本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、南奥州の激動と近世社会への移行期をその一身で体現した武将、須田盛秀(すだ もりひで)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明するものである。二階堂家家老として主家の危機を支え、伊達政宗との死闘の末に主家を失うも、新天地である佐竹家で藩の礎を築くという彼の軌跡は、単なる一武将の物語に留まらない。それは、滅びゆく者への「忠義」と、新しい時代を築く「実務能力」という、戦国から近世への転換期に求められた二つの価値観を両立させた、稀有な生涯の記録である 1 。
利用者様がご存知の概要、すなわち「二階堂家家老、主君亡き後の城代、伊達政宗との対立、佐竹家への仕官」という情報を出発点とし、本報告は彼の出自、二階堂家中の複雑な政治力学、伊達政宗との対立の深層、そして佐竹家臣としての驚くべき再生と統治者としての功績、さらには後世に与えた影響に至るまで、その多面的な実像を深く掘り下げる。
報告書の構成は、「第一部:二階堂家臣としての須田盛秀」「第二部:伊達政宗との死闘」「第三部:佐竹家臣としての再生」の三部構成を軸とし、彼の生涯を時系列に沿って解き明かす。これにより、須田盛秀という一人の人間の生涯を通して、戦国末期の南奥州における権力闘争の実態と、近世大名家の成立過程を浮き彫りにすることを目的とする。
須田盛秀の生涯における主要な出来事を時系列で整理し、報告書全体の時間的枠組みを以下に示す。
年号(西暦) |
盛秀の動向・関連事項 |
関連する周辺の出来事 |
(生年不詳) |
須田盛秀、誕生。 |
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天正9年(1581) |
主君・二階堂盛義が病死 3 。 |
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天正10年(1582) |
盛義の子・行親が急逝。盛秀、大乗院(阿南姫)を補佐し実質的な城代となる 3 。 |
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天正17年(1589) |
10月:須賀川城攻防戦。総大将として奮戦するも落城、二階堂氏滅亡。嫡男・秀広戦死。居城・和田城を焼き払い、佐竹氏を頼り常陸へ落ちる 1 。 |
6月:摺上原の戦いで蘆名氏が伊達政宗に敗北、滅亡 1 。 |
文禄4年(1595) |
佐竹義宣に仕え、茂木城主となる。旧二階堂家臣団「茂木百騎」を預かる 1 。 |
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慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。義宣の命で先遣隊を率い、赤館城方面に進出する 9 。 |
佐竹義宣、西軍寄りの曖昧な態度を取る 9 。 |
慶長7年(1602) |
佐竹氏の出羽転封に従い秋田へ。角館城代となる 1 。 |
佐竹義宣、常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へ減転封 9 。 |
慶長8年(1603) |
横手城代に就任 1 。 |
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寛永元年(1624) |
宇都宮釣天井事件で改易された本多正純・正勝父子を横手城で預かり、監視役を務める 1 。 |
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寛永2年(1625) |
死去。戒名は傑翁宗英大禅定門。墓所は横手市の金剛山天仙寺 1 。 |
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須田盛秀が二階堂家において絶大な影響力を行使し得た背景には、彼個人の能力に加え、須田一族が岩瀬郡に築いてきた長年にわたる歴史的・地理的基盤が存在した。彼の権力は、主家から与えられた家老という地位のみならず、その土地に深く根差した在地領主としての権威に支えられていたのである。
須田氏は、清和源氏義綱流を称する名門の家柄と伝わる 16 。その祖とされる須田秀範は、文治5年(1189年)の源頼朝による奥州藤原氏追討に従軍し、その功績により建久7年(1196年)、陸奥国岩瀬郡和田(現在の福島県須賀川市和田)の地を与えられ、和田城を築いて本拠とした 2 。この伝承が正しければ、須田氏は鎌倉幕府成立期から同地に根を下ろした、由緒ある在地領主であったことになる。
須田氏が二階堂家の家臣筆頭となるのは、15世紀半ばのことである。室町幕府の命により二階堂為氏が須賀川に入部し、在地勢力を平定して須賀川二階堂氏を興した際、当時の和田城主であった須田秀一が為氏に協力した 7 。この功により、須田氏は二階堂家の家老職を世襲する家柄となり、両者は単なる主従関係を超えた、領国経営における重要なパートナーとしての関係を築いた。須田氏が二階堂氏よりも250年以上も前からこの地に根を下ろしていた「地付き」の豪族であったという事実は、二階堂氏にとって須田氏の協力が岩瀬郡統治に不可欠であったことを示唆している。
須田盛秀は、この須田家の惣領として、和田城を居城とした。彼の養父は須田秀行であったとされている 14 。居城の和田城は、須賀川市街の南東、阿武隈川に面した丘陵の先端部に位置していた 7 。しかし、その規模については、二階堂氏四天王と称された重臣の居城としては「期待があっただけに落胆の極み」「戦国大名の重臣の城ではない」といった見解もあり、大規模な要塞というよりは、物見砦や居館としての機能が主であった可能性が指摘されている 16 。これは、須田氏が須賀川城の本城機能に依存しつつ、自らの本拠地である和田周辺に集住する一族郎党を統率する、中世以来の在地領主としての性格を色濃く残していたことの証左とも考えられる。
須田盛秀の政治的手腕が最も発揮されたのは、主家である二階堂氏が存亡の危機に瀕した時期であった。相次ぐ当主の死という権力の空白期において、彼は卓越した危機管理能力と政治的リーダーシップを発揮し、事実上の国主として約8年間にわたり領国を維持した。彼の存在なくして、二階堂氏はより早期に崩壊していた可能性が高い。
二階堂家の悲劇は、天正9年(1581年)に当主・二階堂盛義が病死したことに始まる 3 。家督は次男の行親が継承したが、翌天正10年(1582年)、行親もわずか13歳で急逝してしまう 3 。長男の盛隆は、かつて人質として会津の蘆名家に送られ、その後、蘆名家の家督を継いで当主となっていたため、須賀川に戻ることはできなかった 3 。これにより、須賀川二階堂氏は後継者を失い、断絶の危機に直面した。
この未曾有の事態を収拾したのが須田盛秀であった。彼は、盛義の未亡人であり、伊達輝宗の姉、すなわち伊達政宗の叔母にあたる大乗院(阿南姫)を名目上の城主として擁立した 3 。伊達家の血を引く彼女を立てることで、形式的な正統性を確保し、伊達氏からの性急な介入を防ぐ狙いがあったと考えられる。そして、盛秀自身は「実質的な城代」として、内政から外交に至るまでの全権を掌握し、領国経営の実務を取り仕切った 3 。
城代としての盛秀は、南奥州の覇権を狙い勢力を急拡大させていた伊達政宗に対抗するため、反伊達連合の中核である常陸の佐竹義重との連携を強化する外交路線を主導した 1 。彼は二階堂家の代表として、佐竹氏や蘆名氏と共に伊達軍と対峙し、南奥州のパワーバランスを維持するために奔走した 20 。当主不在という最大の危機の中、外部の強大な圧力に晒されながらも、約8年間にわたり二階堂領の独立を保ち続けた彼の統治は、単なる家老の務めを遥かに超えるものであり、優れた政治家・戦略家としての能力を如実に示している。
天正17年(1589年)、須賀川二階堂氏を取り巻く情勢は劇的に変化する。この年の6月、摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り、会津蘆名氏を滅亡させたのである 1 。これにより、二階堂氏が長年依存してきた最大の軍事的後ろ盾が消滅し、須賀川は伊達の脅威に直接晒されることとなった。この外部環境の激変は、二階堂家中に深刻な路線対立を引き起こし、最終的に滅亡へと至る引き金となった。
この危機に際し、二階堂家中は二つに分裂した。一方は、城代・須田盛秀を筆頭とする、あくまで伊達への徹底抗戦を唱え、佐竹氏との同盟に活路を見出そうとする反伊達・親佐竹派である 1 。もう一方は、保土原行藤や箭部義政ら、もはや伊達への抵抗は無益であり、和睦あるいは服属すべきと考える親伊達派であった 4 。
伊達政宗はこの内部対立を巧みに利用した。彼は叔母である大乗院に降伏を勧告する一方で、その真の狙いは、二階堂領の併合のみならず、南奥州における自らの覇権確立の最大の障害となっている人物、すなわち須田盛秀その人を排除することにあった。須賀川城攻防戦は、単なる領土拡大戦争ではなく、政宗による周到な政治工作の最終段階であったと解釈できる。
その証拠は、政宗自身が家臣に宛てた書状の中に明確に見出すことができる。『亘理伊達家文書』に所収されている天正17年10月22日付の伊達成実宛政宗書状において、政宗は須田盛秀を「悪逆」の徒と名指しで断じ、その追放を大乗院や親伊達派の保土原行藤に要求している 1 。これは、政宗が須田盛秀個人の存在を、自らの南奥州戦略における最大の障壁と認識していたことを示している。
さらに、周辺勢力の記録も二階堂家中の複雑な内情を伝えている。白河氏家臣・一休斎善通の書状によれば、女城主・大乗院が家中の実権を完全に掌握するため、影響力の強い須田盛秀と箭部義政の両重臣を政務から排除しようと画策し、その結果として伊達方に寝返る家臣が続出した、という見方が示されている 6 。また、親伊達派であった箭部義政と、反伊達派の須田盛秀との間にも深刻な対立があったとされ、政宗は早くから箭部を評価し、その路線を妨害する須田の排除を狙っていた 1 。
これらの史料から浮かび上がるのは、須賀川城への攻撃が、外交や内部分裂工作によって「反伊達」の旗頭である須田盛秀を排除できなかった政宗の、最終手段であったという構図である。須田盛秀が徹底抗戦の道を選んだのは、降伏しても自らの政治生命、ひいては生命そのものが保証されないことを深く理解していたからに他ならない。彼にとってこの戦いは、二階堂家と自分自身の存亡をかけた、避けられない最後の抵抗であった。
天正17年(1589年)10月、伊達政宗による須賀川侵攻は現実のものとなった。21日、大乗院は城内の家臣や町民を集め、伊達軍に対する徹底抗戦を宣言する 6 。須田盛秀は、佐竹氏や岩城氏からの援軍を含む二階堂方の事実上の総大将として須賀川城に籠城し、防衛の全指揮を執った 6 。
10月26日未明、伊達軍による総攻撃が開始された。須田盛秀をはじめとする城兵は奮戦し、伊達勢を何度も押し返したが、戦況は絶望的であった。二階堂家中の分裂は、城の防衛体制に致命的な欠陥を生んでいた。親伊達派の重臣・保土原行藤は伊達軍に内応し、その先陣を務めた 21 。そして、雨呼口を守備していた守屋筑後守が裏切り、城内に火を放ったことが決定打となり、堅城と謳われた須賀川城は炎に包まれ、ついに落城した 4 。
この凄惨な戦いの中で、須田盛秀は個人的な悲劇にも見舞われる。彼の嫡男であった源一郎秀広は、この戦いで「正宗の鉄砲の的にされる」という壮絶な最期を遂げたと伝わっている 2 。主家と領民、そして最愛の息子までも失った盛秀の無念は察するに余りある。
いくつかの文献には、この戦いで須田盛秀以下の将兵全員が戦死したと記されているが、これは誤りである 1 。落城後、盛秀は辛くも城を脱出し、自らの居城であった和田城に一時退いた。しかし、もはや抵抗を続けることは不可能と悟り、追撃を振り切るために和田城に自ら火を放つと、残った家臣団を率いて、かねてより同盟関係にあった常陸の佐竹義宣を頼り、落ち延びていった 1 。こうして、鎌倉時代から続いた名門・二階堂氏は、歴史の舞台から姿を消したのである。
主家を失い、流浪の身となった須田盛秀であったが、彼の武将としての名声と能力は、新主君となる佐竹義宣によって高く評価された。義宣による盛秀の登用は、単なる敗将への温情ではなく、伊達政宗という共通の敵に対抗するための、極めて戦略的な判断であった。盛秀は亡命者から、新主君にとって不可欠な国境の守将へと、その立場を劇的に転換させることに成功する。
常陸に落ち延びた盛秀は、新参の臣であるにもかかわらず、佐竹義宣から破格の厚遇を受けた 1 。後世の伝承ではあるが、彼が「天下の三美濃」の一人として讃えられていたという逸話は、その武名が広く奥州・関東に轟いていたことを物語っている 2 。
義宣は盛秀の能力を即座に実戦で活用した。文禄4年(1595年)、盛秀は佐竹領の北西端に位置し、伊達領や那須領と境を接する軍事上の要衝・茂木城(栃木県茂木町)の城主に任じられた 1 。伊達政宗を最もよく知り、最後まで戦った経験を持つ盛秀を対伊達の最前線に配置することは、軍事的に極めて合理的な人事であった。さらに義宣は、盛秀に須賀川から付き従ってきた旧二階堂家臣ら約百騎を与え、彼の配下とした。この集団は「茂木百騎」あるいは「須賀川衆」と呼ばれ、盛秀の指揮下で高い結束力と士気を維持した 1 。これは、義宣が盛秀を単なる客将としてではなく、信頼できる独立した部隊長として処遇したことを示している。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、主君・義宣が西軍寄りの曖昧な態度を取ったため、佐竹家は徳川家康から厳しい追及を受けることになる。この緊迫した情勢の中、盛秀は義宣の命を受け、先遣隊の主将として陸奥国南郷の赤館城(福島県棚倉町)方面に軍を進めている記録が残っている 9 。これは、上杉景勝との連携を視野に入れた軍事行動であった可能性が高い。また、佐竹家が家康への恭順の意を示すため、盛秀の子を人質として江戸に差し出したという説もあり 9 、彼が佐竹家中で外交・軍事の両面において極めて重要な役割を担っていたことがうかがえる。
須田盛秀の後半生は、戦国時代の武将が、徳川幕府体制下の近世大名家臣としていかにして生き抜き、新たな価値を発揮したかを示す好例である。彼の功績はもはや戦場での武功ではなく、新天地における都市基盤整備という「文治」にあり、時代の変化に見事に対応したその能力の高さを示している。
関ヶ原の戦いの後、佐竹義宣は常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へと大減封された 9 。慶長7年(1602年)、盛秀はこの主家の移封に随行し、秋田へと向かった 2 。当初は角館城の城代を務めた後 1 、翌慶長8年(1603年)、秋田藩の南の玄関口であり、最上領や伊達領に対する最重要拠点である横手城の城代に任命された 1 。
横手の地で、盛秀は武将としてだけでなく、優れた行政官・都市計画家としての才能を存分に発揮する。彼は、かつて二階堂領を実質的に統治した経験を活かし、藩の経済的・軍事的基盤を確立するための事業を次々と断行した。
第一に、横手城の縄張り(防御計画の策定)を行い、近世城郭としての守りを固めた 2。
第二に、城下町の建設(町割り)に着手した。横手川を自然の堀として利用し、川を境に武家屋敷が広がる「内町」と、商人や職人が住む「外町」を計画的に区画整理し、現代にまで続く横手の町の骨格を築いた 2。
第三に、治水事業を行った。しばしば氾濫を起こしていた横手川の流路を一部付け替えることで、水害を防ぐと共に、家臣団の居住地を拡張することに成功した 2。
さらに、寛永元年(1624年)、盛秀には幕府に対する極めて重要な任務が課せられた。宇都宮釣天井事件で失脚し、改易・配流となった将軍徳川秀忠の元側近・本多正純と、その子・正勝を横手城で預かり、その監視役を務めることになったのである 1 。幕府の最重要政治犯の監視を任されたという事実は、佐竹藩内における盛秀の地位の高さと、主君・義宣からの絶対的な信頼を何よりも雄弁に物語っている。戦国武将・須田盛秀は、新しい時代の要請に応えることで、近世の有能な行政官僚として、その価値を再証明したのである。
須田盛秀は、寛永2年(1625年)にその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。一説には享年96という、当時としては驚異的な長寿を全うしたと伝わる 14 。彼の墓は、終焉の地である秋田県横手市に現存する金剛山天仙寺にあり、今も静かにその地を見守っている 1 。
この菩提寺である天仙寺の由来は、盛秀の人生を象徴する逸話に満ちている。この寺は、もともと須田氏が須賀川の和田に開創した菩提寺・金剛院を、盛秀が横手城代就任に伴い移したものである 2 。そして、須賀川城攻防戦で非業の死を遂げた最愛の嫡男・秀広の法号「天仙清公大禅定門」と、旧菩提寺の「金剛院」にちなみ、「金剛山天仙寺」と改名したとされている 2 。主家への忠義に生きた武将が、同時に深い父性愛の持ち主であったことを示す、感動的なエピソードである。
盛秀の功績は一代で終わらなかった。彼の死後も須田氏は秋田藩(久保田藩)の重臣として代々重きをなし、藩政を支え続けた。盛秀、盛久、盛品と三代にわたって横手城代を務めた後も 2 、一族は宿老(家老職)として藩の中枢で活躍した 2 。特に、時代が下り幕末の動乱期には、子孫の須田政三郎盛貞が秋田藩の砲術所総裁や軍事総括、さらには執政として、藩を勤皇の道へと導く上で大きな役割を果たし、維新後の秋田県の政界においても重鎮として活躍した 2 。盛秀が築いた礎は、250年以上の時を経て、日本の近代化にまで繋がっていたのである。
須田盛秀の生涯を総括すると、その人物像は二つの側面から評価できる。一つは、主家・二階堂氏の滅亡という運命に最後まで抗い、忠義を貫いた不屈の「戦国武将」としての姿。もう一つは、主家滅亡後に仕えた佐竹家において、新天地・秋田の都市基盤を築き上げた卓越した「近世行政官」としての姿である。
彼は、戦国乱世の終焉と近世封建社会の幕開けという、時代の大きな転換点をその身一つで生き抜いた。滅びゆく主君への「忠義」と、新しい時代を切り拓く「実務能力」という、一見すると相反する二つの価値観を、その生涯を通じて両立させた稀有な存在であった。須田盛秀の生涯は、単なる地方武将の記録に留まらず、時代が求める役割の変化に適応し、新たな価値を創造し続けた一人の人間の偉大な軌跡として、高く評価されるべきである。