元和元年(1615年)5月15日、京の六条河原は、ひとりの男の最期の舞台となった。その男、長宗我部盛親。かつて土佐国二十二万石を領した大名であり、四国の覇者・長宗我部元親の四男である。大坂夏の陣に敗れ、捕らえられた盛親は、罪人として市中を引き回された末、この地で斬首された。享年四十一 1 。その首は三条河原に晒され、戦国大名・長宗我部家の歴史は、ここに名実ともに終焉を迎えた 2 。
偉大な父・元親が一代で築き上げた長宗我部家の栄光は、なぜ息子・盛親の代でかくも無残に潰え去ったのか。彼の生涯は、単に「関ヶ原で西軍に与した不運な武将」という一言で片付けられるものではない。その悲劇の根源は、彼の出生以前にまで遡り、父が残した栄光と翳り、家中に刻まれた深い亀裂、そして時代の大きなうねりの中に複雑に絡み合っている。
本報告書は、長宗我部盛親の生涯を、その誕生から悲劇的な最期に至るまで徹底的に追跡する。父・元親の存在が彼に与えた影響、家督相続の過程で生じた歪み、関ヶ原での不運と改易、14年に及ぶ浪人生活、そして大坂の陣で見せた最後の輝きと終焉を時系列に沿って詳述し、その人物像と悲劇の本質に多角的に迫るものである。
年号(西暦) |
盛親の年齢 |
主要な出来事 |
関連人物・事項 |
天正3年(1575) |
1歳 |
土佐岡豊城にて、長宗我部元親の四男として誕生。幼名は千熊丸 2 。 |
長宗我部元親、土佐統一を達成 |
天正14年(1586) |
12歳 |
兄・信親が戸次川の戦いで戦死。長宗我部家の後継者問題が浮上する 4 。 |
長宗我部信親、仙石秀久、島津家久 |
天正16年(1588) |
14歳 |
父・元親の強い後押しにより、兄たちを差し置いて世子に指名される 2 。 |
香川親和、津野親忠 |
天正16-17年 |
14-15歳 |
盛親の世子指名に反対した一門の吉良親実、比江山親興らが粛清される 1 。 |
吉良親実、比江山親興、久武親直 |
慶長4年(1599) |
25歳 |
父・元親が伏見屋敷で病死。盛親が正式に家督を相続し、土佐国主となる 1 。 |
|
慶長5年(1600) |
26歳 |
関ヶ原の戦い 。西軍に属し南宮山に布陣するも、戦闘に参加できぬまま敗走 2 。帰国後、兄・津野親忠を殺害 10 。 |
徳川家康、吉川広家、井伊直政 |
慶長5年(1600) |
26歳 |
改易 。兄殺しと、それに続く浦戸一揆の責任を問われ、土佐二十二万石を没収される 2 。 |
山内一豊、浦戸一揆 |
慶長6-19年 |
27-40歳 |
京都で浪人生活を送る。「大岩遊夢」と名乗り、寺子屋の師匠をしていたと伝わる 8 。 |
蓮光寺住職 |
慶長19年(1614) |
40歳 |
大坂冬の陣 。豊臣家の招きに応じ、土佐一国安堵を条件に大坂城へ入城 8 。 |
豊臣秀頼、真田信繁 |
元和元年(1615) |
41歳 |
大坂夏の陣 。八尾・若江の戦いで藤堂高虎軍を一時壊滅させるなど奮戦するが、敗北 16 。 |
藤堂高虎、木村重成、井伊直孝 |
元和元年(1615) |
41歳 |
大坂城落城後、逃亡するが捕縛され、5月15日に京都六条河原で斬首される 1 。 |
板倉勝重、蜂須賀至鎮 |
長宗我部盛親の生涯を理解するためには、まず彼の父であり、戦国時代に四国を席巻した英雄、長宗我部元親の存在を避けて通ることはできない。元親の栄光と、その晩年に忍び寄った深い翳りは、盛親の運命を決定づける揺り籠であり、同時に呪縛でもあった。
元親は幼少期、長身で色白、物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され、父・国親からもその将来を案じられていた 6 。しかし、天正3年(1560年)の長浜の戦いでの初陣において、その評価は一変する。家臣に槍の使い方を尋ねるほど初々しかった青年は、いざ戦端が開かれると「鬼若子」と称されるほどの凄まじい武勇を見せ、敵陣を突き崩した 6 。この一戦で家臣の心を掴んだ元親は、父の死後、その遺志を継いで土佐統一へと邁進する。
彼の躍進を支えたのが、「一領具足」と呼ばれる半農半兵の戦闘集団であった。平時は田畑を耕し、領主の号令一下、一揃いの具足を携えて馳せ参じる彼らは、強靭な肉体と高い組織力を誇る精鋭だった 20 。元親はこの一領具足を巧みに率い、武力と、弟たちを吉良氏や香宗我部氏といった有力国人の養子に送り込む外交戦略を駆使して、次々と敵対勢力を併合。永禄12年(1569年)には安芸国虎を滅ぼし、天正3年(1575年)、ついに土佐一国の統一を成し遂げた 20 。その野心は土佐に留まらず、阿波の僧に「我が蓋は名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と語った逸話は、彼の気宇の壮大さを物語っている 6 。また、彼は単なる武人ではなく、米の収穫量が少ない土佐の経済を支えるため、山から伐採した木材を専売制とし、京や大坂で売って財源とするなど、優れた領国経営者としての側面も持っていた 22 。
順風満帆に見えた元親の人生に、最初の、そして最大の悲劇が訪れる。天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した際のことである。元親が溺愛し、その将来を嘱望していた嫡男・信親が、この戦役で命を落としたのだ 4 。
信親は文武両道に秀で、礼儀正しく、家臣領民から深く慕われる理想的な後継者であった。その才能は織田信長にも高く評価され、養子に望まれたという逸話まで残るほどだった 5 。元親にとって、信親は自らの後継者であると同時に、長宗我部家の未来そのものであった。
しかし、豊後・戸次川において、軍監であった仙石秀久が秀吉の待機命令を無視して独断で開戦を強行 5 。長宗我部元親は慎重論を唱えたが聞き入れられず、豊臣先遣隊は島津家久が得意とする「釣り野伏せ」戦法に誘い込まれ、総崩れとなった 5 。この乱戦の中、信親は父と離れ離れになり、奮戦虚しくわずか22歳で討ち死にした 4 。
最愛の息子を失った元親の衝撃と悲嘆は計り知れず、その場で後を追って自害しようとしたほどであった 26 。この事件を境に、元親の精神は深く蝕まれていく。かつての英明さや寛容さは影を潜め、猜疑心が強く、人の意見に耳を貸さない頑迷な君主へと変貌してしまった 23 。この精神的な変調こそが、後に長宗我部家を根底から揺るがす後継者問題を引き起こし、盛親の人生に暗い影を落とす直接的な原因となるのである。
父・元親が築いた栄光と、その最大の挫折である信親の死。この二つの要素は、盛親が意図せずして背負うことになった「負の遺産」であった。元親の成功は、一領具足という強力な軍事力を背景とした中央集権化の過程で、旧来の国人勢力との間に絶え間ない緊張を生み出していた 21 。信親という、誰もが認める後継者の存在は、その緊張をかろうじて抑制する重石の役割を果たしていた。しかし、その重石が失われたことで、バランスは崩壊する。悲嘆に暮れた元親は理性を失い、後継者選びという国家の最重要問題において、家臣団の反発を力でねじ伏せるという最も危険な選択肢に突き進んでいく。結果として盛親は、家督を継ぐと同時に、父が自ら作り出した「家中の深刻な亀裂」と「有力な後見人の不在」という、致命的なハンディキャップを背負わされることになった。彼の悲劇は、彼が当主となる以前から、すでに始まっていたのである。
信親の死がもたらした衝撃は、長宗我部家に深刻な後継者問題を引き起こした。この問題への対応において、晩年の元親が見せた非情な采配は、家中に修復不可能な亀裂を生み、長宗我部家滅亡の序曲となった。盛親は、この混乱の渦中で、自らの意思とは無関係に後継者へと押し上げられていく。
信親亡き後、長宗我部家の後継者候補は三人いた。次男で讃岐の香川氏を継いだ香川親和、三男で土佐の津野氏を継いだ津野親忠、そしてまだ元服前の四男・千熊丸、後の盛親である 2 。家臣団の多くは、長幼の序を重んじ、次男の親和を後継者に推した 2 。
しかし、信親への愛執に囚われた元親の決断は、家臣たちの予想を裏切るものだった。元親は、亡き信親の血筋を絶やさぬため、信親の一人娘を娶せることを後継者の条件とした。そして、年齢的に釣り合うのは四男の盛親しかいないとして、天正16年(1588年)、彼を世子に指名したのである 2 。
この常軌を逸した決定に対し、一門衆の筆頭であり、元親の甥にして娘婿でもあった吉良親実が猛然と反対した。彼は「長幼の序を乱すこと」そして「叔父と姪の婚姻は人倫にもとる」と、正論をもって元親を諫言した 1 。元親の従兄弟である比江山親興もこれに同調した。だが、もはや理を失った元親の耳に、彼らの忠言は届かなかった。
元親の逆鱗に触れた親実と親興は、元親の側近である久武親直の讒言も追い打ちとなり、切腹を命じられる 6 。この粛清は苛烈を極め、彼らの一族郎党にまで及んだ 30 。天正16年から17年にかけて行われたこの粛清により、長宗我部家の屋台骨を支えてきた有力な一門衆は、当主である元親自身の手によって葬り去られたのである。
この強引な後継者指名と血の粛清は、長宗我部家臣団に深刻な動揺と恐怖、そしてぬぐい去れない不信感を植え付けた 28 。主君の意向に逆らえば、たとえ一門の重鎮であろうと容赦なく抹殺されるという現実は、家中の結束を根底から破壊した。
この事件の衝撃と、非業の死を遂げた者たちへの同情は、土佐の地に恐ろしい怨霊伝承を生み出した。それが「七人みさき」である 29 。これは、吉良親実とその殉死した家臣たち、あるいは比江山親興とその一族など、七人の亡霊が一団となって祟りをなし、彼らに遭遇した者を取り殺すというものである。そして、一人を殺すと七人のうち一人が成仏し、代わりに殺された者が新たな「みさき」の一員となるため、その数は決して減ることがない、とされた 31 。この伝承は、元親の非道な所業に対する民衆の批判と恐怖が色濃く反映されたものであり、粛清された者たちの無念が、数世紀を経た現代の高知にまで語り継がれている 7 。
この家督相続問題は、単なる元親の老耄や感情的な判断の結果と見るべきではない。それは、豊臣政権という新たな中央権力の下で、長宗我部家がどのような統治体制を築くべきかという、深刻な路線対立の表れであった。吉良親実らが代表したのは、土佐の国人たちの合議を重んじる伝統的な価値観であった 21 。それに対し、元親は秀吉に降伏して以降、豊臣政権下の一大名として生き残るため、当主への権力集中、すなわち近世的な大名家への脱皮を急いでいた 35 。彼が若年で、他家の影響を受けていない純粋な長宗我部家の人間である盛親を選んだのは、自らの意のままに統制できる後継者を据え、中央集権化を完成させるためであったと考えられる 2 。
したがって、この一連の粛清は、長宗我部家が戦国時代の国人連合体から近世大名へと変貌する過程で起きた、壮絶な内部抗争であった。この抗争に勝利する形で、盛親は権力の座に就いた。しかしその代償として、彼は家臣団の信頼と、自らを支えるべき有力な後見人をすべて失った。彼が相続したのは、土佐二十二万石という広大な領地と、極めて脆弱で、いつ崩壊してもおかしくない危険な政権基盤だったのである。
人物名 |
続柄・役職 |
立場・主張 |
結末 |
長宗我部盛親 |
元親の四男 |
- (当事者) |
家督を相続 |
香川親和 |
元親の次男、香川家養子 |
家督候補。家臣団から推される。 |
憤死したと伝わる 21 。 |
津野親忠 |
元親の三男、津野家養子 |
家督候補。 |
後に関ヶ原の戦いの後、盛親に殺害される 10 。 |
吉良親実 |
元親の甥、一門衆筆頭 |
盛親の相続に猛反対。長幼の序と人倫を説く 1 。 |
元親の命により切腹 7 。 |
比江山親興 |
元親の従兄弟、一門衆 |
親実に同調し、盛親相続に反対 1 。 |
元親の命により切腹 37 。 |
久武親直 |
元親の側近 |
盛親を強力に推挙。親実らを讒言したとされる 7 。 |
盛親の代まで権勢を保つが、その子孫は祟りにより怪死したと伝わる 29 。 |
長宗我部元親 |
当主 |
溺愛する信親の血筋を残すため、盛親を強引に後継者とする 2 。 |
自身の決定により家中を分裂させ、衰退の種を蒔く。 |
父・元親が残した負の遺産を背負い、盛親は長宗我部家の当主となった。しかし、彼が自らの手腕で領国を治める時間は、あまりにも短かった。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発し、盛親と長宗我部家は、否応なく運命の渦に巻き込まれていく。
慶長4年(1599年)、父・元親が伏見の屋敷で病死し、盛親は25歳で正式に家督を相続した 1 。それ以前にも、父と連名で「長宗我部元親百箇条」として知られる分国法を発布するなど、共同統治者としての経験はあったが、単独での治世はわずか1年余りに過ぎなかった 1 。
翌年、徳川家康と石田三成の対立が激化し、関ヶ原の戦いが勃発する。この天下の趨勢を左右する大戦において、盛親の動向は不可解な点が多い。通説では、盛親は当初、家康の東軍に味方する意向であったとされる 8 。しかし、家康に味方の意思を伝えるべく派遣した使者が、道中の近江で西軍に阻まれて連絡が取れなかった 39 。加えて、盛親が元服した際の烏帽子親が西軍の首謀者の一人である増田長盛であったことなど、複合的な要因が重なり、やむなく西軍に与することになったと言われている 8 。
この一連の経緯は、盛親が主体的な政治判断を下すための情報網や政治力を欠いていたことを示唆している。父・元親は明智光秀などを通じて中央政局と独自のパイプを築いていたが 40 、元親の死と家中の混乱により、その情報網は機能不全に陥っていた可能性が高い。他の多くの大名が早い段階で去就を決する中、盛親の対応の遅れは、長宗我部家が中央からいかに孤立していたかを物語っている。
西軍への参加を決めた盛親は、6,600の兵を率いて関ヶ原へ出陣。毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊といった西軍の主力部隊と共に、主戦場の南に位置する南宮山に布陣した 9 。しかし、ここでも盛親は不運に見舞われる。
毛利軍の先鋒として最前線にいた吉川広家は、密かに家康に内応していた。9月15日の決戦当日、戦端が開かれても広家は「今、兵に弁当を食べさせている」などと不可解な理由を述べて一歩も動かず、後方の毛利秀元本隊の進軍を物理的に妨害した 9 。
長宗我部軍は、この毛利軍のさらに後方に布陣していたため、前方が動かない限り、戦場へ駆けつけることすらできなかった 9 。眼下で繰り広げられる激戦を、ただ指をくわえて見ているほかなかったのである。隣接する安国寺恵瓊が再三にわたり出陣を促しても、広家は動かなかった。西軍諸将間の連携が全く取れていない、まさに烏合の衆であった。
結局、盛親は一戦も交えることなく西軍の総崩れを知ることになる。彼は自らの意思で戦うこともできず、味方の裏切りによって、戦わずして敗軍の将となった。この南宮山での出来事は、脆弱な政権基盤しか持てなかった盛親が、巨大な政治の渦に翻弄されていく象徴的な場面であった。敗報に接した盛親は、伊勢路へと退却を開始し、道中での一揆勢の襲撃などを切り抜けながら、命からがら大坂を経由して土佐へと帰還した 41 。
関ヶ原で戦わずして敗れた盛親であったが、彼の悲劇はまだ終わらなかった。土佐へ帰国した後、彼の取った行動と、それに応えるかのように噴出した家臣たちの反乱は、長宗我部家の運命に最後のとどめを刺すことになる。
土佐に帰還した盛親は、徳川家との関係が深い井伊直政を通じて家康に謝罪し、本領安堵の道を模索していた 2 。しかし、この混乱の最中、彼は致命的な過ちを犯す。かつて家督を争った実の兄、津野親忠を殺害してしまったのである 10 。
この「兄殺し」の真相は、複数の説があり定かではない。家老の久武親直が「親忠は(家康方で、かつて人質時代に親交のあった)藤堂高虎と通じ、土佐半国を支配しようと企んでいる」と讒言したためという説 44 、あるいは親忠が盛親とは別に、独自に家康と本領安堵の交渉をしようとしたことを盛親が怒ったため、という説などが伝えられる。『土佐物語』においては、盛親自身は讒言を聞き入れなかったが、親忠の抹殺を望む久武親直が「盛親の命令である」と大義名分を捏造して独断で殺害した、とも記されている 45 。
理由が何であれ、この事件は家康に長宗我部家を取り潰す絶好の口実を与えた。井伊直政からの助命嘆願も虚しく、家康は「兄殺し」の大罪を咎め、長宗我部家に対し土佐二十二万石の領地を全て没収するという、改易処分を断固として下した 2 。
長宗我部家の改易と、新領主として山内一豊の入国が決定すると、土佐国内は激震に見舞われた。慶長5年(1600年)末、徳川の上使が浦戸城の明け渡しを要求すると、これに激しく反発した者たちがいた。長宗我部家の軍事力の根幹をなし、土佐の地と共に生きてきた一領具足たちである 12 。
竹内惣右衛門らを中心に蜂起した一領具足は、浦戸城に立てこもり、城の明け渡しを断固拒否した 46 。彼らの要求は、盛親に土佐半国を安堵することであった。一揆の規模は1万7千人に達したとも言われ、上使の宿所であった雪蹊寺を包囲するなど、その勢いは凄まじかった 12 。
この一揆は、単に主家の改易に対する反発だけではなかった。それは、長宗我部氏の下で保証されていた「武士」としての身分と土地が、新領主の下で剥奪されることへの根源的な恐怖に根差していた。中央政権が進める厳格な兵農分離政策を体現する山内氏の支配は、半農半兵である一領具足の存在そのものを否定するものであった 46 。
しかし、この最後の抵抗も、長宗我部家臣団の内部崩壊によって潰える。50日にも及ぶ籠城戦の末、藩士としての身分安堵を望む「年寄方」と呼ばれる上級家臣たちが山内方と内通。彼らは策謀をもって一揆勢を城外に締め出し、裏切ったのである 12 。指導部を失い、混乱した一揆勢はたちまち鎮圧され、『土佐物語』によれば273名が斬首、その首は塩漬けにされて大坂の井伊直政のもとへ送られたという 12 。
この浦戸一揆の責任もまた、京にいた盛親に帰せられた。彼が直接指揮したわけではない反乱であったが、これにより長宗我部家再興の望みは完全に断たれた。家督相続の際の粛清によって生じた家中の亀裂は、領主交代という外部からの圧力によって決定的に破綻し、長宗我部家は自壊するようにして滅び去ったのである。盛親は、全てを失い、一介の浪人として京の都に蟄居することとなった。
土佐二十二万石の国主から一介の浪人へ。長宗我部盛親の人生は、関ヶ原の戦いを境に天国から地獄へと突き落とされた。しかし、彼はすぐには絶望しなかった。京の片隅で息を潜め、家名再興の機会を虎視眈々と狙い続ける、14年にも及ぶ雌伏の時が始まる。
改易処分を受けた盛親は、京都に送られ、相国寺のほど近く、柳ノ図子と呼ばれる町で蟄居生活に入った 8 。彼は「大岩遊夢(おおいわゆうむ)」と変名し、江村孫左衛門ら数名の旧臣と共に、かつての栄華とはあまりにもかけ離れた静かな日々を送った 8 。
この14年間の浪人生活を語る上で、最も有名なのが「寺子屋の師匠」をしていたという逸話である 13 。盛親は身分を隠し、近所の子供たちに読み書きや素読を教えて生計を立てていたと伝えられている 3 。この逸話の史実としての確証は一次史料では確認が難しいものの 14 、江戸時代から広く語り継がれてきた。この物語は、四国の覇者の息子が子供相手の手習い師匠にまで身を落としたという「転落の物語」として人々の同情を引くと同時に、彼が単なる武人ではなく、子供に学問を教えるほどの教養を身につけていたという「文」の側面を強調する。この浪人時代の逸話が、後に大坂の陣で再び「武」の将として奮戦する姿との鮮烈な対比を生み、彼の悲劇性をより一層際立たせている。また、この時期に、後に彼の亡骸を葬ることになる蓮光寺の住職と親交を結んだとされている 8 。
浪人生活の当初は、土佐に残った旧家臣からの仕送りで生活を維持していたようだが、年月が経つにつれてそれも途絶えがちになり、生活は困窮していったと推測される 9 。その一方で、世間では関ヶ原で西軍に与して改易された他の大名たちが、次々と赦免され、大名として返り咲いていた。立花宗茂や丹羽長重といった武将たちが徳川の世で再び活躍する姿を、盛親はどのような思いで見つめていたのだろうか。彼の心中には、御家再興への焦りが日増しに募っていったに違いない 50 。
そんな盛親のもとに、千載一遇の機会が訪れる。慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の関係が決定的に悪化し、大戦が避けられない状況となる。豊臣方は、来るべき戦いに備え、全国の浪人をかき集めていた。そして、盛親のもとにも大坂城からの密使が訪れる。その条件は「大坂城に入城し、豊臣方として戦うならば、勝利の暁には故郷・土佐一国を恩賞として与える」という、破格のものであった 2 。
14年間の雌伏の末に訪れた、最後の賭け。盛親は、この豊臣方の誘いに応じることを決意する。彼は京都所司代・板倉勝重の監視の目を欺き、わずかな供回りと共に密かに京都を脱出。ついに大坂城へと入城した 9 。盛親が大坂方についたという報せは、全国に散らばっていた長宗我部の旧臣たちを奮い立たせた。主君の再起を信じ、彼らは次々と大坂城に馳せ参じ、その数はおよそ1,000人に達したという 9 。こうして、かつての土佐の侍たちは、主君・盛親の下に再び結集し、戦国最後の戦いにその身を投じることになったのである。
14年の雌伏を経て、長宗我部盛親は再び歴史の表舞台に躍り出た。大坂城に集った数多の浪人武将の中でも、彼はひときわ大きな期待を背負っていた。土佐一国を賭けた最後の戦いにおいて、盛親は父・元親譲りの将器を存分に発揮し、戦国最後の合戦に鮮烈な炎を燃え上がらせる。
大坂城に入った盛親は、真田信繁(幸村)、後藤基次、毛利勝永、明石全登といった歴戦の勇士たちと並び、「大坂城五人衆」と称される浪人衆の筆頭格として重んじられた 15 。豊臣秀頼からは(公式ではないものの)「宮内少輔」の官途を与えられ、馳せ参じた旧臣ら約5,000の兵を率いる大将として、冬の陣では真田丸の支援拠点を守るなど重要な役割を担った 8 。
そして慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の雌雄を決する戦いの一つ、八尾・若江の戦いが勃発する 17 。豊臣方の作戦は、徳川家康の本陣を側面から急襲することであり、盛親は木村重成と共にその一翼を担い出陣した 16 。
八尾方面に進出した長宗我部軍は、徳川方の先鋒である猛将・藤堂高虎の軍勢と激突した。濃霧の中での遭遇戦となり、緒戦では長宗我部軍の先鋒・吉田重親が討ち死にするなど苦戦を強いられる 17 。しかし、盛親は少しも動じなかった。
盛親は、かつて父・元親が土佐の山河で駆使した戦術を、この河内の湿地帯で再現してみせる。まず、戦場近くの久宝寺にあった高い松の木に物見を登らせ、敵の陣形と動きを正確に把握 16 。そして、長瀬川の堤防という地形を巧みに利用し、兵士たちを伏せさせた。騎馬武者までも全て馬から下ろし、槍を持たせて息を潜めさせたのである 17 。
勢いに乗る藤堂軍が、何も知らずに堤防に迫ってきたその瞬間、盛親は一斉攻撃の号令を下す。堤防の上から突如として現れた長宗我部軍の槍衾は、藤堂軍の側面に突き刺さった。完全に意表を突かれた藤堂軍は大混乱に陥り、壊乱状態となった 16 。この見事な伏兵戦術により、長宗我部軍は藤堂高刑、桑名吉成といった藤堂家の有力武将を次々と討ち取り、藤堂高虎の旗本隊にも甚大な損害を与え、一時的に藤堂軍を戦場から敗走させるという輝かしい戦術的勝利を収めた 17 。
この戦いぶりは、盛親が父から受け継いだ「一領具足」という兵の特性を熟知した戦術思想を、見事に実践できる将器の持ち主であったことを証明している。しかし、その戦術が戦略的な勝利に結びつくことはなかった。
盛親が八尾で勝利の雄叫びをあげていた頃、北の若江で戦っていた友軍の木村重成が、徳川軍の井伊直孝隊の猛攻の前に力尽き、討死した 16 。この知らせは、長宗我部軍の運命を暗転させる。友軍の崩壊により、敵中で孤立することを恐れた盛親は、勝利の余勢を駆ってさらに攻勢に出ることを断念し、やむなく大坂城への撤退を決断した 16 。この撤退戦で長宗我部軍もまた大きな損害を被り、実質的に壊滅状態に陥った。
盛親の戦術は完璧だった。しかし、彼がその戦術を最大限に活かすための戦略的環境、すなわち地の利、そして何よりも味方との強固な連携は、寄せ集めの浪人軍団である豊臣方には存在しなかった。盛親の最後の輝きは、一つの戦術的成功が、より大きな戦略の欠如によっていかに無力化されてしまうかを示す、戦国時代の終焉を象徴する悲しい実例となった。それでもなお、この八尾での激戦は徳川方に大きな衝撃を与え、藤堂・井伊の両軍は甚大な被害を受けた結果、翌日の天王寺・岡山の最終決戦において先鋒を務めることを辞退せざるを得なかったと記録されている 16 。
八尾の戦いで最後の炎を燃やし尽くした長宗我部盛親と、彼が率いた土佐の侍たち。しかし、大坂城の落城と共に、彼らの夢は潰えた。盛親の生涯は、戦国時代の終焉を象徴する悲劇として、その幕を閉じる。
元和元年(1615年)5月、天王寺・岡山の最終決戦で豊臣方は壊滅し、大坂城は炎に包まれた。盛親は、なおも再起を期して城を脱出し、逃亡を図る 2 。しかし、5月11日、京都南部の八幡付近の葦原に潜んでいるところを、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の家臣、長坂三郎左衛門によって発見され、捕縛された 1 。
捕らえられた後、盛親の態度は堂々たるものであったと伝わる。徳川方の将から「なぜ潔く自害しなかったのか」と問われると、彼は「一方の大将たる身が、足軽のように軽々と討死すべきではない。機会があれば再び兵を起こし、この恥を雪ぐつもりであった」と答えたという 2 。その言葉には、最後まで武将としての誇りを失わなかった彼の矜持が窺える。
盛親は二条城の柵に縛られて晒された後、京の町を引き回され、5月15日、六条河原の露と消えた 2 。その首は三条河原に晒されたが、浪人時代に親交があった京都五条の蓮光寺の住職が、所司代・板倉勝重に願い出て亡骸を引き取り、手厚く葬った 2 。法名は源翁宗本。彼のものとされる明確な辞世の句は、今日まで伝わっていない 2 。
盛親の最期と共に、彼の5人の息子たちも大坂の陣の前後で捕縛、処刑され、長宗我部元親からの男系の直系は途絶えたとされている 2 。これにより、戦国大名・長宗我部家は完全に滅亡した。
しかし、長宗我部家の血脈そのものが完全に絶えたわけではなかった。大坂城落城の際、元親の娘であり盛親の妹にあたる阿古姫が、二人の息子と共に仙台藩主・伊達政宗の軍に保護されていたのである 9 。阿古姫は教養豊かな女性で政宗の信頼も厚く、その次男・柴田朝意は後に仙台藩の奉行(家老職)にまで出世し、伊達騒動の重要人物として歴史に名を残した 56 。この柴田氏を通じて、元親の血は女系ながらも現代まで受け継がれている 59 。さらに近年、盛親の次男・盛高の子孫を称する人物が現れ、盛親の遺品とされる鐙(あぶみ)が、400年の時を経て菩提寺である蓮光寺に寄贈されるという出来事もあり、新たな伝承が生まれている 2 。
長宗我部盛親の生涯は、紛れもなく悲劇であった。それは、偉大な父が残した栄光と晩年の過ち、それに伴う家臣団の分裂、そして関ヶ原という時代の大きな転換点といった、彼自身の力だけでは抗うことのできない巨大な奔流に飲み込まれた結果であった。
「傲慢で短気」と評され、家督相続の経緯から暗君のイメージを持たれることもある 2 。しかし、14年の浪人生活に耐え、最後の戦いである大坂の陣で見せた卓越した将器は、もし時代や環境に恵まれていたならば、父・元親にも劣らない名将として名を馳せたであろう可能性を強く示唆している。
彼の死は、土佐に根ざした戦国大名・長宗我部家の完全な終焉を意味すると同時に、徳川による新たな統一政権の時代の到来を決定づける象徴的な出来事であった。そして、彼の悲劇的な生涯と、それにまつわる「七人みさき」のような伝承は、勝者である徳川の視点から語られがちな歴史の中で、敗者の視点から戦国の終焉を物語る貴重な遺産として、今なお私たちの心を捉え続けている。