戦国時代の讃岐国(現在の香川県)を代表する国人領主として、その名を歴史に刻む香西氏。鎌倉時代から続くこの名門の歴史の中でも、特に香西元定(こうざい もとさだ)が当主であった時代は、一族の「全盛期」と称されている 1 。しかしながら、彼の具体的な人物像や、その全盛期を築き上げた卓越した手腕については、同時代の著名な武将たちの華々しい活躍の影に隠れ、これまで十分に光が当てられてきたとは言い難い。本報告書は、諸史料に残された断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせ、彼が生きた時代の政治的、軍事的、そして経済的な文脈の中にその生涯を立体的に再構築することで、香西元定という稀有な武将の実像に迫ることを目的とする。
元定が活動した16世紀前半は、中央(畿内)において室町幕府の権威が大きく揺らいだ激動の時代であった。幕府管領の家柄である細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)の家督を巡る内紛、いわゆる「両細川の乱」は、畿内全域を巻き込む長期の戦乱へと発展し、その影響は遠く四国の地にも及んだ。本報告書では、この中央の動乱が、讃岐という一地方に根を張る国人領主の運命をいかに翻弄し、また、元定がいかにしてその荒波を乗りこなし、一族を未曾有の繁栄へと導いたのかを解き明かしていく。
構成として、まず第一章で香西氏の出自と、京と讃岐にまたがる特異な権力構造を概観する。続く第二章では、中央の政変を機に元定が台頭していく過程を追う。第三章では、彼の治世の頂点である「全盛期」に焦点を当て、その力の源泉となった海上支配と国際交易の実態を明らかにする。第四章では、庇護者の死による政局の転換と、それに伴う元定の時代の落日を描く。そして第五章で、元定の死後、彼が築いた遺産が失われ、一族が衰退していく様を検証する。最後に、これらの分析を通じて、香西元定という人物を歴史の中に正しく位置づけ、その再評価を試みたい。
彼の生涯を理解するため、まず以下の年表で、中央政局、讃岐周辺、そして香西氏の動向を対比的に示す。
【表1】香西元定 関連年表
西暦 (和暦) |
中央(京・幕府)の動向 |
讃岐国・周辺地域の動向 |
香西元定・香西一族の動向 |
1507年 (永正4年) |
永正の錯乱 。管領・細川政元が香西元長らにより暗殺される。細川澄元・高国が元長らを討伐 4 。 |
阿波の三好之長が細川澄元を補佐し、讃岐の十河氏らと結ぶ 2 。 |
上香西氏の当主・元長が政変の首謀者として敗死 4 。 |
1508年 (永正5年) |
細川高国・大内義興が前将軍・足利義稙を奉じて入京。澄元・三好之長らは阿波へ敗走 4 。 |
阿波を本拠とする澄元・三好方の勢力が健在。 |
元定、細川高国・大内義興方に属す 2 。三谷城主・三谷景久を攻撃するも敗れる(利用者提供情報)。 |
1511年 (永正8年) |
船岡山合戦 。高国・大内連合軍が澄元軍に圧勝。高国政権の基盤が固まる 4 。 |
高国方の勝利により、讃岐国内における澄元方の影響力が一時的に後退。 |
高国方の勝利により、讃岐における元定の地位が安定。 |
1526年 (大永6年) |
高国が重臣・香西元盛(波多野元清の弟)を讒言により殺害。これを機に波多野氏、三好元長らが蜂起 7 。 |
阿波の細川晴元(澄元の子)・三好元長が堺に上陸し、高国との対決姿勢を強める 10 。 |
(直接の動向不明) |
1531年 (享禄4年) |
大物崩れ 。細川高国が三好元長に敗れ、尼崎で自刃。高国政権が崩壊 11 。 |
細川晴元・三好元長が畿内の実権を掌握。三好氏の讃岐への影響力が決定的となる 14 。 |
朝鮮との交易船を派遣 2 。庇護者を失い、政治的に苦境に陥る。 |
1553年 (天文22年) |
- |
三好実休(長慶の弟)が讃岐に侵攻。香西元政(元定の子か)らを服従させる 16 。 |
元定の子・元成(または元政)の代に、三好氏の支配下に入る。 |
1560年 (永禄3年) |
- |
- |
元定の子・元成が、三好長慶との戦いで山城国炭山城にて討死 17 。 |
香西元定の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、その特異な権力構造を把握する必要がある。香西氏は単なる一地方の豪族ではなく、中央政界との深い結びつきと、在地における強固な支配基盤を両輪として発展した名門であった。
香西氏の起源は、鎌倉時代初期の承久の乱(1221年)に遡る 18 。讃岐藤原氏の一流である新居資光(にい すけみつ)の子、資村(すけむら)が、この乱において鎌倉幕府方として戦功を挙げた。その恩賞として、讃岐国の香川郡および阿野郡の郡司職を与えられ、香川郡笠居郷佐料(かさいごうさりょう、現在の高松市鬼無町佐料)に本拠を構えたことが、香西氏の始まりである 18 。
室町時代には、その支配領域は香東郡、香西郡、阿野南条郡、阿野北条郡の四郡に及び、福家氏や羽床氏といった周辺の国人衆を支配下に置く、讃岐東部から中讃にかけての一大勢力を築き上げていた 3 。
その権勢を象徴するのが、拠点とした城郭群である。平時の居館として山麓に「佐料城」を置き、有事の際の詰城として背後の勝賀山(標高365メートル)に堅固な山城「勝賀城」を構えていた 1 。特に勝賀城は、近年の調査でその重要性が再評価されている。土塁に囲まれた主郭の面積は約2000平方メートルに及び、これは香川県内の中世山城で最大規模を誇る 24 。城郭は複数の曲輪(くるわ)から構成され、高低差や土塁の「折れ」を巧みに利用した防御構造は、大規模な戦闘を想定して築かれたことを物語っている 24 。この城の存在自体が、香西氏が讃岐において有した軍事力と権威の大きさを示している。1980年に高松市指定史跡、そして2024年には国の史跡に指定されたことからも、その歴史的価値の高さがうかがえる 22 。
香西氏の権力構造を特徴づけるのが、一族が二手に分かれて活動した「上香西(かみこうざい)」と「下香西(しもこうざい)」の存在である。室町時代、香西氏は讃岐守護であった細川京兆家の有力な内衆(うちしゅう、直属の家臣団)として、その活動の場を本国・讃岐だけに留めなかった 1 。
一方は、主君である細川氏に随行して在京し、幕政の中枢で活動した。これが「上香西氏」と呼ばれる系統である 3 。彼らは細川家の重臣として目覚ましい活躍を見せ、丹波国や山城国半国の守護代といった要職を歴任した 27 。京都・相国寺の僧侶が記した日記『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』には、「京にいる香西の一党は300人にも及び、讃岐全体では7000人の一族がいるという。これは他の侍の一族では及ばない」と記されており、「京は香西さんだらけ」と評されるほど、中央政界における彼らの存在感は絶大なものであった 27 。
もう一方が、本国・讃岐にあって広大な所領と城郭を守り、在地支配を担った「下香西氏」である 1 。本報告書の主題である香西元定は、この下香西氏の嫡流に生まれた。応仁の乱で活躍した香西元資(もとすけ)には二人の子がおり、長男の元直(もとなお)が在京して上香西氏を、次男の元綱(もとつな)が讃岐に残って下香西氏を継いだ。元定は、この元綱の子にあたる 1 。
この二重構造こそが、香西氏の強さの源泉であった。在地における強固な軍事・経済基盤と、中央政界への直接的なアクセスと影響力。この二つを併せ持つことで、香西氏は讃岐の他の国人を圧倒する優位性を保っていたのである。元定の行動を理解する上で、彼がこの権力構造の「在地側」の当主であり、常に中央で活動する「上香西氏」の動向を意識せざるを得ない立場にあったことを念頭に置く必要がある。
【表2】香西氏 主要人物関係図(室町後期〜戦国期)
Mermaidによる関係図
注:上記系図は『香西記』や『南海通記』などの諸史料を基に簡略化して作成 28 。
この関係図が示すように、元定と、後に中央で大事件を引き起こす上香西氏の元長は、父方の従兄弟という極めて近い血縁関係にあった。この関係性が、次章で詳述する元定の政治的決断に大きな影響を与えることになる。
香西元定が歴史の表舞台に登場するのは、中央政界が「永正の錯乱」に端を発する大混乱の渦中にあった時期である。彼は、一族の存亡をかけたこの危機的状況を逆手に取り、極めて戦略的な判断を下すことで、自らの地位を確立していく。
永正4年(1507年)6月、室町幕府の管領として絶大な権力を誇った細川政元が、自身の邸宅で暗殺されるという衝撃的な事件が発生する 4 。政元には実子がおらず、三人の養子(澄之、澄元、高国)の間で後継者争いが燻っていたが、その緊張が遂に爆発したのである。この暗殺事件の首謀者こそ、政元の養子の一人である澄之を担ぐ、上香西氏の当主・香西元長であった 4 。
しかし、元長らのクーデターは短命に終わる。事件直後、もう一人の養子である澄元が、同族の高国の支援を得てすぐさま反撃に転じ、京都に攻め上った。元長と澄之はこれに敗れ、同年8月には討ち死にしてしまう 4 。これにより、中央政界で栄華を誇った上香西氏の嫡流は、逆臣として滅亡の憂き目に遭った 28 。
一族の一部が「主君殺し」という大罪を犯し、滅ぼされた。これは、讃岐に残る下香西氏の当主・元定にとっても、一族全体の汚名となりかねない、まさに存亡の危機であった。この状況下で、元定は極めて重要な政治的決断を下す。
政元暗殺後の混乱に乗じ、周防国(現在の山口県)の太守・大内義興が、かつて政変で追放された前将軍・足利義稙(よしたね)を奉じて中国地方から上洛を開始した。すると、今度は澄元と手を組んでいたはずの細川高国が、澄元を裏切ってこの大内・前将軍連合に合流する 4 。新たな権力ブロックが形成される中、元定は、この
細川高国・大内義興の陣営に与することを明確にした のである 1 。これは、滅亡した従兄弟・元長の陣営とは完全に敵対する立場であり、一族の汚名をすすぎ、自らの家を存続させるための、計算され尽くした選択であった。
高国・大内方への所属を表明した元定は、早速、讃岐国内で軍事行動を開始する。永正5年(1508年)、彼は讃岐山田郡の国人・三谷景久(みたに かげひさ)が籠る三谷城を攻撃した。しかし、この戦いで元定は敗北を喫したと伝えられている(利用者提供情報)。
この攻撃は、単なる領土拡張を目的としたものではない。その背景には、中央の政争が色濃く反映されている。1508年という年は、高国・大内連合軍が京都を制圧し、敵対する細川澄元と、その腹心である阿波の三好之長が本拠地の阿波国(讃岐の隣国)へ敗走した直後のことである 4 。三谷氏が本拠を置く山田郡は地理的に阿波に近く、澄元・三好方と連携していた可能性が極めて高い。
したがって、元定の三谷城攻撃は、高国・大内方の一員として、讃岐国内に残る敵対勢力の拠点を排除し、自らの背後の安全を確保するという、明確な戦略的意図に基づいていたと推察される。初戦での敗北は、この時点での元定の決断が、讃岐国内において必ずしも盤石な支持を得ていなかったこと、そして澄元方の勢力が依然として侮りがたい力を持っていたことを示唆している。
元定の政治的賭けが正しかったことは、その後の戦局が証明した。永正8年(1511年)、京都北部の船岡山において、細川高国・大内義興の連合軍と、阿波から再起を図り上洛した細川澄元軍との間で、雌雄を決する大規模な合戦が勃発した(船岡山合戦) 4 。
この戦いは高国・大内連合軍の圧勝に終わり、澄元方は再び阿波へと敗走。これにより、高国を管領とする政権の基盤は確固たるものとなった 4 。
この勝利は、一貫して高国方として行動してきた元定の立場を決定的に有利にした。彼は「勝利者」側の一員としての地位を不動のものとし、中央の権威を後ろ盾として、讃岐国内における支配力を飛躍的に増大させることに成功したのである。一族の危機を乗り越え、自らの政治的才覚で新たな道を切り開いた元定の時代は、ここから本格的な幕開けを迎える。
細川高国政権下で安定した地位を確保した香西元定は、その類稀なる才覚を軍事・政治の領域に留めず、経済の分野でこそ最大限に発揮した。彼は、瀬戸内海の海上交通路を掌握し、さらには国際貿易に乗り出すことで、一族に未曾有の富をもたらし、香西氏の「全盛期」を現出した。その姿は、単なる武将というより、むしろ海を舞台に活躍する「経営者」のそれに近い。
元定の経済的成功の根幹をなしたのが、備讃瀬戸に浮かぶ塩飽(しわく)諸島の水軍をその支配下に置いたことである。塩飽諸島は、古来より瀬戸内海航路の最大の難所として知られ、複雑で速い潮流を乗りこなすには、高度な操船技術が不可欠であった 33 。この地に本拠を置く塩飽水軍は、その卓越した航海技術と戦闘力で、戦国時代には天下人からも一目置かれる強力な海上勢力であった 34 。
諸史料によれば、元定の時代、香西氏はこの塩飽水軍を実質的に支配下に置き、「香西水軍」として備讃瀬戸の制海権を完全に掌握していた 2 。香西氏の始祖の代から瀬戸内海の警護を担ってきた歴史的経緯もあり 38 、元定の代でその支配は完成の域に達したと考えられる。
この海上支配権の掌握は、単に軍事的な優位性を確保するだけに留まらなかった。それは同時に、莫大な経済的利益を生み出す源泉となった。当時の瀬戸内海は、現代の高速道路にも比すべき物流の大動脈であり、西国と畿内を結ぶ無数の船が行き交っていた 39 。香西氏は、この航路の要衝を抑えることで、通行する船舶から「上乗り料」や「関役」といった名目で通行料を徴収する権利を得たのである 41 。これは、安定かつ巨額の収入を保証する、まさに「金のなる木」であった。
元定の経済活動は、瀬戸内海の支配だけに留まらなかった。彼の視野は、国境を越えた国際交易にまで及んでいた。そのことを示す貴重な記録が、『九州治乱記』などに引用される形で残されている。それによれば、 享禄4年(1531年)、元定は朝鮮に交易船を派遣し、貿易を行っていた という 2 。
この行動は、彼の政治的背景と密接に結びついている。元定が属していた細川高国・大内義興の連合政権において、大内氏は日明貿易や日朝貿易を一手に担う、当代随一の貿易大名であった 37 。元定は、庇護者である大内氏が持つ貿易のノウハウや国際的なネットワークを巧みに活用し、自らもその利益の分け前に与ろうとしたと推察される 37 。塩飽水軍という自前の海運力を有していたことも、この事業を後押ししたであろう。
塩飽水軍の掌握による海上交通からの利益、そして朝鮮との直接交易による利益。これら陸の所領からの年貢収入に依存しない、二つの強力な非農業的収入源こそが、元定時代の香西氏の「全盛期」を支える強固な経済基盤であった 2 。この経済力があったからこそ、彼は讃岐国内での支配を盤石にし、さらには中央の政治にも影響を及ぼしうる存在となり得たのである。
蓄積された富は、必然的に文化の隆盛へと繋がる。元定の父・元綱の兄にあたる香西元資は、明応5年(1496年)に地域の武士や僧侶、神官らを集め、神谷神社で大規模な法楽連歌会を催した記録が残っている 3 。これは、香西一族が古くから連歌などの京の先進文化に親しむ素養を持っていたことを示している 3 。
元定の時代、経済的な繁栄を背景に、こうした文化活動はさらに活発化したと想像される。茶の湯や連歌、蹴鞠といった文化的な催しは、単なる当主の教養や趣味の披露に留まらない 43 。それは、蓄積した富と権威を内外に示し、一族のステータスを高めるための、極めて高度な政治的パフォーマンスでもあった。元定が築いた「全盛期」は、軍事力や経済力だけでなく、こうした文化的な輝きによっても彩られていたのである。
栄華を極めた香西元定の時代は、しかし、盤石なものではなかった。彼の成功は、中央政局における特定の権力バランスの上に成り立つ、いわばガラスの城であった。長年の庇護者であった細川高国の死は、その脆い均衡を打ち砕き、元定の運命を暗転させる。
享禄4年(1531年)6月、摂津国大物(現在の兵庫県尼崎市)において、畿内の覇権を賭けた決戦が行われた。細川高国軍と、彼に反旗を翻した細川晴元(澄元の子)・三好元長(之長の孫)の連合軍が激突したのである。この戦いは高国方の大敗に終わり、追いつめられた高国は広徳寺で自刃に追い込まれた 11 。この事件は、権力者が一日にして崩れ去った様から「
大物崩れ 」と呼ばれる 7 。
この政変は、元定にとって致命的な打撃であった。20年以上にわたり自らの権勢を支えてきた最大の庇護者を、一夜にして失ったからである。高国政権の崩壊は、元定が依拠してきた政治的秩序そのものの崩壊を意味し、彼は中央における強力な後ろ盾を完全に喪失、政治的に極めて脆弱な立場に立たされた。彼が築き上げた全盛期は、その根幹から揺らぐことになったのである。
興味深いことに、「大物崩れ」が起きたまさにその年、元定は朝鮮との交易船を派遣している 2 。この事実から二つの可能性が推察できる。一つは、中央の政治的苦境を、経済活動のさらなる強化によって乗り切ろうとしたという可能性。もう一つは、もはやコントロール不能となった中央の混乱から距離を置き、在地における実利の確保に専念する方針へと転換した可能性である。いずれにせよ、この年を境に、元定の具体的な動向を伝える史料は乏しくなり、彼は歴史の表舞台から徐々に姿を消していく。
高国に代わって畿内の新たな支配者となったのは、細川晴元と、その軍事力を支えた三好元長であった 14 。しかし、晴元と元長は間もなく対立し、元長は晴元の謀略によって自害に追い込まれる。その後、元長の子である三好長慶が家督を継ぎ、やがて主君・晴元をも凌駕する強大な勢力を築き上げていく 49 。
阿波国を本拠とする三好氏の台頭は、隣国である讃岐の情勢を一変させた 16 。かつて高国方であった元定にとって、三好氏は主君の仇敵であり、政治的に相容れない存在であった。その三好氏が畿内と四国にまたがる一大権力を築き上げたことは、香西氏にとって深刻な脅威以外の何物でもなかった。
讃岐国内では、いち早く晴元・三好方についた十河(そごう)氏などの国人が勢力を増し、旧高国方であった香西氏の立場は相対的に弱体化していったと考えられる 2 。権力図の逆転は、元定が築いた讃岐における盤石な支配体制を、内側から切り崩していったのである。
確実な史料で追える元定の活動は、享禄4年(1531年)の朝鮮交易が最後となる。彼の没年を特定できる史料は現存しないが、この「大物崩れ」という一大政変の後、時代の変化の波に抗うことなく、歴史の表舞台から静かに退場したと見るのが妥当であろう。
やがて香西氏の家督は、子である香西元成(もとなり)に譲られる。元成の時代、香西氏は父の代とは全く異なる厳しい現実に直面することになる。彼は、父の宿敵であった細川晴元に仕え、そのもとで新たな覇者・三好長慶との終わりのない戦いに身を投じていくのである 17 。この家督継承が、元定の死後に行われたのか、あるいは政治的苦境の中での生前譲位であったのかは定かではないが、いずれにせよ、香西氏の「全盛期」は、庇護者・高国の死と共に、明確に終わりを告げたのであった。
香西元定が築いた「全盛期」という遺産は、彼の死後、次代に受け継がれることはなかった。父が巧みに乗りこなした時代の波は、より荒々しさを増し、その後の香西氏は中央政局の激動と四国内の勢力争いの奔流に呑み込まれ、衰退の道をたどっていく。元定の時代の栄華が、いかに特殊な条件下での奇跡的なものであったかは、その後の凋落の歴史が逆説的に証明している。
父・元定の跡を継いだ香西元成は、父とは全く異なる、茨の道を歩むことを余儀なくされた。彼は、もはや過去の勢力となった細川高国への忠誠に固執することなく、時代の新たな支配者である細川晴元に仕えるという現実的な選択をした。しかし、それは同時に、晴元の家臣団の中で急速に台頭し、やがて主家を脅かす存在となる三好長慶と敵対することを意味した 17 。
元成の生涯は、三好長慶との戦いに明け暮れた。彼は、晴元方の将として、同じく反長慶派の三好政長(宗三)や三好政勝(宗渭)らと連携し、畿内各地を転戦する 17 。天文18年(1549年)、摂津国で三好政長が長慶に討たれた「江口の戦い」においては、三宅城に籠って政長を救援しようと試みた 17 。天文20年(1551年)には京都の相国寺に立て籠もるも、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れて敗走(相国寺の戦い) 17 。さらに丹波国に拠点を移して抵抗を続けるも、長慶の勢いを止めることはできなかった。
長慶への執拗な抵抗を続けた元成であったが、その戦いにも終止符が打たれる。永禄3年(1560年)、山城国炭山城において三好軍と戦い、遂に討死した 17 。父・元定が築いた栄光と富とはあまりに対照的な、戦いに次ぐ戦いの末の悲壮な最期であった。
元成の死後、香西氏はもはや独立した勢力としての地位を保つことができなくなった。讃岐は、三好長慶の弟である三好実休(じっきゅう)の支配下に置かれ、香西氏もその軍門に降ることとなる 16 。ここに、かつての宿敵であった三好氏への完全な臣従が確定した。
しかし、その三好氏の支配も長くは続かない。天正年間(1573年〜)に入ると、土佐国(現在の高知県)から破竹の勢いで四国統一を進める長宗我部元親が、讃岐へと侵攻を開始する 21 。当時の香西氏当主・佳清(よしさ)は、長宗我部氏の侵攻に備えて新たに藤尾城を築いて抵抗の構えを見せた 1 。しかし、一族内部で当主の座を巡る内紛(成就院事件)が発生するなど足並みは乱れ、弱体化は決定的であった 1 。天正10年(1582年)、長宗我部軍に攻められた香西氏は籠城の末に降伏し、その臣下となった 1 。
そして天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が、四国平定のために大軍を派遣する。香西佳清は長宗我部方として戦ったが、圧倒的な物量の前に長宗我部氏は降伏。これにより香西氏も領地をすべて失い、鎌倉時代から続いた讃岐の国人領主としての歴史に、完全に幕を下ろしたのであった 22 。
元定が築いた「政治的・経済的遺産」は、なぜ継承されなかったのか。その理由は、元定の成功モデルを支えていた二本の柱が、彼の死後、完全に失われたからである。一本目の柱である「強力な中央の庇護者」は、高国の死によって消滅した。二本目の柱である「海上支配による経済力」も、阿波を本拠とし、自らも強力な水軍を有する三好氏が新たな支配者となったことで、かつてのような独占的な利益を上げることは不可能になったと考えられる。二つの成功要因を失った香西氏は、もはや一地方勢力として、より強大な三好氏や長宗我部氏の軍事力に抗する術を持たなかった。元定の時代の栄華は、まさに彼一代限りのものだったのである。
本報告書で検証してきた通り、香西元定は、単に利用者提供情報にあった「三谷城を攻めて敗れた」という一面的な評価に留まる人物ではない。彼は、戦国時代中期という激動の時代にあって、讃岐国を舞台に一族を未曾有の全盛期へと導いた、傑出した能力を持つ武将であった。
彼の人物像は、多角的である。まず、中央政局の動向を冷静に分析し、一族の存亡を賭けて勝者となるべき陣営を的確に見極め、いち早く与する「 戦略家 」としての一面。次に、瀬戸内海の制海権を掌握し、その地理的優位性を経済的利益に転化させ、さらには朝鮮との国際貿易まで手掛ける「 経営者 」としての一面。元定の治世は、この鋭い政治的嗅覚と卓越した経済的手腕とが、奇跡的に結実した「黄金時代」であったと言える。
しかし同時に、彼の生涯は戦国時代中期における有力国人領主の運命の典型をも示している。すなわち、彼らは完全に自立した権力者ではなく、その盛衰は中央の権力構造と密接に連動していた。元定の繁栄は、細川高国と大内義興という強力な庇護者の存在と、彼らが作り出した政治秩序があって初めて可能となった。そして、その秩序が「大物崩れ」によって崩壊すると、彼の権勢もまた、砂上の楼閣の如く急速に色褪せていった。彼の成功は、特定の政治バランスの上に成り立つという、構造的な限界を内包していたのである。
それでもなお、動乱の時代の中で、政治、軍事、経済のあらゆる手段を駆使して一族を頂点に導いたその手腕は、戦国史の中に埋もれさせておくには惜しい、再評価されるべき非凡な能力であった。香西元定の生涯を丹念に追うことは、戦国時代を「天下人」や「大名」といった巨視的な視点だけでなく、それぞれの地方で時代と格闘し、自らの才覚を頼りに生き抜こうとした多様なプレイヤーたちの歴史として、より深く豊かに理解することの重要性を我々に教えてくれるのである。