した伊東義祐は、複雑な経緯で家督を継承したため、当初は家中に多くの不安要素を抱えていた。しかし彼は、室町幕府の将軍・足利義晴から「義」の一字を賜る(偏諱)など、中央の権威と結びつくことで自らの正統性を強化し、支配権を確立しようと努めた 11 。
彼の京風文化への強い傾倒と、それを領国経営に反映させた統治スタイルは、長倉祐省のような在地の武断派家臣との間に、埋めがたい文化的な断絶と価値観の対立を生み出した。義祐にとって、寺社建立や文化の導入は、自らの権威を高め、日向に中央の先進的な文明をもたらす善政であったかもしれない。しかし、祐省にとっては、それは武家の本分を忘れ、国力を浪費する愚行に他ならなかった。この両者の価値観の衝突が、個人的な確執をさらに深刻化させ、反乱の遠因となったことは想像に難くない。
「長倉能登守の乱」で首謀者である祐省(=祐有)が討たれた後、長倉一族が断絶したわけではなかった。その後の動向を知る上で鍵となるのが、祐省の子、あるいは近親者と見られる長倉祐政という人物の存在である。祐政の父が誰であるかについては、史料によって「祐有」とも「祐歳」とも記されており、系譜に若干の混乱が見られるが 1 、彼のその後の経歴は一貫している。
驚くべきことに、父が主君に反逆し討たれるという最大の不名誉を背負いながらも、祐政は伊東義祐に仕え続けた。それどころか、彼は伊東家への忠誠を尽くし、武功を重ねていく。永禄10年(1567年)、祐政は敵対する島津軍の武将・青陰勘解由を討ち取るという功績を挙げた。この功を賞した伊東義祐は、彼に「伊東」の姓を名乗ることを許し、「伊東勘解由」と称させた 4 。これは、義祐が反逆者の子であってもその能力を高く評価し、過去の遺恨を水に流して登用したことを示している。同時に、祐政が父の汚名をすすぐべく、並々ならぬ忠節と武勇を示した結果でもあっただろう。この逸話は、戦国時代の主従関係が、単純な血縁や恩讐だけでは測れない、複雑な側面を持っていたことを物語っている。
しかし、祐政の忠節も、伊東家全体の衰運を押しとどめることはできなかった。元亀3年(1572年)、伊東氏は木崎原の戦いで島津義弘の軍に歴史的な大敗を喫し、これを契機に急速に衰退していく 11 。この「伊東崩れ」と呼ばれる過程で、多くの家臣が島津方に寝返る中、祐政は伊東家に留まり、最前線である高原城の守将として島津氏の侵攻に抵抗し続けた 4 。
天正5年(1577年)、島津軍の猛攻の前に伊東氏はついに日向国を維持できなくなり、当主・義祐は縁戚である豊後国の大友宗麟を頼って亡命する。この苦難の逃避行にも、祐政は嫡子・近江守と次男・六郎太郎を伴い、主君に付き従った 1 。
彼の忠義は、翌天正6年(1578年)に最後の輝きを見せる。大友氏の支援を得て、伊東家旧領の回復を目指す戦いが始まると、祐政は日向に潜入して残党を糾合し、都於郡城を攻撃するなど、奪回の先鋒として奮戦した 1 。しかし、同年の耳川の戦いで、伊東家が頼みとした大友軍が島津軍に壊滅的な敗北を喫すると、伊東家再興の夢は潰えた。この絶望的な状況の中、長倉祐政は次男・六郎太郎と共に自害し、その壮絶な生涯を閉じた 1 。父・祐省の反逆に始まり、子・祐政の殉死に終わる長倉一族の物語は、ここに幕を閉じたのである。
この一連の出来事は、天文10年の反乱が伊東家中に残した長期的な影響を考察する上で重要である。祐省の反乱は鎮圧されたものの、それは「主君の統治が受け入れがたい場合、武力で抵抗し、外部勢力(島津氏)と結ぶ」という選択肢が、一度は現実のものとなったことを家臣団に示した。この前例は、家臣の絶対的な忠誠心という基盤を、目に見えない形で蝕んでいた可能性がある。35年後、木崎原の敗戦で義祐の指導力が決定的に揺らぎ、島津氏の脅威が現実のものとなった時、多くの家臣が比較的容易に伊東家を見限って島津方に寝返った「伊東崩れ」の背景には、この長期的な忠誠心の侵食があったのかもしれない。長倉祐省の反乱は、伊東家の支配を最終的に崩壊させた病の、最初の兆候であったと評価することも可能であろう。
本報告書で展開した「長倉祐有」を巡る調査は、最終的に、彼が天文10年(1541年)に主君・伊東義祐に対して反乱を起こした重臣「長倉能登守祐省」と同一人物であるという結論に達した。史料に残る名前の錯綜は、後世の伝承過程で生じたものと推察される。
長倉祐省の反乱は、単なる個人的な野心や不満によるものではなく、伊東家の家督相続を巡る深刻な政治的対立、そして新当主・伊東義祐がもたらした中央志向の京風文化と、在地武士の伝統的な価値観との衝突が背景にあった。それは、戦国期の地方大名家中に内在する、宗家と有力庶流との間の緊張関係が顕在化した事件であった。
この反乱と鎮圧、そしてその子・長倉祐政の忠節と殉死という一族の物語は、戦国時代における主君と家臣の関係の複雑性を象徴している。父の反逆という汚名を背負いながらも、主家への忠誠を貫き通した祐政の生涯は、血縁、恩顧、対立、そして忠義が複雑に絡み合う、地方武士団の力学を解き明かす上で、極めて示唆に富む事例である。
歴史的な大局から見れば、長倉祐省の反乱は、伊東家中の結束を一時的にではあるが大きく揺るがした。この内紛は、結果として伊東義祐の権力基盤を固めさせる一方で、家臣団の間に潜在的な亀裂を残した。この亀裂は、後の木崎原の戦いでの敗北を契機に表面化し、「伊東崩れ」という形で伊東家の没落を加速させた一因となった可能性がある。その意味で、長倉一族の動向は、伊東氏の盛衰、ひいては島津氏による日向統一への道を間接的に規定した、重要な歴史的出来事であったと評価できる。
今後の課題としては、『日向記』をはじめとする伊東側の軍記物 20 の異本との比較検討や、島津側の一次史料に残された記録のさらなる調査を通じて、反乱のより詳細な兵力や合戦の経過、そして長倉氏の系譜の混乱を解明することが望まれる。これにより、戦国期日向における一族の動態が、さらに鮮明に描き出されるであろう。