本報告書は、戦国時代の今川家重臣であり、徳川家康の正室・築山殿の父として知られる「関口氏広」について、現存する史料と近年の研究成果に基づき、その生涯と実像を詳細かつ徹底的に考察することを目的とする。特に、その名の揺れ、系譜、今川家における具体的な役割、そして従来の「主君・氏真の命により自害」という通説に対する最新の史料批判と新たな解釈に焦点を当てる。本報告書は、氏広(氏純)の出自からその最期に至るまでを時系列に沿って追跡し、各段階における史料的根拠と学術的議論を提示することで、多角的な視点から人物像を再構築する。
関口氏広は、一般には徳川家康の岳父であり、今川義元の義弟にあたる人物として歴史上よく知られている 1 。彼の娘・瀬名(築山殿)は徳川家康に嫁ぎ、その後の徳川氏の歴史に深く関わることになる 2 。しかし、その生涯については不明な点が多く、特にその実名や没年については複数の説が存在し、近年、黒田基樹氏をはじめとする研究者によって新たな見解が提示されている 2 。本報告書では、これらの最新の研究動向を踏まえ、氏広(氏純)の実像に迫る。
関口氏は、今川氏の一族である今川経国に始まる家系であり、代々刑部大輔に任じられ、室町幕府の奉公衆を務めた名門である 9 。今川氏においては、堀越氏や瀬名氏と共に「御一門衆」として重臣の上に置かれる特別な家柄であった 10 。氏純自身も今川氏の重臣であり、室町幕府の官僚である奉公衆に任命され、今川家と室町幕府をつなぐ重要な役割を担っていた 4 。
関口氏広として知られる人物の実名には諸説ある。彼は今川一門の瀬名氏貞の次男として生まれ、今川氏の重臣である関口氏の養子となったとされている 3 。養子となった際に「関口親永」と名乗ったとされ、資料によっては「親永」と表記されることが多い 3 。また、「氏広」「義広」「氏興」といった名でも呼ばれることがある 1 。
しかし、黒田基樹氏の研究によれば、今川氏の御一家衆の当主に与えられる偏諱は今川氏当主の通字である「氏」の一字であるため、「関口親永」のような名前は慣例に反し、事実とは認められないと指摘されている 4 。現存する文書の署名では「氏純」と記されていることが確認されており、これが最も信頼性の高い実名である可能性が高い 4 。複数の史料が「氏広」「親永」「義広」「氏興」といった複数の名前を挙げている一方で、黒田基樹氏の研究は、当時の今川氏の偏諱の慣例という歴史的文脈から、特定の名前の信憑性を検討している。これは、後世に編纂された系譜や物語において、特定の名前が広まった可能性があることを示唆する。特に『寛政重修諸家譜』のような江戸時代の編纂物 5 は、幕府の意向や当時の認識に基づいて記述されるため、戦国時代の現存文書とは異なる情報が含まれる可能性がある。したがって、「関口氏広」という名は通称や後世の記述で広まった可能性が高く、学術的には「関口氏純」を用いるのがより適切であると判断される。このことは、歴史研究において、後世の編纂史料(特に江戸時代のもの)は、その成立背景や目的を考慮した上で慎重に扱う必要があることを示している。
関口氏純(氏広)の生没年は不詳とされている 3 。兄の瀬名氏俊が永正17年(1520年)生まれであることから、氏純はその2〜3年後に生まれたと推測される 4 。
従来の説では、永禄5年(1562年)に今川氏真の命により駿府屋形町の屋敷で切腹させられたと『松平記』に記載されている 1 。この説は、彼が実質的に関口家最後の当主と目され、関口家はその所領を喪失して事実上滅亡したという見方につながっていた 1 。
しかし、この説は近年の研究によって否定されている。永禄7年(1564年)5月や永禄9年(1566年)9月に今川氏真が記した文書に「関口伊豆守」の知行に関する記載があることから、氏純は少なくともこの頃まで生存していたとみられる 4 。さらに、臨済寺所蔵の文書から、永禄6年閏12月26日付の「関口伊豆守氏純」の署名が入った判物が確認されており、永禄5年に切腹したとする『松平記』の記述は成り立たないことが判明した 4 。
従来の『松平記』に記された永禄5年(1562年)自害説 1 は、多くの歴史物語やドラマで採用されてきた。しかし、近年の研究で発見された今川氏真の文書 4 や臨済寺の判物 4 は、氏純がそれ以降も生存していたことを明確に示している 4 。この矛盾は、歴史記述が後世の政治的意図、特に徳川家の正当性や今川氏の評価などによって、事実が強調されたり、あるいは歪められたりする可能性を示唆する。徳川幕府の正史に近い『松平記』が、家康の今川氏からの独立とそれに伴う関係者の悲劇を強調することで、家康の正当性や苦難を際立たせようとした可能性がある。
ただし、臨済寺の判物には永禄5年5月に氏純が所領の一部を氏真に返上し、氏真がそれを義元の菩提寺である天沢寺(現・臨済寺)に寄進したと記されており、家康の離反や信康の引き渡しの責任を取って所領の一部を返上した可能性は高いことを示唆している 4 。これは、完全な処罰ではなかったものの、何らかの形で責任を負ったことを意味する。関口氏純の死は、単なる悲劇的な自害ではなく、家康の今川離反という大事件における「責任の所在」を明確にするための物語的要素として利用された可能性が高い。これは、歴史上の「定説」とされる情報も、新たな史料の発見や史料批判によって大きく覆されることがあるという、歴史研究の動的な性質を示している。
氏純は、東海の名家・今川氏に仕え、今川氏最盛期を築いた今川義元の重臣となった 3 。彼は今川氏の筆頭家老として描かれることもある 3 。また、室町幕府の官僚である奉公衆に任命され、今川家と室町幕府をつなぐ重要な役目を担っていた 9 。
氏純は持舟城(用宗城)の城主を務めた 3 。この城は駿府の西南部、大崩や日本坂道を押さえる重要拠点に位置し、今川氏水軍の城として機能した 22 。戦国時代には城の前面まで海が接し、現在の用宗漁港付近は深い入江を形成する天然の良港であり、持舟城は要害であったことが『駿河国有渡郡用宗古城図』にも記されている 22 。
用宗城が「今川氏水軍の城として関口氏広(氏純)が守った」 22 とあり、その立地が「駿府の西南部の大崩や日本坂道を押さえる重要拠点」 22 であること、さらに「城の前面まで海が接し、現在の用宗漁港付近は深い入江を形成し、天然の良港として持舟城に守られた要害であった」 22 という記述は、この城が単なる防御拠点ではなく、今川氏の海上交通や水軍活動にとって極めて重要な戦略拠点であったことを示唆している。氏純がその城主であったことは、彼が今川氏の軍事体制、特に水軍において重要な役割を担っていたことを意味する。氏純が水軍を具体的にどのように統治・運用したかについての詳細な記述は、提供された史料からは直接読み取れない 22 。しかし、水軍の拠点である要衝の城主であったことから、水軍の管理や運用に深く関わっていたことは推測できる。氏純が今川氏の重臣であるだけでなく、今川氏の領国支配、特に海上防御と交通路の確保において、具体的な軍事・行政能力を発揮していた可能性が高い。これは、彼が単なる政略結婚の道具ではなく、今川氏政権の要として機能していたことを裏付ける重要な要素である。
氏純は刑部少輔、伊豆守の官位を持っていた 3 。
刑部省は律令制における八省の一つで、その主な職務内容は司法全般(重大事件の裁判、監獄管理、刑罰執行)を管轄していた 28 。しかし、平安時代に検非違使が設置されて以降、刑部省の職務のほとんどが検非違使に奪われ、有名無実化していた 29 。戦国時代においても官職名は武将の権威を示すものとして用いられていた 31 。伊豆守も国司の一つであり、本来は伊豆国の行政を司る役職だが、戦国時代には実質的な支配権を伴わない名誉職として用いられることが多かった 32 。例えば、最上義光の家臣である志村伊豆守光安のように、特定の地域の行政官として機能した例もあるが、これはその地域の実効支配と結びついたものであり、中央の律令官職としての職務とは異なる 33 。
氏純が「刑部少輔」「伊豆守」といった官職を持っていた 4 という情報と、これらの官職が戦国時代には実質的な職務を伴わない名誉職となっていた 30 という情報から、氏純のこれらの官職は、彼が今川氏の重臣として朝廷や室町幕府からの権威付けを受けていたことを示す。これは、今川氏が単なる地方大名ではなく、室町幕府の奉公衆として中央との繋がりを維持し、その権威を家臣団にも波及させていたことを意味する 11 。氏純の官職は、彼個人の具体的な職務内容を直接示すものではなく、今川氏の家格と、今川氏が室町幕府との関係を維持することで、家臣の地位を保証し、支配体制を強化していたという当時の政治的状況を反映している。これは、戦国大名が旧来の権威システムをどのように利用し、自らの支配を正当化していたかを示す一例である。
氏純の娘・瀬名(後の築山殿)は、弘治2年(1556年)に今川氏の人質であった松平元康(後の徳川家康)に嫁いだ 2 。この結婚は今川氏による政略結婚であり、氏純は家康の義父となった 3 。築山殿の母は今川義元の妹(一説には伯母、または養妹で井伊直平の娘)とされており、これにより築山殿は義元の姪にあたる 2 。この婚姻により、松平元康は今川一門に準じる立場となり、かなりの厚遇を受けたと考えられている 35 。これは、家康が「今川人質時代」に辛酸を舐めたという俗説とは異なる見方である 35 。
家康が今川氏の人質でありながら、氏純の娘(今川義元の姪)と結婚し「今川一門に準じる立場」となった 35 という事実は、今川氏が家康を単なる人質ではなく、将来的な三河支配の要として重視していたことを示唆する。 35 の記述にある「かなりの厚遇」は、今川氏が松平氏を自らの支配体制に組み込むための戦略的な投資であったと解釈できる。これは、家康が人質時代に「辛酸を舐めた」という俗説 35 とは異なる視点を提供し、今川氏の戦略的思考の深さを示す。氏純の娘との結婚は、家康が今川氏の支配下で一定の地位と保護を得ていたことを示し、今川氏の三河支配戦略における松平氏の重要性を浮き彫りにする。これは、今川氏が単に武力で支配するだけでなく、婚姻関係を通じて被支配層を懐柔し、自らの勢力圏に組み込む柔軟な外交戦略を持っていたことを示唆する。
瀬名と元康の間には、永禄2年(1559年)に長男・竹千代(後の松平信康)が、翌年には長女・亀姫が誕生した 2 。桶狭間の戦い後、瀬名と子供たちは今川氏の人質状態となるが、永禄5年(1562年)に家康が織田信長と同盟を結び、鵜殿長照の子らとの人質交換によって岡崎城に引き取られた 13 。この際、築山という地に居を構えたことから「築山殿」と呼ばれるようになった 16 。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、今川氏は衰退に向かう 3 。家康は今川氏から独立し、織田信長と同盟を結んだ(清洲同盟:永禄5年1月とされる) 13 。この家康の離反に対し、氏純は今川氏真から家康と内通しているのではないかと疑われた 1 。従来の説では、この疑いにより自害に追い込まれたとされる 1 。
しかし、前述の通り、氏純の没年に関する最新の研究では、永禄5年の自害説は否定されており、少なくとも永禄6年閏12月26日までは生存していたことが判明している 4 。彼は今川氏の衰退期においても今川側に留まり、氏真を支え続けたとされている 3 。家康の今川氏からの離反は、今川氏にとって大きな打撃であり、氏真が氏純を疑うのは自然な流れである 1 。しかし、氏純が永禄5年に自害したという説が否定され、その後も今川氏を支え続けた 3 という事実は、氏純が今川氏への忠誠を最後まで貫いた可能性、あるいは氏真が家臣の裏切りが相次ぐ中で、氏純のような重臣を安易に処罰する判断を下さなかった可能性を示唆する。氏真が氏純の所領の一部を返上させた 4 のは、完全な処罰ではなく、責任を取らせる形での穏便な措置であったと考えられる。これは、氏真が「暗愚の将」と評されることがある中で 19 、意外にも冷静な判断を下していた側面を示唆する。氏純の最期は、単なる悲劇的な自害ではなく、今川氏の衰退期における複雑な政治状況と、氏真の家臣に対する対応の一端を物語っている。氏純は、娘婿が敵対勢力となったにもかかわらず、今川氏への忠義を保ち続けた、あるいはそう見せかける必要があった人物像として再評価されるべきである。
従来の歴史認識では、関口氏純は永禄5年(1562年)に、娘婿である徳川家康が今川氏から独立し織田信長と同盟を結んだこと(清洲同盟)を今川氏真に咎められ、その命により駿府屋形町の屋敷で切腹させられたとされてきた 1 。この記述は主に徳川家寄りの史料である『松平記』に基づいている 4 。彼の死は、娘である築山殿が家康の元へ人質交換で送られる直前の出来事とされ、関口家は実質的に滅亡したと見なされてきた 1 。
前述の通り、永禄7年(1564年)や永禄9年(1566年)の今川氏真の文書に「関口伊豆守」の知行に関する記載があること 4 、そして永禄6年閏12月26日付の「関口伊豆守氏純」の判物が臨済寺に現存することから、永禄5年の自害説は否定されている 4 。氏純は、家康の離反や信康の引き渡しに関連して、永禄5年5月に所領の一部を氏真に返上し、それが天沢寺(臨済寺)に寄進されたという事実がある 4 。これは、自害ではなく、何らかの責任を取る形での処分であった可能性が高いことを示唆している。黒田基樹氏は、氏純の処罰が史実であったか疑わしくなったことを受け、北条氏規の妻であった氏純の娘が死去したために養子縁組が解消され、氏規を後北条氏に返還せざるを得なくなったのではないかと推測している 4 。これは氏純の家族関係にも新たな解釈をもたらす。
『松平記』による自害説 1 と、今川氏真の文書や臨済寺の判物による生存説 4 の明確な矛盾は、歴史記述が単なる事実の記録ではなく、特定の意図や視点に基づいて形成されることを強く示唆している。特に徳川幕府の正史に近い『松平記』が、家康の今川氏からの独立とそれに伴う関係者の悲劇を強調することで、家康の正当性や苦難を際立たせようとした可能性が考えられる。現代の研究は、複数の史料を比較検討し、その成立背景を批判的に分析することで、より客観的な歴史像を構築しようとしている。関口氏純の最期の描写は、徳川家康の「苦労人」としてのイメージを強化するための物語的装置として機能した可能性があり、歴史研究においては、一次史料の発見とそれに基づく批判的検証が不可欠であることを再認識させる。
関口家は、氏純の自害(従来の説)により、実質的にその所領を喪失し事実上滅亡したと目されていた 1 。しかし、氏純の没年に関する新説を踏まえると、関口家がすぐに滅亡したわけではない可能性もある。氏純の子または孫が出家して駒込の禅利徳源院を建てたという記述もある 40 。関口氏心(1598-1670)は柔術・関口新心流の開祖であり、氏純の子孫とされている 26 。彼は松平信康に仕えた関口氏幸の子である 26 。このことから、関口家自体は存続し、武術の流派を興すなど、別の形で歴史に名を残したことがわかる。 1 は関口家が「事実上滅亡した」と述べているが、 40 は氏純の子孫が寺院を建てたことに触れ、 26 は関口氏心が柔術の流派を興したことを示している。これは、たとえ大名家としての所領を失い「滅亡」と見なされても、血筋や家名が完全に途絶えるわけではなく、形を変えて存続し、文化や武術の分野で影響力を持ち続けた例として捉えられる。戦国時代の混乱期において、家を存続させるための多様な戦略(出家、武術の継承、他家への仕官など)があったことを示唆する。戦国時代の「滅亡」という言葉は、必ずしも血筋の断絶や家名の消滅を意味するものではなく、政治的・軍事的な支配権の喪失を指すことが多い。関口氏の例は、武家が生き残るための多様な道を提示しており、単なる権力闘争の犠牲者としてだけでなく、文化的な継承者としての側面も持つことを示唆する。
関口氏広(氏純)に関する研究は、特に娘である築山殿の生涯と関連して進展している 2 。黒田基樹氏の『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』 4 は、築山殿の系譜や結婚、家康との別居、信康事件、そして築山殿の死に至る真相を、信頼できる史料に基づいて読み解くことを目的としており、その中で氏純の記述も再検討されている 7 。特に、築山殿の母が今川義元の妹ではないという黒田氏の新説 37 や、氏純の没年に関する新たな史料の発見 4 は、従来の関口氏純像、ひいては築山殿や徳川家康に関する歴史認識にも大きな影響を与えている。
現代の研究、特に黒田基樹氏の著作 4 は、関口氏純や築山殿に関する従来の「生得悪質、嫉妬深き御人也」といった後世の史料による負の評価 43 や「悲劇の人物」という固定観念を、史料に基づき再検討している。これにより、歴史上の人物が持つ多面性や、後世の創作によって形成されたイメージとの乖離が明らかになる。これは、歴史学が常に新たな史料の発見と批判的分析によって進化し続ける学問であることを示している。関口氏純の生涯は、単一の物語として語られるのではなく、複数の史料と解釈の層を持つ複雑な歴史的事実として理解されるべきである。現代の研究は、彼の人物像だけでなく、今川氏と徳川氏の関係性、さらには戦国時代の政治構造そのものに対する理解を深める上で不可欠であり、歴史学の進歩が過去の認識をいかに変えうるかを示す好例である。
本報告書は、戦国時代の今川家臣「関口氏広」について、その実名が「氏純」である可能性が高いこと、そして従来の「永禄5年(1562年)自害説」が近年の史料研究によって否定され、少なくとも永禄6年閏12月26日までは生存していたことが明らかになった点を中心に考察した。
関口氏純は、今川氏の「御一門衆」という高い家格に位置し、室町幕府の奉公衆も務めるなど、今川氏政権の要として重要な役割を担っていた。特に用宗城主としては、今川水軍の拠点という戦略的要衝を任されており、単なる姻戚関係の人物に留まらない実務能力と地位を有していたことが示唆される。
徳川家康との婚姻は、今川氏が家康を単なる人質ではなく、三河支配における重要な存在として厚遇していた証拠であり、従来の「家康苦難の人質時代」という認識に新たな視点を提供する。桶狭間の戦い後の今川氏の衰退と家康の離反という激動の中で、氏純は今川氏真に疑われつつも、直ちに処罰されたわけではなく、所領の一部返上という形で責任を負いながらも、今川氏への忠誠を保ち続けた可能性が高い。
現代の研究、特に黒田基樹氏による築山殿に関する研究は、関口氏純の人物像、ひいては戦国時代の今川・徳川関係の理解を大きく更新している。これは、歴史記述が後世の政治的意図によって形成される側面があることを示し、史料批判の重要性を改めて浮き彫りにするものである。関口氏の家系も、政治的支配権の喪失後も出家や武術の継承といった形で存続しており、戦国時代の「滅亡」が必ずしも血筋の断絶を意味しない多様な家名存続の形態を示している。
関口氏純の生涯は、単なる歴史上の脇役ではなく、激動の時代において複雑な立場を生き抜き、その存在が後世の歴史認識に大きな影響を与えた多面的な人物として再評価されるべきである。未解明な点も依然として存在するが、今後も新たな史料の発見と学術的検証によって、その実像はさらに深掘りされることが期待される。
年代(西暦) |
和暦 |
出来事 |
関連する史料・説 |
1520年頃 |
永正17年頃 |
瀬名氏貞の次男として誕生(兄・氏俊の生年より推測) |
4 |
不詳 |
不詳 |
今川氏の重臣・関口氏の養子となる |
3 |
不詳 |
不詳 |
今川義元の妹(または伯母/養妹)を妻とする |
2 |
不詳 |
不詳 |
用宗城主となる |
3 |
1556年 |
弘治2年 |
娘・瀬名(築山殿)が松平元康(徳川家康)に嫁ぐ |
2 |
1559年 |
永禄2年 |
孫・松平信康(竹千代)が誕生 |
2 |
1560年 |
永禄3年 |
桶狭間の戦いで主君・今川義元が討死 |
3 |
1562年 |
永禄5年 |
(旧説)今川氏真の命により自害 |
1 |
1562年 |
永禄5年5月 |
所領の一部を今川氏真に返上(氏真が天沢寺に寄進) |
4 |
1563年 |
永禄6年閏12月26日 |
「関口伊豆守氏純」の署名入り判物が現存(自害説否定の根拠) |
4 |
1564年 |
永禄7年5月 |
今川氏真の文書に「関口伊豆守」の知行に関する記載 |
4 |
1566年 |
永禄9年9月 |
今川氏真の文書に「関口伊豆守」の知行に関する記載 |
4 |
不詳 |
不詳 |
没年(永禄6年閏12月26日以降) |
4 |
不詳 |
不詳 |
子孫が出家し、駒込の禅利徳源院を建立 |
40 |
1598-1670年 |
慶長3年-寛文10年 |
子孫・関口氏心、柔術・関口新心流を開祖 |
26 |
別名 |
史料的根拠 |
現代研究による評価 |
氏純(うじずみ) |
現存文書の署名 4 |
最も信頼性の高い実名 4 |
氏広(うじひろ) |
歴史上よく知られている名 1 、一説 3 |
通称または後世の記述で広まった可能性 4 |
親永(ちかなが) |
歴史上よく知られている名 1 、資料によっては表記 3 |
今川氏の偏諱の慣例に反し、事実とは認められない可能性 4 |
義広(よしひろ) |
歴史上よく知られている名 1 、一説 3 |
通称または後世の記述で広まった可能性 4 |
氏興(うじおき) |
歴史上よく知られている名 1 、様々に実名が伝えられる中の一つ 4 |
通称または後世の記述で広まった可能性 4 |
刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう) |
官位 4 |
戦国時代には実質的な職務を伴わない名誉職 30 |
伊豆守(いずのかみ) |
官位 4 、今川氏真文書に記載 4 |
戦国時代には実質的な職務を伴わない名誉職 32 |