長崎元家(1538-1610)は、戦国大名としてその名を天下に轟かせた人物ではない。しかし、彼の73年の生涯は、織田信長の台頭から徳川幕府の確立に至る、日本史上最も激動した時代を映し出す鏡である。滝川一益、織田信雄、豊臣秀吉、小早川秀秋、そして徳川家康と、主君を次々と変えながらも乱世を生き抜き、最終的には幕府の直臣たる旗本の地位を確立した。彼の足跡を辿ることは、単に一人の武将の処世術を解き明かすに留まらない。それは、時代の大きな転換点において、彼のような中堅武士層が果たした重要な役割と、彼らが直面した厳しい選択の実態を物語っている。
本報告書は、様々な史書や記録に断片的に残された長崎元家に関する記述 1 を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自の謎、各時代における具体的な動向、そして彼が歴史の潮流に与えた影響を、多角的な視点から徹底的に分析・再構成することを目的とする。特に、天下分け目の戦いと称される関ヶ原の合戦において、彼が担った密使としての役割は、その後の日本の運命を左右する重要な一場面であり、本報告書の中心的なテーマとなる。元家の生涯を通じて、我々は歴史の表舞台に立つ英雄たちの影で、いかにして新たな時代が形作られていったのか、そのリアルな過程を垣間見ることができるであろう。
長崎元家の人物像に迫るにあたり、まず彼の基本的な情報と、その出自に関する謎を解き明かす必要がある。
元家は天文7年(1538年)に生まれ、慶長15年6月12日(西暦1610年7月31日)に73歳でその生涯を閉じた 1 。通称は弥左衛門尉(やざえもんのじょう)といい、後には伊豆守(いずのかみ)とも称した。仏門に入ってからの戒名は清信(せいしん)と伝わっている 1 。彼の生涯は、戦国時代の後期から江戸時代初期という、まさに時代の継ぎ目を跨ぐものであった。
諸記録において、元家の出自は「桓武平氏清盛流長崎氏」とされている 1 。この「長崎氏」とは、鎌倉時代に北条得宗家の家臣(御内人)として、内管領の地位を世襲し絶大な権勢を誇った名門一族を指す 3 。彼らは鎌倉幕府の実権を掌握するほどの力を持っていたが、1333年の元弘の乱において幕府が崩壊する際、長崎円喜・高資父子をはじめとする一族の多くが、主君である北条高時と共に鎌倉の東勝寺で自害し、歴史の表舞台からその姿を消した 2 。
一方で、九州の肥前国(現在の長崎県周辺)には、同じく長崎氏を名乗る有力な武士の一族が存在した。この九州長崎氏もまた、鎌倉の長崎氏の末裔を称する説がある 5 。しかし、現存する資料からは、長崎元家とこれらの鎌倉、あるいは九州の長崎氏とを直接的に結びつける具体的な系図や一次史料は見出すことができない 3 。
この事実から、一つの重要な可能性が浮かび上がる。すなわち、長崎元家の「桓武平氏長崎氏」という出自は、史実的な血縁関係に基づくものではなく、戦国乱世から徳川の治世へと移行する社会情勢の中で、自らの家格と正統性を高めるために主張された、あるいは後世に編纂された系譜上の「戦略的出自」であった可能性が極めて高いということである。
この推論は、当時の社会背景によって裏付けられる。戦国時代から江戸時代初期にかけては、出自が必ずしも明確でない武将が、自らの権威付けのために名門の姓を称したり、系図を創作・購入したりすることが一般的に行われていた。一代で天下人となった豊臣秀吉が、当初は平氏を、後に関白就任のために藤原氏を称した例は、その最も著名なものである 8 。
また、元家の家系が記録されている可能性のある『寛政重修諸家譜』は、文化9年(1812年)に江戸幕府が編纂した大名・旗本の公式な系譜集である 9 。この編纂事業は、各家から提出された家譜(呈譜)を基に行われたが、その呈譜には、家の権威を高めるための潤色や、名門との繋がりを強調する創作が加えられることが少なくなかった 11 。
したがって、最も合理的な解釈は、長崎元家自身、あるいはその子孫が、徳川幕府の直臣である旗本としての地位を盤石にする過程で、かつて鎌倉で絶大な権力を誇った「長崎氏」の輝かしい系譜に自らを位置づけた、というものである。これは決して偽りや詐称といった単純な話ではなく、新たな支配秩序の中で自らの家を存続させるための、当時の武士階級に共通する生存戦略の一環であったと理解すべきであろう。本報告書では、この出自を「伝承」として扱い、その背景にある歴史的意味を念頭に置きながら、彼の生涯を追っていくこととする。
長崎元家の武将としてのキャリアは、織田信長の家臣団の中でも特に異彩を放つ猛将、滝川一益の配下として始まった。この時期の経験は、彼の後の人生を方向づける重要な土台となった。
元家が最初に仕えた主君、滝川一益は、織田四天王の一人に数えられる実力者であった 1 。一益は出自が明確ではないものの、鉄砲の卓越した腕前を信長に見出されて抜擢された人物である 14 。彼は単なる武勇一辺倒の将ではなく、伊勢平定においては調略と武力を巧みに用いて敵対勢力を切り崩し 13 、信長最大の敵であった武田家を滅ぼした甲州征伐では、その功績により上野国一国と信濃二郡を与えられ、関東諸大名を束ねる「関東御取次」という重責を任された 14 。軍事、外交、統治の全てに長けた、まさに信長が推し進める天下布武事業を体現するような武将であった。
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれるという、日本史を揺るがす大事件が発生する。この時、関東管領として厩橋城(現在の前橋城)にあった一益は、突如として敵地の中に取り残され、完全に孤立するという絶体絶命の窮地に陥った。
この危機的状況において、一益は一つの活路を見出すべく、徳川家康に援軍を要請することを決断する。そして、この極めて重要かつ困難な任務を託す使者として、長崎元家を抜擢したのである 1 。この際、元家には元徳川家臣であった本多正重が同行している 1 。これは、交渉相手である家康の心情に配慮し、交渉を円滑に進めるための戦略的な人選であったと言える。結果的に、家康は援軍を送らず、この外交交渉は失敗に終わる。しかし、この経験は元家にとって、当代きっての大物政治家である家康と直接対峙し、国家の存亡を賭けた交渉の最前線に立つという、後のキャリアに繋がる計り知れないほど貴重な体験となった。
援軍を得られなかった一益は、関東からの撤退戦である神流川の戦いで、地の利を持つ北条氏の大軍に大敗を喫する。その後、織田家の後継者を決める清須会議においても、羽柴秀吉に主導権を握られ、政治的に完全に失脚した。さらに翌年の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方に与して秀吉と戦い敗北、その勢力を完全に失うこととなった 16 。
主君・一益の没落に伴い、元家は新たな道を模索せざるを得なくなる。彼はまず信長の次男・織田信雄に仕え、その後、天下人への道を突き進む豊臣秀吉へと仕官先を変えていく 1 。これは、忠義が絶対的な価値とされた時代にあって、自らの家と身を立てるために、時勢を見極めながら現実的な選択を重ねていく、戦国武将のリアルな生き様を示すものであった。
長崎元家が武将としてのキャリアの初期に仕えた滝川一益は、単なる武辺者ではなく、調略、交渉、新技術(鉄砲)の活用、そして広域統治といった多岐にわたる能力を持つ「吏僚的武将」の側面が強い。元家が一益の下で培ったであろうこれらのスキル、特に外交・交渉能力は、彼の武将としての特性を形成し、後の小早川家での役割や関ヶ原での密使という大役を果たす上での無形の資産となったと考えられる。
その理由はいくつか挙げられる。第一に、主君である一益自身が、鉄砲技術 14 、水軍の指揮 17 、敵を内から切り崩す調略 13 、そして関東の複雑な利害関係を持つ諸大名をまとめ上げる統治能力 13 といった、複合的な能力によって信長から重用された人物であったことだ。このような主君の下で働くことは、元家にとって最高の教育の場であったに違いない。
第二に、一益は家臣団の統率にも長けていた。彼は家臣たちに対し、「大名たる我は、常に敵から狙われる鶴のような身の上だ。しかし、汝らは身軽な雀の楽しみを楽しめばよい」と語り、それぞれの立場に応じた役割と心得を諭していたという 18 。これは、家臣一人ひとりが単なる戦闘員ではなく、組織の一員として自律的に機能することを求めていた証左である。元家もまた、この「滝川一益の学校」で、大局を見据え、自らの役割を的確に果たす術を学んだはずである。
そして第三に、本能寺の変直後という極度の混乱期に、家康への援軍要請という極めて重要な外交任務を任された事実そのものが、元家が一益からその能力を高く評価されていたことを何よりも雄弁に物語っている 1 。この経験を通じて得た度胸と交渉術は、後に豊臣政権下で、政治的に極めて複雑な立場にあった小早川秀秋の補佐役(付家老)に抜擢される素地を形成した。天下人・秀吉が求めたのは、単なる武勇に秀でた者だけでなく、こうした高度な調整能力を持つ実務家でもあったからである。
織田信雄を経て豊臣秀吉に仕えた長崎元家は、そのキャリアにおいて新たな、そして極めて重要な役割を担うことになる。それは、秀吉の甥であり養子でもあった小早川秀秋の家臣、すなわち「付家老(つけがろう)」としての任務であった。
元家が小早川秀秋の家臣となったのは、秀吉自身の直接の命令によるものであった 1 。この人事は、秀秋が置かれた複雑な政治的背景と深く関わっている。秀秋はもともと秀吉の養子として豊臣家の後継者候補の一人であったが、秀吉に実子・秀頼が誕生すると、その立場は微妙なものとなる。結果として彼は、毛利家の分家であり、当代随一の名将と謳われた小早川隆景の養子に出されることになった 19 。
この秀秋に対し、秀吉は元家を家臣として付けた。その役割は、若年の秀秋を武将として補佐・指導すると同時に、秀吉の意向を小早川家に伝え、その動向を中央に報告するという、傅役(もりやく)と監視役を兼ねた「付家老」であった。これは、豊臣政権が有力大名、特に身内や信頼性に不安のある大名をコントロールするために用いた巧みな統治手法の一つである 22 。
事実、小早川家には元家の他にも、後に徳川家光の乳母・春日局の夫として知られる稲葉正成 20 や、徳川家康とも誼を通じ、後に大名となる平岡頼勝 20 といった、秀吉恩顧の経験豊富な武将が付家老として送り込まれていた。元家は彼らと共に、秀秋を支え、そして監視する重層的な体制の一翼を担ったのである 19 。
付家老としての元家は、単なるお目付け役ではなかった。彼は小早川軍の一員として、秀吉が引き起こした二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍し、実戦において「戦功を立てた」と明確に記録されている 1 。
特に慶長の役において、小早川秀秋は日本軍の総大将という立場で朝鮮半島へ渡海しており 19 、明・朝鮮連合軍と激戦を繰り広げた蔚山(ウルサン)城の戦いなど、主要な戦闘に参加している 27 。元家が立てた戦功も、これらの過酷な戦いの中で挙げられたものと推測されるが、その具体的な内容を記した史料は残念ながら現存しない 28 。しかし、この従軍経験は、元家が単なる文官や監視役ではなく、戦場での指揮能力と武勇を兼ね備えた、歴とした武将であったことを証明している。
長崎元家の付家老としての立場を深く考察すると、彼は小早川秀秋という個人に仕える家臣というよりも、豊臣秀吉が秀秋を管理・統制するために設置した「経営・監視チーム」の一員と見るべきである。彼の役割は、秀秋個人への忠誠を誓う家臣ではなく、豊臣政権全体の安定という、より大局的な目的のために行動するエージェントであった。この特殊な立場こそが、後の関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀秋に東軍への寝返りを促すという、一見すると不忠に見える行動を可能にした根源的な理由である。
この見方を支える理由は複数ある。第一に、天下人・秀吉は、秀秋の若さや気性の不安定さ、そして豊臣家内での政治的な立場の危うさを熟知していた 34 。そのため、秀秋を単独で筑前名島(現在の福岡市東区)30万石余という広大な領地の主とすることに、大きな不安を感じていたと考えられる。
第二に、その不安を解消するため、秀吉は意図的に、筆頭家老の山口宗永を始め、稲葉正成、平岡頼勝、そして長崎元家といった、自身が信頼し、かつ経験豊富な武将たちを秀秋の周囲に配置した 19 。彼らにとっての第一の忠誠対象は、形式上の主君である秀秋ではなく、彼らをその地位に任命した最高権力者、豊臣秀吉(および豊臣家)であった。
第三に、この「付家老」という制度そのものが、主家の利益よりも、それを任命した中央政権の利益を優先するという構造を本質的に内包していた 22 。彼らは主家の運営を助ける一方で、主家が中央政権に反逆しないよう監視する「目付」の役割も担っていたのである。
秀吉の死後、豊臣家の将来が不透明となり、五大老筆頭の徳川家康と五奉行筆頭の石田三成の対立が先鋭化する中で、秀秋の付家老たちは、究極の選択を迫られた。すなわち、石田三成が主導する西軍に付くのか、それとも徳川家康が率いる東軍に付くのか。どちらの選択が、豊臣家の安泰(あるいは、もはや自分たちの家の安泰)に繋がるのかを、極めて現実的に判断する必要があった。彼らが最終的に家康を選んだという決断は、この文脈の中で理解されるべきである。長崎元家を含む付家老たちの行動は、主君個人への裏切りというよりも、豊臣政権から派遣された管理者としての、冷徹で合理的な政治判断であった可能性が高いのである。
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の未来を決定づけるこの戦いにおいて、長崎元家は歴史の歯車を大きく動かす、決定的な役割を演じることとなる。
天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、勝敗の帰趨を握る最大の不確定要素は、西軍として関ヶ原南西の松尾山に陣取った小早川秀秋率いる一万五千の大軍勢であった 20 。この大軍が西軍の主力として戦うか、それとも東軍に寝返るかによって、戦局は全く異なる様相を呈することは誰の目にも明らかであった。
実は、秀秋の東軍への内応(寝返り)は、戦いが始まる以前から、徳川家康方の智将・黒田長政が中心となり、周到に進められていた 36 。長政は、自らの義理の従兄弟にあたる小早川家の付家老・平岡頼勝や、同じく付家老の稲葉正成と密に連絡を取り、優柔不断な秀秋に対して東軍に味方するよう、粘り強く説得を続けていたのである 26 。
この一連の緊迫した内応工作の、まさにクライマックスと言える場面で、長崎元家は歴史的な大役を担う。彼は、小早川秀秋の正式な使者として、東軍総大将・徳川家康の本陣である桃配山に赴き、「秀秋は東軍に味方する」という最終的な意思を直接伝達したのである 1 。
この伝達は、単なる情報の連絡ではなかった。戦況が膠着し、秀秋の裏切りを土壇場で恐れる家康に対して、秀秋の内応が確実であることを保証する、極めて重要な政治的・軍事的行為であった。江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』などにも、家康が松尾山の秀秋の動向を固唾をのんで注視し、その使者の到着を待ちわびていた様子が描かれている 42 。長崎元家の到着こそが、家康に勝利を確信させた瞬間であったと言っても過言ではない。
人物名 |
所属 |
役割 |
主な動き・関係性 |
典拠 |
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徳川家康 |
東軍 総大将 |
内応の受諾者 |
黒田長政を通じて交渉。奥平貞治を目付として小早川陣中に派遣。 |
19 |
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黒田長政 |
東軍(福岡藩祖) |
東軍側 交渉主担当 |
義理の従兄弟である平岡頼勝を介して秀秋を説得。人質として家臣の大久保猪之助を派遣。 |
36 |
||
平岡頼勝 |
小早川家 付家老 |
小早川側 交渉担当 |
長政と通じ、秀秋に東軍への寝返りを進言。関ヶ原後、大名となる。 |
26 |
||
稲葉正成 |
小早川家 付家老 |
小早川側 交渉担当 |
平岡頼勝と共に秀秋に寝返りを進言。関ヶ原後、浪人を経て大名となる。 |
25 |
||
長崎元家 |
小早川家 付家老 |
最終意思伝達の使者 |
秀秋の代理として家康本陣に赴き、内応を確約。関ヶ原後、旗本となる。 |
|
1 |
|
大久保猪之助 |
黒田家家臣 |
人質・連絡役 |
長政からの人質として小早川陣中に派遣され、交渉の実務を担う。 |
19 |
||
奥平貞治 |
徳川家臣 |
監視役(軍監) |
家康から目付として小早川陣中に派遣され、秀秋の動向を監視。 |
19 |
長崎元家が関ヶ原で果たした使者としての役割は、単なる情報の伝達ではなく、口頭による「契約の最終確認と履行の保証」という、極めて高度な外交的意味合いを持っていた。彼は、事前に水面下で練られた内応計画という名の外交交渉の最後のピースを埋めるために、双方から信頼される人物として選ばれた「特命全権大使」であったと評価できる。
この解釈を支える論拠は以下の通りである。第一に、関ヶ原のような大規模な合戦における内応は、最高レベルの軍事機密であり、土壇場での反故や、敵を欺くための二重スパイといったリスクが常に付きまとっていた。家康が、秀秋の煮え切らない態度に業を煮やして松尾山に鉄砲を撃ちかけたという有名な「問鉄砲」の逸話は、家康の決断力を神格化するために後世に創作されたものである可能性が高いと、近年の研究では指摘されている 20 。史実としては、むしろ周到な交渉の末の寝返りであったとする見方が有力である 36 。
第二に、この「周到な交渉」の最終段階こそが、長崎元家の派遣であった。黒田長政と平岡頼勝による交渉は、あくまで家臣レベルでの「基本合意」に過ぎなかった 38 。最終的な決断を下す当事者である秀秋と、それを受け入れる家康との間には、信頼性のある直接的な意思の疎通が不可欠であった。元家が家康の本陣に到着し、秀秋の言葉を伝えたその瞬間が、事実上の「契約締結」の時であった。彼の到着をもって初めて、家康は小早川軍を一万五千の「味方」として自軍の戦術に完全に組み込むことが可能になったのである。
第三に、元家がこの大役に選ばれた理由である。彼はかつて滝川一益の使者として家康との交渉を経験し、小早川家では古参の付家老として秀秋の信頼も得ていた。加えて、稲葉正成や平岡頼勝といった他の付家老たちとも連携できる立場にあった。彼のこれまでのキャリアと実績、その存在そのものが、秀秋からのメッセージの信憑性を担保する何よりの証拠となった。長崎元家は、まさにこの瞬間のために、その生涯を通じて必要な経験と信頼を積み重ねてきたと言えるのかもしれない。
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧勝に終わり、日本の歴史は新たな時代、すなわち徳川の世へと大きく舵を切った。この歴史的転換点において重要な役割を果たした長崎元家は、その功績にふさわしい処遇を受け、戦国武将としてのキャリアを栄誉のうちに締めくくることになる。
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)、元家の主君であった小早川秀秋が、わずか21歳の若さで岡山城にて急死する。秀秋には嗣子がなかったため、強大な小早川家は後継者不在を理由に幕府から改易(所領没収・家名断絶)を命じられた 1 。
主家を失った元家であったが、路頭に迷うことはなかった。関ヶ原での功績を徳川家康から高く評価され、家康の直接の家臣、すなわち直参(じきさん)として召し抱えられたのである 1 。これは、同じく内応工作に深く関わった他の付家老たち、例えば平岡頼勝が1万石の大名に取り立てられ 26 、稲葉正成も後に大名となったことと同様 45 、関ヶ原の論功行賞の一環として行われた、当然の措置であった。
家康は長崎元家に対し、1600石余の知行を与えた 1 。江戸時代の武家社会において、知行高1万石未満で将軍に直接仕える武士は「旗本」と呼ばれ、将軍への謁見(お目見え)が許される高い家格を有した。その中でも1600石という知行高は、旗本全体の中でも上級に位置するものであった 46 。この石高は、平時においては相応の軍役負担(戦時には規定数の兵士を率いて出陣する義務)が求められる一方で、幕府の要職に就くことも可能な、将来性のある家格であった 49 。家康が元家に与えたこの厚遇は、彼が関ヶ原で果たした役割がいかに重要であったかを、何よりも明確に物語っている。
家康の直臣となった元家は、しかし、その同年の慶長7年(1602年)に致仕(ちし)、すなわち隠居して家督を譲り、第一線から退いた 1 。長きにわたる戦乱の世を駆け抜け、主家の安泰と新たな時代の到来を見届けた彼の胸中には、万感の思いがあったことであろう。そして、その8年後の慶長15年(1610年)、73歳でその波乱に満ちた生涯の幕を閉じた。
長崎元家の功績は、彼一代で終わることはなかった。彼が創始した家は、徳川旗本・長崎家として存続した。具体的な史料からは、元家の跡を継いだと思われる息子・長崎元通の娘が、同じく4300石の大身旗本であった永井直貞の妻となっていることが確認できる 51 。これは、長崎家が旗本社会の中で他の有力な家と姻戚関係を結び、その地位を安定させ、江戸の世に根を下ろしていった様子をうかがわせる貴重な記録である。
世代 |
人物名 |
関係性・備考 |
典拠 |
初代 |
長崎 元家(弥左衛門尉) |
旗本長崎家・初代。知行1600石余。慶長7年(1602年)に徳川家に仕官し、同年に致仕。 |
1 |
二代 |
長崎 元通 |
元家の息子と推定される。旗本長崎家を継承。 |
51 |
三代 |
(元通の娘) |
永井直貞(旗本4300石)の妻となる。旗本間の婚姻により家の安泰を図る。 |
51 |
長崎元家の生涯の結末は、戦国時代の「実力主義と流動性」という価値観が支配する世界から、江戸時代の「家格と安定」が重んじられる新たな秩序へと、自らの家を見事に軟着陸させた、典型的な成功例であると言える。彼のキャリアは、徳川家康が天下を平定していく過程で示した、極めて実利的な人材登用策を象徴している。
元家は生涯で5人の主君に仕えた。これは戦国武将としては決して珍しいことではないが、最後の主君である徳川家康は、かつての主君・滝川一益にとっては宿敵であり、豊臣家にとっては最大のライバルであった。にもかかわらず、家康は元家を高く評価し、厚遇した。その理由はただ一つ、関ヶ原という天下の帰趨を決する戦いにおいて、家康の勝利に直接的かつ決定的な貢献をしたからである。
家康の評価基準は、旧主への忠節といった情緒的なものではなく、新たな天下の静謐、すなわち徳川の平和を築く上で、いかに貢献したかという点にあった。元家のような旧豊臣恩顧の武将を功績に応じて正当に評価し、新たな支配体制に組み込むことは、他の多くの武将たちに対して「徳川に尽くせば、過去の経歴に関わらず必ず報われる」という明確なメッセージを送る、極めて有効な政治的パフォーマンスでもあった。
長崎元家が1600石の旗本となり、その家が幕府の直臣として存続したという事実は、彼が単に激動の乱世を生き延びただけでなく、新たな時代秩序の中で子孫の繁栄の礎を築くことに成功したことを意味する。彼の生涯は、戦国的な価値観(武功と忠誠)を、江戸的な価値観(家名の存続と安定)へと見事に昇華させた、一人の武士の成功物語として読み解くことができるのである。
長崎元家の生涯を総合的に俯瞰するとき、彼の人物像は、戦場で華々しい武功を立てて名を上げるタイプの典型的な戦国武将とは一線を画すものであることがわかる。むしろ、主君の意図を正確に汲み取り、敵味方との交渉や組織内の調整といった、地味ながらも極めて重要な役割を担う「吏僚的武将」あるいは「ネゴシエーター(交渉人)」としての一面が強く浮かび上がってくる。
彼のキャリアの核心は、一貫して「使者」と「調整役」にあった。若き日、主君・滝川一益の窮地を救うべく徳川家康と対峙した経験。豊臣政権下で、政治的に複雑な立場にある小早川秀秋の付家老として、その行動を管理・補佐した経験。そして、それらの経験の集大成として、関ヶ原の戦いにおいて天下分け目の密使という大役を見事に果たしたこと。これら一連の経歴は、彼が高度な調整能力と、時勢を読む鋭い政治的嗅覚を一貫して持ち続けていたことを示している。
長崎元家の歴史的意義は、織田、豊臣、徳川という三つの天下人の下を渡り歩き、それぞれの政権の特性に巧みに適応しながら自らの価値を発揮し、最終的に自らの家を新たな支配体制の中に確固として位置づけた、その稀有な生涯そのものにある。彼の生き様は、個人の武勇や一途な忠誠心だけでは生き残れない、戦国末期の厳しい現実を雄弁に物語っている。情報収集能力、交渉力、そして何よりも時代の流れを見極める力が、武士個人のみならず、その「家」を存続させるために不可欠な要素であった。
長崎元家は、歴史の教科書に名を連ねる主役ではなかったかもしれない。しかし、彼は歴史が大きく動くその瞬間に、間違いなく舞台の中枢に立ち、自らの手で歯車を回した重要人物の一人であった。彼の生涯は、乱世を生き抜くための知恵と現実主義の結晶であり、時代を越えて我々に多くの示唆を与えてくれる。