最終更新日 2025-06-07

飯田覚兵衛

「飯田覚兵衛」の画像

飯田覚兵衛直景 ― 加藤清正を支えた知勇兼備の将、その生涯と事績

序論:飯田覚兵衛という武将

本報告の目的と意義

飯田覚兵衛、諱を直景(いいだ なおかけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、特に肥後熊本藩初代藩主・加藤清正の最も信頼篤い重臣の一人として知られる。その名は、主君清正や他の著名な戦国武将の輝かしい事績の陰に隠れがちではあるが、覚兵衛の生涯を丹念に追うことで、清正の覇業を支えた武勇、卓越した築城技術、そして揺るぎない忠誠心といった多岐にわたる彼の貢献が浮かび上がってくる。本報告は、現存する諸資料に基づき、飯田覚兵衛の出自、戦歴、技術者としての側面、人物像、さらには加藤家改易後の動向に至るまでを多角的に検証し、その歴史的実像を明らかにすることを目的とする。

覚兵衛の武勇は賤ヶ岳の戦いや朝鮮出兵における数々の戦功に、技術力は晋州城攻撃時の「亀甲車」製作や熊本城の「飯田丸」にその名を残すほどの築城術に顕著である。また、主君清正との深い絆、そして主家が改易という苦難に見舞われた後の彼の選択は、戦国末期から江戸初期にかけての武士の生き様、価値観を考察する上で貴重な事例を提供する。本報告を通じて、飯田覚兵衛という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、加藤清正という人物、ひいては当時の武家社会を理解する上でも重要な意義を持つものと考える。

史料上の注意点と本報告の範囲

飯田覚兵衛に関する一次史料は、残念ながら限定的であり、その生涯や事績の多くは、後世に編纂された軍記物、逸話集、あるいは関連する大名家の記録などに依拠する部分が少なくない。例えば、『常山紀談』のような編纂物は多くの逸話を収録しているが、その全てが史実を正確に反映しているとは限らない 1 。また、加藤清正の朝鮮出兵に関する書状 3 や肥後国に関する史料 4 も存在するが、覚兵衛個人に焦点を当てた記述は断片的である場合が多い。

本報告では、これらの史料的制約を認識しつつ、可能な限り複数の情報を照合し、客観的な記述を心がける。特に、福岡市博物館に寄託されている「飯田覚資料」は、加藤忠広期が中心となるものの、覚兵衛の晩年や加藤家改易後の状況を知る上で貴重な情報源となる 5 。本報告の範囲は、覚兵衛の生誕から死没まで、彼の軍事的功績、技術者としての業績、人物像、そして後世に残した影響や関連史跡に及ぶ。推測の域を出ない情報については、その旨を明示し、慎重な取り扱いを期すこととする。

第一部:飯田覚兵衛の生涯 ― 清正への忠誠と多才な活躍

第一章:出自と加藤清正への揺るぎなき忠誠の始まり

生誕と家系

飯田覚兵衛、諱は直景。幼名は才八、あるいは久次郎と伝えられている 6 。その生年については、永禄5年(1562年)とする説 7 と、永禄8年(1565年)とする説 6 があり、正確なところは定かではない。出身地についても、山城国山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町周辺)とする記録 7 のほか、大和国(現在の奈良県)出身とする説も存在する 6 。父は飯田直澄とされている 6

生年における数年の差異は、彼のキャリア初期、例えば天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおける年齢に影響を及ぼす。永禄5年生まれであれば21歳、永禄8年生まれであれば18歳となり、当時の武士の初陣や戦場での役割を考察する上で、若干のニュアンスの違いが生じる可能性がある。出身地とされる山城国山崎は、古来より交通の要衝であり、戦略的にも重要な地点であった。若き日の覚兵衛がこのような地でどのような薫陶を受けたのか、あるいはどのような経験を積んだのかは詳らかではないが、後の彼の多才さ、特に築城や土木といった技術に通じる素地が育まれた可能性も否定できない。

加藤清正との出会いと主従関係の原点

飯田覚兵衛の生涯を語る上で欠くことのできないのが、主君・加藤清正との強固な絆である。覚兵衛は、幼い頃から清正と共に育った竹馬の友であったとされ、その生涯を通じて清正を守り、支え続けたと伝えられる 8

彼らの主従関係の始まりについては、興味深い逸話が残されている。幼少期、剣術の試合を行い、勝った清正が主君となり、敗れた覚兵衛と森本義太夫(後の加藤家三傑の一人)が家臣となる約束を交わしたというものである 8 。この逸話は、後世の創作や脚色が加わっている可能性も指摘されるものの 10 、彼らの間に主従関係を超えた深い信頼と友情が存在したことを象徴的に示している。清正が一国一城の主となった後も、この幼き日の約束に由来する関係性は揺らぐことがなかったとされ 10 、清正の人間的魅力と、それに応えようとする覚兵衛の忠誠心の原点がここに見出せる。この個人的な絆の強さが、後の加藤家における覚兵衛の重臣としての地位と、多岐にわたる活躍の基盤となったと考えられる。

第二章:戦場を駆け抜けた武勇 ― 「加藤家三傑」としての勇名

賤ヶ岳の戦いと初期の武功

飯田覚兵衛の武将としての名が歴史の表舞台に現れるのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。この戦いにおいて、覚兵衛は主君・加藤清正の先鋒として奮戦し、武功を挙げたと記録されている 7 。清正はこの戦いで「賤ヶ岳の七本槍」の一人としてその勇名を天下に轟かせたが、その輝かしい武功の陰には、覚兵衛や森本義太夫といった信頼できる家臣たちの命を懸けた支えがあったことがうかがえる 10 。この戦いは、若き日の清正と覚兵衛が共に死線を乗り越えた原体験であり、彼らの主従の信頼関係を不動のものとした重要な戦いであったと言えるだろう。覚兵衛自身の武勇が、初めて大規模な合戦において具体的に示された機会でもあった。

天草一揆鎮圧と秀吉からの評価

賤ヶ岳の戦い以降も、覚兵衛は清正に従い各地を転戦する。天正17年(1589年)、肥後国で発生した天草国人一揆の鎮圧においても、覚兵衛は目覚ましい活躍を見せた 7 。この功績により、覚兵衛は森本一久(儀太夫)、庄林一心(隼人)と共に、豊臣秀吉から清正を通じてそれぞれ白鳥毛・黒鳥毛・白黒鳥毛の長槍を賜ったと伝えられている 7 。この三名は後に「加藤家三傑」と称され、その武勇を讃えられることになるが、この天草での戦功と秀吉からの下賜品は、その評価を確固たるものとする上で重要な出来事であった。天下人である秀吉から直接的な形で武勇を賞賛されたことは、覚兵衛個人の名誉であると同時に、加藤家内における彼の地位を一層高め、他の家臣団に対する模範ともなったであろう。これはまた、清正の家臣団統率能力の高さを示す証左とも言える。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)における死闘

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、加藤清正および飯田覚兵衛にとって、その武勇と能力を極限の状況下で試される場となった。

晋州城攻撃と「亀甲車」の独創

文禄2年(1593年)、朝鮮半島南端に位置する晋州城の攻略戦において、飯田覚兵衛はその名を一層高めることとなる。この戦いで覚兵衛は、「亀甲車(きっこうしゃ)」と呼ばれる特殊な装甲車を製作し、堅固な城壁の破壊に大きく貢献したのである 7 。この亀甲車は、牛革などで覆われ、鉄鋲を打ち付けて強度を高めた車体を有し、内部に兵士が乗り込んで城壁に接近、上からの矢や投石、熱湯などを防ぎながら、内部から大きな鉄棒槍などで石垣を突き崩すというものであったと伝えられる 12

一部の資料によれば、この亀甲車は覚兵衛が森本一久と共に考案したとも 12 、あるいは黒田家の後藤又兵衛などもその製作に関与したとの記述も見られる 12 。晋州城攻撃における「一番乗り」の功名についても、加藤家の資料では飯田覚兵衛の名が挙げられているのに対し、黒田家の資料では後藤又兵衛とされており、両家の間で記録に相違が見られる 12 。これは、当時の武功認定の複雑さや、各家が自家の武将の功績を強調する傾向を反映しているものと考えられる。

この晋州城での功績により、豊臣秀吉から「覚」の一字を与えられ、「覚兵衛」と名乗るようになったという説も存在するが、当時の書状などでは依然として「角兵衛」の表記が用いられていることが多いとされる 7 。いずれにせよ、亀甲車の開発と運用は、覚兵衛が単なる勇猛な武士であるだけでなく、敵の堅固な防御を打ち破るための具体的な解決策を生み出す工学的知識や創意工夫の才をも併せ持っていたことを示す重要な事例である。これは、当時の攻城戦術における技術革新の一端を示すものと言えよう。

蔚山城の戦い ― 絶体絶命の籠城戦

慶長の役(1597年~)においても、飯田覚兵衛は加藤清正に従軍し、数々の激戦を経験する。中でも蔚山城の戦いは、日本軍にとって最も過酷な戦いの一つとして知られている。慶長2年(1597年)末から翌年初頭にかけて、加藤清正らが築いた蔚山倭城は、明・朝鮮連合軍の大軍(約5万6千とされる)に包囲され、日本軍(約1万3千)は絶望的な状況下での籠城戦を強いられた 13

食料も尽き、極寒の中で飢えと戦いながらの防戦は凄惨を極めたが、清正をはじめとする将兵は奮戦し、救援軍の到着まで持ちこたえ、最終的に明・朝鮮連合軍を撃退することに成功した。この戦いにおける飯田覚兵衛の具体的な行動に関する詳細な記録は多くないものの、清正の側近として、また加藤軍の主力として、この絶体絶命の籠城戦において重要な役割を果たしたことは想像に難くない。彼の精神力、武士としての覚悟、そして極限状態での指揮能力が試された戦いであったと言えるだろう。

なお、この朝鮮出兵は、加藤清正や福島正則ら武断派と、石田三成や小西行長ら文治派の対立を決定的なものにしたとも指摘されている 13 。戦場での働きを武士の本分と考える武断派と、官僚的な実務能力を重視する文治派との間の溝は深まり、後の関ヶ原の戦いへと繋がる豊臣政権内部の不協和音を増幅させる一因となった。飯田覚兵衛もまた、このような複雑な政治的背景の中で、主君清正と共に戦っていたという事実は、彼の経験の多層性を物語っている。

第三章:卓越した技術者としての一面 ― 築城と治水に込めた才覚

飯田覚兵衛は、戦場における勇猛さで知られる一方で、土木普請、特に築城技術において卓越した才能を持っていた。この技術者としての一面は、彼の評価を語る上で欠くことのできない重要な要素である。

熊本城築城と「飯田丸」

加藤清正が関ヶ原の戦いの後、肥後52万石の大名となり、慶長6年(1601年)から本格的に築城を開始した熊本城は、その壮大さと堅固さで知られる名城である。この熊本城の普請において、飯田覚兵衛はその類稀なる才覚を遺憾なく発揮したと伝えられている 9 。特に、城の三の丸に築かれた約180メートルにも及ぶ長大な「百間石垣」などは、彼の指揮による功績の一つとされている 7

覚兵衛の築城技術への貢献を最も象徴的に示しているのが、熊本城本丸南西部に位置する一郭「飯田丸(いいだまる)」と、そこに建てられた「飯田丸五階櫓(ごかいやぐら)」である。この名称は、覚兵衛がこの区画の設計・施工、そして完成後の守備を担当したことに由来するとされ、彼の名が城郭の一部に冠されていること自体が、その功績の大きさを物語っている 7 。飯田丸五階櫓は、外観は三層でありながら内部は五階建てという構造を持ち、延床面積は503平方メートル、石垣からの高さは14.3メートルに及び、天守に匹敵するほどの規模を誇った 14 。これは、覚兵衛の技術が単に構造物を造るというレベルに留まらず、城全体の防御戦略を深く理解し、それを具現化する高度な設計能力と施工管理能力を有していたことを示唆している。彼の専門性は高く評価され、後世に語り継がれるべき功績として認識されていた証左と言えよう。

名古屋城・江戸城普請への参加

飯田覚兵衛の築城技術は、熊本城だけに留まらず、さらに大きな舞台でも発揮された。徳川家康の命による天下普請として行われた名古屋城(慶長15年~)や江戸城の修築工事にも、加藤家の一員として、また普請奉行として参加したと記録されている 7

これらの大規模な城郭建設事業への参加は、加藤家および飯田覚兵衛自身の技術力が、幕府からも高く評価されていたことを示すものである。同時に、全国から集められた諸大名や技術者たちと共に作業に従事することは、最新の築城技術や工法に触れる貴重な機会ともなり、覚兵衛自身の技術をさらに研鑽し、深化させることに繋がったと考えられる。

領国経営と治水事業への貢献

戦国時代から江戸時代初期にかけての武士にとって、軍事的な能力だけでなく、領地を豊かにし民政を安定させる内政手腕もまた極めて重要であった。主君・加藤清正は、肥後入国後、領内の河川の氾濫を防ぐための治水事業や、新田開発、農業・商業の振興策に積極的に取り組み、領国経営に大きな成果を上げたとされる 9

飯田覚兵衛もまた、その卓越した土木技術を活かし、これらの治水事業やインフラ整備を率先して担当したと伝えられている 9 。加藤清正の家臣団は、単なる戦闘集団としてだけでなく、優れた技術者集団としての一面も有していたと言われており 9 、覚兵衛はその中でも中心的な役割を担っていたと考えられる。彼の技術は、戦時における城郭の構築や兵器の開発のみならず、平時における領国の開発と民生の安定にも不可欠なものであり、肥後藩の経済的基盤の確立に大きく寄与したことは特筆すべき点である。これは、当時の武士の役割が、戦闘指揮官であると同時に、行政官や技術者としての側面も併せ持っていたことを示す好例であり、覚兵衛の多能性は、この時代の理想的な武士像の一つを体現していたと言えるかもしれない。

第四章:清正没後の苦難と忠義 ― 加藤家改易と晩年

二代藩主・加藤忠広への奉公

慶長16年(1611年)、加藤清正が病没すると、飯田覚兵衛はその嫡子である忠広に引き続き仕えた 7 。清正の死は、加藤家にとって大きな転換期であり、若年の忠広(当時11歳)が家督を相続した後の藩政運営は、多くの困難に直面することになる。

忠広の治世下では、「牛方馬方騒動」と呼ばれる重臣間の対立が発生するなど、家中の統制は必ずしも磐石ではなかった 5 。このような状況の中で、藩の長老格であり、先代清正の薫陶を直接受けた覚兵衛がどのような役割を果たそうとしたのか、その心労は察するに余りある。一部の伝承によれば、覚兵衛は若き主君・忠広の将来を憂い、加藤家の行く末に不安を感じ、その没落を予見していたとも伝えられている 7 。九州大学に所蔵される「飯田覚資料」には、この加藤忠広期に発給された書状が多く含まれており 5 、これらの史料を詳細に分析することで、当時の覚兵衛の動向や藩政における具体的な役割、そして彼の心境の一端が明らかになる可能性がある。

加藤家改易と黒田長政への仕官

飯田覚兵衛の懸念は、不幸にも現実のものとなる。寛永9年(1632年)6月、二代藩主・加藤忠広は幕府より改易を命じられ、52万石を誇った肥後熊本藩は取り潰しとなった 5 。改易の理由については、忠広の不行跡、幕府の豊臣恩顧大名取り潰し政策の一環など諸説あるが、将軍家との縁戚関係を軽視したことなどが武家諸法度違反と見なされたことが大きな要因であったとする研究もある 5

主家の改易という、武士にとって最大の危機に際し、飯田覚兵衛は新たな道を歩むこととなる。彼は、かつての主君・加藤清正と盟友関係にあった福岡藩初代藩主・黒田長政(ただし、この時点で長政は既に死去しており、実際にはその子である二代藩主・黒田忠之の代)に、客分として召し抱えられたのである 7 。他家から、しかも客分という厚遇をもって迎えられたという事実は、覚兵衛個人の武名や技術、あるいはその人格が、藩の垣根を越えて高く評価されていたことの証左と言える。特に、清正と深い縁で結ばれていた黒田家に身を寄せたという選択には、旧主清正への変わらぬ思慕の念が影響していたのかもしれない。

福岡藩での生活と最期

福岡藩に客分として迎えられた飯田覚兵衛は、福岡城下の赤坂(現在の福岡市中央区大手門・大名地区周辺)に屋敷を与えられた 19 。この屋敷跡には、覚兵衛が旧主・加藤清正を偲び、かつての本拠地であった熊本城から銀杏の苗木を取り寄せて移植したと伝えられる大銀杏の木が、今もなおその姿を残している 7 。この銀杏は樹齢400年を超えるとされ、福岡市の保存樹にも指定されており、大切に保護されている 19 。この銀杏の木の逸話は、新天地にあっても旧主を忘れなかった覚兵衛の清正への深い思慕と忠誠心を、時代を超えて雄弁に物語っている。

しかし、福岡での生活は長くは続かなかった。加藤家が改易となったまさにその年、寛永9年(1632年)9月18日、飯田覚兵衛直景は波乱に満ちた生涯を閉じた 6 。享年は、永禄5年(1562年)生まれとすれば70歳、永禄8年(1565年)生まれとすれば67歳であった。主家の改易という悲運と時を同じくしての彼の死は、あたかもその生涯が加藤家と運命を共にしたかのようであり、戦国乱世を生き抜き、主家と共に栄光と没落を経験した一人の武士の生涯の終焉を強く印象づけるものである。

第二部:飯田覚兵衛の人物像と評価

第一章:武勇と槍術の達人として

飯田覚兵衛の人物像を語る上で、まず特筆すべきはその卓越した武勇、とりわけ槍術の技量である。彼は武勇に優れ、中でも槍術に関しては特筆すべきものがあったと、多くの資料で評されている 7

主君である加藤清正自身も、朝鮮出兵における虎退治の逸話 10 などで知られるように、槍の名手として武勇を誇ったが、一部の記述においては、飯田覚兵衛の方が槍術においては清正を凌駕していたとさえ伝えられている 10 。これは、家臣が主君以上の技量を持つことを公に評価されるという点で注目に値し、覚兵衛の槍術がいかに並外れたものであったかを物語っている。

また、覚兵衛は「日本槍柱七本」の一人に数えられることもあるとされる 7 。この称号の具体的な構成員や由来については必ずしも明確ではない部分もあるが、彼が当代屈指の槍の使い手として認識されていたことを示唆するものである。賤ヶ岳の戦いでの先鋒としての活躍、天草一揆鎮圧、そして朝鮮出兵における数々の戦闘での奮戦は、この卓越した武技に裏打ちされたものであったと考えられる。彼の武士としての核を成すものは、この槍働きを中心とした戦場での勇猛果敢な働きであったと言えよう。

第二章:「加藤家三傑」及び「加藤十六将」としての評価

飯田覚兵衛の加藤家臣団における地位と評価を示すものとして、「加藤家三傑」および「加藤十六将」といった呼称が挙げられる。

「加藤家三傑」とは、飯田覚兵衛(直景)、森本一久(儀太夫)、そして庄林一心(隼人)の三名を指し、彼らは加藤清正の家臣の中でも特に武勇に優れ、豊臣秀吉からもその働きを讃えられたと伝えられている 7 。天草一揆鎮圧の際に秀吉から三名それぞれに異なる毛色の長槍を下賜されたという逸話は、この評価を象徴するものである 7

また、「加藤十六将」という呼称もあり、飯田覚兵衛はその一人として数えられている 7 。これは、徳川家康の「徳川十六神将」などと同様に、主君を支えた主要な家臣たちを顕彰する意味合いを持つものであろう。

これらの称号は、飯田覚兵衛が単に個人的な武勇に優れていただけでなく、加藤家の軍事力を支える中核的な存在として、主君清正から厚い信頼を寄せられ、家臣団の中でも突出した能力と貢献を示した人物であったことを物語っている。彼の存在は、加藤家の武威を示す上で欠かせないものであったと言える。

第三章:逸話と伝承にみる人間性

「我一生、主計頭(加藤清正)にだまされたり」という言葉

飯田覚兵衛の人間性を垣間見せる逸話として、彼が晩年に残したとされる「我一生、主計頭(かずえのかみ)(加藤清正)にだまされたり」という言葉が知られている 11 。この言葉は、文字通りに解釈すれば主君に対する不満や後悔の念を表しているようにも受け取れるが、その真意については様々な解釈が可能である。

ある資料では、覚兵衛が戦の過酷さから何度も武士をやめたいと考えたものの、その都度、清正の巧みな褒め方や励ましによって思いとどまり、結果として生涯を清正に捧げることになった、という背景が示唆されている 22 。この解釈に従えば、「だまされたり」という言葉は、清正の卓越した統率力や人間的魅力に引き込まれ、困難な道を最後まで共に歩んできたことへの、ある種の述懐と捉えることができる。

また、この言葉は、清正が掲げた壮大な目標、時には無謀とも思えるような困難な事業(例えば、朝鮮出兵における過酷な戦いや大規模な築城事業など)に、結果的に最後まで付き従ったことへの、偽らざる感慨であったのかもしれない。そこには、苦労を共にした主君への深い愛情や忠誠心の裏返しとしての、複雑な感情が込められているとも考えられる。いずれにせよ、この一言は、飯田覚兵衛の人間味あふれる一面を伝え、主君清正との関係の深さと複雑さを象徴する言葉として、非常に興味深いものである。

その他の逸話

飯田覚兵衛に関する具体的な逸話は、上記の言葉を除けば、提供された資料の中では顕著なものは多くない。加藤清正の「虎退治」の逸話は有名であるが 10 、これは主に清正自身の武勇伝として語られるものであり、覚兵衛が直接関与したという記録は見当たらない。ただし、覚兵衛が槍術に優れていたという文脈で、清正の虎退治(槍を用いたとされる)が引き合いに出されることはある 10

彼の生涯を通じて一貫しているのは、主君清正への忠誠と、武勇および技術の両面における貢献である。これらの事績そのものが、彼の人物像を雄弁に物語っていると言えるだろう。

第三部:後世への影響と史跡

第一章:子孫と飯田家

飯田覚兵衛の血筋は、彼の死後も途絶えることなく後世へと受け継がれた。記録によれば、覚兵衛には複数の男子がおり、長男の飯田直国は熊本藩士として、次男は福岡藩の中老として、そして三男の何右衛門も熊本藩士としてそれぞれ仕え、その子孫は明治時代以降まで続いたとされている 7

特に注目すべきは、長男・直国の子孫から、明治期に政治家・思想家として日本の近代化に大きな影響を与えた井上毅(いのうえ こわし)が出ているという点である 7 。戦国時代から江戸初期にかけて活躍した一武将の家系が、時代を超えて存続し、近代日本の形成に重要な役割を果たす人物を輩出したという事実は、歴史の連続性とダイナミズムを感じさせる。飯田覚兵衛の武勇や知略、あるいはその誠実さといった資質が、形を変えながらも子孫に受け継がれ、後世の社会に何らかの影響を与えたと見ることもできるかもしれない。武士の家系が明治維新という大変革期を経て、どのように社会の中でその位置を保ち、あるいは変化させながら貢献していったかの一例としても興味深い。

第二章:飯田覚兵衛ゆかりの地

飯田覚兵衛の生涯と功績は、彼が活躍した各地に今もなおその痕跡を残している。

熊本城飯田丸

飯田覚兵衛の名を最も象徴的に今に伝えるのが、熊本城内の一郭である「飯田丸」である 7 。前述の通り、この区画は覚兵衛がその築城技術を駆使して設計・施工を担当したとされ、彼の名を冠している。特に、飯田丸の南西隅に位置した「飯田丸五階櫓」は、天守級の規模を誇る壮大な建造物であった。

この五階櫓は、明治時代初頭の西南戦争前に陸軍によって取り壊されてしまったが、熊本城の復元整備計画に基づき、古写真や関連資料を基にして平成17年(2005年)に木造で往時の姿に復元された 14 。しかし、平成28年(2016年)4月に発生した熊本地震では、この飯田丸五階櫓の石垣が甚大な被害を受け、特に隅石(すみいし)だけで櫓を支える姿は「奇跡の一本石垣」として国内外に広く報道された 10 。その後、櫓は安全確保のために解体され、石垣も詳細な調査と将来の再建に向けて慎重に撤去・保管された。現在、石垣の積み直しを含む復旧工事が進められており、飯田丸は覚兵衛の技術的遺産であると同時に、近年の災害からの復興という現代的な物語をも纏う場所となっている。彼の名が、時代を超えて人々の記憶に刻まれ続けている証左と言えよう。

福岡市飯田覚兵衛屋敷跡と銀杏の木

加藤家改易後、飯田覚兵衛が客分として仕えた福岡藩においても、彼を偲ぶ史跡が存在する。福岡市中央区大名(具体的には中央区役所の北側付近、JT福岡支店の敷地内など)には、かつて飯田覚兵衛の屋敷があったとされ、その跡地には彼が熊本城から移植したと伝えられる樹齢約400年の大銀杏が今も聳え立っている 7

この銀杏は、覚兵衛が旧主・加藤清正を追慕し、また故郷である肥後熊本を懐かしんで植えたものとされ、その雄大な姿は道行く人々の目を楽しませている。福岡市の保存樹にも指定されており、老齢化による腐朽が進行した際には再生治療が行われるなど、地域の人々によって大切に守り継がれている 19 。この大銀杏は、飯田覚兵衛の清正への忠誠心と望郷の念を静かに伝える、生きた記念碑と言えるだろう。都市開発が進む現代において、歴史的な記憶を宿す樹木がこうして保存されていることの意義は大きい。

熊本市阿弥陀寺の墓所(供養塔)

飯田覚兵衛の最期の地は福岡であったが、彼が長年仕え、多大な功績を残した熊本の地にも、彼を弔う場所が存在する。熊本市中央区細工町に位置する阿弥陀寺の境内には、飯田覚兵衛の墓とされる有角の五輪塔が残されている 25

ただし、覚兵衛自身は寛永9年(1632年)に福岡で亡くなっているため、この阿弥陀寺の墓は実際の埋葬地ではなく、彼の霊を慰め、その功績を偲んで後世の人々によって建てられた供養塔であると考えられている 26 。実際に埋葬された場所でなくとも、ゆかりの深い土地に供養塔が建立されることは、その人物が地域社会にとって記憶され、敬愛されるべき重要な存在であったことを示している。熊本の人々にとって、飯田覚兵衛が加藤清正を支えた忠臣として、また熊本城築城に貢献した技術者として、永く記憶され続けるべき人物であったことの証左と言えるだろう。

結論:飯田覚兵衛の歴史的意義の再確認

飯田覚兵衛直景は、加藤清正の忠実な腹心として、賤ヶ岳の戦いをはじめ、天草一揆鎮圧、そして文禄・慶長の役といった数々の戦役において勇猛果敢な武功を立てた武将であった。しかし、彼の真価は単なる武勇に留まらない。朝鮮出兵における「亀甲車」の開発・運用や、名城熊本城の「飯田丸」にその名を残すほどの卓越した築城技術は、彼が当代一流の技術者でもあったことを明確に示している。

彼の生涯は、戦国乱世から江戸時代初期への大きな社会変革期を生きた武士の一つの典型を提示している。武勇による立身出世、主君への絶対的な忠誠、そして専門技術を駆使した領国経営への貢献は、この時代に武士に求められた多面的な能力と役割を体現するものであった。特に、戦時における軍事技術と平時における土木技術の両面に通じていた点は、彼の際立った特徴と言える。

「我一生、主計頭にだまされたり」という有名な言葉は、主君清正への複雑ながらも深い情愛と、困難を共にした戦友としての絆を垣間見せる。また、加藤家改易後に福岡へ移り住んだ際に熊本城から移植したとされる銀杏の木の逸話は、彼の旧主への変わらぬ思慕の念を今に伝えており、その人間的な側面を浮き彫りにする。

飯田覚兵衛の名は、熊本城飯田丸や福岡の屋敷跡に残る大銀杏といった具体的な史跡として、また、明治期の政治家・井上毅を輩出した彼の子孫を通じて、現代にも確かな足跡を残している。彼の事績を再評価することは、主君である加藤清正や肥後熊本藩の歴史をより深く理解する上で不可欠であると同時に、戦国・江戸初期の武士社会の多様な実像に光を当てる上で、重要な意義を持つと言えるであろう。飯田覚兵衛は、歴史の表舞台で華々しく語られることは少ないかもしれないが、時代を動かした英雄の影にありて、その知勇と忠誠心をもって主君を支え、歴史の形成に確かな貢献を果たした、記憶されるべき武将である。

補遺:飯田覚兵衛 略歴表

項目

内容

典拠例

氏名

飯田直景(いいだ なおかげ)

7

通称

飯田覚兵衛(いいだ かくべえ)、角兵衛とも書く。幼名は才八、久次郎。

6

生没年

生:永禄5年(1562年)説 または 永禄8年(1565年)説<br>没:寛永9年9月18日(1632年10月31日)

6 (生年)<br> 11 (没年)

出身地

山城国山崎( 7 )、一説に大和国( 6

6

飯田直澄(いいだ なおずみ)

6

主な主君

加藤清正 → 加藤忠広 → 黒田長政(実際は忠之の代、客分として)

7

主な戦役・武功

賤ヶ岳の戦い (1583年)<br>天草一揆鎮圧 (1589年)<br>文禄・慶長の役 (1592-1598年)<br> - 晋州城攻撃(亀甲車開発、一番乗り説) (1593年)<br> - 蔚山城の戦い

7

専門技術・功績

槍術<br>土木普請(築城技術、治水)<br> - 熊本城築城(飯田丸、百間石垣など)<br> - 名古屋城・江戸城普請参加<br> - 亀甲車の開発・運用

7

異名・称号

加藤家三傑(森本一久、庄林一心と共に)<br>日本槍柱七本の一人<br>加藤十六将の一人

7

食禄

当初6,500石、後に10,500石に加増

7

著名な言葉

「我一生、主計頭(加藤清正)にだまされたり」

11

子孫

長男:直国(熊本藩士、井上毅の祖先)、次男(福岡藩中老)、三男:何右衛門(熊本藩士)

7

墓所・史跡

熊本市阿弥陀寺(供養塔)<br>熊本城飯田丸<br>福岡市飯田覚兵衛屋敷跡(大銀杏)

26 (阿弥陀寺)<br> 14 (飯田丸)<br> 19 (屋敷跡)

引用文献

  1. 武辺書』と『常山紀談」 とは重要な位置を占める。これについては別の機会に詳説する 予定であるが - 甲南女子大学 https://www.konan-wu.ac.jp/~nichibun/kokubun/32/kikuchi1985.pdf
  2. 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  3. 加藤清正朝鮮陣書状について - CORE https://core.ac.uk/download/286957272.pdf
  4. 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/57729604.pdf
  5. 加藤忠廣の基礎的研究 : 附 飯田覚資料の翻刻・紹 介 - Collections ... https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2545082/p037.pdf
  6. 饭田直景- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%99%AF
  7. 飯田直景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%99%AF
  8. 加藤清正 【第一章】シリーズ熊本偉人伝Vol.2 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/2
  9. 加藤清正と加藤家三傑 シリーズ 熊本偉人伝Vol.15|旅ムック.com 熊 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/15
  10. 飯田覚兵衛と大銀杏 ① 熊本城の銀杏が大名町に | 香椎うっちゃんのブログ 香椎浪漫 https://ameblo.jp/kashii-ucchan/entry-12809015913.html
  11. 飯田覚兵衛(いいだ かくべえ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E8%A6%9A%E5%85%B5%E8%A1%9B-1051940
  12. 飯田覚兵衛と大銀杏 ② 文禄の役・晋州城の戦い https://ameblo.jp/kashii-ucchan/entry-12819838733.html
  13. 加藤清正の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38334/
  14. 熊本城〖宇土櫓・飯田丸五階櫓〗 - 福岡発!! 九州観光ガイド http://fukuhatu.sub.jp/kumamotojyo_uto/
  15. 飯田丸五階櫓 | 熊本城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/17/memo/389.html
  16. 「奇跡の一本石垣」飯田丸 https://lifeistech-lesson.jp/release/izumiminami-r5/work/1/
  17. 暴れ川に挑んだ佐々成政と加藤清正 緒方英樹 連載9 - ソーシャルアクションラボ https://socialaction.mainichi.jp/2020/09/27/1108.html
  18. 加藤忠広 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%BA%83
  19. 飯田覚兵衛屋敷跡 クチコミ・アクセス・営業時間|博多 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11365404
  20. 飯田直景屋敷 https://tanbou25.stars.ne.jp/iidayasiki2.htm
  21. 【中央区】魅力発信 中央区 - 福岡市 https://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/fsdweb/2024/1015/chuo1610.html
  22. 【歴史編】ほめるタイミングを逃さなかった武将――加藤清正 - トロフィー生活 http://www.trophy-seikatsu.com/wp/blog/hyousyoukougaku/kato-kiyomasa.html
  23. 清正公信仰の研究 https://kumadai.repo.nii.ac.jp/record/23989/files/27-30.pdf
  24. 加藤清正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
  25. KING OF DEFENSE!熊本城を守る最強の城下町16の仕掛け その5、その6、その7! | おるとくまもと https://akumamoto.jp/archives/217783
  26. 飯田覚兵衛の墓(熊本市・未指定) https://ameblo.jp/com2-2-2/entry-12743827157.html
  27. 阿弥陀寺 - 五福風流街商栄会 https://529furumachi.com/town/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA/