最終更新日 2025-06-05

阿蘇惟将

肥後の戦国武将 阿蘇惟将公に関する調査報告

1. 序論:阿蘇惟将公研究の意義と本報告書の構成

阿蘇惟将(あそ これまさ)公は、戦国時代の肥後国(現在の熊本県)において、阿蘇大宮司という宗教的権威と国人領主という世俗的権力を兼ね備えた特異な立場にありながら、激動の時代を生き抜こうとした人物です。しかしながら、隣接する薩摩国の島津氏や肥前国の龍造寺氏といった強大な戦国大名の影に隠れがちであり、その実像については未だ十分に解明されているとは言えません。本報告書は、現存する史料を博捜し、惟将公の生涯、特にその政治・軍事・外交における判断と行動、そして彼を支えた重臣・甲斐宗運(かい そううん)の役割を明らかにすることで、戦国期九州における地域権力の動態の一端を解明することを目的とします。

阿蘇氏に関する研究は、阿蘇神社宮司家に伝来した「阿蘇家文書」 1 などを中心に進められてきましたが、惟将公個人に焦点を当てた包括的な研究は多くありません。本報告書では、これらの一次史料に加え、関連する編纂史料、記録、研究論文 3 などを横断的に検討します。

本報告書は、まず惟将公の生きた時代背景と阿蘇氏の状況を概観し、次に阿蘇大宮司としての側面、武将としての側面(領国経営、合戦、甲斐宗運との関係)、そして周辺勢力との外交戦略を詳述します。最後に、惟将公の死と阿蘇氏のその後を追い、その歴史的評価を試みます。

2. 阿蘇惟将公の生涯と時代背景

2.1. 出自と阿蘇氏の概要:肥後国における阿蘇氏の歴史的地位と戦国期の状況

阿蘇氏は、古代より阿蘇山の祭祀を司り、肥後国において強大な影響力を持った一族です 7 。阿蘇神社大宮司職を世襲し、単なる宗教的権威に留まらず、広大な社領を支配する武士団の棟梁としての性格も有していました 7 。その勢力基盤は肥後平野にまで及んでいたとされます 7

しかし、南北朝時代には一族が分裂し 7 、室町時代後半から戦国時代にかけては、同じ肥後国内の有力氏族であった菊池氏の衰退 11 や周辺の国人領主の台頭、さらには豊後国(現在の大分県)の大友氏、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の島津氏といった外部勢力の進出により、その勢力は相対的に不安定な状況に置かれていました。阿蘇氏は、これらの勢力との間で離合集散を繰り返しながら、独立を維持しようと努めていました 12 。菊池氏の衰退に乗じて、阿蘇氏が所領を奪い勢力拡大を図った側面も指摘されています 11

阿蘇氏の権力は、阿蘇神社の宗教的権威と、大宮司家を中心とする武士団の軍事力という二本の柱に支えられていました。この二重性は、平時には広範な影響力を行使する源泉となりました。しかし、戦国乱世という実力が全ての時代においては、宗教的権威だけでは軍事的な脅威に対抗できず、また武士団としての結束も内紛や外部勢力の調略によって揺らぎやすいという脆弱性を内包していました。阿蘇氏が南北朝期に分裂した史実 7 や、戦国期に大友氏や島津氏といったより強大な軍事力を持つ勢力に翻弄された事実 12 は、この脆弱性の一端を示していると考えられます。権力基盤の二重性は強みであると同時に、時代の変化に対応しきれない場合の弱点にもなり得たのです。

2.2. 惟将公の生誕、幼名、家督相続に至る経緯

阿蘇惟将公は、永正17年(1520年)、阿蘇惟豊(これとよ)公の子として誕生しました 13 。幼名は千寿丸(せんじゅまる)と伝えられています 14 。父・惟豊公は、戦国期の阿蘇氏の勢力維持・拡大に努めた人物であり 16 、惟将公もその薫陶を受けて成長したと考えられます。

惟将公の初陣は、御船房行(みふね ふさゆき)討伐戦とされ、この時、父・惟豊公の命により総大将を務め、甲斐親直(ちかなお)(後の宗運)が補佐役として活躍しました 14 。初陣の年については、天文5年(1536年)に17歳であったとする説 15 と、天文10年(1541年)とする説 14 があります。 17 は天文10年時点で千寿丸(惟将)が13歳であったとしており、1520年生まれであれば1536年は17歳、1541年は22歳となるため、史料間で若干の齟齬が見られますが、いずれにしても若年での出陣であったことがうかがえます。

この初陣での経験は、惟将公にとって極めて重要なものでした。父の命とはいえ一軍の将として実戦を経験し、そこで甲斐宗運という有能な家臣の補佐を受けて勝利を得たことは、その後の彼の武将としての資質形成、および宗運への深い信頼関係を築く上で大きな影響を与えたと考えられます。総大将という立場は大きな責任を伴いますが、宗運の的確な補佐と戦功は、惟将公が彼の能力を間近で認識し、頼りにするきっかけとなったことでしょう。後の惟将公の治世において甲斐宗運が一貫して重用された事実 14 は、この初陣での共闘経験が強固な主従関係の出発点であったことを示唆しています。

永禄2年(1559年)、父・惟豊公の死去に伴い、惟将公は家督を相続し、阿蘇大宮司となりました 14

2.3. 当時の九州、特に肥後国の政治・軍事情勢

惟将公が家督を相続した頃の九州は、豊後の大友義鎮(宗麟)、薩摩の島津貴久・義久、肥前の龍造寺隆信といった有力大名が覇権を争う群雄割拠の時代でした 12

肥後国はこれらの強国に挟まれた地政学的に困難な位置にあり、国内には阿蘇氏の他にも相良氏や名和氏、城氏、隈部氏といった国人領主が割拠し、彼らは時に連携し、時に敵対しながら、それぞれの勢力維持を図っていました 11

特に、天正6年(1578年)に日向国(現在の宮崎県)高城川原で行われた耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると、九州の勢力図は大きく変動し、島津氏の肥後への圧力が一層強まりました 12

表1:阿蘇惟将公 略年表

西暦(和暦)

年齢(推定)

主要な出来事

関連人物

典拠資料ID

1520年(永正17年)

1歳

誕生(幼名:千寿丸)

父:阿蘇惟豊

13

1536年(天文5年)

17歳

(説)初陣:御船房行討伐(総大将)

阿蘇惟豊、甲斐親直(宗運)

15

1541年(天文10年)

22歳

(説)初陣:御船房行討伐(総大将)

阿蘇惟豊、甲斐親直(宗運)

14

1546年~1549年(天文15年~18年)

27歳~30歳

隈之庄の戦い(甲斐宗運に隈庄守昌討伐を命じる)

甲斐宗運、隈庄守昌

18

1559年(永禄2年)

40歳

父・惟豊死去に伴い家督相続、阿蘇大宮司となる

阿蘇惟豊

14

1578年(天正6年)

59歳

耳川の戦い(大友氏が島津氏に敗北)

大友宗麟、島津義久

12

1580年(天正8年)

61歳

且過瀬の戦い(甲斐宗運が肥後国人衆連合軍に勝利)

甲斐宗運

18

1581年(天正9年)

62歳

甲斐宗運、龍造寺氏に臣従。響野原の戦い(甲斐宗運が相良義陽を破る)

甲斐宗運、龍造寺隆信、相良義陽

12

1582年(天正10年)

63歳

甲斐宗運、島津氏に和睦を申し入れ(交渉難航)

甲斐宗運、島津義久

18

1583年(天正11年)

64歳

死去

12

3. 阿蘇大宮司としての惟将公

3.1. 阿蘇神社の神威と大宮司の宗教的・政治的役割

阿蘇神社は、肥後国一宮として 24 、古来より崇敬を集め、その祭祀を司る阿蘇大宮司は、単なる神官に留まらず、広大な社領を有し、地域社会に大きな影響力を持つ存在でした 8 。大宮司は、祭祀の執行者であると同時に、社領の統治者、時には軍事指揮官としての役割も担い 9 、その権威は宗教的なものと世俗的なものが不可分に結びついていました。

阿蘇大宮司の地位は、神に仕える「聖」と領地を治める「俗」の両面を併せ持つものでした。この両面性は、中世においては阿蘇氏の権力基盤を強固なものにしましたが、戦国時代に入り、実力主義が横行するようになると、そのバランスが崩れ、宗教的権威だけでは領国を維持することが困難になっていったと考えられます。惟将公の父・惟豊公の時代には、この宗教的権威を外交に活用する場面も見られました。例えば、島津氏との交渉において神官としての装束で臨み、祝詞を奏上することで宗教的威厳を示し、尊敬を勝ち得たとされます 9 。これは、大宮司の宗教的権威が外交カードとして機能し得たことを示唆します。しかし、惟将公の時代には、より直接的な軍事力や外交戦略の巧拙が阿蘇氏の存亡を左右するようになっていったと推察されます。戦国時代が進むにつれて、阿蘇大宮司の権力構造において「俗」の比重が増し、宗教的権威はそれを補完する、あるいは最後の拠り所としての意味合いを強めていったと言えるでしょう。

3.2. 惟将公の時代の阿蘇神社の影響力(史料に基づく考察)

惟将公の時代においても、阿蘇神社は肥後国内で依然として大きな宗教的影響力を有していたと考えられます。阿蘇十二神への信仰は地域に深く根付いており 10 、大宮司家はその祭祀権を掌握することで、領民に対する精神的な支配力を維持していました。阿蘇神社が全国約450社の総本社であり、古代からの有力氏族である阿蘇氏が大宮司を務めてきたという事実は 24 、その伝統的な権威の大きさを物語っています。また、阿蘇神社の信仰の内容が火山神と地域祖霊社の合体したものであること 10 は、その広範な信仰基盤を示唆しています。

しかしながら、戦国末期の政治的混乱、特に豊臣秀吉による九州平定と旧勢力否定の政策は、阿蘇大宮司家の政治的衰退を招き、結果として阿蘇神社の組織や経済基盤にも大きな打撃を与えました 10 。惟将公の死後、その影響は顕著になります。

3.3. 惟将公自身の宗教的活動に関する記録(現存史料の範囲で)

阿蘇惟将公自身が、大宮司として具体的にどのような祭祀を執り行い、神社運営に関与したかを示す直接的な史料は、今回の調査範囲では限定的です。阿蘇惟豊の幼少期や初陣について「神職として祭祀を執り行いながらも」といった記述があり 9 、大宮司家の子弟が神事と武芸の両方を学ぶ慣習があったことを示唆しており、惟将公も同様であったと考えられます。

「阿蘇家文書」 1 や「甲斐家文書」 25 などには、阿蘇氏やその家臣が関与した宗教的活動(祈祷、神社の勧請など)に関する断片的な情報が含まれている可能性がありますが、惟将公個人の活動に特化した記録の特定は困難です。大宮司としての立場上、阿蘇神社の主要な祭祀には関与していたと考えるのが自然ですが、その具体的な内容については、今後の史料発見や「阿蘇家文書」等のより詳細な分析が待たれます。

4. 武将としての惟将公:領国経営と合戦

4.1. 岩尾城主としての統治(史料に基づく考察、ユーザー様ご提供情報との比較検討)

ユーザー様ご提供情報では、阿蘇惟将公は「岩尾城主」とされています。史料においても、岩尾城は中世阿蘇氏の本拠地であり 5 、島津軍が「阿蘇氏の居城・岩尾城を攻め」たという記述が見られる 12 など、岩尾城が阿蘇氏にとって重要な拠点であったことは明らかです。

一方で、「岩尾城主 黑仁田豊後守」という記述 26 や、甲斐親直の弟・親房が「矢部の岩尾城の番将を勤めた」という伝承 19 も存在します。これは、阿蘇氏の宗家が直接統治する城と、家臣に守らせる城があった可能性、あるいは時期によって城主が変遷した可能性を示唆します。

阿蘇惟将公が大宮司として阿蘇氏の惣領であったことから、本拠地である岩尾城の事実上の支配者であった可能性は高いと考えられます。しかし、常に直接城主として在城していたか、あるいは特定の家臣を城代として配置していたかは、史料によって解釈が分かれる可能性があります。阿蘇氏が岩尾城を本拠としつつも、その城主名に家臣の名が見られることは、戦国大名によく見られる本拠地と支城の役割分担、あるいは家臣への知行地としての付与といった統治システムの一環であったかもしれません。惣領である惟将公が全体の指揮を執りつつ、重要な拠点である岩尾城の日常的な管理や防衛を信頼できる家臣に委ねていた、もしくは功績のあった家臣に一時的に城主としての地位を与えていたとも考えられます。これは、限られたリソースの中で広範な領地を維持するための現実的な策であり、家臣団の統制にも利用された可能性があります。岩尾城の城主名の変遷は、阿蘇氏の柔軟な領国経営と家臣統制の一端を示すものと解釈できるでしょう。

4.2. 重臣・甲斐宗運(親直)の登用とその役割

4.2.1. 宗運の人物像と軍事的・外交的手腕

甲斐宗運(本名:親直)は、阿蘇惟豊・惟将・惟種の三代に仕えた重臣です 18 。その出自は甲斐親宣の子で 18 、阿蘇家において父の代から重用されていました 17

「生涯60戦無敗」とも称される優れた武将であり 20 、天文10年(1541年)の御船房行討伐(木倉原の戦い)で軍功を挙げ、御船城主となりました 17 。軍事面だけでなく、外交手腕にも長けており、大友氏、龍造寺氏、島津氏といった強大な勢力の間を渡り歩き、阿蘇氏の存続に尽力しました 12 。島津義久の家老・上井覚兼は、宗運を「武略の人」(駆け引き上手で抜け目ないしたたかな人)と評しています 20

一方で、阿蘇家への忠誠心は極めて強く、主家を裏切ろうとする者や政策に背く者に対しては、実の子や娘婿であっても容赦なく粛清するという厳しい一面も持っていました 18

4.2.2. 惟将公と宗運の連携関係

阿蘇惟将公は、家督相続後、甲斐宗運を重用し続けました 14 。これは、初陣での共闘経験や、宗運の持つ卓越した軍事・外交能力への信頼に基づいていたと考えられます。宗運は、惟将公の「筆頭老者」 27 として、阿蘇氏の意思決定に深く関与し、対外的には阿蘇氏の代表として交渉の矢面に立つこともありました 18 。惟将公の治世における阿蘇氏の領国維持は、宗運の補佐なしには考えられず、両者は極めて緊密な連携関係にあったと推察されます 17

阿蘇惟将公の治世は、彼個人のリーダーシップと、甲斐宗運という稀代の家臣の能力が噛み合った「二人三脚」の体制によって特徴づけられます。惟将公が宗運に大幅な権限を委譲し、その能力を最大限に活用したことが、強大な周辺勢力に囲まれながらも阿蘇氏が一定期間独立を保ち得た最大の要因であったと考えられます。逆に言えば、この体制は宗運個人の力量に大きく依存しており、彼の死が阿蘇氏の急激な弱体化に直結したことからも、その重要性が浮き彫りになります。

4.3. 主要な合戦(木倉原の戦い等)における惟将公の指揮と宗運の活躍

  • 木倉原の戦い(天文10年/1541年、または天文5年/1536年) :御船城主・御船房行が島津氏に内通して阿蘇氏に反旗を翻した際、阿蘇惟豊は嫡男・千寿丸(惟将)を総大将とし、甲斐親直(宗運)を補佐役(侍大将)として討伐を命じました 14 。宗運の機略により阿蘇軍は勝利し、房行を自刃させ、御船城を奪取。この功により宗運は御船城主となりました。
  • 隈之庄の戦い(天文15年~18年/1546年~1549年) :宗運の娘婿である隈庄守昌が島津氏に内通したため、惟将は宗運に討伐を命じました。宗運は守昌を破りましたが、隈庄城はすぐには落城せず、天文18年に諸将を動員して攻略し、守昌一族を誅殺しました 17
  • 且過瀬の戦い(天正8年/1580年) :龍造寺氏に従属した隈部氏ら肥後国人衆と、島津氏に従属した名和氏らが連合して阿蘇氏打倒の兵を挙げた際、宗運は嫡男・親英と共にこれを迎え撃ち、白川且過瀬で大勝利を収めました 17
  • 響野原の戦い(天正9年/1581年) :島津氏の命を受けた相良義陽が阿蘇領に侵攻。宗運は寡兵ながら濃霧を利用した奇襲戦法で相良軍本陣を強襲し、総大将・相良義陽を討ち取りました 12

これらの合戦の多くで、惟将公は総大将としての立場にありましたが、実際の作戦指導や戦闘の指揮は甲斐宗運が中心となって行ったと記述されています。

4.4. 領国経営に関する政策(史料が許す範囲での考察)

阿蘇惟将公の具体的な領国経営政策に関する直接的な史料は、今回の調査では極めて限定的です 30 。阿蘇大宮司家は伝統的に広大な社領を有しており 10 、その管理・運営が領国経営の中心であったと考えられます。これには、年貢収取、寺社への寄進、家臣への知行配分などが含まれていたと推察されます。阿蘇惟豊の事例では、戦乱で荒れた田畑の復興、疫病への対策、社殿の修繕といった民政に力を注いだ記述があり 9 、惟将公の時代もある程度同様の取り組みが行われていた可能性はありますが、具体的な記録は見当たりません。戦国時代の地方領主の領国経営に関する一次史料は全般的に乏しく、特に阿蘇氏のような中小規模の勢力については詳細な記録が残りにくい傾向があります。

表2:甲斐宗運(親直)主要事績表

年代

事績(合戦、外交、内政関連)

阿蘇惟将公との関連(命令、補佐等)

典拠資料ID

大永3年(1523年)

菊池武包討伐(初陣、父・親宣に従う)

(惟将公家督相続前)

18

天文10年(1541年)頃

御船房行討伐(木倉原の戦い)で軍功、御船城主となる

惟将公(千寿丸)を総大将として補佐

17

天文15年~18年(1546年~1549年)

隈庄守昌討伐(隈之庄の戦い)

惟将公の命令

17

天文15年(1551年)

大友義鎮の肥後出兵に案内役として従軍

惟将公の指示(阿蘇氏として大友氏に従軍)

18

天正6年(1578年)以降

大友氏との同盟維持に努める(耳川の戦い後)

惟将公の外交方針に沿う

18

天正8年(1580年)

且過瀬の戦いで肥後国人衆連合軍を破る

惟将公の指揮下で戦闘

17

天正9年(1581年)

龍造寺氏に人質を送り臣従

惟将公の判断に基づく外交転換を主導

18

天正9年(1581年)

響野原の戦いで相良義陽を破る

惟将公の指揮下で戦闘

12

天正10年(1582年)

島津氏に和睦を申し入れ、交渉(難航)

惟将公の意向を受け、外交交渉を主導

17

天正12年or13年(1584or1585年)

死去

5

5. 激動の外交戦略:大友・龍造寺・島津との関係

表3:阿蘇惟将公期の阿蘇氏と主要関連勢力関係一覧

対象勢力

関係性の変遷

主な出来事

期間

甲斐宗運の関与

典拠資料ID

大友氏

従属・同盟 → 関係希薄化

肥後出兵に従軍、耳川の戦い後の大友氏衰退

惟将公治世初期~天正9年(1581年)頃

案内役、同盟維持努力、見限り判断

12

龍造寺氏

対立の可能性 → 従属 → 関係消滅

龍造寺氏台頭、人質提出し臣従、沖田畷の戦い後の龍造寺氏弱体化

天正9年(1581年)頃~天正12年(1584年)頃

臣従交渉を主導

12

島津氏

対立・警戒 → 和平交渉 → 侵攻・滅亡

勢力拡大、響野原の戦い、和睦交渉、阿蘇領侵攻

惟将公治世全般(特に後期)

響野原の戦い指揮、和睦交渉主導

5

相良氏

同盟の可能性 → 対立(島津氏の介入)

響野原の戦い

天正9年(1581年)

響野原の戦い指揮

12

5.1. 大友氏との関係:従属と同盟の狭間で

阿蘇氏は伝統的に、より強大な勢力である豊後の大友氏に対して従属的な立場を取ることが多い状況にありました 12 。阿蘇惟将公も、家督相続当初は父・惟豊公以来の大友氏との関係を維持し、島津氏や龍造寺氏の圧迫に対抗しようとしました 14 。天文15年(1551年)、大友義鎮(宗麟)が肥後鎮定のために出兵した際には、阿蘇氏はこれに従い、甲斐宗運を案内役として派遣しています 18

しかし、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると 12 、大友氏の肥後における影響力は著しく低下。これにより、阿蘇氏を含む肥後の国人衆は新たな対応を迫られました。甲斐宗運は、この状況変化を受け、天正9年(1581年)春には大友氏に見切りをつけ、龍造寺氏への従属へと舵を切ります 18

5.2. 龍造寺氏の台頭と和平交渉:甲斐宗運の役割と惟将公の判断

耳川の戦い後、肥前で龍造寺隆信が急速に勢力を拡大し、肥後へも影響を及ぼし始めました 12 。阿蘇惟将公は、大友氏の衰退と島津氏の脅威増大という状況下で、龍造寺氏に従属することで島津氏に対抗しようとしました 12 。この外交方針転換には、甲斐宗運の進言と判断が大きく影響したと考えられます。天正9年(1581年)春、甲斐宗運は龍造寺氏に人質を送り、臣従を誓いました 18

大友氏の衰退後、阿蘇氏が龍造寺氏に従属したのは、強大化する島津氏に対抗するための「敵の敵は味方」という論理に基づく、短期的な勢力均衡戦略でした。甲斐宗運の現実的な判断がここでも見て取れます。しかし、この戦略は龍造寺氏の勢力維持が前提であり、天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れて戦死すると、龍造寺氏は急速に弱体化し、島津氏に屈服。これにより、龍造寺氏に従属していた阿蘇氏は肥後で孤立する状況に陥りました 12 。これは、中小勢力が大勢力の動向に翻弄される戦国時代の厳しさを示すと同時に、一つの勢力に依存する外交戦略の危うさをも示しています。龍造寺氏への従属は一時的な延命策としては有効であったかもしれませんが、長期的な安定を保証するものではなく、外部環境の急変によって破綻するリスクを内包していたのです。龍造寺氏との「和平交渉」の具体的な内容や経緯、惟将公自身の関与の度合いを示す詳細な史料は、今回の調査範囲では見当たりませんでした。

5.3. 島津氏の勢力拡大と和平交渉:領国維持のための苦心

5.3.1. 交渉の経緯、内容、結果

耳川の戦い以降、島津氏の肥後への圧力は増大し続け、阿蘇氏は常にその脅威にさらされていました 5 。甲斐宗運は、龍造寺氏への従属と並行して、島津氏との直接的な衝突を避けるための外交交渉も模索していました。天正9年(1581年)の響野原の戦いで相良義陽を破った後も、阿蘇氏単独で島津氏と渡り合うことは困難であると認識していました 18

天正10年(1582年)冬、宗運は島津氏に和睦を申し入れましたが、島津側が提示した条件を履行せず、逆に阿蘇氏旧領の返還を要求するなど強気の交渉を行い、交渉を難航させました 18 20 では、宗運が島津氏に降伏の意思を伝えつつも、領地返還を求め、結局何も進展させずに島津側を困惑させた逸話が紹介されており、彼のしたたかさがうかがえます。

しかし、惟将公の死(天正11年/1583年)、弟・惟種の早逝(同年)、そして甲斐宗運の死(天正12年/1584年または天正13年/1585年。 5 では1585年説が有力)が相次ぎ、阿蘇家の屋台骨は大きく揺らぎました。

天正13年(1585年)潤8月、島津軍は阿蘇領内への本格侵攻を開始 5 。幼少の当主・阿蘇惟光では対抗できず、阿蘇氏は降伏。惟光は母と共に目丸山へ逃亡し 5 、ここに戦国大名としての阿蘇氏は事実上滅亡しました 12 。島津氏との具体的な和平交渉の条文や、惟将公が直接関与した記録は、今回の調査範囲では確認できませんでした。

5.3.2. 甲斐宗運および惟将公自身の関与の度合い

島津氏との外交交渉においては、甲斐宗運が中心的な役割を担っていたことが諸史料から明らかです 18 。彼の「武略」 20 をもって、阿蘇氏の命脈を保とうと腐心しました。阿蘇惟将公自身の具体的な関与の度合いについては、史料上明確ではありません。しかし、阿蘇氏の当主として、宗運からの報告を受け、最終的な意思決定に関与していたと考えるのが自然です。惟将が宗運を重用し、大友氏と結んで独立維持を図ったという記述 14 は、外交方針の決定に関与していたことを示唆します。

甲斐宗運は、島津氏との和睦交渉において、旧領返還要求など、あえて困難な条件を提示することで交渉を長引かせる「遅滞戦術」を用いたと考えられます。これは、阿蘇氏にとって不利な状況下で、少しでも有利な条件を引き出す、あるいは外部情勢の変化(例えば豊臣秀吉の中央での台頭など)を待つための時間稼ぎであった可能性があります。しかし、この戦術は宗運個人の力量に依存しており、彼の死によってその効果は失われ、島津氏の本格侵攻を招いた一因となったとも言えます。この「遅滞戦術」は、絶望的な状況下での苦肉の策であり、一定期間は機能したものの、彼の死というアクシデントによって破綻し、阿蘇氏の命運を左右する結果となったのです。

6. 惟将公の死と阿蘇氏のその後

6.1. 惟将公の死没(1583年)とその影響

阿蘇惟将公は、天正11年(1583年)に死去しました 12 。享年64歳(数え年)。惟将公の死は、ただでさえ島津氏や龍造寺氏の圧迫に苦しんでいた阿蘇氏にとって、大きな打撃となりました。特に、長年にわたり阿蘇氏を支えてきた甲斐宗運との連携が失われたことは、その後の阿蘇氏の運命に決定的な影響を与えたと考えられます。

6.2. 弟・阿蘇惟種の家督相続と早逝、甲斐宗運の死

惟将公の死後、家督は弟の阿蘇惟種(これたね)公が継ぎました 12 。しかし、惟種公も家督相続後わずか1ヶ月 12 または数ヶ月で病没してしまいます。さらに、阿蘇氏の柱石であった甲斐宗運も、天正12年(1584年)または天正13年(1585年)に死去しました 5 。宗運の死因については病死説の他に、孫娘による毒殺説も伝えられています 18

阿蘇惟将、弟の惟種、そして甲斐宗運という、阿蘇氏の政治・軍事・外交を担ってきた中核的人物たちが、わずか1~2年という短期間に相次いで死去したことは、阿蘇氏の指導者層の完全な崩壊を意味しました。これにより、阿蘇氏は内外の危機に対応する能力を著しく低下させ、島津氏の侵攻に対して有効な手を打つことができなくなったと考えられます。これは、特定の個人の能力に依存した組織の脆弱性を示す典型例と言えます。この権力中枢の空白が、島津氏の侵攻を容易にし、阿蘇氏滅亡を早めた直接的な原因となったと推論されます。

6.3. 幼君・阿蘇惟光の擁立と阿蘇家の弱体化

惟種公の死後、その子である阿蘇惟光(これみつ)がわずか2歳 12 または3歳 5 で阿蘇大宮司家の家督を継ぎました。甲斐宗運が存命中は、幼少の惟光を補佐しましたが 12 、その宗運も間もなく死去。阿蘇家は指導者を欠き、著しく弱体化しました。

6.4. 島津氏による肥後侵攻と阿蘇氏の終焉

阿蘇氏の弱体化を好機と見た島津義久は、天正13年(1585年)潤8月、阿蘇領への本格的な侵攻を開始しました 5 。甲斐宗運の子・甲斐親英(ちかひで/そうりゅう)らが抵抗を試みましたが 12 、島津軍の圧倒的な兵力の前に次々と拠点を失い、降伏。当主・阿蘇惟光は母や弟・惟善と共に目丸山へ逃亡し 5 、これにより戦国大名としての阿蘇氏は事実上滅亡しました。

その後、惟光は豊臣秀吉による九州平定後に佐々成政、次いで加藤清正の監察下に置かれ、わずかな領地を与えられましたが、文禄元年(1593年)の梅北一揆に連座したとの疑いで、花岡山で斬首されました 38 。豊臣秀吉の九州平定後、天正15年(1587年)に肥後国で発生した国衆一揆には、旧阿蘇氏家臣団も一部参加したとされ 41 、これは阿蘇氏滅亡後の旧臣たちの動向を示すものとして注目されます。

7. 結論:阿蘇惟将公の歴史的評価

7.1. 困難な時代における領国維持の努力と限界

阿蘇惟将公は、九州の戦国動乱期という極めて困難な時代において、阿蘇大宮司という伝統的権威と、甲斐宗運という有能な家臣の力を借りながら、巧みな外交戦略と軍事行動によって、約24年間にわたり阿蘇氏の独立と領国を維持しようと努めました。大友氏への従属から龍造寺氏への転属、そして島津氏とのギリギリの交渉は、中小勢力が生き残りをかけて必死に模索した現実的な対応策であったと評価できます 12

しかし、周辺強国の圧倒的な力の前に、そして何よりも惟将公自身と後継者、さらには甲斐宗運というキーパーソンの相次ぐ死によって、その努力は最終的に実を結ばず、阿蘇氏は戦国大名としての命運を絶たれることになりました。これは、個人の力量や一時的な戦略の成功だけでは抗い難い、戦国時代の非情な現実を示すものです。

7.2. 後世への影響と研究課題

阿蘇惟将公の治世は、戦国期九州における地域権力の興亡を理解する上で、また、宗教的権威と世俗権力が交錯する「神主大名」の特質を考察する上で、重要な事例を提供します。甲斐宗運という家臣の存在が、主家の存続にどれほど大きな影響を与え得るかという点も、戦国時代の主従関係を考える上で示唆に富みます。

今後の研究課題としては、以下の点が挙げられます。

  • 「阿蘇家文書」や関連史料の更なる詳細な分析を通じた、惟将公自身の具体的な政治・軍事・宗教活動の解明。
  • 惟将公の領国経営の実態に関する史料の探索と分析。
  • 岩尾城をはじめとする阿蘇氏の城郭支配体制の具体的な様相の復元。
  • 阿蘇惟将公と甲斐宗運の間の、より具体的な意思決定プロセスや人間関係についての考察。

阿蘇氏関連の史料(系図など)には後世の編纂や評価が加わっている可能性も指摘されており 43 、史料批判の重要性は言うまでもありません。「阿蘇家文書」 1 や「甲斐家文書」 25 などの一次史料群の丹念な読解が、今後の研究進展に不可欠です。

引用文献

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